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2009年3月15日(日曜日)

完全無農薬・梅の木オーナー限定15名様追加募集を開始します

カテゴリー: - kawamura @ 07時24分45秒

(写真は今朝の木蓮です)

恒例の、完全無農薬・梅の木オーナーの追加募集をはじめます。

今年は、15名に限定させていただきます。

応募される方は、
1.左の「梅の木オーナー申し込み」ボタンを押して記入されるか、
2.メール(kabuto*mwc.biglobe.ne.jp)(*を@に換えて下さい)
  でお申し込みいただくか、
3.直接お電話(0547−46−1648)いただくか、
いずれかの方法でお申し込み下さい。

鶴首してお待ちしております。

昨年、茂木健一郎先生の「クオリア日記」(必見!!)に紹介していただきましたら、
なんとニューヨークからもお申し込みがありました。

また静岡新聞論説委員の榛葉様には「大自在」で、
静岡新聞島田支局の内山様には写真入りの大きな記事でご紹介いただき、
静岡県下全域から大きな反響がございました。

茂木先生、榛葉様、内山様、心より感謝申し上げます。

梅の木オーナーの規約は下記の通りです。

規約
 1、「御林守河村家を守る会」は島田市指定文化財
   「河村家住宅」の維持保存を目的とします。

 2、当該契約は一年更新とします。

 3、会員は、年会費1万円につき、1年間、
   当該梅の木から収穫される実を独占的に利用できます。

 4、収穫は会員本人ですることを原則とします。

 5、細則は、
  「御林守河村家を守る会」のブログ上に表示します。

くわしくはこちらをどうぞ・・・
http://www.community-platform.jp/cell15/modules/wordpress/index.php?p=741

昨年の反響などをくわしくご覧になりたい方はこちらへどうぞ・・・
http://www.community-platform.jp/cell15/modules/wordpress/index.php?cat=37

ところで
しばらく幕末にボケておりましたら、
あたりはすっかり早春の気配です。

私の頭のなかでは、
いまや戊辰戦争の火蓋が切って落とされたというのに、
気がついてみれば、
木蓮はすでに散りかけ、
ノビルやふきは、生い茂っていました。

(蕗のお好きな方、ぜひいらして下さいナ)

すでに登録済みの梅の木オーナーの皆さまには、
季節の移りかわりなどご紹介もせず、
ご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。

これからは、少なくとも週に一度は、
梅の木オーナーの皆さまのために、
花の写真や、山菜情報などをお送りいたします。

それにしても修道士ニコライは・・・
イケナイイケナイ
それにしてもタケノコは
ことしもグルメなイノシシを喜ばせているばかりです。

今日は早朝から快晴。

森の遠くの鉄塔が、朝陽をあびて、オレンジ色に輝いています。

(すこししおれた木蓮の写真を、あとから撮影してUPします)


2008年11月18日(火曜日)

観光ボランティアの会の人々

カテゴリー: - kawamura @ 07時46分55秒

突然の電話で
いまから10人ほどで
見学にうかがいたいというお話しでした。

私は体調不良で伏せておりましたので
妻が応対しました。

電話から1時間半ほどして
マイクロバスから
15人ほどの人々が降りてきました。

皆さまを御林守河村家住宅にご案内して
妻が一通りの説明をしていると、
「xxxxxxxxxxxx」のxxさんが

「この家は他所へ寄付していますか?」

と訊いてきて、妻は返答に窮したというのです。

「初倉の報徳社は年間何百万円も寄付していますよ」

初倉の報徳社がどのようなものか妻も私も知りません。

「文化財河村家住宅」の草刈りや庭師の費用など
周辺の維持管理をするのに、
島田市から一年間に4万円弱の補助があり、
それだけでは足りないので
昨年から梅の木オーナー制度をはじめて
なんとか草刈りや庭師の費用が
捻出できるようになったところです。

妻はそれを説明するのも気が引けたようで

「それはすばらしいことですね。
 でも我が家はとても寄付できるような状態ではありません」

とだけ答えたというのです。

文化財を所有することで
どのような収入があるとお考えなのでしょうか。

おそらく多くの人たちの
文化財所有者への
お考えは同じようなものなのかと思うと
なんだか暗澹たる思いです。

1時間ほど妻がご案内して
みなさんはお帰りになりました。


2008年11月17日(月曜日)

郷土史研究会の皆さまが

カテゴリー: - kawamura @ 21時57分04秒

先日、
郷土史研究会の皆さまがおみえになりました。

会長の大石孝様は、
金谷町の文化財保護審議会の委員をしていたころから
よく存じ上げています。

ナギナタガヤを教えて下さったのも
大石様です。

朝9時に、童子沢公園の入り口で待ちあわせて、
10人ほどで天王山の頂上に登りました。

曇天でしたが風のないおだやかな日でした。

牧ノ原の諏訪原城、横岡の鶴見城、掛川市の松葉城
などについてご説明いたしました。

その後、御林守河村家に移動して
家の歴史などをお話ししました。

帰りがけに、
大石様から高額のご寄付をいただき
恐縮いたしました。

さっそく「御林守河村家を守る会」の通帳に
入金させていただきました。

有難うございました。


2008年11月12日(水曜日)

今年最後の草刈り開始

カテゴリー: - kawamura @ 09時13分40秒

今年最後の草刈りがはじまりました。

今日一日、シルバー人材センターから
7人のひとたちが草刈りに来てくれました。

何日かかかると思います。

完了後にUPします。


2008年9月17日(水曜日)

地の神様を再建しました

カテゴリー: - kawamura @ 07時26分51秒


(一番右は再建前の写真です)

地の神様を再建しました。

梅の木オーナーの皆さまのおかげです。

神主様にお願いして
祝詞をあげていただくことにします。

そのときには、またご報告いたします。

社殿のに棟木に
「再建時 明治廿九年七月 大工 金谷町河原藤村伊之吉」
と墨書がありました。

これは登記簿謄本を調べてみないと正確には分かりませんが、
地の神様はもともともうすこし道の上にあって、
いつの頃か、そこから現在の屋敷内へ移されたと
父は書き残しています。

