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2009年3月9日(月曜日)

FM島田の反響

カテゴリー: - kawamura @ 09時33分05秒

反響は、まだございません。

電話のまえで、じっと待っています。

(いま、友人のK君から電話が入りました)

本日は、ここまで。


2009年3月6日(金曜日)

恩義

茂木健一郎先生への恩義を
私は終生忘れることはありません。

『蒼天のクオリア』の序文は、
私がこの世に生きている存在理由そのものでした。

『冑佛伝説』の序文も書いていただきましたが、
実はそれだけではないのです。

あまりのことに、
これまでおおやけにしてこなかったことを
あかそうと思います。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_6.html


2009年3月3日(火曜日)

冑佛について

カテゴリー: - kawamura @ 09時49分51秒

来週月曜日、
3月9日午前9時からFM島田で放送される『冑佛伝説』の取材は、
昨日終わりました。

すべてはひとつの伝説から始まりました。

「冑佛(かぶとぼとけ)
 それは戦場で、ご先祖さまが兜の中に入れて戦った仏さま」

この伝説が、すべての出来事の発端でした。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_3.html


2009年3月2日(月曜日)

FM島田の取材

カテゴリー: - kawamura @ 07時47分10秒

FM島田の取材がもうすぐみえます。

冑佛(かぶとぼとけ)のことについてです。

それで昨日から『冑佛伝説』を読みかえしていたのです。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_2.html


2009年3月1日(日曜日)

冑佛への回帰

カテゴリー: - kawamura @ 07時58分03秒

ゆえあって
冑佛(かぶとぼとけ)の世界へ戻っています。

それはなぜなのか、
明後日みなさんにご報告いたします。

御林守河村家につたわるひとつの伝説から、
すべては始まったのでした。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_1.html


2008年12月11日(木曜日)

河村祭(18・最終回)

カテゴリー: - kawamura @ 06時01分33秒

(写真は拙著『冑佛伝説』 脳科学者茂木健一郎先生に序文を書いていただきました!)

そうそう、忘れないうちに
河村祭のお話しを終わらせることにしましょう。

平成20年9月27日土曜日のことでした。

神奈川県山北駅前の老舗旅館
「旭屋旅館」の女将に、
河村たけおさん、とよばれて
すっかり官房長官の気分でいたあの日のことです。

(実際、官房長官河村健夫氏も
 般若院へよくお見えになるようです)

それはほろ酔いのまま、頬杖をついて、
皇太子妃雅子様を一族にもつ大萱生氏と
閑談していたおだやかな午後。

河村氏の祖河村秀高の、
嫡男三郎義秀の末裔である金谷河村氏として
私が招待され、
四郎秀清の末裔である奥州河村氏として
大萱生寿氏がその日河村祭に招かれたのでした。

後日大萱生氏は
ご自分でお書きになった『大萱生家の歴史』を
送って下さいました。

それをなにげなく読んでいたときのことです。

52頁に山屋氏の略系図が書かれています。

大萱生氏の血をひく山屋氏とは、
皇太子妃雅子様の一族で、
その祖は亀森氏を称していたのです。

あの亀ヶ森玄蕃です。

あの、といわれてもお分かりにならない。

もっともです。

亀ヶ森玄蕃、と聞いて、
ああ、あのかぶとぼとけの、
とお気づきになったとしたら
その方は、
冑佛(かぶとぼとけ)検定一級の資格を
保証します(笑)。

(「島田発の日本史新発見!」として
 「冑佛(かぶとぼとけ)検定」を準備中!(笑))

平成6年10月31日、
私は、河村一族の証しともいえる冑佛を追って、
奥州大迫町まで辿りついたのでした。

花巻市周辺は河村秀清の所領で、
その一帯に
河村一族に由来する冑佛が分布していたのです。

河村祭シリーズの最後に
大萱生氏との不思議な縁を物語る冑佛について
拙著『冑佛伝説』から一節を引用して
連載を終わりとします。

====================

「ところで、盛岡市の正覚寺に、
 中世末の大迫城主大迫右近が兜におさめていた大迫観音、
 それから、
 大迫町亀ヶ森の中興寺にも兜神があったと思いますよ」

 どこにでもあるものでおどろくにはあたらないという話しかたは、
 冑佛を継承している何方(どなた)にも共通のものだったが、
 それならばなぜ、
 冑佛は世に知られずにいたのか。

 なぜ総称もなく、
 系統的な研究の対象にされることさえなかったのだろうか。

 密教と冑佛とのかかわりについて、
 相模河村一族の菩提寺般若院が、もとは真言密教寺院であって、
 わが家につたわる冑佛はその密教の仏、
 大日如来であったと前章にしるした。

 また相模河村城の一帯は修験道のさかんな地域であった。

 まさに今回多くの冑佛が発見された盛岡周辺は、
 早池峰山(はやちねさん)を中心とする修験道と密教の聖地だった。

 ようやく私の眼にも、
 密教と冑佛と河村氏をつなぐほそい糸が、
 うっすらとみえはじめた。
 
 十月三十一日、梅原氏との電話のあと、
 すぐに盛岡市正覚寺に連絡をとった。

「大迫観音は、三十三観音の十八番目で、
 無生観音ともよばれています。
 像高三センチほどの小像で、
 大迫城主大迫右近が出陣のとき
 兜の八幡座におさめたとつたえられる金銅製の観音立像です。
 左手に未敷蓮華をもち、
 右手の方は片手合掌印となっています」

 とのお話だった。

 数年後、家族と冑佛めぐりの旅をしたとき、
 大迫右近の菩提寺である大迫町の桂林寺をたずねたあと、
 盛岡市の正覚寺にも立ちよってこの尊像を拝見させていただいた。

 三糎(センチ)ほどのほんのちいさな金属製の仏像で、
 背中に「無生」の銘がきざまれている。

 つぎに大迫町教委に連絡をとると、文化財係の中村氏が出られた。

「外泊城主大迫右近の兜神が盛岡市の正覚寺にある理由は分かりません。
 中興寺に伝わる亀ヶ森城主亀ヶ森玄蓄の兜神は、一寸八分で、
 厨子に入っています。
 また、この兜神は身代わり観音と呼ばれて伝説にもなっています」

 早速送ってくださった資料「おおはさまの伝説」には、
 つぎのように書かれていた。

   亀林山中興寺には、代々亀ヶ森氏の守護神として、
   信仰の篤かった丈一寸八分(約五・四?)の
   閻浮陀金(えんぶだごん)(純金)の十一面観音が伝わっている。

   これには次のような言い伝えがある。

   亀ヶ森図書の子である玄蓄も仏教を信奉し、
   父の護身仏であった観音様を引きつぎ、
   守り本尊として兜の中に納め、肌身離さず奉持していた。
   主家稗貫(ひえぬき)大和守に反乱し、
   稗貫の家臣である
   槻木下守光治と矢沢左近春眞(次直)に攻められた時も、
   この兜を身につけて戦い出て、
   士卒を励まして戦った。
   その時、一時は危なくなったのであるが、
   やがて勢いを盛り返して、
   ついに敵将の槻木下野守を討ち取ったため、
   敵は列をみだして逃げ去った。
   この戦いの後に、玄蓄が兜の観音さまを拝み見ると、
   光背の一方が欠けていた。
   これは玄蓄が危ういときに身代わりとなったものであった。
   その後も難を逃れることができたのは、
   一度や二度ではなかったため、
   村人達は「身代わり観音」と呼んで、
   その霊験あらたかなることを称えた。

=====================

(これで「河村祭」シリーズを終了いたします。
 あすは、愛にゃん2!)


