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2009年4月7日(火曜日)

etude51

カテゴリー: - kawamura @ 08時54分28秒

私、ゴンチャローフは、
いま小笠原諸島にいます。

(エメェ・アンベールは、もうとっくに読み終わりました)

私、イワン・A・ゴンチャローフは、
嘉永六年(1853)の夏に、
ロシア提督プチャーチンの秘書官として、
フリゲート艦パルラダ号に乗船し、
香港を発った直後に見まわれたたいそうな台風を乗りこえ、
ようやく小笠原の父島に、いま着いたところなのです。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_7.html


2009年4月6日(月曜日)

梅の実つけたよ

カテゴリー: - kawamura @ 07時53分08秒

こんなにも梅の実がつきました。

これからもっとふくらみます。

昨日一昨日と、
たくさんの方々がお見えになって、
タケノコ掘りや山菜採りに

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_6.html


2009年3月30日(月曜日)

水木しげる(表紙絵)、ラバウル戦従軍兵・滝利郎 他(文)

カテゴリー: - kawamura @ 08時44分52秒


ガダルカナルの師団司令部にいた滝おじさんのもとへ、
水木しげるが配属されていたことを、
おじさんは長いあいだ知らなかったそうです。

ガ島戦ではとてもお世話になった、
と感謝の言葉を伝えるために、
終戦後のある日、突然、
水木しげるが滝おじさんのもとを訪れたのです。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_30.html


2009年3月9日(月曜日)

FM島田の反響

カテゴリー: - kawamura @ 09時33分05秒

反響は、まだございません。

電話のまえで、じっと待っています。

(いま、友人のK君から電話が入りました)

本日は、ここまで。


2009年3月5日(木曜日)

鬼の霍乱

カテゴリー: - kawamura @ 09時01分22秒

高校入試が昨日終わったからかもしれません。

きゅうに気がゆるんで、
のどが赤く腫れあがって、熱が出るのです。

微熱にぼうっとした風景のなかを、
小鳥が数羽舞っています。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_5.html


2009年3月3日(火曜日)

冑佛について

カテゴリー: - kawamura @ 09時49分51秒

来週月曜日、
3月9日午前9時からFM島田で放送される『冑佛伝説』の取材は、
昨日終わりました。

すべてはひとつの伝説から始まりました。

「冑佛(かぶとぼとけ)
 それは戦場で、ご先祖さまが兜の中に入れて戦った仏さま」

この伝説が、すべての出来事の発端でした。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_3.html


2009年3月2日(月曜日)

FM島田の取材

カテゴリー: - kawamura @ 07時47分10秒

FM島田の取材がもうすぐみえます。

冑佛(かぶとぼとけ)のことについてです。

それで昨日から『冑佛伝説』を読みかえしていたのです。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_2.html


2009年3月1日(日曜日)

冑佛への回帰

カテゴリー: - kawamura @ 07時58分03秒

ゆえあって
冑佛(かぶとぼとけ)の世界へ戻っています。

それはなぜなのか、
明後日みなさんにご報告いたします。

御林守河村家につたわるひとつの伝説から、
すべては始まったのでした。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_1.html


2008年12月11日(木曜日)

河村祭(18・最終回)

カテゴリー: - kawamura @ 06時01分33秒

(写真は拙著『冑佛伝説』 脳科学者茂木健一郎先生に序文を書いていただきました!)

そうそう、忘れないうちに
河村祭のお話しを終わらせることにしましょう。

平成20年9月27日土曜日のことでした。

神奈川県山北駅前の老舗旅館
「旭屋旅館」の女将に、
河村たけおさん、とよばれて
すっかり官房長官の気分でいたあの日のことです。

(実際、官房長官河村健夫氏も
 般若院へよくお見えになるようです)

それはほろ酔いのまま、頬杖をついて、
皇太子妃雅子様を一族にもつ大萱生氏と
閑談していたおだやかな午後。

河村氏の祖河村秀高の、
嫡男三郎義秀の末裔である金谷河村氏として
私が招待され、
四郎秀清の末裔である奥州河村氏として
大萱生寿氏がその日河村祭に招かれたのでした。

後日大萱生氏は
ご自分でお書きになった『大萱生家の歴史』を
送って下さいました。

それをなにげなく読んでいたときのことです。

52頁に山屋氏の略系図が書かれています。

大萱生氏の血をひく山屋氏とは、
皇太子妃雅子様の一族で、
その祖は亀森氏を称していたのです。

あの亀ヶ森玄蕃です。

あの、といわれてもお分かりにならない。

もっともです。

亀ヶ森玄蕃、と聞いて、
ああ、あのかぶとぼとけの、
とお気づきになったとしたら
その方は、
冑佛(かぶとぼとけ)検定一級の資格を
保証します(笑)。

(「島田発の日本史新発見!」として
 「冑佛(かぶとぼとけ)検定」を準備中!(笑))

平成6年10月31日、
私は、河村一族の証しともいえる冑佛を追って、
奥州大迫町まで辿りついたのでした。

花巻市周辺は河村秀清の所領で、
その一帯に
河村一族に由来する冑佛が分布していたのです。

河村祭シリーズの最後に
大萱生氏との不思議な縁を物語る冑佛について
拙著『冑佛伝説』から一節を引用して
連載を終わりとします。

====================

「ところで、盛岡市の正覚寺に、
 中世末の大迫城主大迫右近が兜におさめていた大迫観音、
 それから、
 大迫町亀ヶ森の中興寺にも兜神があったと思いますよ」

 どこにでもあるものでおどろくにはあたらないという話しかたは、
 冑佛を継承している何方(どなた)にも共通のものだったが、
 それならばなぜ、
 冑佛は世に知られずにいたのか。

 なぜ総称もなく、
 系統的な研究の対象にされることさえなかったのだろうか。

 密教と冑佛とのかかわりについて、
 相模河村一族の菩提寺般若院が、もとは真言密教寺院であって、
 わが家につたわる冑佛はその密教の仏、
 大日如来であったと前章にしるした。

 また相模河村城の一帯は修験道のさかんな地域であった。

 まさに今回多くの冑佛が発見された盛岡周辺は、
 早池峰山(はやちねさん)を中心とする修験道と密教の聖地だった。

 ようやく私の眼にも、
 密教と冑佛と河村氏をつなぐほそい糸が、
 うっすらとみえはじめた。
 
 十月三十一日、梅原氏との電話のあと、
 すぐに盛岡市正覚寺に連絡をとった。

「大迫観音は、三十三観音の十八番目で、
 無生観音ともよばれています。
 像高三センチほどの小像で、
 大迫城主大迫右近が出陣のとき
 兜の八幡座におさめたとつたえられる金銅製の観音立像です。
 左手に未敷蓮華をもち、
 右手の方は片手合掌印となっています」

 とのお話だった。

 数年後、家族と冑佛めぐりの旅をしたとき、
 大迫右近の菩提寺である大迫町の桂林寺をたずねたあと、
 盛岡市の正覚寺にも立ちよってこの尊像を拝見させていただいた。

 三糎(センチ)ほどのほんのちいさな金属製の仏像で、
 背中に「無生」の銘がきざまれている。

 つぎに大迫町教委に連絡をとると、文化財係の中村氏が出られた。

「外泊城主大迫右近の兜神が盛岡市の正覚寺にある理由は分かりません。
 中興寺に伝わる亀ヶ森城主亀ヶ森玄蓄の兜神は、一寸八分で、
 厨子に入っています。
 また、この兜神は身代わり観音と呼ばれて伝説にもなっています」

 早速送ってくださった資料「おおはさまの伝説」には、
 つぎのように書かれていた。

   亀林山中興寺には、代々亀ヶ森氏の守護神として、
   信仰の篤かった丈一寸八分(約五・四?)の
   閻浮陀金(えんぶだごん)(純金)の十一面観音が伝わっている。

   これには次のような言い伝えがある。

   亀ヶ森図書の子である玄蓄も仏教を信奉し、
   父の護身仏であった観音様を引きつぎ、
   守り本尊として兜の中に納め、肌身離さず奉持していた。
   主家稗貫(ひえぬき)大和守に反乱し、
   稗貫の家臣である
   槻木下守光治と矢沢左近春眞(次直)に攻められた時も、
   この兜を身につけて戦い出て、
   士卒を励まして戦った。
   その時、一時は危なくなったのであるが、
   やがて勢いを盛り返して、
   ついに敵将の槻木下野守を討ち取ったため、
   敵は列をみだして逃げ去った。
   この戦いの後に、玄蓄が兜の観音さまを拝み見ると、
   光背の一方が欠けていた。
   これは玄蓄が危ういときに身代わりとなったものであった。
   その後も難を逃れることができたのは、
   一度や二度ではなかったため、
   村人達は「身代わり観音」と呼んで、
   その霊験あらたかなることを称えた。

=====================

(これで「河村祭」シリーズを終了いたします。
 あすは、愛にゃん2!)


2008年11月27日(木曜日)

河村祭(17)

カテゴリー: - kawamura @ 06時27分15秒

あの薄曇りの九月の午後、
神奈川県山北駅前の老舗旅館
「旭屋旅館」のロビーに
ほろ酔いのまま頬杖をついて、
大萱生(おおがゆう)氏たちと歓談していた日のことを
もういちど思いおこして下さい。

奥州盛岡の大萱生氏末裔と同席したのでした。

大萱生氏は、
神奈川県山北町に河村城址をとどめる河村秀高の子、
四郎秀清の支流です。

以下、『冑佛伝説』より転載します。

========================

 文治五年(1189)七月、
 源頼朝が奥州藤原泰衡討伐の兵を挙げたとき、
 軍勢催促の報をきいた相模河村城の河村千鶴丸も、
 譜代の御家人として参陣した。

 誕生の朝、河村城の空を鶴の群が舞ったという伝説の若武者千鶴丸は、
 そのとき弱冠十三歳であった。

 八月七日、河村千鶴丸等御家人七騎は、
 阿津賀志山の敵陣に入り、矢をはなつこと度々におよんで、
 先駆けの功名をあげた。

 十一日、頼朝は千鶴丸を召し、父の名をたずねた。

 山城権守河村秀高の四男であると千鶴丸は申し上げた。

 頼朝の官女京極局の子と知って頼朝はよろこび、
 御前において、加々美次郎長清を烏帽子親としてにわかに元服させ、
 四郎秀清と名告らせた。

 そののち河村秀清は、岩手・志和・稗貫の三郡に所領を賜り、
 志和郡大巻の地に居館をかまえた。

 テーブルの上に、岩手の町ごとに彩色された地図がひろがっている。

 冑佛が発見された場所に鉛筆で丸印をつけてあるその地図。

 修験道の霊山である早池峰山の西方、
 花巻市周辺のほんの一地域に、すべての冑佛があつまっている。

 そこが、伝説の若武者、河村四郎秀清の所領だった。

 やがて時代が下って、
 南朝方に与した河村氏は、元中元年河村秀定の孫秀基の代に、
 大巻の地から志和郡佐比内村神田へ居館をうつし、
 応永三年、同地に熊野権現を勧請して鎮守とした。

 熊野神社は、紫波町佐比内字神田に現存している。

 神社のふもとには、
 河村四郎秀清を祖とする神田館主川村喜助の末裔が、いまも暮らしている。

 そして私は、『川村家の歴史』のなかの、
 大正三年四月三日紫波郡役所に報告された「熊野神社宝物調書」の二番目に、
 つぎのように書かれていることを見出したのである。

  熊野神社宝物調書
   品名
  観音立像
   作者伝来
  作者不明、佐比内村神田館主川村喜助代々ノ信仰ニシテ
  出陣等ノ場合ハ髪中ニセリト云口碑有

 奥州の冑彿の分布と、河村四郎秀清の所領が重なり、
 さらにその子孫から家伝の観音立像が現われるとは、思いもよらなかった。

 ここに於て、追いもとめていた冑佛と、河村家の歴史とが、
 左右の掌を合わせたようにぴたりと一致したのである。

========================


2008年11月18日(火曜日)

観光ボランティアの会の人々

カテゴリー: - kawamura @ 07時46分55秒

突然の電話で
いまから10人ほどで
見学にうかがいたいというお話しでした。

私は体調不良で伏せておりましたので
妻が応対しました。

電話から1時間半ほどして
マイクロバスから
15人ほどの人々が降りてきました。

皆さまを御林守河村家住宅にご案内して
妻が一通りの説明をしていると、
「xxxxxxxxxxxx」のxxさんが

「この家は他所へ寄付していますか?」

と訊いてきて、妻は返答に窮したというのです。

「初倉の報徳社は年間何百万円も寄付していますよ」

初倉の報徳社がどのようなものか妻も私も知りません。

「文化財河村家住宅」の草刈りや庭師の費用など
周辺の維持管理をするのに、
島田市から一年間に4万円弱の補助があり、
それだけでは足りないので
昨年から梅の木オーナー制度をはじめて
なんとか草刈りや庭師の費用が
捻出できるようになったところです。

妻はそれを説明するのも気が引けたようで

「それはすばらしいことですね。
 でも我が家はとても寄付できるような状態ではありません」

とだけ答えたというのです。

文化財を所有することで
どのような収入があるとお考えなのでしょうか。

おそらく多くの人たちの
文化財所有者への
お考えは同じようなものなのかと思うと
なんだか暗澹たる思いです。

1時間ほど妻がご案内して
みなさんはお帰りになりました。


2008年11月17日(月曜日)

郷土史研究会の皆さまが

カテゴリー: - kawamura @ 21時57分04秒

先日、
郷土史研究会の皆さまがおみえになりました。

会長の大石孝様は、
金谷町の文化財保護審議会の委員をしていたころから
よく存じ上げています。

ナギナタガヤを教えて下さったのも
大石様です。

朝9時に、童子沢公園の入り口で待ちあわせて、
10人ほどで天王山の頂上に登りました。

曇天でしたが風のないおだやかな日でした。

牧ノ原の諏訪原城、横岡の鶴見城、掛川市の松葉城
などについてご説明いたしました。

その後、御林守河村家に移動して
家の歴史などをお話ししました。

帰りがけに、
大石様から高額のご寄付をいただき
恐縮いたしました。

さっそく「御林守河村家を守る会」の通帳に
入金させていただきました。

有難うございました。


2008年11月7日(金曜日)

河村祭(16)

カテゴリー: - kawamura @ 08時12分15秒

9月27日土曜日、
それは薄曇りのおだやかな日でした。

その日、
神奈川県山北町から送られてきた河村祭の招待状を手に、
なにげなく手ぶらで訪れたところが、
胸に紅いリボンをつけられ
山北町長や神奈川県議などお歴々の前で
床の間を背にして座ることになろうなどとは
思いもしませんでした。

大萱生(おおがゆう)氏との邂逅も
思いがけないものでした。

と申しますのは、
私の研究テーマのひとつは「冑佛(かぶとぼとけ)」で、
冑に小仏を納めるという、おそらくは源氏の風習を追って
奥州に及んだことは、
拙著『冑佛伝説』に詳述しました。

源頼朝が
髻(もとどり)に二寸銀の聖観音像を納めたことは
吾妻鏡に記されています。

頼朝の奥州攻めに参陣した弱冠十三歳の河村千鶴丸、
後の河村秀清は、
奥州大巻の地に居館を構えました。

大萱生一族もその支流のひとつです。

ところで、
河村秀清の嫡流が守る熊野神社宝物に
「出陣などの場合は髪中にせり」
という観音立像が伝えられていることを発見したときの驚愕は、
いまも鳥肌の立つように蘇ります。

奥州、河村千鶴丸、元服して河村秀清

頼朝の髻観音と河村秀清の観音立像

そして、
奥州河村氏の末裔である大萱生氏と
現実にお会いするとは

さらに後日、
大萱生氏から送られてきた一冊の本、
『大萱生家の歴史』に書かれていた
冑佛にまつわるあらたな因縁につきましては
また次回にご紹介することといたします。


2008年11月5日(水曜日)

河村祭(15)

カテゴリー: - kawamura @ 08時05分55秒

(大萱生氏系図、右は冊子の表紙)

河村氏の祖河村秀高の子、
嫡男義秀は相模河村城を
四男秀清は奥州大巻城を
居城としていました。

800年以上昔のことです。

金谷河村氏が義秀の末裔であることは
『駿河記』に記され、
奥州河村氏が秀清の末裔であることは、
『吾妻鏡』に記されています。

ゆえに、
御林守河村家と
大萱生(おおがゆう)家とが一族であることは
『尊卑分脈』にも明白なところです。

ところで、
今日はその大萱生氏からいただいた冊子の一頁を
ご紹介いたします。

それは「早池峰山 龍源寺」と表書きされていて
岩手県盛岡市大ヶ生の龍源寺二十四世
下斗米祖童住職が発行したものです。

龍源寺は
大萱生城主大萱生玄蕃之守秀重を開基としていて、
この冊子にはその由来が記されているのです。

河村祭のあと
秋の日の午後に
山北駅前の老舗旅館「旭屋旅館」のロビーで
大萱生氏からいただいたそれを
なにげなくひらいて目にとめた一頁です。

*********************

ここに一枚の新しい系図がある。

これによると、二代目秀春の子の末裔、
富治が、幕末に山屋家に養子に入り生まれたのが
日露戦争の時の海軍大将山屋他人であり、
その曾孫が
皇太子妃雅子様である。

大萱生氏の位牌と墓所(大萱生城北館)がある
龍源寺では
平成五年六月九日
ご成婚を祝して夢灯りが点され全国中継がされた。

**********************


2008年11月2日(日曜日)

河村祭(14)

カテゴリー: - kawamura @ 07時02分15秒

前回まで
河村秀高の子、
河村義秀、河村千鶴丸のことをお話ししました。

源頼朝に赦されて相模河村郷に還住することになった
河村義秀の子孫は
やがて江戸時代までつづきます。

また、
義秀の弟、四男河村千鶴丸は
奥州攻めに向かう頼朝の御前で元服し
以後河村秀清と名告って、
奥州大巻の地に居館を構えます。

拙著『冑佛伝説』から引用します。

 文治五年(一一八九)七月、
 源頼朝が奥州藤原泰衡討伐の兵を挙(あ)げたとき、
 軍勢催促の報(しらせ)をきいた相模河村城の河村千鶴丸も、
 譜代の御家人として参陣した。

 誕生の朝、
 河村城の空を鶴の群が舞ったという伝説の若武者千鶴丸は、
 そのとき弱冠十三歳であった。

 八月七日、河村千鶴丸等御家人七騎は、
 阿津賀志山の敵陣に入り、矢をはなつこと度々におよんで、
 先駆けの功名をあげた。

 十一日、頼朝は千鶴丸を召し、父の名をたずねた。

 山城権守河村秀高の四男であると千鶴丸は申し上げた。
 頼朝の官女京極局の子と知って頼朝はよろこび、
 御前において、加々美次郎長清を烏帽子親としてにわかに元服させ、
 四郎秀清と名告らせた。

 そののち河村秀清は、
 岩手・志和・稗貫の三郡に所領を賜り、
 志和郡大巻の地に居館をかまえた。

 この経緯を、吾妻鏡はこのようにつたえている。

  『吾妻鏡』文治五年八月九日条
九日、丙申 夜に入りて、明日阿津賀志山を越えて合戦を遂ぐべきの由、
    これを定めらる。
   
    ここに三浦平六義村・葛西三郎清重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・
    狩野五郎親光・藤澤次郎清近・河村千鶴丸年十三才。

    以上七騎。ひそかに畠山次郎が陣を馳せ過ぎ、この山を越えて、
    前登に進まんと欲す。

    これ天曙くるの後、大軍と同時に嶮岨を凌ぎがたきが故なり。(後略)

  『吾妻鏡』文治五年八月十二日条
    十二日 己亥 一昨日合戦の時、
    千鶴丸若少の齢にして敵陣に入り、矢を發つこと度々に及ぶ。
   
    また名謁りて云はく、河村千鶴丸と云々。

    二品始めてその號を聞かしめたまふ。

    よつて御感の餘りに、今日船迫驛においてその父を尋ね仰せらる。

    小童、山城権守秀高が四男たるの由これを申す。

    これによつて、御前においてにはかに首服を加へ、河村四郎秀清と號す。

    加冠は加々美次郎長清なり。

    この秀清は、去ぬる治承四年石橋合戦の時、
    兄義秀、景親が謀叛に與せしむるの後、牢籠するのところ、
    母二品の官女、京極局と號す。

    相計ひて、しばらくその號を隠し、休所の傍に置く。

    しかるに今度御進發の日、譜第の勇士と稱し、
    慇懃の吹擧を企つるの間、御共に候じ、
    たちまちに兵略を顕す。

    すなはち佳運を開く者なり。

    晩景に多賀の國府に着かしめたまふ。

以上拙著『冑佛伝説』より引用いたしました。

大巻に居館を構えた河村秀清の子孫は
やがて奥州全域に広がります。

大萱生(おおがゆう)氏もその支流のひとつです。

金谷の河村氏も
河村義秀の子孫であることは
『駿河記』に記されていますから
大萱生氏とは
遠いけれど一族であることは明らかです。

さて、
河村祭のあと、
山北駅前の老舗旅館「旭屋旅館」の女将を交えて
大萱生氏と談笑していたときのことでございます。

まえにも申しましたが、
大萱生壽(ひさし)さまは、
現在の岩手県盛岡市大ヶ生に
地名としてその名をとどめている大萱生城主の末裔です。

その大萱生氏から、一冊の冊子をいただきました。

それは
盛岡市の古刹
早池峰山龍源寺の発行したもので、
大萱生城主大萱生玄蕃之守秀重を開基として始まる
寺史が書かれています。

なにげなくそれに目を通していたとき、
その六頁に書かれた大萱生氏の略系図に
目がとまりました。

そこに
畏れおおいことに
大萱生氏と現在の皇室とのつながりが記されていたのです。

(あしたにつづく)


2008年10月30日(木曜日)

光の差す森

カテゴリー: - kawamura @ 08時38分18秒

(写真は木洩れ陽に立つ(有)ヤナザイの山内さん)

森にひかりがあふれていました。

(有)ヤナザイさんのおかげで
暗い森があかるく再生しました。

この森は37年ほどまえに
母と私とで植林した杉檜の混植の森です。

ひかりのとどかない暗い森には
しめったシダ類しか繁殖せず、
しだいに土地がやせてゆくのです。

なぜって
大地の豊かさは光の豊かさに比例しているからです。

森が適度に間伐され
梢から地面にひかりが降りそそぐようになれば、
さまざまな下草が生えて、
光を受けたその植物たちは盛んに光合成をします。

植物は光を食べて生きているのです。

葉っぱを見ればお分かりでしょう。

樹々の葉は、
降りそそぐ光に手のひらをひろげるようにして、
枝の先についています。

それは太陽電池のように
もっとも効率よく光を吸収するために
そうしているのです。

ご承知のように
森は雨水と二酸化炭素を吸って、
葉から吸収した光のちからで
それらをデンプンなどのさまざまな栄養分に
作り替えています。

ちょっと専門的にお話しすると
葉緑素(クロロフィル)の大きな分子の真ん中には
マグネシウムイオンがあって
それが光を受けると
電子を産みだすのです。

それが光合成のエネルギーのもとになって、
葉緑体のなかで、
水と二酸化炭素から
私たちや草食動物の栄養源となる
米や果物やジャガイモやなど、
さまざまな実りを創造してくれるのです。

このように森は生命の源です。

また
木々を育む森の大地が豊かであれば
それが溶け出して流れこむ海にも
豊かさをもたらします。

それで、
静岡県は「森の力再生事業」を始めました。

「森林づくり県民税」を県民の皆さまから
年間お一人様から400円いただいて、
この再生事業の原資としているのです。

私の森の整備も
この事業の一環として行われました。

幸運なことでした。

柳川金男様の(有)ヤナザイが
整備事業者として施行してくださったのです。

県の再生事業と
(有)ヤナザイ様のおかげで
闇に覆われ、痩せていた森の大地に、
やわらかくあまい光が
久しぶりにふりそそぎました。

皆さまに心から感謝申し上げます。


2008年10月28日(火曜日)

河村祭(13)

カテゴリー: - kawamura @ 14時42分28秒

神奈川県山北町の
駅前老舗旅館「旭屋旅館」のロビーで
河村氏の祖、河村秀高の嫡男義秀について
女将や大萱生さまとさまざまなお話しに花を咲かせていた
というところまででございました。

河村義秀は源頼朝に赦され、河村郷に還住したのでした。

そして、もうひとりの主人公、
河村千鶴丸のことに話しが及んだのは
もう午後の三時をまわっておりました。

秋の陽が雲間に見えかくれする
おだやかな午後でした。

さて
秀高の四男河村千鶴丸が
奥州攻めの頼朝に馳せ参じて、
源頼朝にお目通りをゆるされるくだりは
吾妻鏡にこのように記されているのでございます。

『吾妻鏡』文治五年八月十二日条
    十二日 己亥 一昨日合戦の時、
    千鶴丸(河村)若少の齢にして敵陣に入り、
    矢を發(はな)つこと度々に及ぶ。

    また名謁(なの)りて云はく、河村千鶴丸と云々。

    二品始めてその號を聞かしめたまふ。

    よつて御感の餘りに、今日船迫驛においてその父を尋ね仰せらる。

    小童、山城(河村)権守秀高が四男たるの由これを申す。

    これによつて、御前においてにはかに首服を加へ、
    河村四郎秀清と號す。

    加冠は加々美次郎長清なり。

    この秀清は、去ぬる治承四年石橋合戦の時、
    兄義秀、景親(大庭)が謀叛に與(くみ)せしむるの後、
    牢籠するのところ、母二品の官女、京極局と號す。

    相計(はから)ひて、しばらくその號を隠し、休所の傍に置く。

    しかるに今度御進發の日、譜第(ふだい)の勇士と稱し、
    慇懃(いんぎん)の吹擧(すいきよ)を企つるの間、御共に候じ、
    たちまちに兵略を顕(あらは)す。

    すなはち佳運を開く者なり。

    晩景に多賀の國府に着かしめたまふ。

(きょうはここまで)


2008年10月24日(金曜日)

河村祭(12)

カテゴリー: - kawamura @ 09時10分17秒

なんのこっちゃ、
と思われるかもしれません。

私の家系も
ついに天皇家とつながったのでございます。

おほほ。

それは
このようにして明らかになりました。

さてさて
大萱生さまと山北駅前の老舗旅館「旭屋旅館」で
おそめの昼食をいただいておりましたときのことで
ございます。

話題はもちろん
河村秀高の子、義秀や千鶴丸、
それは
長い平安時代が終わりをつげて、
これから源氏の全盛期が始まろうとする
八百年以上まえのこと。

源頼朝の縁戚でありながら平家方に与した河村義秀は
斬罪に処されるべきところを匿(かくま)われ、
やがて頼朝の御前で
流鏑馬の妙技を披露することになるのでございます。

(そんなことどうだっていいわい、
 とみなさんはお思いになるのでしょうけれど、
 我が河村一族にとりましては
 それはそれは一大事なのでございます)

鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には
このように記されております。

  『吾妻鏡』建久元年八月十六日条
(前略) 時に景能((大庭))に申して云はく、
       去ぬる治承四年、景親((大庭))に與するところの
       河村三郎義秀、囚人として景能これを預り置く。
       弓馬の藝に達するなり。
       かつはかの時の與黨大畧厚免(こうめん)に預りをはんぬ。
       義秀ひとり沈淪(ちんりん)すべきにあらざるか。
       この時召し出さるべきやてへれば、仰せて曰はく、
       件の男は斬罪に行はるべき由下知しをはんぬ。
       今に現存するは奇異の事なり。
       しかれども神事に優(いう)じ、早く召し進ずべし。
       ただしさせる堪能(かんのう)にあらずんば、
       重ねて罪科に處すべしてへれば、
       すなはち義秀を招き、この旨を召し仰するの間、
       これを射をはんぬ。
       二品その箭(や)を召覧するところの、
       箭十三束、鏑八寸なり。
       仰せて曰はく、
義秀弓箭(きゆうせん)に達するによつて驕心(けうしん)あり。
       景親に與(くみ)するの條、先非を案ずるに、
  いまさら奇怪なり。
       しかればなほ三流れ作物を射しむべし。
       失禮あるにおいては、
       たちまちにその咎(とが)に行はるべしてへれば、
       義秀またその藝を施し、始終あへて相違なし。
       これ三尺・手挟(たばさみ)・八的(やつまと)等なり。
       觀る者感ぜずといふことなし。
       二品欝陶を變じて。感荷に住したまふと云々。
『吾妻鏡』建久元年九月三日条
  大庭平太景能申して云はく、
       河村三郎義秀、今においては梟首せらるべきかてへれば、
       仰せて曰はく、
       申状はなはだその意を得ず。
       早くその刑に處すべきの由、仰せ付けらるといへども、
       景能ひそかにこれを扶け多年を歴るなり。
       依流鏑馬の賞によつて厚免しをはんぬ。
       今さらなんぞ罪科におよばんやてへれば。
       景能重ねて申して云はく、日来は囚人たるの間、
       景能が助成をもつて命を活(い)く。
       なまじひにもつて免許を蒙るの後、すでに餓死せんと擬す。
       當時のごとくんば、
       誅せられん事下へつて彼がために喜びたるべきかてへれば、
       時に二品すこぶるわらう咲はしめたまひ、
       本領相模國河村郷に還住(げんぢゆう)之すべきの旨、
       下知すべしてへり。

(きょうはここまで)


2008年10月20日(月曜日)

河村祭(11)

カテゴリー: - kawamura @ 07時35分24秒

河村祭のことを
とんと忘れておりましたワイ。

さてさて
河村祭の懇親会を終えたあと、
大萱生(おおがゆう)さまのお誘いもあって
文化財保護審議委員長のお車に同乗させていただいて
山北駅前の老舗旅館「旭屋旅館」にまいりました。

河村祭の最初から最後まで私のことを
「たけおさん」と呼んで案内してくださった女性が
じつは旭屋旅館の女将だったのです。

(「河村たけお」は内閣官房長官で、
 河村祭には毎年お見えになっているようですが
 今年の政界はご承知のように
 解散風が吹いたりして
 官房長官は超多忙なのでしょう)

ですから、委員長の車に同乗したのは
大萱生さま、女将、私と、
もうひとりいらっしゃいました。

創業明治二十九年の老舗旅館
「旭屋旅館」は山北駅から徒歩一分、
活き活きとした女将のお人柄もあいまって
繁盛している様子でした。

旭屋旅館のテーブルを囲んで遅い昼食をとりながら
山北町と河村祭についての
さまざまなお話を聞くことになりました。

(つづきはまた明日)


2008年10月17日(金曜日)

遠江河村荘と河村氏

カテゴリー: - kawamura @ 07時05分30秒

『遠江河村荘と河村氏』は、
40代の半ばから十年ほどかけて完成した
河村氏に関する論考ですが、
未発表のままです。

大学の先生に目を通していただいてから、
自費出版しようかと思っています。

また、御林守河村家二代目の助二郎が
大宝神社に寄進した鰐口についての論考『鰐口考』、

「甲冑武具研究」に掲載された『冑佛考』(1)〜(3)、

掛川市奥野の長松院で
河井宗忠公百回忌の講演をさせていただいたときの
『河井宗忠公略傳』、

などもあわせて収録して刊行しようと思うのです。

『遠江河村荘と河村氏』は
本編と資料編とをあわせると約二百枚ですから、
全部で三百枚ほどでしょうか。

たったそれだけ書くのに十年以上かかったのです。

しかし
史料を集めるのに三代かけていますから、
つまり、曾祖父、祖父、父と三代かけて
河村家に関する書籍などを集めましたから、
私が執筆した十年というのはほんの僅かな期間にすぎません。

さらに古文書をあわせれば数百年の歳月をかけて
史料を集積したとも言えますから、
十年など一瞬にすぎません。

もっと本気で
歴史研究に取り組まなければと思います。

御林守に関すること、
製茶監督員河村宗平のことなどを、
どうしてもまとめなければなりません。

あ〜あ、
日暮れて道遠し、ですな〜。


2008年10月16日(木曜日)

島田市大代の歴史

カテゴリー: - kawamura @ 08時35分13秒

(写真は静岡県指定文化財の鰐口。

御林守河村家の二代目助二郎が大宝神社に寄進した鰐口です。

鰐口の銘文に「大代の助次郎が大寶神社に鰐口を寄進する」と刻まれています。

大寶神社は、明治43年まで、大代天王山の山頂にありました)

さて、
大代の歴史をまとめてほしい、
という依頼が知人からありましたので
今日のブログはそれを書いてみようと思います。

金谷町史資料編一古代中世から抜萃します。

◎大治四年(1129)三月二十八日

質侶牧領域内の調査が終了し、
円勝寺の荘園として認定される。
(金谷町史資料編一 古代中世 P77,78)

円勝寺領として認定される。
「大□村 □は白ヵ」とされています。

つまり、文書の一字が欠落していますが
おそらく「白」ではないか、
ということです。

現在の大代を、大白としていたのではないか
ということ。

◎応永三十二年(1414)甲午十月一日

沙弥行一、大代の白山神社に鰐口を奉納する。
(金谷町史資料編一 古代中世 P184)

◎天文七年戊戌(1538)十一月

大代(の)助二郎、大法天王に社に鰐口を寄進する。
(金谷町史資料編一 古代中世 P218)

御林守河村家二代目助二郎が、
大代字天王山の山頂に明治43年まであった
大寶神社に鰐口を寄進しました。

◎大代村の発生について

御林守河村家文書には、
「大代村・之儀ハ前々より市平平馬両人ニ而御役儀相勤来リ候」
(金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世D―92)とあり、

延宝六年(1678)の大代山論裁許絵図にも
「大代村庄屋市平 同平馬」とあり、
大代村の発生期から
「河村市平」と「杉山平馬」が庄屋を務めていたことが確認されます。
(金谷町史資料編二 近世 付図 1 大代山論裁許絵図 延宝六年)

◎江戸時代の大代村名主

河村市平・(杉山)平馬・(渡辺)清左衛門・(山内)清兵衛
以上四家が大代村の名主役を務めました。

河村家は名字帯刀の御林守に任じられ、
江戸期を通じて、
筆頭の「御林守」と「名主」以外の職に就くことはありませんでした。

平馬、清左衛門、清兵衛の各家は、
平馬は江戸中期以降は「組頭」、
清兵衛は江戸後期に「組頭」として現れ、
江戸末期になって名主に昇格します。

清左衛門は江戸中期の一時期「名主」を務めています。

(えんえんと続くので、以下省略します)


2008年10月10日(金曜日)

河村祭(10)

カテゴリー: - kawamura @ 05時54分34秒

午前十時になって
河村祭が開催されました。

そのときふいに
ご祝儀を納めるべきではなかったのかと
思い当たりました。

まさかこのような式典が待ち受けていようとは
思いもしませんでしたので、
まったくご祝儀を用意していなかったのです。

そういえば受付に近づいたとき、
気品ただよう女性に
紅いリボンを胸につけていただいて、
そのまま舞いあがって、
誘われるがままに控室に進んでしまいました。

記帳もご祝儀もなしで
受付を素通りしてしまったのです。

しかしもう祭典は始まってしまいました。

ど、どうしよう・・・

開会の言葉が聞こえてきます。

もうどうしようもありませんから
会が終わったあとで
ご祝儀とお布施とをお納めすることに決めました。

最初に
河村氏の祖河村秀高の菩提を弔い、
つづいてその一族の菩提を弔う祭事が
般若院御住職、
名誉住職によって執りおこなわれました。

やがて河村氏子孫の献香につづいて、
山北町長、町会議長、県会議員、自治会長会会長、
文化財保護審議委員長、流鏑馬保存会会長などが
献香されました。

さらに
河村城址保存会会長、
山北町長、
山北町議会議長、
神奈川県議会議員などのご挨拶がございました。

祝電ご披露のあと
一旦閉会のお言葉があって、
お琴の演奏、
墓参り、茶会などがつづき、
やがて懇親会が開催されました。

広い部屋に足を踏みいれると、
100人以上の宴席が用意されています。

なんということか
河村氏子孫は雛壇に座るというのです。

静岡から
ふらりと気軽に訪ねて来て、
100人ほどの人々が居並ぶまえの雛壇に
胸に紅いリボンをつけて座ることになるとは
なんだか不思議な気分でした。

しかも右隣は大萱生さまです。

大萱生さまから名刺をいただき、
大蔵省にお勤めであったことを知りました。

大蔵省を退官されたあと、
ご本人の弁では、
いわゆる天下りで
三菱関係の証券会社に現在お勤めております、
ということでした。

さらに大萱生さまのご係累に
驚くような方がいらっしゃることを知るのは、
もう少しお酒が回ってからのことでした。

(つづく)


2008年10月9日(木曜日)

河村祭(9)

カテゴリー: - kawamura @ 05時32分58秒

相模河村氏の子孫7名が
般若院本堂へ招かれました。

いよいよ式典が開催されるのです。

招かれるままに本堂の中央まで進むと
「河村氏ご子孫 河村隆夫様」
と書かれた紙が座布団の上に置いてあります。

紙を外して、着席しました。

思ってもみない展開でした。

私はうつけたように
木蓮華や天蓋をぼんやりとながめていました。

どこか公民館のようなところに
折りたたみ椅子かなんかがならべられていて
そこで簡単な式が行われるものとばかり
思っていたのですから、
このように本格的な式典に
すこし度肝を抜かれていたのです。

やがて僧侶が入場し
司会者が式典の開始を告げています。

(つづく)


2008年10月8日(水曜日)

河村祭(8)

カテゴリー: - kawamura @ 05時45分54秒

(写真は山北町長瀬戸孝夫氏)

そのうちひとり、またひとりと、
越後河村氏の子孫の方、
河村氏家臣の末裔の方などが
河村氏子孫控室に集まってまいりました。

私は、
前日に図書館から借りてきた『駿河記』を
みなさんにお見せしました。

『駿河記』は江戸時代に桑原藤泰によって記された
「駿河全体の極めて精査された貴重な地誌」
とされています。

その『駿河記』の中に
金谷河村氏の系図が記されているのです。

藤原鎌足から始まるその系図は
河村秀高を「初めて遠江国河村住居」としていて
やがて金谷河村氏に繋がることを明らかにしています。

金谷河村氏の家紋は「丸に違い箸」で
相模河村氏の家紋とほぼ同様の家紋です。

相模のそれが筋交い紋であるのに対して
金谷河村氏の家紋はすこし湾曲していますが
ほぼ同じです。

大萱生(おおがゆう)氏の家紋は
河村秀清流の、相模と同じ筋交い紋です。

なんだか家紋が同じ「丸に違い箸」というだけでも
とても初対面とは思われないなつかしさを感じます。

突然、山北町長の瀬戸孝夫氏が控室にお見えになって
私の隣に座られました。

私は、「ご招待を受けた島田市の河村です」とお伝えし、
さきほどの『駿河記』のコピーと
持参した拙著『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』の二冊を差し上げて
河村祭へ招待して下さったことへのお礼と
予想外の盛大な式典に驚いていることをお伝えしました。

やがて、控室に式典の開始が告げられました。

(つづく)


2008年10月7日(火曜日)

河村祭(7)

カテゴリー: - kawamura @ 06時20分35秒

ある日私のもとに、一通の招待状が舞いこむ。

それは河村城址のある神奈川県山北町からの、
河村秀高の子孫が集うという河村祭への招待状。

おだやかな初秋の朝、
私は、招待状を手に、
秀高の菩提寺、般若院を訪れる。

思いがけず来賓の紅いリボンを胸につけられ、
みちびかれた来賓室で、初老の紳士と出会う。

気品ただよう紳士は、
大萱生(おおがゆう)と名告った。

私は思わず
「千鶴丸の、ご子孫ですか?」
と問う。

千鶴丸、
その名はいままで文章に書くことはあったにせよ、
一度も会話で口にしたことのなかった名前。

千鶴丸、その名前が、
旧知の者のように語られる。

それがどれほどの驚きであったか。

『吾妻鏡』に描かれた文治五年(一一八九)の出来事が、
まるで昨日のことのように互いの口から流れ出る。

驚くべきことに、
私の畢竟の課題「冑佛(かぶとぼとけ)」と
見事に重なり合うことになるとは。

遠州金谷の
御林守河村家に伝わる冑佛、
本陣柏屋河村家に伝わる冑佛、
それらを調査してゆく細い道の果てに、
頼朝譜代の家臣として参陣する弱冠十三歳の千鶴丸、
河村四郎秀清の顔が浮かびあがってくる。

やがて奥州熊野神社宝物の中に
河村秀清末裔の冑佛が発見される。

大萱生氏が、その秀清の子孫であったとは。

不思議な、目眩くような体験。

(つづく)


2008年10月6日(月曜日)

河村祭(6)

カテゴリー: - kawamura @ 07時25分47秒


(拙著『冑佛伝説』からの引用がつづきます)

 時代は平安末期に遡(さかのぼ)る。

 文治五年(一一八九)七月、
 源頼朝が奥州藤原泰衡討伐の兵を挙げたとき、
 軍勢催促の報をきいた相模河村城の河村千鶴丸も、
 譜代の御家人として参陣した。

 誕生の朝、
 河村城の空を鶴の群が舞ったという伝説の若武者千鶴丸は
 時に十三歳であった。

 八月七日、
 河村千鶴丸等御家人七騎は、阿津賀志山の敵陣に入り、
 矢をはなつこと度々におよんで、先駆けの功名をあげた。

 十一日、頼朝は千鶴丸を召し、父の名をたずねた。

 山城権守河村秀高の四男であると、千鶴丸は申し上げた。

 頼朝の官女京極局の子と知って、頼朝はよろこび、
 御前において、加々美次郎長清を烏帽子親としてにわかに元服させ、
 四郎秀清と名告らせた。

 そののち河村秀清は、岩手・志和・稗貫の三郡に所領を賜り、
 志和郡大巻の地に居館をかまえた。

 テーブルの上に、
 岩手の町ごとに彩色された地図がひろがっている。

 冑佛が発見された場所に鉛筆で丸印をつけてあるその地図。

 修験道の霊山である早池峰山の西方、
 花巻市周辺のほんの一地域に、すべての冑佛があつまっている。

 そこが、伝説の若武者、河村四郎秀清の所領だった。

大萱生氏はその河村四郎秀清の末裔だったのです。

(つづく)


2008年10月5日(日曜日)

河村祭(5)

カテゴリー: - kawamura @ 06時58分57秒

「千鶴丸のご子孫ですか?」

その問いかけが呪文のように
八百年のあいだ閉ざされていた歴史の扉を
ゆっくりと開いたのでした。

大萱生(おおがゆう)氏は
「はい」
と幽遠な笑みを浮かべてお答えになりました。

千鶴丸、
初対面のふたりなのに
その名はまるで旧知の友人のように思えたのです。

千鶴丸、
それはこの世のほとんど誰も知るはずのない名、
それこそが大萱生氏と私とを結ぶ
秘密の合い言葉でした。

ところで、みなさんは、
我が家に伝わるちいさな秘仏
「冑佛(かぶとぼとけ)」について
私が研究の途次であることはご承知のことと思います。

大萱生氏の微笑のむこうから、
そのときたしかに
冑佛のかすかなささやきが聞こえたのです。

ここからは、すこし長文ではありますが、
二回に渡って、
拙著『冑佛(かぶとぼとけ)伝説』の一節を引用します。

 十一月二日、
 岩手県の地図をもとめて、冑佛の分布を調べてみると、
 十万分の一の地図の、
 ある一枚にほとんどおさまることがわかった。

 それは花巻市とその東側周辺の地図で、
 西から、清水寺、雄山寺、胡四王神社、中興寺、大迫、石鳩岡、
 以上あわせて八体の冑佛が、
 岩手県中部のほんの一枚の地図に集中して発見されたのである。

 十一月五日、土曜日の午前、
 私は居間のテーブルに花巻市の地図をひろげ、
 花巻市教委からおくられてきた「花巻市史」第二巻と、
「花巻市文化財報告書(第十四巻)」のうつしと、
 さらに大迫町教委からおくられてきた「おおはさまの伝説」のうつしとを、
 それぞれ一枚目をひらいてならべてみていた。
 
 最初は胡四王神社、
 つぎは雄山寺、
 三冊目は亀ヶ森について、
 どれも一頁目の左半分ぐらいから書きはじめられている。

 よくながめて、眼をとじたとき、異様な感じがした。

 ふたたび眼をひらいて紙面をさぐると、胡四王神社の右に、

   氏子  下二牧橋 川村一族

 とある。

 さらにこまかい文字を読むと、

   南北朝の戦に利なく、明徳年間(十四世紀末)南朝側であった
   川村氏は志和の地に落ちのびた。

 と書かれている。

 つぎに雄山寺の記述の右に、

   川村氏は大破していた正運庵を再建し施主となった。

 とある。

 さらに三枚目の亀ヶ森城の右には、

   天正十六年(一五八八)に南部信直が志和の斯波詮直を滅ぼしたとき、
   佐比内の川村秀政は、斯波氏の一族が住む山王海に逃れていった。  

 とある。

 この三部の資料は、意図してコピーされたはずはないのだが、
 いずれにも川村氏についての記述がある。

 二階の書棚に、
 祖父が地元史家からもとめた「川村家の歴史」(川村章一著)があるはずだった。

 私は小走りに二階へむかった。

(つづく)


2008年10月4日(土曜日)

河村祭(4)

カテゴリー: - kawamura @ 07時35分27秒

山門をくぐり石段を登り切ると
ふいに視界が開けました。

境内の奥に視線をめぐらすと、
初秋のやわらかな光のなかに
般若院の本堂が建っています。

私は、
お寺の由緒が書かれた案内板や
大きなカエルの石像とその説明板を
ながめたりしながら
ゆっくりと本堂に向かいました。

受付の前には
お揃いの鶯色のはっぴを着た人たちが
たむろしています。

そのはっぴの背中には
相模河村氏の家紋「丸に違い箸」が
白く染めぬかれています。

受付の前で招待状を広げて
「静岡からまいりました河村です」
と申しました。

「ご子孫の方ですね」

にこやかな和服の女性が近づいてきて
私の胸に
名前の書かれた紅いリボンをつけて下さいました。

着け終わるとまもなく
「こちらへどうぞ」
と元気な女性の声がして控室へ招かれました。

六畳ほどの細長い部屋に
テーブルをはさんでソファーが六つ並んでいて
向かいの真ん中の椅子に
初老の男性がおひとり座っていらっしゃいました。

「初めまして、
 静岡からまいりました河村と申します」

「おおがゆうと申します」

そのとき、
その名前のひびきに
なぜかなつかしい思いがしたのです。

かすかな記憶をたよりに
「千鶴丸のご子孫ですか」
と尋ねました。

その問いかけが
八百年間閉ざされていた
遙かな歴史の扉を開くことになるとは
大萱生(おおがゆう)氏も私も
まだ知るよしもありませんでした。


2008年10月2日(木曜日)

河村祭(3)

カテゴリー: - kawamura @ 06時10分31秒

(写真は山北町丹沢湖)

河村城をとりまいていたはずの酒匂川が
見あたらないのです。

私がそれを問いかけると
運転手は答えました。

「もうずいぶん前に北側の川は埋め立てられて
 南側だけを流れていますよ」

「いつ頃埋め立てたのですか」

「江戸時代より前じゃないのかな」

ということは
私の記憶にある河村城址の地図は
『新編相模国風土記稿』に
載っていた古いものだったのかもしれません。

タクシーは小高い丘を越えて
南側の斜面にある般若院へ向かいました。

ふいに車窓の景色がひらけて
初秋の山北町の街並みが広がっていました 。

山北町は人口1万2千人ほどの町で、
神奈川県の最西端に位置し、西に静岡、北西に山梨県と県境を接して、
丹沢山系に抱かれた広大な森と清流のあふれる美しい町です。

町の中心には丹沢湖があって、
150万人とも200万人とも云われる行楽の人々が
毎年キャンプやハイキングに訪れる観光の名所です。

タクシーは斜面を下る小路にはいって
般若院がもう間近であることを知らせています。

(つづく)


2008年9月30日(火曜日)

河村祭(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時14分41秒

それは不思議な体験でした。

数週間まえに、招待状が届いたのです。

それは河村氏の祖、河村秀高とその末裔の
供養をするという内容でした。

9月27日、土曜日の朝7時に島田を立って、
JR、新幹線、JR、御殿場線と乗り継いで、
9時をすこしまわった頃に山北駅に着きました。

駅に降り立ってあたりを見渡したとき、
幾重にも重なる山並みが
なんだかなつかしく思えたものでした。

というのも
十年以上まえに家族でこの地を訪れたことがあるのです。

金谷河村氏の祖、
神奈川県山北町の河村城址を
この目で確かめようとしてのことでした。

城山の山頂まで登り
いわれのある滝や井戸を見たように思いますが、
その記憶もおぼろになってしまいました。

私はタクシーに乗って、般若院へ、と告げました。

車窓から見あげると、
曇りがちの空から
ときおり思い出したように陽が差すような、
おだやかな日でした。

酒匂川を目でさがしたのですが
どこにも見あたりません。

城山を川がとりまいていたはずだけど、
と運転手に問いかけました。

(つづく)


2008年9月27日(土曜日)

勘違いなさらぬように

カテゴリー: - kawamura @ 21時27分48秒

すこし過激な発言がつづくからといって
どうぞ勘違いなさらぬように。

私はコミュニスト(共産主義者)ではありません。

むしろその対極にいます。

なぜなら私は
伝統的文化財建造物の継承者だからです。

(つづく)


2008年9月23日(火曜日)

河村祭

カテゴリー: - kawamura @ 06時30分04秒

(河村城址案内図を背に立つ若き日の私)

神奈川県山北町から
河村祭への招待状が届きました。

河村城主河村秀高の菩提寺般若院を会場として
全国の河村一族が参集するのです。

今週末がとても楽しみです。

過日、衆議院議員の河村たかし氏からも
河村一族の歴史についてお問い合わせがありました。

なんだかにわかに歴史の風が吹いてまいりました。

私もいくばくかの資料を携えて
参会してまいります。

以下、招待状の内容です。

***********************

河村祭の開催について

拝啓 初秋の候、
貴殿にはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。

さて、河村城址保存会では中世から戦国時代にかけて
河村氏の居城として栄えた郷土の歴史的遺産である
河村城址を後世に継承し、
併せて河村一族と
落城により最期を遂げた将兵の霊を慰めるため
下記のとおり河村祭を開催いたします。

つきましては、ご多用とは存じますが
万障繰り合わせの上
ご臨席いただきたくご案内申し上げます。

敬具

平成20年9月吉日

河村隆夫殿

河村城址保存会
 会長 石渡三郎

***********************


2008年9月17日(水曜日)

地の神様を再建しました

カテゴリー: - kawamura @ 07時26分51秒


(一番右は再建前の写真です)

地の神様を再建しました。

梅の木オーナーの皆さまのおかげです。

神主様にお願いして
祝詞をあげていただくことにします。

そのときには、またご報告いたします。

社殿のに棟木に
「再建時 明治廿九年七月 大工 金谷町河原藤村伊之吉」
と墨書がありました。

これは登記簿謄本を調べてみないと正確には分かりませんが、
地の神様はもともともうすこし道の上にあって、
いつの頃か、そこから現在の屋敷内へ移されたと
父は書き残しています。

というのは、
現在も河村家の土地は屋敷から市道沿いに上の方までのびていて、
いまは他家の土地とまだらになっていますが、
おそらく五百年まえは一枚の所有地であったのだろうと思います。

その北端に、地の神様は建っていました。

明治廿九年の再建時に、現在の地に移されたものと思います。

ご神体はとても不思議なものですが
もちろん公開はいたしません。

祠の扉をあけて耳を澄ますと、
ほんのかすかに、
遠い昔の、誰かの声が聞こえてきます。


2008年8月22日(金曜日)

地の神様再建

カテゴリー: - kawamura @ 09時24分56秒

地の神様を再建しています。

朽ち果てて、崩れ落ちそうになっていたから、
いよいよ新しく建て直すことにしたのです。

地の神様は、もとはもう少し坂の上にあったものを、
いつのころかこの敷地内に移しました。

父の残した記録のなかに、
その辺のいきさつが書かれているかもしれません。

でも今は仕事場にいますので、
その記録を見ることはできません。

<再建中の地の神様の写真は後日UPします。
 いま夏期講習中でとても忙しいのです>

(つづきは後刻)


2008年6月14日(土曜日)

来客

カテゴリー: - kawamura @ 08時02分53秒

昨日、静岡から新聞を手に、お見えになりました。
来年度の梅の木オーナー申し込みのために、わざわざお越し下さったのです。
多くの方々に支えられて、私は幸せです。

というのに、今朝は、二日酔いにて、沈没 :oops:


2008年6月4日(水曜日)

『トゥープゥートゥーのすむエリー星』

カテゴリー: - kawamura @ 06時17分17秒

『トゥープゥートゥーのすむエリー星』

茂木健一郎 作
井上智陽 絵

毎日新聞社

(以下の記事は、
 茂木健一郎先生の「クオリア日記」より転載しました)

********************

私が23歳の時に、毎日小学生新聞に
連載されたSF童話です。

全体が高層ビルに覆われ、
地面がなくなって未来の地球に
住むまさおが、ジャングルだらけの
エリー星に旅立ちます。

そこで会う不思議な動物、
トゥープゥートゥー。

トゥープゥートゥーには、なにか
重大な秘密があるようなのです。

腕利き記者、のりこと解き明かす、
その秘密とは。

イラストを描いて下さったのは、
毎日小学生新聞連載時と同じ、
私の小学校、中学校の同級生の
井上智陽。

http://white.ap.teacup.com/chii/ 
どこかなつかしい、
「明るい未来」を描いた
元気になる童話です。

ぜひお読みください!

茂木健一郎拝

********************

以上「クオリア日記」をコピーいたしました。

私がこの本のことを知ったのは数年前のことでした。
それをずいぶん前に先生から直接お聞きしたのか
あるいは井上智陽さん

(この方は先生の幼なじみのイラストレイターで、
 茂木先生の小林秀雄賞受賞記念パーティーの二次会のとき
 ちょうど私の前の席に座っていた方です)

から聞いたのかそれは記憶にありません。

いずれにしても「栴檀は双葉より芳し」で
先生が23歳の時に
毎日新聞の懸賞小説に受賞して
毎日小学生新聞に連載されたのです。

先日(4/29)
六本木で先生と白洲信哉氏のトークショーがあったとき、
仕事を終えたその足で六本木に向かいました。

到着したときはすでに祭りのあとで、
残念でしたがそのまま帰ろうとして
茂木先生にその旨メールいたしました。

先生からすぐにお返事が来て
maxivinというお店にいるから来て下さい
というお誘いがありましたので
身の程知らずの私は
ふたつ返事でお店に向かいました。

茂木先生、白洲信哉氏、電通の佐々木さん、
各出版社編集部の皆さんがいらっしゃいました。

みればソムリエはあのプロフェッショナルに出演していた
世界的なソムリエ佐藤陽一さんではありませんか!

私はその末席に座って、
ただおずおずとなれないフォークをあやつって
食事をしておりました。

もうこういうときにはひたすら飲むしかありませんので
ワインをがぶ飲みしておりました。
(最後にいただいたワインが、とびっきりおいしかったのを憶えています。
 おそらく、とびっきり高価なのでしょう)

その席で『トゥープゥートゥーのすむエリー星』の見本を拝見しました。

大場葉子さん(NHK出版の大場旦さんの奥様)から
はじめて茂木先生にその本が手渡される瞬間を見たのです。

私にも回ってきて
出版される前の本を初めて手にしました。

その夜のことは、
またべつの機会に書こうと思います。

白洲信哉氏の本にもサインをいただきました。

とても楽しい夜でした。

茂木先生有難うございました。

ただ、私は高価なワインを飲み過ぎて
ゲーテ編集部の額田久徳さまと
電通の佐々木厚さまには
たいへんご迷惑をおかけしたのではないかと思います。

こころからお詫び申し上げます :cry:

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月23日(金曜日)

郡中議定(1819)その3

カテゴリー: - kawamura @ 05時58分46秒

文政二年の「倹約取究」のような郡中議定をみると、
近世後期には
すくなくとも私が思っていたよりも
はるかに民主的な政治形態が成熟していたようです。

西は天竜川から東は大井川までの地域が
やがて明治期の政治的区域に受け継がれていく様子を
我が家の古文書からもうすこし読み解いてみましょう。

文政二年の「倹約取究」にある村名は下記の通りです。

増田村、上西郷村、・・・・

また明治期の第三大区は下記の地域です。

このように、

(とまあこんなふうに書きたいのですが、
 時間がありません。
 つづきは、
 帰宅してから書くことができれば書きます)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月22日(木曜日)

郡中議定(1819)その2

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分33秒

昨日に引きつづき、
金谷町史通史編本編より抜萃します。

********************

惣代の者たちは、
先の河村家や鈴木家のように一村の村役人というだけでなく、
地域における用水組合や行政的な管理の面で
きわめて横断的な活動を展開し、
小地域の顔となるような存在であった。

彼らは経済的な土台もしっかりしていたが、
そうした者たちが七郡八九五か村の代表として参会し、
より大きな地域の利害をめぐって協議したのである。

この議定は、
文政二年七月に公儀から物価抑制の触れが出され、
これに呼応する形で同年九月に
一郡もしくは半郡単位での小規模な枠組みで郡中議定がなされた
(城東郡のうちの四一か村が集結して議定が行われ、
 二二項目にわたる物価下直への対応策が申し合わされた)後、
そうした経験の積み上げと総括のなかで、
翌十月に締結されたものである。

議定最期の締結文言には、
「今度天竜川より大井川界までの者が集まって
 相談し決定した以上は、
 違約のないようにしなければならない。
 何か問題が起きたときには、
 惣代の者たちに回状を送り早速参会する」
と記されている。

つまり、違約出来の状況に対して迅速な対応が準備されており、
こうした郡中議定が臨時的なものではなく、
一定のつながりの上に
恒常的に組織されていたものであることが理解される。

近世後期には、
遠州の東部・中部は既に
社会的・経済的かつ「行政」的に
一つの地域として認識されており、
それを運営する地域の「代表」として
郡中惣代らが集結し、
地域の方針を立てていたのである。

(金谷町史通史編本編 題3編 近世 p426・427)

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月21日(水曜日)

郡中議定(1819)

カテゴリー: - kawamura @ 07時05分54秒

(図3−7 郡中議定村々と組合議定村々)
金谷町史通史編本編より、
文政二年(一八一九)の郡中議定について、抜萃します。

********************

文政二年(一八一九)十月、
天竜川から大井川まで
現在のいわゆる中東部遠州地域七郡八九五か村の者たちの総代が参会し、
「倹約取究」なる郡中議定をまとめ上げた。

この議定領域は
図3−7に示した通りであり、
畿内の国訴(こくそ)の議定領域にも匹敵するような
広域的なものであった。

惣代は六五か村から七四名出ており、
町域からは大代村の河村市平と
牛尾村の鈴木彦右衛門が出席している。

ちなみに、
この議定史料はこの河村家に残されたものである。

この議定領域は、後の明治維新直後、
明治五年(1872)六月に設定された大区小区制の枠組と
直接的な連関を有している。

すなわち、
この領域は浜松県第二大区および第三大区の合同領域とほぼ符合し、
逆に遠州からこの領域を除いた地域は
浜松県第一大区とほぼ合致するのである。

明治四年十一月に開始された区制と
その後に展開した大区小区制の枠組は、
戸籍編成上の必要から近世期に展開した行政的枠組みを無視して
かなり機械的かつ強引に作られたように理解されてきたが、
むしろこうした郡中議定などの枠組みに規定されて存在したのである。

(金谷町史通史編本編 題3編 近世 p426・427)

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月20日(火曜日)

塾30年

カテゴリー: - kawamura @ 06時55分38秒

島田進学スクールは
昭和54年に開校しましたので
今年の冬で
30回目の冬期講習を迎えることになります。

昭和54年というと私は27歳、
塾を開くために
浜松の塾へ勤めてその運営方法を学んでいたころでした。

塾の本質とは何なのかを学びとろうとしていたのです。

私は大学で物理化学を学び
専門は理系の教科ということになるのですが、
じつは小説家をめざしていた時期がありましたので
人間について考えるところも多かったのです。

理系の教科、
特に数学と物理は数式で表現されるものですから
これは日常の人間の言葉ではありません。

数式が語りかけてきたり
そこに美を感じられるようになるのには
よほどの鍛錬が必要です。

その点文学は、
だれにでも馴染むことのできる日常の言葉で書かれていますから、
最初はその美しさや意味を感得するのに
あまり努力を要しません。

もちろんその真意を理解するのには
あるいはそれを表現するためには
一見だれにでもできるように見えるがゆえに
深い苦悩を伴うことは
やがてひとしなみに痛感するところでしょう。

私はそういう意味で、
恩師岡不二太郎教授の薫陶を受けたおかげで、
学問のあらゆる領域に興味を持ち
理系や文系の境界を越えて学ぶ姿勢を
身につけていました。

私が始めようとしている塾が
成立するかどうかは
人間としての根本の姿勢にあると考えました。

昭和54年の秋に
ひと通り塾経営の手法を理解させていただいて、
浜松の塾を退職し、
島田進学スクールの開校準備をはじめました。

教室の形はできましたが
まだ生徒は一人もいません。

私は毎日毎日
学年ごとに色分けしたゼンリンの住宅地図を片手に
島田の街を一軒一軒
ガリ版刷りのパンフレットをもって
挨拶にまわりました。

「駅前で塾を始めます。
 よろしくお願いします」

だれも私を知るものはなく、
最初の一か月は、
一本の電話もかかってきませんでした。

塾は、生徒がいてはじめて存在しているといえるのですから、
そういう意味では
まだ島田進学スクールはこの世に誕生していませんでした。

夢だけがあって
現実にはまだひとりの生徒もいなかったのです。

しかしこの姿勢、
秋雨の降るなかを毎日毎日挨拶に歩いた情熱が、
私の塾を30年間支える根幹になったのです。

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年4月24日(木曜日)

自立する文化財(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時28分11秒

きのうの記事は
静岡新聞論説委員
榛葉隆行様がおみえになったことを書きました。

おだやかな紳士で
静かな語り口でしたが
頭の回転が非常に速くて
会話の切り替えについていくのがやっとでした。

ときおり微笑みをうかべたときの、
慈愛にみちたまなざしが思い出されます。

さてきのうの最後の一節からはじめましょう。

**********************

荒れ果てて、
分け入ることも困難なほど草や灌木の生い茂った廃園と、
いたるところ崩落した建物群のなかに、
ひとり文化財建造物だけが、
無傷で立っている。

そのようなことが、あり得るのでしょうか。

そのようなことが、じつはあり得るのです。

この「御林守河村家住宅」も
私が放擲すればいまからそのようになるはずです。

でもそれはできません。

(つづきは後刻)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年4月22日(火曜日)

この花の名前を教えて下さい。

カテゴリー: - kawamura @ 09時30分11秒

敷地内の灌木に咲く花です。

この花の名前をご存じの方は
いらっしゃいませんか?