というのは、
現在も河村家の土地は屋敷から市道沿いに上の方までのびていて、
いまは他家の土地とまだらになっていますが、
おそらく五百年まえは一枚の所有地であったのだろうと思います。

その北端に、地の神様は建っていました。

明治廿九年の再建時に、現在の地に移されたものと思います。

ご神体はとても不思議なものですが
もちろん公開はいたしません。

祠の扉をあけて耳を澄ますと、
ほんのかすかに、
遠い昔の、誰かの声が聞こえてきます。


2008年8月28日(木曜日)

草刈り開始します

カテゴリー: - kawamura @ 06時03分30秒

梅園はすでに密林の様相を呈しています。

ツルは伸び、身の丈より大きな雑草が覆いかぶさり、
梅の枝も天に向かって垂直に立ち上がっています。

自然の勢いに圧倒されます。

日本はこんなふうに
放っておけばたちまち草木の生い茂る豊かな国です。

雨水も豊富で寒暖の具合もほどよく
生い繁った植物はやがて大地に還って
豊潤な土壌をはぐくみます。

大和は 国のまほろば たたなずく青垣 山ごもれる 倭しうるわし

太古からこの国はそうでした。

太陽と土のあふれる恵みを刈り取って
梅の実の滋養としてあげましょう。

(つづきは後刻)


2008年8月22日(金曜日)

地の神様再建

カテゴリー: - kawamura @ 09時24分56秒

地の神様を再建しています。

朽ち果てて、崩れ落ちそうになっていたから、
いよいよ新しく建て直すことにしたのです。

地の神様は、もとはもう少し坂の上にあったものを、
いつのころかこの敷地内に移しました。

父の残した記録のなかに、
その辺のいきさつが書かれているかもしれません。

でも今は仕事場にいますので、
その記録を見ることはできません。

<再建中の地の神様の写真は後日UPします。
 いま夏期講習中でとても忙しいのです>

(つづきは後刻)


2008年6月2日(月曜日)

「自立する文化財」活動の門出

カテゴリー: - kawamura @ 05時04分07秒

30人を超える来客が
昨日の午前中にお見えになりました。

さまざまの方とお話しする機会がありました。

オーナーさまの記念写真は
途中まで撮りましたが
あとは忙しさのあまり撮り忘れてしまいました。

家内も慣れない応対に奮闘しておりました。

梅園で昼食を楽しまれる方々も
いらっしゃいました。

子どもたちもはしゃいでいました。

白ネコのラキくんも
外交に一役買って
オーナーさまの足もとにまとわりついていました。

明るい初夏の日曜日でした。

「自立する文化財」活動の門出を祝福するように
光あふれる梅園に
人々のさざめきが聞こえていました。

昨年までの梅園は
ただしずかに
梅の実が落ちる音だけが聞こえていましたのに
あまりの変わりように
感慨深いものがありました。

「鳥のさえずりを聞きながら
 新緑の森にかこまれて梅を採るのは
 とてもこころがリフレッシュします」

皆さまの笑顔が
何よりもうれしく思えました。

オーナーさまがお帰りになったあと
やがてお礼のメールと
来年度の申し込みとが続々と届きました。

なんのご接待もできませんでしたのに
みなさんとても喜んで下さいました。

今朝もまた10人前後のオーナー様が
来園される予定です。

これから準備をしなければなりません。

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月18日(日曜日)

景観をめぐる共存

カテゴリー: - kawamura @ 05時53分52秒

(左は朝、右は夕に撮影)
梅園の草刈りを開始しました。

オーナーの皆さまがお見えになるころには
雑草はすっかり刈り取られて
梅の木の下はすっきりとしていることでしょう。

同時に「御林守河村家住宅」の草取りもはじまります。

今はシルバー人材センターにすべてを依頼しています。

そこで私はひらめきました。

これを地元に還元しよう、と思いついたのです。

山村はこれから極度に高齢化します。

農村の若者たちは都市に職場を求めて
そのほとんどが帰ってきません。

少子化も進み、学童の姿を見ることもまれになりました。

このままではさみしくなる一方です。

「御林守河村家住宅」が
何かお役に立てることはないものかと思うのです。

まずは手始めに、
草刈り草取りの仕事を地元に依頼しようと思います。

お茶刈りの仕事が一段落したところですから、
ちょうどいいタイミングでしょう。

文化財とそれをとりまく里山の景観を守ることで、
都市の人たちに癒しの空間を提供し、
山村の人たちには生活の一助となる、
というのはとてもすてきなことだと思いませんか。

景観をめぐる都市と山村の共存。

ブログの読者のみなさん!

今まで私がご紹介した内容をヒントに、
こんな催し物があればぜひ遊びに行ってみたい
と思うような企画はございませんでしょうか。

コメント欄にお書きいただければ幸いです。

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月7日(水曜日)

「大自在」の反響

カテゴリー: - kawamura @ 06時15分24秒


「文化財を守るために
 まったく利潤を生まない仕事を
 22年間もつづけてこられたんですね」

そのひと言で、
いままでの苦労が報われた気がしました。

皆さん「大自在」を読んで
私の心境をよく理解していらっしゃいました。

拙著『蒼天のクオリア』を要約したかのように、
簡潔に私の苦悩の本質を表現している
大自在」の影響力には
いまさらながら驚かされました。

あらためて静岡新聞論説委員の榛葉隆行様に
心よりお礼申し上げます。

きのうの午前9時ごろから午後7時まで
私たち夫婦でお相手できたお客様だけでも
50人はいらっしゃったでしょう。

お相手できずに
外回りだけをぐっるっと見て帰られた方々も
相当数いらっしゃいましたから、
来客総数はそれよりはるかに多いと思います。

私も家のなかから庭の奥まで
何回も何回も
おなじ説明をくり返しました。

ボイスレコーダーの気持ちが
わかるような気がしました(笑)。

そのうち喉がかれて
意識がぼんやりしてきましたが
とても幸せな気分でした。

ほとんどの方が
来年でも再来年でもいいから
文化財維持保存のための
梅の木オーナーに協力したい
と言ってくださるのです。

脳科学者の茂木健一郎先生は
クオリア日記のなかで、
御林守河村家住宅をとりまく景色を

時間の流れが目に見える希有な空間

と表現しています。

思えば2005年の6月6日に
茂木先生は我が家を訪ねてくださったのです。

きのうお訪ねになった皆さんも
この風景の中に立ったとき
現代から切り離され
べつの時間が流れる空間を体感したようです。

だれもがふしぎな感覚を味わいます。

皆さんもいちどいらっしゃいませんか?