2008年11月27日(木曜日)

河村祭(17)

カテゴリー: - kawamura @ 06時27分15秒

あの薄曇りの九月の午後、
神奈川県山北駅前の老舗旅館
「旭屋旅館」のロビーに
ほろ酔いのまま頬杖をついて、
大萱生(おおがゆう)氏たちと歓談していた日のことを
もういちど思いおこして下さい。

奥州盛岡の大萱生氏末裔と同席したのでした。

大萱生氏は、
神奈川県山北町に河村城址をとどめる河村秀高の子、
四郎秀清の支流です。

以下、『冑佛伝説』より転載します。

========================

 文治五年(1189)七月、
 源頼朝が奥州藤原泰衡討伐の兵を挙げたとき、
 軍勢催促の報をきいた相模河村城の河村千鶴丸も、
 譜代の御家人として参陣した。

 誕生の朝、河村城の空を鶴の群が舞ったという伝説の若武者千鶴丸は、
 そのとき弱冠十三歳であった。

 八月七日、河村千鶴丸等御家人七騎は、
 阿津賀志山の敵陣に入り、矢をはなつこと度々におよんで、
 先駆けの功名をあげた。

 十一日、頼朝は千鶴丸を召し、父の名をたずねた。

 山城権守河村秀高の四男であると千鶴丸は申し上げた。

 頼朝の官女京極局の子と知って頼朝はよろこび、
 御前において、加々美次郎長清を烏帽子親としてにわかに元服させ、
 四郎秀清と名告らせた。

 そののち河村秀清は、岩手・志和・稗貫の三郡に所領を賜り、
 志和郡大巻の地に居館をかまえた。

 テーブルの上に、岩手の町ごとに彩色された地図がひろがっている。

 冑佛が発見された場所に鉛筆で丸印をつけてあるその地図。

 修験道の霊山である早池峰山の西方、
 花巻市周辺のほんの一地域に、すべての冑佛があつまっている。

 そこが、伝説の若武者、河村四郎秀清の所領だった。

 やがて時代が下って、
 南朝方に与した河村氏は、元中元年河村秀定の孫秀基の代に、
 大巻の地から志和郡佐比内村神田へ居館をうつし、
 応永三年、同地に熊野権現を勧請して鎮守とした。

 熊野神社は、紫波町佐比内字神田に現存している。

 神社のふもとには、
 河村四郎秀清を祖とする神田館主川村喜助の末裔が、いまも暮らしている。

 そして私は、『川村家の歴史』のなかの、
 大正三年四月三日紫波郡役所に報告された「熊野神社宝物調書」の二番目に、
 つぎのように書かれていることを見出したのである。

  熊野神社宝物調書
   品名
  観音立像
   作者伝来
  作者不明、佐比内村神田館主川村喜助代々ノ信仰ニシテ
  出陣等ノ場合ハ髪中ニセリト云口碑有

 奥州の冑彿の分布と、河村四郎秀清の所領が重なり、
 さらにその子孫から家伝の観音立像が現われるとは、思いもよらなかった。

 ここに於て、追いもとめていた冑佛と、河村家の歴史とが、
 左右の掌を合わせたようにぴたりと一致したのである。

========================


2008年4月20日(日曜日)

蕗とオーナーさま

今日のオーナー様は
蕗を採っていらっしゃいました。

それもほそめの
若いふきがお好きのようでした。

のびるが好きなひと
三ツ葉を好むひと
タケノコ掘りに燃えるひと
梅の木オーナー様たちの
さまざまの嗜好を
この里山はかなえてくれます。

キンカンも実をつけたまま
誰にも採られずに
キンカン好きのオーナー様を
まちわびています。

そのうち
梨や
やまももも
会員の皆さまに楽しんでいただけることでしょう。

オーナー様がお帰りになるときに
うれしいことがありました。

奥様が
何かを手にして
駐車場から引き返してきたのです。

「サインをして下さい」

それは『蒼天のクオリア』と『冑佛伝説』の二冊でした。

さっそく慣れないサインをして
拙著を買って下さったお礼を申しました。

「しっかり読んでから、遊びに来ます。
 また違った景色にみえるでしょうから」

ほんとうに有り難いことです。

父の跡を継いでから30年間
家と里山を守ってきてよかったのだと
しみじみと思いました。

鳥のさえずりが
新緑の谷間から聞こえてきます。


2008年4月13日(日曜日)

新聞の反響

カテゴリー: - kawamura @ 06時08分50秒

(写真は昨日お見えになった方々です)

まさか
あれほど大きな新聞記事に取りあげられるとは
思いませんでしたから
その反響の凄まじさにおどろいています。

インターネットでの申し込みは
三日目の今日もまだつづいていますし
来客もございます。

できるかぎり丁寧にお答えしているつもりですが
不手際な点も多々あることと思います。

なにぶん初めての試みではございますので、
ご容赦頂きたく存じます。

ところで
来客の皆様から
御林守河村家の歴史や
その暮らしぶりなどについてのご質問がございますが
それにつきましては
拙著『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』に
くわしく書いてございます。

これからご来訪になる方々も
お読みになってから風景をご覧になると
また深い味わいが得られるものと思います。

ご先祖さまが戦死した
永正二年(1505)以来の500年間
どのようにして河村家が存続してきたのか
御林守河村家の歴史を堪能していただけることと思います。

島田駅前の書店「BOOKS ZEN」の店頭にもございます。

これからは皆様のご期待に添うべく
梅狩りはもちろんのこと、
「御林守展」などのイベントも開催しようと思っています。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。


2008年4月9日(水曜日)

リラの薫る街を

私の仕事場の階下に、BOOKS ZENという本屋があります。

ほとんど毎日顔を出していますが、
先日、「ちくま日本文学」の文庫版を3冊買ったとき、
ZENさんが

「ハードカバーで以前買われていると思いますよ」

私はそれに応えて

「昔の本は全部売ってしまいましたから」

「勿体ないことをしましたね。
 貴重な本もあったんでしょうに」

これは横にいた奥さんの言葉です。

そうなんです、
いまにして思えば勿体ないことをしたのかもしれません。

当時の蔵書でいま手元に残っているのは
わずか50冊ほどしかありません。

還暦ちかい今の私よりは少ないのでしょうけれど、
それでも当時の私は学生にしては大量の蔵書をかかえていました。

当時というのは、40年ほど前のことです。

ちょうどそのころは安部公房が新刊を出していたころで、
公房の初版本はほとんどもっていました。

べつに初版を集めていたというわけではなく、
たまたま同時代だったというにすぎません。

しかし、
大学に残って研究をつづける道をあきらめたとき、
それは大学4年の春でしたが、
私は蔵書のすべてを古本屋に売ってしまいました。

文学の痕跡を絶とうと思ったのです。

理学部の学生でありながら小説を書いて
新聞や雑誌に名前が出ていたことなど、
無かったことにしようと思ったのです。

未練を残せば、
必ずそれが重荷となって
いつかしらふたたび私を深海へ引きずりこむでしょう。

文学や哲学の深さは
それを成り立たせている言語の意味論にも似て、
不立文字の真相に
あえて言葉の蟷螂の斧をかざすというふうな
無間地獄の様相をしめしているのです。

しかし今でも、
そこが核心であるのだろうと思っています。

真剣をかざして
命がけで立ち向かった者にしかわかりません。

そこへ至る道は、
それ以外に無かろうと今でも確信しているのです。

さて、大学4年の私が、
本を売って手にした金は
すべてワインに消えました。

それもどうしたことか、赤ワインでした。

赤ワインの渋みが必要でした。

粋な香りのする白の軽さより、
二日酔いに苦しむ赤のアクのつよさが
そのころの私には必要でした。

五月の休日のころ
リラの薫る街を
ワインに酔いしれて彷徨いました。

フェステル・ド・クーランジュの
「古代都市」なんかを片手に
大通り公園のベンチに座って
春の空をながめていました。

しかし、
以前にもこのブログで書いたことですが、
大学卒業このかた、
私は一言も文学の話をしないで生きてきました。

正確に言うと
蒼天のクオリア』を上梓するまで、
若き日の私が文学的評価を受けていたことなど
だれにも話したことはありませんでした。

しかし40代の半ばになって、
冑佛との出会いを契機に、
固く閉ざしたはずの文学の扉が
ゆっくりと開きはじめたのです。


2008年4月7日(月曜日)