2008年4月16日(水曜日)

文化を愛する心

「梅がほしいんじゃないんです。
 文化財のお役に立ててほしいんです」

「梅は1キロもあればいいんです。
 この里山の風景をまもってほしいんです」

たくさんの来客やメールや電話などから
絶え間なくその言葉を聞きました。

日本の文化や風景を愛する心は
まだ命脈を保っていたのです。

そんなものは消滅したのだと
なかばあきらめていたのに、

「たいへんでしょう。
 がんばって歴史を守って下さい。
 私たちが応援しますから。
 
 いちど失われたら、
 二度と還っては来ないんですから」

その言葉に、胸が熱くなりました。

多くの方が

「草刈りのときにはボランティアで参加しますよ」

そうおっしゃって下さいました。

この滅びゆく国に
だれもが愛着を持っていると知りました。

都市に仕事を求め
都市に骨を埋めることになった
嘗ての田舎の少年少女たちは、
心の底で
故き良き日本を求めていたのです。

廊下の風鈴にさわるひとがいました。

目をほそめて
しばらくその音に聞き入っていました。

風鈴の
音と音との合間の
静寂のなかで
おさないころの
自分の家に帰っているかのようでした。

国が5000万人の無辜の国民を欺いても、
国民は黙って日々の暮らしをつづけています。

この国の非道さに
もう疲れたはずなのに
我が家にお見えになった多くの方々は、
鶯の声に驚き
そしてそのしずけさに感嘆し
この国の里山のたたずまいを深く愛しているようでした。

これこそが
日本の伝統文化を守るこころなのです。

このなにげない温かな心が
本当の意味での「文化を愛する心」なのです。

文化財保護について語り、討論し、
そしてその長い道のりの果てに
ようやく多くの理解者に出会うことができました。

心から感謝申し上げます。

文化財保護コメントバトルに参加して下さった多くの方々

梅の木オーナー制を提案して下さった諸田さま

そして「梅の木オーナー」の募集を
世界に呼びかけて下さった茂木健一郎先生
(世界に、というのは、
 茂木先生の「クオリア日記」の呼びかけに応えて
 ニューヨークからもお問い合わせがあったのです)

新聞記事に取り上げて下さった静岡新聞島田支局の内山さま

そしてなにより
「梅の木オーナー」にお申し込みいただいた多くの皆さま

寛政五年に建てられた「御林守河村家住宅」を中心にして
この屋敷やそれをとりまく里山の風景を
どのように維持保存したらよいのか
それについて様々な提案をし参加して下さった多くの方々に

ここに謹んで感謝の意を表します。

しかしだからといって、
全国から寄せられた温かいエールに
甘えてばかりはいられません。

皆さまのご期待に添うべく
私と妻と娘と、力の限り努力いたす所存です。


2008年4月4日(金曜日)

茂木健一郎先生序文『蒼天のクオリア』


いまからちょうど4年前の
4月4日のことです。

わたしが初めての自伝『蒼天のクオリア』を書いて、
2004年の4月に
茂木健一郎先生に序文をお願いしたところ
こころよく引きうけて下さったのでした。

今朝、その日のことを思い出しました。

あれから4年しかたっていないのに
ずいぶん長い時間が流れたように感じます。

あの日のことを、
茂木先生はブログに書いて下さいました。

2004年4月4日の「クオリア日記」から転載します。

http://www.qualia-manifesto.com/qualiadiary/qualiadiary20.txt

********************

2004.4.4.

 珍しく、起こったことを淡々と書こうと思う。

 土曜ではあるが、お仕事である。
 朝10時、丸の内ビルディングのカンファレンス
ルームへ。
 (財)社会経済生産性本部主催で、
 一橋大学の野中郁次郎さんがオーガナイザーの
「日本型独創経営を考える会」
で話をさせていただくために出かけたのである。

(略)

 そこから歩いてすぐの東京ステーションホテルで、
河村隆夫さんとお会いする。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~nazoden/

 河村さんは、静岡県金谷市の旧家の当主で、
「兜仏」の研究で知られる。
 私はクオリアの会でお知り合いになったのだけども、
 最近河村さんが自伝的御著書をお出しになるこ
とになり、
 その序文のようなものを書かせていただいたので、
その件について一つコーヒーでも飲みながら
お話しましょう、ということになったのである。

 河村さんの娘さんが東京の大学に入学
されるというので、その記念すべき日でもあった。

 河村さんはかの地の名士なので、
なんとか総代とか、世話役とか、いろいろ
やらされて大変のようであった。
 そういうことを書いてみたら面白いんじゃ
ないですか、と言ったら、
 いや、そうしたら、地元の人たちとの
関係が壊れますから、
 表現者というのは、そういう人間関係を
壊してまで表現するものなのでしょうが、
私はそこまではやる気がない、
 と言われたのだった。
 
 「赤目四十八滝心中未遂」 の車谷長吉さんは、
すべてを書いてしまったわけですけど・・・。

 新幹線に乗るべく、自動改札を入っていく
河村さんの「もこっ」とした背中を見送りながら、
私は「坊ちゃん」の赤シャツ問題のことを
考えていた。

*****************

2004年の4月というと、
私が『脳とクオリア』を読んで衝撃を受け、
初めて茂木先生にお電話したのが1999年ですから、
それから5年後のことです。

それからクオリアMLのオフ会などで何度かお会いして、
上の日記にあるように東京駅でお会いした2004年4月3日は、
先生が『脳内現象』発表する2か月まえ、
脳と仮想』で小林秀雄賞を受賞する1年半まえ、
またNHK『プロフェッショナル』キャスターをつとめられる
ほぼ2年前のことになります。

さらに『脳内現象』が日本文芸大賞を受賞したことは
先日のブログで書きました。

あの日からちょうど4年、
茂木健一郎先生は天馬空を行くが如きご活躍です。


2008年4月2日(水曜日)

3年日記

カテゴリー: - kawamura @ 08時41分09秒

2006年4月1日
クオリア素子

2007年4月1日
告白

2008年4月1日
国立の奇跡

これは、茂木先生クオリア日記
4年日記」のパクリです。


2008年3月28日(金曜日)

桜とはじめてのオーナー様

彼は20代の好青年でした。

名古屋からはるばる車で来てくれたのです。

昨日、
掛川の彼女を乗せて、
山里の梅園を訪ねてくれました。

おりしも先駆けの桜が咲きそめ、
白い木蓮が満開の朝でした。

青年は
私の説明に熱心に耳をかたむけ、
花々の美しさを褒め、
古きものに津々たる関心をしめしていました。

裃(かみしも)のことを話していると
「○○絞りですね。
 私は絞りの勉強をしたことがあるんです」
と応えました。

○○のところを、忘れてしまったのです。
はじめて聞く絞りの名前でしたから。

でも、
文化財住宅には、盗難の心配もあって、
あまり良いものは置いてないのです。

それでも青年はひとつひとつのもの、
鉄瓶や炭壺や長火鉢の角の継ぎ目なんかを
目を輝かせて見ていました。

彼女は、
そんな青年をまぶしそうに眺めていました。

晴れた春の日でした。

廊下の陽差しが照りかえして、
純朴そうな青年の横顔や、
まだおさなさの残る女性の瞳に
あわいひかりを映していました。

しかし
青年の純真さは鏡のように、
家を守ることに疲れて
ゆがんでしまった私を写しだしていました。

それに気づいて、
私は悲しくなりました。

会話がとぎれると、
鳥の声と
遠くの川のせせらぎが聞こえるだけになりました。

やわらかな風がきて、風鈴がちいさくなりました。

それはだれも気づかないほど、かすかな音でした。

しずかな時が流れました。

そうしてしばらくして
私のゆがみもなやみも
ゆっくりと溶けはじめ
やがてきえてゆきました。

これで良かったんだと思えるようになりました。

谷合の村で、
古びた家を守り通すことにも、
なにかしらの意味はあるのでしょう。

この青年と少女が、
このしずけさを、
この自然を、
そしてこの古びた家と
それを継いでゆく者たちの物語を、
はるかな旅の果てに
歓びを全身にかがやかせて耳かたむける姿は、
私に生きている意味を与えてくれました。

ありがとう、若きオーナー様。

きょうは山菜があまりなくて、
わずかな時間しかご案内できませんでしたが、
次回は
梅取りの6月上旬になるのでしょうか、
きっと訪ねてきて下さい。

きょうお話ししたように、
山桜も、新緑の谷も、ホタルも、月も、銀杏も、
すべての山里の光景を楽しむことのできるこの地へ
何度でもお越し下さい。

心からお待ちしています。


2008年3月25日(火曜日)

茂木先生「第25回日本文芸大賞」受賞!

カテゴリー: - kawamura @ 11時08分51秒

脳内現象』が、
「第25回日本文芸大賞」を受賞しました。

『脳内現象』は、
もちろん茂木健一郎先生のご著作です。

昨年末の忘年会の帰りに、
『脳内現象』を編集されたNHK出版の
大場旦さんご夫妻とタクシーに乗り合わせて
偶然その本の話に花が咲きました。

「あの本はとても好きです」

と申しましたら、
大場さんはとても喜んで下さいました。

はじめて『脳内現象』を読んだとき、
私がどれほど感銘を受けたか、
その証拠をお見せしましょう

それは茂木先生のご紹介で入会したばかりのころの
mixiの日記です。

********************
「脳内現象」読了 2004年06月22日12:13

科学を支える「神の視点」など、
私のいだいていた多くの疑問が、
ほとんど解決された。

もちろんクオリア問題の核心は、
まだ未解決にせよ、
「メタ認知システム」を支える
「不変項ニューロン」群の予言は、
深い衝撃をうけた。

なんども読み込み、理解したい。

このような卓越した知性と、
同時代を生きていることを幸せに思う。

********************

「山寺からの景色」は
秀逸な文学作品の輝きがあって、
それが「アウェアネス」や
「メタ認知」などのクオリア概念などとともに、
繰り返しこの本の中に登場してきます。

いま読み返しはじめたら
この本の中に
茂木先生のテーマのほとんどが
ぎっしりと詰まっている感じです。

『脳とクオリア』『脳内現象』『「脳」整理法』
この三冊をもういちど読み直そうと思っています。

茂木先生、大場旦さん、
「第25回日本文芸大賞」受賞おめでとうございます。


2008年3月24日(月曜日)

花便り

カテゴリー: - kawamura @ 07時37分44秒

きのう、家のまわりのの花々を撮りました。

今日はあいにくの雨ですが
きのうは春の風が吹いていました。


2008年3月23日(日曜日)

桜と鳥と

カテゴリー: - kawamura @ 07時27分23秒

彼岸の中日が雨だったので
お墓参りを昨日いたしました。

この春大学を卒業するふたりの娘たちは
墓地のなかに立つあじさいの剪定をしていました。

妻に聞くと
春の彼岸には毎年そうしていたというのですが
どうも私には覚えがありません。

ひとりは公務員に、
もうひとりは大学に残って歴史研究の道へ進みます。

やわらかな陽差しにあじさいの新芽が輝いています。

墓石は十五ほど並んでいて、
そのまわりを
私は竹箒で掃ききよめ、
妻はそれぞれの墓の前にお花を供えています。

なんでも仏壇に多めの花を供えてしまったので、
母が植えた水仙の花を切りとってきて
まにあわせたというのです。

居並ぶ墓列のまえの、
一段低くなったところに、
ヒロさん(松浦廣吉)と呼ばれていた下男の墓と、
我が家に代々仕えていた家のお墓があります。

私はそのまわりも掃ききよめます。

ヒロさんの生い立ちなどは
あまりくわしくは聞いていませんが、
妻帯せずに最後まで我が家に尽くしてくれました。

ヒロさんを語るものといえば、
色あせた写真が二・三葉のこされている程度です。

もうひとつのお墓には、もう訪ねる人さえおりません。

そのとき、桜のこずえで、鳥の声がしました。

私たちは手をとめ、耳を澄ませました。

風はやみ、しずかな陽差しが降っています。

それは墓守桜とよばれる大きな桜の頂上から
聞こえてくるようです。

よく透る声で、
遠くの榧の木にいるもう一羽の鳥と
鳴きかわしています。

私は、
父と母が鳥に姿をかえてきてくれたと気づきました。

私の好きな水仙を供えてくれたの、
ありがとう、と母が言っているようでした。

春の陽差しの降るなかで、
妻や娘たちがそれをどのように聞いていたのかは
わかりません。


2008年3月21日(金曜日)

『谷島瑤一郎初期作品集』13

左から、『洋子からの手紙(前編)』、『洋子からの手紙(後編)』、『幻想としての初期万葉』が掲載されました。

初期万葉の魅力にとりつかれたのは
近藤潤一先生の講義を聴いてからのことでした。

今朝はじめてググってみて、
近藤先生の偉大さに驚きました。

http://www.asahi-net.or.jp/~gv2k-smz/Juniti/Juniti.html

<昭和6年2月1日函館生まれ。本名 近藤潤一。
 北海道大学文学部教授・教養部長・付属図書館長、
 平成6年定年退官し、北海学園大学教授。
 北海道大学名誉教授。
 日本文学(中古・中世)関係著書論文多数。
 昭和21年『壷』入会、23年同人、斉藤 玄個人冊子『丹精』に参加、
 48年『壷』復刊編集同人、50年壺中賞準賞受賞、
 55年『壷』編集長、
 60年素玄賞受賞、
 平成3年『壷』主宰、朝日新聞北海道版俳壇選者、
 俳人協会評議員。句集『雪然』『秋雪』
 著書『玄のいる風景』『北の季寄せ』。平成4年鮫島賞受賞
 平成6年9月16日没。享年63歳。正四位勲三等旭日中綬賞。>

私がお会いしたのは、昭和40年代の半ばでしたから、
そのあとずいぶん活躍されたのだなあ、
と胸に迫るものがあります。

当時は教養にも教授室をもっていらっしゃいましたので
近藤先生のお部屋には何度も通いました。
初期の小説はほとんど目を通していただきました。

しずかな、透明な思索の気配のなかに
峻烈な精神が棲んでいるという感じの部屋で、
私はその空気を吸いたくて
足しげく通ったというところもあるのです。

田舎育ちの私がはじめて出会った文学者でした。

大学を留年して文学修行に東京へ行った顛末は、
拙著『蒼天のクオリア』に書きましたが、
意気盛んに出発するときも
挫折して帰ってきたときも
近藤先生の部屋を訪ねました。

北方文芸にはじめて作品を発表した日のことは
忘れません。

それは雪の日でしたが、
昼食にいったクラーク会館の入り口で、
思いがけず近藤先生とお会いしたのです。

「うまくなったね。いい作品でしたよ」
「ありがとうございます」

それだけの会話でしたが、
積みかさねた日々の感慨が
その底に流れていました。

師弟の会話、という感じで、
忘れられないのです。

何よりも忘れられないのは、
私が卒業して就職し、
やがて父が倒れて帰省した年の正月でした。

懐かしくて、
年始の挨拶に電話したとき、
「早く世に出て下さい」
そう言って下さいました。

やさしい静かな声で
「早く世に出て下さい」
そう言って下さいました。

私が塾をはじめたばかりのころでした。

夜は塾、昼は高校の講師、
そして休日は農作業をしていたころのことです。

「はい」と答えましたが、
今でもその約束を果たしてはいません。

『幻想としての初期万葉』は
近藤先生の授業の課題であった国文学のレポートです。

ですから、
谷島瑶一郎ではなく本名で書かれています。

********************

『幻想としての初期万葉』

              河村 隆夫

 大和には 群山ありと
 とりよろふ 天の香具山
 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ
 海原は 鴎立ち立つ
 うまし国ぞ あきづ島 大和の国は

 この歌を読む度に、
 私は不思議な程鮮やかにレームデンの「ウィーン」と云う幻想画を思い浮べる。

 春のウィーンの遠景の、
 そのほとんどを明澄な空が占め、
 中央に奇妙な姿の鳥が数匹舞う。

 安らぎと希望が仄かにただようているかのその絵に、
 私はふと云い知れぬ清冽な水の音を聞いたやうに思った。

 それはむしろ、ふるえる朝日の切口、
 今しも零れ落ちるかの、夜露の粋美な果敢なさを思わせる。

 ”原光景”とでも云うに相応しかろう。

 しかし何故、遙か古の初期万葉の世界が、
 あれ程明晰に、現代の最先端である幻想画を私に彷彿させたのか。

 それは時折襲ってくる海への郷愁に似た不可解さを伴っていた。

 私達を取巻く現実は、夥しいイメエジの軍勢に侵蝕されている。
 その纏りつくイメエジの触手を断ち切ろうと、
 現代の最先鋭の幻想画家達は、好んで夢を画題にすると云う。

 夢の世界には価値感が無く、
 丁度子供が砂浜に光る石を見つけた時の喜びのような、
 何ものにも囚われぬ素朴な”原始の心”がそこにはある。

 そして、幼児の持つ”原始の心”は、
 歴史の幼児期である初期万葉世界の人々の心に通ずる。

 彼等画家達は、
 我々の意識の遙か奥底に潜む、その”原始の心”によって、
 存在の秘密に逼ろうとするのであろうか。

 そしてそこに、
 イメエジに侵されぬ”原光景”を見ようとするのではなからうか。

 又、万葉の天皇の眼に映った世界は、
 正にその”原光景”ではなかったのか。

 何故なら、彼等の心こそが、”原始の心”だからだ。

 存在そのものを見透かすことのできる”原始の心”は、
 私達の心にあっては無意識の中の幼児精神であり、
 それは夢となって現れ、
 又、歴史的には、初期万葉世界の人々の心であった、と私は考える。

 舒明天皇の御歌は、
 こうして私を幻想的な”原光景”の世界へと誘ったのである。

 しかし”原光景”が最早、幻想でしか無いとは、
 何と云う奇妙なパラドクスであらう。

 又私は、万葉の主人公達の激しい主格が、
 私の観念も情緒も一足跳びに跳び越へて、
 剥き出しの顔を、ぬっと差し出すのを感じた。

 彼等には観念も情緒も無く、
 その流れを遡った源泉のみがあるらしい。

 それはあまりにも透明な、清水の結晶のような泉である。

 その張り詰めた水面には、在るがままの総てが映し出されている。

 そして、精神と呼び得る否やも分らぬこの清絶な主格の裏に、
 微かな、しかし鋭い血の匂を私は嗅いだ。
 偉大なる殺戮者の匂を。

 それは丁度、幼児の精神の孕む、
 無垢なるが故の残虐さに対比されよう。

 そして又、その血の匂、死の匂は、
 幻想画の中にも漂うているのである。

 現代からイメエジを悉く払拭してゆくところに現れる”存在の秘密”。
 ”原光景”への狂ほしい程の希求。
 そしてその、存在の極に潜む、死。

 純粋な”存在”とは、人間にとって”死”ではないか。

 万葉の人々の清明さが、
 その純粋な”存在”に、今しも蝕まれんばかりの、
 絶妙な危険を孕んでいるように私には思われたのである。

─幻想としての初期万葉─


2008年3月20日(木曜日)

『谷島瑤一郎初期作品集』12

小説を書いていた二十歳のころ
世界のすべてを理解しているというふうな
お馬鹿さんでした。

むしろ還暦近いいまのほうが迷いの中にいます。

悟りなんかはるか彼方にいて、
そ知らぬふりをしている感じです。

知人が言いました。

「波乱の人生なんか求めちゃいけない。
 求めなくても、 
 想像をこえた波乱がむこうからやって来る」

最後まで、
修行僧の覚悟をもって生きていこうと思います。

そういうとき
二十歳のころの
愚かな天狗だった自分を振りかえってみるのも
一興です。

さて、
3月12日の日記に引き続き、
今日もまた少年の挫折と再生の物語、
『波』を抄出します。

********************

  『波』 (抄・21歳)

                  谷島瑶一郎

 窓に、空をすべる鴎がみえた。
 ぼくはあわてて、つぎの停車を告げる、白いボタンを押した。

 やがて車が止まって、海のみえる町に着いた。

 この町は三度目だから、
 今度は、つよく鼻に匂うのが潮の香であると分った。

 うす青い排気ガスのなかにバスが走り去ると、
 胸の湧くような潮風のなかを、
 記憶になつかしい家々の立ちならぶ砂の道に向って歩きはじめた。
 晩夏の、硫黄の燃えるような光をうけて、
 家なみのうらに盛りあがる丘の緑が、
 空に染めぬいたような異様な美しさを見せている。

 通りには一人もいない。

 町は変っていなかった。

 ぼくは記憶のスクリインはすべりこんでゆくという期待に、
 胸があつくなって、足が止まった。

 十歳の夏、あのトタン屋根の上に立ちはだかっていた、入道雲。
 庭の芝生に、いちめんの青い花がゆれていた。
 まぶしい潮風。
 まつ毛に、ひかりがやさしくからみついて、
 僕は笑うように眼をほそめた。

 軒さきに煌めく、緑の、大きな硝子玉。

 『おかあさん、これ、なに?』

 『浮子(うき)よ、網につける、う、き』

 空を背に、母の白い顔と、ちいさなぼくが映っていた、
 緑の、大きな硝子玉。

 鴎の呼びあう声がきこえる。

 昔と変わっていない。
 だが、それはあり得ないし、
 そうだ、あってはならない。

 ぼくは、ポケットのナイフをつよく掴んだ。
 象牙の感触が、汗ばんだ指につめたくしみて、心地よかった。

 道が白くつづいている。
 砂の道が、左に折れて、家なみにかくれたところで、海に会える。

 ぼくは歩きはじめた。
 靴のそこに、砂が灼きついてくる。


2008年3月19日(水曜日)

まっくろくろすけのこと

それはととろにでてくるあれのことです。

梅の木オーナーのブログに

「島田市指定文化財「御林守河村家住宅」を
 無料でご案内いたします。

 マックロクロスケが住んでいます。
 まえもってブログをお読みいただければ、
 いっそうお楽しみいただけると思います」

と書きましたら、

「河村家のまっくろくろすけの事
 もうすこし詳しくブログで読めますか?

 5歳になる娘が喜ぶだろうと思いまして。」

とお問い合わせがありました。

きょうは
まっくろくろすけのことをお話しします。

家の写真はブログのなかにも
HPにもございますのでどうぞそちらをご覧下さい。

(「御林守河村家住宅」の紹介TV番組    

それでは、まず、古い家を思い浮かべてみて下さい。

それは西洋のものでも日本のものでもかまいません。

ホラー映画にあらわれるあんな感じの建物がいいでしょう。

そこにはなにかが棲みついているように感じませんか。

得体の知れないなにか、
形をもたないなにかを感じませんか。

建物自体が、生きているようなあの感じ。

柱の影に、誰かが立っている気配を。

たしかにそれは、
なにかが棲みついていて、
闇にひそんで私たちを待っているのです。

私はそういう家で生まれ、育ちました。

闇にひそむもの、
それはしかし恐ろしいものとはかぎりません。

座敷わらしのようなかわいい姿をとることもありますし、
ときにはまっくろくろすけのすがたで
私たちを楽しませてくれることもあるのです。

妻はいつも歎いています。

なんど掃除しても
畳の上に
まっくろくろすけののこしたすすのようなものが
おちているのです。

それは私たちのうしろへ音もなく舞いおり
かすかなかぜにのって
なんどのやみのほうへきえてしまいます。

(それはたんに屋根裏のすすが
 まいおりてくるのかもしれませんけれど(笑))

これを書いているとき、
まさに今、午前5時、
裏山の闇から
私を呼ぶようなかん高い鳴き声が聞こえています。

だれが呼ぶのでしょうか?

見に行ってきます。


2008年3月16日(日曜日)

「クオリア日記」に梅の木

カテゴリー: - kawamura @ 10時35分38秒


茂木健一郎先生が
クオリア日記」で梅の木オーナー募集をして下さいました。

しかも写真入りで。

それは、東京芸術大学での先生の講義のあと、
先生といっしょにお酒を飲んだときのワンショットです。

茂木健一郎先生も
梅の木オーナーに申し込んで下さいました。

一年間に一万円で、
梅の木のオーナーになることができます。

オーナーは自動的に
「御林守河村家を守る会」の会員として登録され、
河村家周辺の里山を楽しむことができます。

春が近づいて、山菜採りのシーズンになりました。

茂木先生もぜひ遊びにいらして下さい。

茂木先生、
このように大きく取り上げて下いましたことを
心から感謝申し上げます。


2008年3月14日(金曜日)

完全無農薬・梅の木オーナー募集中!

カテゴリー: - kawamura @ 07時03分55秒

いよいよ春めいてまいりました。

これからワラビ・ゼンマイ・タケノコなどが
里山にあふれてきます。
オーナーの皆様のお越しをお待ちしております。

滅びゆく島田市指定文化財「御林守河村家住宅」を保存するのに、
梅園の活用を着想されたのは、
eコミ「環境ひろば」の諸田さんでした。
ほんとうに感謝しております。
ありがとうございました。

1年間1万円で、
完全無農薬の梅の木を1本所有することができるのです。

一人複数本でも、
グループあるいは企業での所有も可能です。

詳しくはこちらをどうぞ。

ただいま会員券の発行に手まどっておりますが、
いましばらくお待ち下さい。

eコミのMさまから
会員券に名刺をというご提案もあって、
いまそれを検討しているところです。

市役所農林課の鈴木さまにも
お目にかかって教えていただきたいこともございますし、
昨日は県の中部地域支援局・石川智士さまに
会員券の裏に書き込む規約のことなどを
教えていただきました。

皆様のお知恵を拝借して、また長い年月をかけて、
「御林守河村家を守る会」として
「梅の木オーナー制度」が始まったのです。

しかし募集の方法が
現在ではネットに限られていますので
応募したくてもなかなか応募しかねている
という方もいらっしゃるのではないかと思います。

なにか良い方法はないものでしょうか?

また、「梅の木オーナー制度」の告知方法につきましても
支援局の石川さまからいろいろご指導いただきました。

皆様におかれましても
崩落する文化財の維持保存のために
「梅の木オーナー制度」の告知にご協力いただきたく、
よろしくご協力のほどお願い申し上げます。


2008年3月13日(木曜日)

福一漁業

一昨日(3/11)の静岡新聞朝刊7面に
近藤の会社「福一漁業」の記事が載っていました。

「国内の自給率低下を阻止する責任痛感!」

という見出しが、
一企業経営者としてではなく、
社会的責任の上に立つ公人の自負といった感じで
好感がもてました。

1週間まえ、
ボストンで開かれたシーフードショウに日本が初めて出店し、
日本を代表する10社の中に福一漁業が選ばれた
ということは聞いていました。

また
福一漁業社員の長谷川恒平さんが
レスリング・グレコローマン55キロ級の
アジア大会で優勝すれば
北京オリンピックの代表選手になるということで
会社が盛りあがっていることも知っています。

それに
350トン級の漁船を数隻、
常時世界の海に配しているのは承知していましたが、

まさか売上高239億、従業員337人
という日本一の鰹の供給会社であるとは
いまのいままで知りませんでした。

近藤は、藤枝東高校以来の友人です。

東京水産大学を卒業したあと
アメリカに渡って最新の漁業を学び、
それを生かして
鰹鮪の漁獲量を飛躍的に向上させたのです。

いまから30年以上前のことです。

その後父親の水産会社を継いで
世界の海を股にかけて活躍しました。

現在の厳しい経営環境の中でも
会社が順調に利益を上げているとは
聞いていましたが、
これほどすごいことになっていようとは
夢にも思いませんでした。

「ホテルNANVAN」は、
旅行雑誌じゃらんでランキング1位になるし、
「福一さかなセンター」や
「海鮮食家福一丸」も繁盛しているし、
順風満帆のようです。

会社の規模もそうですが
人間としての近藤の魅力がどこまで成長してゆくのか
とてもたのしみです。


2008年2月27日(水曜日)

『鰐口考』31

カテゴリー: - kawamura @ 09時09分32秒

写真上段左から3枚『金谷町史』資料編一 古代中世より
左から4枚目以降『藤枝市史』資料編2 古代・中世より

(クリックすると写真は拡大されます)

家の歴史を研究しようとして
『静岡県史』全巻を購入したのが平成6年のことで、
大宝神社鰐口の一節を見つけたのは、
購入してまもなくのことだったから
その年の初夏のことになる。

私はまだ意気盛んな四十代で、
なすことすべてに成果を上げていたころのことだった。

「奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
 天文七記十一月吉日大工又二郎」

この一文を見出した朝をいまでもおぼえている。
興奮をかかえたまま妻に話し、
すぐに静岡大学の教授に報告した。

その後は教授の指導の下で、
数冊の分厚い資料を読みこむ作業がまっていた。
国会図書館までも出向いた。
太閤検地帳まで調べた。

そうして、教授の指導を受けて論文をまとめたのである。

論旨が明確であったから、あまり日数は要さなかった。
ほとんど半年ほどで完成したように記憶している。

それはどのような論旨であったか。

鰐口の懸けられていた神社は
古くから「大宝天王」と呼ばれていて、
その土地の地名は「大代」であり、
天分七年当時、
「助二郎」なる人物が生存していたことが確認できる土地、
それはこの島田市大代の地をおいて
他にあり得ないという論旨であった。

この誰の目にも疑いのないような論文について、
いまだ発表する場所を得ていない。

それは静大教授にも勧められたことだが、
いまだに現実化していないのだ。

「自費出版などしてもだれも読みませんよ。
 何処かの研究誌に発表しなさい」

そう言われたのだが。

どなたか、
『鰐口考』を発表するのに
適当な研究史がございましたらぜひご教示願いたい。


2008年2月26日(火曜日)

『鰐口考』30

カテゴリー: - kawamura @ 10時07分41秒

ただひとつの歴史は存在しない、
と以前ブログに書いたことがある。

現在の歴史研究の世界では
存在しているのは史料であっていわゆる歴史ではない。

わずかな古文書などの一次史料が存在し、
研究者たちが、それらをそれぞれの視点で構成して、
独自の歴史を紡ぎ出すのである。

極論すれば、
研究者の数だけ歴史があるといってもいいだろう。

したがって、
冑佛(かぶとぼとけ)の発見譚のように、
ひとつの伝承から始まって
それが歴史的事実として容認されるには、
その伝承を裏づける史料を探すほかなかった。

「古書に記されている」というだけでは一笑に付される。

ちょうど科学において
一つの発見が他者の実験によって確認されることで
はじめて認められるように、
一つの歴史的主張も
確かな史料によって容認されるのである。

『鰐口考』の論拠となった鰐口銘文については
『金谷町史』資料編一 古代中世
『藤枝市史』資料編2 古代・中世
に掲載されている。

(この写真は明日UPします)


2008年2月25日(月曜日)

『鰐口考』29

カテゴリー: - kawamura @ 09時08分13秒

歴史を語るときに最も重要なことは
その根拠となる史料を示すことである。

もちろんその史料とは、
同時代に書かれた一次史料とよばれる古文書などのことを言う。

たとえば500年前のことを語るのに
明治期にはじめて書かれた書物の内容を根拠としてあげても、
だれも相手にしない。

なぜなら、
現代は、科学的手法を用いた歴史研究が進展していて
全国の市町村に眠っていた古文書類のほとんどが解読され、
その古文書をもとに歴史が語られるようになったからである。

ひとつの歴史的事象が、
500年ものあいだ文書に残されないということはありえず、
必ずどこかに痕跡をとどめているはずである。

逆の言い方をすると、

「古文書に残されていないことを史実とするのは不可能」

ということ。

そのいい例が
NHKの大河ドラマでとりあげられた山本勘助である。

歴史研究家のあいだでは、
山本勘助は、長い間その存在すら疑われていたのである。

山本勘助の初出史料は
江戸初期に書かれた『甲陽軍艦』とされていて、
それでも歴史研究家たちは勘助存在の信憑性は薄い、
としていた。

なぜなら、
それまで、山本勘助と同時代に書かれた一次史料(古文書)が
存在しなかったからである。

勘助について書かれた江戸後期成立の『甲斐国史』などは
『甲陽軍艦』や『北越軍談』などの影響を受けて成立したもにすぎず、
勘助の存在は疑わしいとしていたのである。

それでは、
NHKが大河ドラマで取り上げるまでに至った
その歴史的根拠とは何か。

昭和44年(1969年)、
北海道釧路市に在住していたある視聴者が、
大河ドラマ「天と地と」を見ていた。

そのとき先祖伝来の古文書があることに思い当たり、
それを探し出して鑑定に出したところ、真物と確認された。

その書状には「山本菅助」の名があったのである。

この『市川文書』の発見によって、
実在そのものが疑われていた山本勘助の存在に
はじめて新たな光が差したのである。

このように、
大学教授などの歴史研究家は、
江戸初期に成立した『甲陽軍艦』ですらその歴史的信憑性を疑う。

歴史的事象と同時代に書かれた古文書の存在が、
歴史を語る上で最も重要なこととするのである。

つまり、
その一次史料をならべて
その歴史的関係の整合性を求めることが歴史研究家の基本である。

『遠江河村荘と河村氏』で私が書いたように
『掛川市史』の誤記を生んだ原因は、
その著者が一次史料に当たらなかったところにあることは、
読者の方にはよくお分かりいただけたことと思う。

専門家の論文にさえ
いわゆる「孫引き」といわれる部分が見られるのである。

「孫引き」とは
一次史料にあたらず他人の論文をそのまま引用すること。

ましてや、
明治以降に書かれた書物で、
その歴史的根拠が明らかでないものは、
そのような意味で誰も相手にしないのである。

私が『鰐口考』を書くきっかけになったのは、
15世紀末に書かれた『円通松堂禅師語録』、
16世紀初頭の『安養寺過去帳』、
そして私がその歴史的意味を見つけた
天分七年(1538)の「鰐口銘文」である。

これらはすべてその同時代に書かれた一次史料であって、
はるか後世に書かれた書物とはその歴史的意味が違う、
ということである。

くり返して言うと

「古文書に残されていないことを史実とするのは不可能」

ということである。

そのいみでは、
冑佛(かぶとぼとけ)の発見はまさに幸運であって、
その証明には長い時間を要したのだが、
『鰐口考』は遙かに書きやすく、
それ故「金谷町史」や「藤枝市史」にも
史料として取り上げられたのである。

(つづく)


2008年2月16日(土曜日)

『鰐口考』28

カテゴリー: - kawamura @ 07時59分01秒

この鰐口の銘文については、
大学教授の指導のもとに、「鰐口考」と題して小論考にまとめ、
翌平成八年三月から開催された河村家の展示会「御林守展」の資料にした。

展示会は、三月初から五月末までの三カ月間、
諏訪原城へ登る坂の中腹にある石畳茶屋でひらかれた。

さいわい季節にも恵まれ、数万人の来訪者でにぎわった。

私たち夫婦は、日々、展示会資料の印刷に追われ、
署名してくれた全員に、
「鰐口考」と「続冑佛考」とを配布しつづけた。

そのうちの何人が読むかは疑問だったが、
私にとってそれは瑣末(さまつ)のことだった。

来客が途切れると、私は外の長椅子にすわり、
春霞のなかにひろがる大井川の雄大な流れや両岸の街並みをながめていた。

静岡の春の太陽は、
ときおり初夏の陽ざしを思わせるほどに照りかがやくことがある。

私は目をほそめ、その風景をぼんやりと眺めながら、
冑佛発見の経緯を満ち足りた思いで思い起こしていた。


2008年2月14日(木曜日)

『鰐口考』27

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分45秒

私が見いだした「静岡県史」の一節は、
丁度その時期の助次良の、次のような銘文である。

 「大宝天王に鰐口(わにぐち)を寄進し奉る 願主大代の助二良 
  天分七年十一月吉日     大工 又二郎 」

助次良が、大代の地名を冠しているのは、
大学教授の言葉をかりれば、
その地域を領有していた証(あかし)であるということだ。

天王山の頂上に建つ大宝神社の拝殿に、
誇らしげにこの鰐口を奉納する助次良の姿が、目に浮かぶようだ。

少々危(あぶ)ないと思われるかもしれないが、
一時期の私は、天王山のふもとのゆるいカーブを車で通り過ぎるとき、
いつも山の頂上を見上げていた。

ほんのときおり、大宝神社の跡地あたりに、
青空を背景にして助次良の姿が見えた。

それは、笑顔がはっきりと見えるほどのあざやかな姿で、
衣の袖の、紺の模様も、ゆるやかな風にゆれていた。

よくやったな、と、私を励ます助次良の、
よく透る声がきこえるようだった。


2008年2月12日(火曜日)

『鰐口考』26

カテゴリー: - kawamura @ 10時18分01秒

河村宗心も、一度は天王山砦を捨てたが、
今川氏親の反撃に助けられて、ふたたび勢力を取りもどした。

河井宗忠戦死のあと、
河村家には助次良が誕生して、それから約十年の平和が訪れた。

菩提寺法昌院についても、
開基を義父河井宗忠とし、
掛川の法泉寺からは四世久山芝遠和尚を招いて、その興隆につとめた。

妻にしても、父宗忠を失ったとはいえ、
子宝にも恵まれ、のどかな谷間の平和を満喫していた時期に違いない。

永正二年(1505)、
ふたたびこの一帯に、斯波方の手がのびはじめる。

鶴見勝間田の残党もそれに加勢して、
突如として河村家襲撃の火の手が上がった。

六月五日、居宅にいた妻は火をかけられて自害。

夫宗心は、翌六月六日、天王山砦での最期を遂げた。

伝承によると、宗心の子助次良は乳母の手で逃げのび、
近くの寺にかくまわれたと伝えられている。

天王山砦を陥落させた斯波方の蜂起を見て、
今川氏親の本格的攻略が開始されるのは、その直後のことである。

それからの遠江は、
今川の支配によって比較的穏やかな安定期をむかえる。

助次良も、激動の少年期をのりこえ、
大代の地に、着実な地歩を固めはじめていた。


2008年2月11日(月曜日)

『鰐口考』25

カテゴリー: - kawamura @ 07時34分41秒

河井宗忠は、おそらくは松葉城内で戦死したものと思われるが、
一説によると長松院境内で最後を遂げたともされている。

今川氏親は、直ちに鶴見勝間田殲滅(せんめつ)戦の火蓋を切る。
 
斯波方鶴見の居城は大井川の西岸にあって、
東から押し寄せた今川軍は大井川東岸に達すると、
偽旗を張って鶴見を揺動(ようどう)した。

夜陰に乗じて大井川を渡り、奇兵を敵城の裏山に配して、
一気に奇襲を懸けて陥落させた。
 
現在でも、偽旗を掲げたあたりの地名は、
旗指(はたさし)とよばれている。

また鶴見因幡が討ち取られ、城内の井戸に身をなげた奥方は、
唇の紅い小蛇と化して井戸のなかに棲息し、
人々に恐れられたと伝えられる。


2008年2月8日(金曜日)

『鰐口考』24

カテゴリー: - kawamura @ 07時45分23秒

明応五年九月十日、
河井宗忠に、運命の日が訪れた。

その日の経緯を、
宗忠が自ら開基として創建した長松院の寺史は、
このように伝えている。

<宗忠公が、粟ヶ嶽(あわ たけ)に登って、秋の宴をひらいていた。
 そこへ、たまたま勝間田播磨守があらわれ、
 宗忠公の幔幕を掲げて中をのぞいた。

 公は怒り、勝間田は謝罪したが、心を焼くが如き怨みをいだいた。
 やがて勝間田は、横岡城主鶴見因幡守を扇動して、
 宗忠公を滅ぼそうと偽計を設けた。

 公の家臣に落合氏というものがいた。
 
 落合氏はもともと宗忠公に疎まれていて、
 たやすく勝間田播磨の謀略におちた。

 九月十日、落合氏の内応によって、
 鶴見・勝間田は、松葉城を一気に攻め、遂に公は戦死した。

 落ちのびた河井一族の女たちは、
 辱(はずかし)めをうけるよりも死をえらび、
 麓を流れる倉見川の深い淵に身をなげたという。

 断崖の屹立(きつりつ)するその二つの淵は、
 御台淵、姫淵の名を今につたえている。>


2008年2月6日(水曜日)

『鰐口考』23

カテゴリー: - kawamura @ 05時46分43秒

ところで、河井宗忠が開基として創建した法昌院は、
天王山砦の下にあって、
いまでもその位牌は法昌院の位牌堂の奥に
法昌院殿補庵宗忠大居士として祀られ、
また、法昌院の境内には、宗忠八幡大菩薩の祠が建っていて、
今日にいたるまで代々河村家がこれを祀ってきた。

いまでは河井宗忠の居城松葉城の城趾は、
ただ一基の石碑を残すのみとなったが、
そのふもとの谷間にはいまなお松葉神社があり、
鳥居の石額に刻まれている「大寶天王」は、
宗忠のころからの信仰であったとつたえられている。

この大宝天王あるいは大宝神社を全国的に調べてみても、
ほんの数社しかその名は確認されない。

即ち、きわめて稀少な神社名であることがうかがえる。

実はそれと同じ名前を持つ「大寶神社」が、
河村宗心の守る天王山の山頂にも建っていて、
明治四十三年に大代神社と改名し、
ふもとの法昌院の横に移転しているのである。

掛川松葉城の大寶天皇、
大代天王山の大寶神社、
この二つの稀有な名の神社は、
河井と河村の固い信仰の絆を覗わせる。


2008年2月2日(土曜日)

『鰐口考』22

カテゴリー: - kawamura @ 10時07分33秒

十五世紀末の遠州一帯は、
応仁の乱以来、東の今川、西の斯波(しば)が相対峙して、
激しい戦闘が繰りかえされていた。

今川氏親の家臣河井宗忠は、
掛川倉見の松葉城主として、
敵対する斯波氏との最前線の城を守っていた。

その東へ尾根ひとつ越えたところに、
河村家の住む大代の地がある。

河村宗心は、松葉城主の三女を娶(めと)り、
河村家前の山頂からわずか五十メートルほどのところにある
天王山の砦を守っていた。

砦からは、西の松葉城、東の横岡城が遠望できる。

横岡城には斯波方の鶴見因幡守、
さらに南には、
おなじく斯波方の勝間田播磨守の居城勝間田城があった。

すなわち、今川方の河井と河村、斯波方の鶴見と勝間田が、
一触即発の緊張のうちに対峙していたのである。


2008年2月1日(金曜日)

梅が咲いたよ

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分08秒

梅が咲きはじめました。

どなたか私の御主人様になって下さい、
一年だけでいいんです、
と梅たちが申しております。

よしっ!!と決めたら
「梅の木オーナー申し込み」ボタンを今すぐクリック!!(笑)

皆様のお越しをお待ちしております。


2008年1月30日(水曜日)

『鰐口考』21

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分24秒

ものごころついたころから、私は、
わが家の初代河村宗心が、
掛川の松葉城主河井宗忠の三女を嫁にして、
この大代の地を領していたと、祖母から幾たびも聞かされていた。

この手の伝承には、虚飾にいろどられた部分があるにせよ、
いくばくかの真実も必ずふくまれているものだ。

実際、祖先の墓はふたつあって、
ひとつは古くから裏山の墓地の中央に立っていた。

もうひとつは、集中豪雨の崖崩れのあとから、
頭頂部の右側が欠けた墓石を父が見つけたものである。

ふしぎなことに、
墓地の墓には夫の忠学宗心居士が右、
妻の自雲妙性大姉が左なのに、
あらたに見つかった墓石では、
戒名の左右が逆になっていた。

また仏壇の位牌の裏には、
忠学宗心の命日永正二年六月六日の下に、助次良(すけじろう)父、
また自雲妙性の夫より一日はやい命日、
永正二年六月五日の下には、松葉城主三女と朱書されている。

後年妻と二人で、
祖先夫妻の法名を安養寺過去帳のなかにも見いだすことができた。


2008年1月28日(月曜日)

『鰐口考』20

カテゴリー: - kawamura @ 08時47分07秒

今日から数日に渡って、
『冑佛伝説』原稿の、
未発表部分を連載いたします。

日本甲冑武具研究保存会へ
『続冑佛考』の原稿を送ったあとの
虚脱感にさいなまれていたところから始まります。

*****************************

朝陽がのぼると、私は廊下の陽だまりのなかで、
胎児のようにまるくなって眠った。

数週間も経(た)って、深い疲れも癒されたころには、
ふたたび冑佛や歴史の世界が恋しくなってきた。

私は当時刊行されていた「静岡県史」を全巻購入し、
毎朝四時に目を覚まして、最初に中世編を読みはじめた。

ひとは誰でも、神に愛されていると感じる一時期があるのだろうか。
そのころの私は、雑念からとき放たれ、
二十歳のころのように心身が青く澄みわたっていた。

「静岡県史」を読みはじめて、ほんの数日後だった。

その一節には、私が長い間求めていた
河村家の草創期にかかわる記録が記(しる)されていたのだ。


2008年1月26日(土曜日)

『鰐口考』19

カテゴリー: - kawamura @ 10時17分06秒

後  記

丁度二年半前の、平成五年十月に、
写真家の木村仲久先生が我家を撮影に訪れました。

その日が、私の歴史探求への旅出ちの日となりました。

それから実質二年にも満たぬ研究期間の私を、
多くの方々が導いて下さいました。
ご指導賜わりました諸先生方に心から感謝申し上げます。

浅学非才の私の前に、
踏破すべきいくつもの峰が聳えていますが、
多くの方々の励ましを糧に歩み続ける所存です。

最後に、私の研究のすべてを、亡き父母の霊前に捧げます。


2008年1月25日(金曜日)

『鰐口考』18

カテゴリー: - kawamura @ 08時06分31秒

平成七年十一月十三日、
金谷町教育委員会町史編さん専門員片田氏、同主任平川氏とともに
藤枝市北方の安楽寺を訪ねた。

安楽寺所蔵の鰐口は二つあり、
その一つとして保管されていることを確認した。

天文七年の後、
この鰐口が如何なる経路を経て、
藤枝市北方安楽寺に至ったのかは、定かではない。
   
平成八年二月十九日    完


2008年1月23日(水曜日)

『鰐口考』17

カテゴリー: - kawamura @ 07時59分00秒

三、考察

前段までの論考をもとに、
藤枝市北方の安楽寺に保管されている鰐口銘文について考察する。

  <奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
   天文七記十一月吉日大工又二郎>

 地 名   金谷町大代     藤枝市北方 静岡市梅ケ島大代 静岡市口坂本

 大宝神社  〇(松葉にもあり)  

 牛頭天王               〇        〇

 地名大代  〇                     〇

 近代以降
 大代姓                                         〇

 天分七年
 助二郎   〇

上表より考察すれば、
第一に、牛頭天王を突然「大法天王」と云う稀有な神社名で呼び、
近世になってふたたび神社名を牛頭天王社に戻したとは考え難い。

また、松葉の大寶天王は、
明應五年の松葉城落城とともにその勧請主を失い、廃墟と化したと思われる。

即ち、天文七年の鰐口銘文に刻まれた「大法天王」とは、
金谷町大代字天王山に、
明治四十三年十一月十八日まで広い境内を有していた村社大寶神社であったと考えられる。

第二に、天文前後に大代姓は確認されない。

したがって大代は地名であり、
大代を所領とする最も有力な武士であった河村家二代目助次郎が、
その地名を冠して「大代助二郎」を名告ったと考えるのが妥当である。

要約すれば、
金谷町大代の河村家二代目助次郎が、
大代の地名を冠し、
字天王山の天王山城内に自ら勧靖した大寶神社に、
天文七年鰐口を寄進したものと考えられる。


2008年1月22日(火曜日)

『鰐口考』16

カテゴリー: - kawamura @ 21時03分02秒

(イ)藤枝市北方
  大代の地名、名字はない。

(ウ)静岡市梅ケ島大代
 前掲四書に、天分七年当時「大代助二郎」は確認されない。

(エ)静岡市口坂本
 口坂本一七六番地に、大代五十二氏宅がある。
 当家は近世まで名字はなく、明治初年から森代姓を名のったが、
 明治末年になって海野孝三郎氏の助言により大代姓に改姓した。

 『井川村史』と前掲四書に大代姓の根拠を求めても見あたらず、
 助二郎も確認されない。
 
 特に、口坂本は慶長の検地が二度に渡って行なわれたが、
 検地帳にあらわれる姓は藤若のみであり、助二郎の名もない。
 藤若姓は、口坂本に今でも二軒残っている。


2008年1月21日(月曜日)

『鰐口考』15

カテゴリー: - kawamura @ 06時59分26秒

さて河村家発生期の経緯は『遠江河村荘と河村氏』に記すとして、
本貫地に還った大代河村家の祖宗心は、
河合宗忠と与したが、やがて松葉城は落ち、天王山城も落城した。

『安養寺過去帳』によれば、宗心は「助次良父」と記されている。

河村家二代目助次良は、
初代宗心の没年永正二年(一五〇五)当時幼少と伝えられるから、
河合宗忠の建立した松葉の大寶天王を大代字天王山に勧請し
鰐口を寄進した天文七年には、壮年期であったと考えられる。
 
後の助次良は、
永禄三年今川義元の急死によって再び動乱期に巻き込まれる。

武田に支配され、忽ち徳川方の安部大蔵に天王山城を奪われるが、
この経緯は、『遠江河村荘と河村氏』詳述する。


2008年1月19日(土曜日)

『鰐口考』14

カテゴリー: - kawamura @ 07時59分33秒

筑後権守波多野遠義の子秀高が、河村荘に住し、河村姓を称えたのは、
遠義の娘が源義朝との間に朝永をもうけた関係で
平治の乱(一一五九)に義朝方に与して敗れた秀高の兄、波多野義通とともに、
相模の波多野本庄へ帰る途次であったと思われる。

相模河村郷は治承四年(一一八○)が『吾妻鏡』に初見であるから、
平治の乱から約二十年の間に、
兄義通から波多野本庄の西の守りとして招かれたのか、
ふたたび遠江河村荘から相模へ移り、河村郷を興したものと考えられる。

また金谷町大代法昌院の本寺上西郷村法泉寺は、
永享二年〈一四四〇)舂屋宗能大和尚の開創によるものであると、
寛文三年二月、天台僧教覚の書き記した
『梵鐘鋳造の浄財を募る趣意書』に縁起が述べられている。

舂屋宗能は『続冑佛考』あとがきに記されている奥州の、藤原氏の出とされ、
後に相模河村城から一里ほど南の大雄山最乗寺五世となった。

奥州と河村秀清、
最乗寺と相模河村城、
法泉寺と菊川町内に比定される河村荘、
法泉寺末である法昌院と大代河村家、
舂屋宗能の足跡と河村家の歴史との一致をみれば、
河村一族は、法泉寺開創の頃、
相模から本貫の地遠江河村荘へ移り住んだものと推論されるのである。


2008年1月18日(金曜日)

『鰐口考』13

カテゴリー: - kawamura @ 08時08分30秒

河合宗忠の祀られている河合八幡は、
今でも法昌院の境内に建っている。
宗忠八幡とも呼ばれ、代々河村家によつて祀られてきた。
また、昭和二十六年九月十五日の河村小次郎による祭文も残されている。

河合宗忠三女の嫁した金谷町大代河村家の祖宗心は、
法昌院附近の字天王山に比定される天王山城を守ったが、
永正二年六月五日、六日と夫婦ともに相続いてたおれた。 

初代宗心は、十五世紀中葉に、
相模国河村郷から、本貫の地遠江国河村荘近くへ移り住んだものと思われる。
遠江国河村荘が河村一族の本貫地であることは、
『駿河記』附録の系図を典拠としている。


2008年1月17日(木曜日)

『鰐口考』12

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分16秒

また『静岡県榛原郡誌』に次の記述がある。

 <≪大代村法昌院の寺記中に(今井氏の載録せられたるものに拠る)
  法昌院 開創、当院旧記に観應二年三月五日臨済宗夢想国師開山とあり、
  後文禄元年二月川合宗忠公其旧跡に就て精舎一宇を建立し、
  帰依に依り当国佐野郡上西郷村法泉寺八世玄達和尚を請して開山と為す、
  故に川合公を開基と称す云云(法昌院明細書)。
  過去帳写
  開山 通山玄達和尚 応仁元年三月二十日化す≫

  とあるも、蓋後人の古来の伝承を記述したるものなるべければ
  年代其他に杜撰多きが如し(夢窓国師は観応二年九月遷化なれば少しく訝かしけれども、
  斯る類例は他にもなきにあらず、
  されども文禄は応仁元年より百二十世余年の後なれば長禄などの誤にやあるべき)
  されど何等か因縁を有したることは自ら窺知せらるるのみならず、
  郷人平井磯次氏の談に法昌院の附近に一地区あり、
  これ今川氏の臣河井宗忠の城址なりと傳ふと云へり>


2008年1月15日(火曜日)

『鰐口考』11

カテゴリー: - kawamura @ 11時12分02秒

(ア)金谷町大代

『静岡県榛原郡誌』『静岡県小笠郡誌』『長松院誌』等によると、
十五世紀末、今川氏親家臣河合宗忠は、掛川市倉真の松葉城主であったが、
明應五年、横岡城主鶴見因幡守、勝間田播磨守に急襲されてほろんだ。

『遠江古跡図絵』に

 <野守が池 金谷の北在に家山村と云ふ所に野守が池と云有、
  大井川瑞にて川根の内なり、旱魃の折柄も水絶ゆる事なし、
  此池の由来を尋るに、昔京都に夢窓国師といへる貴き知識有、
  至て美僧なりと云、
  島原の遊女に野守と云女彼の夢窓国師の美貌に恋慕して慕ふと雖も、
  清僧なれば心に随はず甚だうるさく思召、
  京都を立退き遠州に下り給ひ此処に寺を建立す、
  龍燈山安養寺と云ふ、此寺夢窓国師の開基なり、七堂伽藍の霊地と云ふ、>

とあり、さらに『静岡県榛原郡誌』にはそれを受けて、

 <因に云、前記安養寺は河合宗仲廃して城地となして此所に居り、
  其附近に法昌院を創して自ら開基となり、
  安養寺は一時全く廃絶の姿となりしも
  後年又別地に安養寺を再興せるもの即現時の寺其ものなりと云ふ。>

とある。


2008年1月14日(月曜日)

『鰐口考』10

カテゴリー: - kawamura @ 09時34分32秒

ニ、大代助二郎

『角川静岡県姓氏家系大辞典』に

 <あらたに発生する武士の名字は、源平の争乱時代からみとめられる。
  それはもともと居住地からおこり、しかも所領の分割相続が例とされたから、
  所領の名を名のれば親子でも名字を異にすることになった。>

とある。

鰐口の寄進された天文七年当時、
地名あるいは名字としての「大代」にかかわる「助二郎」を名のる人物が確認されれば、
「大代助二郎」はほぼ特定されたことになるだろう。

『姓氏家系大辞典』〈秋田書店)第一巻の大代の項に

 <大代 オオシロ 遠江、陸前に此の地名あり。>

とある。この宮城県多賀城市大代は、研究対象外とした。

『角川地名大辞典静岡県』の大代の項には、
金谷町大代のみであるが、
静岡大学湯之上隆教授から、
静岡市梅ケ島に小字大代があることを御教示いただいた。


2008年1月13日(日曜日)

『鰐口考』9

カテゴリー: - kawamura @ 07時06分50秒

(エ)静岡市口坂本

前掲四書に、ただ「天王社」とある。

この天王社は、神社の役員である糟谷善一氏のお話によると、
江戸の初期に津島神社から分けられた牛頭天王社であり、
素戔嗚尊をを主祭神としている。

八王子神社が正式な名称であり、七月十五日には祇園祭りを行う。
また伊勢講の途次には必ず津島神社に参拝する習わしだった。

口坂本には、大法あるいは、大宝神社は確認されない。


2008年1月12日(土曜日)

『鰐口考』8

カテゴリー: - kawamura @ 03時52分42秒

(ウ) 静岡市梅ケ島大代

『駿河記』巻六安部郡巻之六梅ケ島の項に次の記述がある。

<〔大代〕戸数二十四〇 
  天神祠 祭神築地弥三郎重房之霊也。
  神体・,古鏡
  傳云、重房は当国梅地の住人なり。
  今川義元国主の時代、丙午四月十四日重房当郷の一撥の為に、
  この里にて主従三人討死しける。
  崇ありて里民頻に苦しみけれは、終に彼霊を天神と斎祭るなり。
  夫よりして無事を得たりと云云。今村落の上の段に石地蔵を建、
  樹木繁茂たる森あり。彼人ここにて討たれたりと云云。>

鰐口寄進は天文七年であるから、これは僅か八年後の事件であるが、そこに大法天王の存在は確認されない。


2008年1月11日(金曜日)

『鰐口考』7

カテゴリー: - kawamura @ 05時35分53秒

(イ)藤枝市北方(鰐口保管場所・安楽寺の所在地)

『駿河記』に次の記述がある。

 <○牛頭天王社相殿 山王権現 橘明神 鳥居前より登八丁山上に座。
  山王は旧安楽寺の鎮守なりと云。除地三石・高四石税地山林除>

また、静岡県神社庁の『明細書』に、

 <元禄十六年に弟橘神社から天王社に改称>

とある。

北方については、前掲四書に、大法あるいは大宝神社は確認されない。


2008年1月10日(木曜日)

『鰐口考』6

カテゴリー: - kawamura @ 07時38分01秒

また、大代から西へ、粟ケ嶽の尾根ひとつ越えたところに松葉神社があって、
鳥居には「大寶天皇」と刻まれた額が今も掲げられている。

静岡県神社庁の明細書に次の記述がある。

 <松葉神社 所在地 掛川市倉真八〇一八祭神 素戔嗚尊 蛭子命 
  由緒 不詳、伝ふるところによれば大寶天王と称す、
  大寶の年に津島の神を勅察し大寶天王と称す、
  明治四年社号を奉りて松葉神社と云う>

松葉神社神主の戸塚操氏のお話では、
「大寶天王は、松葉城のころからあり、河井宗忠公の勧請によると云う伝承が残っている。」
とのことである。


2008年1月9日(水曜日)

『鰐口考』5

カテゴリー: - kawamura @ 07時13分56秒

また土地登記簿謄本によると、
大寶神社の地番九七〇番の壱は、その順位番号壱番に、
「明治四拾弐年五月参拾壱日受附第壱参四弐号 帝室林野局長官ノ為メ所有権ヲ登記ス」、

弐番付ノ壱として
「明泊四十弐年拾月弐拾七日受附第弐六五〇号 
明治同年六月五日払下二依り榛原郡五和村大代村社大寶神社ノ為メ所有権ノ取得ヲ登記ス」、

弐番附記壱号として
「明治四拾参年拾弐月弐拾参日受附第参六七〇号明治同年拾壱月給八日改称二因り
登記名義ヲ村社大代神社ト変更シタルコトヲ附記ス」とある。

この経緯を見れば、
江戸末期には幕府直轄山林(御林)の内に、大寶神社があったことがわかる。

帝室林野局管理下の御料林は、幕府の御林をそのまま受け継いだものだからである。

その幕府の御林を、明治初年まで御林守として管理していたのが、
金谷町大代の河村家である。

云いかえれば、
少くとも明治初年の時点で、大宝神社は河村家の管理下にあったことは確かである。

因みに、天文七年当時の河村家二代目は助次良であった。

また、大寶神社の境内地に接して、
字天王山九六八番壱に、登記順位番号壱番として
「明治四拾年参月七日受附第八六七号榛原郡五和村大代百拾番地
河村宗平ノ為メ所有権ヲ登記ス」と記されている。


2008年1月8日(火曜日)

『鰐口考』4

カテゴリー: - kawamura @ 08時31分54秒

    (ア)金谷町大代

『榛原郡神社誌』に次の記述がある。

 <神社名 大代神社
 鎮座地 榛原郡金谷町大代一二八二番地の三
 祭神名 素戔嗚尊 大国主命 誉田別尊
      中略
 由緒  文武天皇の御代素戔嗚尊を勧請して大宝神社と称えた。
     寛永十六年社殿を御造営これを祀った。
     元禄九年、享保二年、宝暦四年再建、除地高二石五斗八合、
     明治十二年九月村社に列せられた。
     明治四十三年十月大代九七一番地宮下鎮座山王神社を合祀して大代神社と改称した。
     昭和三年十月大代字安田鎮座若宮八幡神社を合祀した。
     昭和二十一年六月十八日宗教法人令による神社を設立し、
     昭和二十八年七月八日宗教法人法による神社を設立登記した。>

『静岡県榛原郡誌下巻』第五人文第八章神社及宗教第一節神社に次の記述がある。

 <  (一)郡内神社一覧表
       榛原郡神社一覧表
               (明治四十五年四月本部神職支部副長報〉
    神社名  祭神   社格  所在地 例祭日
              ー略ー
   大室神社 素戔嗚尊 村社  大代 十月十八日

   白山神社 白山姫命 無格社 同    同

   山王神社 大国主命 同   同    同
              ー略ー>


2008年1月7日(月曜日)

『鰐口考』3

カテゴリー: - kawamura @ 07時50分05秒

  一、大法天王

神社名鑑によると、大法の名は皆無で、
大宝天王社、大宝社、あるいは大宝神社は、全国に九社のみ記載されている。

主祭神は素戔嗚尊が多く、創立は文武帝の御代、大寶年間と伝えられる。

さらに静岡県神社庁の調べでは、
現在それらの名を冠する神社は静岡県内には見あたらない。

即ち、大代助二郎が鰐口を寄進した大法天王社の名は、
歴史上極めて稀少な社名と思われる。
 
そこで前掲の四つの地域あるいはその附近に、
大法または大宝神社が嘗って存在したか否かを調べた。


2008年1月6日(日曜日)

『鰐口考』2

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分10秒

冑佛(かぶとぼとけ)発見の光芒に包まれていたまさにそのころ、
『静岡県史』中世資料編のなかに、
次の一節を見出したのです。

  奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日大工又二郎

  大宝天王に鰐口を寄進し奉る。願主は、大代の助二郎である。
  天文七年(1538)十一月吉日。大工は又二郎である。

大法天王とは大宝神社のことです。
天王信仰とは、
祭神として
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っているものを言います。
もちろん大宝神社の祭神も素戔嗚尊です。

大宝神社という名称は大変めずらしいものです。
全国にもほとんどありません。
ところがそれほどめずらしいのに、
現在の大代神社の前身である大宝神社のほかに、
西へ尾根ひとつ隔てたところに、
もう一つの大宝神社があるのです。

「大宝天皇」と描かれた石額が、
神社の鳥居に掲げられています。
それこそが、
掛川市倉真の松葉城主河井成信の祭神でした。

おそらくは
初代河村宗心の守る天王山の砦とともに、
河井成信の松葉城も、
この世にも稀な神社名の、
大宝天王への信仰に支えられていたのでしょう。

明応五年(1496)に河井成信、
永正二年(1505)に河村宗心、
二人がともに戦死したあと、
大宝神社に鰐口が寄進されたのは、
河村家二代目助次良が活躍をはじめた頃のことです。

さて、前振りはここまでにして、
さっそく本文に入りましょう。

*********************
鰐口考

河村隆夫

藤枝市北方の安楽寺に、次の銘文が刻まれた鰐口が保管されている。

  奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日大工又二郎

この鰐口は昭和三十三年十月二十日に県の文化財に指定されたが、
その由緒については明らかにされていない。

本稿は、大法天王社の特定、及びその所在地の特定、
また大代助二郎なる人物の特定についての論考である。

また研究対象地域は、
金谷町大代、藤枝市北方、静岡市梅ケ島大代、静岡市口坂本の四個所とした。

参考資料は、
主に『駿河資料』『駿河記』『修訂駿河国新風土記』『駿国雑誌』の四書である。


2008年1月5日(土曜日)

『鰐口考』1

カテゴリー: - kawamura @ 09時34分41秒

明日から、『鰐口考』の連載を始めます。

『遠江河村荘と河村氏』第一章は、
平安末期から応仁の乱までの
ほんの僅かの史料と伝承をもとに立論しましたので、
発表するのにはもう少し考証が必要と思います。
後日連載いたします。

鰐口(わにぐち)とは、
おそらく皆さんが初詣の神社で、
かしわ手を打つ前に、
じゃらじゃらと鳴らしたあの金属製のもの、
あれが鰐口です。

以前にも書きましたが、
霊感の降りるときは人生の一時期に集中していて、
冑佛(かぶとぼとけ)発見の余韻の中で、
毎朝四時に目を覚まし、
「静岡県史」中世資料編を
むさぼるように読みつづけていた頃のことでした。

『遠江河村荘と河村氏』を
お読みいただければお分かりのように、
「天文七年」(1538)に生存していた
御林守河村家の二代目は「助次良」です。
(良は郎とも書きます。
 中世には、音で字をあてたのです)

「大代」という地名も
それほどあるものではなく、
「大宝」神社は全国にほとんどありません。
(ここでも銘文では「大宝」を
 「大法」とあてています)

つまり、ある朝、

「天文七年」に
「大代」の
「助次郎」が
「大法天王」に

鰐口を寄進したという銘文を
「静岡県史」資料編に見つけたのです。


2008年1月4日(金曜日)