(脳科学者茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月6日(火曜日)

静岡新聞「大自在」

今朝の朝刊「大自在」に
御林守河村家住宅のことを取り上げていただきました。

論説委員の榛葉隆行様にお礼申し上げます。

島田市指定文化財・御林守河村家住宅の
維持保存問題について
私の苦悩がそのまま伝わるような記事でした。

先日の取材のあと
拙著『蒼天のクオリア』をお読みになったのでしょうか。

「家を守るための人生でした」

このひと言に、すべてが集約されていました。

また、里山の手入れの必要性も書いてくださいました。

梅の木オーナー」の募集は
文化財建造物の維持費を捻出するためでもあり、

将来この文化財が
どのような体制で維持保存されるにしても、

税金を投入することなく
財政的に「自立する文化財」を目差してのことでした。

オーナー様を、
「御林守河村家を守る会」の会員とさせていただいたのは、

この取り組みが、単なる果樹のオーナー制度ではなく、
指定文化財やそれをとりまく里山を守るための
新しい試みであることを認識していただくためでした。

大自在」にご紹介いただいたことを励みに

このような文化財維持保存の方法が
全国の地方自治体に先駆けて成功するよう
ますます努力精進するつもりです。

論説委員の榛葉隆行様に、重ねてお礼申し上げます。

(脳科学者茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年4月24日(木曜日)

自立する文化財(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時28分11秒

きのうの記事は
静岡新聞論説委員
榛葉隆行様がおみえになったことを書きました。

おだやかな紳士で
静かな語り口でしたが
頭の回転が非常に速くて
会話の切り替えについていくのがやっとでした。

ときおり微笑みをうかべたときの、
慈愛にみちたまなざしが思い出されます。

さてきのうの最後の一節からはじめましょう。

**********************

荒れ果てて、
分け入ることも困難なほど草や灌木の生い茂った廃園と、
いたるところ崩落した建物群のなかに、
ひとり文化財建造物だけが、
無傷で立っている。

そのようなことが、あり得るのでしょうか。

そのようなことが、じつはあり得るのです。

この「御林守河村家住宅」も
私が放擲すればいまからそのようになるはずです。

でもそれはできません。

(つづきは後刻)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年4月23日(水曜日)

自立する文化財(1)

カテゴリー: - kawamura @ 07時28分57秒

きのうの午前中、静岡新聞論説委員の
榛葉隆行様がご来訪下さいました。

「大自在」や「社説」を
お書きになっていいらっしゃる方が、
このような山間の地までお訪ね下さるのは
たいへん光栄なことでした。

文化財建造物所有者の苦労話しや
その問題点などを問われましたので、
私は、約1時間ほど
そのお話をさせていただきました。

話の途中で、この地が
いかにしずかであるかを知っていただこうとして、
話を止めました。

ふいに静寂がおとずれて、
遠い沢のせせらぎや、
かすかな風の音しかきこえなくなりました。

ふだんですと
森から鳥のさえずりがきこえるのですが、
ちょうどそのとき、
カラスの大きな声がひびいて、
ちょっと興ざめでもあり
ユーモラスな一瞬でもありました。

ところで、
ブログにはなんども書いてきたことですが、

たとえば朱印状一枚が
文化財に指定されているその所有者と、
建造物が指定されている文化財所有者とでは、
その苦労に大きな違いがあります。

文化財建造物は
それをとりまく庭と
周辺の建造物群とによって成立しています。

つまり、
文化財建造物の維持保存と、
指定されていない庭や周辺建造物群の維持保存とは
切り離すことができません。

このように想像してみてください。

荒れ果てて、
分け入ることも困難なほど草や灌木の生い茂った廃園と、
いたるところ崩落した建物群のなかに、
ひとり文化財建造物だけが、
無傷で立っている。

そのようなことが、あり得るのでしょうか。

(つづく。
 昨日の取材記事は静岡新聞「大自在」に載るかもしれません)

(脳科学者茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年4月16日(水曜日)

文化を愛する心

「梅がほしいんじゃないんです。
 文化財のお役に立ててほしいんです」

「梅は1キロもあればいいんです。
 この里山の風景をまもってほしいんです」

たくさんの来客やメールや電話などから
絶え間なくその言葉を聞きました。

日本の文化や風景を愛する心は
まだ命脈を保っていたのです。

そんなものは消滅したのだと
なかばあきらめていたのに、

「たいへんでしょう。
 がんばって歴史を守って下さい。
 私たちが応援しますから。
 
 いちど失われたら、
 二度と還っては来ないんですから」

その言葉に、胸が熱くなりました。

多くの方が

「草刈りのときにはボランティアで参加しますよ」

そうおっしゃって下さいました。

この滅びゆく国に
だれもが愛着を持っていると知りました。

都市に仕事を求め
都市に骨を埋めることになった
嘗ての田舎の少年少女たちは、
心の底で
故き良き日本を求めていたのです。

廊下の風鈴にさわるひとがいました。

目をほそめて
しばらくその音に聞き入っていました。

風鈴の
音と音との合間の
静寂のなかで
おさないころの
自分の家に帰っているかのようでした。

国が5000万人の無辜の国民を欺いても、
国民は黙って日々の暮らしをつづけています。

この国の非道さに
もう疲れたはずなのに
我が家にお見えになった多くの方々は、
鶯の声に驚き
そしてそのしずけさに感嘆し
この国の里山のたたずまいを深く愛しているようでした。