中村義男先生

4年ほどまえのことです。

その絵葉書は封筒に入って送られてきました。

裏返すと、差出人は北大の中村義男名誉教授でした。

日付は平成16年11月17日になっていて、
ちょうどそれは
私の文章が
日本経済新聞文化欄に
八段抜きの記事として掲載されたその日でした。

「兜に秘める伝説の小仏」
と題された日経の記事を読んで
即座にしたためたというふうな書面でした。

**************************

 前略
 本日日経紙上にて
 貴兄の「冑仏」についての一文を拝見しました。
 
 どこかで見た顔と名前だと思い
 同窓会名簿を見ました。

 進学スクール塾長とありましたので
 間違いないと思い
 一筆しました。
 
 小生液体科学講座のスタッフでしたが
 二000年に定年となり
 比較的ヒマな日々を過ごしています。

 新聞も文化欄から読むという生活です。

 貴兄も旧家の出と伺いましたが
 面白いテーマで
 この新聞掲載が機となって
 ますますご研究が進むことを祈っております。

 たぶん数々の反響がおありかと思いますが
 その一つが北大時代の教官の一人です。

                早々
 二〇〇四・十一・十七

 河村隆夫様        中村義男

**************************

そのころ私はまだ『冑佛伝説』を
書いておりませんでしたので、
葉書の返礼といっしょに
蒼天のクオリア』を同封して
先生にお送りしました。

その後、
拙著の感想とともに
驚くべきものが送られてきたのです。


2006年12月30日(土曜日)

茂木健一郎先生序文『冑佛伝説』読者感想(10)

人形作家アラヤシキ・ツネさまからいただいた
mixiトピックへの書きこみと、メッセージの全文、
また、私の返信もふくめて、そのやりとりのすべてを、
アラヤシキさまの承諾を得て連載することにいたしました。

***************************************************

差出人 : アラヤシキ・ツネ

日 付 : 2006年12月26日 22時02分
件 名 : ブログに泣いています。

河村隆夫さま

こんばんは。
河村さんのブログを拝見しながら泣いています。

『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』
私の住んでいる枚方市の図書館に購入して貰います。
そして、佛教大学と出身高校に贈ります。

河村さんの真摯な魂がこもった
『蒼天のクオリア』、『冑佛伝説』が
多くの人々に永遠に読み継がれることを心よりお祈りいたします。
                    アラヤシキ・ツネ 


2006年12月29日(金曜日)

茂木健一郎先生序文『冑佛伝説』読者感想(9)

人形作家アラヤシキ・ツネさまからいただいた
mixiトピックへの書きこみと、メッセージの全文、
また、私の返信もふくめて、そのやりとりのすべてを、
アラヤシキさまの承諾を得て連載することにいたしました。

**********************************************

差出人 : アラヤシキ・ツネ

日 付 : 2006年12月21日 11時28分
件 名 : Re: おはようございます。

河村隆夫さま

メールに心より感謝いたします。

> 6000字にも及ぶ茂木先生の序文は、
> 思わず「士は己を知るもののために死す」
> という言葉を思いおこさせるほど、
> 私にとって感慨深いものでした。

「士は己を知るもののために死す」
美しい思想ですね。
白州正子や小林秀雄あたりから聞こえてきそうな
響きがあり感動しました。
私と同世代に河村さんのような方がおられるのが驚きです。

> ところで、人形をおつくりなのですね。
> お写真を拝見すると、妖しさのただよう素敵な雰囲気ですね。
> 永遠の命に、とても魅力を感じます。
> 僭越とは存じますが、コミュニティを立ちあげて、
> さまざまなアングルからお撮りになった人形の写真展を
> ひらかれたらいかがでしょうか?
> 多くの方々が、喜ばれることと思います。

素敵なアイディァを有難うございます。
時機を待って是非実現したいと思います。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
そして時節柄どうかご自愛ください。  アラヤシキ・ツネ 


2006年12月28日(木曜日)

茂木健一郎先生序文『冑佛伝説』読者感想(8)

人形作家アラヤシキ・ツネさまからいただいた
mixiトピックへの書きこみと、メッセージの全文、
また、私の返信もふくめて、そのやりとりのすべてを、
アラヤシキさまの承諾を得て連載することにいたしました。

**********************************************

宛 先 : アラヤシキ・ツネ
日 付 : 2006年12月21日 09時29分
件 名 : おはようございます。

静岡の河村です。
ご丁重なメッセージと、トピックへのコメントと、
あわせてお礼申し上げます。

> 茂木健一郎さんの序文を読んでいると
> 私には、河村さんと茂木さんが
> まるでひとつになったように感じられました。
> それほど迫力のある文章でした。

6000字にも及ぶ茂木先生の序文は、
思わず「士は己を知るもののために死す」
という言葉を思いおこさせるほど、
私にとって感慨深いものでした。

> 『蒼天のクオリア』、『冑佛伝説』の大ファン、
>              アラヤシキ・ツネより。     

ありがとうございます。
あたたかい励ましのお言葉に、心から感謝申しあげます。

ところで、人形をおつくりなのですね。
お写真を拝見すると、妖しさのただよう素敵な雰囲気ですね。
永遠の命に、とても魅力を感じます。
僭越とは存じますが、コミュニティを立ちあげて、
さまざまなアングルからお撮りになった人形の写真展を
ひらかれたらいかがでしょうか?
多くの方々が、喜ばれることと思います。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。


2006年12月27日(水曜日)

茂木健一郎先生序文『冑佛伝説』読者感想(7)

カテゴリー: - kawamura @ 06時59分22秒

人形作家アラヤシキ・ツネさまからいただいた
mixiトピックへの書きこみと、メッセージの全文、
また、私の返信もふくめて、そのやりとりのすべてを、
アラヤシキさまの承諾を得て連載することにいたしました。

**********************************************

差出人 : アラヤシキ・ツネ

日 付 : 2006年12月20日 23時47分
件 名 : こんばんは

河村隆夫 さま

こんばんは。
『蒼天のクオリア』、『冑佛伝説』ともに
感動的なご本でした。

『蒼天のクオリア』は、
インテリで名家の出の河村さんが
書かれたご本にもかかわらず
私のように、ただの貧乏人の家に生まれた無知な
人間にも伝わる普遍性がありました。

文中で寺久保氏が語られた
「・…たとえ文章が稚拙でも、心が純粋なら、
透明ないい作品が生まれる。心を養うこと、
人間として豊かに成長することが、
もっとも大事なことなんだ。美しい心から
美しい文学が生まれる」
には思わず涙がこぼれました。

素晴らしい本に巡り合えて
感謝したい気持ちでいっぱいです。

茂木健一郎さんの序文を読んでいると
私には、河村さんと茂木さんが
まるでひとつになったように感じられました。
それほど迫力のある文章でした。

『蒼天のクオリア』、『冑佛伝説』を読んで
茂木健一郎さんが河村さんを大事になさる理由が
よく分かりました。

『冑佛伝説』は、
読めば読むほど不思議で奥の深いご本ですので
何度も何度も読ませて頂くつもりです。

こんなことを言うと不謹慎だと叱られそうですが
私は、小さくて力のあるものに惹かれます。
そういう意味においても
冑佛は、ほんとにファンタスティックです。

『蒼天のクオリア』、『冑佛伝説』の大ファン、
             アラヤシキ・ツネより。


2006年12月26日(火曜日)

茂木健一郎先生序文『冑佛伝説』読者感想(6)

カテゴリー: - kawamura @ 21時25分40秒

人形作家アラヤシキ・ツネさまからいただいた
mixiトピックへの書きこみと、メッセージの全文、
また、私の返信もふくめて、そのやりとりのすべてを、
アラヤシキさまの承諾を得て連載することにいたしました。