『遠江河村荘と河村氏』26

(75)『静岡県史』資料編古代一四五九号
(76)『静岡県史』資料編中世三ー一三七号
         一三七  後土御門天皇綸旨案 宣秀卿御教書案
      故海住山大納((高清))言家領遠江国河村庄((城飼郡))・近江国勅旨田等事、就被遺跡相続、
      任武家下知之知行不可有相違之由、
      天気所候也、仍執啓如件、
        延徳二年二月十八日    左少弁判((中御門宣秀))
      謹上 右中弁殿((清閑寺家幸))  表書名字也、
(77)『金谷町史』資料編一古代中世一四〇号頭注(6)
(78)『静岡県史』資料編中世三ー一九三号
(79)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(80)『静岡県史』資料編中世三ー一九五号
(81)『静岡県史』資料編中世三ー二〇九号
(82)『静岡県史』資料編中世三ー二〇四号
(83)『静岡県史』資料編中世三ー一九八・二一〇・二一二号
(84)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(85)『当院開基来由扣記』(原本・掛川市長松院所蔵)
(86)『町の文化財』(金谷町教育委員会、一九九四年)
(87)『静岡県史』資料編中世三ー二五四号
(88)『静岡県史』通史編2中世五二二〜五二五頁
(89)『静岡県史』通史編2中世五一八〜五一九頁


2008年1月3日(木曜日)

『遠江河村荘と河村氏』25

第三章脚注を二回に分けて掲載します。

*******************

(58)『静岡県史』資料編中世二ー一七八号
(59)『静岡県史』資料編中世二ー八二五号
(60)『静岡県史』資料編中世二ー一二六九号
(61)『静岡県史』通史編2中世三八八〜三八九頁
    『掛川市史』上巻五〇七〜五〇九頁
(62)『静岡県史』資料編中世二ー二三四四、二ー二四七〇号
(63)『静岡県史』資料編中世二ー二五二七号
(64)『静岡県史』資料編中世二ー二五二六号
(65)開基は門奈美作守。
   『寛政重修諸家譜』巻第九百三十
      藤原氏  支流
       門奈
        今の呈譜に、秀直は波多野三郎義通
        (按ずるに義道は尊卑分脈秀郷流にみえたり)
            が後裔門奈玄蕃允昌通が男なりといふ。
      ●直友(なをとも)
         五郎大夫 今の呈譜に、藤太郎秀直(ひでなを)に作る。
          今川義元に仕ふ。某年死す。年七十六。法名等専。

      ●直宗(なをむね)
         太郎兵衛 母は某氏。
      今川義元及び氏眞に歴仕し、今川家没落の後めされて東照宮につかへたてまつり、
      遠江國豊田郡岡村駒場村にをいて采地をたまふ。
      天正十二年五月十八日死す。年六十三。法名淨水。
    (◎この附記によれば、門奈氏は、波多野義通の後裔として、文明十年には、
      すでに遠江國豊田郡岡村に勢力を有していたものと考えられる。
      とすれば、西相模武士団の一つ波多野氏流の門奈氏が、
      河村氏や糟屋氏とともに移住してきた可能性もある。)
(66)『可睡斎史料集』第一巻寺誌史料、二三三頁(思文閣出版、一九八九年)
(67)『静岡県史』資料編中世二ー二六〇九号
(68)『川龍院(大代河村家永代院号)家先祖累代霊位(位牌)』(河村家所蔵)
『永代家系記録』(河村勝弘編、河村家所蔵)
(69)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―2・3・4
(70)『金谷町史』資料編一古代中世一五一号
拙稿「鰐口考」(『金谷町教育委員会主催御林守展資料』、一九九六年)
(71)『静岡県史』資料編中世三ー一四八〇号
(72)拙稿「鰐口考」(『金谷町教育委員会主催御林守展資料』、一九九六年)
(73)『静岡県史』資料編中世二ー二四九四〜二四九六号
(74)『静岡県史』資料編中世三ー三八号
         三八    甘露寺親長奉書案  親長卿記
        鴨社河((山城国))合禰宜祐長申、
        越中国寒江庄・越前国志津庄御米分・備後国勝田本庄・遠江国河村庄((城飼郡))、
        任当知行之旨、可令領知之由、可被書遣綸旨之由、被仰下候也、謹言、
           五月廿日((文明十五年))    親長((甘露寺))
          蔵人弁殿
    『静岡県史』資料編中世三ー一一二号
         一一二 甘露寺親長奉書案  親長卿記
       鴨社((山城国))前権禰宜祐長遺跡并当社領越中国寒江庄、除庶子部([割])分、
越前国志津庄御米分・備後国勝村本庄・遠江国河村庄((城飼郡))、任故祐有卿譲与旨、
代々相伝当知行不可有相違之由、可令不知比良木社権祝祐((鴨))平給之由、
被仰下候也、謹言、
            三月十((長享二年))八日
        進上    蔵人左少((中御門宣秀))弁殿
『静岡県史』資料編中世三ー一一三号
         一一三   後土御門天皇綸旨案 宣秀卿御教書案 
鴨社((山城国))前権禰宜祐長遺跡并当社領越中国寒□([江])庄除庶子割分、
越前国志津庄御米分・備後国勝田本庄・遠江国河村庄等事((城飼郡))、
任故祐有卿譲与旨、代々相伝当知行不可有相違者、天気如此、悉之、以状、
        長享二年三月十八日    左少弁判((中御門宣秀))
        比良木社新権祝館


2008年1月2日(水曜日)

『遠江河村荘と河村氏』24

本節を概観すると、
河井姓については『人天眼目抄』を初見文書とし、
つぎに『円通松堂禅師語録』に成信戦死の詩偈と初七日經、
また二男宗鏡童子の死を悼む一文があって、
それから約二百五十年後の『当院開基来由扣記』に、
初めて後世に伝わる河井氏観の始源が記された。

河井成信を語る史料は、以上の三点のみである。

『当院開基来由扣記』が書かれてから約二百三十年後の昭和五十年前後に、
『円通松堂禅師語録』をもとに、視座を逆転させるかにみえた三論文

(秋本太二「今川氏親の遠江経略」『信濃』二六巻一号、
広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にしてー」『地方文化の伝統と創造』、
小木早苗「今川氏の遠江支配」『駿河の今川氏』第四集)

が現れたが、その根拠は脆弱で、五百年に渡る史観を揺るがすほどのものではなかった。


2008年1月1日(火曜日)

『遠江河村荘と河村氏』23

(四)

氏親の反今川勢力掃討戦は、鶴見氏のつぎにふたたび原氏に向けられる。

河井氏が今川方であったとする第四の根拠は、
原氏一族の孕石氏が反今川方の原氏を攻めたことである(87)。

明応三年九月に、伊勢長氏が原氏を攻撃。同五年九月十日松葉城主河井成信討死。
同六年、氏親、孕石氏に命じて原氏を討伐。
同七年十一月十三日に、氏親は孕石行重に国衙を給与している。

仮に倉見川筋の河井氏が反今川であったとすると、
今川方孕石氏は、東に河井氏、南に原氏の反今川勢力に挟撃され、
明応七年に原氏の要害を攻める以前に滅亡していたであろう。

天文八年(一五三九)、原田荘本郷の一分地頭である孕石光尚が
「原田荘本郷之内孕石譜代相伝之知行分坪付石米納所帳」
および「国役納所之覚書」という二つの帳簿を書写したことは『県史通史編2中世』に詳しい。

その文中に、
「この文書に現れる地名は、本郷内とはいっても、原野谷川上流の山間部に点在しており、
田地より畠・山野が圧倒的に多い地域である。」とある。

また、孕石氏知行分田地の総計は多くみても六・三町(別帳簿は五・六四町)にすぎない(88)。

一方、原氏の本貫地原田荘の初見史料である弘長二年分の原田荘細谷村正検取帳の写しを見れば、
細谷村の総田数は四十七・七一町である(89)。
これは原田荘地頭職原氏知行分一村のみの田数である。

河井氏の田数は不明だが、
氏の細谷村一村で比較しても原氏と境界を接する孕石氏が、
南の原氏と東の河井氏の挟撃に耐えられるほどの勢力を有していたとは思われない。

従って、孕石氏一人が今川方として、反今川勢力に包囲されていたとするには、
地理的にも、その勢力においても無理がある。

即ち、河井成信は孕石氏とともに今川方として、東方から孕石氏を援護していたものと推論される。


2007年12月31日(月曜日)

『遠江河村荘と河村氏』22

大晦日となりました。
皆様のおかげで無事に年越しができそうです。

今から、神様参りにいってまいります。
五百年を越えてこの家を守ってきてくれた神々に、
感謝の祈りを捧げに行ってまいります。

皆様にとりまして来年も良い年でありますよう
心からお祈り申し上げます。

**********

明應五年九月二十六日、氏親は河井成信の死を悼み、
長松院に采地を寄進する旨の書状を、叔父の長松院二世教之一訓和尚に送っている。

この経緯を『深沢山長松院誌』は、次のように記している。

<公の戦死を聞いて今川氏親は大いに悼み、采地として
  『遠江国金屋郷深谷・山口郷内奥野・下西郷内仏道寺 五段田事右、為料所
   奉寄進之上者、如前々可有執務之状如件、
      明応五年九月廿六日
                       五郎(花押)
       長松院』
 を寄進し長松院を香華所とし、永く菩提を弔い堂内に、霊牌を祀りて開基英檀と称し、
  門外に一宇を設けて鎮守の神と恭敬せり
法名は 宗忠 川井院殿補庵宗忠大居士
御内 月渓院慶室妙讃 大姉
明応五年九月十日卒>


2007年12月30日(日曜日)

『遠江河村荘と河村氏』21

明應五年(一四九六)七月十八日、
氏親の叔父一訓和尚からの要請によるものと思われる長松院宛文書がある(84)。

         < (花押)((今川氏親))
  於当寺長松院、甲乙人等令濫妨狼藉者、速可処厳科者也、
  仍而如件、
   明應五年七月十八日 >

この書状を契機に、長松院開基として氏親の叔父一訓和尚に深く参じ、
今川氏被官である河井宗忠は、斯波方鶴見勝間田両氏と、一触即発の対立関係に発展した。

明應五年九月十日、その日の河井成信の所在は知る由もないが、
長松院裏手の宝篋印塔と五輪塔、
また今なお長松院境内に祀られている若宮権現「鎮守護法宗忠居士」を人々が尊崇していることを思うと、
自決の地は、氏親の叔父一訓和尚の待つ長松院境内であったと考えるのが妥当と思われる(85)。

直ちに今川氏親は鶴見勝間田殲滅戦の火蓋を切る。
『掛川誌稿』「鶴見氏城跡」の条に、

 <今川家の時、大井川の東相賀村に偽旗を張り、奇兵を長者原より下して此城を陥たりと云傳ふ。>

とあり、現在も横岡城の対岸に旗方(はっさし)の地名を残している。
また、鶴見因幡守が討ち取られ、井戸に身を投げた奥方はやがて唇の紅い小蛇と化して井戸の中に棲息し、
人々に畏れられたとも伝えられる(86)。


2007年12月29日(土曜日)

『遠江河村荘と河村氏』20

今川氏親は、明應五年七月十八日と、同年九月二十六日に、長松院宛文書を発行しているが、
これ以前の今川氏の動向を年代順に整理してみると、
まず、『円通松堂禅師語録』によれば、
明應三年(一四九四)八月、伊勢長氏が原谷郷に侵攻し、松堂高盛の円通院が焼失する(80)。

翌明應四年八月、伊勢長氏は伊豆国から甲斐国に侵攻し、直ちに講和を結んで退却(81)。

同年九月、長氏は、鹿狩りを装い、突如小田原城に大森藤頼を攻め、手中に収める。

ところで、『静岡県史』によれば、明應三年八月から明應五年六月までの約二年間に、
伊勢長氏あるいは今川氏親が発給した文書の宛先は、
長氏が伊豆国に対して一通(82)、氏親が駿河国に対して四通である(83)。

すなわち、
河井成信戦死以前の約二年間、伊勢長氏は、伊豆国から関東を固め、
氏親は駿河国の支配強化に努めていたことを窺わせる。


2007年12月28日(金曜日)

『遠江河村荘と河村氏』19

(三)
                                      
河井氏が今川方であったとする第三の根拠は、
河井成信の居城松葉城落城の二年前、
明應三年(一四九四)に、伊勢長氏が原氏の高藤城を攻撃したことである(78)。

『円通松堂禅師語録』によれば、
文明の初年までは明らかに今川方であった原氏が、
この頃は斯波方の勢力下にあって、
その発生から宗忠戦死に至るまで今川氏への一心忠義に徹した河井氏とは、
すでに袂を分かっていたものと思われる。

おそらくは、原氏が血族の孕石氏と決別したのもこの時期であろう。

原氏の居城高藤城は、松葉城から西へ尾根を幾つか越えたところにある。
もしも河井成信を反今川とすれば、明應五年(一四九六)に、
長松院に禁制を出してまで攻撃しようとした松葉城を見過ごし、
掛川を通過して南から高藤城を攻めたことになる(79)。

これでは、高藤城を攻めている際に、
河井・松浦両氏にたやすく背後を突かれたであろうし、退路を断たれたであろう。

即ち、伊勢長氏は、河井・松浦両氏を親今川として退路を確保した後に、
高藤城を攻撃したと考えるのが妥当であろう。


2007年12月27日(木曜日)

『遠江河村荘と河村氏』18

  (二)

河井成信と今川氏とを繋ぐ第二の根拠は、
深沢山長松院開基河井宗忠が、開山の石宙永珊、二世の教之一訓にともに参じていることである。

開山石宙永珊との関係は『人天眼目抄』に、
二世教之一訓との関係は『当院開基来由扣記』に確認される。
特に教之一訓は、今川氏親の叔父ともされている(77)。

この一訓和尚が、開基河井成信の居城を攻撃しようとする今川氏親に、
礼銭を携えて禁制を求めたとする説は、どのように考えても首肯し難いことは先述した。


2007年12月26日(水曜日)

『遠江河村荘と河村氏』17

文明六年(一四七四)、
義忠は遠江見付府中城にあった狩野氏と吉良氏被官の巨海氏を討ち滅ぼし、
引間に進出して斯波氏と対峙。
このとき中遠一揆に敗死した今川範将の子貞延が、
兵一千余騎を義忠に付けられて引間城を攻めている。

翌文明七年(一四七五)、
義忠は、斯波方の国人横地勝間田連合軍と小夜の中山付近で戦い、
そのとき前出の遠江今川氏堀越陸奥守貞延が戦死する。

翌文明八年(一四七六)、義忠は横地・勝間田軍を殲滅するが、
凱旋の帰途、塩買坂で残党の襲撃を受けて落命した(73)。

『静岡県史』によれば、今川義忠戦死のあと文明の内訌を経て、
突然三通の河村荘関連文書があらわれる。

最初は、文明十五年(一四八三)五月二十日、
二通目は、長享二年(一四八八)三月十八日、
ともに後土御門天皇が、遠江国河村荘等を鴨祐長とその子鴨祐平に安堵すると云う内容で、
甘露寺親長から中御門宣秀にあてられた奉書案である(74)。

河村荘がもともと賀茂社領であったことは、
寛治四年(一〇九〇)七月十三日の寄進文書によって明らかである(75)。

三通目は、延徳二年(一四九〇)二月十八日に、
中御門宣秀から清閑寺家幸に送られた綸旨案で、
後土御門天皇が、遠江国河村荘を清閑寺家幸に安堵すると云う内容である(76)。

すなわち、三通の文書は、鶴見氏に対峙するために河村氏が大代へ立ち去ったあとの、
荘園所有権の混乱に対する奉書案と見れば、
河井氏に追われた鶴見氏の横岡城築城は寛正から文明初年、
河村氏の大代移住は文明中、三通の文書は文明末から延徳と、矛盾なく年代順に整列する。

『尊卑分脈』によれば中御門家は河村荘を立券した観修寺家の一門であり、
甘露寺親長は中御門宣秀の外祖父、のちに宣秀の妹は今川氏親の妻となり、
また氏親の家臣として河井成信、成信の三女が嫁した大代河村家、
そして河村氏の本貫地が奉書案の河村荘であることを思うと、
同時代に河村荘をめぐる人々をつなぐ細い糸が見えてきたようにも思われる。


2007年12月25日(火曜日)

『遠江河村荘と河村氏』16

河井成信(号宗忠)が、横岡城鶴見因幡守への備えとして、
相模から本貫地遠江国河村荘に還住した河村氏を、
大代天王山城を守るべく招いたのは、
河村荘一帯が一触即発となる文明五年(一四七三)の頃であったとみるのが妥当と思われる。

今川義忠にとって、松葉城と長松院とが、
きたるべき斯波方との戦に備えて掛川城を守るための重要な布陣であったように、
河井成信の松葉城にとって、三女を嫁がせた河村宗心(助二良父)の守る大代天王山城は、
東の鶴見・勝間田両氏に対峙するための要衝であった(68)。

大代河村氏が鶴見因幡に備えて守ることとなった天王山城の山頂に、
明治四十三年まで建っていた村社大寶神社(69)について、
現大阪大学村田修三教授は、
この大寶神社は、松葉城主河井成信の宗教領域の境界を示すものであると考えられている。

一方、現在の掛川市倉見川のほとりに建つ松葉神社の、
「大寶天皇」と刻まれた鳥居の額について、
宮司の戸塚操氏のお話では、
「大寶天皇は松葉城の頃からあり、
河井宗忠公の勧請によるという伝承が残っている」とのことである。 

『神社名鑑』によると、大宝天王社、大宝社、あるいは大寶神社は全国に九社のみ記載され、
また静岡県神社庁の調べでは、現在それらの名を冠する神社は静岡県内には認められない。
即ち、松葉城と天王山城とに、
ともに祀られていた大寶天王社の名が歴史上極めて稀少な社名であることは、
松葉城主河井成信(号宗忠)と天王山城主河村宗心(助二良父)とを繋ぐ証左のひとつであると考えられる(70)。

 <奉寄進大法天王鰐口、願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日、大工又二郎>

藤枝市安楽寺にこの銘文が刻まれた鰐口がある(71)。
これは大代河村家二代目助二良が、
天文七年(一五三八)、地名を冠して大代助二郎を名告り、
天王山城内の大寶神社に鰐口を寄進したものと思われる(72)。


2007年12月24日(月曜日)

『遠江河村荘と河村氏』15

文明五年(一四七三)、将軍警護のために上洛していた今川義忠は、幕府に働きかけて、
今川方河井成信(号宗忠)の勢力下にある懸革荘の代官職を拝命すると、
直ちに帰国し、遠江国守護職奪回のための布石を東遠に打ちはじめる(67)。
『駿国雑志』は、この経緯を次のように記している。

 <又義忠上京、前将軍義政公、並細川勝元に拝謁す。
   止る事二百余日、其後臺命あり、急ぎ分國に下向し、三遠の賊徒を退治せしめ、
   海道一遍の管領たるべきの承命あり。義忠領承し、急ぎ皈國す。
   家臣朝比奈備中に命じて、遠州掛川に新城を築く。
   文明七年春、遠州の住人横地某、勝間田某等謀叛す。>

義忠が預け置かれた懸河荘は、南の横地氏、東の勝間田氏が反旗を翻したとき、
それに呼応して、横岡の鶴見氏が大代川を遡行して倉見川源流から一気に南下すれば、
目前に懸革荘が現れ、鶴見軍は容易にその北面を衝くことができる。

その倉見川を押さえるために、河井成信を松葉城主として配したものと思われる。
このように、懸革荘の北面にあたる倉見川筋に今川方の河井・松浦両氏を配した後に、
重臣朝比奈備中守に命じて掛川城を築城したものであろう。


2007年12月23日(日曜日)

『遠江河村荘と河村氏』14

『掛川誌稿』「鶴見氏故居」の条に、つぎのように記されている。

<郭中中西ト云所、木戸口ノ内ニ鶴見氏ノ屋敷跡ト呼所アリ、
相傳昔遠州ニ三十六人衆ト云士アリ、
其中鶴見因幡守栄壽ト云人、父子三代五十餘年此所ニ居リシト云、
又栄壽ノ城跡、今榛原郡ノ志戸呂横岡ニアリ、
此人明應五年、倉見松塲ノ城主河井宗忠ヲ襲テ討レ、
宗忠モ亦死ス、此事奥野長松院ノ記及松堂録ニ載タリ、
  然レバ鶴見氏ノ掛川ニ住セシハ、築城以前ノ事ナリ、>

横岡に移住した鶴見氏が大代から安田を抜けて、長松院の脇を流れる逆川を下ると、
やがて文明七年(一四七五)の戦場となる山口に出る。
山口は南の河村荘に接し、さらに南は横地氏の所領へと続く。
長松院の立地は、鶴見氏と横地氏との連携に楔をさし、
河村荘の河村氏を援護するための絶好の地点に今川氏の支城として位置している。

この河井成信の遠江復帰を足掛かりにして、今川義忠は、遠江への本格的攻略を開始した。


2007年12月22日(土曜日)

『遠江河村荘と河村氏』13

<河井氏発生についての私の新説1065文字を削除しました。
この部分はは全くの新説ですので、もう少し推敲してから発表します。
以下その続きから>

文明二年(一四七〇)、今川義忠は、細川勝元の要請により、
斯波方の後方攪乱のために遠江へ進入する(64)。

文明三年(一四七一)、河井成信は石宙永珊を招いて開山とし、
自ら開基となって、懸河大野に深沢山長松院を開創した。

『人天眼目抄』によれば、
「懸河河井方、母儀点海妙愛ノ佛事ノ用意ニ罷越留守ニ此聴聞ハアリ」とある。
これは河井姓の初見文書であり、
川僧慧濟のこの講筵は文明三年から五年の間であることが、
中田祝夫氏によって明白になった。
同氏は、東京大学史料編纂所本『人天眼目抄』の筆者は石宙永珊であろうとしている。

即ち、長松院創建の文明三年以前に、
すでに河井成信が懸河に拠点を築いていたことは明らかである。
長松院末として文明十年に創建された聖寿寺(遠江国豊田郡岡村)(65)
及び文明十三年創建の養勝寺(遠江国榛原郡下湯日村)が、
ともに天竜川と大井川河口の湊に近い要衝地であることを考えれば、
河井成信による深澤山長松院の開創は、
今川義忠の後押しによる斯波方への一連の布石の端緒であったと推測される(66)。
また聖寿寺と養勝寺は、ともに後の長松院二世教之一訓を開山としている。

懸河に居城をもつ鶴見氏が、文明以前に、河井氏によって横岡城へ追われたことは、
後の鶴見氏松葉城攻めの遠因となったのかもしれない。
その横岡城の背後から、古瀬戸後期四段階のものと思われる古窯が発掘された。
藤沢良祐氏(瀬戸市埋蔵文化財センター)は、
これを一四五〇年前後から一四七〇年代までのものであろうとしている。
これは、推論した鶴見氏移住の時期と一致しているし、
また、川根沢窯及び三ツ沢窯からの遺物が、
横地氏・勝間田氏関連遺跡からの出土遺物と一致していることは、
鶴見氏と横地・勝間田両氏との交流をも裏付けているものと思われる。
また、瀬戸は当時斯波氏の勢力下にあって、
そこから志戸呂へ陶工が移住し高度な窯業技術を伝えていることは、
鶴見氏が斯波氏に属していたことを窺わせるものである。 


2007年12月21日(金曜日)

『遠江河村荘と河村氏』12

今日から第三章を連載します。
私の仮説の部分は、もう少し検証をくわえてから発表いたします。

********************************

三  河井宗忠と大代河村氏

 明應五年(一四九六)から『当院開基来由扣記』の書かれた寛延三年(一七五○)までは
約二百五十年の歳月を経ているが、寺を子とすれば開基と開山とはその父母にも比すべきもので、
来歴を重視する寺の日課の回向文として、歴代の住職に日々詠み継がれるものであるから、
『当院開基来由扣記』に記された長松院草創期の内容は、概ね正しいとみてよいと思う。
 即ち、私は、『円通松堂禅師語録』にみえる「菊源氏成信」は松葉城主河井成信(号宗忠)であり、
また成信が氏親の家臣であったために、明應五年九月十日の成信戦死を悼んだ氏親が、
同年九月二十六日に長松院を香華所として土地を寄進したとする説を是とする。

  (一)

 第一の根拠は、河井氏あるいは山名郡川井村と遠江今川氏との関わりあいは古く、
その歴史を背景に、やがて斯波氏との火蓋が切られんとする文明の初年、
朝比奈備中守が掛川城を築くころに、河井宗忠も今川義忠の家臣として松葉城主に取り立てられた
と推論しても不合理ではないからである。


2007年12月20日(木曜日)

『遠江河村荘と河村氏』11

このブログで、ただ一つの歴史というものは存在しない、
ということをお話ししたことがあります。
歴史は、ある研究者の学説のひとつにすぎません。

ましてや中世以前の記録の乏しい時代の歴史は、
わずかな記録の断片をどのように組み合わせるかで、
ずいぶん異なった様相を呈するものです。

ところで私は、冑佛(かぶとぼとけ)の研究を続けていますが、
その発端となったのは、御林守河村家に伝わるひとつの伝説でした。

「ご先祖さまが兜の中に入れて戦った」という
たったひとつの伝説からすべてが始まったのです。
伝承はときに、記録から漏れた真実を語り継いでいると知りました。

本居宣長の『古事記』をみる姿勢も、
伝えられた原典に忠実であるべきで、
後世の曲解をつとめて排除すべし、としていたように思います。

河井宗忠に関する中世史料はほんの僅かで、
極論すれば、
河井宗忠を今川方とする史料も、
反今川方とする史料も、
中世史料としてはどちらも存在していません。

河井宗忠を今川方とする近世史料(江戸時代の文書・史料)として、
河井宗忠の死後、二百五十年たってから、
深沢山長松院十世中興活山鉄獅和尚の『当院開基来由扣記』があらわれます。
『掛川史稿』はさらに後世のものです。

それらは、江戸時代には存在していたかもしれない文書や、
あるいは先述した冑佛のように、
当時の生きた伝承をもとにして書かれているはずです。

講演で私が伝えたかったのはそのことです。
つまり、

1974年の秋本太一「今川氏親の遠江経略」、
1976年の広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にしてー」、
1979年の小木早苗「今川氏の遠江支配」、

以上の三論文は、河井宗忠が明應五年(1496)に戦死してから、
実に五百年の歳月を隔てて書かれたものです。

しかも最初の秋本論文には明らかな誤謬がみとめられ、
後の二論文は、その誤謬をもとに曲解を重ねて大きく逸れ、
ついには平成九年(1997)の『掛川市史』に至ったというわけです。
『掛川市史』は、いわば三論文の犠牲者のようなものです。

ですから、
根拠のない新説を採るより、
長い歴史にさらされて生き残った伝承文化を
尊重していただきたい。
そのほうが、五百年後に突然産み落とされた奇説を採るよりも、
よほど確かで、市民にとって健全な歴史です。

それが、講演で私の訴えたかったことなのです。

論文を糧としている人には、新説奇説も意味があるのでしょうけれど、
何百年もの伝承を地域の文化としている人々にとって、
あるいは文明三年(1471)に創建された深澤山長松院を
累々と守ってきた歴代のご住職にとって、
さらには河井宗忠を祖先のひとりとして
この地に五百年以上住み着いている御林守河村家にとって、
ゆえなく伝承を覆されることは、
迷惑以外の何ものでもないということです。

研究はどうぞご自由に、研究誌に発表していただきたい。
『市史』は市民の財産です。
『市史』は、市民を勇気づけ、市民が明るく前へ進んでゆけるように
書いていただきたいということです。

(ちょっと過激でしたか?)

つづきはまた明日。


2007年12月19日(水曜日)

『遠江河村荘と河村氏』10

第三章の連載をお約束しておきながら、
またまた今日も、長松院での講演のお話です。

じつはご住職から講演のお話をいただいたときに、
こんなふうに聞かされていました。

「河井宗忠公は、今川の臣として、
いまでも地域の信仰をあつめています。
古くから開基河井宗忠公の徳をたたえてお祭りも催されている。
ところが今度編纂された『掛川市史』には、
河井宗忠は反今川として今川氏親に滅ぼされたとされています。
いかに歴史研究者とはいえ、軽々に地域の信仰を覆してよいものか。
伝統文化をないがしろにされて、檀家の皆さんは当惑している。
『掛川市史』は市民の歴史的財産であって、
新説を発表するための研究誌ではない。
どのような根拠でそのようなことを言うのか、
河村さん、あなたは河井宗忠について研究されたようだから、
河井宗忠が今川方であることををお話ししていだいて、
檀家の皆さんに安心してもらいたいのです」

ご住職の主旨はこのようなことでした。

講演の話をいただくずいぶんまえから、
私は河村家の歴史について資料を集め、
遠江河村荘、相模山北の河村城、大雄山最乗寺、奥州河村氏、
などと金谷河村氏との関係をまとめていたのでした。
もちろん、祖先河井宗忠公について詳しく調べたことは
言うまでもあありません。

何度も申し上げるようですが、
河井宗忠公は、深澤山長松院の開基であり、
御林守河村家の菩提寺、龍燈山法昌院の開基でもあります。
そして河村家の祖先でもあるということは、
くり返し書いてまいりました。

河井宗忠は私にとって、単なる歴史上の人物ではないのです。

ご住職の苦渋の訴えを聞いて、
私は火がついたように河井宗忠の研究を始めました。
さらに深く掘り下げ、
限りなく客観的で正確な立論を目差しました。

そうして『遠江河村荘と河村氏』の第二章、第三章の
骨子ができあがったのです。
そしてその概略を『河井宗忠公略傳』としたのです。

私は、迸る思いを秘めて講演を始めました。

つづきはまた明日。


2007年12月18日(火曜日)

『遠江河村荘と河村氏』9

平成十一年二月、
河井宗忠五百回忌法要のその日、
私は金谷長史編纂専門員の片田氏と長松院を訪れました。
澄み渡る冬の日でした。
寺の本堂には多くの檀家たちが集まっていて、
開基河井宗忠公への愛惜と深い信仰心が感じられました。

その檀家たちの前で、一時間半ほどの講演をしたのです。

その日のために、
私は『河井宗忠公略傳』なる小論考をしたため、皆様に配布しました。

以下、その「あとがき」から転載します。

************************
 後 記

長松院の御住職から、河井宗忠公傳の御依頼を受けたとき、
 確かな因果を感じました。
 私の菩提寺は、金谷町大代の龍燈山法昌院で、
 開基は河井宗忠公とされています。
 また龍燈山の鎮守は宗忠八幡大菩薩であり、
 その祠は法昌院の境内に建っています。
 河井八幡とも呼ばれ、代々私の家で祀ってまいりました。
河村家は川龍院を永代院号とし、位牌には、
 永正二年六月六日を命日とする忠學宗心居士(助二良父と附記されています)と、
 同年六月五日を命日とする自雲妙性大姉(松葉城主三女と附記されています)とが
 初代として記され、古い墓石も残されています。

昭和三十二年九月の河井宗忠公四百五十回忌には、
 私の祖父もお招きいただきました。
 また、幼い頃から河井公のことを聞かされて育った私が、
 奇しくも五百回忌のために略傳をしたためさせていただくことになりましたことは、
 長松院御住職への感謝の念とともに、誠に深い悦びにたえません。

拙文ではございますが、河井宗忠公五百回忌の法要に、この一文を捧げ奉ります。

平成十一年二月吉日   河村 隆夫


2007年12月17日(月曜日)

『遠江河村荘と河村氏』8

明日から、第三章を分割掲載致します。

そうそう、皆さんは、なぜこんなことを十年もかけて私が書いたのか、
不思議に思われたことでしょう。

それは、十年ほど前に新しく編纂された『掛川市史』が発端でした。
そこには、掛川市倉真川上流に居城を持つ
河井宗忠についての新説が採られていたのです。

私の祖先の墓石については、以前投稿したことがあるから、
憶えている方がいらっしゃるかもしれません。
ちょうどブログを書いている今頃、
朝陽の差す墓所にいくと、光の角度のぐあいで、
消えかけた墓石の文字が、うっすらと見えるのです。
私が幼い頃には命日までくっきりと見えていました。
酸性雨の関係なのでしょうか、
近年とんと見えにくくなってしまいました。

墓石には、
左に「忠学宗心居士」右に「自雲妙性大師」と書かれています。

『安養寺過去帳』や『川龍院家位牌』には、
「忠学宗心居士」の下に「助二郎父」、
(この河村家二代目「助二郎」が、大宝神社に鰐口を寄進したことは、
すでに『鰐口考』に書きました)
「自雲妙性大師」の下には「松葉城主三女」とあります。
つまり、私の体には、河井宗忠の血が流れているのです。

ところで、問題は、松葉城主河井宗忠が、
今川方であったか、反今川方であったのかということなのです。
どうだっていいことじゃないか、と思われるかもしれません。
どっこいそれがそうでもないのです。
というのも、これは地域の信仰に深くにかかわることでもあるからです。

深澤山長松院(掛川市奥野)は、その開基を河井宗忠としています。
ある日そのご住職から、
「河井宗忠の五百回忌をやるが、河井宗忠について話してくれないか」、
と講演の依頼が舞い込んだのです。
平成十一年二月のことでした。

つづきはまた明日。


2007年12月16日(日曜日)

『遠江河村荘と河村氏』7

『遠江河村荘と河村氏』の二章が終わりましたので、その脚注を掲載します。
明日から三章を連載します。
*******************************

(41)『静岡県榛原郡誌』上巻
    『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―2・3・4・他
    『榛原郡神社誌』
    戸籍謄本
(42)『金谷町史地誌編』四三〇頁
(43)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世L―477・479
     L―477「安養前住寿山仙翁和尚葬式諸般結算帳」
     L―479「金銭諸払作米取立葬式諸般結算帳」
(44)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―23・25
(45) 掛川市長松院所蔵(原本)
(46)『掛川市史年表』(掛川市史編纂委員会、一九九七年)
(47)小木早苗「今川氏の遠江支配」(『駿河の今川氏』第四集、今川氏研究会、一九七九年)
(48)広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にしてー」
   (『地方文化の伝統と創造』地方史研究協議会編、雄山閣、一九七六年)
(49)秋本太一「今川氏親の遠江経略」(『信濃』二十六ー一、信濃史学会、一九七四年)
(50)『静岡県史』資料編中世三ー二五四号
 「孕石殿    氏親」
遠江国山名郡内貫名郷国衙引田之事
右、去年丁巳於原要害依抽忠節、為其賞宛行之了、弥可嗜忠節状如件、
      明応七年戊午十一月十三日
                     氏親(花押)
                孕石殿
(51)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(52)『静岡県史』通史編2中世六五〇頁
    『国史大辞典』4「禁制」
(53)『静岡県史』資料編中世三ー二二一、三ー三八八、三ー一四三九
     三ー一六〇六、三ー二八二六、三ー二四七〇号
(54) 掛川市長松院所蔵(写)
(55)『静岡県史』資料編中世三ー一六二五、三ー一六二六、三ー一六二八
三ー一六二九、三ー二一一二、三ー二一一三、三ー二九八〇
三ー三三〇五、三ー三三〇六、三ー三三九九号
(56)『静岡県史』資料編近世一ー四一二、一ー四一三号
(57)桑田和明「戦国大名今川氏による寺領安堵についてー駿河・遠江を中心にー」一一一頁
   (『駿河の今川氏』今川氏研究会、一九八七年)
    ・・・このように、今川氏一族、今川氏と関係の深い人物が葬られた菩提所は、
    寺領を寄進された他、多くの特権を菩提所であるということで安堵・寄進されている。・・・


2007年12月15日(土曜日)

『遠江河村荘と河村氏』6

これを袋井市春岡の西楽寺と比較してみると、
今川期には、義元が天文十二年と二十一年、氏真が永禄四年と永禄八年、永禄十年に寺領を安堵している(55)。
豊臣期には、天正十八年十二月廿八日豊臣秀吉寺領寄附朱印状に遠江国西楽寺領事として合百七拾石とあり、
徳川期にも、慶長八年九月十一日の徳川家康寺領寄附朱印状写に西楽寺領事として合百七拾石とある(56)。
今川から豊臣の間に、寄進された寺領に変化がなかったと思われる根拠は、天正十八年の豊臣秀吉寺領寄附朱印状の次の一節である。

   <然上者如有来門前諸役・山林竹木等令免除候也>

 即ち、今川、豊臣、徳川と、時代の変遷に伴う地理的価値等の変化によっても、
西楽寺においてはさほど寄進の石高に変化がなかったものと思われる。
 このように比較してみると、長松院への今川氏と徳川氏の寄進額の多寡から、
今川氏が開基河井成信(号宗忠)の戦死を悼んで、如何に長松院を厚遇したかが推測される。
即ち、明応五年九月廿六日、氏親の寺領寄進文書は、今川氏親家臣河井成信の戦死を悼んで、
河井氏を開基とする長松院に与えられたとするのが妥当であろう。(57)
 河井氏を反今川とする説の形成過程は、ほぼ明らかになった。
昭和四十九年の秋本論文、昭和五十一年の広瀬論文、昭和五十三年の小木論文、
この三論文によって、約五百年間に渡って語り継がれた史観は逆転したかにみえたが、
その三論文の根拠をたどれば、『円通松堂禅師語録』をでていない。
新たな史料が発見されたわけでもなく、『当院開基来由扣記』から約二百三十年後に、
単に『円通松堂禅師語録』の解釈を反転させたというにすぎない。


2007年12月14日(金曜日)

『遠江河村荘と河村氏』5

つぎに、明応五年九月廿六日の氏親の寺領寄進文書に、戦闘終了を意味する文言は認められない。

   <遠江国金屋郷深谷・山口郷内奥野・下西郷内仏道寺並五段田事右、
為料所奉寄進之上者、如前々可有執務之状如件、
      明応五年九月廿六日
                       五郎(花押)
            長松院>

 長松院への寺領寄進は、今川期には、氏親が明応五年と永正弐年、義元が天文六年と天文十一年、氏真が永禄三年と、
今川氏代々寄進が受け継がれている(53)。
徳川期にも寄進は続けられるが、今川期に寄進された寺領の内
「金屋郷深谷・下西郷内仏道寺並五段田」が減じられていることが次の朱印状写(54)からわかる。

<徳川家康朱印状
   遠江国佐野郡奥野村之内五十八石七斗任先規寄附也并山林竹木諸役等
   免除証者仏事勤行修造等無懈怠可勤仕之状如件
    慶長八年九月十九日 家康朱印>

秀忠の代にも五十八石餘、家光の代には四拾八石餘と減じられて
爾後家綱以下家茂に至るまで同文の朱印状写が、長松院に保存されている。
 今川期の寄進石高は記録にないが、明治十三年七月に記された『曹洞宗長松院明細帳』の「由緒」の項に
「○慶長八年九月十九日徳川家康公ヨリ更ニ五拾八石餘ヲ受ク 傳ヘ云フ今川氏ヨリ受クル所ノ二十分ノ壱ナリト」とある。


2007年12月13日(木曜日)

『遠江河村荘と河村氏』4

 秋本氏は河井成信反今川説の根拠を、さらに『円通松堂禅師語録』の一節に求めている。

  <しかし、同(明応)五年になると、松葉城主川井成信の戦死という事件が起こってくるが、
これも前記語録によって明らかにされる。
             悼輔菴宗忠菴主
   明應丙辰秋之季十日。菊源氏成信侍中輔菴宗忠菴主戦死矣。
       因野衲述贅言一章。為帰郷一曲以餞行去。
        因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
        端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。
 この川井氏の事件については、古くより今川氏のために戦死したと伝えられているが(『遠江風土記伝』『掛川誌稿』)、
同語録の内容からみると原氏に殉じて今川軍に討たれたとみるのが妥当のように思われる。
最後の皇州も.駿州とみるより原氏の遠陽州を指したと解すべきであろう。
これに対する今川側史料としては、明応五年七月十八日長松院に掲げた氏親の禁制が認められる。(『長松院文書』)。
深沢山長松院(掛川市大野)は、川井氏の居城松葉城(同市倉見)に近く、
氏親の禁制は同城攻撃に際して出されたものとみられる。
ついで同年九月廿六日、氏親は同寺院に寺領を寄進しているが、これは戦斗の終了を意味したものであろう(長松院文書)。>

『円通松堂禅師語録』に、「皇州」という言葉は、この七言絶句の他には認められない。
また、「皇州」を、遠陽州と読むべきであろうか。
 「皇州」の使用例を各種の漢和辞典から引用してみる。
    (?)辞源三(商務印書館)
指帝都。南朝宋鮑照氏集二代結客少年場行詩¨“昇高臨四關’表裏望皇州。” 
      唐李白李太白詩二古風之十八¨“衣冠照雲日’朝下散皇州。”
(?)辞海(上海辞 出版社)
犹帝都。謝眺《和徐都曹出新亭渚》詩¨“宛洛佳邀遊’春色満皇州。”
(?)辞海下冊(臺灣中華書局)
猶言帝都謝眺詩『春色満皇州』
  (?)大漢和辞典(大修館書店)
  帝都〔鮑照、代結客少年場行〕升高臨四關、表裏望皇州。
    〔謝眺、和徐都曹出新亭渚詩〕宛洛佳邀遊、春色満皇州。
      (?)増補辞源(角川書店)
帝都をいふ。鮑照詩「繁霜飛玉關、愛景麗皇州」
 (?)〜(?)は中国版、(?)(?)は日本版である。
これらの使用例はすべて、「皇州」を帝都の意味で用いている。
 使用例のないものとして次例がある。
(?)大字典(講談社)
我が國の稱。神州。
 このように使用例の限られた特殊な「皇州」という言葉を、十五世紀中葉の足利学校に学んだ英聖松堂高盛が、
遠陽州を指す言葉として用いたとするのは無理があるように思われる。
一心忠義徹皇州、の解釈は、河井成信の一心忠義は京都(帝都)にまで知れ渡った、とするのが妥当ではなかろうか。
つぎに、明応五年七月十八日長松院に掲げた左記の氏親の禁制に、松葉城攻撃の文言は認められない(51)。

      <(花押)
  於当寺長松院、甲乙人等令濫妨狼藉者、速可処厳科者也、仍而如件、
    明應五年七月十八日>

 明応五年当時、長松院住職は氏親の叔父とされる教之一訓で、長松院開基である河井成信は存命中であった。
秋本氏の説によると、長松院二世教之一訓は、生存している開基河井成信を討たんとする今川氏親に、
礼銭を携えて禁制を求めたことになる(52)。生きている開基を討つ側にその寺の和尚が与するとは奇怪なことで、
後世まで喧伝されるたぐいの話であろうが、そのような風説は寡聞にして知らない。
逆に『当院開基来由扣記』には、「公夫妻嘗参院二代教之和尚而聴法」と記されている。
 即ち、この禁制は、長松院付近一帯が戦場となるために、長松院が反今川勢力を恐れて、
開基河井成信の主君今川氏親に禁制を求めたとする解釈が妥当であろう。


2007年12月12日(水曜日)

『遠江河村荘と河村氏』3

(3)『掛川市史』上巻五四三頁・一〜三行目

 <早雲は、徐々に原氏と共同歩調をとる国人領主たちを追いつめていったのである。
その具体的な戦いの経過がわかるのが、明応五年(一四九六)の松葉攻めである。
     松葉城は前の章でみた国人領主川井成信(号宗忠)の居城であった。>

『掛川市史年表』(46)には、明應五年九月十日の項に「河井宗忠、反今川勢により松葉城で倒れる。」とあり、
同時に刊行された『掛川市史』の右の記述と『掛川市史年表』とは矛盾している。 
河井成信を反今川とする説の発生は、どの論文を端緒としているのだろうか。
ここに小木早苗氏の「今川氏の遠江支配」(47)がある。掲載誌の発行は昭和五十四年である。
 その河井氏に関する一節を抜粋してみる。

  <…(原氏は)以前より付近の土豪とも一揆的結合があったらしく、川井氏などもこれに同調していった。
二十年近くの空白を経て氏親が遠江侵入を開始するのは、明応三年(一四九四)のことと思われる。
   氏親の遠江における初見文書は、明応五年(一四九六)七月十八日長松院(現掛川市日坂町)に出した禁制である。
長松院は川合氏の菩提寺であり、川合氏は氏親の遠江侵入開始とともに滅ぼされたものである。>

この説の根拠を注釈にみると、

  <「広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にしてー」
  (『地方文化の伝統と創造』地方史研究協議会編)(48)
「長松院文書」(『静岡県史料』第四輯、二二四頁)>

 とある。
 「長松院文書」ではもとより河井氏を今川方としているので、
ここでは昭和五十一年に発行された広瀬良弘氏の前掲論文の一部を抜粋してみる。

  <…これらの多くは原氏一族と思われ、原野谷川流域に居住していたものと思われる。
   また、やはり原氏と連繋を保っていた菊源氏川井成信は原野谷川上流で孕石(原氏一族の孕石氏の居住地)の東方、
   松葉に根拠に置いていた。(傍点筆者)>

この説の典拠を注釈にみると、

 <『円通松堂禅師語録』四>

とある。
広瀬氏前掲論文の次の一節には、明らかな地理的誤解がある。

  <…原野谷川上流で孕石(原氏一族の孕石氏の居住地)の東方、松葉に根拠に置いていた。>

河井氏の居城松葉城は、原野谷川上流ではなく、原野谷川から東へ尾根をいくつか越えた倉見川上流にあって、
原氏の居城高藤城から、直線距離にして十キロほど北東に離れている。
 また『円通松堂禅師語録』に、菊源氏成信について記されているのは、前掲の三個所だけであるが、
そのいずれにも、河井氏が原氏と連繋を保っていたとは書かれていない。
広瀬氏が、「連繋を保っていた」とする根拠は不明である。
ところで、広瀬論文の二年前、昭和四十九年に、秋本太一氏が「今川氏親の遠江経略」(49)を発表している。その一節に、

 <…(原氏は)松葉の川井氏等とも連携を保っていたことも、同語録によって知ることができる。(傍点筆者)>

とあり、広瀬論文(前掲傍点部分)の表現は、この秋本論文と酷似していることがわかる。
また、秋本氏も、「連携を保っていた」とする根拠を明らかにしていない。
秋本氏は、原氏一族寺田氏の出自である松堂高盛が、
河井宗忠の戦死に際して詩偈を贈ったことに象徴される河井氏との親密な基調を、『円通松堂禅師語録』の底流に見たことで、
河井氏が原氏と連携を保っていたとしたのであろうか。
とすれば、例えば孕石氏と河井氏とを比較したとき、
歴然たる原氏の血族であり、原野谷川沿いに原氏と領地を接していた孕石氏は、
河井氏より一段と強固な連携を原氏との間に保っていてもよさそうであるが、そうとも断定し得ない。
実際、明応六年(一四九九)、孕石氏は原砦を攻撃している(50)。


2007年12月11日(火曜日)

『遠江河村荘と河村氏』2

 (2)『掛川市史』上巻五四四頁・三行目

 <…川井成信の戦死の日を明応五年九月一〇日としている。なにによってその月日が記されたのかはわからないが…>

河井宗忠について、『円通松堂禅師語録』にみとめられるのは、僅かに次の三個所である。

        <悼輔菴宗忠菴主
  明應丙辰秋之季十日。菊源氏成信侍中輔菴宗忠菴主戦死矣。
  因野衲述贅言一章。為還郷一曲以餞行去。
  因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
  端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。
         宗忠菴主初七日經
  向一毫端上。七莖  紅。無三無二妙。不滅不生宗。
  剣樹刀山壊。 湯爐炭融。鷲峰與今日。貫卻寸心忠。
         悼宗鏡童子
 源氏成信侍中之二男。法諱宗鏡童子者。文明丙午之歳孟夏之月初誕也。
 容顔美麗。精神聰敏。如越谿蓮。似荊山玉矣。父母慈愛鞠養。朝暮不離懐抱。
  恨成人遲。期長生計。已及丁末僅二歳也。茲仲呂二十八日。忽得病苦。
  逾月累日。將向季夏。而爺孃酸辛謹致丹誠。 爾上下神祇。頻加醫藥。
  以療養。嗟吁天哉。不得靈驗。不幸短命而死矣。二親慟哭。戀慕切也。
  余雖阻重山復水。傳聞其餘哀不淺。感慨不止。故寄伽陀一章。以欲截愛河之流。
  拂迷雲之暗。誠是 錐不達之謂歟。一如他南泉指庭前花。召大夫云。
  時人見此一株花如夢相似者乎。若能一撥 轉。豈唯公與陸公執手而合。
  天地同根萬物一體之道而已哉。宗鏡童子忽免不孝之罪過。爲導雙親之孝子必爾矣。>

 「明應丙辰秋之季十日」とは明応五年季秋十日、即ち陰暦九月十日を指しているものと思われる。
あるいは秋之季(あきのすえ)と読んでも、やはり陰暦九月十日を指すものであろう。
 本文中屡々『円通松堂禅師語録』が引用されているにもかかわらず、
「なにによってその月日が記されたのかはわからない」とするのは、不思議なことである。


2007年12月10日(月曜日)

『遠江河村荘と河村氏』1

四十代から、十年ほどかけて完成した『遠江河村荘と河村氏』を、抜粋して連載します。
中世北遠の歴史と河井宗忠、河村氏とのかかわりについて調べたものです。

死蔵していてもしょうがないので、少しずつWeb上で公開することに決めました。

はじめは、河井宗忠についての論考部分です。

***************************************

『遠江河村荘と河村氏』 河村隆夫

二  今川氏と河井宗忠

(一) 天王山城と河井宗忠

大代天王山の山頂付近にある大きな井戸は、今は茶園造成の土砂に埋もれて、
みるかげもなく草むらに覆われているが、ほんの最近まで、常時十トンほどの豊かな清水をたたえ、
中世と変わらぬ空の色を映していた。
一間四方もある丸太組のこの井戸が、農業用水として使われなくなったのは、
昭和の末年ごろのことである。
そこから、尾根をへだてて百メートルほど西に、現在も絶えることなく透き徹った水の湧く泉があって、
昭和二十年代頃まで、その山頂の泉のまわりには、水田が耕されていた。
その昔、天王山を守っていた兵士たちの喉を潤すには充分の水量である。
 また山頂の茶園から、無数のかわらけとともに出土した古鏡は、
明治四十三年まで天王山の山頂に建っていた大宝神社(41)の宝物と思われるが、
のちに大代神社に奉納されたあと、紛失して行方がしれない。
 『遠江古蹟図繪』の三十九「野守池」の一節に、夢窓国師が金谷に滞留し、
「寺を一箇寺建立したまひ開山と成る。寺号を龍燈山安養寺と云ふ。」と記されている。
 『静岡県榛原郡誌』上巻には、この一節をうけて、

   <因みに云、前記安養寺は河合宗仲廃して城地となして此処に居り、
其付近に法昌院を創して自ら開基となり、
安養寺は一時全く廃絶の姿となりしも後年又別地に安養寺を再興せるもの
即現時の寺其ものなりと云ふ。>

 とある。
 現在の安養寺は、河村家よりも谷間の奥にあり、砦として使えそうな急峻な地形の上に立っている。
本尊は、慶長年間に利生寺に移され、その製作年代は、鎌倉期あるいはそれ以前の作とされる(42)。
また、安政二年(一八五五)の『安養前住寿山仙翁和尚葬式諸般結算帳』に、
「比帳面ハ奥乃村長松院様ヘ相納候帳面ニ御座候以上」とあり、
長松院と安養寺との関係が確認された(43)。
また、法昌院の鎮守は、白山妙理大権現と宗忠八幡大菩薩とされ、
宗忠八幡は今でも法昌院の境内に建っている。河井八幡とも呼ばれ、
昭和二十六年九月十五日の河村小次郎による祭文も残されるなど代々河村家によって祀られてきた(44)。
『静岡県榛原郡誌』上巻に、現存する龍燈山法昌院について、次の記述がある。

  <大代村法昌院の寺記中に(今井氏の載録せられたるものに據る。)
法昌院 開創、當院奮記に觀應二年三月五日臨濟宗夢想國師開山とあり、
後文祿元年二月川合宗仲公其奮跡に就て精舎一宇を建立し歸依に依り
當國佐野郡上西郷村法泉寺八世玄達和尚を請して開山と為す、
故に川合公を開基と稱す云云(法昌院明細書)。
過去帳寫
開山 通山玄達和尚 應仁三月廿四日化す
    二世 揚山順番和尚 文明二年十一月二十二日寂す              
    開基 法昌院殿補庵宗忠大居士   明應五年九月十日
    月桂院殿慶室妙讃大師川合宗仲妻  明應五年九月十日
但夫婦共佐野郡奥野長昌寺池の傍に自殺
とあるも、蓋後人の傳承を記述したるものなるべければ年代其他に杜撰多きが如し
(夢想國師は観應二年九月遷化なれば少しく訝しけれども、斯る類例は他にもなきにあらず、
されども文禄は應仁元年より百二十餘年の後なれば長祿などの誤にやあるべき )、
されど何等か因縁を有したることは自ずから窺知せらるるのみならず、
郷人平井磯次氏の談に法昌院の附近に一地區あり、
之れ今川氏の臣河合宗忠の城址なりと傳ふと云へり、>

この、文中にある「一地區」こそ、天王山であったと推定される。
その根拠は、諸書に記されているが、平成九年三月十九日の現大阪大学村田修三教授の御説は、
それを決定づけるものと思われる。当日、村田教授は御体調を崩されて、
現地視察こそされなかったが、天王山付近の立体模型と地図、資料等に基づいての御説を、
金谷町教育長室において約一時間にわたって披露され、町史編纂専門員片田達男氏と私とで拝聴した。
村田教授の論旨を要約すると、次のようになる。

  ?時代についても、平面的にも、河井氏と河村氏との連合軍が、
この地域を領していたものと考えられる。
  ?大宝神社は、河井氏の宗教領域の境界を示すものであろう。
 ?天王山が、茫漠とした城として用いられた可能性は充分ある。
茫漠とした城とは、堀や堀切をつくらず、自然の地形をそのまま要害とした戦闘拠点であるが、
平時には、例えば大宝神社のように民衆ともかかわっていた。

(二) 今川氏と河井宗忠

 本章の主題である今川氏と河井宗忠との係わりについては、
以下『掛川市史』の河井宗忠に関するいくつかの論点について考察を加えながら記してみたい。

(1)『掛川市史』上巻五一八頁・四行目

 <同時代史料である『円通松堂禅師語録』には「菊源氏川井成信」と書かれているのである。
河井も河合もまちがいではないが、ここでは川井と書くことにしたい。>

  『掛川市史』上巻五一八頁・一一行目

    <『松堂高盛禅師語録』にははっきりと「菊源氏川井成信」と書かれている>

『円通松堂禅師語録』に「菊源氏川井成信」と書かれている個所は認められない。
また、『松堂高盛禅師語録』なる書は『新纂禅籍目録』
(駒澤大学図書館・昭和三十七年六月発行)には掲載されていない。
明應五年(一四九六)九月十日、今川氏親の家臣河井宗忠が、松葉城在城のとき、
鶴見因幡守と勝間田播磨守の連合軍に急襲されて戦死したとするのは、
深沢山長松院十世中興活山鉄獅和尚の『当院開基来由扣記』(45)を根拠としている。
『当院開基来由扣記』とは、寛延三年(一七五○)、
大阪天満の松景山冷善院主である義誉上人の質疑に答えて、活山和尚が上人宛に送った書簡の写しで、
長松院は元文四年と宝暦元年の二度の火災によって書物を悉く焼失していたために
活山和尚が伝承などをもとに『当院開基来由扣記』を記したものである。
即ち、『円通松堂禅師語録』にみえる「菊源氏成信 」「宗忠菴主」を、
今川氏親家臣松葉城主河井成信(号宗忠)と同定したのは、『当院開基来由扣記』に初見である。
また姓については、文明三年(一四七一)〜同五年(一四七三)に、
長松院開山石宙永珊によって筆録された『人天眼目抄』に「懸河河井氏」とあるのが初見である。
『当院開基来由扣記』もまた河井としていることから、姓は河井と書くのが妥当であろう。


2007年12月8日(土曜日)

従兄と再会

左から生子哲男さん、二人目は邦夫さんの恩師、大関邦夫さん、私(07・12・02萬露亭にて)
邦夫さんとは三年ぶり、哲男さんとも一年ぶりの再会です。
二人とも父方の従兄です。
邦夫さんと哲男さんとは、実に20年ぶりの再会のようでした。

大関邦夫さんは長男の子、生子哲夫さんは長女の子、
そして私は次男の子です。

邦夫さんは今年の三月で弘前大学副学長を退官して悠々自適、
哲男さんは動物病院を長男に継がせてこれまた悠々自適、
私はお二人より10才ほど若いので、いまだ現役です。

その日は邦夫さんの高校の同窓会の日でしたから、
はるばる弘前から静岡を訪ねて来たのです。
新幹線小田原駅から友人と一緒ということで、
私は昼食の席を四人分用意してお待ちしていました。

島田駅で合流した同級生たちと邦夫さんが相談したところ、
高校の恩師と、私たち三人の従兄弟でお食事をすることになりました。

今まで聞いたことのなかった思い出話を、たくさん聴くことができました。
哲男さんが戦前派、邦夫さんが戦中派、私が戦後派であることも
その時はじめて知りました。
いままで思ってもみなかったことでした。

哲男さんの満州の話や、邦夫さんが国立にいたころの戦時の話は、
戦塵が漂い、空襲警報が遠くで鳴っているような思いで聞きました。

恩師と邦夫さんとを次の会場までお送りして、
従兄たちとのほんのわずかな再会の時間が終わりました。

これはその時の写真です。


2007年12月1日(土曜日)

今朝の銀杏

カテゴリー: - kawamura @ 16時00分13秒

今朝の銀杏は、今年一番でした。
ところで、長期にわたってパソコン不具合がつづき、ついにハードディスクが破壊され、
いままでのデータがすべて消滅。諸行無常のかなしみに耐えているところです(笑)。
歴史研究、小説、メールの記録など、膨大なファイルが夢と消えました。

現在はあたらしいパソを物色中。
ところが、OSが変わって、光かADSLでないと対応できないとかナンとか。
深山幽谷に住む私は、ずっとISDNでしたから、ど〜しよ〜、とうろたえているところ。
無線LANの快適生活とはオサラバかもしれない。

さすがに、仕事場のパソではブログは書きにくいのです。
それでも、あまりの銀杏の綺麗さに、仕事場でUPしました。

銀杏鑑賞は、午前9時頃が最適です。


2007年4月11日(水曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(9)

 敵をたヾ打つと思ふな身を守れをのづからなる賤か家の月

 山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ

この二首の歌には、相通ずるところがあるように思います。
剣禅一如と通底しているように感じられるのです。

上の歌は、鉄舟の鉄扇の刻銘です。
下の歌は、柳生心影流極意だったように記憶しています。
(空也上人の歌と伝えられています)

それらの歌に共通しているのは、
私心を捨てる、ということでしょうか。
勝ちたい、と思うと、その思いにとらわれて
ありのままの敵の姿がみえなくなる、というのでしょう。

生死を分ける極限状態では、
正確な敵の情報こそが重要なのでしょう。
自身が思うことよりも、
状況を私心なく判断することのほうが大切というのです。

武蔵の『五輪書』の中にも、
同じような内容が随所に書かれています。

 手は何時となく空になり、唯だ心の命ずるまゝ、
 知らず知らず打つ事、
 是れ無念無相とて、一大事の打なり。

これらが禅に発するのか、
老荘思想を端緒にしているのか
というふうな空論はべつにして、
彼らが剣を眼前にして到達した極限の心境なのでしょう。


2007年4月10日(火曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(8)

はなはだ遠回りいたしましたが、
この鉄扇につきましては、
旧金谷町教育委員会の解説文を転載いたします。

*************************
鉄扇とは、
親骨(扇の両端の太い骨)を鉄製にした扇で、
江戸時代には護身用として使われていた。

この鉄扇は、鉄扇の形を模し堅い木で作られている。

明治期に、山岡鉄舟から中條景昭に贈られたものを、
河村家十三代小次郎が、中條景昭(かげあき)の子
中條景明(かげあきら)から武芸の指南を受け、
皆伝の暁に頂戴したものである。

刻銘には、
「敵をたヾ打つと思ふな身を守れをのづからなる賤か家の月」
とある。
*************************


2007年4月6日(金曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(7)

反応がすくなかったので、
名作『剣』のUPはいたしません(プンプン)。

山岡鉄舟の話しにもどります。
山岡鉄舟がどんなにすごいか、
このエピソードだけで充分でしょう。

というのは、
勝海舟が江戸城を無血開城すると決したことを、
駿府までせまっていた東海道先鋒軍司令官西郷隆盛に告げるべく、
官軍ひしめく中を、
「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」
と名乗りをあげて西郷と面会したというのです。
3月9日のことです。

江戸総攻撃は3月15日、と命じられていた西郷は、
鉄舟の言をうけて13・14日に勝海舟と会談しました。
会談によって江戸総攻撃を中止、
江戸城の無血開城を決して、
あやうく江戸は戦火を免れることとなったのです。

その西郷隆盛をして
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、
 そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
と言わしめたのですから、
山岡鉄舟のはかりしれぬ凄さがうかがえます。

鉄舟は、はじめ千葉周作らから北辰一刀流を学び、
のちに一刀正伝無刀流の開祖となった剣の達人でありました。

(つづく)


2007年4月5日(木曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(6)

男谷精一郎、島田虎之助と聞くと、
どういうわけか二十代に読んだ『大菩薩峠』を思い出します。
手もとに本が残っているわけではないものですから、
それはおぼろな記憶なのです。

眼前の敵を逆袈裟に斬りおろし、
剣尖をそのまますべらせて後の敵をはらう、
その場面をときおり思いおこすのです。

私も若年の日に剣術をすこしたしなみましたが、
剣よりもむしろ小説を書くことに情熱を注ぎました。
河村家の血からすれば
剣に生きるべきだったのかもしれません。
ともあれそこから生まれたのが
『剣』という短編でした。

藻岩山は札幌市の西南にある小高い山です。
その頂上へ、
夜ごとに剣の稽古のために駆けのぼったのです。
夜の街を、剣道着を身にまとい、
木刀をたずさえて裸足で走りました。
体の芯に熱い血が燃えていたころのことです。

『剣』は、その体験をもとに小説化したものです。
(もう三十五年も前に書いたものですが、
 茂木健一郎先生はお読みになりました)

どなたかお読みになりたい方はいらっしゃいますか?
ご希望があれば、UPいたします。

(つづく。といっても、
 タイトルから遠く離れて、迷走中?)