これこそが
日本の伝統文化を守るこころなのです。

このなにげない温かな心が
本当の意味での「文化を愛する心」なのです。

文化財保護について語り、討論し、
そしてその長い道のりの果てに
ようやく多くの理解者に出会うことができました。

心から感謝申し上げます。

文化財保護コメントバトルに参加して下さった多くの方々

梅の木オーナー制を提案して下さった諸田さま

そして「梅の木オーナー」の募集を
世界に呼びかけて下さった茂木健一郎先生
(世界に、というのは、
 茂木先生の「クオリア日記」の呼びかけに応えて
 ニューヨークからもお問い合わせがあったのです)

新聞記事に取り上げて下さった静岡新聞島田支局の内山さま

そしてなにより
「梅の木オーナー」にお申し込みいただいた多くの皆さま

寛政五年に建てられた「御林守河村家住宅」を中心にして
この屋敷やそれをとりまく里山の風景を
どのように維持保存したらよいのか
それについて様々な提案をし参加して下さった多くの方々に

ここに謹んで感謝の意を表します。

しかしだからといって、
全国から寄せられた温かいエールに
甘えてばかりはいられません。

皆さまのご期待に添うべく
私と妻と娘と、力の限り努力いたす所存です。


2008年4月15日(火曜日)

「梅の木オーナー」にお申し込みの皆様へ

カテゴリー: - kawamura @ 08時00分47秒


(今朝の写真です。
左右の写真をクリックして、比べてみて下さい。
左は実のついた木、右はほとんど実のついていない木です)

予想外のことでした。

「梅の木オーナー」にお申し込みの皆様へ

この度は「梅の木オーナー」にお申し込みいただき
まことに有難うございます。

茂木健一郎先生の「クオリア日記」をきっかけにして、
4月11日(金)の静岡新聞夕刊に記事が掲載され、
大変多くの方々にお申し込みいただき
心より感謝致しております。

さて、
今年は3月に霜の日がございまして
梅の花の多くが凍り、
例年に比べて梅の実の数が大変少ないのです。

梅の木1本に付き、
最低15キロの梅の実を保証していますので
たくさん実をつけた木を
保証用に確保しておかなければなりません。

その様なわけで、
まことに恐縮ではございますが、
4月14日までにお振り込みいただいた方々のみ
本年度の会員とさせていただきます。

15日以降は、
「梅の木オーナー」の募集を締め切らせていただきます。

せっかくお申し込みいただきましたのに
お応えできなくて
誠に申し訳なく思います。

15日以降は
年会費のお振り込みをなさらないよう
お願いいたします。

万一15日以降にお振り込みになった場合には
必ずご指定のお客様口座へ全額返金いたしますので、
メールや電話で
指定口座をお教えいただきたく存じます。

また、もしも
来年度のオーナー様としてご予約いただけるのでしたら
お受けいたします。

メールでお申し込みいただければ
優先的に来年度の梅の木オーナー様予約リストに
掲載させていただきたく存じます。

来年度予約の方々も
会費のお振り込みはなさらないよう
お願い致します。

また、オーナー会員様でなくとも
「御林守河村家住宅」の見学はお受けしておりますので
お気軽にお出かけ下さいませ。

お越しの際は、
必ず電話にてご一報下さいますよう
お願い申し上げます。
(0547−46−1648)

御林守河村家十五代 河村隆夫

(この収益は、島田市指定文化財「御林守河村家」及びその周辺の維持保存のために使われます)


2008年4月14日(月曜日)

崩落寸前!!


崩落の瞬間へ
カウントダウンが始まりました!!

崩壊寸前の建物の詳細は
旧金谷町教育委員会の依頼で建築士の方々が半年ほどかけて作成した
調査報告書をご覧いただくのが
よろしいかと思います。

河村家住宅調査報告書」の
「宗平おじいさんのお倉」「茶部屋」が当該箇所です。

下の写真は、2005年10月2日に撮影したものです。


2008年4月13日(日曜日)

新聞の反響

カテゴリー: - kawamura @ 06時08分50秒

(写真は昨日お見えになった方々です)

まさか
あれほど大きな新聞記事に取りあげられるとは
思いませんでしたから
その反響の凄まじさにおどろいています。

インターネットでの申し込みは
三日目の今日もまだつづいていますし
来客もございます。

できるかぎり丁寧にお答えしているつもりですが
不手際な点も多々あることと思います。

なにぶん初めての試みではございますので、
ご容赦頂きたく存じます。

ところで
来客の皆様から
御林守河村家の歴史や
その暮らしぶりなどについてのご質問がございますが
それにつきましては
拙著『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』に
くわしく書いてございます。

これからご来訪になる方々も
お読みになってから風景をご覧になると
また深い味わいが得られるものと思います。

ご先祖さまが戦死した
永正二年(1505)以来の500年間
どのようにして河村家が存続してきたのか
御林守河村家の歴史を堪能していただけることと思います。

島田駅前の書店「BOOKS ZEN」の店頭にもございます。

これからは皆様のご期待に添うべく
梅狩りはもちろんのこと、
「御林守展」などのイベントも開催しようと思っています。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。


2008年4月12日(土曜日)

夕刊に「梅の木オーナー募集」

カテゴリー: - kawamura @ 06時16分39秒

昨日(4/11)の静岡新聞夕刊に
梅の木オーナー制度
の紹介記事が載りました。

年会費1万円で、
指定された梅の木1本になる実を自由に利用できる、
という制度です。

「自立する文化財」運動にご協力いただきまして
静岡新聞様に心から感謝申し上げます。

先日の茂木健一郎先生のブログ紹介記事
昨日の新聞記事などの
皆様のご協力によって、

税金を投入する必要のない
「自立する文化財」
への道がひらけてまいりました。

ご協力有難うございます。

新聞記事から抜粋いたします。

********************

市教委によると、
文化財の母屋は江戸時代の寛政五年(一七九三年)に
建てられた「かやぶき寄棟造り」。

河村家は幕府直轄の山林を管理する
「御林守」の役職だった。

河村さんは
「自分の家を他人の金で守るのかとの
 批判もあるだろうが、
 文化財保存の意味で理解してほしい」
と話し、
収穫作業に参加できるオーナーを募っている。

収支は
「ホームページで明確に報告する」
という。

********************


2008年3月31日(月曜日)