**********************************************

2006年12月20日
21:14
1: アラヤシキ・ツネ

『蒼天のクオリア』、読ませていただきました。
茂木先生の序文にまず感動しました。

「表現を志し、表現にたずさわる人間の目指すものは、
万人に通じる普遍性であろう・・…普遍性は、必ず、
一人一人の人間の個別の中にある」茂木健一郎

『蒼天のクオリア』は、若き日のインテリ、
河村隆夫さんことかぶとぼとけさんが
科学者や文学者を夢見ながらも、
夢をあきらめ志半ばで帰郷する自伝的青春小説です。
しかし、後年、河村隆夫著『冑佛伝説』において、
憧れてやまなかった
研究者と文学者という青春の夢が結実します。

『冑佛伝説』の序文もやはり、茂木健一郎さんが
お書きになられています。

『蒼天のクオリア』・『冑佛伝説』ともに
感動的な本なので、皆様にお薦めいたします。


2006年12月10日(日曜日)

茂木健一郎先生序文『冑佛伝説』読者感想(5)

カテゴリー: - kawamura @ 08時53分59秒


拙著『冑佛伝説』読者感想シリーズの、第5弾です。
大石先生は、私が塾を立ちあげたころに英語の先生としてお願いした方です。
現在は静岡市内で、語学教室を経営していらっしゃいます。
一昨年の年末に、塾の危機的な状況を救ってくださったことは、
すでにブログでご紹介いたしました。

この大石先生の感想は、
私のHPに『冑佛伝説』の序章を掲載していたころの投稿文です。

***********************

ルシアンこと大石 2001/01/23 18:37:48
[No.16]感動しました!

島田進学スクール設立間もない頃の英語講師です。
賀状に記載のURLにアクセスしたところ、
河村先生の熱気が伝わるHPが現れ、
感動と懐かしさが入り混じった心境で一気に読みました。
冑佛の一節は、まるでサスペンスドラマの様で、興奮すら覚えました。


2006年12月9日(土曜日)

茂木健一郎先生序文『冑佛伝説』読者感想(4)

カテゴリー: - kawamura @ 08時43分03秒

拙著『冑佛伝説』読者感想シリーズの、第4弾です。
石松さまの感想は、mixiのレビューに書きこまれたものです。
mixiから転載いたします。

*************************

御林守河村家に伝わる1寸足らずの小さな仏様の伝説に、興味を持ったことにはじまります。
時は戦国時代、その仏様は、戦いに明け暮れする武将が密かに信仰する持仏に、
平和な世の訪れを願い、また家来達の無事や戦いの勝利を念じたものでしょう。

実際、これらの小さな仏様達を、戦いに出る際には頭髪の中や冑(かぶと)に入れて、
戦場に赴いたのです。
著者の生まれた旧家に伝わる仏様と、全く同じ使い方をしていた地域を、
冑仏さまの導きで、糸をたぐりながら尋ね歩く旅とさまざまな出会いは、
深い因縁を感じさせます。

武士と言えば、葉隠れの精神を残した佐賀の武士団のような集団かと、
勝手に解釈していましたが、
この本を読むとき、戦国武将など誉れ高い武将達も、
仏様に対する信仰から冑佛を身に付けて出陣し、
生死の狭間をいく恐怖もあったのかと推測しました。

冑仏を探すという、無から塵を拾うような途方もない、
宇宙の始まりのような混沌の中へ進む著者の情熱をひしひしと感じつつ、
読み終わりました。

西へ東へと冑仏を探す旅路は、まだ続くのでしょうが、
いままで歴史の上に現れてこなかった小さな仏様を探して世に問う仕事は、
完成の域にあります。


2006年12月7日(木曜日)

茂木健一郎先生序文『冑佛伝説』読者感想(3)

カテゴリー: - kawamura @ 08時39分23秒

拙著『冑佛伝説』読者感想シリーズの、第3弾です。
この感想は、私のHP掲示板に書きこまれたものです。
掲示板から転載します。

***********************
2006/04/02 21:18:47
[No.47]「冑佛伝説」拝見しました

初めての投稿です、富士の吉田です。
今日、書店で「冑佛伝説」を購入し三度も読んで感動しました。
TVはあまり見ないので、リアルタイムでなく残念ですが、
静岡に越して一年で郷土の伝承、中世/近世の武士にも興味があり、
良い本に出会ったと堪能しました。
河村先生に手紙を出したいので、迷惑でなければ御住所をお教え下さい。
また、機会があればソチラの集まりにも顔を出したいので、
会の例会のスケジュールもお知らせ下さい。
雅彦(富士)

2006/04/04 19:48:34
[No.51]住所

富士の吉田です、あれから二度読み返しました。
先生の住所は巻末でよろしいのでしょうか?
小説などの出版社経由と勘違いしてしまいました。
感想、その他を手紙で送ります、一読いただければ幸いです。
雅彦(富士)


2006年12月3日(日曜日)

茂木健一郎先生序文『冑佛伝説』読者感想(2)

カテゴリー: - kawamura @ 11時18分29秒


このメールが送られてきたのは、かなり前のことになります。
ご本人の承諾を得て、私のHPにUPさせていただいたものを、こちらに転載いたします。
『冑佛伝説』の最初の読者感想でした。

*************************

はじめまして、****と申します。
東京在住の30代の学校事務員をしている者で、趣味で歴史上の人物を追っています。
ホームページの「冑佛伝説」を読ませていただきまして、メールを差し上げようと思いました。
本当に、もう、ドキドキしながら読みました。見ず知らずの人間からいきなり妙に濃い(?)メールを受け取ってしまって驚かれるかもしれませんが、これもご縁と思ってどうぞご容赦ください(^^;)

私は毛利元就と厳島で戦って敗れた陶晴賢とその一族、陶氏がとにかく大大大好きで、この1年間に3回、延べ20日以上も山口県へ行って参りました。
山口市のランドマークは瑠璃光寺の五重塔といいまして、周防の守護大名・大内氏の寺として知られています。
でももともと五重塔が属していた大内氏のお寺は香積寺といいまして、瑠璃光寺は別の所にあり、そのときは陶氏のお寺でした。
そちらの瑠璃光寺の由来がとても面白く、感激屋の私はずっと忘れられなかったんです。

瑠璃光寺の開基は陶弘房という武将の奥さんで、足利義満のころの人です。
陶弘房が主君に従って和泉の国で討ち死にしたとき、首は取られてしまったけれど、兜の中にしのばせておいた小さな薬師如来の念持仏を家来が国元へ持ち帰りました。
奥さんは夫の菩提を弔うために瑠璃光寺を作り、本尊をその薬師如来の念持仏(冑佛)にしたとのことでした。
その後いろいろあり、大きな薬師如来を寄進してくれる人も現れたので、参拝者に拝んでもらうにあたっての大きさのバランスから今はそちらがメインの仏さんだそうですが、私にはその小さな兜の中の仏様のことがとても印象的で記憶 に残りました。

私は歴史上の人物で好きな人ができるとその人の追体験をしてみたいと思うのですが、彼をより理解するには、彼が信じた宗教や信仰について知らないとろくに理解できないだろうな、と思っています。
私の好きな中世はまだ神仏への信仰が日常に不可欠な要素でしたから、絶対にそうだと思っているんです。
なので、その冑佛の話を聞いた瞬間、弘房の無念や来世への祈り、奥さんや家来たちの慟哭、亡くなった人の後生の安からんことを願う残された人々の優しい気持ちなどが手に取るように想像でき(たつもりになっちゃうんです、本当に)、涙が出るくらいとても彼らが身近に思えるようになりました。
それからずっと、彼らはみんな兜の中に思い思いの仏像をしのばせて合戦に赴いたのだろうと想像してきました。
小さな仏像はその大きさのわりに、彼らに想いを寄せる際の大きなよすがとなりました。

お寺の方とお話したときは、冑佛についてはとてもさらりと「兜の中に小さな仏さんを入れておくのは珍しくなかったそうですよ」とおっしゃったので、私は「そういうものだったのか、知らなかった。
ひとつ利口になった、よかった、嬉しい」としか思いませんでした。
でも今日調べものをしていたら偶然、本当に偶然に「冑佛伝説」が検索にひっかかりまして、「まだ新しいジャンルなんだ!」とあらためて感動いたしました。