2007年4月4日(水曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(5)

山岡鉄舟をとりまく人々の背後に、
偉人勝海舟の姿が見え隠れします。

勝海舟は、男谷精一郎や島田虎之助から剣術を学び、
直心影流の免許皆伝となりました。
剣の鍛錬だけではなく、
とくに虎之助にすすめられて修行した禅の精神が、
勝の人生の背骨になったようです。

『氷川清話』には、このように書かれています。
「禅学修業
 かの島田という先生が、剣の奥義を極めるには、
 まず禅学を始めよとすすめた。
 (略)
 この座禅と剣術とがおれの土台となって
 後年大そうためになった。
 瓦解の時分、万死の境に出入して、
 ついに一生を全うしたのは、
 全くこの二つの功であった。
 ある時分、
 たくさん刺客やなんかにひやかされたが、
 いつも手取りにした。
 この勇気と胆力とは、
 ひっきょう、この二つに養われたのだ」

剣と禅については、『氷川清話』のさまざまな個所に書かれています。
しかしそれほどの達人でも、岡田以蔵に助けられたことがあるのです。

おなじく『氷川清話』から。
「人斬り以蔵のこと
 (略)
 ちょうど寺町通りで三人の壮士がいきなりおれの前へ現れて、
 ものをもいわずに切りつけた。
 驚いておれは後へ避けたところが、
 おれの側にいた土州の岡田以蔵がにわかに長刀を引き抜いて、
 一人の壮士をまっ二つに斬った。
 「弱虫どもが、何をするか」と一喝したので、
 あとの二人はその勢いに辟易して、どこともなく逃げていった」

と、このようなこともあったのです。

山岡鉄舟も剣客で、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖でした。

(つづく)


2007年4月3日(火曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(4)

伊佐新次郎岑満は、
勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の書の師として知られています。

その伊佐(号如是)の書が我が家に残されているのです。

伊佐は、明治九年に中条家の隣に移り住んでいますから、
中条家と親交のあった大関家から、
祖父か父を通じて河村家にもたらされたものか、
あるいは
曾祖父河村宗平がお茶にかかわることで、
牧之原開墾方と通じていて、
伊佐を我が家に招いたときの揮毫の書か、
(というのも、伊佐が酒好きで酒を振舞われた礼に書を残した、
と、我が家に伝えられているからです)
いずれであるのかはもう少し調べないとわかりません。

(河村宗平に関する膨大な量の書簡類や文書を解読すれば、
 明治初年の茶業史や牧之原開墾方の歴史が
 見えてくるのでしょうけれども、
 悲しいかなそれほどの時間がありません)

伊佐が幕府の要職に就いていたころ、
米国領事ハリスに唐人お吉を世話して
国際親善につとめたという話しはよく知られているところです。

ともあれ我が家に一幅の掛け軸を残し、
山岡鉄舟の書の師であった伊佐新次郎は、
明治二十四年に没して谷口の法林寺に葬られています。

(つづく)


2007年3月31日(土曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(3)

新選組といえば、
坂本龍馬を暗殺したともつたえられる今井信郎は、
その後会津から函館五稜郭へと転戦し、
囚われの身となって東京へ護送されましたが、
やがて赦免されたあと、
西南戦争に志願したものの
浜松を過ぎたあたりで西郷軍全滅の報に接して帰京。
明治十一年初倉村色尾に入植しました。

のちに初倉村長に就任するなどして、
大正七年七十八歳にて没し、
いまは中条景昭と同じ種月院に葬られています。

今井信郎の居宅跡はいまも残されていて、
つい最近の整備事業で、
だれでもそれを見ることができるようになりました。
居宅跡の背後に竹藪がめぐらされているのは、
刺客がちかづいたとき、
刀の鞘が竹にふれて音をたてるように配慮されたものです。
ほかにもいくつか
刺客の到来を告げる仕掛けがほどこされていたようです。

直心影流の使い手で、
講武所の剣術師範代をつとめたほどの今井でしたが、
晩年はキリスト教に入信し、
刺客を恐れながらも
矯風事業に貢献したとつたえられています。

このように、
祖父小次郎が中条克太郎から伝授された剣法は、
幕末の血しぶきをかいくぐった実戦剣だったのです。

(つづけていいですか?)


2007年3月30日(金曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(2)

わたしの祖父がまだ大関姓を名のっていたころ、
それは明治三十年代のことですが、
静岡師範学校の生徒だった祖父は
撃剣部(現在の剣道部)に所属していました。
明治三十六年七月には、
静岡師範学校角谷源之助から祖父宛の、

撃剣部助教ヲ命ス、

という書状が残されています。
ちなみに角谷源之助は当時の師範学校長でした。

祖父大関小次郎は、
牧之原開墾隊長中条金之助景昭(かげあき)の子、
中条克太郎景明(かげあきら)から
剣術の指南を受けていましたから、
その修行を終えたときに心形刀流免許之証とともに、
山岡鉄舟が中条景昭に贈った鉄扇を拝受したのです。

中条景昭は形刀流伊庭如水軒秀秋の高弟で、
文久二年に講武所剣術教授方、
五月には新徴組支配を拝命した剣の達人です。

それは京の都に血腥い風が吹きあれる
新選組誕生前夜のことでした。

(つづく。
 鉄扇の写真はお茶の郷から戻ってきてからUPします)


2007年3月29日(木曜日)

山岡鉄舟の鉄扇

山岡鉄舟の鉄扇が、お茶の郷から我が家へ帰ってきます。

というのは、
いままで島田市が運営していたお茶の郷博物館の管理運営が、
ハラダ・静鉄レストランJVに移行することになったからです。
詳しいことは存じませんが、民間経営になると、
個人から博物館への無料貸し出しを、
税法上処理することが難しくなるからかもしれません。

いずれにせよ、
長い間お茶の郷博物館に展示されていた三点の資料が
私の手もとに帰ってきます。

一、河村宗平の嘱託書
二、山岡鉄舟の鉄扇
三、製茶師競

一と三については後日詳しく説明させていただくとして、
今回は、山岡鉄舟が中条景昭に贈った鉄扇のことを
お話しします。

(つづく。と思います)


2007年2月6日(火曜日)

花倉の乱

カテゴリー: - kawamura @ 10時47分54秒

花倉は、現在の静岡県藤枝市にあって、
つまり花倉の乱とは、
私の住む島田市の隣街で起きたことなのです。

静岡県ではよく知られていることですが、
氏親が家督を継ぐときに活躍したのが伊勢新九郎(のちの北条早雲)で、
このあたりのことを司馬遼太郎は『箱根の坂』に書いています。

また、今川氏親の正室寿桂尼の出自である中御門家には、
京の通りをへだてて、ふたつの家がありましたが、
寿桂尼の生家は、権大納言中御門宣胤家で、
向かいは中納言の家であったと、
私の謡の先生、中御門宣子さまからうかがいました。

(その向かいの中納言家が、島田市菊川に歌碑をとどめる
中御門中納言藤原宗行の生家のようです)

さて、花倉の乱に話しをもどしましょう。

氏親が亡くなったあと、
嫡男氏輝、弟の彦五郎が日を同じくして急死します。
なんともきな臭い感じがしますが、
その直後の今川家家督争いとして、
花倉の乱が起きるのです。

氏親の正室寿桂尼の子、梅岳承芳(のちの今川義元)と、
氏親の側室の子、玄広恵探との争いがそれです。
恵探が自害して終結を迎えるこの争乱があったのが、
天文五年(1536)のことでした。

天文七年に河村家二代目助次郎が、
大寶神社に鰐口を寄進する2年前のことです。


2007年2月5日(月曜日)

風林火山と河村家

カテゴリー: - kawamura @ 06時41分09秒

昨日、NHKの大河ドラマ「風林火山」を見ていて、
天文五年の年号があらわれたとき、
深い感慨をおぼえました。

というのも、
天文、という年号は、
河村家二代目助次郎が活躍していたころのものだからです。
助次郎の名は、『安養寺過去帳』に

川龍院忠学宗心居士 助次郎父

と初見されます。
また、「金谷町史 資料編一古代中世」の口絵の6番に、
大代の助次郎が大寶天王に寄進した
鰐口の写真が載っていて、
本文中にもそのことが載っています。

(明日もまた「風林火山」にあわせて
 河村家草創期のお話しをすることにいたしましょう)


2006年12月31日(日曜日)

神様詣り

カテゴリー: - kawamura @ 08時48分12秒

いまから森の精霊たちに会いにいってきます。

河村家の土地のまわりに結界を張っている神様たちに家族でご挨拶して、
笑いさざめきながら森のなかを歩くのです。
亡くなった両親も森にいます。
祖先たちの霊も双子の娘たちをからかうように語りかけてきます。
時をこえたゆかいな語らいのひとときです。

木立を満たしているのは、うす青い霊気です。

梢をわたる風の音がかすかに聞こえてきます。

(ああそんなふうに時空をこえてみんなと幸せにくらしたい)

遠いむかしから森を守り、樹々を育んできた我が家だから、
森の霊もやさしく私たちをいだいてくれるのでしょう。

たとえ半島から核弾頭が飛んできても、
やがて国が衰えて阿鼻叫喚の巷となっても、
この森はしずかに御先祖さまを守りつづけます。

このような森が、日本のそこかしこにあって、
栄枯盛衰をくり返す世の中を、
やさしく見まもっているのです。

それは少なくなったとはいえ、
それでも各地にふかい森はのこされ、
その森にはいまなおあかるく力強い魂をやどした祖先たちの精霊が、
歌いながら私たちを待っているのです。

そしてその森と祖先を守るひとびとも、
戦いに疲れた戦士たちの帰りを待っているのです。


2006年12月8日(金曜日)

追憶の父「プロフェッショナル 仕事の流儀」

カテゴリー: - kawamura @ 13時05分28秒

昭和26年初夏の家族写真。
後列左から、母、父、姉。
前列左から、祖父、兄、祖母、祖母に抱かれているのが私。

茂木先生のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」を、妻とふたりで拝見いたしました。

木村秋則さんが、婿入り先でりんご園をはじめ、挫折して6年目に、自殺を決意して登った岩木山で自然農園のヒントをつかみます。
やがて22年後に、全国各地から請われて、農業指導に出かける、という「カリスマりんご農家」に至るまでの物語でした。

父を思いだしました。
昭和20年、父は30歳のとき、上海の十三軍司令部参謀部からの復員と同時に、私の家へ養子に入りました。
農地改革で、予期せぬ農業に就くことになりました。

祖父は教育者で、農業には全く無知でしたから、
また、終戦直後の混乱期でしたから、
近所のひとたちから農業の方法を教えられることはありませんでした。

父が本を片手に独学で農業をしていたのを子供心におぼえています。
農業の本を夜中まで読んでいました。
恐らく、木村さんのような苦労をくり返していたことだろうと思います。
鎌や鍬のふるい方から学んだのだろうと思います。
母もおなじでした。

もちろん父は木村さんのような成功者ではありませんが、
慣れない農業に後半生をかけて、私たち兄弟を育ててくれました。

父は55才で癌を発病し(最初は胃潰瘍と診断されていたのですが、
後から癌と分かりました)、やがて64才で亡くなりました。

木村さんに、生前の父の姿をみるようでした。
本当に、良い番組を、有難うございました。


2006年11月23日(木曜日)

熊捕獲!

カテゴリー: - kawamura @ 09時03分34秒

昨夜と今朝、島田市の同朋無線で、大代地内の熊捕獲情報が放送されました。
新聞にも写真入りで大きく採りあげられています。
童子沢(わっぱざわ)親水公園の奥で、体重80キロの熊が、イノシシ駆除用のワナにかかったようです。

なんと我が家から、直線距離にして1キロメートル弱の場所です。
捕獲地点から、山ひとつこえると、そこが我が家なのです。

おおこわっ!と思っていたところ、いま、猟友会のおじさんたち二人が、熊の足跡調査に来ています。
さっそく散歩がてらおそるおそる近づいていって、
「熊の足跡調査ですか?」
ときくと、
「今年は山に食べるものがないから、里におりてくるんだよ。他の熊が、この辺りまできているかもしれない」
とさりげなく言うのです。

夜は外出しない方がよいということです。
猟友会のおじさんたちは、まだそこに待機しています。

戒厳令下の大代より。ぶるる〜っ!! :lol:


2006年10月5日(木曜日)

『蒼天のクオリア』新品800円

カテゴリー: - kawamura @ 00時02分29秒

amazonに、『蒼天のクオリア』の新品が、800円で出品されました。

脳科学者の茂木健一郎先生が、2000字ほどの序文を書いて下さったおかげで、すぐに売り切れてしまいます。

ご購入いただいた方々、有難うございます。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/478389597X/249-2157088-9769113?v=glance&n=465392


2006年9月28日(木曜日)

山の木

カテゴリー: - kawamura @ 09時17分26秒

山の木々を売ろうとする人たちは、山の木のことを立木(りゅうぼく・たちき)と呼びます。
父が亡くなったあと、立木の売り方を母から学びました。
何度もふたりで山へ足をはこんで、まず、どの木が売り物になるのかを教えられたのです。

根っ玉勝負で、根っこにちかい一番太いところから幅のひろい良材がとれますので、
そこに太い枝もなく(つまり製材したときに節目がでないということです)、
まっすぐに伸びているかどうかをみるのです。
枝が極端に多いとこれはまた希少価値が出て来て高く売れますし、
斜面に生えている木はどうしても根っ玉が曲がりますから高くは売れません。
根っ玉だけでもまだまだいろいろな見方があるのです。

つぎに、丈三(じょうさん)といって、一丈三尺、つまり約4mの材木がとれる長さを、
ひとっくる、と言って、それがその木からいくつとれるかを、高い木を見上げて決めるのです。
この木は六つ、これは七っくるくらい、というふうに見きわめる訓練です。
母とふたりでしずかな山のなかを歩きながら、私が「これは○くる、あれは○くる」と言うのを、母が評価するのです。
ぱっとみてそれを決められるようになるまでには、しばらくの日数を要しました。
思えば25年ほど前のことになります。

つぎに目通りといって、大人の目の高さで、幹に巻き尺をまわしてその木の太さを測るのです。
ですから、売り手、つまり山主はなるべく背のひくい人を出して、山すその方に立たせて測り、
買い手は背の高いひとが斜面の上から測れば細くなるのもですから、それを基準値にして立木の体積を計算すると、
売り手と買い手では石高(体積)に大きな差が出るのです。
なんともアバウトな世界でしたが(笑)、いまでもそうしているのでしょうか。

これ以外にも、樹皮についた苔の様子、きつつきのこと、通し柱といってあまり太くない木で、まっすぐに一階と二階を貫いて使える材のことなど、
立木の売り方についてたくさんのことを母から教えられました。

杉の木の育ちやすい土地、檜に適した土地、かえって広葉樹の方が経済効率の良い山など、
教えられた母の言葉が、想い出の森のむこうから木霊してくるようです。

これらはうろおぼえのところも多いので、おそらく関係者の方がこの文章をご覧になれば、滑稽なところもあるでしょう。
母から教えられたことは、一冊のノートにしてどこかにとってあるはずです。
妻には一通り話しましたが、娘にもそれを伝えるために、いつかいちど赤字覚悟で、山の木を売るすがたを見せなければなりません。
国産材は、安価な外材におされてほとんど価値を失いましたから、いまは売り時ではないのですが。

それでも、いつの日か山が見なおされるときも来るでしょう。
その日のために、先代から口伝でつたえられた良材を見きわめるさまざまな方法を、子孫につたえねばなりません。


2006年9月6日(水曜日)

月明

カテゴリー: - kawamura @ 10時02分55秒

月の明るいよるには、きまって、ふるい主屋で寝ることにしています。
谷間のものおとはすっかり消えて、しんしんと月あかりのふる音だけがきこえるようです。
あおくけむる月明の庭をながめていると、闇とみえるところがいくつかの光の粒子によって、
グラデーションのように染めわけられているのに気づきます。
白銀の光景からうすあおい闇との端ざかいをたどって、しだいにその色をふかめてゆく途中に、
わずかにむらさきやあおむらさきのようにみえるところがあります。
それはふかい森へつづく数本の木立の陰だったり、おおきな銀杏の木の陰翳だったりします。

すこし肌寒さを感じて引き戸を閉めて見る前庭の多羅葉の木かげも、窓硝子ごしにみるせいかすこしむらさきがかってみえるのです。
硝子板はふるい時代のものですから、すこしゆがんだりところどころに筋のような気泡がはいっていて、
それが月をあびると、虹のようにぼうっとかがやきます。
硝子がふくんでいる不純物のせいで、妖しい色あいをおびてみえるのかもしれません。

家のなかの灯りをすっかり消して、月あかりがくっきりと畳をてらし、
そこへ柱の落とすあざやかな黒いかげとの明暗の対比をたのしみます。
奥座敷のかげのなかには、なつかしい父や母が立っています。
ふたりはやさしく微笑み、つかれ果てた私をはげまして、いやしてさえくれるようです。

月の明るい夜に私が主屋で寝るのは、かすかな月の音楽のなかで、両親や祖父母に会えるからかもしれません。


2006年9月1日(金曜日)

ブログ再開

カテゴリー: - kawamura @ 10時53分42秒

夏期講習が終わって、ようやく楽になりました。
またブログ三昧の日々が送れます。

文化財のこと、御林守のこと、そういえば「広報しまだ」の地域紹介の欄に、
御林守河村家のことが載っていました。
あれは先月のことですか。
まだ疲れが抜けず、ぼーっとしています。

これからも、宜しく御願い申し上げます。


2006年8月2日(水曜日)

ブログ休止(8月末まで)

カテゴリー: - kawamura @ 08時22分06秒

例年のように、夏が来ると塾では講習がはじまります。
それで8月末までの約1か月間、ブログを休止させていただきたく存じます。

とは言え、ときにはひまをみつけて書くこともございますので、
どうぞときどきは私のブログものぞいて見て下さい。

9月には復活します。


2006年7月29日(土曜日)

逝きし日(昭和26年)

カテゴリー: - kawamura @ 06時06分18秒


(写真をクリックして拡大して下さい)

昭和26年初夏 河村家の家族写真(裏庭のお蔵の前にて)

後列  左 母さき、中 父勝弘、右 姉政子

前列  左 祖父小次郎、中 兄裕光、右 祖母千年世、
    祖母に抱かれているのが生後三か月ほどの私です。

在りし日の家族が、この一葉の写真のなかに生きています。
それは還ることのかなわぬ逝きし日の面影とはいえ、
私のこころに、せつないまぼろしを呼びおこします。

昭和二十六年の初夏、農地改革のさなかの、
いまから没落の急傾斜をころげ落ちようとするまえの、あやうい幸せのひとときです。

つまり、崩壊の淵に立たされた旧地主一家の姿です。

そういえば大人たちの顔に、かすかなくやしさ、茫漠とした不安のかげを見てとれませんか?
若い母の顔も、しずかなかなしみをたたえています。

私は首のすわるまえの、透明な瞳でなにかを見ています。
もちろんそれは、いまさら追憶の手にとらえようはずもない、
かがやくなにかを、空に見ているのです。


2006年7月25日(火曜日)

御林守河村家住宅の写真

カテゴリー: - kawamura @ 06時28分44秒

茂木健一郎先生来訪

岡田浩暉さん来訪

文化財「御林守河村家住宅」の写真はSBS「ふるさとの風景」にくわしく紹介されています。


「文藝春秋」御林守広告

カテゴリー: - kawamura @ 05時47分50秒

御林守河村家の古文書の写真と、江戸時代における御林守の役目が、
現在発売中の「文藝春秋」164・165ページに富士ゼロックスの広告として掲載されています。

http://www.fujixerox.co.jp/event/cm/csr/index.html

江戸幕府が、建築用材や燃料資源として、幕府直轄山林「御林」を所有していたこと、
それを厳しく管理していたことについて、このように書かれています。

「御林奉行や御林守の指示・立ち会いのもと、必要な木材が伐り出された」

「乱伐は御法度、
 江戸の森林管理法。

 目覚ましく都市が発達し、建築・土木ラッシュ
 でもあった江戸時代。城郭や武家屋敷などの
 用材や、道路や河川の整備に、膨大な木材が
 必要となったのですが、その供給を支えていたのが、
 徹底した森林管理でした。幕府は『御林(おはやし)』と
 よばれる直轄林を制定し、これを、御林奉行や御林守といった
 専門の役人が厳しく管理。木の種類や種類別の本数、
 その成長具合までをくまなく調査したうえ御林帳に詳しく記し、
 これをもとに、どこのどの木をどれだけ使ってよいか
 細かい指示を出して、勝手な伐採を禁止していました。
 また、木の伐採にも専門の職人たちを雇い、入山した人数までもらさず
 チェックしたとか。江戸の昔にも、持続可能な木材供給のために、
 ルールに基づいた森林管理が行われていたのですね。(後略)」


2006年7月13日(木曜日)

河村一族の再会

カテゴリー: - kawamura @ 00時38分56秒

先日はひさびさに仕事からはなれて、行きつけのお店で夕方からお酒を飲みました。
そのうち歴史研究家の大塚勲さんがみえて、金谷河村氏の話に花が咲きました。

本陣柏屋河村家と御林守河村家について、
発生の時期、苗字、家格、極めて希有な家紋、
古文書(とくに『文殊堂建立布施帳』『過去帳』)などにみられる交流関係、
そしてなにより御林守河村家と本陣柏屋河村家の両家につたわる冑佛
(それはほとんど同じ厨子におさめられています。
 現在は大阪の箕面に住んでいらっしゃる河村俊さんからお送りいただいたその写真は、
 また後日UPします)、
これらすべてを重ね合わせて考えると、
御林守河村家の方が本家筋であろう、と大塚さんは仰言るのです。

それについて思いだされるのは、十年ほどまえに、
静岡市の河村歯科医院一族の方々が、突然黒塗りのベンツで我が家を訪れたことがありました。
のちに、その歯科医師の河村忠明さんから、
雙葉に入学した娘たちが、歯科検診のときにお会いしてお声をかけていただくことになろうとは、
そのときは思いもしないことでした。

河村さんは十センチ四方くらいの古めかしい板をとり出して、

「我が家には、この家紋を彫った板が代々伝えられています。
 城が落ちるときに、
 丸に違い箸の家紋をつかうようにと殿様から渡されたものだという伝承も、
 この板といっしょにつたえられているのです。
 今日、その城主の末裔の方とようやくお会いすることができました」

と、私にむかって皆さまが深々と頭を下げられたのには驚きました。
おそらくは五百年以上の歳月をへて、血族が再会した瞬間でした。
またそのとき、大枚のお布施と、数冊の書籍もいただいたのです。

後日、私が河村さんのお宅をお礼におとずれたときも、
一族の来歴について時を忘れて話しこみました。

江戸時代には田中藩の藩医をつとめていた河村家の末裔と、御林守河村家の末裔とが、
五百年の春秋を埋めあわせようとするかに、
別れていたそれぞれの歴史をひとつひとつ確かめあうように、
再会のよろこびを噛みしめながら語り合いました。

なつかしい、よき思い出です。


2006年7月10日(月曜日)

御林守「文藝春秋」

カテゴリー: - kawamura @ 23時27分08秒

本日発売の文藝春秋に、御林守の富士ゼロックス広告が掲載されています。
164,165ページをご覧ください。

これは月刊誌ですから、これから一か月間、全国の書店の店頭にならびます。
いままでだれも知らなかった「御林守」の仕事や、その格式が、
確かな言葉で語られて、ようやく人々の目にふれることになりました。


2006年7月6日(木曜日)

御林守「富士ゼロックス広告」

カテゴリー: - kawamura @ 08時03分11秒

富士ゼロックスのホームページに、御林守の広告がUPされました。

http://www.fujixerox.co.jp/event/cm/csr/index.html

「御林帳」の写真は、私が撮影したものですので、解説文の一番下に、
写真提供/御林守 河村家(静岡県島田市)、と書かれています。

「御林帳」の説明文にカーソルをあわせて、右クリックすると拡大することができます。

この広告は、御林守というあまり知られていない江戸時代の役職名と、
その仕事の内容を、一般に知らせたところに意味があるように思います。

江戸幕府が、建築用材や燃料資源として、幕府直轄山林「御林」を所有していたこと、
それを厳しく管理していたことについて、このように書かれています。

「御林奉行や御林守の指示・立ち会いのもと、必要な木材が伐り出された」

「乱伐は御法度、
 江戸の森林管理法。

 目覚ましく都市が発達し、建築・土木ラッシュ
 でもあった江戸時代。城郭や武家屋敷などの
 用材や、道路や河川の整備に、膨大な木材が
 必要となったのですが、その供給を支えていたのが、
 徹底した森林管理でした。幕府は『御林(おはやし)』と
 よばれる直轄林を制定し、これを、御林奉行や御林守といった
 専門の役人が厳しく管理。木の種類や種類別の本数、
 その成長具合までをくまなく調査したうえ御林帳に詳しく記し、
 これをもとに、どこのどの木をどれだけ使ってよいか
 細かい指示を出して、勝手な伐採を禁止していました。
 また、木の伐採にも専門の職人たちを雇い、入山した人数までもらさず
 チェックしたとか。江戸の昔にも、持続可能な木材供給のために、
 ルールに基づいた森林管理が行われていたのですね。(後略)」


2006年6月29日(木曜日)

秘剣若竹落とし

カテゴリー: - kawamura @ 06時32分51秒

唯一の剣の鍛錬の時期、
ナタをふるいながら、秘剣若竹落としの秘技をみがく機会をうしなってしまいました。

やわらかい竹を斬りすてる時期をはずしたから、
もうノコギリでなければ伐れないほどに育ってしまったのです。

愛刀の一閃に若竹どもがなよなよとたおれていくあの瞬間は、
毎年剣士としての私の胸をよろこびにふるわせるのですが・・
今年はこれから、竹やぶからしゃしゃり出たならず者の竹たちを、一本ずつ、
与作でも歌いながら、ぎ〜こぎ〜ことノコギリでひくしかないのですワイ。

こんなことならたけのこの時期に、
みなさんに掘りにきていただけばよかったとくやまれます。
ちょうど梅の実がただ大地に落ちてゆくように、
若竹たちも倒されてくさり果てるのをまつだけです。

せっかく美しい星に生まれてきたのに、梅の実も竹も、
だれにもその命をおしまれることなく消えてゆくのです。

どなたか、彼らの命を生かすなにかよい方法をご存知ではありませんか。


2006年6月27日(火曜日)

富士ゼロックス広告

カテゴリー: - kawamura @ 07時40分01秒

発売中の週刊新潮は、駅前の書店「BOOKS ZEN」でおもとめください。

「週刊新潮」62・63ページに掲載されている富士ゼロックスの広告を、
送られてきたpdfのままUPしようと思いましたが、
ファイルが大きすぎてできませんので、
かわりに私が撮影した写真をUPして、
広告の図と写真の解説文を転載します。

御林奉行や御林守の指示・立ち会いのもと、必要な木材が伐り出された。
(この絵にえがかれている御林守の身につけているもの、
 たとえば陣笠や刀や、手にしている御林帳や、
 あるいは公式の場にでるときの裃(かみしも)などは、 夏物冬物ともにのこされています。
 当時の調度品なども、島田市指定文化財「御林守 河村家」のなかに
 常設展示されています)
「御林帳」
木の種別ごとの本数や成長具合を、
定期的に調査して記録、
森林資源を管理するためのデータにされた。

写真提供/御林守 河村家(静岡県島田市)

(御林守関係文書は、徳川林政史研究所の所三男先生と大友先生によって、 ほとんど解読されています。
 「製茶監督員 河村宗平」を書きあげたあと、 その古文書をもとに
 「御林守 河村市平」を十年ほどかけて完成しようと思っています。
 生きていれば、の話ですが)


2006年6月26日(月曜日)

「週刊新潮」広告本文

カテゴリー: - kawamura @ 05時43分52秒

発売中の「週刊新潮」の62・63ページに掲載されている
富士ゼロックスの広告本文を転載します。

***********************
乱伐は御法度、
江戸の森林管理法。

目覚ましく都市が発達し、建築・土木ラッシュ
でもあった江戸時代。城郭や武家屋敷などの
用材や、道路や河川の整備に、膨大な木材が
必要となったのですが、その供給を支えていたのが、
徹底した森林管理でした。幕府は『御林(おはやし)』と
よばれる直轄林を制定し、これを、御林奉行や御林守といった
専門の役人が厳しく管理。木の種類や種類別の本数、
その成長具合までをくまなく調査したうえ御林帳に詳しく記し、
これをもとに、どこのどの木をどれだけ使ってよいか
細かい指示を出して、勝手な伐採を禁止していました。
また、木の伐採にも専門の職人たちを雇い、入山した人数までもらさず
チェックしたとか。江戸の昔にも、持続可能な木材供給のために、
ルールに基づいた森林管理が行われていたのですね。
現代においても、木材は貴重な資源。違法に伐採された木材を
使わないために、いま、紙も、原料の木材が持続可能性を見据えて
管理されている森林から供給されたものか、明確にすることが
求められています。こういった社会の動きに先駆けて、
富士ゼロックスでは、販売する紙から自社で使用する紙まですべてにわたり、
原料の合法性を確認する独自の規程を制定。これを徹底するための
厳しいチェック体制を、国内はもとより、アジア・パシフィックの
全地域に整えました。紙を扱う企業として、原料の出所にまで責任を持つ。
自らの植林による原料調達や、リサイクルの推進とともに、
これからも、一つひとつ取り組みを進めていきます。


2006年6月25日(日曜日)

「週刊新潮」広告

カテゴリー: - kawamura @ 07時49分13秒

発売中の「週刊新潮」62・63ページに掲載されている富士ゼロックスの広告を、
UPしようとしたのですが、広告会社から送られてきたpdfをうまくのせられません。

それで、写真を撮ることにしました。

広告中の「御林帳」の写真が、私の撮影したものです。
その但し書きの下に、

写真提供/御林守 河村家(静岡県島田市)

と書かれています。

広告文は、明日転載します。


2006年6月23日(金曜日)

「御林守」広告

カテゴリー: - kawamura @ 07時28分44秒

今週号の週刊新潮、62・63ページに、
富士ゼロックス広告として、
エコ社会だった江戸時代において
「御林守」の果たした役割についてえがかれています。

どうしてこのようなことになったのかと申しますと、
東京の広告代理店が富士ゼロックス広告のための「御林帳」の写真をさがしていて、
「徳川黎明会」の林政史研究所などいくつかにあたってみたのですが、
写真提供を拒まれてしまいました。

そこで、インターネットで「御林守」を検索にかけたところ、
トップに「御林守河村家を守る会」が載っていたというわけです。

締め切りを間近にひかえていて、
最後の糸にすがりつくように私のところへ電話してきた
コピーライターの女性のお話では、
ご両親が五和の出身で、母方の実家は大代だというのです。
おもわず眉毛にちょっとツバをつけてしまいましたが、
それでも、切々と「御林帳」の写真をもとめるその女性の熱意にほだされて、
翌朝その写真を撮影してメールで送りました。

考えてみれば、「eコミ」という情報発信の場をあたえていただいたおかげで、
それが「御林守」メジャーデビューのきっかけになったのです。

冑佛(かぶとぼとけ)のときもそうでした。
一昨年、「冑佛伝説」の序章として発表した青春自伝小説「蒼天のクオリア」の
静岡新聞紹介文を日経の記者が目にとめて、
日本経済新聞文化欄に
兜に秘める伝説の小仏」と題された七段抜きの記事が掲載されることになったのです。

さらにその日経の記事を見た
広島のマンション配布新聞会社から原稿依頼があって、
ウェンディ」という全国のマンション配布新聞
(私もそのときはじめてそのような新聞があることを知りました)に、
謎の伝説」と題して冑佛(かぶとぼとけ)の文章が載ることになったのです。

私は言うまでもなく無才の者ですが、
冑佛研究にせよ、御林守河村家を語るブログにせよ、
地道に努力をつみ重ねていくと、
突然なにかの幸運にめぐりあうことを知りました。

今朝は、梅雨空の谷間にたれこめたもやの様子が、
水墨画のようです。


2006年6月22日(木曜日)

本日発売「週刊新潮」

カテゴリー: - kawamura @ 06時31分47秒

富士ゼロックスの広告が、本日発売の週刊新潮に掲載されます。
(島田市内の方は、駅前の書店「BOOKS ZEN」にておもとめください)

江戸時代の、幕府直轄山林を管理していた「御林守」の役目が、
環境問題の観点からえがかれています。

陣笠をかぶり、刀を差して、
「御林帳」を片手に木々の伐採を監視している「御林守」の身につけているものすべてが、
いまでも「御林守 河村家」にのこされています。
また、河村市平がその役目に任じられていたころの、寛政五年(1793)に建てられた住宅は、
島田市指定文化財になっています。

広告につかわれている古文書、それを「御林帳」というのですが、
その写真は私が撮影したものです。

突然、東京の広告会社から電話があって、
御林の木々を一本ずつ調べあげた、いわゆる「御林帳」はないでしょうか、
という問いあわせに、何のことなのかそのときは意味もわからず、所有している旨をつたえました。

それで、我が家につたわる三千点ほどの古文書のなかから適当と思われるものをえらび、
デジタルカメラで三枚撮影して、メールで送ったのです。

やがてその写真が富士ゼロックスの広告につかわれるのを知ったのは、
pdfが送られてきたあとのことでした。

みなさま、
本日発売の「週刊新潮」と、7月10日発売の「文藝春秋」の、
富士ゼロックスの広告を、ぜひご覧ください。

またご感想をコメントくだされば幸いです。


2006年6月18日(日曜日)

富士ゼロックス広告

カテゴリー: - kawamura @ 09時13分09秒

6/22(木)発売の「週刊新潮」と
7/10(月)発売の「文藝春秋」に
富士ゼロックスの広告として、御林守の記事が載ります。

茂木健一郎先生の「クオリア日記」にもとりあげていただきました。

富士ゼロックスは紙とかかわっているから、
管理人Mさんがコメント欄で述べられているように、
とくに東海パルプのある島田市とも縁がある広告のように思います。

なにかこれを機会に東海パルプともつながりができればと思うのですが、
河井先生いかがでしょうか?

また、先日ご報告いたしましたように
広告のなかに「御林守」が登場してまいりまして、
幕府の直轄山林であった「御林」のきびしい管理は、
エコ社会であった江戸時代の山林資源をまもる重要な職務であったことが、
環境問題の観点からえがかれています。

私の撮影した寛政五年(1793)の「御林帳」も掲載されています。

写真提供/御林守 河村家(静岡県島田市)

と表示されていますので、なにかのリアクションがあるかもしれません。
たのしみにしています。


2006年6月16日(金曜日)

御林守

カテゴリー: - kawamura @ 08時01分20秒

よく知られていることですが、
江戸時代には、燃料は薪(たきぎ)と炭、建築資材は材木だけでした。

ですから、現在の石油や電気、ガス、といった燃料や、
また、鉄骨やコンクリートといった建築資材にかわる木材のすべてを、
江戸時代には、山林が供給していたのです。

江戸幕府も、諸藩も、それぞれ大事な資源として山林を所有していました。

幕府直轄の山林は、御林、とよばれ、各藩のもつ藩林とは区別されます。

幕府直轄の御林は非常にきびしく管理されていて、
木の枝や小木だけでなく下草までも、その利用を許しませんでした。

また、御用木流失時の手形のように、
御林の木一本一本がそれぞれ厳重に管理されていました。
それらの木々は、いわゆる「御林帳」によって、
木の種類や大きさごとに本数がチェックされ、
盗伐が行われないよう細心の注意がはらわれていたのです。

幕府は全国に数カ所の御林を所有し、その管理を、御林守にまかせました。

(このたびの富士ゼロックスの広告に登場する「御林守」について、
 しばらくご説明しようと思います)


2006年6月15日(木曜日)

文藝春秋(7/10発売)

カテゴリー: - kawamura @ 05時50分38秒

「文藝春秋」7月10日発売号のなかの、
富士ゼロックスの見開き2ページの広告に、
「御林守」が登場して、
江戸時代におけるその役割の大切さがえがかれるようです。

「御林守 河村家」も、
ささやかではありますが、名前が書きこまれているようです。

来週、6月22日(木)発売の「週刊新潮」ともども、どうぞご覧ください。

くわしいことが分かりしだいお知らせします。

茂木健一郎先生も「クオリア日記」で発表してくださるようです。
心から感謝申しあげます。


2006年6月14日(水曜日)

週刊新潮(来週発売)

カテゴリー: - kawamura @ 06時15分46秒

6月22日(来週木曜日)発売の「週刊新潮」を、ぜひご覧ください!

大手企業の広告として、ほんのささやかではありますが、
「御林守 河村家」のことが扱われるようです。

内容が楽しみです!!

詳細は、分かりしだい後日お知らせします。


2006年6月11日(日曜日)

文化財保護(4)

カテゴリー: - kawamura @ 09時14分54秒

昨日は、「御林守」を見なおすうごきがそろそろはじまってくれるといいですね、
ということでした。

よくきくお話のひとつに、沿岸部の漁業従事者の方々が、
沿岸の海のゆたかさは、そこへ流れこむ河の水の豊かさによることを知って、
山林価格が暴落して崩壊した水源の森林を、自分たちの手で再生させようとしている、
というお話しです。
よく流布されていることですので、お聞きになったことがあると思います。

遠いエルニーニョが日本に天候異変をもたらすように自然のメカニズムは精妙細緻で、
水源の森林と、河口ちかくの海の豊かさとは密接に関連しているようです。

このように、水産資源や大気の浄化とも森林が深くかかわっているというのは、
いわゆる環境問題としてそれをとらえようとする姿勢で、
それと同じように、江戸時代の「御林守」による森林管理も、
環境問題の観点からみなおされるといいな、と思います。

そしてこの環境問題は、
次世代にどのような国土を残すのかという世代間の問題でもありますから、
河井先生の提唱された「文化財サポーターズクラブ」には、
学齢期の児童たちに参加していただくのがよろしいかと思います。

このようにしてみれば、「文化財保護ボランティア」は、
単なるボランティア活動というのでなく、
地球環境とも深くかかわる地域や世代をこえた奉仕であろうと思います。

つづきはまたあした。


2006年6月6日(火曜日)

命日

カテゴリー: - kawamura @ 06時38分24秒

六月六日は、祖先の命日です。

『安養寺過去帳』、位牌(いはい)、二基の墓石などに
その記録がのこされている河村家の祖先、忠学宗心居士は、
永正二年(一五○五)六月六日に、
今川方として天王山の砦を守る戦いのさなかに落命しました。
またそれらの記録をみると、宗心の名の下に、助次良父、としるされています。

妻の自雲妙性大姉は、夫の卒する前日、六月五日を命日としていて、
松葉城主三女、と附記されています。

松葉城主河井成信(しげのぶ)は、「掛川誌稿」などに詳述されているように、
今川家の家臣として明応五年(一四九六)に落命したのですが、
掛川市奥野の長松院や、河村家の菩提寺法昌院の開基としてもその名をとどめています。

河井成信の名を、その死後もっとも高からしめたのは、
『圓通松堂禅師語録』にのこされたつぎの偈頌(げじゅ)です。

     因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
     端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。

このあたりの経緯は、おおよそ『冑佛伝説』にしたためましたが、
さらにくわしく河村家の中世史をつづった『遠江河村荘と河村氏』を近々上梓する予定です。
私が十年ほどかけて書きあげた『遠江河村荘と河村氏』は、
「金谷町史」の引用文献にもなっています。

ところで、昨年の今日、それはちょうど祖先が亡くなってから五百回目の命日でしたが、
脳科学者の茂木健一郎先生が我が家を来訪されました。

河村家のあたらしい時代のおとずれを思わせる出来事でした。

祖先の命日から五百の春秋がめぐりましたが、山河のたたずまいはかわることなく、
今年も新緑の谷間をさみどりの風が吹きぬけてゆきます。


2006年6月1日(木曜日)

救い主「プロフェッショナル」

カテゴリー: - kawamura @ 05時16分49秒

満開の藤棚、
満面の笑みをうかべる塚本こなみ

あれは藤の花がふさをつけたのではなく、
眠っていた彼女の才能、
かくれていた彼女の情熱が、
ふいに藤の花にすがたを変えて
咲きほこって見せたのです。

そして、彼女こそ老木の救い主。

藤のように救われたい、
と、彼女をまつ老木たちが、
全国には数知れずいるのでしょう。

私の家の「玉の木」もそのひとつです。

「玉の木」を代表とする我が家の老木たちが、
樹木医塚本こなみさんを
声なき声をあげて手まねいています。

死にたくない、と彼らが言うのです。

茂木先生、
もしこの文をお読みでしたら、
ぜひ、塚本こなみさんにお話ししていただけないものでしょうか。
屋敷木に成りかわりましてお願い申し上げます。


2006年5月31日(水曜日)

私の秘密

カテゴリー: - kawamura @ 09時40分40秒

それは冑佛(かぶとぼとけ)の謎を追うとちゅうで、
ふいにおきた出来事です。

これからお話しすることは、
『冑佛伝説』をお読みの方でないと
おわかりにならないかもしれません。

それでも、あまりにもふしぎな出来事でしたので、
どうしてもみなさんにお伝えしようと思うのです。

これはながいあいだ秘密にしておこうと思っていたことですが、
おもいきってお話しします。

まえにも書きましたが、
「御林守河村家」と「本陣柏屋河村家」の両家につたわる冑佛に端を発して、
やがて奥州に散在する一群の冑佛と出あうことになりました。

奥州の冑佛は、
頼朝の御家人として奥州攻めに参陣した十三歳の若武者、
河村千鶴丸がもたらしたものであることは、
すでに『冑佛伝説』にくわしく書きました。

その河村千鶴丸、
つまりのちの大巻城主河村秀清が、
出陣のさいに髪に中におさめていた観音立像が、
子孫の宝物の中から発見されたことも書きました。

すなわち、
おそらくは頼朝の「髻観音」を始源とする冑佛の風習は、
河村氏の秘めたる因習となって、
頼朝から奥州攻めの論功行賞によって拝領した河村秀清の所領に
ひそかに伝えられていたということです。

そのときでした。
おどろくべきことに私は気づいたのです。

つづきはまたあした。


2006年5月29日(月曜日)

遊び場をなくした猫たち(キジも)

カテゴリー: - kawamura @ 11時32分00秒

梅林や荒れ地の草刈りを、シルバー人材センターに依頼しました。
数人がかりで二日間かけて、下草がきれいに刈られました。

猫たちがあそんだ草むらも、キジの卵がかくれていた草陰も、
みんななくなってしまいました。

草原には色とりどりの花々が咲きみだれていました。

草を刈るのは、人間の都合です。
猫やキジには無縁の理由で、彼らの遊び場がうしなわれたのです。

キジの巣にならんでいた卵も、
いくつかはなくなり、のこりは割れてしまいました。

害虫の駆除や、梅とりのためとはいえ、
なんだか申しわけなさを感じます。

うっそうと繁る草むらのうえをながれる風を、
私は好きでした。
風が草の葉うらをかえして、しろい風の道がみえるのも、
好きでした。

いまはすっきりと刈られて、
梅林のたわわな実が、
梅取りの来客をまっています。


2006年5月28日(日曜日)

里山鳥

カテゴリー: - kawamura @ 10時24分27秒

刀装具の写真をUPしようにも、
きょうは日曜日。
銀行の金庫は閉まったままです。

妻がめずらしい鳥を見かけた、
という話をきいてそれを写真に撮ろうと思いましたが、
外は雨。

里山を飛びかう鳥の写真を撮りつづければ
それはそれで老後の趣味に良いかもしれない、
というような話を妻とかわしました。

そのときふと思ったのは、私はこまめに記録することが、
まったく苦手だということです。
はやい話が、大の勉強嫌いで、こまかくノートをつけようと思っても、
だいたい最初の1ページで挫折します。

それではまったく努力しないのかというと、
それはそうでもないのです。
自分の気に入ったことは、
あまり努力しなくても、何年も夢中でつづけられるのです。

以前にもおなじようなことを書いた記憶がありますが、
たとえば、
鳥の名前をおぼえてその写真を撮る、
ということに意味を見出せないままそれをつづけるのは、
あたかも努力することにこそ意味があるというようです。

嫌いなことでもがまんして努力する、
という姿勢は大事なことなのでしょうけれども、
すくなくとも私にはむいていません。

それよりも、好きなことだけに集中するスタイルが
私には似合っています。

それも、
いままでだれもやらなかった斬新なこと、
とくに新奇なもののはなつ妖光にひかれます。

だれも足を踏み入れたことのない新雪の上を、
あこがれにみちびかれて歩むことこそ、
真骨頂のように思います。

幼いころからそのようで、
好きなことには寝食を忘れて打ちこんできました。

いまでも興味の対象は三つにしぼられています。
河村家の歴史、冑佛、クオリア、この三点に集中しています。
これに関連すること以外は、あまり興味がわきません。

いま無駄と思えることでもいつかはきっとそれが役にたつときが来る、
そのためにすべてを学び、我慢して努力しつづけるのだ、
ということも理解はしているのだけれども、
そしてそれこそが勉強する、ということなのだけれども、
それはせいぜい高校くらいまでで、
そこから先は、
ほんとうに自分が求めていることに集中したほうが
生命を実感できるように思うのです。

ほんとうに自分が求めていること、
じつはそれをさがすことが至難の業で、
私がそれにめぐりあえたことこそ僥倖なのでしょうけれども。

めぐりあえた私にいえるのは、
陳腐な言いまわしかもしれませんが、
青い鳥は自分の部屋にいる、ということでしょうか。

というながい言い訳のはてに、
妻と話した里山鳥の写真集は企画倒れとなりましたトサ、
チャンチャン。


2006年5月27日(土曜日)

愛知大学

カテゴリー: - kawamura @ 07時01分46秒

きょうは愛知大学での授業です。
大学の広い階段教室で、
大学生を相手に教えるのは、私のたのしみのひとつです。

ときおりふだんとちがう顔を見ると、
新鮮なよろこびが感じられます。

いまから出かけますので、
帰宅してからつづきを書くことにします。


2006年5月25日(木曜日)

刀装具(2)

カテゴリー: - kawamura @ 09時13分11秒

みなさまのなかで、
目貫(めぬき)笄(こうがい)小柄(こづか)兜金(かぶとがね)石突(いしつき)
といった刀装具を
ご覧になりたいかたはいらっしゃいませんか。

たいしたものではございませんが、
目にふれる機会はすくないと思いますので。

実物は年に二度ほど企画している
「御林守河村家展」の日に公開する予定ですが、
ご覧になりたい方がいらっしゃれば、
ブログ上でUPいたします。

コメント欄にて、その旨お知らせくだされば幸いです。

ご希望を確認させていただいたあと、
写真撮影に時間がかかりますので、
写真のUPにはしばらく日時を要しますのであしからず。


2006年5月24日(水曜日)

静岡大学

カテゴリー: - kawamura @ 08時11分11秒

きのうはひさしぶりに静岡大学を訪れました。
ご無沙汰していた人文学部の教授に、
これからの指針を仰ぐためでした。

五月だというのに梅雨をおもわせる毎日ですが、
きのうの午前中はうすぐもりでしたから、
一時間ほどはやく着いて、
大学の構内をあるくのにはちょうどよい感じでした。

おおきな山塊の斜面に建つ大学ですから、
学生たちも坂の上り下りには難儀なことでしょう。
それにしても、
ちかごろの大学生は皆こんなにおとなしく、
真面目そうなのでしょうか。

いまから40年ほどまえ、
私たち団塊の世代が学生だったころ、
アジテーションがひびきわたり、
構内のいたるところに旗がひるがえり、
ビラが貼られていました。

高度成長期のひずみ、
それは産業構造の転換にともなう民衆の軋みや、
企業倫理が問われる以前の環境汚染などの、
山積した社会問題の渦を云うのですが、
その渦のなかへ、
一学年250万人という
現在の倍ちかい人口を抱える団塊の世代がなだれ込んでいったのです。

人口が倍ということはそのまま生存競争も倍だったのですから、
だれも彼も気性の激しい世代でした。

それからすると、いまの学生は、とてもお上品な感じさえします。
どこからも怒号など聞かれず、大声で語りあうものすらなく、
むしろしずかな微笑みをうかべてささやくように語りあいながら、
行きかう若者たちの服装も洗練されていて、
我らのころとは隔世の感があります。

このしずけさがあれば、思索に集中できるでしょうし、
美しい恋もできるでしょう。
もういちど、学生にもどりたくなりました。
(恋をしたいなどと言おうものなら、妻が・・)

学生たちのそのすがたにはおおくの問題もひそんでいるのでしょうけれども、
まあなにはともあれ平和で、勉学に集中できる環境ではあるようです。

人文学部の研究室で、
教授から一時間ほどのご教示を授かってから、
徳川家康の駿府城跡をとりまくようにひろがる静岡の市街を見おろしながら、
おだやかな大学をあとにしました。


2006年5月23日(火曜日)

『新しい哲学を語る』

カテゴリー: - kawamura @ 07時10分01秒

梅原猛と稲盛和夫の対話形式で書かれているこの文庫本をよんで、
おどろきました。

私がブログに書いてきたことと、
ほとんど同じ内容をおふたりは述べられているのです。

書店「ZEN」で購入したその文庫本を、
読みかけのまま事務所にわすれてきましたので、
いま、それから引用することはできませんが、
おふたりの考えていらっしゃることと私の思いとは、
まったく同じと言っていいほどでした。

この乱れた世相を憂いて、
哲学や宗教の欠落をなげくすがたは、
私がブログで縷々述べてきたことでもあります。

うれしかった。

これを読むにつけ、
もうマルキストたちに遠慮せずに語れる時代が、
ようやくめぐってきたのだと、
崩れおちるような安堵を覚えながら読みました。

このところ、梅原猛、山折哲夫、河合隼雄、
この三人の著作を読もうと思って、
手はじめに注文したほんのなかから、
なにげなく手にした一冊でした。

天の配剤を感じます。


2006年5月21日(日曜日)

梅の恩返し

カテゴリー: - kawamura @ 07時12分53秒

梅の季節になりました。
今年もたわわに実をつけています。

ところで、
「文化財保護ボランティア」サポーターのみなさまに梅をさしあげる、
というお約束を憶えていらっしゃいますか?

草取り1時間にたいして、1?の梅をさしあげるというものでした。

ということで、
昨年11月20日にひらいた山芋会のとき、
草取りを2時間してくださった方々に、
それぞれ2?の梅を進呈いたします。

ただし、梅はご自由に、ご自分でお採り下さい。
その中から、2?を計量してお渡しします。

ただ、その日に参加なさった方々のお名前を記録し忘れました。

河井先生、前川さま、お手数ではございますが、
山芋会参加者のお名前がおわかりでしたら、ぜひお教えください。
私もブログなどで確認をいたします。

どうぞ、草取りをしてくださった方々は、
コメント欄にて、梅取りのご希望日時をお知らせ下さい。

摘果の時期がまいりましたら、
ブログでお知らせいたしますので、
いましばらくお待ち下さい。


2006年5月19日(金曜日)

保護司の不思議

カテゴリー: - kawamura @ 07時17分53秒


2006年5月18日(木曜日)

かすり

カテゴリー: - kawamura @ 07時43分43秒

ひさびさにお酒を飲みました。
十日ほどおなかをこわしていたのです。

十日もお酒をがまんするなんてできませんから、
おなかはまだかたまってはいないのですけれども、
今日こそ痛飲しようと決意して、
「かすり」に行きました。
(というわけで、今日は二日酔いのあたまで書いています)

ママさんにお会いしたくなったということもあります。
貧しかったころの私をよく知っているから、
こころおきなくなんでも話せるのです。

結婚したてのころは、
父ののこした借金を返しながら、
家族も養っていたのですから、
私たち夫婦のてもとにはなにも残りませんでした。

それでも月に一度くらいはお酒を飲んでみたいと、
はじめて入ったお店が「かすり」でした。

それ以来、なんでも相談にのってもらい、
さまざまなことを話してきました。
もう二十数年になります。

ママさんは私より十ほど年上でしょうか。
気さくで、竹を割った、ということばがぴったりする方です。
初代金谷町長塚田弥太郎のお孫さんで、
歯医者さんのお嬢さんです。
東京の女子大を卒業してからのさまざまなお話もうかがいました。

ちかごろ、私はあまりお酒を飲まなくなりましたけれど、
昨夜のように飲むと決めた日には「かすり」に行きます。

そこできのうは偶然旧友と会いました。
25年来の仕事仲間です。
静岡学園高校の講師をしていたころからの飲み友達で、
種々雑多な話題で盛りあがりました。

楽しい夜で、
おなかのほうもショック療法で治ったようです。
(治っていると良いのですが)

ということで、またあした。


2006年5月17日(水曜日)

刀装具

カテゴリー: - kawamura @ 08時31分26秒

鍔もそうですが、
そのほかに笄(こうがい・刀の鞘にさし込んである)、
小柄(こづか・刀の鞘にさし込んである)、
あるいは柄(つか)の部分に刀身の留め具としてさしてある目貫(めぬき)、
兜金(かぶとがね)や石突(いしつき)といった
柄や鞘の先端を保護する金具など、
ひとつの刀剣はたくさんの刀装具に飾られています。

割笄(わりこうがい)というのがあって、
ふつうはものを刺したりする一本のほそい金具ですが、
我が家の短刀のひとつは、その割笄になっていて、
ふたつに割れるようになっています。
なんでもお箸の代わりにもなるということです。

小柄も細身のナイフのようなもので、
刀にはそのような生活用具が附属しているのです。

考えてみればその刀を差して旅する長い道中には、
さまざまな出来事があるのでしょうから、
小柄や笄は、そういうときに役立ったのでしょう。

ある日、
お蔵からみつかって、やがて登録のすんだ刀剣類を、
どこから聞きつけたのか数人の愛好家と称する方たちが、
ぜひ見せてほしいと我が家を訪れました。

私はひとを信じやすいたちですから、
すべての登録済みの槍、刀、短刀、古式銃などを座敷にならべて、
見ていただきました。

ひととおり銘などを確認し終わったあと、
刀装具の専門らしい方が
「この鍔と小柄を鑑定にだしたい」
と問いかけてきました。
私が
「どうすればいいのですか」
ときくと
「すべてやってあげましょう」
と気軽にこたえてくれました。

(財)日本美術刀剣保存協会で鑑定してもらうことになって、
数人で東京へ行きました。
鑑定を申請するとき、
私ははじめてのことでしたので、
「そこは私の名前にしておいて下さい」
などといわれるままに書類を書きました。

帰宅して、その翌日でしたでしょうか、
どうも申請書の名前が気になってしかたがないので、
おもいきって協会へ電話してみました。

つづきはまたあした。


2006年5月16日(火曜日)

鍔(つば)

カテゴリー: - kawamura @ 08時30分50秒

おさないころ、
鍔をぺったんのかわりにしてあそびました。

ぺったん、というのか、あるいは、めんこ、
というのかもしれません。

私たちはぺったんとよんでいました。
ちょうど手のひらくらいの大きさの
厚い紙でできた遊具です。
そこには、
黄金仮面やまぼろし探偵や赤胴鈴之助の絵が、
毒々しい色づかいで描かれていて、
そのおどろおどろしさがとてもなつかしく思えます。

牛乳びんのふたをひとまわり大きくしたくらいの大きさで、
それを地面にたたきつけて、
相手のぺったんをひっくり返すのです。

たいらな場所が必要なものですから、
お蔵のまえのコンクリートの上が
ぺったんのあそび場所にきまっていました。

ひっくり返した相手のぺったんは
自分のものになるきまりで、
ぺったんが重たくなるようにあぶらをぬって、
その上に鑞をすりつけたりして、
ひっくり返されないようにしました。

ある日、
祖父の部屋で見つけた鍔を何枚かもちだして、
それでぺったんをして遊びましたが、
重すぎてあまりうまくいきませんでした。

ひとしきり遊んだあと、
こっそりともとの場所にかえしておきましたが、
祖父はそれに気づいたようではありませんでした。

あれから50年ちかくたったいまになって、
その鍔を鑑定してもらったり、
桐の箱におさめることになろうとは
ゆめにも思いませんでした。

つづきはまた明日。


2006年5月12日(金曜日)

河井先生卓話(島田ロータリークラブ)

カテゴリー: - kawamura @ 23時44分47秒

「eコミしまだ」の座長、河井孝仁先生に、
島田ロータリークラブでの卓話をお願いしました。

例によって、
午後1時ごろから1時半までの約30分間でしたが、
パワーポイントをフルに使われて、
「eコミしまだ」の意味を説明して下さいました。

上意下達の時代からおおきく変化して、
今では役所や企業や市民が、
平面的にさまざまな手法を用いて情報の交換をする社会が
すでに到来しているということを学びました。

河井先生、お忙しいなか誠にありがとうございました。

この私のブログもまさに、
「御林守河村家を守る会」をささえて下さるみなさまのおかげで、
島田市指定文化財「河村家住宅」に関する情報を、
日々発信することができるのです。

実は5月6日土曜日の夜に食べたものにあたって、
一週間ほどひどい下痢に悩まされて、
先週は市民病院にお世話になり、
河井先生をお迎えする当日も
その前の晩から夕食も朝食もとらずにいましたので
へろへろの状態でした。
午後12時過ぎの電車で島田駅にお着きになった先生を
駅にお出迎えして、
講演が終了して先生を島田駅までお送りするまでの約二時間は、
お腹の不安をかかえたままでした。

こんな個人情報も、
ブログがあればこそお伝えすることができるわけで、
このブログをお読みの方々には
このところ日記を書けなかった理由が
これでお分かりいただけたものと思います。

「eコミしまだ」に参加させていただいて、
さまざまな情報を発信させていただきました。
文化財に関するものから私の個人的な趣味の領域まで、
そしてなにより、
コメントを下さるみなさまとのやりとりの中で、
文化財がどのようにあるべきか、
あるいは私がどのようにみなさまのお役にたちうるのか、
それが浮き彫りにされてくるように思います。

河井先生、読者のみなさま、
しばらくブログをお休みがちでしたけれども、
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。


2006年5月11日(木曜日)

天慶

カテゴリー: - kawamura @ 07時45分06秒

『冑佛伝説』の一節を転載します。

「奥州の冑彿の分布と、河村四郎秀清の所領が重なり、
 さらにその子孫から家伝の観音立像が現われるとは、思いもよらなかった。
 ここに於て、追いもとめていた冑佛と、河村家の歴史とが、
 左右の掌を合わせたようにぴたりと一致したのである」

この冑佛を発見するくだりを詳細にえがいた部分は、
『冑佛伝説』を発表するときに削除いたしました。
頼朝の御家人として奥州攻めに参陣した河村秀清の子孫、
河村喜助が髪中に納めていた冑佛を資料中に発見するシーンです。

一つの作品を発表するさいに、
全体のバランスを考えておおくの部分を割愛いたします。
これもそのひとつです。

以下、未発表原稿です。

「そして私は、『川村家の歴史』のなかに、
 大正三年四月三日紫波郡役所に報告された『熊野神社宝物調書』の二番目に、
 次のように書かれていることを見出したのである。

  熊野神社宝物調書
   品名
  観音立像
   作者伝来
  作者不明、佐比内村神田館主川村喜助代々ノ信仰ニシテ
  出陣等ノ場合ハ髪中ニセリト云口碑有

 そのとき、私は塾の教室でひとりの生徒の質問にこたえながら、
 祖父が購入した『川村家の歴史』を机において横目で調べていた。
 生徒の質問はうわのそらだった。
 高校数学の問題をときながら、
 本の内容がちらちらと眼の端にはいってくる。
 そのときだった。
 
 私は、その瞬間をあまりよくおぼえていない。
 あとから生徒にきくと、私は突然叫び声をあげて踊ったというのだが、
 そうかもしれないし、からかわれているのかもしれない。

 だいたい奥州の冑彿の分布と、
 河村四郎秀清の所領が重なっただけでも不思議なことだったが、
 まさか、その子孫から家伝の観音立像が現われ、
 それを髪のなかに納めていたとは、
 ふいに異空間にさまよいこんだとでも云うような、
 想像を絶する悦びだった。
 
 ここに至って、追い求めていた冑佛と、河村家の歴史とが、
 左右の掌を合わせたようにぴたりと一致したのである」


2006年5月10日(水曜日)

うぐいす色の鳩

カテゴリー: - kawamura @ 08時28分15秒

『冑佛伝説』のなかにあらわれるうぐいす色の鳩のことについて、
「文学的表現なのか現実の”夢枕”だったのか」
というお手紙がございましたので、
そのように思われた方々にお答えいたします。

これは現実に起きたことで、
いまでも、その事実を卒業生の言葉から確認することができます。
それはこのようなことでした。

うぐいす色の鳩の夢をみたあと、夢見の直後にそれを妻に話して、
妻もそれをおぼえています。

当時あまりにもふしぎな偶然がつづいていて、
なにか見えざるものの手に引かれて
冑佛の謎にみちびかれていると感じていたころでしたから、
そのうぐいす色の鳩の夢も、
きっと冑佛にかかわるなにかをしらせるお告げのように思えたのです。

実際その夜、私が塾の生徒に話したことを
当時の生徒たちがおぼえています。
永田佳子さん・典子さんの双子の姉妹もそれをおぼえていて、
そのあと塾でおきた
もっとふしぎな出来事とからめておぼえていたというのです。

それは、教室の換気扇に鳩が住みついたことでした。
追いだすのもあわれに思えて、換気扇を閉じて、
鳩が巣をつくるままにしておくと、やがてヒナがかえって、
飛びたっていったことがあったのです。

私が話したうぐいす色の鳩の話、
「この夢の鳩にかかわることがきっとなにか起こるよ」
夢見の夜話したこの言葉を、永田姉妹ははっきりと憶えているのです。

当時の塾生たちは、
私が冑佛に夢中になっていたことをリアルタイムで見聞きしていますので、
ときには私よりも正確に当時のことを記憶しています。

あすは『冑佛伝説』から割愛した
生徒の登場する場面についてお話しします。


2006年5月9日(火曜日)

刀剣(10)

カテゴリー: - kawamura @ 10時59分12秒

残された刀剣類を、お蔵の壁のなかから見つけだして、
登録をすませたあとは、それを研(と)がなくてはなりません。

当然刀剣は錆びたままですから、
良い研ぎ師を見つけて、
もとの姿にもどさねばなりません。

やがて、
島田市内に超一流の研ぎ師がいることをはじめて知りました。

その方にお願いしようときめたとき、
私の手もとに
一通の現金為替がとどきました。

亡くなったばかりの恩師、岡不二太郎先生の奥さまからでした。
封をあけると、二十万円がはいっていました。
岡先生の御遺言で、「河村君に刀の研ぎ代として」
ということのようでした。

感謝はもちろん感じましたが、
それよりもつよく驚きをおぼえました。
岡先生が亡くなる直前に、
私は、今生最後の旅のお供をさせていただいたのですけれども、
そうはいっても、岡先生にとって、
私はただ一介の学生にすぎませんでした。
それなのに、遺言書に私の名前がしるされていたとは、
妻も私も、ただ驚き、その恩愛にふかく頭をたれました。

さっそく研ぎを依頼して、ひと月ほどすると、
鞘から抜けないほど錆びていた数振りの刀剣が、
見事に研磨され、
白鞘におさめられた美しい姿で私のまえにあらわれました。

つづきはまた後日。


2006年5月8日(月曜日)

河村宗平

カテゴリー: - kawamura @ 10時25分45秒

これから、10年ほどかけて、
曾祖父河村宗平について調べようと思っています。

曾祖父は江戸末期安政年間に生まれて、
終戦直前になくなっていますが、
一代の記録は、ほとんど残されていますので、
それをまず読み込むところからはじめなくてはなりません。

島田市や静岡県の茶業史に、ささやかな貢献ができるかもしれません。
最初に静岡大学の本多隆成教授に、
研究方法全般についてご教授していただき、
静岡大学助教授の小二田先生、
お茶の郷博物館学芸員の望月先生のご指導を仰ぎながら、
5年ほど資料を調査し、
つづく5年で、それをもとに文章を完成しようと思います。

いま55才ですから、
65才までには『河村宗平伝』を上梓したいと思っています。

もちろん『冑佛考(四)』もそのあいだに書きあげる予定です。

それから『蒼天のクオリア』を一人称に書きあらためて、
『冑佛伝説』と一冊にまとめようとも思っています。

できるといいな、という程度の、
これから10年間の計画です。


2006年4月28日(金曜日)

刀剣(9)

カテゴリー: - kawamura @ 12時05分01秒

母が私にみせた新聞の切りぬきは、
終戦時に進駐軍が徴収した刀剣に関するものでした。
写真入りで、
そこに「波之平行安」と書かれていたのです。

母は、その拵(こしら)えなどからして、
我が家に伝来の太刀に間違いないというのです。
おさないころから見ていたものでしょうから、
見まちがえるとも思えません。
それを失ったあとも、
祖父から何度も言いきかされた話でしょうから、
この太刀のことは、
母の心にずっとわだかまっていたのでしょう。

いっしょに東京へそれをみせてもらいに行こう、
という話を母としたのは、もう遠い思い出です。

いまはその記事の切りぬきもなくしてしまって、
たずねるあてもありません。

やがて両親の死後、
私たちがお蔵の壁のなかから見つけたのは、
祖父が米軍に供出したこれらの刀剣類の
残りだったのです。

つづきはまたあした。


2006年4月26日(水曜日)

書店OPEN!!