証券会社の皆様が里山を楽しみました

カテゴリー: - kawamura @ 09時58分33秒


静岡にある大手証券会社が文化財保護に貢献して下さいました。

支店有志の皆さんが
梅の木オーナーにお申し込み下さったのです。

崩落してゆく文化財「御林守河村家住宅」を守るべく、
最初にNさんがお見えになり、つぎにKさん、
やがて社員有志の方々、
そして最後に支店長のTさんがお見えになりました。

10時に公民館前に集合、
注意事項の説明などをさせていただきました。

はじめに「御林守河村家住宅」を見学、
文化財維持管理の困難さを理解して下さいました。

やがて山菜採り、
そしてタケノコ掘りがはじまりました。

竹藪のそこかしこで、歓声が上がります。

はじめて自分でタケノコを見つけ
なれない仕草で掘っています。

その収穫はバーベキューで召し上がったようです。

川で魚取りを楽しんだ社員もいたようですが、
それは、まだちょっと寒かろうと思いました。

午後1時ごろ小雨がぱらついて
会はおひらきとなりました。

なにごともなく終わりました。

さすがに日本を代表する企業人の姿は
高いモラルに支えられていると知りました。

河村家住宅を見学する姿も、
タケノコを掘るときにも、
あるいは「御林守河村家を守る会」
の規約を遵守することにおいても
そのモラルは美事に保たれていました。

良き一日でした。

なんとなく、文化財保護への道が
見えてきたような気がします。

eコミの皆様、ご協力下さった多くの方々、
そしてなにより、
この企画を世に知らしめて下さいました
茂木健一郎先生に
心から感謝申し上げます。


2008年3月30日(日曜日)

梅の木オーナー規約・細則を考えました

カテゴリー: - kawamura @ 06時53分56秒


昨日、梅の木オーナーの皆様に
仮の会員券を発送いたしました。

会員券の裏の
規約第3条は下記のように訂正いたします。

会員の皆様には
4月中には正規の会員券と規約・細則を
お送りするつもりです。

はじめてのこころみで、
まだ判子も作っていないし
規約や細則も完全というにはほど遠く
途方に暮れております。

今日は、
規約・細則(案)をみなさまにご覧いただいて
加筆修正すべき点などお教えいただければ
幸いです。

文化財保護を主眼とした内容にしたいのですが
なかなかうまくいきません。

こいうことには全く不慣れでして
コメントでもメールでも結構ですから
どなたか慣れた方のご指導を賜りたく存じます。

メール kabuto*mwc.biglobe.ne.jp
   (*を@に換えて下さい)

きょうは法人会員の皆様がお見えになるので
これからその準備にかかります。

**********************

規約(案)

1.「御林守河村家を守る会」は
  島田市指定文化財「河村家住宅」の維持保存を目的とします。

2.「御林守河村家を守る会」の会員は1年更新とします。

3.会員は、年会費1万円につき、1年間、
  当該梅の木から収穫される実を独占的に利用できます。

4.梅の収穫は会員本人ですることを原則とします。

5.細則は、「御林守河村家を守る会」のブログ上に表示します。

細則(案)

1.河村家所有地内は禁煙です。

  火災による文化財消失、あるいは森林消失を防ぐために
  喫煙など火災のおそれのある行為は絶対に禁止します。

2.草木などの採取を禁止します。

  花々や幼木などは里山の景観を護るための大切な資源です。
  スコップなどの用具は絶対に持ち込まないで下さい。

4.河村家所有地内での山菜採りは会員の権利です。
  
  山菜採りとは、手で摘み取ることのできる山菜、
  「わらび、ぜんまい、ふきのとう、ふき、みつば」
  を採取することを指します。  

5.タケノコ掘り用の鍬は、2本まで貸し出しますを貸し出します。

  タケノコを掘った穴は、
  本人が完全に固く埋め戻して下さい。

  穴を放置すると、
  雨水がたまり、やがて崖崩れのもととなります。

6.会員様お一人につき、同伴者は5名までとします。

7.河村家所有地以外には決して立ち入らないで下さい。

8.所有地内外での事故や怪我などについて、
  当会は責任を持ちません。

9.規約、細則は、本会の管理運営のために
  改正あるいは追加規定を設けることができるものとします。

10.「御林守河村家を守る会」の所在地は、
  静岡県島田市大代1882番地とします。


2008年3月28日(金曜日)

桜とはじめてのオーナー様

彼は20代の好青年でした。

名古屋からはるばる車で来てくれたのです。

昨日、
掛川の彼女を乗せて、
山里の梅園を訪ねてくれました。

おりしも先駆けの桜が咲きそめ、
白い木蓮が満開の朝でした。

青年は
私の説明に熱心に耳をかたむけ、
花々の美しさを褒め、
古きものに津々たる関心をしめしていました。

裃(かみしも)のことを話していると
「○○絞りですね。
 私は絞りの勉強をしたことがあるんです」
と応えました。

○○のところを、忘れてしまったのです。
はじめて聞く絞りの名前でしたから。

でも、
文化財住宅には、盗難の心配もあって、
あまり良いものは置いてないのです。

それでも青年はひとつひとつのもの、
鉄瓶や炭壺や長火鉢の角の継ぎ目なんかを
目を輝かせて見ていました。

彼女は、
そんな青年をまぶしそうに眺めていました。

晴れた春の日でした。

廊下の陽差しが照りかえして、
純朴そうな青年の横顔や、
まだおさなさの残る女性の瞳に
あわいひかりを映していました。

しかし
青年の純真さは鏡のように、
家を守ることに疲れて
ゆがんでしまった私を写しだしていました。

それに気づいて、
私は悲しくなりました。

会話がとぎれると、
鳥の声と
遠くの川のせせらぎが聞こえるだけになりました。

やわらかな風がきて、風鈴がちいさくなりました。

それはだれも気づかないほど、かすかな音でした。

しずかな時が流れました。

そうしてしばらくして
私のゆがみもなやみも
ゆっくりと溶けはじめ
やがてきえてゆきました。

これで良かったんだと思えるようになりました。

谷合の村で、
古びた家を守り通すことにも、
なにかしらの意味はあるのでしょう。

この青年と少女が、
このしずけさを、
この自然を、
そしてこの古びた家と
それを継いでゆく者たちの物語を、
はるかな旅の果てに
歓びを全身にかがやかせて耳かたむける姿は、
私に生きている意味を与えてくれました。