あれはまるでミステリーを読んでいくような感じでした。
ひとつひとつ河村さまが関門を突破するたびに、自分のことのように嬉しく思ってしまいました。
亡きお母様宛のマンモスの博物館の部分では、「そうなのよ!そういう導きって、あるのよ、確かに・・・!」と、涙ぐんでしまいました。

「私は恋に落ちた」のくだりは大好きです。
私も生きている人間相手ではなくそういう体験をしたことが(惚れっぽいので、よく)あります。
その感覚は「恋に落ちる」としか表せません。
まだ冒頭部分のあの言葉で、「ああ!この人は私と同じ魂を持っている・・・!」と(誠に失礼ながら勝手に)同族意識を持ってしまいました。

相手が生きている人間でないと一生の片思いを約束されているようなものですが、でも逆に誰にも恋路を邪魔されずに想い続けることができるのが嬉しく、またその気持ちを抱いている自分までがいじらしく思えたりして、むしろ恋に落ちたその瞬間から、この想いは成就しているようなものなのだと思わずにはいられなくなります。
(・・・なんだか興奮してしまってすみません。)
だからそのときのお気持ち、「ああ、あの感覚だ」と、自分のことのように追体験させていただくことができました。

それと、冑佛には直接関係ないことですが、私は河村様をとてもうらやましいと思ってしまいました。

「一代も途切れることなく、伝承を言いつたえてきた代々の人たちへの、あふれる感謝の気持ちが、数世紀を遡って、やがて御先祖さまにまで達するように思われた。」のくだりです。
ここはあまりにも私が望んでいることに近く、冑佛の件でもラストステップにあたりましたので、いちばん胸に迫りました。

私も自分のご先祖が何をしてきた人かにとても興味があります。
私は三島の出身で、母はもとは榛原町の人間です。
だから金谷は遠い所という感じはしません。

母の実家は飯田という名字で、もとは長野県の飯田に住んでいたという言い伝えがあり、応仁の乱だか武田の滅亡の頃だかわかりませんが、榛原の方へ一族で逃げてきたという話があるんです。
地名を名乗れるくらいの一族だったのなら小さくてもそれなりの国人領主か豪族???と私は期待してしまい、またそうであったなら歴史も調べやすいはず・・・という期待もあったのですが、嫁に出た母はそういうのに興味がなく、本家を継いでいる祖父もそういう話はしてくれません。
古い菩提寺は何度かの火災で過去帳その他を焼失しているようですし、庄屋をやっていた間にお家騒動のようなものもあり、古文書は別の本家(未だに2つの本家があるということは、お家騒動がおさまっていないということかも・・・)にあるという話ですし、うかつに古いものがあるかどうか訊くと、「古いもの=財産=お金」と思われ、財産狙いと周囲から見られるため、祖父にも近づけなくなってしまいました。
少なくとも400年以上同じ所に住み続けている家系なのに、こんな状態です。
ずーっと昔のご先祖さま、ごめんなさい・・・です。

先祖からの伝承というのは、ほんの1代でもそういうものに興味を持てない世代がいると、そこで途絶えてしまって後から掘り起こすことができません。
だから「一代も途切れることなく」というのは本当に素晴らしいことだと思います。
古い家の財産は、物や土地もそうですが、そういうご先祖さまからの伝承その他の継承も同じくらい大切だと思いますので、それを残してくれた代々のご先祖さまに本当に感謝しきれないくらいですよね。
そして河村さまも、それを次代に伝える人になれたというのがまた一段と素晴らしいです。
私が河村さまの子供だったら、とても誇らしく思うと思います。
大きな喜びを与えられたことに大感謝!です。
(私は、自分のすぐ上の2つの世代で、ご先祖につながるものが消えてゆくのか・・・と残念でなりません。ご先祖に申し訳ないです。良いご縁に恵まれた河村さまのことを自分のことのように嬉しいと思えるのも本心ですが、少し妬ましいと思える気持ちも正直あったりして・・・)

なんだか支離滅裂になってきてしまいましたのでこのあたりで失礼いたします。
これからHP上の他のものも読ませていただきますね。
本当に長々と好き放題書いてしまいまして、失礼いたしました。
ちょっと興奮気味で書いてしまいましたので、もしお気を悪くさせることがありましたらお許し下さいませ・・・


2006年11月30日(木曜日)

『冑佛伝説』読者感想(1)

カテゴリー: - kawamura @ 07時33分38秒

以下、mixiの日記から転載いたします。

*********************
*********************

>TOSHIさまへ

拙著『冑佛伝説』のご感想をコメントいただき深謝致します。
レビューも拝見致しました。
日記よりもレビューのほうが詳しく書かれているようですので、以下、そちらについて述べさせていただきます。

茂木健一郎先生が書いて下さった序文につきましては、後日UPいたします。

*********************
TOSHIさまの『冑佛伝説』レビューへの感想。
*********************

>蒼天のクオリアを先に読み、この書に至った。

『蒼天のクオリア』は『冑佛伝説』の序章としてまとめたものです。
もとはひとつの作品でしたが、雄山閣編集長の助言で、青春編を抜粋してそれに書きたし、冑佛(かぶとぼとけ)に出会うまでの青春自伝小説としたのです。
ですから、『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』の順に読まれたのは、ちょうど物語の筋にそっているといえます。

>まさに、著者河村氏が戦国武将の魂と語り合ってたどり着いた結果である。感動の一言がふさわしい。

冑佛を調べていくうちに、それが武将の私秘的な信仰の対象であると知って、戦場に向かう彼らのふるえる魂をかいま見たように思います。

>氏はご自分が幸運であったと断定するが、それはまさに、セレンディピティの結果であって、努力や執念ともいうべきもの抜きでは語れない。

茂木先生のおっしゃるセレンディピティを、この物語の始まりから終わりまで、私は何度も体験致しました。 さらに、ひとつのことに専心したとき、あたらしい次元へ到達できることも知りました。

>ひとが自分の天命を悟り、それに集中したときにこうも美しい生き方にたどり着くのかということを改めて感じさせていただいた。不勉強で日本史の知識抜きに読んだことが非常に悔やまれる。

「天命」という言葉を、まさにあのころ感じていました。見えぬ手に引き寄せられていくように、なにかの力がはたらいていたことは確かです。
私はいわゆる心霊現象などには否定的ですが、『冑佛伝説』に書かれたことは事実私の身に起きたことで、異様な体験であったというほかありません。
なにものかにとりつかれたかのような恐怖を感じて、じっさい御祓いを頼もうとしたほどでした。

それは我が家に伝わる冑佛を懐いて、一心不乱に異空間を駈け抜けたとでもいうような、不思議な日々でした。

>著者に心から感謝したい。

こちらこそ、拙著をお読みいただき、心から感謝申しあげます。


2006年10月7日(土曜日)

速報!『冑佛伝説』Amazon9,259位

カテゴリー: - kawamura @ 07時48分29秒

『冑佛伝説』ランキングを追加報告いたします。

 年 月 日  時  分
061023 18:34 Amazon.co.jp ランキング: 本で 15,566位
061024  5:50 Amazon.co.jp ランキング: 本で 45,330位
061025  8:56 Amazon.co.jp ランキング: 本で 86,698位
061030 19:45 Amazon.co.jp ランキング: 本で 9,259位
061209  5:22 Amazon.co.jp ランキング: 本で 19,437位

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(以下2006年10月7日の記事です)

昨夜、なにげなくAmazonの『冑佛伝説』のページをひらいてみました。

なんと、「Amazon.co.jp ランキング: 本で236,125位」と、しっかりランキングされていたのです。

いままでもたまにのぞくことはありましたが、ずっと、「ランキング:なし」だったのです。
つまり、Amazonランキングの1,000,000番以下でした。

なかには100万番以下でもランキングされている作品もありますが、
それはほとんど「ランキング:なし」と同じようなものです。

これまで『蒼天のクオリア』ばかりにかまけて『冑佛伝説』のことは目もくれなかったのに、
なんということでしょう。
(ちなみに、『蒼天のクオリア』ランキングは、
 10月7日10:27現在
 「Amazon.co.jp ランキング: 本で6,899位」に戻しました)