カテゴリー: - kawamura @ 06時05分40秒

島田駅前に、書店「BOOKS ZEN」がオープンしました。

島田駅から徒歩二分、
島田進学スクールの一階で、
駅の改札をでると見えるところです。

ひさしく島田は、駅前に書店のない街でしたが、
待望の本格書店がお目見えしました。

広い書店の内部には、
駅の乗降客、学生、買い物帰りの主婦、仕事のあいまの会社員など、
さまざまな客層の方々でにぎわっています。

拙著「蒼天のクオリア」も「冑佛伝説」も
店頭にならんでいます。
(二冊とも、茂木健一郎先生が序文を書いてくださいました)

私もしばらく入りびたりになりそうです。
午後4時前後には、毎日書店にいると思います。
お会いできたら、二階でお茶でもいかがでしょうか。
となりの不二家のケーキを食べながら、
よもやま話に花を咲かせませんか。

しばらくうしなわれていた文化の香りを、
「BOOKS ZEN」が、はこんできてくれました。

みなさまもぜひ、足をお運びください。


2006年4月25日(火曜日)

刀剣(8)

カテゴリー: - kawamura @ 08時49分08秒

これは私が祖母からきいた話です。

終戦直後、
進駐軍が、
日本中のめぼしい貴金属や刀剣類などをあつめているといううわさが、
大代の地までつたわってまいりました。
なんでも、大きな磁石をもってくるから、
どこに隠してもみつかってしまうし、
隠しているものがみつかればたいへんな罰を受けるというのです。

祖父は静岡師範から明治大学法学部を出たひとでしたけれども、
それをきいて、
伝来の刀剣を来客に自慢して見せたことを思うにつけ、
その愚かさにほぞを噛みました。
もう、無いとは言えません。
つまり我が家でいちばん良いものだけが、
進駐軍の手に渡ることになるのです。

これはあとになってわかったことですが、
祖父はわずかにのこされた二流の刀剣類などを、
お蔵の壁に隠したのでしょう。

やがて、伝来の家宝「波之平行安」など数振りの刀剣を、
泣く泣く進駐軍に供出することになったのです。

つづきはまたあした。


2006年4月24日(月曜日)

刀剣(7)

カテゴリー: - kawamura @ 11時52分20秒

太刀を立てかけるふしぎな形をしたものがあって、
ちいさいころはそれ何であるのか知りませんでした。

それは50センチほどの高さで、
いちばん上に馬蹄形をした木の枠がついていて、
それをささえる支柱が、すこし湾曲した形で下の台座からのびています。
台座は、長軸が20センチほどの楕円形をしたように憶えています。

太刀掛は高校生くらいまで残っていましたが、
やがてこわれてうしなわれました。
べつに何の感慨もなく、いろんなものが毀れて消えていきました。
たとえば鎧櫃(よろいびつ)なども、
ほとんど崩れて原形をとどめなくなって、
捨てられました。
いまのように、
文化的価値などをみとめるほどの余裕がなかったのです。

現在「河村家住宅」のなかに常設展示されている古物などは
あまり価値のないものではございますが、
歴史の辛酸をなめながら稀に残されたものです。
また、年に二三度の公開日を決めて、
みなさまにご覧いただく機会をつくろうと思っています。

ところで、伝来の太刀がどのようにして我が家から失われたのかは、
またあしたお話しします。


2006年4月23日(日曜日)

刀剣(6)

カテゴリー: - kawamura @ 08時47分25秒

東京から帰省して、癌で父をうしない、
妻帯するまでの二三年間を母とともに「河村家住宅」で暮らしました。

その話は、
おさないころから祖母から聞かされていたのですが、
母と暮らしていたとき、
新聞にその記事が載ったことがあるのです。

それは、終戦直後まで我が家に伝わっていた太刀の話です。
いまその正確な記録は、お蔵のなかにあって、
手元にありませんので、記憶をたよりに書くことにしましょう。

「波之平行安」の銘がある河村家伝来の太刀を、
祖父は自慢して多くの方にお見せしたのです。

つづきはまたあした。


2006年4月22日(土曜日)

書くべきこと

カテゴリー: - kawamura @ 07時27分54秒

なんだか、自分の無力さを痛感しています。
ほんとうに書くべきことを、さがしてみたいと思います。

「eコミュニティしまだ」のなかに、
「御林守河村家を守る会」というセルを
立ちあげさせていただいたのですから、
我が家の歴史やそれにまつわることを書いて、
みなさまにあまり知られていない
島田市指定文化財「河村家住宅」をご紹介することが、
その本義なのでしょう。

そういう意味では、
中断している刀剣シリーズなどは
その主旨にふさわしいのかもしれません。

あるいはこの地域のこと、
大代だけではなく、金谷島田についても
河村家の歴史にかかわることなどを、
ゆっくりと書いてみようと思います。

そうしているうちに、
ほんとうに書きたいこと、
書かねばならないことが
浮き彫りにされてくるように思います。

ひとの人生と無縁の歴史はなく、
歴史を知るとは、
その時代を生きたひとびとの人生を
顕彰することに他なりません。

庭に立つ一本の樹を、
何代にもわたる河村家のひとびとが見上げてきたのです。
それぞれの時代を懸命に生きた彼らの歴史を、
できるだけ史実に忠実に描いてゆけたらと思います。

これからもどうぞ、
おつき合いください。


2006年4月18日(火曜日)

追悼

カテゴリー: - kawamura @ 08時44分17秒

なぜみずから命を絶ったのか。

幼い日をともに遊び
私より一つ年下の君が
その身体を炎にさらして
その顔を、髪を焼きながら
なにを思ったのか。

私は先日こんなことを考えていた。
日本人のすぐれた気質について、
宗教もなく、ほとんど道徳すらなく、
つまりなんの規範もなしに、
精神の平衡を保って生きうる我ら日本人は、
みずから神を生きているに等しいと
のんきなことを考えていた。
その愚かさ、
その思慮の足りなさを君に深く恥じる。

君はそのとき、自らを灼熱地獄においていたのか。
ちいさな工場を経営していたと聞く。
私もおなじようなものだから、そのたいへんさは良くわかる。
でも
家族をのこし、友人知人をこの世にのこして
なぜひとりで逝ったのか。

私は55才、君は54才。
中高年の自殺をよく耳にする。
社会問題にすらなっている。
この国のあらゆるゆがみが、
ひたすら働きつづけた我らの心と体をむしばみ、
舌打ちするような気軽さで鉄道に身を投げ、
炎に身を投じるのか。

この国のゆがみとは一体何か。
もともとこの国に、
ひとりの人間の尊厳をささえる何かがあるのか。
西洋のかたすみのちいさな街にさえ、豪奢な教会が建ち、
おごそかなろうそくのあかりのなかで、
ふだん着のひとびとが平日の昼間に祈りをささげている。
神への信仰が生きているのである。
一世紀前に、梅毒をやんだ哲学者が「神は死んだ」と叫んでも、
そしてそれが世界の潮流となったかにみえる現在においても、
ひとびとは平然と神に祈りをささげつづけている。
なぜなら、
この生きているふしぎと苦しみをささえ得るのは、
彼らには神をおいてほかに無いからである。

それでは私たち日本人には何があるのか。
それぞれの菩提寺に、なにもない日に、
お経をあげに行くというひとを、
私は寡聞にして聞いたことも、
見たこともない。
また、仏教の空の思想にささえられて生きているひとと、
書物の中以外では、お会いしたことがない。

宗教がないのである。

自殺者の数が、交通事故死者の数を上回っていると聞く。
死にゆく彼らのこころの地獄を思い、
神もなく仏もない日本人のこころの空虚を思うとき、
はかりしれぬむなしさをおぼえる。
膨大な数の自殺者のこころを救うのが、
政策でも医学でもないことを私たちは承知している。
その、もっとも大事なことを、私たちは知らぬふりをして、
それと正面から向き合うことをしてこなかった。

「青臭いことをいうな、この世は金だ」と言い放って、
戦後60年を経済重視できたこの国の姿が自殺大国であるとは、
足もとが寒くなる思いがする。
日本が富を得たいまこそ、
疲れはてた者たちがふたたび命を輝かせて生きられる
誇り高い国をつくろうとは思わないのか。
それには深くながい宗教や思想との苦闘の歳月を要するのだろうが、
死に行く彼らがそれを求めているのである。

彼とは成人して以来まれにしか会うことはなかったが、
彼が絶望の業火の中に身をおいて我らに告げようとしたことが、
じつは何であったのか、もう一度熟慮してみたいと思う。

窓のそとの、うす青いかげろうのなかから、
おさない彼が、笑顔で手をふっている。


2006年4月17日(月曜日)

知り合いの死

カテゴリー: - kawamura @ 09時31分28秒

今日は50年もまえからの知り合いの
お葬式に出席してまいりますので、
ブログは夜遅くになるになると思います。

ただいま帰りました。
あまりにも衝撃が大きく、
自分をとりもどしてから、
明日の朝書くことにいたします。


2006年4月16日(日曜日)

弁当配り珍道中(金谷茶まつり)(4)

カテゴリー: - kawamura @ 09時12分15秒

屋台の焼きとりをほおばりながら、
顔見知りの原さんに電話しました。
「どちらにいらっしゃるんですか?」
「本部にいます。ヤマサさんもここにいますよ」
ということで、弁当配り三人組は、
茶娘や屋台にきょろきょろ目うつりしながら、
地域交流センターのほうへ、やわらか陽ざしのなかを歩いていきました。

地域交流センターに金谷茶まつりの本部があるのです。
その場所はもとは本陣柏屋河村家のあったところで、
河村家は明治期には初代榛原郡長などをつとめていましたが、
やがて火事にあってこの地を離れ、
現在は大阪の箕面に住んでいらっしゃいます。
その跡地なのです。

ようやく本部について原さんの所在をたずねると、
隣の接待所にいるということで、そちらへ向かいました。
そこにはヤマサ製茶の杉山さんもいらっしゃって、
原さんと杉山さんにご接待していただきました。
おいしいお酒と肴をいただきながら、
ヤマサさんは大代のご出身なものですから、
弁当配り三人組と昔話で盛りあがりました。

通りからはなやかな祭りの喧噪がきこえてきます。

「ところで、原さんと杉山さんはここでなにをしていらっしゃるんですか?」
原さんが答えられました。
「私が茶まつりの副、杉山さんもおなじですよ」
といつもの笑顔でおっしゃいました。

そこへ、もとの町会議長をなさっていた石神さんがあらわれ、
原さんや杉山さんと声を交わしました。
「あの石神さんが茶まつりの長で、私たちが副なんですよ」
私は目を丸くして
「長って、この茶まつり全体のですか?」
「そうですよ」

そっ、そうですよ、って、えっ、そうか、ここは本部なんだ、
そうすると、茶まつり全体の長と副がいるところで、
弁当配り三人組がお酒をふるまわれているということですか・・・

私は思わず第5区の組織表をだして
「私はこの第5区の区長の下の統括本部長の下の弁当配りでして、
いちばん下の者なんです。はい」

弁当配り三人組は、深々と頭をさげて、
ほうほうのていでその場を逃げさりましたとさ・・・

つづきはまたあした。


2006年4月15日(土曜日)

弁当配り珍道中(金谷茶まつり)(3)

カテゴリー: - kawamura @ 07時06分49秒

茶娘たちが昼食会場を立ちさると、
いよいよ本部ちかくの別会場へ移動することになりました。

晴れたいい日で、三人で旧街道を駅の方へむかって歩きはじめました。
ひさびさに歩いて通る道で、加藤家住宅が消えているのに気づきました。
私が旧金谷町の文化財保護審議委員をしていたころ、
この住宅を審査のために見にきたことがありましたが、
けっきょく文化財指定の話は消えて、建物もとりこわされたようでした。
なんだか一抹のさみしさをおぼえました。

途中の大代川にかかる橋、その橋の名は忘れてしまいましたが、
その上に御輿が一台止まっていました。
川べりはいい風がふいてきます。
見あげると、屋台の屋根の上に数人の若者が乗って、
青空の中で威勢のいいかけ声をかけています。
そろいのはっぴを着ていて、よくみると安全のために
腰からワイヤーがのびて屋根に固定されているようです。
そこには茶娘たちはいませんでした。
弁当配り三人組は、お昼どきの茶娘たちのはなやいだ笑顔をはやく見たくて、
足ばやに屋台のよこを通りぬけて、本部の方へむかいました。

ちなみに三人組の最長老は杉山さんで、お年を確認したわけではありませんが、
おそらく70才前後でしょうか、安田地区の池田さんは60代半ば、
最年少の私が55才という若々しさですから、
茶娘をみたい一心で歩いたとはいえ、はた目にはとぼとぼとうらぶれて歩く
おじさん(おじいさん?)達だったのかもしれません。
おたがいにはれやかに交わしたつもりの言葉も、
ぼそぼそとつぶやいているように聞こえたかもしれません。

ときどき教え子や顔見知りにあって、笑顔であいさつをかわします。
これも祭りのよさで、不機嫌な人などどこにもいません。
私も、缶ビール二本のほろよいの笑顔をふりまきながら、
あふれるほどの人並みのなかを
昔「おかど」と呼んでいた文房具屋のかどまでくると、
出店のいいにおいがしてきました。
たこ焼き、お好み焼き、焼きイカなどの旗がはためいていて、
お昼のおにぎりを二個食べたばかりなのに、
たちまちお腹がすいてきました。

つづきはまたあした。


2006年4月13日(木曜日)

弁当配り珍道中(金谷茶まつり)(2)

カテゴリー: - kawamura @ 08時41分46秒


! 『冑佛伝説』のお求め、ご感想はこちらへ !
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脳科学者の茂木健一郎先生が「クオリア日記」のなかで、
『冑佛伝説』の告知をしてくださいました。

『冑佛伝説』も前作『蒼天のクオリア』も、
ともに茂木先生が序文を書いて下さいました。

弁当配り三人組が大井川鉄道の新金谷駅についたのは、
九時半ごろのことでした。
駅舎の前に観光客めあての売店や食堂のはいった大きな建物があって、
そのいちばん奥に、茶娘たちの昼食の場所があるのです。

ところで、観光客というのは、
川根の温泉やSLをたのしみに来るのです。
ちかごろは映画の撮影もよくあるようで、
ちょっと前には高倉健の「鉄道員」とか、
つい最近ではキムタクも来ていたようです。
昨年我が家にきた岡田光暉の撮影班も、
その多くは昭和二十年のSLがらみのシーンを求めてのことだったようです。
ともあれ四季折々の川根路の光景は、一昔まえの日本を思わせます。

県外の方々には、SLの風景をたのしむことのできる数少ない山あいの街ですので、
ぜひ金谷へお寄りください。
その節には、お時間がございましたら、
我が家へも遊びにいらして下さい。

さて、昼食用の広い部屋へ行ってみると、
昨日(4/8)のなごりをとどめるように、
青いシートが敷いてあって、
その上に弁当やビール、ジュースなどの
段ボール箱が積み上げてあります。

それらを地区ごとに区分けして、茶娘たちを待っていました。

たまたま、大鉄の関連会社の社長さんをなさっている金原さんにあって、
茶まつりの話などをしているところへ、
色あざやかな茶娘たちの一団があらわれました。

あたりがぱっと陽がさしたようにあかるくなって、
愛くるしい娘たちを目にした弁当配り三人組のおじさん達は、
きゅうに元気をとりもどして、
小走りに昼食会場へむかいました。

いよいよ、金谷茶まつりがはじまるのです。

(つづきはまたあした)


2006年4月12日(水曜日)

弁当配り珍道中(金谷茶まつり)

カテゴリー: - kawamura @ 06時58分52秒


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脳科学者の茂木健一郎先生が「クオリア日記」のなかで、
『冑佛伝説』の告知をしてくださいました。

『冑佛伝説』も前作『蒼天のクオリア』も、
ともに茂木先生が序文を書いて下さいました。

昨日(4/8)は雨がふって大変だったようですが、
日曜日(4/9)はよく晴れました。

金谷茶まつり第五区は
大代、志戸呂、番生寺、島などの四地区で構成されていて、
その区長は大代地区の総代がつとめています。

その本部にむかうべく
朝8時に
弁当配り三人組が大代からコミバスに乗って、
最初に降りるところからつまずきました。
どこで降りたらよいのやら
ぼんやりしていると
どなたかお叱りの声がとんで、
よろよろと三人でバスを降りました。

到着した第五区本部のいくつかの部署のなかに、
我ら弁当配り三人組の所属する統轄本部があるのです。
名前はいかめしいのですが、実態は弁当配りがその本務です。
うつむきがちに、おしずかに命令されるので、
どうしたらよいのやら
三人でおろおろとうろたえておりました。

そのうち区長の檄がとんで、
我ら弁当配り三人組も
いよいよ新金谷駅にむけて歩き始めました。

ところどころに屋台が出ています。
大代には金谷茶まつりの屋台はありませんので、
すこしうらやましいおももちで
屋台を横目づかいにながめながら
うろうろと歩いていきました。

晴れたいい日でした。

三人で思い出ばなしをしながら歩いているうちに、
だんだん元気が出てまいりました。
杉山さんと私は大代の生まれですが、
池田さんは藤枝から大代へ引っ越してこられたのです。
ですから、映画館があったことや水害の話には
たいへん驚いていました。
水害のときには金谷の町全体が湖のようになったのですから。

やがて新金谷の駅につきました。

つづきはまたあした。

(「刀剣」と「茶まつり」を交互に書きます。
 まだまだ書きたいことばかりあって、
 お読みになっている方にはたいへんご迷惑をおかけします)


2006年4月11日(火曜日)

刀剣(5)

カテゴリー: - kawamura @ 05時22分25秒

およそいままで読んできた本のなかで、
日本刀の解説書ほど意味不明の文章はありませんでした。

たとえば、
(財)日本刀剣美術保存協会の機関誌「刀剣美術」をみると、
日本刀鑑賞会の鑑定として、
つぎのような記述がいたるところにみられます。

(地)小板目に小杢目交じり、やや肌立ち、
   地沸厚くつき、地景細かによく入る。
(刃)小互の目に小丁子、尖り互の目など交じり、足・葉よく入り、
   処々に飛焼や二重刃など交じって小沸きよくつき、
   細かに砂流し、金筋入り、総体にうるみごころとなる。
(帽子)のたれて、先掃きかけ、沸崩れる。

みなさんいかがでしょうか。
はじめてごらんになるかたには、暗号のように思えるかもしれません。
この文章を一目でお分かりになるとしたら、
よほど日本刀のことにお詳しい方でしょう。
年月をかけて刀剣を鑑賞しつづけていないと、
とてもこのようには表現できないし、
またその意味を理解できないと思います。

ともあれ、四五人ほどの審査員が、
つぎから次へと刀剣の(なかご)を抜き、
銘、目釘穴の数、刀長、反り、などを調べてゆくのです。

茎というのは、刀の柄の内側にささっている
刀身の部分のことをいうのです。
そこに銘文が刻まれていて、
それで時代や刀の価値が判断されるのです。

もっとも、私の家につたわる刀剣には名刀はありません。
鎌倉期のものもありますが、
多くは室町以降のもので、
とくに、束もの、あるいは、数打ち物、
とよばれるものが多いようです。

つまり、室町末期から戦国時代にかけての戦乱期の刀剣は、
実戦用の道具にすぎませんから、
それこそ数多くの刀を束にして
配下のものに使わせたようです。

しかし、拝領刀などの短刀類はべつにして、
ただ一振りの名刀が、わが家につたわっていました。

この太刀の話は、またあした。


2006年4月10日(月曜日)

刀剣(4)

カテゴリー: - kawamura @ 08時47分13秒

右隅にお蔵正面の一部がみえます。
この写真は今朝のものではありません。
木村仲久氏のお蔵の写真があったと思いますので、
さがしてみます。
eコミにあずけてあるかもしれません。

その朝、教育委員会のライトバンが着きました。
平成6年6月15日のことです。
あかるい初夏の陽ざしでした。

その日は県庁で刀剣の登録審査をする日だったのです。

お蔵からはこびだした刀剣類をいったん奥座敷にならべ、
持ち運びやすいように刀を何本かたばねたり、
短刀を布につつんだりしました。
短刀の目貫は、手の込んだ細工で、
それを傷つけないように注意しました。

いよいよそれらを車に積みこもうとしたのですが、
槍は長すぎて
フロントグラスから後ろの窓までとどきました。

長刀、短刀、古式銃などをめいめいが手に持って、
静岡県庁にむかいました。

町教委の山崎係長、
片田町史編纂専門員、
それと私の三人でした。

県庁に到着、いざ出陣です。
山崎係長が槍と刀、片田先生が長刀、
私が古式銃と短刀をそれぞれ大事にかかえて、
(腰に差そうかとも考えましたが、それはやめました)
10階あたりにある審査会場にむかいました。

はた目には奇妙な一行にみえたでしょう。

3人はいたってきまじめな顔で、
エレベーターに乗りこみました。
乗りあわせた県庁の職員たちが、
ふしぎそうな顔で見つめてきます。

やがて、窓から静岡市内が一望できるような
広い審査会場につきました。

つづきはまたあした。


2006年4月9日(日曜日)

金谷茶祭り

カテゴリー: - kawamura @ 07時22分11秒

今日は、金谷茶祭りに参加してまいります。

地区のお弁当配りとして、
朝8時出発、午後5時ころに仕事が終わります。

午前中は新金谷駅のちかく、
午後は佐塚書店のちかくにいます。

みなさまもぜひお出かけ下さい。

それではいまから行ってまいります。


2006年4月8日(土曜日)

刀剣(3)

カテゴリー: - kawamura @ 09時51分26秒

お蔵の薄闇のなかで、
そうっとぬいた刀の青い表面に、
扉のむこうの庭の緑がうつっていました。

日本刀の美しさに魅入られたのは、
そのときが初めてでした。

美術館やお城で見るのとちがって、
自分の手のなかに、
刀の重みを感じながら、
剣尖に白いひかりが凝縮してゆくような、
つめたくなめらかな曲線のうつくしさを、
うっとりとながめることができるのです。

槍、古式銃、刀剣、陣笠などをお蔵からはこびだして、
奥座敷にならべました。

これから、ひと戦(いくさ)できそうです。

しかしこれをどうしたものか、
もういちど壁のなかにしまい込んで、
なかったことにしてしまおうか、
とも考えました。

けっきょく家族で相談の結果、
教育委員会の文化財係に相談してみようということになって、
電話すると、
「警察に連絡したほうがいい」といわれました。

警察に電話すると、驚いたようすで、
「ただちに行きますので、現場を動かないように」
と指示されました。

やがて谷間の一本道を、パトカーがやってきました。

三人の警官が小走りにお蔵のまえまできて、
「伝来の武器が発見されたのですから問題はないけれど、
いちおう銃砲刀剣の不法所持にあたるかどうかを確認する」
ということで発見された壁の写真などを数枚撮って
帰っていきました。

やがて教育委員会の方々もやってきて、
刀剣の登録をどうするかという話になって、
翌週、県庁でおこなわれる刀剣の登録審査会へ
行くことにしました。

つづきはまたあした。


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2006年4月7日(金曜日)

『冑佛伝説』(かぶとぼとけでんせつ)


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茂木先生が「クオリア日記」のなかで、
拙著『冑佛伝説』の告知をしてくださいました。

『冑佛伝説』も前作『蒼天のクオリア』も、
ともに茂木先生が序文を書いて下さいました。

その御厚情に、心から感謝申しあげます。

また、装丁は友人の版画家高橋シュウ氏です。

みなさまも、ぜひお手にとってご覧くださいますよう
お願い申し上げます。


2006年4月6日(木曜日)

刀剣(2)

カテゴリー: - kawamura @ 09時09分07秒


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かびくさいお蔵のうす闇のなかで、
すこしずつはがされてゆく壁の板のむこうに、
白い布につつまれた棒状のものが数本と
黒い金属の筒がみえてきました。

そのほそい金蔵の筒は、
しだいに下までそのすがたをあらわしてくると、
銃であることがわかりました。

「火縄銃!?」とそのときは思いましたが、
数日後にそれは「管打ち式銃」と呼ばれることを知るのです。

白い布につつまれた棒状のもの、
もうみなさんにもおわかりのように、
それこそが大小とりまぜた刀剣類だったのです。

その奥に、はじめは暗がりでみえなかったのですが、
長い棒のさきに
30センチほどのふしぎな形をした
鞘(さや)状のものがついていいます。

槍でした。

考えてみてください。
刀剣、槍、古式銃などがぞろぞろと
壁のなかからあらわれたのです。

その直後に、
思ってもみない展開が私たち家族に訪れるのです。

つづきはまたあした。


2006年4月5日(水曜日)

刀剣

カテゴリー: - kawamura @ 07時42分42秒

ことのおこりは父の死後まもなくのことでした。

それまで子どもたちには禁断の空間であったお蔵に
足をふみいれたところからそれは始まります。

お蔵とはいえ、
明治維新、敗戦後の農地改革と、
この百年ほどのあいだに
二度にわたる危機をのりこえた河村家には、
なにもめぼしいものは残っていません。

箱だけがのこって中身はから、というありさまで、
お蔵の中は、
時代という盗賊に荒らされた廃墟のようでした。

しばらくして暗がりに眼がなれてきたとき、
板壁の一部がすこし不自然なのに気づきました。
材質がちがうのです。

さわってみると、
その板だけがわずかにうごくのです。

すきまに鉄具をさしこんで、
ゆっくりと、板を剥がしました。

そこからどのようなものがあらわれたのかは、
またあしたのおたのしみ。


2006年3月31日(金曜日)

たけのこ刈り

カテゴリー: - kawamura @ 07時51分18秒

むすめたちが大学へ帰ってしまうというので、
妻が
みんなでたけのこ刈りをしようといいだしました。

いざ竹藪へ行ってみると
そこらじゅうイノシシの掘ったあなだらけで
たけのこはほとんどありませんでした。

それでもあきらめきれずに
四人の家族がおもいおもいに
降りつもっているささの落ち葉のうえから
足のうらの感触をたよりに
たけのこのさきのわずかなてごたえを
さぐるのです。

竹林のしずかな時間がながれます。

そのとき
たけやぶのうえを
風がながれていきました。

ゆれる竹のこずえに
青空がきらめいています。

有間皇子を思いおこしました。

有間をしのぶ歌に
梢をわたる風の歌があったように思います。

二十代のころ
有間皇子のことを小文にまとめたことがありました。
そのときの記憶です。

二首の歌を万葉集にのこして逝った
夭折の皇子をしのんで、
後世の歌人が詠んだ歌のように思います。

藤白の坂か和歌浦を見わたせるあたりで
梢をわたる風の音に皇子をしのぶ
という歌だったような
かすかな記憶です。

思いちがいかもしれません。
どなたかおしえてくださいませんか?

そのとき
しずかなささの葉のふれあう音が
わたしたち家族のうえへ
やわらかな金の羽毛のように
やさしく舞いおりてきました。

ただそれだけのしあわせなときが
生きているすべてのようにも思います。

けっきょくたけのこの収穫はなく
肩こりと疲れだけがのこりましたけれど。

(それにしても
 イノシシは掘ったあなを埋めもどしてくれません。
 こんど会ったら
 きつくいましめてやろうと思っています)


2006年3月26日(日曜日)

河村山

カテゴリー: - kawamura @ 08時43分40秒

ひさしぶりに
なにもすることのない日曜日です。

午後になったら
桜の写真をとって
UPしてみましょうか。

ところで、
江戸時代の古文書には、
前山のことを「河村山」と書きしるしてあります。

その前山の桜は、
何代にもわたって
先代たちが
桜の樹をきらずにのこしたものですから、
満開の時期になると
山全体が桜いろに染められます。

私がおさないころまで、
前山の雑木にも高値がつきました。

1ドルが360円のころでしたから、
むしろ外材は高級品で、
建築資材としてつかわれるのは
もっぱら国産材だけでした。

祖父の代だけでも
前山の雑木を
何回も売ることができたようです。

雑木は植林の必要がなく、
そのまま放置しておくだけで
30年もすれば
またりっぱな雑木山になります。

数町歩(ヘクタール)づつ売るのですが、
そのとき
観賞用に
桜の樹をきらずにのこしたのです。

やがて1ドルが100円台になって、
現在のように、
南方やシベリアから
島ごとまるはだかにするようなやりかたで
材木を輸入するようになると、
国産材は見むきもされなくなりました。

前山も手入れされなくなり、
のこされた桜の木々も
荒れた山のところどころに
昔のなごりをとどめるように
しずかに咲いています。

はなやかだった日々を
なつかしむかのように咲いて、
散っていきます。

その桜たちの写真を
すこしずつ
UPしてみます。


2006年3月25日(土曜日)

「御林守河村家」○○事件ヵ

カテゴリー: - kawamura @ 06時43分30秒

以下の文章をお読みになって、
表題の○○の部分に
適語を補充してください。

***********
06年03月24日08時頃

寝室の窓越しに
ひとの声がしました。

朝八時です。

御林守河村家は
まだ早春のまどろみのなかにいました。

ご承知かとは思いますが
学習塾はよるがおそく、
河村家の朝はふつうの家庭より
ゆっくりとめざめるのです。

妻が人声に気づいて
ベッドから頭をあげ、
窓のカーテンをあけようとした
そのときです。

わずかなすきまから
男の眼がのぞいたのです。

からだが硬直して
声がでません。

男はふたりいて、
警察官の制服を着ているようでした。

玄関で
インターホンが鳴りました。

妻はあわてて身づくろいをして、
玄関にいきました。

扉をあけると
警察官が二人と
みしらぬ男がふたり、
そこに立っていました。

「河村さんですね」
「はあ」
「だいじょうぶですか」
「はあ?」

妻にはなにがなんのことやら
意味がわかりません。

話を聞くと、
ふたりの男は警備会社の職員で、
御林守河村家から警備会社に
警報が通知されたというのです。

河村家へ電話をしても応答がなく、
ただちに110番通報をして
パトカー2台が出動、
警備会社職員も同乗して
駆けつけたというのです。

「はあ?」

妻はまだ春眠のまどろみのままです。

はっ、と気づきました。

猫です。

猫ちゃんです。

2匹の猫ちゃんのどちらかが、
警報装置のボタンを
踏んでしまったのです。

そういえば
いつもは立ててある警報装置が、
なにかの理由で
横にしてあったのを思いだしました。

「すっ、すみません。猫です」
「猫!?」
「はいっ、猫です!」
「あの子ですか?」

妻がふりむくと
かげから頭だけをだして、
猫ちゃんがのぞいています。

「はいっ、この子です!!」
「猫がボタンを押した、ということですね!」
「すっ、すみません〜」

妻のいうところでは
どうも警察の報告書には
「猫が踏んだ」
と書かれているようです。

ねこふんじゃった、ねこふんじゃった、
ではすまされません!!

ごめんなさい〜〜!!

私はその一部始終を
申しわけなさに涙しながら
ふとんのなかで聞いていました。

パトカーが帰ったあと、
もちろん
夫婦ともども
2匹の猫にお説教をしたのは
言うまでもありません。

(たとえ猫のせいとはいえ、
 みなさまにご迷惑をおかけしましたことを、
 猫に成りかわりまして、
 こころよりお詫び申し上げます。
 また「御林守河村家」をまもるべく
 今後とも警報装置類を整備いたしまして
 文化財河村家の維持保存に精進いたしますれば、
 このたびの河村猫の不祥事につきましては
 ひらにご容赦願いたく
 お願い申し上げる次第でございます)


2006年3月24日(金曜日)

歴史量(特許9)

カテゴリー: - kawamura @ 05時43分50秒

日本地図を思いうかべてください。

長方形の地図を、
置いてある机の面にたいして
垂直に動かすと、
地図が移動した跡に
直方体の空間ができます。

時間とともに机のうえに積み重ねられる
無数の日本地図がつくる
透明な地図の堆積空間、
その空間こそ
歴史的時空連続体
と私が名づけたものです。

私は静岡県島田市にいますから、
地図上の
およそ北緯34.85度、東経138.17度
の地点にいます。

したがって
歴史点としての私は
河村隆夫(34.85, 138.17, 2006.03.24.05)
とあらわされます。

ちなみにその座標データは
氏名(北緯、東経、時刻)
をあらわしています。

私はいまパソコンのまえに
静止していますから、
私の歴史点は
さきほどの
歴史的時空連続体のなかを、
時間の経過とともに
地図平面にたいして
垂直な直線をえがきます。

この直線が歴史線です。

これを
さらに平面に拡張してみましょう。

たとえば静岡県は
その境界線も面積も
地図平面上において確定しています。

これを歴史面と呼びましょう。

歴史面である静岡県を
地図平面に垂直に移動すると
そこに
断面がすべて静岡県の形をした
金太郎飴のような立体がうまれます。

それを
歴史量体とよびます。

たとえば
織田信長の領地を、
年ごとに
できるかぎり正確に
境界線を確定すれば、
その発生から終焉までの経過が、
歴史的時空連続体のなかに、
山芋のような複雑な形をとって
あらわれてきます。

その歴史量体の体積は
㎢・年
を単位として求めることができます。

みなさん、
空想をゆたかにして下さい。

たとえば、
武田信玄の歴史量体と
織田信長の歴史量体とを
歴史的時空連続体のなかに創造し、
その歴史量を計算すれば、
ふたりの英雄が
日本史におよぼした影響を、
定量的に比較することができるのです。

定性的研究にかたよった歴史研究の
あたらしい手法として、
私は
歴史量の比較という
定量的分析手法を発明したのです。

これを世界歴史に適用すれば、
アレクサンダー大王と
ジンギスカンとの歴史量比較など、
あらたな
定量的歴史研究の道が拓かれるのです。

話がなんだかおおきくなって、
わくわくどきどき
おもしろくなってきました(笑)。

前回もお話ししたように
このような着想が
ほとんどまたたくまにわいてきたのです。

まだまだこの話はつづきます。

みなさん、たいくつですか?

つづけてよろしいですか?

(コメントお待ちしています)


2006年3月23日(木曜日)

歴史線(特許8)

カテゴリー: - kawamura @ 07時37分44秒

それは最初、
ウィルソン霧箱のなかを走る
宇宙線の飛跡のように、
時空連続体をつらぬく世界線のすがたをして
私の脳裡にうかびました。

物理学では
あらゆる質点が
(x,y,z,t)であらわされる
四次元空間のなかを
白いすじをえがいて飛びつづけているのです。

それとおなじように、
ひとつ次元を落として
(x,y,t)であらわされる
歴史的時空連続体のなかを、
私自身がひとつの光る点となって軌跡をえがいている、
というイメージが
そのときうかんだのです。

私はそれを、
歴史線
と名づけました。

うす青く、底のほうはすこしみどりがかっている
歴史的時空連続体のなかから、
まるでそれはカンブリアの爆発のように、
あらゆる概念が形になってあらわれてきました。

(つづきはまたあした)


「歴史データ処理装置」(特許7)

カテゴリー: - kawamura @ 07時04分55秒

やわらかいやさしい感覚、
アルビノーニのしらべに身をゆだねるような
うっとりとするしあわせな感じ、
それがしばらくつづきました。

それは、
寝室でパソコンをたたいているときに
やってきました。

一度に来るのです。

すべてが、
完成したかたちで、
まるで万華鏡をのぞいているときのように、
あらゆる可能性が
一度に見えるのです。

あのとき、
窓のむこうに
妻は洗濯物を干していて、
私のまわりには
おさない娘たちがまとわりついていたように
記憶しています。

あかるい日でした。

あの一瞬は、忘れることができません。

私の人生に
ほんの数度しか訪れたことのない
至福の瞬間でした。

のちに
「歴史の定量的分析を拓く」
と題して発表した拙文の
すべての内容が、
美しい旋律のようにやってきたのです。

(つづきはまたあした)


2006年3月22日(水曜日)

「歴史データ処理装置」(特許6)

カテゴリー: - kawamura @ 07時23分33秒

それは永享十年、
裾野の大森氏によって
相模河村城が落城したときのことです。

河村城から南へ一里ほどのところにある
大雄山最乗寺の和尚舂屋宗能が、
河村氏が城をおわれた直後に
掛川の北
上西郷の地に
曹渓山法泉寺を創建するのです。

法泉寺の南には
『駿河記』に
「河村秀高が居住した」としるされている
河村荘があります。

このあたりのくわしい説明は
また稿をあらためて
お話しすることにいたしましょう。

いまは
特許のことについて書いているのでした。

静岡大学人文学部の本多隆成教授に
河村城落城、法泉寺創建、遠江河村荘
などについて
ご説明していたときのことでした。

教授が、
ちいさくつぶやくように、
「今川範忠が、ちかくに来ていたような気がする」
といいました。

私はそれを聞きのがさず
教授の部屋を辞したあと
すぐに県立図書館で
さまざまの古書にあたって
永享十年ごろの記述をさがしました。

ありました。

河村城落城後十日とたたぬうちに、
足利持氏討伐の幕府軍総大将として、
「今川範忠が関本に陣を取っている」ことが、
『今川記』にしるされていたのです。

関本とは最乗寺の地名で、
当時の神社仏閣は
軍の駐屯地としてよくつかわれました。

城をおわれた相模河村氏が
間近に陣を敷いた今川軍に合流したことは
じゅうぶん考えられるところです。

鳥肌がたちました。

教授の頭脳には
どこまで詳細な知識が刻まれているのだろう。

その深甚な知識が
一代でうしなわれてしまうのは
いかにもくやしく
もったいないことだ、
と感じました。

そのとき、
あの
ふしぎな
うっとりとする感覚におそわれたのです。

(つづきはまたあした)


2006年3月21日(火曜日)

実用新案登録証(特許5)

カテゴリー: - kawamura @ 07時39分15秒

今日はこの写真を
ごゆっくりご覧ください。


2006年3月20日(月曜日)

桜便り(3/20)

カテゴリー: - kawamura @ 11時10分04秒

左は前山の桜1号
裏山のサンタローザ
サンタローザ満開
石垣下の水仙

玉の木
玉の木の蕾


「歴史データ処理装置」(特許4)

カテゴリー: - kawamura @ 09時00分04秒

その文章がやがて
「遠江河村荘と河村氏」と題されて、
金谷町史の引用文献になるとは、
そのときは思いもしませんでした。

ただひたすら
金谷河村氏の発生にかかわる
さまざまな文献を調べていたころのことです。

私はいわゆる歴史好きではありません。
司馬遼太郎は好きでよく読みましたが、
それ以外の作家の歴史小説は
ほんのかぞえるほどしか読んではいないのです。

私の歴史への姿勢は、
金谷河村氏の発生について、
あるいは、わが家の歴史について、
このふたつに
興味の対象がしぼられています。

可能であれば
一級資料を見るために
資料の原本をもとめて、
どこへでも出むきます。

たとえば
『圓通松堂禅師語録』の原本を拝見するために
それを所蔵する寺へ行って、
内容を確認したこともあります。

しかしそうはいっても
素人ですから、
『大日本史料』や『静岡県史』などの
おもに県や市町村などの刊行した史料にもとづいて
書くことのほうが多いのはたしかです。

そんなある日のことです。

私はいつものように、
本多隆成教授、湯之上隆教授に
教えを請うために、
静岡大学の人文学部へ日参していました。

その日は本多先生に
永享十年の足利持氏発給文書について
私論を開陳して、
ご意見をおうかがいしようと
思っていたのです。

それは
現在の神奈川県山北町に
その遺構をとどめている室町幕府方河村城が、
足利持氏方大森氏に攻め落とされたときのことです。

相模河村城が落ちた直後に、
河村城の一里ほど南にある大雄山最乗寺の
舂屋宗能(しょうおくそうのう)和尚が、
忽然として、
現在の掛川市上西郷に
曹渓山法泉寺を開創するのです。

そのあたりを
本多教授にご説明していたときのことです。

教授が
ぼそっとつぶやきました。

(つづきはまたあした)


2006年3月19日(日曜日)

オーラの戦い(特許3)

カテゴリー: - kawamura @ 07時42分35秒

私が「発明」という言葉をつぶやくと、
(それはイナバウアーほどではありませんが)
身をのけぞらせて驚くひとが、
ひとりいます。

妻です。

なぜなら、
私がよろこびに異様に眼を輝かせて、
「発明」
と口にすると、
それで数十万円が
消えてしまう可能性があるからです。

というのは、
思いついた発明を弁理士に話すと、
まず調査費用、
これはおなじ発明が過去になかったかを調べるため、
つぎに申請費用、
申請してからかなりながい公示期間があります、
さらに登録費用、
これを支払うと正式に登録されます、
以上の合計が
数十万円になるということなのです。

私の眼が輝き
発明オーラが発散されはじめると、
とたんにそれを感知した妻の妨害オーラが
磁気嵐のように
私の全身を包みこみます。

私は眼を閉じ
「うむっ」
とうなって
ただちに防護バリヤーを張ります。

バリヤーのなかは
静寂につつまれています。

妻の磁気嵐はやがて
針の雨のようにするどく激しさをつのらせますが、
私はバリアーのなかで、
春ののどかなかぜにふかれるように
うっとりと発明の夢にふけります。

外では、
発明オーラと妨害オーラの
凄絶な戦いがくりひろげられているのです。

あすは、
「歴史データ処理装置」
にかかわる発明の顛末を
お話しします。

おそらくこの発明が、
いずれかのかたちで
さまざまな分野に応用されてゆくのを
やがてみなさんもご覧になることだろうと思います。

(遠くから「そんなわけないでしょ!」
 というような危険なオーラが感知されましたので、 
 きょうはこのへんで(笑))


2006年3月18日(土曜日)

はなみずじゅるじゅる(特許2)

カテゴリー: - kawamura @ 05時35分57秒

(きのうの
「解答用紙」の実用新案登録証の写真は、
 あかるくなってからここにUPします。
 まだ4時半で、
 写真をとるのには暗すぎますので)

ところで、
ドクター中松の最初の特許は、
「おしょうゆちゅるちゅる」
だということをご存知でしたでしょうか。

うろおぼえの記憶ですが、
それは彼が少年のころ、
母親が
おおきな樽からびんへお醤油を移すのに
たいへん苦労しているのを見て、
自動的に樽からびんへお醤油を移す道具として
あの「おしょうゆちゅるちゅる」を発明した
という美談でした。

それにヒントを得たというわけではないのです。

「はなみずじゅるじゅる」
の構造をおもいついてから、
名前をつけるときになってはじめて、
「おしょうゆちゅるちゅる」
を思いだしたにすぎないのです。

それでは
「はなみずじゅるじゅる」
の発明にいたる輝かしい道について(笑)
お話しいたしましょう。

私の鼻は
かるい蓄膿のようで、
いつも鼻の奥に
わずかな鼻汁がたまっているようです。

風邪をひいたときなど、
それがとても気になるものですから、
なんとかして
その鼻腔の奥にたまった鼻汁を
きれいに吸いだしたいと思っていたのです。

あるとき、
それを吸い出す画期的な装置を
なにかのひょうしに思いつきました。

それはこのような構造をしています。

先の丸みをおびたやわらかい管を
鼻腔の奥の
鼻汁のあるところにさしこみます。

その管のもう一方の先端は、
プラスチック製の密閉容器のなかにためてある
消毒液の中に入っています。

それは
トラップとでもいうべきでしょうか、
その消毒液の上から
もうひとつの管が
容器の栓をつらぬいて
外へとびだしています。

その管を
口にくわえて
そおっと
吸うのです。

鼻腔のなかの鼻汁が吸いだされて
容器の消毒液のなかへ流れこむ
というわけです。

じつに簡単な装置で
いますぐにでも
それをほしいと思います。

着想すると
すぐに弁理士に電話しました。

「他にあるかどうか調べてみましょう」

しばらくして
ファックスが送られてきました。

残念!!

ほんの数ヶ月の差で
ピジョン、という会社が
おなじような製品の
特許申請をしていたのです。

それで、
特許申請は断念いたしました。

しかしいまでも
私のまぼろしの発明(笑)
「はなみずじゅるじゅる」
のほうが
ピジョンの製品より
数倍すぐれていると
確信しているのですが・・・

みなさまは
どのように思われますか?


2006年3月17日(金曜日)

特許

カテゴリー: - kawamura @ 04時26分25秒

最初にその実用新案を思いついたのは、
5月の連休のころだったとおもいます。

もう十年以上まえのことです。

あたたかい朝でした。

めざめたときに、
なにかぼんやりとしたものが頭を支配していて、
だれもいない居間まであるいてくるとちゅうで、
すでにそれは完璧なすがたをして
脳裡にうかんでいました。

いまでも
そのときの様子は
はっきりとおぼえています。

あかるい朝の陽ざしがそのすきまから差しこんでいる
居間のカーテンのしたで、
紙切れにそのアイデアを書きました。

とてもしあわせな感じで、
遠いうたごえを聞いてるようでした。

それは自分で考えているというふうではなく、
こころの奥からあふれ出てくる、
といった感じでした。

書きあがった解答用紙は、
ほぼ完璧なすがたをしていました。

あとからすこし手をくわえましたが、
基本はそのときすべて出そろっていたのです。

その解答用紙は、
どのような内容であれ
市販の問題集にはさんでおけば、
すべての教科を
自律学習できるというすぐれものです。

学校も塾もいりません。

その解答用紙の指示にしたがって勉強すれば、
かならずや
どのような教科内容であれ理解できるという、
魔法の解答用紙なのです。

ご興味がおありですか?

もう
期限が切れているでしょうから、
コメントくだされば
その全容を
どなたにでもお教えします。


2006年3月15日(水曜日)

超絶的合格実績!!

カテゴリー: - kawamura @ 06時57分38秒

合格実績が
塾教師の成績表です。

ところで、
島田進学スクールでは、
入塾試験をいたしません。

できる子だけあつめて、
合格実績を誇るようなことは
しないのです。

実績をご覧になって、
な〜んだ、
と思われるかもしれませんが、
できる子はできる子なりに、
そうでない子はそうでない子なりに、
頑張った成果です。
手塩にかけてそだてた子たちの成果です。

そのような方針ですから、
合格実績のなかに
講習生などの短期在塾生は
含めないようにしています。

中学3年の4月から今年の3月までの、
すくなくとも
1年以上在籍した生徒についての実績です。

附属島田中学の3年生は
13名が高校受験して、

全員合格いたしましたっ!!!!!!!!

ばんざ〜いっ!!

静岡高校3名
藤枝東高校1名
掛川西高校3名
沼津高専1名
静岡市立高校1名
島田高校2名
藤枝西高校1名
浜松商業高校1名

今日で、私の1年の仕事が終わりました。

美味しいお酒が飲めそうです。
しばらく飲みつづけようと思います。

生徒たちと
輝かしい春をたのしもうと思います。


2006年3月13日(月曜日)

ももんが

カテゴリー: - kawamura @ 08時01分42秒

その生きものは
正確には「ももんがぁ」とよんでいました。

みなさんはご覧になったことがありますか?

いまから40年以上まえのことです。

島田市指定文化財「河村家住宅」の
裏山の中腹に、
祖先以来の墓地があります。

その墓地からほんのすこし下ったところに、
いまはもう朽ちてあとかたもありませんが、
おおきな山桜の老木が立っていました。

その樹の頂上に
ももんがぁが住みついていたのです。

ある日、
それは初秋のあかるい日曜日でした。

小学生の私が
家から石畳のほうへあるいていたとき、
ふっと頭の上をなにかが飛ぶ気配を感じました。

見あげると
黒い影が玉の木にむかって飛び、
またたくまに頂上の枝葉にかくれました。

おどろいて
じっとしていると、
玉の木の下から私の立っている石畳の斜面まで
スギゴケの絨毯がつづいているのですが、
その奥の暗がりから
ふしぎな姿をした動物が、
それはコウモリのようなといいたいところですが
それともすこしちがっていて、
イタチかなにかが翼をもったというふうな
奇妙な体型の小動物が立ったまま歩いてきたのです。

それはすこしはなれたところで立ち止まって、
私を、じっと見つめました。

そのあとその小動物がどのようだったのか、
まったく記憶がありません。

おたがいに目を合わせたところで、
記憶は静止画像になって
とぎれています。

あとになってそれを母に話すと、
その小動物が
ももんがぁだと教えられたのです。

昨夜娘たちに話したのですが
なかなか信じてくれません。

どなたか
ももんがぁをご覧になった方は
いらっしゃいませんか?


やったぞ!「アタック25」

カテゴリー: - kawamura @ 07時15分44秒

昨日の「アタック25」は
我が進学スクールの
社会科講師の圧勝でした。

生徒たちも大喜びでしょう!

最初は緊張していたようですが、
最後には
ヨーロッパ旅行まで手にしてくるとは、
すばらしい成果でした。

有給休暇を用意してあげようと思います。

おめでとう!


2006年3月12日(日曜日)

午後は「アタック25」

カテゴリー: - kawamura @ 07時37分25秒

島田進学スクールの社会科講師が
今日の午後1:25〜1:55、
テレビ朝日「アタック25」に出演します!!

結果をおたのしみに!!

(私は、「アタック25」収録日の翌日に
 社会科講師から報告を受けていますから
 その結果も内容も承知はしていますが、
 それでもどのように編集されているのか
 とても楽しみです)


アハ!体験

カテゴリー: - kawamura @ 06時54分44秒

これは塾の生徒たちに
きのうお話ししたことです。

この現象は
あるていどの歳をかさねないと
おきないことなのかも知れませんが、
みなさんには
ほんの一瞬
遠いむかしの記憶が
一部分だけもどってくることは
ありませんか?

それはまさにクオリアの記憶だけで、
色であったり
音であったり
ときには匂いであったりします。

ほんの一瞬
脳裡をかすめてきえさる
クオリアの記憶。

たとえば
オレンジ色の
なにかの断面。

それがプラスティックなのか
ガラスなのか
母のつくってくれたゼリーの断面なのかは
わかりません。

いつの頃なのかもわかりません。
しかしとてもなつかしい。

せつなく、
それは言葉にいいあらわせない
胸をしめつけるようなあまい色の記憶。

それが気になって
何日か
おりにふれてはそれを思いだすのです。

あるとき
はっ、

それがナイフの柄の部分だったことに
気づきました。

たぶん小学生のころのことだったと思います。

たてが3センチ
よこが5センチほどの
折りたたみ式のちいさなナイフで、
その柄の部分は
オレンジ色のプラスティックでできていて、
それをなにげなく
陽にかざしてみたときに、
プラスティックの断面が
美しいオレンジ色に輝いたのです。

あのときのよろこび、
瞳がひらいてゆくような
ふしぎな感覚。

ただそれだけの記憶なのですが、
なくした宝石をなつかしむような
やるせないクオリアの記憶なのです。

しかし考えてみれば、
生きているということは
そんなクオリアの記憶の
つみかさねのようにも思えます。

生きているよろこびの、
ただ生きているよろこびの純粋なクオリア。

みなさんにも
そういう体験はありますか?


2006年3月10日(金曜日)

『逝きし世の面影』

カテゴリー: - kawamura @ 00時10分25秒

泣きながら読みました。

まだ一章を読みおえて、
二章のはじめにさしかかったばかりですが、
このようであってほしいと願っていた
江戸時代や明治期のひとびとの様子が、
異国のひとびとの言葉で語られていました。

スイスの遣日使節団長として
1863(文久3)年に来日したアンベールは、
「江戸庶民の特徴」として
「社交好きな本能、上機嫌な素質、当意即妙の才」をあげ、
「日本人の働く階級の人たちの著しい特徴」として、
「陽気なこと、
 気質がさっぱりとして物に拘泥しないこと、
 子どものようにいかにも天真爛漫であること」
などと数えあげています。

そのほかにも
数えあげればきりがないほどの例をあげて、
江戸後期から明治初期にかけての日本は、
「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、
 外国人などいなくてもよいのかもしれない」
と異国人からみられていたことを明らかにしています。

江戸においても
東北の寒村においても、
日本の庶民たちは
清潔で、陽気で、
笑い声にみちて暮らしていた様子が、
異国人の目を通して
あざやかに描かれているのです。

ぜひ、一読をお勧めします。

『逝きし世の面影』渡辺京二(平凡社ライブラリー)


2006年3月9日(木曜日)

「アタック25」

カテゴリー: - kawamura @ 08時28分22秒

島田進学スクールの社会科講師が
12日(日)午後1:25〜1:55の
テレビ朝日「アタック25」に出演します!!

結果をおたのしみに!!

さて、
島田進学スクールの
自慢の講師陣をご紹介します。

才媛英語講師は
TOEIC980点(990点満点)、
彼女は広島大学院卒で、
カナダなどに留学経験があります。

また
理科講師は
京都大学航空宇宙工学科を卒業したあと
大学院では物理工学を学びました。

もうひとりの英語講師は
慶應大学法卒の25歳です。

私は
島田で塾をはじめて27年になりますが、
これほど講師の先生にめぐまれたのは
はじめてのことです。

みんな経験豊富なプロ教師で、
若い情熱家ばかりです。

自慢の講師陣にかこまれて
しあわせを感じています。


2006年3月7日(火曜日)

来客

カテゴリー: - kawamura @ 06時32分40秒

金谷の沖様ご夫婦が
「河村家住宅」をご覧になりに、
訪ねてこられました。

沖様といえば
金谷では知らぬものがいないほどの方ですが、
ご当人はとてもしずかな
おだやかな方でした。

「維持管理がたいへんでしょう」
としみじみと仰いました。

ひと通りご説明させていただくと、
かえりぎわに
ご夫婦は仏壇に手を合わせられて、
「拝観料です」
と御寄附をして下さいました。

こころから感謝申しあげます。
さっそく、
金谷町文化協会様からはじまる
「御寄附帳」
に積み立てさせていただきます。

倒れてうしなわれた土塀を
復元できる日が近づいてきます。


2006年3月6日(月曜日)

高校入試の朝

カテゴリー: - kawamura @ 05時14分37秒

これから
塾生たちが受験する高校の
校門に立って、
そのひとりひとりに
お守りをわたしてこようと思います。

いまはまだ5時、
でも眠れません。

「緊張してたまんないよ、
 塾長、なんとかしてよ〜」
と、受験生のひとりが
うったえてきました。

100円ショップで、
ヅラのかぶりもの
必勝のはちまき
眼がねとつけひげ
などを買いこんで、
日曜の午前中の
授業が終わると同時に、
教室に乱入しました。

一瞬
生徒はあっけにとられていましたが、
たちまち爆笑の渦となりました。

「塾長〜、赤くなってるよ〜」

あたりまえだ、
私だってはずかしいんです!

あとから、生徒がやってきて
「ごめんね、
 あんなことさせちゃって。
 でも、びっくりして
 緊張とれたよ」

よかった、よかった。

その子たちが、
今朝は固くなって
試験会場にむかうのです。

もう私にできるのは、
子どもたちの手に
そっとお守りをにぎらせてやることくらいしか
できません。

彼らの前途に栄光あれ!!

(いまから行ってきます)


塾講師TV出演!

カテゴリー: - kawamura @ 04時40分48秒

我が島田進学スクールの
社会科講師が、
3月12日(日)午後1:25〜1:55
テレビ朝日「アタック25」に出演します!!

彼は小学校6年のときに
島田進学スクールの生徒になって以来、
静岡県立大学在学中から
社会科講師として
塾生を教えはじめて、
もう10年をこえました。

数年前から
理科も教えはじめましたから、
中学生の理科社会は
完璧に頭のなかに
おさまっているでしょう。

教え子たちが活躍する姿は、
なによりも喜びをおぼえます。

今度の日曜日の
結果がたのしみです。


2006年3月4日(土曜日)

NHK教育「視点・論点」

カテゴリー: - kawamura @ 06時43分02秒

我らが茂木健一郎先生が、
NHK教育の「視点・論点」に出演されて、
神経経済学について
お話しされました。

そのなかで
多様性と不確実性
について言及されていましたので、
先生の論旨とはすこしそれますが、
それについて
思いついたことをしるしてみます。

多様性というと、
バージェス頁岩を思いだします。

カンブリア爆発ともよばれる
カンブリア代におこった進化の大爆発のようすが、
カナダのバージェス頁岩に
状態よく保存されているのです。

生命はその時期に
いっきにみずからの可能性をためしたようで、
我々の常識をこえた
ふしぎな生物が大量に発生しました。

アノマロカリス」という生物がいたことを
みなさんはご存知でしょうか。

体長は50センチから1メートルで、
よく知られている「三葉虫」とおなじ時代に
その生物はいたのです。

「アノマロカリス」が
その全貌をあらわすまでの物語は、
胸おどるものです。

興味がおありの方がいらっしゃいましたら、
コメントいただければ、
ご説明するなり、
上映会をするなり、
ご希望通りにいたします。

カンブリア代に、
現在の生物の始祖は
すべてその時代にでそろったといっても
いいでしょう。

その多様性のなかから
ながい時間をかけて淘汰がくりかえされて、
不適応な生物はふるいおとされて、
現在の生物種に落ちついたのです。

つまり
多くの種のなかから
この地球環境にもっとも適した生物種が
生きのこったのです。

以前
ロータリークラブの先輩から
「アメリカはなぜ強いと思うか」
ときかれたとき、
「多様性を内包しているからでしょう」
と答えたのを思いだします。

ひとつのドグマで支配されたソ連邦が、
70年で滅んだように、
多様性を欠いた社会はながくもちません。

なぜでしょうか。

おそらくそれは
不確実性とかかわっていて、
世界情勢のなかでつぎつぎにおきる事態は
不確実で予測できませんから、
どのような事態にも対処できる多様性を、
そのうちに秘めている国のほうが、
不測の事態をのりこえて
生き延びることができるのでしょう。

神経経済学とは
ほど遠いお話しになってしまいましたが、
あしからず。

(明日も
 このあたりのお話しをつづけたいと思います)


2006年3月3日(金曜日)

(社)日本甲冑武具研究保存会

カテゴリー: - kawamura @ 11時34分44秒

社団法人には、
管掌する行政主体が
市、県、国とさまざまですが、
(社)日本甲冑武具研究保存会(以下甲冑会)は、
文部大臣の管轄下にある社団法人で
文化庁が直接所管しています。

甲冑会は
日本国内にある
すべての甲冑を掌握しています。

みなさんがご存知かご存知でないかは存じあげませんが、
刀剣の鑑定をする
(財)日本美術刀剣保存協会があるように、
甲冑の鑑定をする
(社)日本甲冑武具研究保存会があるのです。

鑑定だけではなく毎月例会をひらいて、
甲冑研究の報告や討論をし、
機関誌「甲冑武具研究」を
毎年四回発刊しています。

私の投稿した拙文も、
以下の通り掲載されています。
(ちなみに、現在私は
 (社)日本甲冑武具研究保存会の評議員を
 つとめさせていただいています)

冑佛考」(「甲冑武具研究105号)
続・冑佛考(第一回)」(同113号)
続・冑佛考(第二回)」(同114号)
冑佛考(三)」(同135号)


2006年2月27日(月曜日)

古文書(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時15分21秒

江戸時代よりまえには、
文字を書ける人は
かぎられていていましたから、
いわゆる中世文書は
漢文で書かれていて、
だれが見てもはっきりとわかるような
見事な字で書かれていることが多いようです。

江戸時代以前は、
まだ社会組織が成熟していませんでしたから、
命令伝達をするときは、
人々を集めて、
口頭ですましていたのです。

つまり書面のやりとりをするのは、
ひとにぎりの支配者にかぎられていましたし、
とくに高位のひとたちには
祐筆とよばれる代筆者がいましたので、
秀麗な書面が残されているのです。

江戸時代になると、
村役人なども字を書くようになりましたので、
いわゆる近世文書は
ひらがなやくずし字も用いられるようになって、
急に読みにくくなります。

それでも近世文書は
お手本を見ながら
書かれていたようなところがあり、
まだ素人でも解読可能なものがあります。

ところが明治期になると、
国民全体に義務教育がおこなわれて、
庶民も字を書くようになりましたから、
くずし字にも個人的なくせが
つよくみられるようになったために、
たいへん読みにくくなります。

わが家の古文書も
明治時代の河村宗平文書の解読が
いちばん困難になるだろうと思います。

どなたか、
明治初年から昭和20年までの
葉書や手紙、その他の書面を
いっしょに解読してくださる方は
いらっしゃいませんでしょうか?


2006年2月26日(日曜日)

古文書

カテゴリー: - kawamura @ 05時33分36秒

「御林守河村家」に残されている古文書は、
近世文書(江戸時代)526点、
近現代文書(明治以降)2942点の、
約3500点です。

平成元年頃から
静岡大学人文学部長の本多隆成教授が、
旧金谷町を悉皆調査し、
「金谷町所在文書目録」を作成されたのです。

その第3集に
「河村隆夫家文書」が収められています。

なぜ河村<隆夫>家なのか
と申しますと、
旧金谷町に残された古文書には、
河村<俊>家文書、
河村<正一>家文書、
と三軒の河村家文書があるからです。

河村<俊>家は、
先祖が
武田・徳川の攻防の際に
徳川家康を助けて大井川の瀬踏みを案内した
河村弥七郎で、
田中城(藤枝市)攻めに功を立てた褒美として
金谷柏屋・島田柏屋屋敷を与えられて、
本陣柏屋、
また近隣十数ヵ村を束ねる大名主となりました。

河村<正一>家は、
本陣柏屋河村家の分家筋で、
金谷宿問屋を務めました。

旧金谷町にはそのように
三軒の河村家文書が残されているものですから、
わが家の古文書は
河村<隆夫>家文書、
と名づけられたのです。

(この三軒が、
以前お話しした、たいへんめずらしい
「丸に違い箸」の家紋をつかっているのです)

これらの古文書を完全に解読して、
のちの研究者のために
データベースをつくっておきたいとは
思うのですが、
古文書の解読には技術が必要で、
それを勉強してからとなると
相当の年月が必要です。

一時期すこしだけ学んだのですが、
生来の飽き性ですから、
2年と経たないうちに
やめてしまいました。

あと数年して
塾の仕事が一段落したあと、
古文書の解読に
ゆっくりととりかかろうと思っています。
「河村隆夫家文書」の目録が収録されています。


2006年2月25日(土曜日)

国木田独歩

カテゴリー: - kawamura @ 06時44分11秒

独歩を読んでいたら、
内村鑑三や新渡戸稲造と
親交があったことを知りました。

独歩の著作は、
はるか昔に「武蔵野」を読んだだけでしたが、
あらたに「欺かざるの記(抄)」などを読んで、
独歩もまたキリスト者であったことを
知りました。

内村が新渡戸に送った書簡の一部を
ご紹介しましょう。

「≪国木田哲夫≫と名のる青年が、
 僕の名刺を持って
 君を訪問するかも知れない。
 (略)
 彼について君にお願いしたい事は、
 パンやバタの問題では決してなく、
 ただ単なる知的な、
 また精神的な問題だけである。
 北海道において会うに足る
 唯一の人物として、
 君を彼に紹介した
 僕のかってなふるまいを、
 どうか許してくれたまえ」

この一文からも推し量られるように、
明治期の知識人たちが
いかに真摯な人生を生きていたのかが
わかります。

もうすこし
独歩を読み込んでみようと思います。


2006年2月24日(金曜日)

(財)伊豆屋伝八文化振興財団

カテゴリー: - kawamura @ 07時17分15秒

(財)伊豆屋伝八文化振興財団」をご存知の方は
いらっしゃるでしょうか。

「伊豆屋」を屋号とする渡邉家の先祖は、
遠く徳川中期に遡り、
伊豆の松崎から静岡市両替町に居を定めて、
呉服商や両替商を営む豪商でした。

なかでも七代目は、
明治初期に廃仏毀釈で危機に陥っていた
神社仏閣とその宗教指導者たちを、
莫大な私財を投じて保護し、
また社寺の貴重な文化遺産が
海外へ流出するのもふせぎました。

九代目の意志を受けついで、
平成八年に
(財)伊豆屋伝八文化振興財団は、
静岡県内の文化財の保存と活用に貢献し、
文化の振興と発展に寄与することを目的に
設立されました。

島田市指定有形文化財「御林守河村家住宅」も、
平成11年度平成14年度の2回にわたって、
その修理費用を助成していただきました。

「伊伝」は、
助成された我々にたいしても、
なんら義務を課すようなことはありません。

まったくの無償の奉仕なのです。

本当に頭の下がる思いです。

このような善行は、
世に広く顕彰されるべきものと思いまして、
まずは拙文を書かせていただきました。

これからも折りにふれて、
「伊伝」の名を、
その篤志に報いるべく
感謝の意をこめまして語らせていただきたく
存じます。

島田市指定文化財「河村家住宅」の
補修に助成をいただきまして、
心より感謝申しあげる次第でございます。


2006年2月22日(水曜日)

屋根裏の散歩者

カテゴリー: - kawamura @ 07時16分14秒

いまから35年ほどまえ、
私が大学生だったころのことです。

夏休みに帰省したときに、
現在は市の文化財に指定されている母家の、
茅ぶき屋根を葺き替えていました。

家のまわりに櫓(やぐら)を組んで、
屋根の上に
足場の板をさし渡します。

職人がその板のうえに立って、
ふるい茅を抜き取り、
あたらしい茅を差しこむ作業を
えんえんと続けているのです。

私はその裏側、
つまり屋根裏に入って、
紐で巻いて茅を固定するために
外から刺し通してくる
巨大な針のようなものの先端から
紐をはずして、
もういちど突き刺してきた針にそれを引っかける
という作業を手伝うことにしました。

うっかりしていると
鋭い針が
突然眼の前にあらわれて
あやうく顔を刺されそうになりながら
夢中で作業をするのです。

ひと休みしたとき
ふだんは見なれない屋根裏をながめていると、
うす暗がりの遠くに、
ぼんやりと
ついたてのようなものが見えてきました。

なにが隠されているのだろうと
おそるおそるその衝立に近づきました。

屋根裏はほとんど光がなく、
ひっそりと静まりかえっています。

つま先の感覚だけで
足下の梁をたしかめながら
足をしのばせるのは、
ほとんど
江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」の気分です。

なにかを隠してあるのだろうか、
たとえば
年貢米の一部などを、
飢饉のときのために
こっそり備蓄していたのだろうか、
あるいは
千両箱でもあるといいな、
などと胸おどらせながら
ゆっくりと
衝立の内側をのぞきました。

しばらくして
闇に目がなれてくると、
はっきりと見えてきました。

なにもありません。

がっかりして
それを家族に話すと、
衝立で囲われた一区画の真下に
神棚があるからだ
ということがわかりました。

屋根裏で作業をするとき
神様の上に立たないように、
ということのようです。

千両箱の夢は絶たれましたが、
ひとつの謎が解きあかされたような
すっきりとした気持ちになりました。

御林守河村家住宅には、
隠された秘密の場所が
まだどこかに残されているにちがいありません。


2006年2月21日(火曜日)

別宅疑惑

カテゴリー: - kawamura @ 06時22分42秒

長男がしばらく家をあけて
帰ってこない時期がありました。

長男といっても
猫のことです。

冬休みになって
娘たちが帰省するまえに、
長男のラキ君が
2,3日つづけて帰ってこないことが
なんどかあったのです。

よく餌を食べるぶ〜猫でしたから、
きっとどこかで
餌をもらっているにちがいない、

疑惑がもちあがりました。

なにをかくそう
白猫ぶ〜の
別宅疑惑とは
このことです。

いったい
どこで餌を食べているのか、
よそさまに
ご迷惑をおかけしてはいないだろうか、
好きな子でもできたのだろうか、
あれやこれやと
親心は千々に乱れておりました。

ぶ〜に聞きただすのですが、
まるで答えてくれません。

親の心子知らず
とはこのことです。

ところが
黒帯の娘が帰ってきたら
うってかわって、
べたべたと
娘にだかれて
やにさがっているではありませんか。

それどころか
あまり外に出ていこうともせず、
からだに似合わぬやさしい声で
娘たちにあまえて
まとわりついています。

ようやく
しあわせな風景がもどってきました。

別宅疑惑は
もう過去のことです。

もうすぐ
やわらかな春が来ます。


2006年2月20日(月曜日)

二十歳の誕生日

カテゴリー: - kawamura @ 09時13分20秒

昨日
ふたごの娘たちが
二十歳の誕生日を迎えました。

ひとりは帰省して家にいますが
もうひとりは合気道の合宿で
千葉に行っています。
黒帯になって帰ってくるようです。

成人した娘たちが
どのような人生を歩むのか、
とてもたのしみです。

ただ
こころ残りは、
このふたりの姿を
両親に見せてやれなかったことでしょうか。

合宿に行った娘が帰ってきたら、
ふたりの成人した姿を見せに、
家族四人で
両親の墓参りにいこうと思っています。

母が好きだった
満開の白梅を一枝
墓前にそなえようと思います。

(gureさま
 「宇宙人」はいかがでしたでしょうか?)


