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2009年5月2日(土曜日)

etude67

カテゴリー: - kawamura @ 08時57分10秒

文久三年(1863)、
遣仏使節団正使の池田筑後守は二十七歳、
渡仏前は攘夷論者でしたが、
一転、急進的な開国論者となって帰朝しました。

3月10日にマルセイユに着いたとき、
その壮麗な街並みを遠望して、
ただただその文明の格差に呆然とし、
使節団はみな感涙にくれたのでした。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200905/article_2.html


2009年5月1日(金曜日)

etude66

カテゴリー: - kawamura @ 08時30分34秒

こんなふうに考えています。

いままでみてきたように、
幕府はどの藩よりも
最新の西洋情報に触れていたはずです。

出島を通じて西欧情報の収集に努めていたでしょうし、
ペリーにせよプチャーチンにせよ、
直接交渉に臨み、蒸気機関車の模型を贈られて、
最初にその科学技術に目を見はったのも
幕府でした。

そういう意味で、
幕府は最も開明派であり、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200905/article_1.html


2009年4月30日(木曜日)

茂木健一郎先生、白洲信哉氏、フジテレビ、とくダネ!

カテゴリー: - kawamura @ 09時45分03秒

月曜朝8時、フジテレビの「とくダネ!」コメンテーターに白洲信哉さんが出演していました。 びっくり! 4月10日金曜日に、新宿住友ホールで茂木健一郎先生と白洲信哉氏の対談があったのです。 それは『白洲家の流儀』の出版記念のような感じでした。 対談は、ところどころにサプライズ発言があったりして、 つづきはこちらへ・・・ http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_29.html


2009年4月29日(水曜日)

etude65

カテゴリー: - kawamura @ 08時16分25秒

どんでん返しが待ちうけていました。

安政七年正月二十二日(1860年2月13日)に
横浜を発ったパウアタン号は、
遣米使節団七十七名を乗せて、
ホノルル、サンフランシスコ、
パナマを経由してアスピンウォール、
ワシントン、フィラデルフィア、
ニューヨークの各都市を訪問した後、
アメリカ最大の軍艦「ナイアガラ号」に乗船して、
大西洋、インド洋を経て、
万延元年九月二十八日(1860年11月9日)に
江戸に帰港しました。

どのようなどんでん返しか、ですって?

みなさん、
つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_28.html


2009年4月28日(火曜日)

etude64

カテゴリー: - kawamura @ 08時00分44秒

攘夷、その言葉のひびきは、
日本人の琴線をここちよくふるわせる何かがあります。

ユダヤの選民思想にも似て、
内向的でひとりよがりな思想です。

神州日本の土を夷狄に踏ませてはならぬ

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_27.html


2009年4月27日(月曜日)

つくしい朝

カテゴリー: - kawamura @ 08時23分53秒

谷間に差してゆく朝陽つづきはこちらへ・・・ http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_26.html


2009年4月26日(日曜日)

哀川翔と

カテゴリー: - kawamura @ 07時32分06秒

哀川翔と握手してきました。
奥さまとも。

どうして、と思われるかもしれません。
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_25.html


2009年4月25日(土曜日)

etude63

カテゴリー: - kawamura @ 08時09分45秒

いまのいわゆるホワイトハウスは、
当時はエグゼクティブ・マンションと呼ばれていたようですが、
幕府の遣米使節団一行は、
日米修好通商条約の批准のためにそこを訪れました。

260年の鎖国を解いた神秘の国から、
ふしぎな装いをした上品な人々があらわれたのですから、
たちまち日本ブームが湧きおこりました。

二年後の遣欧使節団のときもそうでしたが、
日本人の気品に満ちたふるまいは
欧米人に崇敬の念をいだかせたようです。

ましてやアメリカは、その当時、
ビリー・ザ・キッドの時代です。

銃が正義の西部では、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_24.html


2009年4月24日(金曜日)

etude62

カテゴリー: - kawamura @ 07時04分13秒

つまるところそれは神、と思うのです。

神がつくり給うたこの世は、
いったいどのような構造になっているのか、
彼らはその仔細を知りたいと
われらの想像を遙かに越えた知的欲求をもつのでしょうか。

真理、というものが存在していて、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_23.html


2009年4月23日(木曜日)