かんがえてみれば、『冑佛伝説』をかきあげるのには、
研究をはじめた平成五年の秋から、およそ13年の歳月を要しました。

冑佛(かぶとぼとけ)が私のまえに姿をあらわすシーンを、
拙著『蒼天のクオリア』から引用してみましょう。

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 そのとき、冑佛があらわれたのである。

 疲れはてた沢村のまえに、突然天上の彼方から透明な光の手がさしのべられ、
 ゆっくりとひらかれた光のてのひらのなかに、冑佛が微笑んでいたのだ。
 それは、家を守る、と時代錯誤の一念に身を投じた彼を憐れんで、
 御先祖様がさずけてくれたご褒美のようだった。

 冑佛。それは戦場で、御先祖様が兜の中に入れて戦った仏さま。
 静岡県金谷町の沢村家に伝わるこの伝承が、すべての出来事の発端だった。
 冑佛と言い伝えられてきたちいさな仏像が、やがて目醒めて、
 戦国武将の秘められた内面を語りはじめるとは、まだ誰も知らなかった。
 
 ふだんの冑佛は、仏壇の御本尊の大きな厨子の中に脇仏として祀られ、
 高さ七センチほどの厨子の中に納められていた。
 像高僅か二センチ、ちいさな宝冠をいただき、智拳印を結んだ大日如来である。

 幸運なことに、冑佛はまったく未研究の分野だった。
 その当時、冑佛は誰にも注目されず、お互いの存在を知ることもなく、
 全国各地の神社仏閣の奥深くに眠っていたのである。
 まれに伝承がのこされていたにせよ、それは地方の一都市か、
 あるいはそれよりすこし広い地域で知られていたにすぎなかったし、
 たとえ知っていたとしても、それはひとにぎりの文化財関係者や博物館の学芸員にかぎられていた。
 県の教育委員会や県立博物館になるとほとんど知るものはなく、
 国立博物館や大学関係者では皆無だった。
 つまり、冑佛についての系統的な研究がなされていなかったのである。

 調査をはじめた沢村の身のまわりに、
 冑佛と沢村家の歴史にまつわる不可思議な現象がたてつづけにおきた。
 やがて、全国各地に点在し、ひとしれず眠っていた十数体の冑佛が、
 歴史の闇の底から浮かびあがってきた。

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今日からは、『冑佛伝説』のランキングもしっかりとチェックするつもりです。


2006年8月12日(土曜日)

茂木健一郎先生序文『冑佛伝説』書評

カテゴリー: - kawamura @ 12時16分53秒

「甲冑武具研究」153号に、拙著『冑佛伝説』の書評が掲載されています。
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また目次にも、「新刊紹介 『冑佛伝説』」と記されていて、
35ページの下段に、西岡文夫常務理事の書評が掲載されているのです。

「甲冑武具研究」は(社)日本甲冑武具研究保存会の季刊誌で、
会員はもとより、全国の博物館や美術館、また大学などの研究機関へも配布されています。

(社)日本甲冑武具研究保存会は文化庁が直接所管する社団のひとつで、
日本国内の甲冑武具の研究保存とその鑑定をする国内唯一の団体です。

写真を拡大するとご覧になれますように、
海部俊樹元首相を名誉会長として、会長には文化庁長官賞受賞者の藤本鞍斎氏を戴いています。

また、本研究の当初から、常務理事の三浦公法氏にはひとかたならぬご指導を賜りましたことは、
拙著に詳述されているところです。

私の名は、評議員の段の真ん中よりやや左に記されています。
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さて、編集者西岡文夫常務理事の許可を得ましたので、書評の全文を転載いたします。

「新刊紹介 『冑佛伝説』
 
 本会評議員の河村隆夫氏が表題の著書を出版された。
 河村家は静岡県金谷の旧家で、藤原秀郷の流れをくむ波多野氏の末裔であるという。
 現当主の河村隆夫氏は、同家に冑佛として伝わる小さな仏像に魅かれ、冑佛の研究に取り組んでこられた。
 その成果を「冑佛考」として本誌第105、113、114、135号に発表されている。
 本書はそれらと一部重なるが、堅苦しい研究書としてではなくエッセイ風に書かれたもので、読みやすい好著である。
 
 冑佛についてはその存在を否定する研究者もあり、研究対象としては難しいものであるが、本書はあえてそれを追及している河村氏の情熱がよく伝わってくる。
 研究に取り組んでからの不思議な縁、さまざまな人と出会い、助言や批判を受けた様子などが赤裸々に記されており、各地を訪ねて冑佛を探求する過程はことに興味深く、引き込まれる。
 また私小説風に書かれた、氏の冑佛研究の序章ともいえる前著『蒼天のクオリア』も併せて一読をお勧めする。」

書評中の「冑佛についてはその存在を否定する研究者もあり」という件りが、私の冑佛研究の真骨頂でした。
と言いますのは、実は公表されていない真実があるのです。
その、高名な研究者と私との死闘は、甲冑会上層部のほんの一握りの方々しか知りえない出来事でした。

私の冑佛研究は、
我が家につたわる「御先祖様が兜のなかに入れて戦った仏さま」というひとつの伝説に端を発して、
甲冑師三浦公法氏にみちびかれ、やがて伝説の扉をあけると、
私のまえに、戦国武将の精神世界を象徴する小仏たちの住む未知の世界がひろがっていた、というところからはじまります。
その体験談を、藤本鞍斎会長に推挙されて、私は「冑佛考」と題して研究誌に発表しました。

やがてNHKの朝のニュース「おはよう日本」に、冑佛が初登場し、大きな反響をよびました。

その秋のことです。

これから先に起きたことは『冑佛伝説』には書かれておりません。
私は『冑佛伝説』を発表するとき、赤裸々に描いたその出来事の顛末を、自ら削除いたしました。
拙著をお読みになった方々は、読後になにかもの足りない感じがしたのかもしれません。
物語の終わり方になにか竜頭蛇尾の感がぬぐえないのは、つまりそのような理由からなのです。
でも、「甲冑武具研究」の読者の方々は、うすうす気づいていらっしゃる方も多かろうと思います。

その高名な研究者と私の一騎打ちを、皆さまはご覧になりたいと思われますか?
そしてその結末をお知りになりたいでしょうか?
いかがですか?


2006年7月5日(水曜日)

『冑佛圖録』

カテゴリー: - kawamura @ 08時00分15秒

『冑佛圖録』を早くまとめたらどうか、というありがたいお電話をいただきました。

でも、それにはカメラの腕を上げなければなりませんし、
先方と交渉してスケジュールの調整をし、
当方も塾の仕事に影響しないように、日を選びながらすすめなければなりません。

冑佛の写真はすこしずつあつまってはいるのですが、
なにせ2?〜5?ほどの極小仏像ですから、
写真だけでなく、それにかかわる微細な情報も記録しておきたいと思います。
そのへんの研究手法を、静大の本多先生にご教示いただこうと思っています。

冑佛が記録に残るのは、これが最初で最後でしょうから、
私のカメラにでき得るかぎりその細部を写しておきたいのです。

後世に冑佛の研究者があらわれたとき、
最初の冑佛研究者として恥ずかしくないものを残しておきたいと思っています。


2006年7月3日(月曜日)

『冑佛伝説(かぶとぼとけでんせつ)』

カテゴリー: - kawamura @ 08時38分19秒


たのんだわけでもないのに、そしてありがたいことに、
きのう(7/2)の静岡新聞9面に『冑佛伝説』の記事がのっていました。
(ご興味がおありの方は、ぜひ駅前の「BOOKS ZEN」でご覧ください)

さっそく出版局の梶さんにお礼の電話をすることにします。

また、いまをときめく脳科学者の茂木健一郎先生が『冑佛伝説』の序文を書いてくださったことは、
私にとってこのうえもない幸運でした。
戦国武将は一族の信仰とはべつに、
個人的な信仰にささえられていたとする私の説を推してくださったのです。

前作の自伝小説『蒼天のクオリア』の序文も、茂木先生が書いてくださいました。
身にあまるほどのお言葉をいただいて、こころから感謝しております。

去年の六月六日に我が家を訪ねてくださったときのように、
今年もまた茂木先生が拙宅へお見えになるのを心からたのしみにしています。

そのときはみなさんとご一緒にお出迎えしたいと思いますが、いかがですか?