2006年2月19日(日曜日)

宇宙人(7)

カテゴリー: - kawamura @ 07時11分44秒

前回までご紹介した
「日経サイエンス」の記事は、
1985年ごろに掲載されたものですが、
私の予想に反して、
その当時
あまり反響をよびませんでした。

博士の報告した
未確認飛行物体遭遇記事の末尾は、
このようにしめくくられていた
と記憶しています。

海洋調査の航海が終わって
下船したあと、
博士はあの異様な事件を忘れることができず、
何人もの外国航路の船長に、
似たような体験をしたことがないか、
と問いかけたそうです。

はじめは
だれもとりあいませんでした。

うさんくさそうに
あしらわれたといいます。

なぜって
「私はUFOを見た」
などと答えれば
船長としての社会的な地位が脅かされる
と考えたからでしょう。

それももっともなことです。

博士にとって
あの事件の衝撃は
あまりにも大きかったのでしょう。
なんどもなんども
数おおくの船長を訪ねました。

やがて
博士の社会的な地位や
そのお人柄に安心したのか、
遠洋航路の船長たちは
ひとり
またひとり

語りはじめたそうです。

「私も同じような体験をなんどかしている。
 しかし、言えなかった」

そのように答えたそうです。

博士が、
京都の学会で
自身の社会的地位を失うかもしれないような
この発表をしてしまったあと、
世界各国の
錚々たる宇宙研究者に
おそるおそる講演の感想を訪ねると、
おおむね好評だったと
しるされていたように思います。

なんども繰りかえすようですが、
この文章は私の創作ではなく
1985年ごろに
「日経サイエンス」に掲載された
うろおぼえの内容を
思いだしながら書いたものです。

いま書き終わってみても、
当時の興奮がよみがえってきて
いまだ醒めやらぬ思いです。

しかし
「日経サイエンス」のこの記事が掲載された次月号に、
つぎのような
ちいさく枠どりされた文章を
眼にとめました。

私には
一抹の侘びしさをまじえながら、
その一文が
すべてを物語っているようにも
思えます。

「(日経サイエンス」編集部注
 前回の博士の学会発表記事について
 当編集部では
 異常な気象現象によるものと考えています」

その後
この学会発表をした農学博士が
どのような行く末をたどったのかは、
私の知るところではありません。

(筆者注
 今回のブログ記事について
 私は
 宇宙船の飛来を信じる者ではありませんので
 あしからず。

 また、
 「日経サイエンス」関係者の方
 あるいは、その号をお持ちの方
 コメント欄にてご連絡いただければ
 幸いに存じます)


2006年2月18日(土曜日)

宇宙人(6)

カテゴリー: - kawamura @ 07時26分59秒

異変はレーダーにあらわれました。

博士は
激しくドアをたたく音に
ふたたびとびおきて、
艦橋へ連れてゆかれると、
レーダーのまえに呼ばれました。

普通の船舶は
安全のために、
まったく同じ2基のレーダーが
備えつけられているそうです。

レーダーは船の眼ですから
1基が故障しても
航行に影響しないためです。

博士は
2基のレーダーのまえに立って、
画面のなかをうごく輝点の
ふしぎな飛跡をまのあたりにしました。

その謎の物体の飛跡は
「日経サイエンス」の誌面に
博士の手書きの図として
載せられていたように記憶しています。

レーダー画面の中心に
水産庁の海洋調査船が位置しています。

謎の輝点は
その中心へ
マッハ2〜3の速度でちかづいてきて
ほぼ正確に90度の角度で左旋回し
船のまわりを同心円状に何度かまわると
突然30度ぐらいの角度で
反対方向に逆進して
画面から消えさったのです。

そのあいだ
マッハ2〜3の速度を
すこしも落とすことなく
飛びつづけたというのです。

おぼろな記憶なのですが
たしかその現象は
2度ほどくりかえされたと
記載されていたように思います。

そして
ついに船長がとびおきるほどの
出来事が起きます。

レーダー画面の
船の後ろから
巨大な楕円形の影が
追いかけてくるのです。

マッハの速度でちかづいてきて
船の上空を通過するとき
ド〜ンと
マストに衝突したかのような
衝撃音がひびきました。

船長はその音に目覚め、
即座に艦橋に電話して
衝撃音の理由を確認しています。
(その記録も残されています)

楕円の影が飛びさった方角を
艦橋の乗組員たちは
凝視しました。

やがてその方角の水平線付近が
一瞬
オレンジ色にまばゆく輝いたのです。

そのとき
身を乗り出すようにして見ていた
乗組員全員の顔があかるく染まった
と記されていたように思います。

ふたたび楕円の影が
船にちかづいてきたのかどうか
記憶は定かではありません。

いずれにせよ
異変はそれで終わり
あとは
何ごともなかったかのように
おだやかな航海がつづいたということです。

(つづきはまた明日)


2006年2月17日(金曜日)

宇宙人(5)

カテゴリー: - kawamura @ 06時02分37秒

「日経サイエンス」に掲載された記事とは、
以下のような内容でした。
ただ、その全容をご紹介するとなると
A4サイズのページで
8ページ(?)ほどの長文でしたので、
おぼろな記憶をたよりに
その概要だけをかいつまんで
お話しすることになります。

なにせ20年以上まえの記憶ですので
正確なものではございませんが、
いま思いだそうとしても
胸が高鳴るほどの
おそろしい内容でした。

たしかその年
京都で学会がひらかれたのです。
それは
NASAを筆頭に
日本のNASDA
欧州のESA
などの宇宙開発機関、
また世界の名だたる宇宙関係の研究者
などがこぞって参加するという
世界的な学会での出来事でした。

その会場で
博士が講演をはじめたのです。

その全容が
「日経サイエンス」に掲載されていて、
それをみなさんにどうしても
お伝えしたかったのです。

南米の西岸
チリの沖に
水産庁の海洋調査船が浮かんでいました。

博士はその船に乗り込んでいたのですが
なにごともなくすぎていたある夜、
熟睡していた彼は
とつぜん激しくドアをたたく音に目をさまし、
船員に導かれて艦橋に立ちます。

ふつうの船上生活では
よほどのことがないかぎり
寝ているものを起こすことはありません。
なぜなら
船は夜昼分かたず航海をつづけているのですから
三交代の乗組員の睡眠をさまたげれば
睡眠不足の船員が操作をあやまり
大事故につながりかねません。

そういう意味でも
睡眠中のものを起こすというのは
よほどのことなのです。

博士が甲板に招かれると
おおくの船員たちが
夜空を指さしながら
口々に叫んでいます。

南十字星の輝く星空の
指さす方角をじっと見ていると、
夜の水平線の一区画から
いくつもの光の筋が湧きあがり
それは途中で急角度に曲がって
海面と水平に
平行線をえがいて
おそるべき速度で飛んでいるのです。

やがてその
湧きあがるひかりの群はきえて
騒ぎはおさまりました。

博士はいったん船室にもどり
ふたたび深い眠りに落ちました。

その直後に、
どれほどすさまじい事件が
待ちうけているのか、
博士をふくめて
まだ
だれも知るものはいませんでした。

(つづきはまた明日)


2006年2月16日(木曜日)

今日の梅、昨日の梅

カテゴリー: - kawamura @ 08時40分38秒

一日で満開です。

昨日の静岡は
24℃をこえる6月の陽気でした。

たった一日で
つぼみの梅が満開です。

昨日と今日と
おなじ梅の木の
ほぼ同時刻の写真をUPします。

すこしピンぼけです。後刻またUPします。


宇宙人(4)

カテゴリー: - kawamura @ 06時37分15秒

宇宙人が地球にいるかもしれない、
と言えば
ちょっとへんなひと、
と思われるでしょう。

じつは
私がそう思っている、
というのではなく
そのような記事を読んだ、
というお話しをしましょう。

それはもう20年以上まえのことだろうと思います。
というのも、
その雑誌がうしなわれてしまって
正確な年号がわからないのです。

私が「日経サイエンス」を読みはじめたのは
20代の前半でしたから
かれこれ30年も愛読していることになります。

世界的な科学雑誌として
「Nature」と「Scientific American」の
ふたつがありますが、
「Nature」は邦訳されていませんので
「Scientific American」の日本語版
「日経サイエンス」を私は読んでいるのです。

この二冊の科学雑誌は
ノーベル賞級の研究者もレビューを書くほどで、
一般の科学啓蒙雑誌とは一線を画した内容です。

今までの記憶ですと
たとえば「青色発光ダイオード」や
「形状記憶合金」の記事は、
世間一般で話題になる数年まえに、
すでに「日経サイエンス」で紹介されています。

内容もかなり高度で
学生時代から30年以上、
ちょっと無理しながら読んでいるのです(笑)。

おぼろな記憶ですが
その記事が掲載されたのは
30代前半のころのことだったと思います。

静岡学園高校の講師をしていたころのことで、
塾だけではなく
高校の生徒たちにも
この話をしたように記憶しています。

その日も
書店から配達された「日経サイエンス」を、
いつものように
なにげなく、
アールグレイを飲みながらひらきました。

ふと目次を見ると、
大見出しに
UFOの記事があるではありませんか。

そっ、そんな、
「日経サイエンス」ですよ、
みなさん、
そんじょそこらの雑誌ではないのですよ。

私は夢中で読みはじめました。

(つづきはまた明日。
 ところで読者のみなさまのなかに
 「日経サイエンス」のこの号を
 お持ちの方はいらっしゃらないでしょうか?
 もしお持ちの方がいらっしゃれば
 年号月次などをコメント欄にて
 お教えくだされば幸いです。
 また、
 「日経サイエンス」の記事を
 お読みになった方々のご感想も
 コメントしていただければ幸甚です)


2006年2月15日(水曜日)

梅見の宴

カテゴリー: - kawamura @ 09時23分45秒

梅が咲きはじめました。

セルのみなさま、
梅見の宴はいかがでしょうか?

johnさま、maeさま、kawai先生、
もしよろしければ
お考えいただければと思います。
梅一輪 一輪ほどの あたたかさ


2006年2月14日(火曜日)

核X線レーザー

カテゴリー: - kawamura @ 09時58分17秒

遠い記憶ですから
もううすれてしまって
はっきりとは思いだせません。

いまはタイトルも忘れてしまった
二流映画を見たあとのことです。

その映画は
天才科学少年が
ある数学的な着想を得て
強力なレーザーを発明するという
ほとんどコメディのような物語でした。

そのあとだったと思います。

レーガンの時代でしたか
それこそ映画のような
「スターウォーズ計画」に
着手したころのことです。

その計画は実現不可能とされるような
当時としては滑稽視されるものでしたが
実際に、ひとりの若者が
「核X線レーザー」なるものを
発明したのです。

じつのところ核廃絶論者だった
レーガンも
手放しでそれを喜びました。

核X線レーザー砲が
宇宙空間に配備されれば
核弾道ミサイルは意味をうしなう
というほどのものでした。

発射直後のミサイルは
ブースター段階では
ゆっくりと
しかし大量の噴射を必要としますから
そのとき放出された閃光を
軌道上で感知します。

即座に照準を合わせ
核を爆発させるのですが
その核爆発の直前に
大量のX線が発生します。

そのX線をビームにして
地上に静止した状態のミサイルに
照射し破壊するというものです。

これを発明した若者について
とても興味深いエピソードがありました。

かれはマサチューセッツ工科大学を
抜群の成績で卒業したあと、
牧場で草刈りなどをしながら働いていたところを
軍関係者にさがしあてられたというのです。

このへんはすこしうろおぼえなのですが
発見されてすぐに
たしかローレンス・リバモア研究所に
配属されます。

ミッキーマウスの帽子をかぶり
コカコーラを片手に
スーパーコンピューターをあやつる少年たちの
仲間入りをしたのです。

そして「核X線レーザー砲」を
発明したのです。

今夜の「プロフェッショナル」をまえに
そんなはるか昔の思い出が
頭をよぎりました。


必見!「プロフェッショナル」

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分46秒

今夜は必見!!!
プロフェッショナル

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

プロフェッショナル 仕事の流儀 第6回

NHK総合
2006年2月14日(火)21:15〜21:58

バントはするな、ホームランをねらえ
〜科学者・古澤明〜

「将来のノーベル賞候補」
と呼ばれる科学者・古澤明(44歳)。

アインシュタイン以来の夢である
「量子のテレポーテーション
(情報が瞬間的に移動すること)」
を世界で初めて実験で実証し、
スパコンで千年かかる計算を数秒で解く
夢の「量子コンピューター」の基礎研究で、
世界のトップを走る。

持論は「科学はスポーツ」。
若い学生を相手に
「失敗を楽しめ」
「バントはだめ、ホームランをねらえ」
と激励する。

世界と闘う科学者の仕事術に迫る。


2006年2月13日(月曜日)

宇宙線

カテゴリー: - kawamura @ 08時37分00秒

高橋シュウ
拡散霧箱を見ました。

上野の国立科学博物館に行ってきたのです。

少年のころから
たくさんの書物で
ウィルソン霧箱の写真を見て
いつか宇宙線の飛跡を
この眼でみたいと思っていました。

地下3階の
−40℃に冷却したアルコールの霧のなかを
その瞬間に地球にふりそそぐ宇宙線が
無数の曲線をえがいていたのです。

いまも
二層のヴァン・アレン帯をこえて
我らの身体をつらぬき
地球をつらぬき
宇宙をつらぬいて飛ぶ
無数の荷電粒子たち

それらが
たまゆらにみせるしろい飛跡は
ふたりの科学少年のこころをふるわせ
魅了してやみませんでした。

高橋も私も
40年まえ
宇宙の神秘にこころをはせる科学少年でした。

やがて高橋は版画家として名をなし
私は
御林守河村家を守るために人生を捧げました。

そのふたりが
拡散霧箱のまえで
40年のときをこえてふたたび科学少年の姿で
まみえました。

私たち理系のひとびとは
ひとたび宇宙の深遠な姿にふれれば
真理と神秘を愛する
純粋科学少年にもどるのです。

蒼光る宇宙と
讃歌のようにふりそそぐ宇宙線のなかに
我らは立ちつくします。

それらは我らの遺伝子を毀し
変異を生じさせて
やがて淘汰の果てに
新生物が生まれるとすれば

ウィルソン霧箱をたえまなくつらぬき
乱舞する宇宙線は
新種の命を生む
神の慈愛なのかもしれません。

(高橋シュウのことは
 拙著『蒼天のクオリア』に
 くわしく紹介しました)


2006年2月12日(日曜日)

宇宙人(3)

カテゴリー: - kawamura @ 04時59分55秒

(これはお子さまむけの内容です。
 あんまり本気にならないで読んでね)

Majestic12とは
アメリカ大統領と
宇宙人とのあいだに交わされた
密約のことである、
というような番組を
みなさんご覧になったことが
あると思います。

ほんとうに
そんな密約書があると思っているひとは
いないとおもいます。
でもすこしはいるかもしれません。

それでは
もしも宇宙船が不時着して
アメリカのどこかの空軍基地に
かくされているとしたら、
いったいどのようなことが
おきたはずでしょうか。

まず、
異星人の宇宙船が
アメリカのミサイル防空網を
かいくぐって
好運にも地上に到達できたとします。

すぐに
戦闘ヘリ部隊が調査にむかうでしょう。
そして
異星人であることが確認されれば
アメリカはどうするでしょうか。

私がアメリカ大統領なら
即座に一帯を封鎖するでしょう。
その周囲には
厳重なバリケードが張りめぐらされて、
半径数キロの範囲の
住民とすべての生物(昆虫や微生物は除く)を
隔離します。

地球外病原菌に汚染されるのを
防ぐためです。
H.G.Wellsの『宇宙戦争』のように
宇宙人が地球のウィルスに冒される
可能性もあるし、
その逆も充分考えられるからです。
それを放置すれば
人類が異種病原菌によって
絶滅する恐れもあるからです。

この隔離作業は
相当大がかりなことになりますので、
秘密裏に行うというわけにはいかず、
必ず世界中に知られるというほどの
大規模な軍事行動になるでしょう。

さて、
宇宙船と宇宙人とは
巨大な隔離施設に密閉されて、
さっそくさまざまな研究が始まるでしょう。

世界から
最高度の研究者が駆けつけてきます。
なぜって
たとえばロケット研究者なら、
はるかな宇宙を旅してきた
宇宙船のエンジンを
どうしてもひと目見たいと思うでしょう。
またその材質も知りたいでしょう。
生物学者なら
異星人が何を食べどのように知覚し
どのような物質で身体を構成しているのか、
内臓器官は、神経系統は、などなど
山のように知りたいことがあるでしょう。

どんなに秘密にしようとしても、
むしろしようとすればするほど、
これほどの大規模な事件であれば
どこからかそれを聞きつけた報道陣が、
世界中から雲霞のごとく
あつまってくるでしょう。

みなさんっ
いままでに
そのような記録があると思いますか?

そんなものないでしょっ
あるわけないでしょっ

宇宙人が地球に来たなんてお話しは
み〜んな大人たちの作り話なんですよ〜〜


私は思ってはいないのです。

じつは・・・

(ここからはまた明日)


2006年2月11日(土曜日)

宇宙人(2)

カテゴリー: - kawamura @ 19時32分02秒

gureさまのご要望に
おこたえしなければなりません。

おおきな試験が終わったあと
塾の生徒に
「お話しして〜」
とせがまれてする宇宙人のお話、
はじめましょうか?

これは、
塾の生徒に話すような語り口で、
書かせていただければとおもいます。

ただ、
現代の科学的知見をこえるようなことは、
けっしてお話ししません。
それでは
ただのSFになってしまいますので。

たとえば、
光の速さをこえることはできない、
ということや、
人間の脳が知覚しうる物質世界のなかに
人類と基本的に同種の生命体が存在している、
というようなことを
暗黙の了解事項としてお話しするのです。

さて、それでは
その宇宙人のお話をはじめさせていただきます。

あなた方が知っているか知らないかは知らないけれど、
私は宇宙人を知っています。
それどころか、
私は毎日宇宙人に会っています。

なぜって、
私たち自身が宇宙人だから。

私たちだけが知的生命体で
宇宙には人類以外に知的生命体はいない
と考えるのはいかにも傲慢な
人類の驕りにすぎません。

私たちが宇宙人なら、
この広い宇宙には
ほかにも数えきれないほどの
知的生命体が存在しているはずです。

ただ、この広大無辺の宇宙のなかで、
その存在確率を考えたとき、
地球からその星への距離が
あまりにも遠いことがわかります。

たとえば、
地球から比較的近い
1億光年彼方の星に
知的生命体が存在していたとして、
その星から
いくつもの銀河をこえて
地球へ飛来するのに、
光の速さでさえ1億年かかるのです。

光の速さで1億年飛びつづける
ロケットの燃料やエンジンは
どのようなものか、
あるいは、かりに相対論的効果によって
時間の速度が遅くなるとしても、
相当の長時間かかるはずですから、
その生物は死に絶えるのではないか、
といった疑問がかぎりなくでてきます。

もしもそれらすべての問題がクリアーされて
その生命体が地球に到着したとしましょう。

(つづきはまた明日。とは申しましても、
 あたらしく興味深いことがおきれば、
 そのあとでということになりますので、
 あしからず)


2006年2月9日(木曜日)

春よ!

カテゴリー: - kawamura @ 08時55分22秒

大井川の鉄橋をわたるとき
歩道橋に少年が二人
ひとりは立って
もうひとりは地面にすわって
足をのばしたまま
ミネラルウォーターを飲んでいました。

春が来ました。

そのとき
車のラジオから
ユーミンの歌声が
ながれてきました。

「春よ〜 遠き春よ〜」

私もちいさなこえで
口ずさみました。

静岡は
二月初旬というのに
もう春です。

河原は
まだうす茶色の冬枯れの景色ですが、
光る風はもう春です。


2006年2月7日(火曜日)

徳川慶喜の日記

昨日浮月楼のことを書いて、
『徳川慶喜家扶日記』
を思いだしました。

この日記の原本は、
千葉県松戸市の戸定歴史館
にあるようですが、
慶喜が現在の浮月楼の地に
別邸をかまえていたころ、
そこを訪れた人びとの名が
日記にしるされているのです。

たとえば明治5年1月25日に、
「中条潜助、大草多喜次郎御機嫌伺罷出」
とあって、
牧之原開墾方頭取の
中条潜助景昭(中条金之助景昭)や
同じく開墾方頭並の
大草多喜次郎高重などが、
定期的に元将軍へ
作物を献上していたことが
記録されています。

金谷原開墾方は、
幕末の江戸市中取締の任にあった
新徴組の内の
直参旗本中条大草など
攘夷十七人組が、
慶喜護衛のために
私立の精鋭隊を結成したのが端緒です。

のちに久能山東照宮警護
にあたるころには
新番組と改称し、
明治二年、
金谷原開墾御用となりましたが、
静岡藩成立後は
静岡藩士として、
静岡藩開墾方と称しました。

隊長は中條潜助景昭、
副隊長は大草多喜次郎高重でした。

日記を散見すると、
明治14年5月17日には、
山岡鉄太郎が訪れています。

明治27年11月12日には、
中條金之助景昭(かげあき)が病気のため、
倅克太郎景明(かげあきら)が、
名代としてお茶を献上しています。

その後は克太郎景明が
ひきつづき参上しているところをみると、
景昭の病状は
おもわしくなかったようです。

しかし祖父河村小次郎が
中條克太郎景明から受けた
飛龍剣、龍車刀剣の免許状や、
そのとき山岡鉄舟から中條景昭におくられた
鉄扇を、
祖父が克太郎から賜ったこと、
あるいは、
昨年他界した伯母の
母方の祖父が大草高重であること、
あるいは、
平成八年三月三日に
島田市阪本の種月院でとりおこなわれた
「中條景昭百回忌法要」に参列したあと、
中條家当主中條昭夫様が、
その場で87歳の母君に電話されて、
中條克太郎の諱(いみな)景明を、
「かげあきら」とお読みすることなどを
私にお教えいただいたこと、
あるいは、
中條景昭の葬儀委員長は
勝海舟で、
昭夫様の父君は、
勝のお膝であやされていたことなど、
たまたま
浮月楼のチリ公使晩餐会から
『徳川慶喜家扶日記』を想起して、
さまざまのことが思いだされました。

これらについて、
いつかくわしくまとめたい
と思っています。

(いまから受験生の激励に
 高校の校門まで行ってまいります)


2006年2月6日(月曜日)

続・チリ公使晩餐会(明治43年)

カテゴリー: - kawamura @ 07時35分40秒

昨日につづいて、
明治43年10月8日に、
その夕浮月楼でおこなわれた
晩餐会に先だって
静岡市内で開かれたふたつの会の
式次第が、
招待状に同封されておりましたので、
それをご紹介致します。

ところで浮月楼は、
最後の将軍徳川慶喜公が
明治二十一年まで居宅としていたところで、
その後静岡市に買いあげられ、
明治二十四年から「浮月亭」、
翌年からは「浮月楼」として、
伊藤博文などの
明治の元勲たちでにぎわう料亭となりました。
明治四十三年といえば、
まだそのころの余韻を
とどめていた頃のことでしょう。

以下、式次第は原文のままです。
(旧五千円札の新渡戸稲造が講演をしています)

*************************

智利硝石
施  用 第一回製茶品評会褒賞授与式順序

一、式場    静岡市物産陳列館
一、日時    十月八日午前九時
一、開会の辞  (会長)
一、式辞    (主催者)
一、審査報告  
一、褒賞授与
一、名誉総裁訓辞演説
一、知事 告辞
一、来賓祝詞演説
一、授与者総代答詞
一、閉会 会長閉会ノ辞

     産業大講演会

一、会場          静岡師範学校
一、日時          十月八日正十二時半
一、開会ノ辞 前英国グラスゴー農科大学教授
           ゼー、ストラッザース君
一、講演
   講  智利国全権公使   リケルメ閣下(通訳付)
      仝 国 領 事   キルビー 君(日本語)
      法 学 博 士
   師  農 学 博 士   新渡戸稲造君
      法 学 博 士   浮田和民君
一、閉会

*************************
お茶はその当時の日本にとって
重要な輸出産品でした。
そのお茶の肥料として
チリ硝石を必要としていたのでしょう。
そのような意味で、
日本とチリの、あるいは静岡とチリの、
深い交流がみてとれます。


2006年2月5日(日曜日)

晩餐会招待状写真

カテゴリー: - kawamura @ 16時04分00秒


チリ公使晩餐会(明治43年)

カテゴリー: - kawamura @ 07時45分12秒

チリ公使主賓の晩餐会が、
明治43年10月8日、
静岡の浮月楼においてひらかれたとき、
曾祖父河村宗平にとどいた招待状がのこされています。

明治期の産業史などを研究されている方々には
たいへん興味深い資料とおもわれますので、
招待状の全文を
写真(きょうの午後UP)とともに掲載いたします。
新渡戸稲造も講師として招かれています。

以下招待状の全文です。

◎封書表書き

 榛原郡五和村大代
  河村宗平殿

◎封書裏書き

 静岡市紺屋町浮月楼内
  智利公使
  御一行 招待会事務所

◎招待状(右)

  啓上 愈御清康被為遊奉慶賀候然者這回智利共和国全権公使リケルメ閣下、
 同国領事キルビー氏、法、農学博士新渡戸稲造氏、法学博士浮田和民氏の来岡
 を機とし茲に右諸氏歓迎の微意を表式致候ため来る十月八日午後六時静岡市
 紺屋町浮月楼に於て右御一行歓迎の宴を開き申候に就ては萬障御繰合何卒御
 貴臨被成下度右御案内申上度如此に御座候           敬具

   明治四十三年九月廿八日 静  岡  市  役 所
                     静  岡  県  農 会
                     静岡県茶業組合連合会議所
                     静 岡 市 商 業会議所
                     智利硝石普及会 東洋本部

    河村宗平殿
     
      副伸 宴会準備の都合上萬一御返報無之候際は誠に當惑致候に付
      御来否共十月二日迄に浮月楼内本招待会事務所宛必す御返事御遣
      はし被下度願上候                  以上

◎招待状(左)

  The Shidzuoka Municipality, the Shidzuoka
Prefectural Aguricultural Society,the Shidzuoka
Association of Tea Guilds,the Shidzuoka Chumber
of Commerce and the Chilian Nitrate Propaganda
request the honour of the your Company in the
Fugetsuro, Shidzuoka, on the evening of 8th
October at 6 o’clock at a reception and dinner
to His Excellency Senor Riquelme, the Chilian
Minister and party.

R. S. V. P.

28 September,1910.

(注 原文のまま掲載致しました。
尚、同封されておりました
   「第一回製茶品評会褒賞授与式順序」
   につきましては、明日その全文をUP致します)


2006年2月3日(金曜日)

投稿記事の一覧表示

カテゴリー: - kawamura @ 09時47分00秒

左上のメインメニューに
「投稿記事の一覧表示」ができました。

これをクリックしていただくと、
私の過去の投稿記事のタイトルがすべて表示され、
さらにそれをクリックすることで
どの記事もすぐにご覧いただけます。

昨年6月から書きはじめたブログは、
この2月までで
約240件ほどの投稿数を数えるまでになりました。
そろそろジャンル分けをしようと思っています。

そこで、
愛読者のみなさまのご意見をお聞きして、
カテゴリーを決めたいと思っているのです。

昨日ブログの管理者にお聞きしたところ、
私のブログのヒット数は、
2005年12月の一か月間で、10,803ヒット、
2006年1月の一ヶ月間で、15,861ヒットでした。
毎月増えつづけているようです。

これはもちろんエラーアクセスを含んだ数字ですから、
単純に、
2006年1月は
1日あたり約520件のアクセスがあった
というわけではありませんが、
まあそれに近い数の方々にご覧いただいている
といってもよろしいかと思います。

しかしこれだけの数の方々に
ご覧いただいているとなると、
愛読者の方々が興味をおもちの関連記事を、
即座にご提供できるようにしなければなりません。

それにはやはり、
カテゴリー分類が必要でしょう。

そこで
「投稿記事の一覧表示」をご覧になっていただいて、
どのようなカテゴリーの記事を
お読みになりたいのか、
コメントしていただければ幸甚に存じます。

もちろんひとつの記事を
重複して分類することもできます。

どうぞ「投稿記事の一覧表示」をクリックしていただいて、
過去ログを概観なさってから
お好きなカテゴリー名をコメント欄にご記入ください。

たとえば
「脳科学者 茂木健一郎先生関連の話」
「島田進学スクール(塾の話)」
というふうに。

あつかましいお願いではございますが、
よろしくお願い申し上げます。


2006年2月1日(水曜日)

代々初代

カテゴリー: - kawamura @ 09時53分52秒

「代々初代たれ」
と祖母から教えられたことを、
わが友近藤一成君からおくられてきた雑誌を読んで、
思いおこしました。

『静岡ビジネスレポート』の表紙には
近藤君の写真がおおきく掲載され、
その8,9ページには「旬な人」と題して
福一漁業社長近藤一成君が紹介されていたのです。

近藤君のつぎのような言葉がありました。

「先祖さまには申し訳ないかもしれませんが、
 今老舗をいかに捨てるかを
 考えるようになってきました。
 それが企業継続、
 これからの福一を支えることになる。」

これはまさに祖母に教えられた
「代々初代の気概がないと家は続かない」
という言葉とおなじです。
河村家は、いままでご紹介してきたように、
ながい江戸時代を通じて、
庄屋、あるいは御林守として
安定した地位が保証されていたにもかかわらず、
「代々初代」でないと家はつづかない
というのです。

そういえば明治維新のときも、
さらに敗戦時の農地改革さえ乗りこえて、
生き延びてまいりました。

それは家を継いでみてよく判りました。
その時代の潮目をよくみて、
家運にあわせて仕事をしなければなりません。
家運は恵まれていても
時代が逆流のときもあれば、
家が逆境にあっても
時代が後押しする場合もあります。

たとえばバブルまえには
凡庸な経営者であっても、
右肩あがりの潮流に乗って
会社は大きくなったものですが、
バブル崩壊のような悪環境になったときには、
非凡な経営者しか生きのこれません。

つまり代々初代の気概を持って取り組まないと、
突然の逆風に出あったとき
会社の舵取りができないのです。

初代は、もともと何もなかったのですから、
時代の変化によって多くをうしなっても、
元に戻っただけのことです。
すこしでも元手がのこれば、
ゼロからはじめた初期のころより
恵まれているということです。
ふたたび新たな事業を興せばよいのです。

それくらいの覚悟をもって事に臨めば、
恐れることはありません。
また、
それでなくては
生き延びてゆけないということです。

近藤君は戦国時代以来のゆたかな資産にめぐまれ、
さらに上の文章に見られるような
初代の気概を持って経営に臨むのですから、
恐れるものはないでしょう。

近藤君の好きな言葉は
「未完成の魅力。いつでも今が始まり」。

今後のさらなる活躍に期待するところです。

(「プロフェッショナル」の感想は、また明日)


2006年1月30日(月曜日)

旧友再会

カテゴリー: - kawamura @ 06時48分42秒

5時半から10時半まで
5時間にわたって飲みつづけました。

附属島田中学時代の旧友たちとの再会を
「さんさく」でたのしんだのです。

30年以上つづいている会ですが、
4人のメンバーのうちのひとりが、
ヤマハアメリカの副社長になって
アトランタへ転勤してしまったので、
いつもは1月2日におこなわれている
4人の例会を、
今年は3人でさみしく飲みました。

そこで、あたらしいメンバーを
もうひとりよんで、
昨夜はその彼と
ひさしぶりの再会をたのしむことにしたのです。

そのあたらしいメンバー
O君の口から、
介護の話がでました。

もうずいぶんまえから
老いた父親が
認知症の母親を介護しているということでした。
それで、東京在住のO君も
毎週日曜には帰ってきて
父親のかわりに
母親のめんどうを見るというのです。
おそらく、
両親ともに90歳前後の高齢者でしょう。

「私を我が子ともわからない母親の
 介護をなぜ自分がしなければならないと
 葛藤もあったけれど
 いまはそれが喜びに変わった。
 無償の奉仕が、無上の喜びに変わった」

それに答えて誰かが言いました。

「それは家族の負担が大きすぎる。
 喜びとか言ってちゃいけない。
 公共のするべきことだ」

あと20年もすると
あるいはもうはじまっているのかもしれませんが、
80歳以上の高齢者の
老々介護の問題が社会全体に蔓延してくるでしょう。
つまり私たちベビーブーマー自身の老後問題です。

それにつけくわえるように私は言いました。

「私にとっての文化財保護の問題に
 それはよく似ている。
 個人がすべきことと
 公共がすべきことの
 線引きをすべき時期がきている」

そんな話で、5時間盛りあがりました。


2006年1月29日(日曜日)

人生の波動

カテゴリー: - kawamura @ 06時57分40秒

それは誰もが感じているところでしょうか。
人生には波があると、
それにはっきりと思いあたるのは、
ある程度の歳月を生きてからのことでしょう。

私は20歳のころ、
とても激しい、
疾風怒濤の日々を送りました。

心身が青く高く澄みわたって、
心に決めれば為しえないことはないような、
純度の高いエネルギーにあふれていました。

めをつむりていても 吾を統ぶ 五月の鷹
そんな心境でした。

みなぎる力のすべてを文学と科学にそそぎ、
新たなるものを創造することだけに、
生きる価値を見いだしていました。

若く、奢っていました。

しかしそれでは、やがて疲れます。
それから、ながい無為の日々がつづきました。
無為というのは、
創造的でなかった、ということです。

40歳のころ、
ふたたびその力がよみがえってきました。
毎日、疲れることがありませんでした。

早朝から深夜まで、仕事に没頭して、
それからあさまでお酒を飲むのです。
(あまり創造的とはいえませんネ。
 じつはこの頃のことは、
 『蒼天のクオリア』にも書きませんでした。
 なぜって、
 たしかにエネルギーにみちた日々ではありましたが、
 あんまりほめられた日々ではありませんでしたから)
ほんのわずかの睡眠をとって、
翌朝7時には、
静岡学園高校にむけて車をはしらせました。
それが、毎日だったのです。

それまで150名ほどだった塾の生徒は、
たちまち300名を超えて、
生徒の実数が把握できないほどでした。

個別指導の教室を、
島田で初めて開いたのもそのころです。
夢をえがき、
それを実現しました。

しかしそれも、
数年で終わりました。

深い疲れがくるのです。

いまは、
つぎの波動の到来を待っているサーファーの気分です。
20代のころ、
日記に予想したグラフでは、
そのビッグウェーブは60歳のころくるはずです。

現在54歳。
いまからそれが楽しみで、
陽光のふる砂浜へ、
サーフボードを小脇にかかえて、
ゆっくりと歩みだしている
老いたサーファーの気分です。

まばゆい水平線が、
しだいに盛りあがってくるのがみえます。

青空は深く、焼ける砂を足の裏に感じます。


2006年1月28日(土曜日)

裁判官殿

カテゴリー: - kawamura @ 07時40分48秒

教え子の裁判官と
ひさびさに一献かたむけました。

彼は中学一年から高校三年まで
島田進学スクールの生徒でしたが、
入塾したころは
大学進学を望んでいませんでした。

「先生にだまされたようなものですよ」
と、彼は笑いながらよく言います。

というのは、
彼は職業高校に進学予定だったのに、
「藤枝東にしなさい」
と言ったのは私です。

「はい」
と彼はこたえました。
そうして藤枝東高校の入学式で、
彼は新入生代表として挨拶しました。

親の意向もあって
高校を卒業して働く予定のようでしたが、
「法学部にいきなさい」
と言ったのは、かくいう私です。

「はい」
とこたえて、
彼は早稲田大学の法学部に入学しました。

入学したての彼をよんで、
「司法試験を受けなさい」
と言ったのは、なにをかくそう私です。

「はい」
とこたえて、
彼は早稲田在学中に司法試験に合格しました。

横浜、松山、と転勤して、
現在は東京地裁の知財部に
裁判官として勤務しています。

こんな指導は、
もう決していたしません。
優れた彼にめぐり会えたのは、
宝くじに当たったようなものだからです。

一時は私をうらんだこともあったようです。
当時の司法試験は、
名だたる大学から
寸暇を惜しんで勉強した秀才たちが受験して、
合格率は2パーセントほどでした。
並みの努力ではなかったのでしょう。

いまの彼は、
快活で自信にあふれています。

東京地裁に見学にきた中高生や引率の先生から、
「どうして司法試験を受けようと思ったのですか?」
と聞かれて、
「塾の先生にすすめられて受けたんですよ」
と答えているそうです。

教師冥利、この一言に尽きます。

酔いがまわったころ、彼が言いました。

「でも、先生は授業のあと
 心配だったU君を教えていたよね。
 U君が合格してホントに喜んでいたけど、
 そういうことは、誰も知らないんだ」

君はおぼえていてくれたんだね、
杯を口にはこびながら、
私は胸でつぶやきました。

U君とも、一献傾けたいものです。
卒業生のみなさん、
連絡を待っています!


2006年1月25日(水曜日)

立原道造

カテゴリー: - kawamura @ 05時59分24秒

すべてがおぼろな記憶で、
詩を読みふけっていた十代のころの記憶は、
もはや定かなものではありません。
それでも立原の印象は、
きえかけた記憶のなかから、
遠い高原の歌声のようにかすかにきこえてきます。

堀辰雄と親交のあった立原が、
東大工学部の建築学科の学生で、
烏口というのでしょうか、
あの製図用のペンで詩を書いていたということを、
そのころ全集本で知りました。

おそらくは几帳面なちいさな文字で
透明にうかびあがってくるような詩を
書いていたのでしょう。

いかなひみねにはいのけむりのたちそめたか

ことばのふしぎさをおしえられた一節でした。
それに触発されて、式子内親王の、

ほととぎす そのかみやまのたびまくら
ほのかたらひし そらぞわすれぬ

あるいは寺山の「いろは歌」、
これは全文を思い出せないのですが、

とますはこきや あんろえめ
おてなひけゆう さへつふり

など、断片的に思いうかびます。

ことばの、
そしらぬふりをしてこころにしのびこむ
そらおそろしい側面を
それらの詩で知りました。

ところで、
立原は初期のころ「道造」ではなく
「刀造」(「刀創」?)としていたころがあると、
国文の教授からきいたのは
35年もまえのことですから、
記憶ちがいかもしれません。

どなたかご存知ではないですか?


2006年1月24日(火曜日)

伊東静雄

カテゴリー: - kawamura @ 06時42分43秒

今朝、ふいに伊東静雄の詩の一節を思いおこして、
暗誦していたわずかの冒頭と、
なぜだかしゃっぱという言葉を思いだしました。

もうそれを読んだのは35年もまえのことになります。

しゃっぱ、が透明な蝦のようなものだったと記憶していて、
それをたしかめようとネットで検索にかけると、
私が記憶していたいくつかの著名な詩は登録されていて、
全文を読むことができました。

三島が若年の日に傾倒した伊東静雄のリリシズムは、
私のこころの琴線にもふれたのです。

そのころ理系の学生だった私は、
抽出したカフェインの針状結晶が、
メスコルベンの底に、
透明に成長してゆくのを見ているときにも、
硬質の悲しみにみちたその詩を思いおこしました。

冬の朝日のなかで
ささやかな娘との語らいによみがえった
二十歳のころの記憶です。


2006年1月22日(日曜日)

家紋(4)

カテゴリー: - kawamura @ 12時51分24秒

丸に違い箸、
そのきわめて希有な家紋を、
金谷の河村一族がもちいていることを、
前回の「家紋(3)」で書きました。

おそらく全国に10軒にも満たない河村姓の家で、
しかも、
すべて金谷河村氏の血縁と思われる一族のあいだでしか
つかわれていません。

また「文殊さま」とよばれるお堂を
江戸時代の天保六年に建立したときの記録が、
御林守河村家にのこされています。
「願主 御林守河村市平」としるされていて、
御林守河村家が願主としてお堂を建てたことがわかりますが、
その寄附者の筆頭に
「本陣柏屋河村家」の名があります。

      「金谷町本町世話人
        一金弐分弐朱 河村八郎左衛門(本陣柏屋河村家)
        一金壱分    櫻井浅右衛門
        一金壱分   永寿講連中
        一金弐朱   塚田弥五右衛門
        一金壱朱   塚田弥惣八
                     以下略」

しかしなぜ、「本陣柏屋河村家」は筆頭世話人として、
ほかの寄附者の2倍もの寄附をしなければならなかったのでしょう。
いったいなぜ、
金谷の河村一族は「文殊」を信仰しなければならなかったのでしょうか。

ここまでが、前回までのあらすじでした。

結論から申し上げると、
「丸の内に直違い」紋をもちいていた相模河村氏は、
文殊を信仰していたのです。
これは『新編相模国風土記稿』に書かれていることですが、
いまの室生山般若院は、
むかしは恵華山般若院智積寺とよばれる真言宗の寺で、
開基は河村山城守秀高とつたえられ、
文殊を本尊としていたというのです。

現在の般若院も文殊菩薩を本尊としていて、
相模河村氏の文殊信仰をつたえています。

『駿河記』の付録に書かれているように、
金谷河村氏が相模河村氏の末裔であることは、
「丸の内に直違い」と「丸に違い箸」の関連のほかに、
この文殊信仰の系譜からもみてとれます。

歴史をつたえる般若院は、
神奈川県山北町の、
河村城趾のほとりに、
いまでもひっそりと建っています。

つづきはまた後日。


2006年1月21日(土曜日)

続・入試の朝

カテゴリー: - kawamura @ 23時33分18秒

吐く息の白い朝、
附属中学の校門に立って、
教え子の手にお守りをにぎらせ、
受験生親子が校門のなかへきえてゆくのを見とどけていると、
後ろから女性の声がしました。

「先生、おひさしぶりです」

美しい女性が男の子をつれて立っていました。

「おお、ひさしぶり」

教え子のKさんでした。
となりにいた男の子が、

「おかあさん、だれ?」
「むかし塾で教えてくれた先生」
「ふ〜〜ん」

母親がこたえても、
なにかうさんくさそうにじっと見つめる視線に、
すこし私もうろたえましたが、
そこはそれをそぶりにも見せず、

「優秀な君の子だから、かならず合格するよ。
 また塾へあそびにおいで」

入塾するんだよ、
とは口が裂けてもこの場で言う言葉ではありません。

「頑張っておいで」

ふたりを見送ったあとで、
お守りを渡してあげれば良かったと気づきましたが、
あの優秀なKさんのお子さんなら、
間違いなく合格したことでしょう。

ちなみに、
今年の島田進学スクールの中学合格者は、
附属中学7名、私立中学4名、の好成績でした。

おさない子たちですが、
我ら大人とかわらぬ試練をくぐり抜けて、

「合格したよ!」

と電話してくる声を聞くと、
年のせいか思わず涙ぐんでしまいます。

少人数の受験クラスでしたが、
まだひとり電話がありません。
こちらから電話するわけにもいかず、
連絡を待っています。

万が一不合格であっても、
「君はよく頑張ったよ」
と、その健闘を明るく讃えてあげようと思っています。

彼らの輝かしい人生は、
まだ始まったばかりなのですから。


2006年1月20日(金曜日)

秘薬

カテゴリー: - kawamura @ 21時47分26秒

御林守河村家には
古来より秘薬がつたわっています。
これは御先祖様が戦場でうけた打ち身の傷を
短時間で見事になおしてしまう
不可思議な秘薬です。

祖母はこの貼り薬を
私のまえでなんども作って見せてくれました。

父も、普段はこのようなものを信じなかったのですが、
祖母の秘薬を自分の打撲傷にじかに貼りつけてみて、
その著しい効能に驚いていました。
娘の合気道にも役立つかもしれません。

しかし秘薬ゆえに、この製法は秘さねばなりません。

ところでこのお薬のお値段は
秘薬なだけに、
ひやくえん(百円)ではいかがでしょうか?

おあとがよろしいようで。


2006年1月16日(月曜日)

入試の朝

カテゴリー: - kawamura @ 12時24分07秒

附属中学の入試の朝
毎年私は中学の校門のまえに立って
教え子たちがあらわれるのをまちます。

7時にはまだだれもいません。
吐く息は白く、ひとりでコートの襟をたてて、
45年まえのこの朝を思いおこしました。

私も附属中学を受験したのです。
当時の試験科目には、算数国語以外に
音楽、図工、技術家庭科、体育と
全教科の入試でした。
小学校6年生になると、
それまでききなれなかったクラシック音楽を、
毎日毎日聞かされました。
いまの私がクラシックをたのしむ素養は、
そのころに培われたものです。
音楽を聞いて、曲名、作曲家の名前、
その曲の特徴などをこたえるという簡単なものでしたが、
基本的な名曲はだいたい聞いたように思います。
いまは算数と国語だけになってしまいましたが、
すこしさみしく思います。

受験生をのせた車があらわれはじめました。
そのひとりひとりの顔をみていると
教え子でなくても、思わず
「頑張って」
と言ってしまいます。

塾生たちが、
ひとりまたひとりとあらわれはじめました。
眼を見ひらいて、緊張した面もちです。
このときほど、
かわってやりたい、と思うことはありません。

「不安になったらこのお守りにさわりなさい」
子どもたちのかじかんだ手に、
天満宮のお守りをにぎらせます。
それから、
受験の心得を、ゆっくりと、
噛んでふくめるようにつたえます。

受験生親子も私も頭をさげ、
いよいよ彼らは校門にむかってあるいていきます。

結果は神のみぞ知るところです。

この子たちの前途に栄光のあらんことを祈りながら、
私はその後ろ姿を見おくるだけです。


2006年1月15日(日曜日)

パソコンのこと(4)

カテゴリー: - kawamura @ 05時52分40秒

東京電力の社長表彰を受けた直後の
桑原信行君の盛大な結婚式に
恩師として招待され
スピーチをたのまれてお話ししたのが
前回までのような内容でした。
スピーチの内容も、
桑原君の依頼にこたえて
彼の人生におおきく影響したという
塾のパソコンに関することをお話ししたのです。

私は一介の塾教師ですが
私がひたすらパソコンにむかって
教育ソフトの完成にうちこんでいたころ
その姿をみて
人生を方向づけた少年がいたことに
驚かされ、感激いたしました。

もうひとり、
慶応工学部からヤマハ発動機に就職した
教え子のYI君の結婚式に招待されたときも
カードにこんなふうに書かれていました。

「塾ではじめて見たパソコン、
 先生の数学の教え方、
 僕の人生、考え方を大きく変えました」

葛城北の丸で行われた結婚式場の座席表に

「新郎恩師 島田進学スクール塾長」

と書かれていて、
喜びに胸のつまる思いがいたしました。

私は、
パソコンでなにかをなしとげたというわけではありません。
しかしなにごとにせよひたむきに生きる姿をみて
少年たちの胸に生きる希望をあたえることができたのだとしたら
塾教師である私にとって、それ以上の喜びはありません。

私は日々、小中高の生徒に数学をおしえています。
しかし本当に教えることができるのは
自身の生きざまであることを知りました。

子どもたちは、数学の定理だけを学ぶのではなく、
そして語る言葉だけを聞くのではなく、
私の生きる姿、
無言の姿をみておおきく影響されるのです。

それはそら恐ろしくもあり、責任も感じます。
やりがいがあるということです。
いま、私はこの仕事を授けられたことに感謝し、
誇りを感じています。

27年まえ
塾をはじめたとき
ひそかに胸に刻んだ言葉を思いおこしました。

「一粒の麦 地におちて死なずば だだひとつにてあらん
 もし死なば 多くの実をむすぶべし」


2006年1月14日(土曜日)

パソコンのこと(3)

カテゴリー: - kawamura @ 09時50分04秒

PC9801を購入したのは、
教育ソフト作成のためでした。
8インチのフロッピーディスクを購入して、
当時最高速のプリンターをそろえました。

附属中学時代の同級生中野君と、
藤枝東高校の後輩長谷川君と、
三人で知恵をしぼりました。

中野君は東大工学部から院を卒業して
日本IBMに勤めていましたが、
ちょうど静岡支店に配属されていたのです。
長谷川君は東海ガスの電算センターにいましたから、
いつでも進学スクールに来ることができました。
彼はのちに情報処理の特種を取得して、
有名銀行の全国的なオンラインシステムの構築に
参加することになります。

私のアイデアを中野君が聞いて、
おおきなシステムデザインをします。
つぎに、
そのプランを三人で実際に組みたてていくのです。
詳細はとてももったいなくて話せません。
なぜって、
そこにはたくさんのアイデアがつまっているからです。

いまでも8インチのフロッピーディスクが、
私の書斎のかたすみに数枚のこっています。
その中には、
20年まえに三人の若者たちが夢をそそいだ
画期的な教育ソフトが眠っているのです。

桑原君曰く、
「早すぎたんですよ。
パソコンの能力が追いつかなかったんですね」
まさにその通りで、
基本ソフトそのものは優れていると思いますが、
それには膨大なデータと、
現在のレーザープリンターのような高速出力装置が
必要だったのです。

中野君に教えられたことのひとつは、
プログラムの中に判断を組みこむのではなく、
判断するテーブルをつくっておくということでした。
そこへとんできて、またそこからとんでゆく、
そういう判断テーブルをつくるということです。

私の発明は、
その判断テーブルが成長するというものでした。
データが蓄積されると、
それによって判断がすこしずつ自動的に精度をたかめ、
成長してゆくというものです。
あの8インチのフロッピーは、
無数のアイデアを秘めたまま眠っているのです。

またもや桑原君曰く、
「いまからでも特許を取っておいたほうがいいですよ」
そうかもしれません。
しかしもう20年たちましたから、
すでに誰かがやっていることでしょう。

あの8インチを、nomadさまに見ていただいて、
ご助言いただけたらと思います。

nomadさま、お願いできますか?


2006年1月13日(金曜日)

パソコンのこと(2)

カテゴリー: - kawamura @ 06時29分14秒

そもそもパソコンのことを
どうして書こうと思ったのかと申しますと、
年末に訪ねてきてくれた教え子
桑原信行君との話がきっかけなのです。
彼はいま、東京電力の新事業推進本部で活躍しています。

桑原君は、附属中学一年生のとき、
私がはじめたばかりの塾の生徒になりました。
27年まえのことです。
27年まえに13歳だったということは、
教え子の彼も40歳になろうとしています。

その当時、私はPC6000をつかっていましたが、
記憶装置はカセットテープで、
パソコンとはいっても、おもちゃのようなものでした。
小豆色とクリーム色の二色だったように憶えています。

それを塾の事務室において、
簡単なプログラムを組んでは、
カセットに記憶させるとき、
例の機械音がするのです。
ガ〜ピ〜というあの音です。
事務室にあそびにきている小中学生たちは、
気味悪そうに、その音に耳をそばだてていました。
カセットテープから聞こえてくるのは、
人間の声や音楽だけだと思っていた彼らには、
私が、理解不能な言葉を聞きとっているように
見えたそうです。

そういうとき、
ちょっといたずらごころをおこして、
カセットテープのほうへ優しい視線をなげかけながら、
ガ〜ピ〜の音に耳をかたむけるそぶりで、
「ああ、そういうことを言いたいんだね、よくわかるよ」
と微笑みながらつぶやくのです。
子どもたちは、一瞬異様に眼を見ひらくのですが、
なにごともなかったかのように、
見てはならぬものを見たかのように、
そしらぬふりで話を続けようとするのですが、
言葉をかんで、くちびるのはしがふるえています。

あとから、あれはいたずらだったんだよ、
というと、
「先生〜、うそだったのか〜〜」
と眼にうすく涙をうかべて、
うらめしそうに言ったものです。

桑原君もそのひとりでした。

27年まえというと、
まだ島田市にはパソコンをあつかう人はいなかったようで、
たいへんめずらしく、
なんだか私が、
宇宙との交信をしているような不気味さがあったというのです。

そのうち、宇宙人の私にさそわれて、
おそるおそるパソコンのまえにすわったのが桑原君でした。
やがて彼は大学でコンピューターを学び、
東京電力に入社してそれを仕事にすることになるとは、
少年の彼は夢にも思わなかったでしょう。

やがてパソコンがPC8001にかわると、
格段に性能が上がり、
記憶装置もフロッピーディスクになって、
プリンターもつきました。
あれはまぎれもなく
現在のデスクトップ型パソコンの原型でした。
いままであつかった数多くのパソコンのなかでも、
実にPC8001は名機でした。
頑丈で、正確にうごきました。
ディスプレイの緑色の輝点が、とても美しくみえました。

そのころから本格的にbasicのプログラムをはじめたのです。
最初はゲームを自分でつくって生徒にあそばせる程度でしたが、
そこでたくさんのプログラムテクニックを学びました。
しだいに、あることに気づきました。
つまり、
プログラムできないことはない、ということです。
およそ人間が思いつくすべてのことは、
プログラム可能です。
(もちろんクオリアは別ですが)

だいたい人間が考え、
それを言語化するという論理的な思考が、
まさにプログラムそのものだからです。

やがて私は、
教育ソフトをつくってみようと思いたちました。

つづきはまた明日。


2006年1月12日(木曜日)

パソコンのこと(1)

カテゴリー: - kawamura @ 01時28分18秒

家紋のことはどうなったの、と聞かれそうですが、
いまはパソコンのことを書かせてください。
こういうことは、思いたったが吉日で、
そのとき書かないとうしなわれてしまう味があるのです。

味というのは、思い入れのようなもので、
同じことを書いても思い入れがあるのとないのとでは、
センテンスの長さやリズムが微妙にちがってしまいます。

(金谷河村氏の家紋のことは、
かならず稿をあらためてまたしたためます)

ところで、記憶にかすかにのこっているパソコンの原型は、
いまからおよそ30年ほどまえの「日経サイエンス」の、
あれはたしか別冊だったと思いますが、
その表紙にえがかれた夢のコンピューターの絵がそれでした。

その当時は、コンピューターというと巨大なもので、
規模にもよりますが、私たちが学生時代に、
分子内の電子の軌道計算につかっていたのは、
相当おおきな二階建てのビル全体が
すべてコンピューターというしろものでした。

「日経サイエンス」の表紙絵はまさに現在のノートパソコンで、
当時の研究者の、だれもが夢に描いていたものでした。

30年ほどまえ、
学生時代にはじめて半年ほど講義をうけたコンピューターの言語が、
フォートランでした。

まだ記憶装置は紙のテープで、
それにあいているひとかたまりのちいさな穴が、
現在のビットのようなものでした。

卒業後、東京日本橋の会社に勤めたとき、
企画部に配属されて、
独学しながら需要予測の計算をしていました。
これは上司から命令されたものではなく、
自分ではじめたのです。

そのとき使っていた電卓のようなプログラム計算機は、
いまはうしなわれてしまって記憶も定かではありませんが、
たしかカシオのfx-102とかいうものだったと思います。

茶色の、片手のてのひらにおさまるような、
かわいいプログラム電卓でしたが、
当時個人が手にすることのできる計算機は、
その程度のものでした。

その計算機を、毎晩、会社から帰った下宿で、
深夜までたたきつづけました。
記録はすべてのこっていますが、
いかに30年前とはいえ企業の情報ですから、
公開することはできません。
しかしあれは胸おどる日々でした。

人口問題研究所などに足しげくかよって、
各県別の年齢別人口のデータを手にいれ、
また過去の販売実績と対象年齢人口との相関をしらべて、
需要を予想するのです。

東京オリンピックから十年ほどたったころでしたので、
製品をテレビコマーシャルする前とあととでは、
販売数のオーダーがひとつかわるほど
影響力があることも知りました。

それを同期のデザイナーとわかりやすくグラフ化して、
企画部の上司に報告すると、
しばらくして営業部長に呼びだされました。

よけいなことはするな、ということでした。
つまり、県ごとの営業実績が一目瞭然ですし、
どの県が手薄なのか、どの県はさらに販売がのばせるのかが、
誰の目にも明らかですから、
たしかに営業部長としてはやりにくくなるのでしょう。

しかし企画の上司はたいへん喜んで、上に報告していたようです。
すぐに、もうすこし正確な需要予測をするように求めてきました。
それをもとに、新工場の用地買収や、
その工場での今後の生産量をきめる必要が生じてきたのです。

東京での、夢多き日々でした。

目黒区五本木の、
ちいさな木造の家に下宿していたころのことです。

つづきはまた明日。

(ほかになにか興味深いことを思いついたときには、
明日ではなく後日になるかもしれませんのであしからず。
書きたいことが、つぎからつぎへとあらわれますので)


2006年1月10日(火曜日)

男たちの大和

カテゴリー: - kawamura @ 00時12分11秒

(『男たちの大和』を見て)

死者は語らず。
残された我らは、
声なき彼らの遺言に謙虚に耳を澄ませ、
それを受けとめるべきだろう。

それぞれの心の軌跡に曲折こそあれ、
散華した彼らが、
みな祖国を思って逝ったことは確かだろう。

祖国とは何か、と問う思想の是非をこえて、
純粋に母を思い、
ふるさとを思って散った彼らの気持ちに、
どのように我らは応えればよいのか。

平成のぬるま湯につかって、
湯あたりしている我らに、
一体何ができるのか。

敗戦によって、
我らは物質文明の繁栄を得たが、
失ったものも多かった。

映画館の興奮のままに書きしるせば、
まあこんな調子になるのでしょうが、
じっさい、
新渡戸が『武士道』を書く契機になった
ベルギーの法学者の問いかけは、
現代日本の我らにこそ
つきつけられているような気がします。

「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」

倫理や道徳を、いまや完全に失った我らは、
いまいちどこの言葉に向きなおって、
真摯に考える覚悟が必要なのかもしれません。

しかしそれとはべつに、私が不安に思うのは、
なぜいま「大和」なのか、
ということです。

私は共産主義に与する者ではありません。
しかし、急激な右傾化は国を危うくします。
かたちばかりとはいえ、
民主主義のこの国なのですから、
われら国民が国の未来をきめる主権者なのです。

もういちど、地道な議論を積みあげて、
ふたたび日本が世界の孤児とならぬように、
われら国民が、
冷静にこの国の行方を見定めるときが
きているように思います。

(大言壮語の似あわぬ私ですが、
映画館の音響効果が耳にのこっているせいか、
つい散華などと仰々しい言葉をつかってしまいました。
あしからず)


2006年1月9日(月曜日)

家紋(3)

カテゴリー: - kawamura @ 06時11分42秒

「丸に違い箸」というきわめて特殊な家紋と、
河村という姓と、
そのふたつを同じくしている
本陣柏屋河村家と御林守河村家の密接な関係は、
その信仰においてもみとめられます。

島田市大代は、
大代川にそって散在する村落で、
そのいちばん奥に庄司とよばれる地区があります。
そこから掛川に通じる山越えの道の途中に、
その祠は建っています。
曲がり角からすこしはいった場所ですから、
ほとんどの方は気づかずに通りすぎてしまうでしょう。

「文殊さま」とよばれているそのお堂は、
ふるくからそうとうの広範囲にわたって信仰をあつめていました。
そのお堂を江戸時代の天保六年に建立したときの記録が、
御林守河村家にのこされています。

「天保六年
 文殊堂建立施主附帳
    未 九月吉日」

このように表書きされた四枚綴りの帳面があるのです。
帳面の一枚目に「願主 御林守河村市平」として、
「願主」の文字が一段高く書かれているのが目をひきます。

      「大代村正地        
       鍵取
        高柳重三郎 印
     願主
       御林守
        河村市平 印」
「鍵取」というのは、どの神社にもある役で、
お堂の管理人を意味しています。
さらにこのあとにたくさんの寄附者の名が
つらねられているのですが、
その筆頭に「本陣柏屋河村家」の名があります。

      「金谷町本町世話人
        一金弐分弐朱 河村八郎左衛門
        一金壱分 櫻井浅右衛門
        一金壱分   永寿講連中
        一金弐朱   塚田弥五右衛門
        一金壱朱   塚田弥惣八」

なぜ、「本陣柏屋河村家」が筆頭世話人として、
ほかの寄附者の2倍もの寄附をしなければならなかったのでしょう。

いったいなぜ、
金谷の河村氏は「文殊」を信仰しなければならなかったのでしょうか。

その理由は、また明日書きましょう。

(内容が、家紋からすこしはなれてしまいましたがご容赦ください)


2006年1月8日(日曜日)