ありがとう、若きオーナー様。

きょうは山菜があまりなくて、
わずかな時間しかご案内できませんでしたが、
次回は
梅取りの6月上旬になるのでしょうか、
きっと訪ねてきて下さい。

きょうお話ししたように、
山桜も、新緑の谷も、ホタルも、月も、銀杏も、
すべての山里の光景を楽しむことのできるこの地へ
何度でもお越し下さい。

心からお待ちしています。


2008年3月19日(水曜日)

まっくろくろすけのこと

それはととろにでてくるあれのことです。

梅の木オーナーのブログに

「島田市指定文化財「御林守河村家住宅」を
 無料でご案内いたします。

 マックロクロスケが住んでいます。
 まえもってブログをお読みいただければ、
 いっそうお楽しみいただけると思います」

と書きましたら、

「河村家のまっくろくろすけの事
 もうすこし詳しくブログで読めますか?

 5歳になる娘が喜ぶだろうと思いまして。」

とお問い合わせがありました。

きょうは
まっくろくろすけのことをお話しします。

家の写真はブログのなかにも
HPにもございますのでどうぞそちらをご覧下さい。

(「御林守河村家住宅」の紹介TV番組    

それでは、まず、古い家を思い浮かべてみて下さい。

それは西洋のものでも日本のものでもかまいません。

ホラー映画にあらわれるあんな感じの建物がいいでしょう。

そこにはなにかが棲みついているように感じませんか。

得体の知れないなにか、
形をもたないなにかを感じませんか。

建物自体が、生きているようなあの感じ。

柱の影に、誰かが立っている気配を。

たしかにそれは、
なにかが棲みついていて、
闇にひそんで私たちを待っているのです。

私はそういう家で生まれ、育ちました。

闇にひそむもの、
それはしかし恐ろしいものとはかぎりません。

座敷わらしのようなかわいい姿をとることもありますし、
ときにはまっくろくろすけのすがたで
私たちを楽しませてくれることもあるのです。

妻はいつも歎いています。

なんど掃除しても
畳の上に
まっくろくろすけののこしたすすのようなものが
おちているのです。

それは私たちのうしろへ音もなく舞いおり
かすかなかぜにのって
なんどのやみのほうへきえてしまいます。

(それはたんに屋根裏のすすが
 まいおりてくるのかもしれませんけれど(笑))

これを書いているとき、
まさに今、午前5時、
裏山の闇から
私を呼ぶようなかん高い鳴き声が聞こえています。

だれが呼ぶのでしょうか?

見に行ってきます。


2008年3月18日(火曜日)

文化財と梅

カテゴリー: - kawamura @ 07時16分08秒

私の家は、「御林守河村家住宅」として、
島田市有形文化財に指定されています。

最近、この文化財とその周辺の河村家所有地を
買い取りたいという話がありました。

そのとき、これはほんの一瞬なのですが、
体が軽くなって、幸せな気分につつまれました。

それは刹那のことですが、
歴史の重圧から解きはなたれるという幸福感が
私をやさしくつつんだのです。

歴史や土地に縛られず
自由に生きることができる、
それは、とても魅力的な誘惑でした。

しかししばらくして私は思いました。

歴史に縛られずとも、
自分の土地に縛られて生きる人はいるはずです。

あるいは会社や、
家族に縛られている人もいるでしょう。

たとえそれらに縛られなくても
自分の身体から逃れることはできません。

誰しも、
なにかしらに縛られて生きているのだ
そう思い至ったとき、
私はむしろこの運命を受け入れようと決めました。

その申し入れは相当な額でしたが、
私は断りました。

ちょうど500年前、
永正2年(1505)に、祖先夫婦はともに戦死し、
天文七年(1538)に、二代目の助二郎が
大宝神社に鰐口を寄進したことを思いおこしたのです。

この地を守るべし、と祖先の声が聞こえるようでした。

この脈々と続いた家を守ることにも
なにかしらの意味があるはずです。

この家と土地を売却したら、
もう取り戻すことは不可能でしょう。

一度失われたものは、二度と還ってこないのです。

たしかにいまは
文化財とその周辺を維持することは
経済的に困難です。

しかしそのとき、
すべてを知ろしめす神がいるかのように、
救いの手が全国からさしのべられました。

それは、茂木健一郎先生のお力によって
もたらされたものでした。

まさかそれに、
梅が役立つとは夢にも思いませんでした。

この25年間、
100本をこえる梅の木は、
むなしく実を実らせて、
その実はすべて大地に還っていきました。

毎年毎年のことでした。

ですから、この25年間、
梅園に落ちた梅の実を積み重ねてみれば、
数十センチにもなるでしょう。

25年間、一度も農薬を使うことなく、
刈り取られた雑草も
すべて梅園の土地に還っていきました。

こうして、はからずも
「完全無農薬・御林守の梅」が出来上がったのです。

昨日もまた、
梅の木オーナー制度
多くの方からのお申し込みがありました。

心から感謝申し上げるとともに、
文化財維持の責任を痛感しています。

茂木先生、
そしてお申し込みいただいた多くの皆様
本当に有難うございました。


2007年8月16日(木曜日)