2006年4月4日(火曜日)

『冑佛伝説』本日発売!

カテゴリー: - kawamura @ 06時50分49秒

島田発・歴史ノンフィクション
冑佛伝説』(かぶとぼとけでんせつ)が
本日各書店にて発売されます。
また『蒼天のクオリア』も同時発売されます。

静岡県外の方は
下記、静岡新聞社出版局宛に
お電話かメールにてお申し込みくだされば幸いです。

発売元    静岡新聞社
ISBN    ISBN 4−7838−9663−1 C0093
税込価格  1260円

お申し込み先 〒422−8033 静岡市登呂3−1−1
         静岡新聞社出版局
         TEL 054(284)1666
         FAX 054(284)8924
         Mail publishg@shizuokaonline.com

序文は、脳科学者・NHK「プロフェッショナル」キャスターなど、
多彩な活躍をされている茂木健一郎先生が書いて下さいました。

茂木先生が書かれた、帯の文章を転載します。

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 小さな歴史と大きな歴史の交錯の中から
 
 先祖代々伝えられてきた冑佛(かぶとぼとけ)と出会い、
 歴史の闇に埋もれていたこの「小さきもの」を
 白日の下に呼び戻すまでの経過は、
 それ自体が一つの見事な物語のようです。

 歴史の転換点を迎えた今日の状況の中、
 切ない思いと深い祈りが託された「冑佛」の物語が、
 世に出ることを願ってやみません。

 茂木健一郎(脳科学者・NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」キャスター)

***************************************


2006年4月2日(日曜日)

冑佛(かぶとぼとけ)

カテゴリー: - kawamura @ 04時22分21秒

御林守河村家には
ひとつの伝説がつたえられています。

それは河村家に代々つたえられてきた
「かぶとぼとけ」とよばれる
2センチほどのちいさな仏像のことなのですが、
ご先祖さまが兜のなかにいれて戦った、
と言い伝えられているのです。

(これでおわかりのように「かぶとぼとけ」という呼称は、
静岡県島田市の御林守河村家のオリジナルなのです)

それまで伝承をうわのそらで聞いていた私が、
ある日その秘められた謎に気づいて、
はるかな旅に出ることになるのです。

島田市大代の谷間にたたずむ
市指定文化財「河村家住宅」からはじまるこの物語は、
島田発の歴史ノンフィクションとして
ぜひお読みいただければと思います。

このようなお話しは
ほかにも島田市のどこかに
伝えられているのかもしれません。

かぶとぼとけの物語のように、
みなさんがそれまで半信半疑できいていたようなお祖母さんの伝承から、
おもいがけない歴史世界がひらけてくるるのかもしれません。

この世はまだ謎にみちています。
みなさんもいまから
それまで気にもとめなかった小径に、
足を踏みいれてみませんか。


2006年3月30日(木曜日)

藤本鞍斎会長(2)

カテゴリー: - kawamura @ 08時05分18秒

平成十一年に
藤本会長が文化庁長官賞を受賞されたとき、
祝賀会が目黒の雅叙園でひらかれました。

各界のお歴々がいならぶなかに、
私が招待されたのは
思ってもみない光栄なことでした。

その数年まえ、
平成六年の秋だったと思いますが、
『続冑佛考』の校正のために
会長のお宅にうかがったときのことを
思いだします。

世田谷区経堂の
会長の邸宅の居間に通されて、
校正が終わったときのことでした。

『吾妻鏡』の、
いまの神奈川県山北町にある
河村城主秀高の嫡男義秀に話がおよび、
義秀の弟千鶴丸が頼朝の御前で
元服するシーンについてお話ししていたときでした。

加冠の儀に、千鶴丸の烏帽子親をつとめたのが
加々美次郎長清だったのです。

加々美次郎長清は、
のちの小笠原長清のことで、
甲斐武田氏の始祖にあたります。

藤本鞍斎会長のご先祖は甲斐武田氏ですから、
河村氏の末裔である私が
ふたたび永い輪廻の果てに、
烏帽子親である加々美次郎長清の
御子孫にお会いできたのです。

ちょうどそのとき
お茶菓子をもってこられた会長の奥さまは、
「はあ。そうなんでございますか」
とあきれかえっていらっしゃいました。

はたからみれば、
なんのことかと思われるかもしれませんが、
私たち当人にとっては
じつに感慨深いものでした。

遠い縁にむすばれていたものとみえて、
いまでも藤本会長とは
たいへんご懇意にさせていただいております。

藤本会長は、
毎年正月の武道館でひらかれる
鏡開きの総指揮をとられているのですが、
40年ほどまえの鏡開きの
驚くべき写真が会長の居間にかけられています。

大将の姿で椅子に座っているのが、
三島由紀夫なのです。

壮絶な割腹自殺をとげた三島の
純粋な顔がうつっています。


2006年3月29日(水曜日)

藤本鞍斎会長

カテゴリー: - kawamura @ 08時19分51秒

(社)日本甲冑武具研究保存会の現会長が
藤本鞍斎先生です。

藤本会長のご本名は藤本巌ですが、
ふだんは雅号で通していらっしゃいます。

鞍斎という雅号のあらわすように
藤本会長は「鞍」の研究の第一人者です。

一昨年の暮れに
藤本会長からお電話がありまして、
遠州森町に遺構の残されている
「天方城址」をご一緒に見てまいりました。

司馬遼太郎の
小説の冒頭にもありましたように、
北条早雲が伊勢新九郎を名のっていたころの、
鞍をつくるシーンから
その小説ははじまったように記憶していますが、
はるか記憶の彼方のことですから
記憶ちがいかもしれません。

ともあれ、
伊勢家は鞍造りの名家であったようで、
その伊勢流の鞍が、
天方氏につたわっていたという
お話しだったと思います。

その日藤本会長は
午後1時ころでしたでしょうか、
新幹線掛川駅で降りられて、
そこから私が車でご案内したのです。

森町の役場で
地方史家の方のご住所などをおたずねして、
(その方のお名前はしらべればわかるのですが)
お宅にむかいました。

いろいろたずね歩いて
ようやくその方のお宅にたどりつきました。

藤本先生が前もってご連絡されていたようでしたが、
最初は座敷に通していただけませんで、
応接でしばらく自己紹介をさせていただいたように思います。

そのとき藤本会長が
「日本経済新聞文化欄」の切り抜きをご用意されていて、
私のことを説明して下さいました。

というのも、そのお宅へおたずねする直前の、
平成16年11月17日の日経新聞文化欄に
「兜に秘める伝説の小仏」と題した私の記事が
7段ぬきで掲載されていたからです。

ようやく座敷に通されて
天方氏のことについて
藤本会長と地方史家とのあいだで
お話しがつづきました。

私はそれを記録にとどめる役で、
はじめてお聞きする名前ばかりでしたが
いちいちそれを聞くわけにもいかず、
記録するのにたいへん難儀いたしました。

おそらく誤字だらけだったのだろうと思います。
それでも藤本会長はいつも笑みを絶やさぬ方ですから、
なにもおっしゃいませんでした。
お宅に帰られてから、
解読不能で苦しまれたのかもしれません。