求道者(ぐどうしゃ)『人は死ぬから生きられる』

カテゴリー: - kawamura @ 08時44分14秒

茂木先生の本は、発売されると同時に私の手もとに届くようになっています。 いつも吸い込まれるように読みはじめます。 この本を読みはじめたとき、 つづきはこちらへ・・・ http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_22.html


2009年4月22日(水曜日)

etude61

カテゴリー: - kawamura @ 07時42分17秒

1860年(万延元年)遣米使節団、
珍道中のつづきをご紹介します。

********************

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載61回

(『万延元年の遣米使節団』 宮永孝)
 1860年3月〜9月 世界一周して帰朝)

「わが朋友は、床につこうとしたとき、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_21.html


2009年4月21日(火曜日)

etude60

カテゴリー: - kawamura @ 08時12分49秒

吉村昭の『生麦事件』を読んでいて、
佐賀藩や薩摩藩の科学技術力におどろきました。

佐賀藩では、
ペリー来航の前から反射炉の建設をはじめているのです。

そこで、鉄製大砲や蒸気機関を造りあげるのですが、
それらは一朝一夕にできるものではなく

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_20.html


2009年4月20日(月曜日)

島田ロータリークラブの

カテゴリー: - kawamura @ 06時11分48秒

島田ロータリークラブのメンバーが、
早朝からバスに乗りあわせ、
東名高速を富士川のインターで降りて
一路山梨に向かいました。

国際ロータリー2620地区の
地区協議会に参加するためです。

はじめは右手に海を、
左の車窓に富士を仰いでいるうちに、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_19.html


2009年4月18日(土曜日)

花とオーナーさま

カテゴリー: - kawamura @ 08時02分57秒

梨の白い花、オーナーさま、モッコウバラ


2009年4月17日(金曜日)

etude59

カテゴリー: - kawamura @ 08時25分36秒

徳川慶喜が大阪城を抜けだした理由が
ぼんやりとわかるような気がしてきました。

もちろん肯定しているわけではないのです。

ただ、
尊皇攘夷を叫んで白刃を振りまわす脱藩浪士たちと、
ロンドンの地下鉄工事現場を目撃し、
ウェストミンスター寺院、
バッキンガム宮殿を訪れた者たちとの差違は、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_17.html


2009年4月16日(木曜日)

etude58

カテゴリー: - kawamura @ 07時33分28秒

使節団の目的は、
修好通商条約の延期ということだけれど、
西欧文明の視察が
最もおおきな目的のひとつであったように思います。

開国の是非を判断するために、
夷荻の文明をひと目見ておこうというのです。

しかし文久二年といえば、
一月に坂下門外の変で老中首座安藤正信が負傷し、
四月には薩摩藩尊王攘夷派が島津久光によって粛正され、
八月には、恩賜休暇でオールコックが帰国した直後に、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_16.html


2009年4月15日(水曜日)

etude57

カテゴリー: - kawamura @ 07時14分15秒

しばらく幕末日本を離れて、
1962年(文久二年)に西欧を訪れた日本使節団を、
ヨーロッパの人々がどのように見たのか、
それを当時の新聞記事などからながめてみましょう。

月代をそり上げ、丁髷を結って、
サトウやリーズデイルが翼(wing)と呼んだ
裃(かみしも)を身につけ、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_15.html


2009年4月14日(火曜日)

etude56

カテゴリー: - kawamura @ 07時41分19秒

プチャーチンが条約締結を急いだ背景には、
クリミア戦争がありました。

英仏連合軍がロシアと戦っていたのですから、
プチャーチンにしてみれば

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_14.html


2009年4月13日(月曜日)

『むらからの発信』

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分42秒

ナギナタガヤが、穂をつけました。

郷土史研究会の大石孝さまがそれを教えてくださったのでした。

穂が実り、
やがて風にのっていちめんに種がまかれたとき、
梅園はナギナタガヤにおおわれて、
それは自然にたおれるから、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_13.html


2009年4月12日(日曜日)

etude55

カテゴリー: - kawamura @ 07時48分33秒

私ゴンチャローフは、
日本の対応の緩慢さに業をにやして、
いったん上海にもどりましたが、
ひと月半ほどしてふたたび長崎に帰ってまいりました。

そして、ようやく幕府全権団と
交渉の場につくことができたのです。

私たちはそこで、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_12.html


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