ボランティアの皆さまへのお礼

カテゴリー: - kawamura @ 08時04分52秒

12日に、
お盆前のお忙しいなかを「蛍の城」計画のために
お集まりいただいたボランティアの皆さまに、
心から感謝申しあげます。

森町から駆けつけてくださったIさま、
高校時代の同級生S君、
そして環境ひろば水とみどりの分科会の皆さま、
御厚情に厚く御礼申し上げます。

雑草に覆われていた清流が見事にあらわれたときの
よろこびと同時に、
今後はボランティアにお願いしてはならないと
痛切に感じました。

と申しますのは、
私の年齢は50代の半ばですが、
ボランティアに来てくださった方々のお年は、
平均して私よりはるかに年上のように感じられました。

酷暑の中を、朝9時から午後3時過ぎまで、
ふらふらになりながら草刈りをしてくださったのです。

軟弱な私は、熱中症のようになって、
エアコンの効いた部屋でしばらく横になっていたほどの暑さでした。
外では皆さんが滝のように汗を流して草を刈っていました。

そのとき思ったのです。

「自分の家を他人のお金や労力で維持できるならラッキー」

これは今年の1月にブログ上で文化財保存問題を討論したとき、
核心を突いた意見として、
それ以来心をはなれなかった言葉です。

私個人の資産を、ご高齢の方々に、
無償で、炎天下に草刈りをしていただきながら、
のうのうとエアコンの効いた部屋で横になっている
自分の醜さに気づきました。

ボランティアの現実を目の当たりにして、
自分の甘さに臍を噛みました。

ボランティアの皆さまには心から感謝いたしますが、
今後は、私個人の力で、
草刈りしていくことを決めました。

当面、シルバー人材センターにお願いしようと思っています。
反論も多々あるかとは思いますが、
私個人の資産は、私個人で維持管理して行こうと決めました。

(12日のお礼をどのようにしたらよろしいのか迷っています)


2007年6月18日(月曜日)

「御林守の梅」販売実績報告

カテゴリー: - kawamura @ 10時49分50秒

今年はじめて梅のネット販売をはじめましたところ、
直接梅取りにお見えになった方々、
ネットでご注文いただいた方々など、
予想以上のお申し込みがありました。

(1)直接梅取りにお見えになった方々。

◎6月2日(土)

TOSHIさま(千葉県)
Y.Uさま(東京都)
ミッキーパパさま(東京都)

TOSHIさまからは
演劇青年時代の華やかなお話しを写真解説とともに、
また、もとアナウンサーのY.Uさまとは
茂木健一郎先生のことなど、
ミッキーパパさまとは
東京ドームのことなど、
さまざまなお話しを楽しみました。

合計 1,000円(大梅2Kg+ご寄附)

◎6月3日(日)

Mさま他3名(東京都)

自然を楽しみながら、
「私たちがネットで見て来たということは
東京では私たちの100倍の人たちが
完全無農薬の梅を求めていると思います」
とおっしゃいました。
元気百倍になりました。

合計 3,200円(大梅7Kg+無農薬梅干し2パック)

(2)宅急便でお送りした方

◎6月4日

M.Oさま(兵庫県)

大梅3Kg

合計 1,500円
(宅急便代+お振り込み料は別途負担していただきました)

◎6月4日

R.Nさま(東京都)

大梅2Kg

合計 1,000円
(宅急便代+お振り込み料は別途負担していただきました)

◎6月6日

K.Mさま(山口県)

大梅20Kg

合計 10,000円
(宅急便代+お振り込み料は別途負担していただきました)
(クール代金は当方で負担いたしました)

◎6月12日

Y.Fさま(愛知県)

大梅10Kg

合計 5,000円
(宅急便代+お振り込み料は別途負担していただきました)
(クール代金は当方で負担いたしました)

◎6月17日

M.Uさま(東京都)

大梅2Kg

合計 1,000円
(宅急便代+お振り込み料は別途負担していただきました)

初年度で22,700円の売り上げがございました。
島田市指定文化財「御林守河村家住宅」周辺の
草刈り費用の一部に充当させていただきます。

皆さま、ご協力どうもありがとうございました。
完熟梅の予約はまだ受け付けておりますので、
お早めにどうぞ。


eコミ交流会「完全無農薬・御林守の梅」

カテゴリー: - kawamura @ 09時37分49秒

完全無農薬「御林守の梅」として
はじめて今年から梅のネット販売をはじめましたところ、
思いがけぬ多くの方々からお申し込みをいただき、
心から感謝申しあげます。

昨日、eコミ交流会を拙宅で開いていただきました。

総務大臣表彰をeコミが受賞しましたので、
その活動の様子を取材に、
ネットジャーナリストの小池正英様が東京港区からお見えになり、
午前10時から午後5時まで、
ずっと撮影や取材をなさっていました。
最後に私もインタビューを受けました。

私にとって交流会での一番大きな出来事は、
morotyannさまにお会いできたことです。
文化財保存の白熱するコメントバトルに
「私利私欲」という言葉で一石を投じて下さった方です。
皆さま憶えていらっしゃいますでしょうか?
その言葉によって、
文化財保存問題の核心をつく議論をすることができました。

そのmorotyannさまから、今回は
蛍のこと、竹のこと、
地に足のついさまざまなアドバイスをしていただきました。
morotyannさまに感謝申しあげるとともに、
これからのご指導をよろしくお願い申し上げます。

交流会のあと、
皆さまに梅取りをしていただきました。
梅の売り上げ3000円は
「御林守河村家」周辺の草刈りなど
シルバー人材センターへの支払いの一部に
充てさせていただきたく思います。

ところで、
5月の末から昨日まで、私は梅農家をしておりました。
200Kg以上の梅を採りました。
疲れて、ブログが滞っておりました。

まだすこし、完熟梅が残っております。
お申し込みの方はお早めにどうぞ。


2007年3月23日(金曜日)

観光と物語

カテゴリー: - kawamura @ 07時00分56秒

先日、松山市長の中村さんとお話しする機会がありました。
寿司屋の座卓を囲んで、数人で話したときのことです。

愛媛県松山市の観光のことに話しが及んで、
私が、「地域をまとめる物語をつくろうとしています」
と申しましたら、突然市長が私の手を取って、
「私もそれと同じことを議会で主張しつづけているんです」
と欣喜雀躍のようすでした。

思えば松山市には、
明治の文豪夏目漱石と正岡子規、
日露戦争の立役者秋山好古、真之兄弟、
また名所として松山城や道後温泉と、
物語の素材にはこと欠きません。
路面電車もとても風情がありますし、
遠く関西方面からも信仰をあつめ
大祭には数十万人の人出でにぎわう「椿さん」(椿神社)も
物語のひとつの核になりそうです。

それらがひとつひとつ離れて存在しているのではなく、
あざやかな物語の糸で結ばれていれば、
地域全体がひとつの有機体として
観光客の眼にうつるのではないかということです。