その後
地方史家のお車で天方城址にむかいました。
城址は公園化していて
城山の頂上まで車で行くことができました。

縄張りや歴史などにつきましては、
郷土出版社が出している
「図説 遠江の城」に詳述されています。

私にとっては
はじめて『冑佛考』を世に出すときに
お力添えくださった藤本会長への恩返しが、
すこしははたされたのかもしれないと思うだけで
満足でした。

(あすも藤本会長のお話しをつづけます)


2006年3月28日(火曜日)

甲冑師(かっちゅうし)

カテゴリー: - kawamura @ 04時34分02秒

みみなれない名前だろうと思います。

みなさんが博物館やお城を見学したとき、
鎧や兜をかざってあるのを
見かけたことがあるでしょう。

甲冑師はそのような鎧兜の
修復、復元をしているのです。

新作の甲冑をつくられる方も
いらっしゃいます。

文化庁所管の社団法人
日本甲冑武具研究保存会の
常務理事をなさっている
三浦公法先生も
新作をつくられる甲冑師のおひとりです。

三浦先生のお父様は弁護士をなさっていて
先生ご自身も大学では
法律を学んでいらっしゃったのですが、
甲冑の魅力にとりつかれて
以来、多くの甲冑の修復などに
かかわってこられました。

徳川家康が
イギリス国王ジェームズ一世に贈った甲冑の修復を
イギリス王室から外務省を通して依頼され、
見事に復元したのが三浦先生です。
昭和50年のことでした。
その甲冑は
いまでも英国王立武器博物館に所蔵されています。

また、昭和60年には、
甲冑会と米国が主催し
文化庁が後援をした「日本の変わり兜展」の
管理責任者として渡米しています。

昭和61年には
神奈川県寒川神社所蔵の
武田信玄着用兜の復元製造を手がけていらっしゃいます。

平成元年には
ユーロパリア89日本祭の
「変わり兜と陣羽織展」管理責任者として
ベルギーに渡っています。

などなど、輝かしいご経歴をお持ちの三浦先生と
ふしぎなご縁で
親しくさせていただいております。

先生のお宅にも何度かうかがわせていただいて、
甲冑を修復されるお姿も拝見いたしました。

ひとつのちいさな仏さまがとりむすんだ
ふしぎな縁でした。


2006年2月10日(金曜日)

『冑佛伝説』3月発売!

冑佛伝説』を、
来月上梓いたします。

静岡新聞社からの自費出版です。
また、前作同様
脳科学者茂木健一郎先生の御序文をいただきました。

装丁は友人の版画家高橋シュウ氏
お願いしようと思っています。
前作『蒼天のクオリア』と色違いの
ほとんど同じ装丁になる予定です。

また、
冑佛伝説』と同時に
蒼天のクオリア』も発売致します。

書店には二冊ならべられることに
なるようです。

『蒼天のクオリア』800円
『冑佛伝説』1000円です。

もともとこの2冊はひとつの原稿でした。
それを東京の出版社の助言で
ふたつに分けたのです。

『蒼天のクオリア』は
冑佛発見にいたるまでの自伝的序章で、
その部分だけを切り離したほうが
おもしろそうだということで
一昨年先行発表したというわけです。

おそらく私の死後、
河村隆夫とは何者だったか、
と問われたとき、
冑佛研究者として
日本史の片隅に
虫眼鏡でみても見つからないほどのちいささで、
私の名が残っているのかもしれません。

平成5年の秋、
深山幽谷に住む私が、
ある日不思議な道に迷いこんで、
気がつけば、そこは、
戦国武将の精神世界を象徴する
冑佛(かぶとぼとけ)たちの住む世界だった、
という発見譚です。

やがて私の新説は世に認められ、
NHK大河ドラマ「利家とまつ」に
勝軍地蔵がでたときには、
妻と手を取りあって喜びました。

冑佛が世に認められるまでの物語を、
ご笑覧いただければ幸いです。


2005年10月7日(金曜日)

もうひとつの伝説

カテゴリー: - kawamura @ 04時09分30秒

河村の白狐」は、ふるくから言いつたえられてきた伝説で、河村家の周辺ではいまでも信じられています。
実際に白狐を見たというひとたちがいまでもいるのです。

もうひとつの河村家につたわる伝説は、「冑佛伝説」です。
この伝説は近々みなさまに詳細をご披露する予定ですが、わが家につたわる「冑佛伝説」が秘めていた深遠な謎を、ひとつひとつ解きあかしてゆくスリリングな日々は、とぼしい私の経験のなかでもひときわ鮮やかなものでした。
すべてはひとつの伝説からはじまったのです。

ここからさきは、すでに拙著「蒼天のクオリア」に発表した部分を抜粋します。
ちなみに、「蒼天のクオリア」の序文は、茂木健一郎先生が書いてくださいました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そのとき、冑佛があらわれたのである。
 疲れはてた私のまえに、突然天上の彼方から透明な光の手がさしのべられ、ゆっくりとひらかれた光のてのひらのなかに、冑佛が微笑んでいたのだ。それは、家を守る、と時代錯誤の一念に身を投じた私を憐れんで、御先祖様がさずけてくれたご褒美のようだった。
 冑佛(かぶとぼとけ)。それは戦場で、御先祖様が兜の中に入れて戦った仏さま。
 静岡県金谷町の河村家に伝わるこの伝承が、すべての出来事の発端だった。冑佛と言い伝えられてきたちいさな仏像が、やがて目醒めて、戦国武将の秘められた内面を語りはじめるとは、まだ誰も知らなかった。ふだんの冑佛は、仏壇の御本尊の大きな厨子の中に脇仏として祀られ、高さ七センチほどの厨子の中に納められていた。像高僅か二センチ、ちいさな宝冠をいただき、智拳印を結んだ大日如来である。
 幸運なことに、冑佛はまったく未研究の分野だった。その当時、冑佛は誰にも注目されず、お互いの存在を知ることもなく、全国各地の神社仏閣の奥深くに眠っていたのである。まれに伝承がのこされていたにせよ、それは地方の一都市か、あるいはそれよりすこし広い地域で知られていたにすぎなかったし、たとえ知っていたとしても、それはひとにぎりの文化財関係者や博物館の学芸員にかぎられていた。県の教育委員会や県立博物館になるとほとんど知るものはなく、国立博物館や大学関係者では皆無だった。つまり、冑佛についての系統的な研究がなされていなかったのである。調査をはじめた私の身のまわりに、冑佛と河村家の歴史にまつわる不可思議な現象がたてつづけにおきた。やがて、全国各地に点在し、ひとしれず眠っていた十数体の冑佛が、歴史の闇の底から浮かびあがってきた。


2005年7月9日(土曜日)

第一回映像上映会

カテゴリー: - kawamura @ 00時00分54秒

上映会のチラシをみると、「河村さん『冑佛伝説』」となっていますが、これはmatumotoさんの意向にそってそうなったのです。
私にはどうも荷が重過ぎるように思えます。

とはいえ、そうなった以上は、それなりのものを作らねばなりませんから、いまから泥縄methodにて、スライドを手なおしして、完成するように努力いたします。

皆様、あまり期待されぬよう、よろしくお願い申し上げます。


2005年7月3日(日曜日)

「冑佛伝説」

カテゴリー: - kawamura @ 00時08分17秒

7/9の上映会で、冑佛についてやりたい、とmatumotoさんから依頼がありましたので、いまそれをまとめようとしているところです。

スライドを上映しながら、私が原稿を読みあげるというスタイルを考えています。
読みあげる原稿は、来春にはそれを何らかのかたちで公表することを考えていますので、今回は、ほんの最初のさわりの部分だけを発表する予定です。

冑佛伝説の概略は、昨年十一月十七日の日経新聞文化欄に掲載された記事か、あるいはWendyという新聞に掲載された記事を、みなさまにお渡ししますので、それをご覧いただければと思います。
いずれにせよ、スライド上映のあとで、何卒それをお読みいただけるようお願いいたします。

上映会の「冑佛伝説」に、どのような内容をみなさまが期待されるのか、コメントいただければ幸甚に存じます。


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