成人式

カテゴリー: - kawamura @ 05時43分30秒

きょうは大学二年生のふたごの娘たちが、
成人式を迎えます。

あの子たちが生まれるまえ、
出産の検査に行った病院から、
妻が電話してきました。

「ふたごだそうです」

ふしぎな感じがして、
そのとき少し返事が遅れたのをおぼえています。
あの子たちの幼年期には、
私は仕事ばかりしていてあまりかまってやりませんでした。

小学校の高学年ぐらいから、
娘たちとよく話をするようになりました。
思い出も、たくさんつくりました。

双葉に入学してから卒業までの中高6年間、
妻は毎朝5時半起きでした。
二人のお弁当をつくり、朝ご飯を食べさせてから、
金谷駅まで片道約15分かけて車で送りました。
6年間、毎朝のことでした。
私も送ろうとしたことはありますが、
三日坊主でだめでした。

学校から帰るときには、週に二三度、
妻が静岡へお迎えに行きました。

大変だったのでしょうけれど、
妻も娘たちもたのしそうでした。

今は二人は大学生。
ひとりは東京に、ひとりは仙台に、
アパート住まいです。
仙台の娘は、さみしいのか、
週末をよく東京で過ごしています。

いつまでもいまのまま、
笑い声のたえない娘たちでいてほしいと、
祈っています。


2006年1月6日(金曜日)

家紋(2)

カテゴリー: - kawamura @ 10時41分43秒

裃(かみしも)の家紋です

hey、かも〜ん。
私の家紋worldへようこそ。

金谷河村家の家紋「丸に違い箸」は、
全国で何軒くらい使っているのでしょうか?
昨日記したように、
この家紋は京都の紋帳にもないほどめずらしいようで、
数年前に私の調べたところでは、
以下の9軒だけです。

御林守河村家(島田市大代、現住)
本陣柏屋河村家(島田市金谷、現大阪市在住)
柳家河村家(島田市金谷、現住)
藤屋河村家(島田市金谷河原、現住所不明)  
河村家2軒(島田市牛尾、現住、分家を除く)
河村計三家(川根町、現住)
河村歯科医院(静岡市、現住)
河村材木店(静岡市、現住)

ほかに「丸に違い箸」を家紋とする河村姓の家は、
まだ見つかっていません。

御前崎の河村氏もこの家紋を使っていますが、
これは当時の当主が崇拝していた河村多賀造の許可を得て、
近年から使いはじめたものです。

「丸に違い箸」の家紋を使う河村家を、
どのように調査したらよいか、
どなたかのお知恵を拝借したいと思います。

どのようなものでも、
なにかアイデアがありましたら、
コメント欄にてぜひお教え下さい。
よろしくお願い申し上げます。


2006年1月5日(木曜日)

家紋(1)

カテゴリー: - kawamura @ 08時51分34秒

裃(かみしも)の家紋です

苗字と家紋のことについて、
いつかまとめなければならないと思っていました。
苗字のことは、
「遠江河村荘と河村氏」(未発表)のなかで
ある程度書きましたが、
家紋についてはいままでまったく触れたことがありません。

河村家の家紋は「丸の内に直違い」とよばれるもので、
相模国河村城主一族の家紋です。
もとは「丸の内に直違い」紋であったものが、
遠江に移って棒違いが曲線になったものと思われます。

相模河村氏が「丸の内に直違い」紋であったことは、
奥州河村氏の一族である河村章一氏がまとめられた
『川村家の歴史』を参考にしていますから、
やがて独自の研究が必要になると思います。

相模河村氏と金谷河村氏との関係は、
『駿河記』を出典としていますが、
家紋の類似もその関係の証左になるだろうと思います。
つまり相模河村氏の「丸の内に直違い」と
金谷河村氏の「丸に違い箸(ちがいばし)」は、
すこし変化してはいますが、
ほとんど同一ものといってよい姿です。

ところで、京都には「紋帳」なるものがあって、
日本全国の呉服屋では、
紋付きや留め袖をつくるとき、
その「紋帳」をもとにして家紋を染め上げるというのです。

金谷河村氏の「丸に違い箸」は、
よほどめずらしい家紋と見えて、
その「紋帳」にさえ載っていません。

つづきはまた明日。


2006年1月4日(水曜日)

冬期講習終了

カテゴリー: - kawamura @ 21時52分13秒

本日をもって、冬期講習を終了いたしました。

明日から、普通の生活にもどります。
ブログを書く時間もじゅうぶんとれます。

書きたいことはたくさんありますが、
頭のなかでまだまとまりません。

これからゆっくり考えながら書こうと思います。

それではまた明日。


2006年1月3日(火曜日)

千客万来

カテゴリー: - kawamura @ 08時46分43秒

昨日は、いろんな方々にお会いしました。

午前中、塾で酒井先生の写真をとりました。

その後、今年成人式を迎える娘たちの着つけが終わるのをまって、
銀座写真館で娘たちの記念写真をとりました。

そのあと、私が30歳前後に両親を亡くして以来、
親代わりになってさまざまな相談に乗ってくれている
焼津の瀧さん御夫妻を訪ねました。

瀧利郎さんは満91歳、晴子おばさんは87歳、
おじさんは私の曾祖父河村宗平の外孫にあたるかたで、
ガダルカナルから生還した数少ない帰還兵のひとりです。
おじさんの書いているガ島戦記は防衛庁からも問い合わせがあって、
その戦記は防衛庁の書庫に保管されています。
作家の澤地久枝さんもなんどかガ島戦の取材にたずねてこられました。
漫画家の水木しげるも親しい戦友です。
師団司令部にいたおじさんの記録を、
いつか一冊にまとめておきたいと思っています。

おじさんのところから帰る途中で塾に立ちよって、
yfujitaさんと久しぶりに再会しました。
あいかわらず男ぶりの彼が語ることは、
研究のことばかりです。
そろそろ良い伴侶をさがしてあげようと思います。

そこへ、卒業生のN君(弟)とY君が、
もうひとり美しい女性を伴ってあらわれました。
N君の奥様でした。

先日のブログ、「ご恩は忘れません」のN君です。

教師冥利のひとときでした。

その後、30年ちかくつづいている、
中学高校の級友たちとの新年会に出席いたしました。

以上。


2005年12月31日(土曜日)

秘儀

カテゴリー: - kawamura @ 06時50分59秒

神様まいり、とよばれるならわしが
御林守河村家につたわっています。
それは毎年大晦日におこなわれるもので、
その内容は秘さねばなりません。

河村家の所有地は、
四つの祭神によって結界が張られているのです。

その場所や祭神の名前はあかせませんが、
それは所有地の境界に立っていて、
御林守河村家を、
それぞれの神の長い腕でとりまくように
守っています。

今日は大晦日、
家族で秘儀をとりおこなってまいります。

みなさま、
来年もまた良きお年でありますように。


2005年12月30日(金曜日)

ご恩は忘れません

カテゴリー: - kawamura @ 00時36分37秒

塾から帰宅して、
食事をしているとき、
妻の話をききました。

Nさんの奥様に、
スーパーで偶然お会いしたというのです。

Nさんのご兄弟は、
ふたりとも島田進学スクールの卒業生ですが、
いまは社会人としてたいへん活躍している様子でした。
ひとしきり塾のことを話したあと、
別れ際に奥様が仰言ったそうです。

「河村先生におつたえ下さい。
 ご恩は忘れません」

私は食事の途中でしたが、
箸を止め、
寝室へいきました。

床について、
あの言葉をかみしめました。
「ご恩は忘れません」

ふとんをかぶって、
不覚にも、ひとりで泣きました。
ありがとう。
ありがとう。


2005年12月29日(木曜日)

ひと筋に生きたい

カテゴリー: - kawamura @ 06時13分23秒

ひと筋に、ひたむきに生きたい、
と思って生きてきました。

思いはからまわりして、
なにごとも為しえずにきてしまいましたが、
それでも、
子どもたちに、
生きているこの奇跡とよろこびとを伝えたい、
そう思って生きてきました。

子どもたちが私の塾をたよってきてくれるかぎり、
私の存在意義がある、
そう胸に念じて生きてきました。

たったひとりの生徒からはじめた塾でした。
そのとき私は27歳、
毎日住宅地図をかかえて市内をまわりました。

ガリ版刷りのパンフレットをもって、
冬の雨のふるなかを、
一軒一軒訪ねました。

誰も私を知るものはなく、
ひややかにあしらわれました。

あれから27年。

多くの卒業生が訪ねてきてくれます。
昔の生徒が、
子どもを連れて申し込みにきてくれます。

彼らの顔には、
二十数年の歳月がきざまれていますが、
それでも生徒のころの面影をのこしています。

あのころ、
過剰な設備はありませんでしたが、
教える熱意には自信がありました。
いまでもその思いはかわりません。

「子どもをお願いします」

教え子たちはうれしそうに、
わが子をつれて帰っていきました。

子どもたちをりっぱにそだててあげたい、
いまでもその思いはかわりません。


2005年12月28日(水曜日)

あと三日

カテゴリー: - kawamura @ 06時36分53秒

あと三日働くと、私も仕事納めです。
今日、明日、明後日と、
毎朝、朝8時10分ごろから仕事場にはいる冬期講習は、
12月30日をもって今年のぶんが終わります。

去年は12月31日までありましたので、
すこし楽になりました。

私ももうすぐ55歳。

しかし、授業時間も在塾時間もどの先生より多く、
30代のころとあまり変わりません。

力のつづく限り、教えつづけ、
またマネージメントもやり続けようと思っています。

マネージメントというときこえはいいですが、
電話受付からすべての事務処理、
保護者との応対、
10人ほどの講師の先生方の時間調整や、
塾の宣伝業務全般、
切れた蛍光灯の取り換えから、
路上の自転車の整頓などなど、
つまりは何でもこなしているのです。

もちろん、小学生算数から高校数学まで、
すべての授業を受け持っています。

生涯現役でがんばります。

今年はあと三日で終わり、
来年は元旦から仕事です。


2005年12月27日(火曜日)

印刷機

カテゴリー: - kawamura @ 04時44分08秒

印刷機の調子が悪くなりました。
業者に連絡すると、
部品をかえればすぐに元どおりになるとのこと、
安心しました。

この印刷機は、一昔まえのものです。

あたらしいモデルを私がきらったので、
頑丈な古い型を、
業者がわざわざもってきてくれたのです。

バブルのまえにつくられた機械は、
とても良心的につくられていて、
信頼できます。

いたずらに多くの機能がついているわけではなく、
いたってシンプルですが、
充分に期待にこたえてくれるのです。

バブルにおぼれて、
日本人がおおくのものを失ってしまうまえの、
正直で誠実な、良き美徳を思いだします。

この印刷機も、
いつかその役割を終えるときがくるのでしょう。

この印刷機のように、
ぼくとつで力強い機械を、
ふたたび日本人が造れる日はくるのでしょうか?


2005年12月26日(月曜日)

岡田浩暉さん(NHKBS2)拝見

カテゴリー: - kawamura @ 07時15分17秒

岡田浩暉さん(NHKBS2)を拝見いたしました。

ラストシーンを見るまえに、
すでに疲れはてました。

午前中仕事をして、
午後1時半ごろからの菩提寺の護寺会では、
代表として事務的な報告をしたあと、
やがて忘年会となりました。
5時頃終了を宣言しておひらきとなり、
しばらく雑談ののち組の忘年会へ、
娘の運転で移動。

組長として忘年会の挨拶をして、
しばらくして爆睡。
ここちよき眠りののち、
目ざめてすぐに終了を宣言して
おひらきとなりました。

帰宅後、
NHKハイビジョン特集 戦後60年企画r
「あの日 昭和20年の記憶〜日記でたどる激動の1年〜」
を拝見いたしました。

見ているうちに気づけば酔いも醒めて、
昭和二十年、
父母の暮らした日々のことを思いました。

食べることにのみ意識の大半をつかう毎日のようでした。
B29来襲。
原爆投下。
ソ連、日ソ不可侵条約を破棄して参戦。
八月十五日、日本は敗戦を迎えました。

60年前、
日本人は今では想像もつかない日々を送っていました。

ラストシーン。
昭和二十年十二月三十一日。

岡田浩暉さん扮する山田風太郎が、端座して日記を書いています。
外の気配にふと立ちあがって障子をあけると、
雪が降っています。

このラストシーンの撮影に、河村家住宅がつかわれました。

再放送r
NHK BSHV 12月30日(金)19:30〜21:20


2005年12月25日(日曜日)

岡田浩暉さん(NHKBS2)本日

カテゴリー: - kawamura @ 05時01分05秒

NHKハイビジョン特集 戦後60年企画r
「あの日 昭和20年の記憶〜日記でたどる激動の1年〜」
NHK BS2  12月25日(日)21:00〜22:50
NHK BSHV 12月30日(金)19:30〜21:20

60年前、
日本人は今では想像もつかない日々を送っていた。
当時綴られた日記で、激動の一年をたどる。

ラストシーン
昭和二十年十二月三十一日。

岡田浩暉さん扮する山田風太郎が、端座して日記を書いている。
外の気配にふと立ちあがって障子をあける。
雪が降っている。

このラストシーンの撮影に、河村家住宅がつかわれました。


2005年12月24日(土曜日)

御寄付有り難うございます!

カテゴリー: - kawamura @ 21時51分04秒

クリスマスイブにご寄附とは、
森沢さまも粋なことをなさいます。

「御林守河村家を守る会」に、
島田市金谷文化協会から、
なんと五万円也のご寄附をいただきました。

はじめての経験でどのようにしたらよいのやらr
うろたえてしまいますが、
まずは銀行口座を開設して、
そこに預金いたします。
預金通帳の写真は、
後日UPいたします。

すべてのご寄附を預金して、
やがてNPO法人「御林守河村家を守る会」をr
立ちあげたときに、
その基金にしようと思います。

島田市金谷文化協会のみなさま、
心より感謝申しあげます。


岡田浩暉さん(NHKBS2)明日

カテゴリー: - kawamura @ 06時58分12秒

NHKハイビジョン特集 戦後60年企画r
「あの日 昭和20年の記憶〜日記でたどる激動の1年〜」
NHK BS2  12月25日(日)21:00〜22:50
NHK BSHV 12月30日(金)19:30〜21:20

60年前、
日本人は今では想像もつかない日々を送っていた。
当時綴られた日記で、激動の一年をたどる。

ラストシーン。
昭和二十年十二月三十一日。

岡田浩暉さん扮する山田風太郎が、端座して日記を書いている。
外の気配にふと立ちあがって障子をあける。
雪が降っている。

このシーンの撮影に、河村家住宅がつかわれました。


2005年12月22日(木曜日)

27回目の冬期講習

カテゴリー: - kawamura @ 06時52分00秒

昭和54年の秋に島田進学スクールを開校して、
その開校1年目の冬期講習から数えて、
今年は27年目の冬期講習を迎えます。

明日23日から1月4日までの冬期講習期間中は、
朝8時半に塾に入って、
ほとんど午前、午後、夜、と毎日授業があります。
31日はお休み、
25、30、1、2、3日は午前中だけの授業ですが、
25日は午後が菩提寺の忘年会、
夜が組の忘年会、と忘年会が続いています。

しばらくは満足にブログを書くことが
できないと思います。
毎日一時間ほどパソコンのまえで、
心に浮かぶよしなしごとを書くのが
日々のたのしみですので、
すこしさみしい思いです。

しばらくのあいだ、ご容赦下さい。

卒業生のみなさん、ぜひコメント下さい!
正月にお会いしましょう!!
(コメント欄で連絡しあいましょう!)


2005年12月21日(水曜日)

表現すること(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時44分47秒

謎をかけられて生まれたものは、
その謎を解くために、
心の森にかくされた秘密の鍵をもとめて、
はるかな旅に出るのです。
その旅人を、芸術家と呼ぶのです。

私が少年期にかけられた謎は、
じつは家の歴史や社会の変動とおおきくかかわっている
と知ったのは、つい最近のことでした。

十代のころから、
私を自縛し苦しめる謎の正体は見えず、
自分の苦しみにすら気づかずに、
ただ不安定なこの身をもてあましていました。

科学者志望でありながら小説を書くようになったのは、
いまにして思えば必然であったように思います。
つまり、私にとって、
小説を書くことは謎解きの作業であり、
まよえる魂の救済でもあったのです。

私は誰なのか、私は社会のどこに属し、誰を友として生きればよいのか。

このあたりのことは、青春自伝小説として、
拙著『蒼天のクオリア』に書きました。

今年の6月に、この歳になってブログをあたえられ、
日々心の遍歴を書きあらわすようになって、
ようやく見えてきた真実がたくさんあります。

私には魂の癒しが必要だったのだと今にして痛切に思います。
私には、音楽も絵画も小説も、そして科学も、
すべて欠くことのできない、まさに生きる証だったのです。
それが私にとっての芸術でした。

ただ面白いからする、という芸術のようなものは、
私には無縁です。


2005年12月20日(火曜日)

表現すること

カテゴリー: - kawamura @ 05時35分48秒

私は毎日ブログを書いています。
いまから四十年ほどまえ、
十代の後半から二十代にかけて、
十年ほど日記を書きつづけたことがあります。

日記を書くのはたのしみにすることで、
他人にお見せするつもりはまったくない、
というと嘘になります。

どなたも日記をお書きになるとき、
いつか誰かの目にふれたときのことをr
かすかに意識して書くのではないでしょうか。

とくに私などは
その当時小説書きにあこがれていましたので、
日記を書くときには、一種の作品を書く気構えでした。

いつの日か自分の全集が発刊されたときのことをr
うっとりと想像しながら、
日記はその末巻に掲載されるはずですから、
みずからの審美眼にてらして、
およそ後世に恥をさらさぬようにと、
意識しながら書いたものでした。

「ただ面白いものをつくっているだけですよ」
というような初歩的な言葉を、
表現を志す者が間違えても口にするはずはありません。

これは、塾の子どもたちのなかに、
「あいつは何にも勉強していないのにできる」
という生徒がいるのに似ています。
それは誰でもあこがれますが、
学んでもいない事柄を知っていることなどあり得ないことを、
大人は常識として知っています。

「ただ面白いものをつくっているだけですよ」というのは、
私は美意識とか批評とかを気にせずに、
自然体でつくっているのにこんなに凄いものができるんですよ、
と言いたいのでしょうけれど、
それこそ、
まわりの眼を意識して自分の才能を美化しようとする、
そのひとの幼稚な美意識が発する言葉としか思えません。

偉大なスポーツマン、
イチローや長島もそうですが、
練習風景はけっして他人に見せません。
それはけっして美しくないからです。
彼らの審美的な意識が、
みずからの苦悶する姿をみせてはならないと命じるからでしょう。

私が若年の日にどのように創作したかについて
以前書いたことがございます。
ふつふつと自然にわいてくる言葉のあわを掬いとって、
あるがままに書きつらねれば作品になるわけではありません。

最後に、原稿用紙の半分を捨てるほどの、
彫琢の作業がまっているのです。

かどというかどをすべて削り落として、
最後に残ったちいさな結晶、
それが私にとって作品とよべるものでした。

それはみずからの審美眼がゆるし、おそらくは、
他人の批評にもたえうるはずの、
美しい我が子のすがたでした。

「ただ面白いものをつくっているだけですよ」
というのは、稚拙な子どもの言葉です。


2005年12月19日(月曜日)

カテゴリー

カテゴリー: - kawamura @ 08時11分08秒

きのうのeコミのクリスマス会、とてもたのしかったです。
そのあとの懇親会で、印象にのこるお話しがありました。

いまでも日本では、なにかを企画するとき、最初に体系から考えるというのです。
企業でいえばコアコンピタンス、なにごとにせよ中核となるコンセプトをきめて、
そのためにはこのようにカテゴライズして、
それぞれにはこのようなデータが必要になります、
といった感じで、なにごとかを始めるまえに、
すでにそれを入れる型ができあがっているというのです。

初めに体系ありき、というのは、
アポロ計画のときのシステム工学などがそうでしょう。
上意下達でものごとが決定された時代には、
そのシステムが有効にはたらくのでしょうけれど、
現在はインターネット社会です。

インターネットは制御できません。
みなさん、このような体系にそってブログを書きましょう、
といわれても、そんなブログを書きたいと思うひとはいないでしょう。

インターネットにおいてさえ、
きれいにしつらえたHPの表紙のように、
会社にせよ個人にせよ、
過去の業績をきれいに体系化してお見せするという時代から、
明日はなにを書くかわからないブログのほうがあらたな潮流になっています。

ブログは生き物とおなじで、
日々変化している私たちの、
まさに人生そのものといってもいいのでしょう。

なまなましい命の躍動から得られる生きたデータが、
国も時間も人種も言語も越えて、刻々ブログから発信されているのです。

体系もなにもありません。
ブログのひとつひとつが細胞のように生きてうごめく
巨大な生命体が誕生したのです。

私たちの命も、なにかの体系のなかに位置づけられて、
この蒼い宇宙に生まれたというわけではありません。

私の書くブログのカテゴリも、
多くを書きつくしたあとにくるもので、
体系にそって書くということの極北に私はいます。

異星人はまた後日。(gureさま、ごめんなさい)


2005年12月18日(日曜日)

異星人

カテゴリー: - kawamura @ 07時36分22秒

長い間塾をやっているたのしみのひとつは、
子どもたちにせがまれてお話しをすることです。

おおきなテストが終わったあとなどに、
なにかお話ししてほしいことはないかな?
と問いかけると、学年にもよりますが、
およそ数種のテーマについてきいてきます。

○宇宙人はいるのか?
○宇宙に果てはあるのか?
○死んだらどうなるのか?
○幽霊はいるのか?
○心霊現象はほんとうか?
○初恋の話をしてほしい
○恋愛の話
○愛と恋とはどのようにちがうのか
○なぜ勉強をするのか
○数学は人生の役に立つのか
○戦争の話
○歴史の話
○生きている意味はあるのか?
○なぜ生きているのか?

まだまだあるとは思いますが、
まあざっとこんなところです。
宇宙、宗教、霊魂、恋愛、勉強、歴史、
そして、生きている理由。

子どもたちは、私たち大人が遠くわすれてしまったことを、
素朴な、そのときだけはとても深い眼をして訊いてきます。

さて、私が話しはじめるときの、きまったフレーズがあります。
「きみたちが知っているか知らないかは知らないが・・」
ここですこし笑いがおきます。

異星人についてはまた明日。(これから仕事ですので)


2005年12月17日(土曜日)

かすり

カテゴリー: - kawamura @ 08時54分28秒

昨夜は、裁判官殿からおさそいの連絡があって、
駅前の「かすり」で待つことにしました。

いってみると、SK氏が飲んでいます。
ひさしぶりにお会いして、まずは一献。
SK氏は、中学・高校・JC・RCの大先輩。
お話しを拝聴いたしました。

そのうちに、江澤氏から電話があって、
30分ほどしてあらわれました。
江澤氏は、静岡学園高校の講師をしていたころの同僚です。

三人でもりあがっているところへ、
真打ち、裁判官殿のご登場。
裁判官殿は、中学1年から高校3年まで、
私の塾に在籍していた教え子です。

深夜まで痛飲いたしましたので、
きょうのブログはこのへんで。


2005年12月16日(金曜日)

ヅガニ

カテゴリー: - kawamura @ 09時32分57秒

モクヅガニなのかモヅクガニなのかがわからなくて
ググッてみると、
ヅガニ料理を売りものにしている民宿などがけっこうあります。

十年ほどまえの夏に、
屋敷をとりまく南沢を涼風をもとめて散策していたとき、
岩と岩とを飛びうつったその瞬間、
水面におおきな影がサッと走ったことがあります。
その速さが尋常でなく、
自分の影を見あやまったのか、
目の錯覚なのかとうたがうほど、
ほんの一瞬のことでした。

沢ガニはよく見かけますが、
それよりはるかにおおきく、
ちょうど片手をおおきくひろげたくらいの影でした。
しばらく気味がわるくて、
新種の生命体に出あったような、
SFのオープニングシーンのようなきぶんでいました。
その話を近所のひとにしたとき、はじめて正体がわかりました。

モクヅガニは、もともと大代川に自生していましたが、
二十年ほどまえの村おこしブームのときに
町の予算でヅガニを放流したことがありましたので、
このとき見たヅガニがどちらのものかはわかりません。
ヅガニそばとかヅガニ汁とかを計画したようですが、
しばらくしてその話は立ちきえました。

私も、学習塾をひとりで立ち上げて今年で27年目になりました。
ですから企画した仕事が軌道にのるまで、
ずいぶん苦労があることは承知しています。
ヅガニひとつでも、それを採算のあう仕事にそだてるには、
じゅうぶんな時間と覚悟が必要です。

やがて老齢化が必至のこの谷間の村に、
なにか自活できる産業をおこせないものでしょうか?


2005年12月15日(木曜日)

キジ鍋はいかが?

カテゴリー: - kawamura @ 09時39分01秒

このごろキジの鳴き声をききません。
あれは春さきでしょうか、オスのキジが二三羽のメスのキジを引きつれて、
むこうの竹藪のあたりからこちらの大代川まで、
ときおりかん高い声で鳴きながら、ゆっくりと窓のそとを通りすぎてゆきます。

春から夏にかけての季節には、ほとんど毎日みかけます。
きのうの狸ではありませんが、餌付けして繁殖させて、
「キジ鍋はいかが?」というわけにはいかないでしょうね。
キジは国鳥ですから罰せられるのかもしれません。

たぬきもキジも、やはり自然のなかで、
季節の風を満喫しながらたのしそうに生きている姿が、
私は好きです。

野生児のようにしてそだった私ですから、
すべての野に咲く花も、生き物たちも、
みんな友達のようにしか思えません。

キジ鍋は、やはり私には無理のようです。


2005年12月14日(水曜日)

たぬき汁はいかが?

カテゴリー: - kawamura @ 08時49分10秒

このところよく見かけるたぬきです。

たぬき汁はいかが?
と言ったら動物愛護団体が怒るでしょうね。
たっぷり餌付けして、まるまるふとらせてからたぬき汁、なんてことはいたしません。

近所のひとたちが、ちかごろ鹿や猿をよくみかけるようになった、と言っていました。
なにかおおきな異変のまえぶれでないと良いのですが。

地球規模で気候が変化して、奥山の食べ物がなくなっておりてきたのかもしれません。
地球も人体とおなじで、その仕組みを調べると、おもわず「神は細部に宿る」といいたくなるほどの精妙細緻なシステムのうえに成り立っているようです。
そのシステムがほんの少しバランスをうしなったとき、ホメオスタシスがはたらいてそれを元に戻せるうちはよいのですが、その限度をこえると、人体でいえば治療の必要な病気が、地球でいえば修復の必要な環境破壊が起こるのです。

地球の医者はいませんので、世界が手をこまねいているあいだに、ゆっくりと、しかし確実に、その破局がちかづいているのかもしれません。
そうでないことを祈りつつ、ときおりあらわれるたぬきとたわむれています。

ところで、これはほんとにたぬきでしょうか?


2005年12月13日(火曜日)

ネコパンチッ!

カテゴリー: - kawamura @ 07時55分11秒

娘からきいた話です。
その家のネコのぐあいが悪くなって、医者につれて行くと、
いろいろ調べたあげくに、
「仮病ですね」
と言われたというのです。

そのまま飼い主は家にかえって、なぜ仮病をつかうのだろうと考えました。
そして、ネコの敷いていた布が亡くなったまえのネコのつかっていた敷布ままだった、
と気づいてその布をとりかえました。
たちまちネコは元気になった、ということです。

ネコはほんとうに利口なのかどうか、理解に苦しむところがあります。
名前をよべばニャーとないてこたえますので、記憶力はあるようです。

エサがほしいときなど、寝ている私の顔を、いわゆるネコパンチでつつきにきます。
はじめは、それを愛情表現とかんちがいして、ずいぶん気に入られたものだとやにさがって、
ほおずりしていたものでしたが、あるとき、あんまりいつまでもやめないので、
エサをやればそっちに行くだろうとおもってエサ場に行くとエサを入れる器がからでした。
それで気づいたのです。
エサがほしかったんだと。

それからはネコパンチをくらうとすぐに、からの器にエサをみたしてやることにしています。


2005年12月4日(日曜日)

開山忌

カテゴリー: - kawamura @ 19時37分28秒

11月二十五日は、菩提寺龍燈山法昌院の開山忌でした。
朝九時から午後一時ごろまで、お役を務めてまいりました。

今日は以上。


2005年12月3日(土曜日)

帰還

カテゴリー: - kawamura @ 21時49分05秒

ただいま名古屋から帰りました。
疲れました。

ブログはまた明日。


2005年11月26日(土曜日)

NHK岡田浩暉さん来訪

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分48秒

20人ほどのスタッフとともに、岡田浩輝さんという方が俳優としておみえになりました。
岡田さんは、はじめは歌手としてデビューされて、いまは俳優業をおもになさっているということです。

最初に岡田さんと私と妻と三人で写真をとりました。

いままで何度か「河村家」でのTV撮影現場を見てきましたが、これほど大がかりなものははじめてでした。
テレビ朝日が「ミュージックステーション」の一場面を撮りにきたときよりも手がこんでいました。
雪丸さんという方にお聞きすると、カメラマンがいくつもの賞を受賞された方でとても凝った撮影をする、ということでした。
車4台に積んだ機材はそうとうな量で、ときどき煙を吐くふしぎな機械までありました。
おそらく、あまりにもきれいに晴れた秋の日だったので、空気に煙をまぜて、青い陰翳を出したかったのかもしれません。
まん中にあるのが、謎のイカスミ吐き機

わが家のタンスにしいてあった昭和7年の国民新聞を読む岡田さんr

役作りに集中する岡田さんr

まん中に座っているのが岡田さんr

左がカメラマン、座っているのは監督

私はカメラ小僧に変身しました。
庭で役作りに集中している岡田さんに、ときどき話しかけては、びみょうにじゃまをしていました。

奥座敷にはいると、数枚の光を反射させるパネルを、ほんの数センチずつ何度も何度も微妙に調整をして、見たこともないような装置で固定していました。
仏間までレールを敷いて、カメラを移動させながら、岡田さんを撮影する位置を確認しています。
ときどき、スタイリストが髪をなおします。
マネージャーが呼ばれて、岡田さんに小物を渡しました。
監督は映像だけを見ていて、いよいよ、キュー出しをします。
カメラ小僧もここまで。
カチンコが鳴って、ゆっくりとカメラが動きはじめました。
10秒、20秒、と撮影助手がちいさな声で、10秒ごとに時間をきざみます。

昭和20年の、山田風太郎をとりまく静謐の空間が、眼の前に、鮮明に現れてきます。
しばらくして、監督がOKを出します。
きゅうに空気がやわらかくなって、すばやく、しずかにスタッフが動きはじめます。
すぐに、監督とカメラマンとが映像を確認します。
「もういちど!」
監督が鋭く言い放ちます。

一番凝っていたのは雪を降らせるシーンで、1分20秒ぐらいのシーンのために、3回ほど撮り直していました。

岡田浩輝さんの扮する山田風太郎が、執筆の手をとめてふと立ちあがり、障子をあけて、廊下ごしに雪をながめるというシーンです。
ほかにも山田風太郎の背後から窓ごしに雪を撮り、まえから顔をアップで撮るなど、いくつかのシーンを撮影していました。

午前10時30分から午後2時過ぎまでの約4時間、フルに撮影をしていました。
するどく、短い言葉が飛び交い、すばやくスタッフが動きます。
カメラが回りはじめると、だれひとり身じろぎもしません。
しずかな、雪の降る空間が見事に創造されていました。

狸とともにのんびりと暮らしている私には、張りつめた撮影現場に東京の空気を感じて、いい刺激になりました。

このフィルムは、ラストシーンとしてつかわれるようです。

放送予定は下記の通りです。

NHKハイビジョン特集 戦後60年企画r
「あの日 昭和20年の記憶 〜日記でたどる激動の1年〜」(仮題)
NHK BS2 12月25日(日)21:00〜22:50
NHK hi   12月30日(金)19:30〜21:20

わが家も、激動の一日でした。


2005年11月24日(木曜日)

NHK撮影日は、明日に決定!

カテゴリー: - kawamura @ 08時42分37秒

NHKハイビジョン特集 戦後60年企画r
「あの日 昭和20年の記憶 〜日記でたどる激動の1年〜」(仮題)

放送波 NHKBS2、NHK hi
放送日 12月25日と30日(1時間番組)

撮影時間は、明日11月25日の午前10時から午後2時までです。
雪の降るシーンもあるようです。
ぜひ、河村家におみえいただいて、撮影風景をごらん下さい。


2005年11月20日(日曜日)

きょうは「山芋会」

カテゴリー: - kawamura @ 06時13分27秒

「山芋会」におみえになる方々のために、妻はきのうから奮闘中です。
私も、いまからさまざまのものを母家にはこんで、九時まえに島田の塾を開け、とんぼがえりで十時から「山芋会」です。
後刻、写真などもまじえて、その様子をUPいたします。

eコミのみなさまにご協力いただきまして、「草取り応援隊」「山芋会」ともに無事終了いたしました。
有り難うございました。
また、石川喜一郎さまは、森町から草刈り機持参でご参加下さいまして、家内ともども感謝いたしております。
今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
拙著の感想などもメールいただければ幸甚に存じます。

本日は本当に有り難うございました。


2005年11月17日(木曜日)

真実のセレンディピティ(「脳」整理法(4))

カテゴリー: - kawamura @ 04時34分38秒

昨夜は、友人の近藤一成君が、11月9日に静岡市昭府町にOPENした海鮮食家「福一丸」に招待されました。
本業の「福一漁業」の専務をしている弟さんの近藤大輔さんにもお会いして、帰りは車で送っていただきました。
どうも有り難うございました。

さて、きのうにつづいて「幸運にめぐりあう能力」セレンディピティのお話しです。
このふしぎな物語は、「冑佛伝説」として来春発売予定です。

すべては、河村家に伝わるひとつの伝説からはじまりました。
きょうもまた、拙著「蒼天のクオリア」から引用します。

******************************************r

いったい私は、なにを思いわずらい、さまよってきたのか。
本当に、私は不幸だったのか。
たしかに両親を失い、家を支えるために夢を捨てたことは事実だ。
いや、ほんとうに事実なのか。
科学者になる夢をあきらめたというが、それほどの努力と研鑽を積んできたのか、あるいは、二十歳そこそこの若者に、捨てるに忍びないほどの文学の業績があったとでもいうのか。
自らの無能を、運命という言葉にすりかえて、ただ酒を浴び、幻の悲劇を演じてきたのではなかったのか。

父を癌で失い、母を卒中で失ったが、それが、私だけに科せられた、天を仰ぐほどの不幸だったのか。
仕事は適度に成功し、幾ばくかの金も手にして、私は、いまパリにいる。
いったい、なにが不幸だったというのか。

旅から戻って、人が変わったようだと妻からいわれた。
塾のために生きようと、私が決めたからかもしれなかった。
実際、私が現実に立っているのは、小さな塾の床の上でしかなかった。
しかし、立っているそこが私のすべてであり、その他には無い。
私はそう胸に念じて生きることにした。
生きる場所はどこでも良いのだ。
そこに徹して生きれば、必ず救いの手はさしのべられる。
いや、徹して生きることが即ち救いなのだ。
随所に徹すれば立所は皆真であると、学生時代の知識がようやく命を吹きこまれて、塾で働き、家を守る、それが自分の人生であると、あかるく現実を受け入れることができるようになった。

そのとき、冑佛があらわれたのである。
疲れはてた私のまえに、突然天上の彼方から透明な光の手がさしのべられ、ゆっくりとひらかれた光のてのひらのなかに、冑佛が微笑んでいたのだ。
それは、家を守る、と時代錯誤の一念に身を投じた私を憐れんで、御先祖様がさずけてくれたご褒美のようだった。

冑佛(かぶとぼとけ)。
それは戦場で、御先祖様が兜の中に入れて戦った仏さま。
静岡県島田市の河村家に伝わるこの伝承が、すべての出来事の発端だった。
冑佛と言い伝えられてきたちいさな仏像が、やがて目醒めて、戦国武将の秘められた内面を語りはじめるとは、まだ誰も知らなかった。
ふだんの冑佛は、仏壇の御本尊の大きな厨子の中に脇仏として祀られ、高さ七センチほどの厨子の中に納められていた。
像高僅か二センチ、ちいさな宝冠をいただき、智拳印を結んだ大日如来である。


2005年11月16日(水曜日)

はじめてのセレンディピティ(「脳」整理法(3))

カテゴリー: - kawamura @ 07時55分58秒

最初のセレンディピティは、大学生の雪の夜のことでした。
その夜のふしぎな出来事は拙著「蒼天のクオリア」に書きましたが、それは私のささやかな人生の最初におとずれた、セレンディピティでした。

「蒼天のクオリア」から引用しましょう。

******************************************r
私はうつくしく静かな大学にもどった。
春の大学は、ちょうど私が入学したときのように、北海道開拓時から大学構内にのこされた原始林の下を、ちいさなせせらぎがながれていた。
明治初年に建てられた恵迪寮のむこうには、広大な農学部附属農場がひろがっている。
遠くで、春をつげるつぐみが鳴いている。
私は、やわらかな風にふかれながら、うつむきがちに、ゆっくりとポプラ並木を歩いた。
文学を失い、もともと自分は科学少年だったと言い聞かせるしかなかった。
実際、中学生のころ、父親の買ってくる湯川や朝永の著作にふれて、科学者への道を目ざしたのは確かだった。
当時北大理学部の助教授をしていた従兄大関邦夫への憧れもあった。

大学へ戻ると、しばらく離れていた量子力学や、錯体化学が、新鮮な姿で私の前にあらわれ、ふたたび私を夢中にさせた。
やがて淡い恋に出会い、あかるい五月の朝、時計台のまえで待ちあわせをして、街を見晴らせる丘を二人で歩いたりもしたが、自意識過剰の私には恋は不向きだった。
ふられたと言うべきかもしれないが、それは学問のために断念したのだと自分に言い聞かせた。

草野球をしていると、草原を渡ってくる風にモーツアルトの旋律を感じた。
生まれ変わったように、すべてが新鮮だった。
そうだ。
あの批評に幻惑されて、かなわぬ文学の夢を見たにすぎない。
夢だ。
私をくるしめた長い夢だったと、ようやくなつかしく思えるようになった。

講座の教授から私にあたえられた研究テーマは、カルコン、というカルシウム滴定試薬の研究だった。
正確にいうと、オルトジヒドロキシルアゾ化合物の溶液内陽子移行反応、というのだが、あまり人は理解したがらない。

カルコンは、水溶液では安定せず、アルコールをすこし加えると安定する試薬で、酸性の度合いによって、黄、ピンク、青に変色するとてもきれいな溶液だった。
実験室にいる誰もがそれぞれ自分のあつかう試薬を愛していた。
コンパなど誰も出席したことさえなく、女性のことなど話題にもならなかった。

博士課程の山田さんは、ちいさなガラス板に展開剤をうすく塗って試薬を分離するという手作業で、XOという化学種の純度をほとんど百パーセント近くまであげると、従来考えられていた性質とまったく異なるふるまいをすることを発見して学位を取られた方だった。
山田さんの話はとても愉快で、蜘蛛のような形のXOが、溶液内で金属イオンをとらえにゆく様子を、まるでスターウオーズのように語ってくれた。
私はといえば、メスコルベンというちいさなガラス容器に、酸性の強度順に並べた9本の色とりどりの溶液が、当時の私の恋人だった。

大雪のある日、いつものように深夜の実験室の床に横になって、床にならべた容器をながめていると、酸性の強い黄色いメスコルベンの底に、なにかが沈殿しているのに私は気づいた。
カルコンが沈殿したのだろうか。
温めれば溶けるかもしれない。
蛇口をひねって、湯沸かし器のお湯に黄色いメスコルベンをあててみた。
突然ピンクに変色したのである。
すぐにその溶液の吸収曲線をとってみると、中性のピンクの溶液と一致した。
カルコンにおけるサーモクロミズムの発見だった。

翌日、藤本昌利教授に報告すると、教授は実験室の床に座りこみ「伊藤君、この現象について話そうじゃないか」と、紅潮した顔で伊藤翼助教授に話しかけたほどだった。
藤本教授は、東大からマックスプランク研究所に留学し、アインシュタインの後任であるノーベル賞化学者アイゲンのもとで学んだあと、三十歳代の若さで北大教授になった方である。
イオン交換樹脂の第一人者でもあった。

私は、カルコンの温度依存性(サーモクロミズム)とPH依存性が一致することを確認し、つづけて、溶媒効果や、カルコンの精製法なども考案したが、いまにして思えば、なにしろ二十歳そこそこの学生の実験だったし、試薬の純度も低かったから、間違いも多々あったのだろうと思う。
しかし楽しかった。
うきうきする日々だった。
溶液の温度を変えると、ゆっくりと、まるで蝶が羽根をひらくように、ナフタレン環の二枚の羽根を回転させるカルコンの様子を、想像するだけでも幸せだった。


2005年11月12日(土曜日)

名古屋の食文化

カテゴリー: - kawamura @ 05時13分45秒

今日は名古屋行きです。
愛知学院大学から帰ってから、名古屋のふしぎな食文化について書こうと思います。

では、いまから出発します。

いま帰ってまいりました。
みそかつ、味噌煮込みうどん、きしめん、ひつまぶし、ういろう、などなど、ふしぎきてれつ食文化については、また後日。


2005年11月11日(金曜日)

NHK BSの撮影

カテゴリー: - kawamura @ 05時41分53秒

きのうの夕刻、突然東京から四人の来客がありました。
NHKBS「あの日 〜昭和20年の記憶」の撮影のために適当な場所をさがしていたところ、市役所から「河村家住宅」を紹介されたということでした。

12月末に、特集番組として長時間放映するための1シーンの撮影をするようです。
ようです、というのは、これは妻が応対したことの伝え聞きなのです。
どうも、それはかなり長いシーンになるらしいのですが、その内容はあまり書かないほうがよろしいでしょう。
ぜひ番組をごらんになっていただきたいと思います。
また直近になりましたらお知らせいたします。

私たち夫婦に出演依頼があったらどうしようと、気をもんでいます。
いまからダイエットしてもまにあいそうにありませんし、おたがいにカメラ写りはどのアングルが一番いいのか、鏡のまえで目線をチェックしあうというようなことは、考えただけでも気分が悪くなりそうですから、もちろんするはずはありません。

いままで何度かテレビに出演しましたが、それはほとんどビデオに収めてありますので、これをDVDに移してネットで見られるようにしたいと思っています。
どなたかに、その技術を教えていただける方はいらっしゃいませんでしょうか?
matsumotoさまいかがでしょうか?

しかし、私の素顔をごらんになったあとでどのように体調を崩されても、それは当方ではいっさい関知いたしませんのであしからず。


2005年11月10日(木曜日)

中部大学

カテゴリー: - kawamura @ 06時02分36秒

きのうは、中部大学の授業にいってまいりました。
大学生に教えるたのしみのひとつは、哲学的な内容をかなりふかくまで語れるということです。
理系の教科を教えていても、それとからめて、この宇宙をいかにして認識するのかというような話を、学生たちは目を輝かせて聞いてくれます。

大学の帰り道に、共感覚について考えました。

共感覚はよく知られていますが、そのように明確ではない疑似共感覚は、だれにも起こるように思います。
トラウマ、と呼ばれるものも、それではないでしょうか。

幼少期の事件が、他人には知りえないような感覚をともなって想起される、たとえばある音がひきがねになって、その記憶がいいしれぬ恐怖をともなってよみがえるというような。
そのときの、色や音、五感のすべてに、驚きや恐怖といった独特の共感覚がむすびつけられて、その個人特有の脳内回路が形成されるのでしょう。

ある色をみるとつよい悦びを感じる、あるいはある味ににたいしてだけなつかしい悲しみを感じる、というふうに、五感のようにヴィヴィッドな感覚でなくても、それよりもうすこし複雑な感情との共感覚はよくあるように思います。

芸術家は、まさにそれで、五感相互に、あるいはさらに高度な複合感情とも、はげしい共感覚をともなって生きているのではないのかと思います。
ある風景に接すると、うねるような生きる歓びを感じるというように、凡人には知りえない独特な共感覚のなかを生きているのではないでしょうか。

以上のようなことを愚考しながら、帰りました。
(じつはこの内容は拙著「蒼天のクオリア」に書かれています。その話をなぞりながら帰った、というとこでしょうか)

土曜日の、愛知学院大学での授業も楽しみです。


2005年11月6日(日曜日)

1106

カテゴリー: - kawamura @ 13時29分54秒

moblog紅葉祭りr 終わりました。


1106

カテゴリー: - kawamura @ 11時37分22秒


紅葉祭りr
みなさん、お待ちしています。
大代親水公園r
大盛況


1106

カテゴリー: - kawamura @ 11時02分11秒


紅葉祭りr
みなさん、お待ちしています。
大代親水公園r
やまめ釣り放題


1106

カテゴリー: - kawamura @ 10時41分45秒

moblog紅葉祭りr みなさん、お待ちしています。
大代親水公園r 綿菓子無料


1106

カテゴリー: - kawamura @ 10時05分37秒

moblog紅葉祭りr みなさん、お待ちしています。
大代親水公園


紅葉祭り

カテゴリー: - kawamura @ 06時58分06秒

きょうは紅葉祭り。
公民館に8:00集合です。
組長として私も参加します。

あいにくの曇り空ですが、おひまな方はどうぞ。

きょうは携帯から投稿します。


2005年11月3日(木曜日)

散策の場所(11/20)

カテゴリー: - kawamura @ 03時14分30秒

とろろ汁コメントバトルは不発でしたので、鯖の水煮缶、醤油味、シイタケだし、このあたりでいかがでしょうか?

午後の周辺散策の場所について、ご希望の場所があればコメント欄にご記入下さい。

 1,龍燈山法昌院、大代神社(1km)
 2,普門山安養寺(500m)
 3,御林(5km)
 4,天王山、大寶神社(1011121314151617181920)(2km)
 5,のうまくさあまんだあば(600m)
 6,野球場(100m)
 7,文殊堂(4km)
 8,秘密の洞穴(5km)
 9,石神尊、水神、稲荷(秘密)
10,梅園(周辺)
11,地の神、さわら石垣防空壕前庭錦木梨の木やまもも、茶部屋(屋敷内)
12,墓所、山桜(50m)
13,銀杏、竹藪(月下の竹林竹斬り殺法開眼)(50m)
14,諏訪原城(牧之原)、横岡城(横岡)、松葉城(掛川市松葉)(遠距離)

以上、投稿記事をご参照のうえ、ご希望の場所をコメント下されば幸いに存じます。


2005年11月2日(水曜日)

とろろ汁コメントバトル

カテゴリー: - kawamura @ 07時54分43秒

とろろ汁の作り方についての激論が、フォーラムでつづいていますが、まだ結論をみていません。
第三回コメントバトルでは、ここに広く公論を興し、混迷するとろろ汁の作り方に決着をつけるべく、決然として討論会の開催を宣言するものであります。
題して「正統派とろろ汁の作り方」、白熱するコメントバトルを期待します。

11月20日のとろろ汁は、このバトルの結果によって作り方がきまります。

争点
○鯖をいれるべきか
○味噌味か醤油味か
○だしは、しいたけ、昆布などの、どれがもっともふさわしいのか
○その他ご希望がございましたら、あたらしい切り口で”新とろろ汁”を創造する方法などお教え下さい。

材料の買い出しもございますので、11月15日までに結論をだしていただきたいと思います。

なお、コメント・バトル参加資格は、前回と同じく下記の通りといたします。

1.とろろ汁を愛する方
2.文化財保護に関心のある方
3.司法関係の方(法律論など)
4.行政関係の方
5.ブログの読者の方
6.無関心の方
7.野次馬

以上、どなたでもけっこうです。

それでは、平成十七年度、とろろ汁コメント・バトルの開催を宣言します。
点鐘いたします。
チ〜〜ン。
みなさん、ただ今より、コメントの書きこみを開始してください。


2005年11月1日(火曜日)

秋の交流会in大代

カテゴリー: - kawamura @ 06時02分35秒

eコミの主催者から、下記チラシが送られてきました。
題して、
秋の交流会in大代

eコミュニティしまだ“秋の交流会”を大代の河村さんのお宅で開催します。
6月のセル交流会も河村家におじゃまして、河村家の歴史についてご当主から講話いただいたり、美味しいお蕎麦を食べたりして、とても楽しいものとなりました(動画)。
今回は、河村家(旧金谷町指定文化財)の文化財保護活動として清掃や草刈り(草刈り応援隊たすけて〜!)などを行った後、メインディッシュ“大代のやまいも”に舌鼓を打とうというものです。午後は、『御林守河村家を守る会』に投稿された場所を訪ねてみようと計画しています。
セル参加者の皆さんのほか、出来るだけたくさんの方に参加いただきたいと思います。
お誘い合せのうえ、ご参加ください。

日 時:平成17年11月20日(日)10:00〜15:00
*雨天決行
場 所:河村家(住所:島田市大代1882、HP:http://www5a.biglobe.ne.jp/~nazoden/
*現地集合でお願いします。
*電車を利用される方、飲酒される方はJR金谷駅に午前9時40分までにお集まりください。タクシーで乗り合わせて行きます。
会 費:1,000円(当日、現地で徴集します)
持ち物:草刈り・清掃道具(鎌、軍手、なた、etc)
スケジュール:
10:00〜10:15 オリエンテーションr
10:15〜11:30 文化財保護活動
11:30〜12:00 山芋(昼食)準備r
12:00〜13:30 昼食
13:30〜15:00 散策会r
*スケジュールは変更される場合があります。
問合せ:eコミュニティプラットフォーム研究会事務局・大塚、前川r
     TEL0547-36-7127  FAX0547-36-7251
E-mail kuukou@city.shimada.shizuoka.jp
申込み:申込み書に必要事項を記入して、提出してください。(締め切り:11月17日)

* すみませんが、申込みはセル単位でお願いします。
* ビールなど、差し入れは大歓迎です。


2005年10月31日(月曜日)

ホテル OPEN!

昨夜は、高校時代の友人で福一漁業の社長、近藤一成君から招待されて、25日にOPENしたホテル「nanvan」(なんばん)に泊まりました。

あそび仲間の片山貴男君もきて、近くで一杯飲んだあと、近藤君のオーナーズルームで小宴会。
片山君は、金型会社の社長さん。ソニーのプレステの金型もつくっているようです。
それに福一漁業の公認会計士もまじえて、和気あいあいとした話は十時ごろまでつづきました。

みんな50歳を過ぎていて、ひとつの時代を生きぬいてきた男たちですが、まだまだこれからという気概を感じて、このところすこし疲れ気味だった私にはいい刺激になりました。

私も、20代の後半に塾をはじめてから、今年の冬には27回目の冬期講習をおこないます。
二十七の春秋を塾ひと筋に生きてきました。

四人で話ながら、それぞれのなにげない言葉に、他人には知りえない深みを感じました。

いい夜でした。


2005年10月30日(日曜日)

大寶神社(20)

カテゴリー: - kawamura @ 07時49分23秒

昨夜は、私の塾に中学高校と在籍した東京地裁の裁判官殿、A君が訊ねてきて、高校生に裁判官の現状などを話してくれました。
彼はかぜ気味ということで、めずらしく一献かたむけることなく帰りました。
そこへ中学以来の同級生たちから電話がきて、午前一時ごろまで飲みました。

大寶神社シリーズ最終回の今朝というのに、すこし二日酔いです。

平成五年の十月、写真家の木村仲久氏が御林守河村家をたずねるところからはじまる「冑佛伝説」は来春発刊いたしますが、あの秋の日が私の歴史研究への出発点でした。
冑佛研究と河村家の歴史探究への旅が、その日からはじまったのです。

あれから十二年たちました。
さまざまのことがありましたが、大寶神社の歴史探索はそれらのなかでも印象深いもののひとつです。
きょうは天王山の眺望を撮影する予定でしたが、あいにくの曇り空で、また後日快晴の日に撮影して、それらの写真をUPするつもりです。

天王山の山頂付近にある大きな井戸は、今は茶園造成の土砂に埋もれて、みるかげもなく草むらに覆われていますが、ほんの最近まで、常時十トンほどの豊かな清水をたたえ、中世と変わらぬ空の色を映していました。
一間四方もある丸太組のこの井戸が、農業用水として使われなくなったのは、昭和の末年ごろのことです。
その昔、天王山を守っていた兵士たちの喉を潤すには充分の水量です。
そして、その兵士たちを守護する神社が、天王山の頂上に建つ大寶神社でした。

「鰐口考」を書いていたころの私は、天王山のふもとのゆるいカーブを車で通り過ぎるとき、いつも山の頂上を見上げていました。
ほんのときおり、大寶神社の跡地あたりに、青空を背景にして助次良の姿が見えました。
それは、笑顔がはっきりと見えるほどのあざやかな姿で、衣の袖の、紺の模様も、ゆるやかな風にゆれていました。
よくやったな、と、私を励ます助次良の、よく透る声がきこえるようでした。

おもえば『静岡県史』資料編の一節からはじまり、静岡大学湯之上隆教授のご指導のもとでまとめた「鰐口考」、その後大阪大学村田修三教授の御来訪、石畳茶屋での「御林守展」、しかしそれらのできごとは、やがてはじまるドラマの序章にすぎませんでした。

ここから、「冑佛伝説」は鮮烈な展開をみせます。

さて、きょうで大寶神社シリーズは終了いたしますが、いままで20日間にわたって読みつづけてくださった方々に、こころから感謝申しあげます。
これからしばらくは、以前のように、こころにうかぶよしなしごとをそこはかとなく書きつづけるつもりでございます。

よろしかったら、ご感想などコメントしていただければ幸甚に存じます。

あすからもどうぞ、このブログをお読みくださるようお願い申し上げます。


2005年10月29日(土曜日)

大寶神社(19)

カテゴリー: - kawamura @ 04時36分12秒

さて、江戸時代の大寶神社はどのようであったのでしょうか。

神社の記録によれば、寛永十六年(1639)に社殿を造営し、元禄九年(1696)と享保二年(1742)、また宝暦四年(1754)にそれぞれ社殿を再建しています。
大寶神社の年貢の減免、いまでいえば減税措置である除地高は、二石五斗八合でした。

大寶神社が建っていた天王山を管理していたのはだれであったかを示す痕跡は意外なところに残っていました。
それは、明治になってから作られた土地の登記簿謄本でした。

謄本によりますと、最初、大寶神社の所有権は帝室林野局長官に登記され、つづいて明冶42年6月5日に帝室林野局から払い下げられて、村社大寶神社にその所有権が移されています。
翌明治43年11月18日にはその社名を大代神社に変更しています。

この経緯を見れば、江戸末期には幕府直轄山林(御林)の内に大寶神社があったことがわかります。
なぜなら帝室林野局管理下の御料林は、江戸幕府の御林をそのまま受け継いだものだからです。

その幕府の御林を明治初年まで御林守として管理していたのが、金谷町大代の河村家でした。
云いかえますと、すくなくとも明治初年の時点では、大寶神社の境内は河村家の管理下にあったことになります。

やがて明治43年(1920)に、大寶神社は大代神社と改称して現在の地に遷座しました。

いまは平成17年(2005)ですから、遷座してから85年後のいま、大代神社の総代のひとりとして神社の運営にかかわっているのは、はるかな宿命を感じます。
去年みなさまのまえでご挨拶をしたとき、古老にすすめられて神社の歴史を話そうとしましたが、目のまえにすわっていたのは幼稚園の子どもたちばかりでしたので、あきらめました。
いつか地元のみなさまに、このブログで書いた内容をお話しする機会がえられればと思っています。

いよいよ、明日は大寶神社シリーズの最終回を迎えます。


2005年10月28日(金曜日)

大寶神社(18)

カテゴリー: - kawamura @ 05時45分34秒

セレンディピティの光芒につつまれていた平成八年の二月に、「鰐口考」を書きおえると、三月から諏訪原城趾のふもとにある石畳茶屋で「御林守展」がひらかれました。

おだやかな春の陽ざしのなかを、おどろくほど多くのひとびとが訪れてくださいました。
「御林守展」は三月五日から六月二日までの三か月におよび、芳名帳は五冊をこえて、千名をこえる人たちが記帳してくださったということは、十人のうちの一人が住所氏名を書いたとしても、じつに一万人以上が「御林守展」を見学されたことになります。

そのとき配布された金谷町教育委員会作成のパンフレットには、大阪大学の村田修三教授の御説と「鰐口考」とをもとにして、このように書かれています。
一部抜粋いたします。

「大代河村家の初代が、相模の河村城(現神奈川県足柄上郡山北町)から、遠江河村荘(現菊川町)の近くの大代へ移り住んだのは、永享十二年(1440年)頃。
初代河村宗心は、松葉城主河井宗忠の三女を妻として、河井氏とともに斯波氏と戦った。
松葉城(現掛川市)が落ち、やがて宗心の守る天王山城も落城するが、宗心の子助次良(大代河村家2代)が、ふたたび大代の地を領し、「大代助次良」を名のることになる。
助次良が、天分7年(1538年)、大寶神社(現大代神社)に寄進したと思われる鰐口(県指定文化財)は、今でも藤枝市北方の安楽寺に保管されている」

この直後に、難産のはてに生みだされた「続冑佛考」が、日本甲冑武具研究保存会の研究誌「甲冑武具研究」に、三月、五月と連載されたのです。

平成八年春のことでした。

つづきはまた明日。


2005年10月27日(木曜日)

大寶神社(17)

カテゴリー: - kawamura @ 07時58分55秒

セレンディピティとは幸運にめぐりあう力のことを言うようで、ググッてみると、このタイトルの映画もあるようです。
まさにそのセレンディピティを授けられていたころのことです。

それは平成五年の秋にかぶとぼとけと出会ってから、数年のあいだつづきました。
大寶神社鰐口の記述をみつけた平成七年、あの秋の朝も、まばゆいセレンディピティのひかりにつつまれました。

それをみつけるとすぐに、静岡大学の湯之上隆教授に電話しました。
中世には、一般のあいだでは文書でつたえることがすくなく、ひとびとは伝えるべきことを直接口頭でつたえていましたから、漢字は音で当てられていた、ということを最初に注意されました。
つまり、大寶神社が大法神社になったり、助次良が助二良になったりするのです。

先生のご教示にしたがいながら、『駿河資料』『駿河記』『修訂駿河国新風土記』『駿国雑誌』などから読みはじめ、やがてあらゆる可能性をさぐりながら、いままでブログに記したような記録や古書籍を調べつくしました。

こまかい論旨は、「鰐口考」をごらんください。

要約すると、大寶天王という希有な神社名は島田市大代と掛川市松葉にしかみとめられず、また、天文七年(1538)に、大代の地に助次良が確認されるのは、現在の島田市大代をおいてほかにないことが結論づけられました。

平成七年十一月十三日、金谷町教育委員会町史編さん専門員片田先生と主任の平川氏とともに藤枝市北方の安楽寺を訪ねました。
安楽寺は鰐口を二つ収集していて、その一つとして保管されていることを確認し、写真撮影などをさせていただきました。

そうして、翌平成八年の二月に「鰐口考」を書きあげたのです。

『金谷町史』資料編にそれが掲載される、一年前のことでした。

つづきはまた明日。


2005年10月26日(水曜日)

大寶神社(16)

カテゴリー: - kawamura @ 05時52分25秒

私の学習塾の、慶応法卒25歳の先生が「大寶神社のお話しはどの時代までつづくのでしょうか?」と笑顔で聞いてきました。
仕事場であまりブログの話をすることはありませんが、「助次良が鰐口を寄進するところで、ひとまず話は終わりにするよ」と答えました。

ご承知のかたもいらっしゃるのでしょうけれど、私が歴史研究に足をふみいれたのは、かぶとぼとけとの出会いからです。
平成五年の秋からはじまったふしぎな物語は、来春「冑佛伝説」としてみなさまのおてもとに届くことでしょう。

しかしそれ以前から御林守河村家の歴史のことはいつも気にかかっていましたから、郷土史などの気になる資料はごく自然に買いもとめていました。
冑佛研究がおもわぬ展開をみせて、収集した資料がどのようにいきいきと声をあげはじめるのか、そのお話しは、もうすこしお待ちいただかなくてはなりません。

十一世紀から十六世紀にかけての御林守河村家の歴史は、その「冑佛伝説」のなかでわずかに幕をあけ、さらにその全容をあらわすのは、先日お話しした「遠江河村荘と河村氏」においてです。
この約百八十枚ほどの「遠江河村荘と河村氏」の原稿は金谷町史の引用文献になってはいますけれど、もうすこし手をいれてから世に出したいとおもっています。

いまみなさまにお話ししている大寶神社の鰐口のことは、そのほんの一部分にすぎません。

「冑佛伝説」「鰐口考」「河井宗忠公傳」「遠江河村荘と河村氏」「蒼天のクオリア」すべてが秘められた糸でむすばれているこれらの作品は、平成六年の二月からいままでの約十年をかけて書きあげました。

これから「御林守河村市平」「製茶監督員河村宗平」を、ゆっくりと書こうとおもっています。

さて、『静岡県史』の一節をみつけて、すぐに静岡大学の湯之上隆教授にご報告するところからはじまる「鰐口考」誕生のドキュメントは、明日から再開いたします。

つづきはまた明日。


2005年10月25日(火曜日)

大寶神社(15)

カテゴリー: - kawamura @ 07時32分24秒

ときどき、凡夫の私にも、しずかなしあわせにみちた日々がおとずれます。
そんなときは西脇順三郎の「Ambarvalia」を思いだします。

 (覆された宝石)のやうな朝 何人か戸口にて誰かとさゝやく それは神の生誕の日

そのような朝でした。
さまざまのくるしみのあとに、小春日和のようにおとずれた、あかるい秋の朝でした。
さまざまのくるしみ、それは「続冑佛考」を生みだすときに味わされたがにがしいこの世の実相でした。
その詳細については「冑佛伝説」にゆずります。

そのころ、私は毎朝四時におきて「静岡県史」資料編の中世を読むのを日課にしていました。
その朝、この記述を目にとめたのです。

  奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日大工又二郎

それは藤枝市安楽寺に保管されている鰐口の銘文でした。
この鰐口は昭和三十三年十月二十日に県の文化財に指定されましたが、その由緒については明らかにされていません。

光にうたれたように、私はその日から調査をはじめました。
平成七年十月のことでした。

つづきはまた明日。


2005年10月24日(月曜日)

大寶神社(14)

カテゴリー: - kawamura @ 08時06分52秒

yfujita氏から、話の全体像をまとめてほしいというコメントがございましたので、きょうは河村家2代目助次良が大寶神社に鰐口を寄進するところまでの概要をお話しします。
きのうと重複するところがありますが、憶えていらっしゃるかたは読みとばしていただいても結構です。

十五世紀のなかば、現在の神奈川県山北町にその城趾をのこしている河村城から、島田市大代の地にうつり住んだ河村一族は、掛川市の倉見川上流の松葉城を居城としていた河井宗忠と連携して、この一帯をおさめていました。
松葉城内には、河井宗忠の信仰する大寶天王が祀られていました。

河井宗忠は、その居城から東へ尾根をひとつこえてすこし南へ下ったところに、深澤山長松院を創建して開基となりました。
また、松葉城から真っ直ぐ東へすすんだところ、現在の大代の地に、龍燈山安養寺を廃して法昌院を創建し開基となりました。
安養寺は現在の地にうつされ、普門山安養寺となるのですが、河井宗忠の縁もあって、長松院との交流は江戸末期までみとめられます。

その中腹に龍燈山法昌院の建つ天王山の頂上に、河井宗忠は、横岡城の鶴見因幡にそなえて砦をもうけ、河村家初代河村宗心に守らせました。
そしてその天王山城内には、松葉城とおなじように大寶天王を祀ったのです。

十五世紀末の遠江は、応仁の乱の余波をうけて、今川氏と斯波氏の勢力が入りみだれ、言いかえれば双方の支配がよわまって、土豪(国人)が自由に行動する力をもっていた地域でした。
遠州東部の地が、東を大井川、西を天竜川に区切られているということも、双方の支配力のよわさに影響していたのかもしれません。
そのような勢力の空白地帯で、今川氏親にくみする河井宗忠は、国人同士の争乱にまきこまれて命を落とします。
明応五年九月十日のことでした。

直ちに今川氏親の報復戦がはじまり、横岡城の鶴見因幡守はほろぼされます。
天王山城を守っていた河村宗心は、今川の援護によって生きのびました。

それからの約十年は、河村宗心はその妻(河井宗忠三女)とのあいだに助次良をもうけて、比較的平穏な日々をおくりました。

その均衡が崩れたのは、十六世紀に入ってすぐのことです。
鶴見因幡・勝間田播磨の残党がふたたび火の手をあげ、ついに、永正二年(1505)六月五日に妻が、六月六日に河村宗心が、あいついでたおれます。
幼年の助次良はいったん寺にかくまわれて一命をすくわれます。

やがて今川氏親による反今川勢の掃討戦がはじまり、河村家2代目助次良は大代の地を回復します。
それからおよそ30年後、壮年となった河村助次良は、祖父河井宗忠が創建し、父河村宗心が死守した天王山城内の大寶神社に、鰐口を寄進したのです。
鰐口の銘文にはこのように記されています。

  奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日大工又二郎

  (大代の助次良が願主として、大寶天王に鰐口を寄進したてまつる。
   天文七年十一月吉日。大工は又二郎)

天文七年(1538)十一月のことでした。

つづきはまた明日。

(yfujitaさま。これくらいでよろしいですか?もうすこしくわしいほうがいいですか?)


2005年10月23日(日曜日)

大寶神社(13)

カテゴリー: - kawamura @ 08時18分51秒

平成九年九月。
悪夢が空から舞いおりてきました。
しかしそのお話は、来春発売予定の「冑佛伝説」にゆずるとして、ここでは大寶神社に焦点をしぼってお話しをつづけます。

十五世紀のなかば、神奈川県山北町にその城趾をのこしている河村城から、島田市大代の地にうつり住んだ河村一族は、掛川市倉見川上流の松葉城主河井宗忠と連携してこの一帯をおさめていました。

このあたりのいきさつを、私が「遠江河村荘と河村氏」と題して拙論をしたためたのは、平成十一年のことです。
金谷町史執筆委員の先生がたには、これをお読みいただいて、金谷町史通史編には私の説が引用されていますし、引用文献として、河村隆夫「遠江河村荘と河村氏」、と掲載されています。
この拙文は、もうすこし手をくわえてから、機会をみて発表しようとおもっています。

さて、大代河村氏の初代河村宗心の子助次良と大寶神社鰐口との関連を説明するために、おおくの耳なれない固有名詞がでてまいりましたので、それらについてもうすこしくわしくご説明いたします。

河村宗心・・・御林守河村家の初代で、永正二年(1505)六月六日没。
河井宗忠・・・掛川市北部の城主。三女が河村宗心の妻。明応五年(1496)九月十日没。
松葉城・・・・掛川市倉見川上流の山城。河井宗忠の居城。
天王山城・・・島田市大代の、河村宗心の山城。
大寶神社・・・松葉城内と天王山城内に存在した神社。神社名は全国でも希少。

助次良・・・・安養寺過去帳、河村家位牌などに記されている河村宗心の子。河村家2代目。

普門山安養寺、龍燈山法昌院、深澤山長松院などにつきましては、何度もでてまいりましたので省略させていただきます。

1500年前後の遠江は、今川氏と斯波氏の勢力が入りみだれていて、言いかえれば、双方の支配がよわく、土豪(国人)が主体的に行動する力をもっている地域でした。
遠州東部の地が、東を大井川、西を天竜川に区切られているということも、双方の支配力のよわさに影響していたのでしょう。
そのような勢力の空白地帯で、今川方河井宗忠は国人同士の争乱にまきこまれて命を落とします。
明応五年九月十日のことでした。

つづきはまた明日。


2005年10月22日(土曜日)

大寶神社(12)

カテゴリー: - kawamura @ 05時33分56秒

平成九年三月十九日に、大阪大学の村田修三教授がおみえになったのですが、その数日前に私のところに、天王山城のことについて教授にご説明するようにと金谷町教委から連絡がありました。

そのころの私は、ちょうど平成八年の秋に「続冑佛考」を書きおえて日本甲冑武具研究保存会の編集に送ったあと、平成九年三月一日から石畳茶屋でひらかれていた河村家「御林守展」のための資料として「鰐口考」を書きあげ、そのあとの手があいた時期でした。

その日のために、義父鈴木幸三氏にたのんで天王山の立体模型を発泡スチロールで作り、さまざまな資料もそろえました。
当時の私は、『駿河記』などにある発光山城と天王山城との関連を考えていたものですから、それについての資料も持参いたしました。

当日、村田教授は御体調をくずされて現地視察はされませんでしたが、私が持参した天王山の立体模型や地図、資料などをご覧になったあと、教育長室において約一時間ほど、教授は天王山城についての御説を披露されました。

村田教授の論旨を要約すると、次のようになります。

?時代についても、平面的にも、河井氏と河村氏との連合軍が、この地域を領していたものと考えられる。
?大宝神社は、河井氏の宗教領域の境界を示すものであろう。
?天王山が、茫漠とした城として用いられた可能性は充分ある。
茫漠とした城とは、堀や堀切をつくらず、自然の地形をそのまま要害とした戦闘拠点であるが、平時には、例えば大宝神社のように民衆ともかかわっていた。

掛川の松葉城主河井宗忠と大代の天王山城主河村宗心の連合軍(村田教授はそう表現されました)が、倉見川上流から大代川上流の地域を領していたことが、城郭研究の第一人者村田修三教授の口から語られたのです。

私にとっては、至福の日でした。

三月のはじめから五月のおわりまで、三か月間ひらかれた石畳茶屋での「御林守展」は、ことのほか好評で、天に祝福されたような幸福な日々はそれから九月までつづきました。

つづきはまた明日。


2005年10月21日(金曜日)

大寶神社(11)

カテゴリー: - kawamura @ 07時33分09秒

掛川市の松葉城主河井宗忠と大代の天王山城主河村宗心と、双方の城内に大寶神社が存在することで、両者の関係がみとめられた、というところまででした。

ところで全国に、大寶神社あるいは大宝天王社などがどれくらいあるのかを調べてみると、たいへん少ないことがわかります。
「鰐口考」を書いていたころ、神社名鑑や、大学の専門研究者にお聞きして調べたときには、全国で10社にみたないようでした。

この希少な大寶神社の名が、河井宗忠と河村宗心とをつよく結びつける証左のひとつになったのです。

さて、天王山城の所在をしめす記録は『静岡県榛原郡誌』の中にありました。
そこにはこのように書かれているのです。

「前記安養寺は河合宗仲廃して城地となして此所に居り、其附近に法昌院を創して自ら開基となり、安養寺は一時全く廃絶の姿となりしも後年又別地に安養寺を再興せるもの即現時の寺其ものなりと云ふ」

ここまでは先日ご紹介いたしました。
さらに、

「法昌院の附近に一地区あり、これ今川氏の臣河合宗忠の城址なりと傳ふと云へり」

この「一地区」こそ明治四十三年までその頂上に大寶神社が建っていた天王山であった,
と私は考えたのです。

そうして、ようやく話が戻ってまいりましたが、先日お話ししたように、城郭研究の第一人者である大阪大学の村田修三教授が金谷町教育長室におみえになり、そこに私が呼ばれたのです。

つづきはまた明日。


2005年10月20日(木曜日)

大寶神社(10)

カテゴリー: - kawamura @ 06時24分50秒

島田市金谷から西の菊川へぬける道は、いまでも難所です。
バイパス道ができてからはそれでも楽になりましたが、それ以前の東海道、さらにまえの中世古代には、おそらく女性や子どもは難儀したことでしょう。

どの街道でも、そのような難所があると、それを迂回する姫街道がうまれます。
金谷の難所をさけて西へむかう姫街道は、大代川ぞいの道をさかのぼって、庄司からひと山こえ、倉見川の源流にたどりついて、そこからいっきに倉見川ぞいに南へ下って掛川の宿にむかう道でした。
秋には全山が紅葉して、現在ではハイキングコースとしてみなさんが訪れる、景色の美しい道です。

私の住む集落は戸数が10戸しかありませんが、すこし奥の、栗島、という集落には30十戸以上の家が軒をつらねて建っています。
いまでも、みせ、下駄屋などの屋号を残していて、姫街道を越えようとする旅人たちが栗島の集落でひと休みしたことをしのばせるような、なごりを留めています。

さて、その倉見川上流の山腹には、いまも河井宗忠の居城松葉城の石碑が残されていて、そのふもとに松葉神社が建っています。
その鳥居には、「大寶天皇」と書かれた額がかけられているのです。

静岡県神社庁の明細書と神主戸塚操氏によれば、河井宗忠の居城内にあった大寶神社を、明治四年に松葉神社と名をあらためて現在の地に遷座したということです。

河井宗忠の信仰が大寶天王であったことが明らかになったのです。
大代の天王山に明治四十三年までたっていた大寶神社と、それはまさに符合し、河井宗忠の松葉城と河村宗心の天王山城が、大寶天王への信仰によってむすばれたのです。

つづきはまた明日。


2005年10月19日(水曜日)

大寶神社(9)

カテゴリー: - kawamura @ 07時10分10秒

きょうはきれいに晴れました。
のぼりを降ろせます。
ところで、神社の鳥居のまえにたつのぼりのほかに、大寶神社の領域をしめす二本ののぼりが、県道ぞいに、大代の入口とわが家のまえとに立っています。
わが家より奥は、白山神社の領域です。

さて、大阪大学の村田修三教授が天王山城の調査におみえになったという話のあと、安養寺と長松院とをむすぶ古文書がみつかったこと、それによって、河井宗忠、その菩提寺の長松院、かなり古くからある安養寺、それを河井宗忠が廃して創建した法昌院、龍燈山法昌院の鎮守河井八幡、河井八幡を代々祀り、河井宗忠の三女が嫁した御林守河村家、それらがはっきりとした線でむすばれはじめたのです。

いったいタイトルの大寶神社はいつあらわれるのか、と気をもまれる方もいらっしゃるでしょう。
これから、河井宗忠と大寶神社とのかかわり、そして宗忠の孫にあたる河村家2代目助次良のことを、いよいよ書きはじめましょう。

いまの大代神社と法昌院が建つ山の中腹から、さらに山の頂上まで登ると、美事な眺望がひらけます。
西につらなる尾根のむこうに河井宗忠のまもる松葉城、正面には牧之原台地の東端にある武田勝頼築城の諏訪原城、東南の方向には河井宗忠を急襲して滅ぼした鶴見因幡守の横岡城、これらのすべてが一望できるのです。

この山は、いまも天王山とよばれています。
この頂上に、明治四十三年まで、大寶神社が建っていました。

じつは、大寶神社はもうひとつあったのです。

つづきはまた明日。


2005年10月18日(火曜日)

大寶神社(8)

カテゴリー: - kawamura @ 02時17分46秒

祭りのあとの雨は、関係者を泣かせます。
幟(のぼり)をおろせないのです。
雨にぬれたままでは、のぼりをおろすわけにもいかず、そのうち陽がさして自然にかわくのを待つしかないのです。
しかし今日も雨が降りつづいています。
のぼりの墨書が、すこし雨ににじんだような気がします。

さて、村田修三先生の御来訪から安養寺へ、その安養寺と法昌院と河井宗忠、また御林守河村家との関係は、どこに接点があるのかというところまでお話しました。

意外なところにその接点があったのです。

『金谷町所在文書目録』の第三集「河村家文書」のなかの近世文書に、「安養前住寿山仙翁和尚葬式諸般結算帳」、また「金銭諸払作米取立葬式諸般結算帳」があることをみつけたのです。

そこには安政二年(一八五五)に、安養寺の住職が亡くなって、御林守河村市平が施主をつとめて葬儀をおこなったという記録なのですが、その葬儀に、掛川市奥野の長松院をお招きしていることが確認されたのです。
現在の安養寺あるいは法昌院は、まったく長松院との関係をとどめていず、その関係は想像もできないことでしたが、この文書の存在によって、それらが見事につながりました。

その帳面の裏書きには「比帳面ハ奥乃村長松院様ヘ相納候帳面ニ御座候以上」などとあって、長松院と安養寺との関係が明確になったのです。

それでは、掛川市奥野の深澤山長松院とはどのようなお寺かと申しますと、またそれはそれで、長いお話しになります。
そのお話しは、平成十一年二月の河井宗忠公五百回忌法要のさいに、長松院本堂で私が講演をさせていただいたとき、資料として「河井宗忠公略傳」と題しましてみなさまにお分けいたしました。
この拙文は、表題をクリックすればごらんいただけます。

かんたんに申しますと、深澤山長松院の開基は河井宗忠であって、宗忠は長松院の境内で最期をとげたとされているのです。

つまり、河井宗忠・長松院と、安養寺・法昌院・河村家が、この文書の発見によって、さらにつよく結びつけられたのです。

明日はいよいよ、天王山城にたどりつけるでしょうか。

http://asp5.service-section.com/ecommunity_shimada/Ecommunity/map/?FID=429496731119

龍燈山法昌院


2005年10月17日(月曜日)

大寶神社(7)

カテゴリー: - kawamura @ 08時17分01秒

きのうはあいにくの雨でしたが、大寶神社(大代神社)の祭典は無事にとりおこなわれました。
夕方のビンゴゲームのときは雨もあがり、多くの方々があつまって、ゲームをたのしみました。
あまり見かけたことのない若者の姿が、年々ふえてくるというのは、自分が年老いてゆくというあかしです。
若い男女が祭りの日に笑いあう姿は、力がみなぎるようで、見ているだけでもいいものです。

さて、大阪大学の村田修三教授が金谷町教委におみえになった、というところから話がそれて、安養寺の謎に行きついたのでした。
ところで、村田修三教授は日本城郭研究の第一人者ですが、ご興味がおありの方はネットで検索されると、教授がおおくの御著作を書かれていることがわかります。

『遠江古蹟図絵』に書かれている安養寺について、『静岡県榛原郡誌』はそれを受けて、
「因に云、前記安養寺は河合宗仲廃して城地となして此所に居り、其附近に法昌院を創して自ら開基となり、安養寺は一時全く廃絶の姿となりしも後年又別地に安養寺を再興せるもの即現時の寺其ものなりと云ふ」
とあります。

つまり、掛川の松葉城主河井宗忠が、『遠江古蹟図絵』にある龍燈山安養寺を廃して、そこに龍燈山法昌院を創建して開基となった、というのです。
さらに安養寺を後年別地に建てなおしたものが、現在の普門山安養寺であるということです。

(根拠が示されてはいませんので、伝承の域を出ないのでしょうけれども、伝承といっても軽んじたものではありません。
「冑佛伝説」が、そのよい証拠です)

安養寺の建てられていた場所については、現在の白山神社脇であるのかもしれないと考えた時期もありましたが、どうもそれではつじつまがあわず、上記『静岡県榛原郡誌』の記述が正しいように思います。

法昌院の開基は河井宗忠であり、また、龍燈山法昌院の鎮守は、白山妙理大権現と宗忠八幡大菩薩とされ、宗忠八幡は今でも法昌院の境内に建っています。
宗忠八幡は河井八幡とも呼ばれて、昭和二十六年九月十五日の祖父河村小次郎による祭文も残されるなど代々河村家によって祀られてまいりました。

「御林守河村家」は永代院号を川龍院と申しますが、川は河村と河井の頭文字、龍は龍燈山の頭文字になっています。
その川龍院河村家の位牌の裏書きや「安養寺過去帳」には、河井宗忠の三女を大代河村氏の祖河村宗心の妻にむかえたことがしるされています。

河井宗忠と河村宗心と法昌院の関係はあきらかですが、それでは安養寺との関係はどのように確かめられるのか、古書籍には記録がありません。
ところが思わぬ身近なところから、それはあらわれます。

つづきはまた明日。


2005年10月16日(日曜日)

大寶神社(6)

カテゴリー: - kawamura @ 06時58分33秒

平成九年三月十九日に、大阪大学の村田修三教授が、金谷町教育長室にお見えになりました。

なぜお訪ねになったかと申しますと、私がその前年の秋、『静岡県史』中世編のなかでみつけた一節を端緒にして、静岡大学の湯之上隆教授のご指導のもとに、金谷町教委とも協力して調査し、翌平成九年二月十九日に「鰐口考」と題した小論考を書きあげたからです。

(湯之上教授は、『静岡県史』のこの一節を、平成九年三月に発行された『金谷町史』資料編一古代中世、に採用してくださいました)

鰐口考」は、全文を私のHPでごらんになることができます。
概要をご説明しましょう。
しかしこの説明だけでもずいぶんながくなりそうです。

『遠江古蹟図絵』から説きおこしましょう。
私は『遠江古蹟図絵』の原本を確認するために、国会図書館に出むいてこの目で確かめてまいりました。
確かにそのなかに、夢窓国師が「京都を立退き遠州に下り給ひ此処に寺を建立す、龍燈山安養寺と云ふ、此寺夢窓国師の開基なり、七堂伽藍の霊地と云ふ」と書かれています。

現在の普門山安養寺は、龍燈山法昌院の小寺で、河村家脇の道を500メートルほど奥へのぼった急峻な崖のうえに建っています。
『遠江古蹟図絵』の「龍燈山安養寺」は、龍燈山法昌院と普門山安養寺の山号と寺名をくっつけたかたちになっています。
なぜそのようなことが起きたのでしょうか。

調べてゆくと、どうも安養寺のほうが法昌院よりも古くからあったようなのです。

明日は、「安養寺の謎」につてお話しします。


2005年10月15日(土曜日)

大寶神社(5)

カテゴリー: - kawamura @ 05時31分53秒

明日は大寶神社(いまの大代神社)の祭典です。
あいにく雨になりそうですが、私は神社総代のひとりとして式典に参加し、午後の余興のときはみなさんにご挨拶をしなければなりません。

少子化はこの谷間の村にもおよんでいて、御輿の担ぎ手や、祭りそのものを運営する若者たちが年をおって減ってきています。
しかし、今年は、大寶神社の建つ高台から見えるところに、サンエムパッケージのおおきな本社工場ができました。
そのちかくの住宅用地も、ひとごとながら売れゆきを心配していたのですが、好評のようです。
このようなうごきが、過疎化に歯止めをかけてくれるかもしれません。

さて、いまからちょうど500年前、遠州一帯が勢力の空白地帯であったことは先日お話ししましたが、河村家の祖先河村宗心は、相模(現在の山北町)河村城からこの大代の地へうつり住み、掛川北部の今川方河井宗忠と連携してこの地を支配していました。

河村宗心は、河井宗忠の三女を妻として、現在の大代神社が建つ高台よりさらに上の、天王山城を守っていました。
天王山城の遺構はのこされていませんが、明治43年までその頂上に建っていた大寶神社の広大な敷地や、井戸のあと、周辺の地名などを総合して、そこがいわゆる「村の城」であったと断定されたのは、大阪大学教授村田修三先生でした。

あすは、天王山城についての村田修三先生のお話をします。


2005年10月14日(金曜日)

大寶神社(4)

カテゴリー: - kawamura @ 05時40分12秒

昨日の「史実は存在しない」というのは極論ではありますが、ひとつの真実ともいえます。
なぜ私がそのようなことを申し上げるのかといいますと、合併後の島田市で、あたらしい「島田市史」が編纂されるとこみみにはさんだからです。

あたらしい「島田市史」の執筆は、おそらく大学の研究者の方々が中心になっておこなわれるのでしょう。
歴史研究者は、新奇な論文を書くためのうぶの資料を好みますし、あたらしい視点を求めがちです。
斬新な視点、といえば聞こえは良いですが、いいかえれば、ふるくからの伝承はくつがえされ、それを信じてきた地域の人々がたいへん困惑するといったすがたを、私はじっさいに見聞きしてまいりました。

それは「掛川市史」に関することなのですが、ここではことこまかには申しません。
ただ、新奇な視点で論文を書くために、市民の伝承をないがしろにすることが、あたらしい「島田市史」では起きないようにお願いしたいのです。

つまり、定説をくつがえす新奇な視点の立論と、ふるくからの伝承による立論と、ふたつの立論が可能な場合、前者は「研究誌」に、後者を「島田市史」に執筆していただきたいのです。

なぜなら、極論すれば「史実は存在しない」からです。
百年も咲く桜の樹が存在するように、史実が存在するわけではないからです。
そのような意味で存在しない史実が、あまつさえ人びとを苦しめることがあってはならないと思うからです。

これから編纂される「島田市史」は、それを支えている市民の立場に立って、市民の励みとなるように執筆をしていただきたいと切に願います。

話が、大寶神社からそれてしまいました。
明日から、河村家2代目助次良、についてお話しします。


2005年10月13日(木曜日)

大寶神社(3)

カテゴリー: - kawamura @ 08時08分44秒

歴史をかじってみると、史実はないことがわかります。
そこには学説があるだけで、史実はありません。
考えてみればあたりまえのことで、古文書があっても、それが史実であるとはかぎりません。
とくに中世以前は、文書もあまりのこされていませんから、わずかにのこされたそれらを組みあわせて、いかに整合性のある立論をするか、というにすぎません。

歴史研究者たちは、その時点で、もっとも論理的整合性のある歴史解釈を創造し、それらのなかで比較的矛盾が少ないと思われるものが多くの研究者たちによって支持され、やがて時代の洗礼をうけつつ生きのびた学説が、ようやく歴史的事実とされてゆくのです。
つまり、ただひとつの歴史的事実があって、それを探しあてるということではなく、私たちがいま歴史的事実としているものは、現時点では古文書や遺物などを総合して考えるとそのような解釈が妥当であろう、というにすぎません。

じっさい、ひとつの古文書が発見されたことで、それまで正しいとされていた学説がくつがえされるのはよくあることです。
「神の手」によって偽造された歴史が教科書に載っていたのも、記憶にあたらしいところです。

この考え方は、先日のハイゼンベルグの不確定性原理に発しているのです。

つづきはまた明日。


2005年10月12日(水曜日)

大寶神社(2)

カテゴリー: - kawamura @ 08時36分03秒

河村家住宅の仏壇にまつられている位牌の裏には、祖先河村宗心の命日、永正二年(1505)六月六日の下に、助次良父、と書かれています。
つまり、助次良は河村家の2代目になるわけですが、これは『安養寺過去帳』にも記されていることで、助次良にまつわるさまざまな伝承は代々当家に言い伝えられてまいりました。

初代河村宗心の妻(墓碑位牌には、自雲妙性大姉、と書かれています)は、掛川市倉見川上流の松葉城主河井宗忠の三女です。
河井宗忠につきましては、今川方であったか斯波方であったか諸説入りみだれているところでありますが、正しくは、河井宗忠は今川方であって、当時斯波氏の影響力が衰えた東遠一帯の、いわば勢力の空白地帯で、明応五年(1495)の横岡城主鶴見因幡守との抗争に巻き込まれて亡くなったのです。

この経緯については、掛川市奥野の長松院『当院開基来由扣記』や、『圓通松堂禅師語録』にくわしくかかれています。

いったんは、今川氏が鶴見氏を制圧してことはおさまるのですが、十年後、永正二年にふたたび反今川の勢力から、火の手が上がります。

予備知識がないと、なにがなんのことやら、ちんぷんかんぷんかもしれません。
筆力不足でまことに申し訳なく、ご興味のない方は、読みとばしていただいて結構です。
そのへんをくわしく書いたものは、ちかい将来に『遠江河村荘と河村氏』と題して刊行する予定ですので、ぜひお読み下さい。

つづきはまた明日。


2005年10月11日(火曜日)

大寶神社

カテゴリー: - kawamura @ 09時11分59秒

島田市大代の大代神社は、明治四十三年までは大寶神社とよばれていました。
それを知ったのは、祖先河村宗心の義父、河井宗忠のことをしらべていた十年ほどまえのことでした。

そのころ「静岡県史」が発刊されたから、それを全巻購入し、毎朝四時に目を覚まして最初に中世編から読みはじめました。
読みはじめてからほんの数日後のことでした。

その一節には、私が長い間もとめていた河村家の草創期にかかわる記録が記されていたのです。

つづきはまた明日。
http://asp5.service-section.com/ecommunity_shimada/Ecommunity/map/?FID=429496731120

大代神社
http://asp5.service-section.com/ecommunity_shimada/Ecommunity/map/?FID=429496731121
明治43年まで、ここに大寶神社がありました。


2005年10月7日(金曜日)

もうひとつの伝説

カテゴリー: - kawamura @ 04時09分30秒

河村の白狐」は、ふるくから言いつたえられてきた伝説で、河村家の周辺ではいまでも信じられています。
実際に白狐を見たというひとたちがいまでもいるのです。

もうひとつの河村家につたわる伝説は、「冑佛伝説」です。
この伝説は近々みなさまに詳細をご披露する予定ですが、わが家につたわる「冑佛伝説」が秘めていた深遠な謎を、ひとつひとつ解きあかしてゆくスリリングな日々は、とぼしい私の経験のなかでもひときわ鮮やかなものでした。
すべてはひとつの伝説からはじまったのです。

ここからさきは、すでに拙著「蒼天のクオリア」に発表した部分を抜粋します。
ちなみに、「蒼天のクオリア」の序文は、茂木健一郎先生が書いてくださいました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そのとき、冑佛があらわれたのである。
 疲れはてた私のまえに、突然天上の彼方から透明な光の手がさしのべられ、ゆっくりとひらかれた光のてのひらのなかに、冑佛が微笑んでいたのだ。それは、家を守る、と時代錯誤の一念に身を投じた私を憐れんで、御先祖様がさずけてくれたご褒美のようだった。
 冑佛(かぶとぼとけ)。それは戦場で、御先祖様が兜の中に入れて戦った仏さま。
 静岡県金谷町の河村家に伝わるこの伝承が、すべての出来事の発端だった。冑佛と言い伝えられてきたちいさな仏像が、やがて目醒めて、戦国武将の秘められた内面を語りはじめるとは、まだ誰も知らなかった。ふだんの冑佛は、仏壇の御本尊の大きな厨子の中に脇仏として祀られ、高さ七センチほどの厨子の中に納められていた。像高僅か二センチ、ちいさな宝冠をいただき、智拳印を結んだ大日如来である。
 幸運なことに、冑佛はまったく未研究の分野だった。その当時、冑佛は誰にも注目されず、お互いの存在を知ることもなく、全国各地の神社仏閣の奥深くに眠っていたのである。まれに伝承がのこされていたにせよ、それは地方の一都市か、あるいはそれよりすこし広い地域で知られていたにすぎなかったし、たとえ知っていたとしても、それはひとにぎりの文化財関係者や博物館の学芸員にかぎられていた。県の教育委員会や県立博物館になるとほとんど知るものはなく、国立博物館や大学関係者では皆無だった。つまり、冑佛についての系統的な研究がなされていなかったのである。調査をはじめた私の身のまわりに、冑佛と河村家の歴史にまつわる不可思議な現象がたてつづけにおきた。やがて、全国各地に点在し、ひとしれず眠っていた十数体の冑佛が、歴史の闇の底から浮かびあがってきた。


2005年10月5日(水曜日)

河村の白狐

カテゴリー: - kawamura @ 07時45分16秒

古い家には、ひとつやふたつの伝説があるものです。
この島田市大代の地にうつり住んでから五百年ほどたつ河村家にも、ひとつの伝説があります。

それは、わが家をまもる白い狐のことです。
ただ、その白い狐は、河村家のひとには見えません。
近所のひとは、いまでもときおりその白狐を見かけるといいます。

応仁の乱のはじまるまえ、永享十年(1438年)八月二十一日に、現在の神奈川県山北町にあった河村城が、大森氏の攻撃によって落城しました。
その後、「駿河記」にあるように、河村家の始祖河村秀高が居住していたことのある遠江河村荘のちかく、現在の島田市大代の地にうつり住んだのですが、そのとき、おおきな白狐が、河村一族のあとを見えかくれしながらついてきたというのです。

この白狐の話を、私は近所のおじさんから何度もくわしく聞くことができました。
妻もいっしょにその話をきいて、とても興味をもったようでしたので、ブログに書くことにいたしました。

(それにしても、科学シリーズは不評のようでした。クオリアにいたる道を、延々と語るのはとても楽しみだったのですが、残念です。ブログの表題にふさわしい歴史の話にもどそうと思います)

これは、白狐ではありません。
先日UPした、ぶ〜、の妹、かりんぷ〜、です。


2005年9月24日(土曜日)

刀を抜いた

カテゴリー: - kawamura @ 04時57分31秒

きょうもまた、去年の秋、別のサイトに掲載した文章を転載します。

「刀を抜いた」(04.09.29)

秋を感じたので、
ひかりのふる奥座敷に正座して、
ひさしぶりに剣を抜いた。

備前長船永光は、
祖先が戦場で実戦に用いた刀で、
すこし痩せている。

庭に素足でおりて、
庭石を足裏で確かめ、
剣を上段にかざし、
一振りで銀木犀の枝を落とした。

香りのつよい木犀の枝を、
仏壇の花生けに挿して、
私はふたたび奥座敷に座った。
刃をしらべてもこぼれはなかった。
砥の粉を打ち、油を引いて、
懐紙でふき取ると、
剣尖に秋のひかりを流した。


2005年9月20日(火曜日)

敬老の日

きのうはは敬老の日、94歳のきさ伯母さんにお祝いの電話をしました。
先日、伯母が、嫁とひ孫とをつれて我が家をたずねてこられたとき、話のなかで聞きもらしたことがありましたので、ついでにそれを聞こうと思ったのです。

それは曾祖父の、外妾の名前のことでした。
明治後期から大正にかけて、曾祖父が製茶監督員として活躍していたころのことです。
東は富士から西は浜松まで、曾祖父河村宗平が取り締まった茶業に関する記録は、「金谷町所在文書目録第三集」に300点ほど残されています。

曾祖父が磐田にかよっていたころのこと、見附のいちばんの芸者さんを落籍して、根岸の河村家別宅ちかくの妾宅に住まわせていたのです。
先日きさ伯母さんからくわしく聞くずっとまえに、私はその話を、妻といっしょに、あるおばあさんから聞きいたことがあります。

ちょうど二十年ほどまえのことです。
根岸の宅地を整地しようとして、妻といっしょにそこに立っていると、ふいにひとりのお婆さんがあらわれて、親しげに、戦後しばらくのあいだ建っていた別宅のことを話してくれました。

「二重の塀にかこまれた家で、それは綺麗な女の人がたずねてきました」
そのひとが、曾祖父に会いにきても別宅の鍵があかないとき、そのお婆さん(宮崎さんでしたでしょうか)の縁側で、曾祖父が帰ってくるのをしばらくまっていたというのです。
すこぶるつきの色白の美人で、芸達者だったということです。

結局、きさ伯母さんもその方の名前はおぼえていませんでしたが、まるできのうのことのように話す伯母さんの声のむこうに、曾祖父河村宗平が立っているようなきがしました。

製茶監督員河村宗平の逸話は、これからも思いだすたびに書いてみます。
(黄泉の国で曾祖父にあったとき、しかられない程度にしますけど)


2005年9月16日(金曜日)

ブログの力

9月2日のコメント欄に、kawai先生の、つぎのような文章があります。
>たくさんの方が読むことができるインターネットは、周囲だけでは関心をよばない内容かなと思っても、実は、似た関心を持った方がどこかで、それを読んでいるというスゴさがあると考えています。

まさに、それを体験しました。

一昨日の日記で、「二○三高地」と題して、父の最後にふれた小文を書きました。
私の日記は、それこそ、心にうかぶよしなしごとをそこはかとなく書いているだけですので、その日の日記も、九月の風にふれてふいに思いだされた父のことを書いただけでした。

ところが、昨日、身近なブログの愛読者から「あのつづきは書かれないのですか?」と聞かれました。
母と私が父の余命を知らされるという話に、どうして興味をもたれたのか、ふしぎに思いましたので、逆にどうしてなのかをたずねました。

その方は、二十一歳のとき父親を亡くされたというのです。享年五十二歳ということでした。

私が父を亡くしたのは、私が二十八歳のときで、父は六十四歳でしたから、私よりはるかに若くして父親を亡くされたのです。
その方が大学生のときで、弟さんは十五歳だったということです。
「悲しみというより、どうしていいのかわからなかった」そう仰言いました。

さだまさしの「防人の詩」をきくたびにおもいだされる父のことは、私だけの悲しみではなかったと知りました。
ひとは自分だけを不幸と思いがちですが、おなじこころをわかちあえるひとたちが、数しれずいるのです。
考えてみれば、肉親をうしなうかなしみは万人のものです。

私のなにげない日記がもつ、おもいがけない力によって、またひとつこころの鍵が、ちいさな音をたてて開きました。
その扉のむこうには、インターネットによってつながる無数の人たちがいるのです。


2005年9月14日(水曜日)

二○三高地

塾をはじめて二年目の夏、私がまだ二十八歳のときのことです。

夏期講習とは言っても、もうひとりの年輩の講師とふたりきりでガリ版刷りの教材をつくって、午前、午後、夜と、若さにまかせて教えつづけたのです。
八月の一か月を塾に寝泊まりして、講習が終わった九月のはじめに、「二○三高地」という映画をみて、その主題歌をくちずさみながら家に帰りました。

父の髪が、真っ白になっていました。

ポリープということで、父は金谷の開業医に通院していましたが、私は、父のあまりにもきゅうな変わりようにおどろいて、紹介状を書いていただき、そのまま父をつれて市民病院にいきました。
診察を受けて、すぐに開腹手術をしました。
母と私が、呼ばれました。

「ながくて三か月です」

父はまだ六十四歳です。
そのとき私のあたまのなかを、さだまさしの歌が、それは「二○三高地」の主題歌でしたが、ながれてきました。

「ながくて三か月です」

医師は、その理由を説明していたようですが、私のあたまのなかには、さだまさしの透きとおるような声がきこえていました。

おしえてください この世に生きとし生けるものの
すべての生命に 限りがあるのならば
 海は死にますか 山は死にますか
 風はどうですか 空もそうですか おしえてください


2005年9月13日(火曜日)

「吾輩は猫である」は、あまりにもおもしろくて、十代のころなんども読みかえしたしあわせな記憶があります。
チョコレートとビスケットとアールグレイをよこにおいて、漱石の世界をさまようのは、至福のときでした。
ユーモラスにえがかれた明治期の知識人たちのなかに、そうしてゆったりとした知的諧謔のなかに、自分もはいりこんでゆくような、とてもたのしめる漱石文学でした。

ところで、内村鑑三の著書名「余は如何にして基督教徒となりし乎」を、いたずらごころでもじったとはいえ、ちょっと大仰なタイトルでしたから、みなさまのご不興をかったかもしれません。
明治初期から現在にいたる「御林守河村家」の歴史は、昨日でひとまず終了して、きょうはわが家の猫の写真でもUPしようとおもいます。
あまりに太っていて、本名の「羅綺」ではなくて、ぶ〜、と呼ばれています。

「余は如何にして河村家教徒となりし乎」につきまして、なにかコメントがございましたらぜひご記入ください。
みなさまのご感想を、お待ちしております。


2005年9月12日(月曜日)

余は如何にして河村家教徒となりし乎(七)

「一葉の写真(その二)」写真をクリックして下さい。

左から一人目、大関邦夫(弘前大学副学長、弘前市在住)
左から二人目、生子哲男(獣医師、清水市在住)
左から三人目が私、河村隆夫
右端が、大関正夫(大関邦夫の父、元文部官僚、没)

大関勝平の、長男の子が大関邦夫、長女の子が生子哲男、次男の子が私。
つまり、三人のいとこがそろったときの写真です。

長男正夫と次男勝弘についてはすでに書きましたが、長女節(せつ)は、国鉄職員生子森太郎に嫁して、清水の別宅に住んでいました。
現在は哲男さんが、そこで生子動物病院を開いています。

この写真は、大関家が坂部をひきはらって弘前へ移転するまえに、一族が参会したときのものです。
背景にお墓がならんでいるのは、先祖供養をかねたからですが、その会には良子伯母さんの実弟石井賢一さんもおみえになっていました。
写真をよくご覧になると、腕をくんだ生子哲男さんのうしろに、良子伯母さんが写っています。
医師石井賢一さんも一昨年に亡くなり、その姉良子伯母さんも今年の5月に亡くなりました。

大関正夫も、生子節も、河村勝弘もすでに他界しました。
三人のいとこが会うこともまれになり、すべてはよき思い出となって、ときおりながめる写真もすこしずつ色あせてゆきます。

最後の御林守河村市平が河村家の将来を託した河村宗平、その宗平が見込んだ飛龍剣の使い手小次郎、宗平の次女喜悦の娘さき、小次郎の兄大関勝平の子勝弘、そして河村勝弘とさきの子である私まで、百年以上の歳月がながれました。

庭にたち、初秋の美しい谷間をながめると、そこには百年のあいださほど変わることのない風景がひろがっていました。

妻と双子の娘たちと、二匹の猫と、思いおもいに、庭先の色とりどりの花を楽しんでいます。
猫は、秋の匂いをかぎながら、花のすきまを歩いています。
娘たちが猫に呼びかけると、如雨露で水をかけていた妻がふりかえります。
やがて妻のよく通る笑い声が、ちいさな花々をまきちらすように、谷間にひろがってゆきます。
ゆるやかな風が流れています。
初秋の森を渡ってくる風が、樹々の葉うらを返し、風の道を白くそめながら、ふもとからゆっくりと山肌を吹きあげてゆきます。

父母の眠る墓地は、その山の中腹にあって、数百年にわたる祖先の人々とともに、私たちをしずかに見守っています。
純白の雲が流れてきます。
輪郭がうすく黄金いろにかがやくその雲を、妻と娘たちと、二匹の猫と、幸福そうに、目をほそめて見上げています。


2005年9月11日(日曜日)

余は如何にして河村家教徒となりし乎(六)

「一葉の写真(その一)」 写真をクリックして下さい。
前列右から一人目、大関勝平の妹、興津町長松本房吉(静岡県第一号の功労賞受賞)の妻、松本そよr
前列右から二人目、私の父河村勝弘の実母、大関みよ(私の父方の祖母)
前列右から三人目、大関正夫(文部省官僚)、河村勝弘の実兄(私の伯父)
前列左から二人目、大草高重(牧之原開墾方副隊長)の娘、石井一松の妻
前列左から三人目、陸軍中佐石井一松の次女、大関正夫の妻、大関良子(私の伯母)
中列右から一人目、河村宗平の長女、河村千年世(私の祖母)
中列右から三人目、河村勝弘の実父、大関勝平(私の父方の祖父)
中列中央(右から四人目)、陸軍中佐石井一松
後列中央(右から三人目)、河村勝弘の父であり伯父でもある、河村小次郎(私の祖父)
後列左から一・二人目、大草高重一族

この写真は、父河村勝弘の実兄大関正夫の、結婚式の写真です。
結婚式は、徳川慶喜の別邸だった浮月楼でとりおこなわれました。
太平洋戦争がはじまるまえのことです。

大関正夫は大学在学中に高等文官試験に合格して、卒業後文部省の官僚となりました。
正夫の父大関勝平、また勝平の実弟河村小次郎は、中條や大草といった牧之原開墾方隊長、副隊長と懇意にしていましたから、幕府直参旗本石井家の次女良子を、文部官僚大関正夫の嫁としたのです。

石井一松は、日露戦争で頭に銃弾をうけ、生涯頭蓋のなかにその弾丸がはいったままでした。
一松は、写真にみるように、のちに陸軍中佐となりましたから、その銃弾が軍人としての栄達にわざわいすることはありませんでした。
それでも一松の晩年に、私の父河村勝弘がたずねたとき、話のとちゅうで、ふと、頭中の弾丸のことを気にするようすがあったようです。
没後、葬儀のとき、お骨のなかにそれをみつけたと父が話しておりました。
おそらくその弾丸は、いまでも島田市竹下の石井家にのこされていることと思います。

やがて敗戦をむかえ、河村家、大関家ともに、昨日お話しした農地改革にみまわれることになりました。


2005年9月10日(土曜日)

余は如何にして河村家教徒となりし乎(五)

敗戦時、日本の本土は戦場にはならなかったけれども、やがてGHQがおこなった制度改革は、革命以上の変革を日本にもたらしました。
階級制度の廃止や財閥解体などのほかに、わが家を直撃した農地改革もそのひとつでした。

国が、地主のもっていた農地の所有権をじっさいに耕作していた方々へ、ほとんどただ同然の低価格で強制譲渡したのです。
その結果、地主制は解体されました。
わが家もそのとき、地主のひとりとして多くのものをうしないましたが、いまにして思えば、これは歴史の必然だったように思います。

それらの改革は、日本に民主主義をもたらし、その後おとずれる奇跡的な経済復興の基盤をつくりました。
ひとびとは平等なスタートラインに立って、あたらしい民主主義国家の建設に邁進したのです。
しかし、陽ざしがあざやかなほどその影は濃いように、民主や平等の讃歌がひびくかげで、しずかに没落し、歴史から退場してゆく人びともいたのです。

きょうも「蒼天のクオリア」未発表原稿から、抜粋します。

「農地改革」(写真を拡大して下さい)
昭和二十三年、農地改革が断行された。
河村家も農地のほとんどをうしない、それまで鍬や鎌にふれたことのない父母が、その日から、法のもとで農業に従事することになった。
旧地主階級にかぎって、本人が耕作しない農地は強制的に国に没収されたから、のこされた土地を、旧地主自身が耕作するほかはなかったのである。

祖父母にとって、それがどのような衝撃であったかは、はかりしれなかった。
教育職をしりぞいたあとは名誉職について、年貢米を倉におさめ、山林を経営して余生をおくっていた祖父が、一夜にして、ほとんどすべてといってよいほどの農地をうしなったのである。

その日をさかいにして、河村家の決定的な没落がはじまった。
それは河村家にとって、明治維新のときに御林守の地位や刀をうしなったことよりも、さらに強烈な打撃だったろう。
誰の目にも河村家は末期の姿だった。

いまにしておもえば、祖父は幕臣から真剣の指南を承けた心形刀流の剣士であり、父は師団の銃剣術で優勝した実戦殺人剣の達人だった。
祖父には、「飛龍剣、龍車刀免許之証」、父には「金鵄勲章」と「師団銃剣術優勝之勲章」のほかにもおおくの勲章があった。
鬼武者の二人が、農地改革によって闇の底に突きおとされた漆黒のわが家で、鬱屈する憤怒とともに同居していたのである。
しかも祖父、父のふたりとも入り婿として、大代にひとりの知りあいもなく暮らしはじめたのだ。

父には、発足してまもない自衛隊からの勧誘や、十三軍司令部の参謀たちから仕事のさそいもあったようだった。
しかし、武士道を生きた彼等は、悲運に背を向けることを潔しとしなかった。
祖父も父も養子でありながら、一言の愚痴もなく、この谷間の家「御林守河村家」を守るために生涯を捧げたのである。


2005年9月9日(金曜日)

余は如何にして河村家教徒となりし乎(四)

父がもとめた聖書の裏表紙に、父らしい几帳面な字で「35.4.20 静岡谷島屋にて」と書かれ、その下に、「歴史は単に死んだ過去の記録ではない」としるされています。
学生時代に教官からほめられたという文章の一節を、亡くなってから四半世紀以上たったいま、聖書の裏表紙にみつけたとき、まじめな父のおもかげを彷彿して、感慨がありました。

ながいときのながれに洗われた記憶のなかで、ひときわ鮮明な思い出があります。
小学校の高学年のころのことです。
学校からかえった私に、父がキャッチボールにつきあってくれたことがあるのです。
それだけのことなのですが、ふしぎにあざやかに思いだされるのです。
いまはもう倒れてしまった塀を背にして、父は、笑顔で私のなげるたまを受けとっています。
そのとき、わらいながら私になにかを話しかけてくるのですが、それはおもいでのなかの遠い声で、耳をすませてもきこえません。
なつかしいその声がきこえるのは、いつか私が、父母の世界へいったときかもしれません。

すべては半世紀ちかくまえのことで、川底の砂金をさがすように、ときのながれにぬれた手のひらに、きらめく記憶だけがひかりをあびて輝いています。

きょうもまた拙著「蒼天のクオリア」から、未発表原稿の一部を抜粋します。

「父」(後列右が、父)

終戦を迎えると、母さきの許婚であり、祖父小次郎の兄大関勝平の末子でもある大関勝弘が、上海からの復員と同時に河村家へ入籍することになった。
父大関勝弘は、生まれたときから河村の家へ婿養子にはいることがきまっていた。
父方の祖父大関勝平も河村小次郎とおなじ不在地主で、農地の差配は家人にまかせて、自分は遠く離れた別宅から精油会社に勤めていた。
明治から昭和初期にかけてのことである。


(父方の祖父、大関勝平)

父は貿易港のある清水市内の家で生まれ、主席で入学した旧制庵原中学から大学予科へ合格すると、まもなく徴兵されて、やがて中国に赴任した。
中支派遣軍第十三軍が上海のキャセイホテルを接収し、そこに軍司令部参謀部付の将校として勤務した。父の住居はブロードウェイマンションだった。
やがて敗戦となって復員して、河村家へ入籍したのが、いまから約六十年ほど前のことである。
大都市上海から帰国した清水市生まれの父が、当時の大代にとけ込むのには、なかなかの苦労があったにちがいない。
父はおそらく、なにがしかの名誉職にでもついて、穏やかな田園生活を送ることを約束されて、河村家に婿入りして来たのだろう。


2005年9月8日(木曜日)

余は如何にして河村家教徒となりし乎(三)

母がとりよせている雑誌の名は「きさらむ」であると、ながいこと思っていました。
ずいぶん成長してからそのことを母にいうと、笑いながら、横書きの文字のよみかたが昔といまとでは反対で、それは「むらさき」なのだとおしえられました。
母が島田高等女学校時代によんだ本も、たくさんのこっています。

カール・ブッセの「山のあなた」や、アルファベットの歌や、パール・バックの「風と共に去りぬ」の話などをなんども聞かせてくれました。
とくに、こわいはなしの、間のとりかたが上手でした。
ずいてん、という名のお寺のこぞうさんときつねの話は、夜の谷間のまっ黒な家のなかで聞いていると、きゅうに恐くなって、「ずい〜てん」と、家の戸をたたく音がするようなきがして、兄弟で身をよせあったものです。
だれにとっても自分の母親は美しいものなのでしょうけれど、こわい話をしているときの母は、いっそう美しくみえました。

きょうも、「蒼天のクオリア」未発表原稿の、母についての部分を抜粋します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「母」

母河村さきは、祖父母とともに赴任先の各地を転々としたから、当然、祖父母とおなじように幼少期から大代の地を踏むことはすくなかった。
母からよく聞かされたのは、いつも朝の枕もとにはお菓子がおいてあって、母はそれを、おめざ、と呼んでいたということだった。
おそらく一人娘として溺愛されて育ったのだろうから、晩年まで、おちゃめな小娘のようなところがあった。

やがて母が島田高等女学校にかよいはじめた昭和十年代には、祖父母は大代の本宅に帰り、祖父小次郎は地もとの小学校に勤務することになった。

そのころ、満州であがった戦火は、またたく間にアジア全域にひろがり、ついに第二次世界大戦となって世界を巻きこんだ。
曾祖父宗平が他界したのは、戦闘が熾烈を極めていた昭和十八年のことである。


(昭和十四年八月の河村家前面の風景。
写真の中央に、八十二歳の河村宗平がちいさく写っています。
母屋もかやぶきで、玉の木もいまよりたけが高く、このあと雷にうたれて上部がやられたということです。
塀の一部もみえます)

終戦を迎えると、母さきの許婚であり、祖父小次郎の兄大関勝平の末子でもある大関勝弘が、上海からの復員と同時に河村家へ入籍することになった。


2005年9月7日(水曜日)

余は如何にして河村家教徒となりし乎(二)

きょうもまた、拙著「蒼天のクオリア」からの続編とさせていただきます。

祖父母は、私がものごころついたころには島田の別宅に住んでいましたので、大代の本宅に住んでいた私たちとはあまり顔をあわせることはありませんでした。
祖父は気性の激しいひとでしたが、孫にはやさしいおじいさんで、本宅に帰ってきたときにはきまって私たち兄弟にお菓子をくれました。
そのお菓子を父母にみつかると、きつくしかられるので、祖父母のもとをはなれるとすぐに食べてしまいました。

祖父の記憶に、やるせない哀しさがあるのは、おさなごころにも気づいていた祖父と父との対立に源泉があるのでしょう。
そのあたりは、しだいに物語のなかであきらかになってゆきます。

以下、「蒼天のクオリア」未発表部分の抜粋です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「祖父母」
大関小次郎は、金谷町から牧之原台地を南へ15?ほど下ったところにある坂部町で、明治十四年に生まれた。
小次郎は幼くから文武の道をこころざし、剣術は幕府新徴組副隊長中條金之助景昭(かげあき)の子、中條克太郎景明(かげあきら)に真剣の手ほどきを承け、明治三十七年四月、飛龍剣、龍車刀の免許の証を拝受している。
直参旗本であった中條や大草は、大政奉還のとき江戸城に立て籠もったが、勝海舟との談判のあと、牧之原開墾方隊長、副隊長として、大井川西岸の荒地を大茶園とすべく、牧之原に移り住んだのであった。
のちに中條景昭百回忌法要のとき、菩提寺の種月院で御子孫の中條明夫氏とお話をさせていただき、景昭の子景明を、かげあきら、とお呼びすることや、景昭の葬儀委員長は勝海舟で、そのとき明夫氏の御祖父様は勝海舟の膝であそんだことなどをお聞きした。

祖父小次郎は、そのような凛烈の人生を生きた人たちに混じって少年期をおくった。
長じて、静岡師範に学んだときも当然のことながら剣道部に属し、その気性の激しさは部員のことごとくに恐れられていた。
曾祖父河村宗平の思いえがいた男そのものだった。
宗平に請われて、大関小次郎が、宗平の長女河村千年世の女婿として養子縁組したのは、明治三十年のことである。

祖父は、静岡師範をでたあと明治大学を卒業して教員となり、やがて焼津、藤枝の小学校の訓導や校長として各地を転々と赴任した記録が残っているから、祖父河村小次郎が大代の地に足を踏み入れたことはほとんどなかった。

祖母千年世も、明治三十九年ごろから教員として教壇に立つことがあったが、悲しいかなふたりの間には子がなく、大正三年、祖母河村千年世の妹喜悦の末娘さきを誕生と同時に養子として入籍した。
したがって私のなかを流れる河村家の血は、曾祖父河村宗平の次女喜悦を通して、母から受けついだことになる.

(喜悦おばあさんの写真がいま見あたりません。ふたごの娘たちをだいてくれた写真があるはずなのです。喜悦おばあさんが、96歳のときの写真です。
先日、喜悦の長女きさ伯母さんが、嫁と孫娘の三人でたずねてきました
母の姉にあたる伯母さんは、とてもなつなしそうに、なごやがな笑顔をみせながら、曾祖父や母のいろいろな話をしてくれました。
94歳ですが、とてもお元気です)


2005年9月6日(火曜日)

余は如何にして河村家教徒となりし乎

内村鑑三は私の大学の先輩ですから、彼の有名な著作の表題「余は如何にして基督教徒となりし乎」を拝借し、ちょっともじってみました。
彼は天空の星、我は海底のヒトデほどの差がありますが、そこはまあ身のほどしらずを承知のうえで、なぜ私がこれほどまでに河村家の歴史に没頭することになったのかを、連載のかたちで書かせていただこうとおもいます。

古今を貫くことなくすでに忘れさられた私の著作「蒼天のクオリア」に、それはくわしく書かれているのですが、なぜ河村家に埋没したかをひとことで言えば、両親の献身的な人生をみて、というに尽きます。

ここからは「蒼天のクオリア」を発表するときに割愛した文章を、いくつかにわけ、小見出しをつけて連載させていただきます。

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「曾祖父河村宗平」

曾祖父河村宗平は、江戸末期の安政五年に、最後の御林守河村市平の長男として生まれた。
明治維新で刀も地位も奪われた市平は、嫡男宗平に、この家の将来を託した。

宗平は、静岡や東京に遊学したあと、市平に請われて帰郷すると、当時この地域の新興産業であった茶業に身を投じ、はじめは榛原郡製茶傳習所の製茶教授、製茶競技會審査員などを歴任したあと、明治二十九年から二年間、愛媛県喜多郡緑茶製造試験場の教授に招聘され、明治四十年五月には、宇治茶の生産地京都市宇治へ「京都、大阪、滋賀、奈良、三重二府三縣製茶研究所緑茶教師」として招聘された。
このときの委嘱状は、明治期にお茶の製造技術の優位が、宇治から静岡へ移ったときの証拠として、現在も島田市「お茶の郷博物館」に展示されている。

さらに明治四十三年には、お茶の生葉を加熱するための熱風火爐の開発に参画し、榛原式熱風火廬を完成させている。
おそらくは、曾祖父河村宗平のこの血が、私の研究魂の源泉になっているのかもしれない。

宗平はその後、静岡県全域の茶業に貢献することになる。
明治四十三年から四十四年まで、静岡県の緑茶製造にかかわる職を務め、ついで明治四十五年、静岡県製茶監督員を拝命した。
製茶監督員とは、県知事直属の職務で、いわば茶業におけるFBIとして警察権を行使しながら、静岡県全域の茶業における不正の摘発などに目を光らせた。

山間の本宅は、多忙をきわめる彼には不向きだったようで、公職におわれているあいだのほとんどを、宗平は町内の別宅で過ごすという、その当時の典型的な不在地主であった。
本宅は、大津村初代村長駒形蘭氏の娘、妻ちせが守っていた。
大正十一年に職を退いたあと、はじめて宗平は本宅に腰を落ちつけ、茶業史の編纂に加わるなどして大代の地で余生をおくることになった。

ところで宗平には男子が無く、長女千年世、次女喜悦、三女みつ、の三姉妹だけだった。
三人目に男子が授からなかった落胆からか、三女の名だけひらがなの二文字をつけている。
みつは生涯それを不満に思っていたらしいと、みつの長男滝利郎氏(現焼津市在住)から聞いたことがある。

宗平は、長女千年世の婿養子に、刀を奪われて権威をうしなった河村家の相続人として「誰よりも強い男」を探した。
それがやがて私の祖父となる人、大関小次郎だった。


2005年9月5日(月曜日)

考える人

カテゴリー: - kawamura @ 06時30分34秒

フィールズ賞を受賞した広中平祐の言葉に、「数式を解くとき、それは頭のなかを音楽のようにながれる」というものがありました。
考えて式を解く、というのでなく、いくつかの解法が、協奏曲のように頭のなかをながれるというのです。

ずいぶんむかし読んだ本ですので、うろおぼえですが、岡潔も同じようなことをいっていました。岡潔も広中とおなじ数学者ですが、著作ではなく対談集のなかで言っていたようなきがします。
つまり、ほんとうにものを考えているときは、ぼうっとしたかんじで、口元もゆるみ、夢のなかで、あるいは無意識のなかでものを考えているかんじがする、そして、突然、その答えがわかる、というのです。

大賢は大愚に似たり、ということでしょうか。

西郷隆盛は、ぼうっとしていて、ひるあんどんのようにおもわれがちですが、じつはまったくちがって、若くから学問に秀でて、とくにソロバンが得意だったようです。
若年の日は、書の腕もたち計算も速く、いわゆる目端のきく秀才でした。
やがて藩主斉彬に目をかけられて、藩政に参画するようになってから、あの、ぼうっとしたスタイルをとるようになったといわれています。
おそらく、計算などの実務よりもさらにふかい思慮がひつようになったために、自らの思考スタイルを変えたのではないでしょうか。

つまり、脳のはたらきには大別して2種類あって、ひとつは通常の意識的な思考、もうひとつは脳全体をつかうような無意識の思考、このふたつのスタイルで、ひとはさまざまな問題に対処しているように思います。

意識的な思考は、明快で論理的整合性はあるのですが、なにかが欠けています。
無意識の思考は、論理の齟齬(そご)がそこかしこにあるにせよ、ひとになじむ正しい全体像をあたえてくれます。

ああしようか、こうしようか、と言葉で明確に考える利口さとはべつに、はた目にはぼうっとしているようにみえても、言葉になるまえの深い思索の底に、真実の智慧があるようにおもいます。

仕事がらおおくの子どもたちに出会いますが、眼の澄みきった利発そうな子もすばらしいけれど、私はむしろ、ほおづえをついて、ぼんやり窓のそとをながめているような子にも、輝くような将来をかんじます。


2005年9月4日(日曜日)

続々ブログ再開(9/1続々編)

カテゴリー: - kawamura @ 13時34分19秒

9月1日からブログを再開してはみたのですが、まだ調子がでてきません。
お読みいただいている方々にはまことに申し訳ございませんが、すこしのあいだご辛抱いただいて、若年の日の思い出話などにおつきあいいただければと思います。

さて、二十歳のころ、小説書きと物理数学のはざまで苦しんだ、というお話しでした。

そのときの、小説を書くときのぼうっとした感じについて、昨日のつづきを書いてみたいとおもいます。

私流の小説手法は「学んで捨てる」というものでした。
この、学んで捨てるという姿勢は、すべての領域にあてはまるような気もしますが、私の場合は小説書きのまねごとをしていたときに身につけたのです。

つまり、テーマをみつけ、構成を練って、それぞれの小部分を完成させたあと、すべてを捨てるという手法です。
そうして、しばらくぼんやりしているうちに、底のほうからゆっくりと、言葉のあわがうかびあがってくるのです。
その言葉は、自分が書いているという感じではなく、無意識のちからにみちびかれているといったふうでした。
その快感はわすれがたいものがあって、それで小説書きから離れられなくなってしまうのです。

この心理過程は、いかようにでも説明がつくでしょうけれども、完成した作品はそれ自体があやしいひかりをはなっています。
学んで捨てたときに、はじめてそれが命をもつのかもしれません。

この、小説を書いているときの脳の状態は、いわば開放系で、脳全体がはたらいている、といった感じでした。
理系の問題を解いているときの、脳の一部が高速回転しているといった、部分的、閉鎖的な感覚ではなく、ここちよい音楽をきいているときのような、脳全体がゆったりとたのしんでいるといったふうでした。

このふたつの状態について、閉鎖系から開放系へは比較的スムースにうつるのですが、その反対では、苦痛をともなうような感じでした。

しかしこの話は、一流のひとでは様子がちがうようです。
あすは、そのへんについて書いてみたいとおもいます。


2005年9月3日(土曜日)

続ブログ再開(9/1続編)

カテゴリー: - kawamura @ 05時57分20秒

一昨日(9/1)の日記は、理系と文系にさほどの差はないけれど、いちどだけそのちがいに苦しんだことがある、という内容でした。

二十歳の学生が、100枚の巻頭小説の原稿を依頼されるというのは、たいへんなことでした。

そのころの理学部の学生は、朝8時半から授業がはじまって、12時半に午前中の4時間の授業がおわり、30分で昼食をすませて、午後1時には実験台のまえに整列していなければなりません。
実験の説明があって、各自その実験を開始します。
データが完全にでそろうのは、夜の8時ごろでしょうか。
そのあとそのデータを解析して、レポートにまとめます。
完成して提出するころには、夜の10時をまわっています。

下宿に帰って、予習復習のおわるのが夜の1時ごろ。
それから、原稿用紙にむかうのです。

その日課が、月曜から金曜まで毎日つづきました。
100枚の原稿依頼のほかにも、私はさまざまな雑誌や社内新聞などに小説を書いては投稿していましたから、私の大学生活は、ほとんどそのようなスケジュールでした。

当時は、会社も学校も、土曜日の午前中は仕事や授業がありましたから、土曜の午後から日曜の夜までが、自由な時間でした。

時間的な制約もありましたので、私が書くもののほとんどは30枚以内の短編でした。
ですから、100枚というのは、二十歳の私にはすこし重荷だったのでしょうか。

そのとき、つまりその原稿を書いているとき、いやおうなしに気づかされたことがあります。

たとえば、シュレディンガー方程式を解いたあとで小説を書きはじめるのは、それほど苦にはなりませんでしたが、その反対に、日曜日に一日中原稿用紙にむかって、そのあとで翌日の物理数学の予習をやろうとしても、頭がまったくはたらかないのです。

小説のプロットを考えたあとにはそのような苦痛はないのですが、原稿用紙にむかったあとは、数式が解けません。
それは大変こまりました。
ウィークデイの夜は小説を書いたあと寝てしまいますから問題はなかったのですが、日曜の夜は、一日中書いたあとで、翌日の予習をするのですから、そのときは、苦痛でした。

プロット、つまり筋立てを考えるのは論理的な思考ですから、そのまま数式の論理とつながるのかもしれません。
しかし、小説を書くというのは、すくなくとも私の場合は、ぼうっ、とするのです。
ぼんやりと、自分でもなにを考えているのかわからないような、あるいはなにも考えていないような、そんなかんじなのです。
その思考状態は、理系の思考をするときとまったくちがうようにかんじられました。
ぼうっとするかんじ、これはとても気持ちのいいものですが、この感じのままマックスウェル方程式を解こうとしても、まったく、思考が停止したままなのです。

この「感じ」について、以前ほかの日記で書いたものがありますので、明日はその記事を投稿いたします。

(kawai先生、こんなことを書いていて、よろしいのでしょうか?)


2005年9月2日(金曜日)

防災訓練

カテゴリー: - kawamura @ 04時16分34秒

昨日の防災訓練は、8時半にはじまり11時半に終了いたしました。
昨日携帯から投稿した写真を編集してみます。

このほかにも、消火器による訓練、浄水器の点検、バケツリレーなど、もりだくさんのスケジュールを、防災担当委員のもとで手際よくおこないました。

(昨日の「ブログ再開」の続編は、明日投稿します)

防災訓練開始(08:30)
炊き出し(09:00)
倉庫点検(09:15)
消防車出動 班長担当地区へ出動(09:30)
本部へ帰還 報告(10:00)
消防隊員(10:15)
防災訓練終了(11:30)


2005年9月1日(木曜日)

ブログ再開

カテゴリー: - kawamura @ 07時47分29秒

夏が終わって、今日からブログを再開いたします。

きのうは、朝の8時に仕事場にはいり、夜10時に高校数学がおわって、それですべての夏のスケジュールが終了いたしました。

私のブログを読んでいらっしゃる方々は、私がいわゆる文系の人間とお思いかもしれませんが、私は生粋の理系人間なのです。
毎日、毎夜、小学生から大学受験生、あるいはときどきいくつかの大学でも、理系の教科をおしえています。
数学や物理、化学に完全に特化されていて、いわゆる文系の教科をおしえた経験は皆無です。

しかし、ひとを文系理系とわけるのはいたってナンセンスなことで、それは高校三年の数学を選択したかどうか、というにすぎません。
いわゆる純粋理系のひとは、高校数学すべてと物理、化学を履修し、純粋文系のひとは、英語、国語と、社会の一教科とで受験する、といった大学受験の形態をいうだけのことなのです。
数学が好きでも、いわゆる中間理系の国立法学部をめざせば数学は数?Bまでで、数?Cは選択しません。
その程度のちがいしかないのです。

しかし、私はいちどだけ、理系と文系の決定的なちがいに苦しんだことがあります。
それは、いまから35年ほどまえ、私が二十歳のころ、ある雑誌社から、100枚ほどの巻頭小説の原稿を依頼されたときのことです。

当時、私は理学部の学生で、そのころ物理数学を学んでいました。
「仮想仕事の原理」に「Lagrangeの乗数法」を適用するというあたりで、授業の予習復習に追われていたときでしたから、それがおわって、さて原稿を書く時間はというと、深夜1時をすぎていました。
朝は8時半から授業です。
それは毎夜のことでしたが、最初、小説のプロットを考えているときはとても楽しくて、理系と文系の綱わたりにスリルを感じていました。

(いまから、まわりもちの班長として、防災訓練に出てきます。つづきはあした、ということであしからず)


2005年8月25日(木曜日)

第一回大代川水量報告

カテゴリー: - kawamura @ 13時28分55秒

moblog河村山の下(13:20)
定点観測します(島田市大代岡穂平)。
まだ、やや強い雨、と