あたりまえのことですが、
人は物理的な風土のなかに暮らしているだけではなく、
歴史がつむぎ出す情感のなかでも暮らしています。
もう少しいえば、
その街のうえをながれるやわらかな時間とともに、
すべての人々のこころのなかに、
かけがえのない物語が
それぞれにつむがれているのだろうと思います。
その物語のひとつひとつの糸をさらに大きく編んで、
地域をおおう雄大な物語を創出しようというのです。

それはちょうど、その日の夕に、
茂木健一郎先生の講演にあった
マルセル・デュシャンの「泉」のように、
すでにあるもの(レディ・メイド)に物語を付加して
芸術作品を創り出してゆく過程にもにています。

ともあれ、
夜の松山空港に降り立ってから二泊した松山市の思い出は、
私の記憶の名所となりそうです。

(その松山市のお話しについては、
 友人の松村や白洲信哉さんのことなど、
 またなんどかに分けて書こうと思います。
 松村、観光案内ありがとう。
 白洲さま、ごちそうさまでした。
 またメールします)


2007年1月30日(火曜日)

お力を貸してくださいっ!

カテゴリー: - kawamura @ 07時26分58秒

私も、手をこまねいてきたわけではありません。

私は平成8年、45歳のときから、 
平成17年に
旧金谷町と島田市が合併するまでの10年間、
旧金谷町文化財保護審議委員をしておりました。

以下の文章は、
金谷町文化財保護審議会において、
私もその一員として審議委員にお配りし、
会議の席上で、
文化財建造物の維持管理がいかに困難であるかを、
訴えたときのものの一部でございます。

このように
文化財「河村家住宅」の維持管理問題を
なんどか文化財保護審議会の議題として
俎上にあげていただいたことがございました。

委員の皆さまも、私の窮状を理解し、
同情してくださいました。

私は決して
手をこまねいていたわけではありません。
しかし、
その後まったく変化はありませんでした。
ブログを書いている現在より
はるかに文化財行政のただ中にいたのに、
何も変わりませんでした。

昨年からも、
市の文化財係に
なんども窮状を訴えつづけているのですが、
「いずれお返事します」「後日うかがいます」
という返答ばかりで、
なんの進展もなく歳月はながれてゆきます。

自分のふがいなさが情けなくなります。

いつまでこのような状態がつづくのか、
不安と絶望を感じます。
さらに、苦悩のなかで、
自分が癌を患うことになろうとは
思いもしませんでした。

皆さま、お力を貸してください!
ひとりの力では如何ともしがたいのです。
まず、
文化財行政の窓口に、
腰をあげていただかねばなりません。

どうぞ皆さまのお力をお貸しください。
よろしくお願い申し上げます。

以下、提出した文章の一部です。

*************************

文化財に指定された我家を維持するために、
娘たちの教育にも不適当で、
生活にも不便な山奥に新居をかまえました。

毎年荒れはてた庭に庭師を入れ、
来客があればそれにあわせて周辺の草刈りを頼み、
屋敷内は自分たちで草取りをし、
倉の軒が落ちれば業者に修理を依頼し、
山が崩れれば土止めを築いて、
文化財の管理につとめてまいりました。

とくにこの一・二年、
つむじ風で裏山の巨木が数本倒れ、
塀が倒れると、
私たちも限界を感じました。

どこまで、
あるいはいつまで、
自分たちの力でこの文化財を保存できるのか
という不安と疑問を感じたのです。

指定されている母屋の修理費を
町と折半で負担することに、
異存はございません。

ただ、
去年の暮れに三ヶ月ほどかけて専門家に
調査をしていただいた結果(資料)を
拝見いたしますと、
米倉、倉、宗平おじいさんのお蔵、
さらに茶部屋までも貴重なものだと評価されています。
これはたいへん光栄なことではございますが、
正直なところ負担も感じます。

文化財指定されていない上記の建築物を、
完全な個人負担でまかなうことは不可能に思います。

あるいは今後も、
周辺の草刈りや屋敷の草取り、
庭の手入れなどをいつまで自分たちで負担できるかも、
不安に思います。

と申しますのは、家内の父親が大病をし、
また家内の両親とも70代の後半になりまして、
実際に草取りや梅の木の剪定などをしていた
二人の協力が得られなくなったのです。

現在は、
すべてをシルバー人材センターに依頼しています。

詰まるところ、
文化財周辺の環境を維持保存するための原資を、
どこにもとめるかということでございます。

文化財活用に関する様々なご意見を、
多くの方からうかがいました。

活用によって得られた利益を、
維持保存の原資と考える以外にも、
方法はあるのかもしれません。

皆様のご賢慮を拝聴いたしたく存じます。

平成16年12月16日
               河村隆夫

金谷町文化財保護審議委員会様
**********************


2007年1月29日(月曜日)

コメントMVP決定!

カテゴリー: - kawamura @ 08時34分16秒

今回の
文化財「御林守河村家」保存問題に関して、
多数寄せられたコメントのなかから、
僭越ではございますが、
森の石松さま(森町の石川喜一郎さま)に、
最優秀賞を贈らせていただきます。

石松さま、ほんとうに有難うございます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

以下、石松さまが投稿してくださった
4通のコメントです。

**********************
<6>2007年01月22日22:57 石松

春先を待たずに、手入れをするしかないですね。
文化財の崩落を手を拱いて見てられませんね。
地上から出来る範囲の手入れをするしかないですね。
脇屋の屋根はブルーシートを掛けておく程度しかないかなあ。
島田市役所(元金谷役場)にも相談してはいかがですか?
すずめ蜂は巣を取らないと、危険ですね。
手入れ作業をするまえに処置が必要ですね。
>アラヤシキ・ツネ様にお任せですね。
このままですと、早晩屋敷の周囲は荒れ果ててしまいますね。
困りましたね。

<12>2007年01月23日12:47 石松

古い民家にはその建設された背景とか、
使用されてきた歴史があります。
単に建築年代が古いだけでなく、
昔の生活の場としての役割、
分化や伝統に裏付けられた価値があると思います。

そのような価値のものが、
風雪に堪えきれず朽ちていくのは
文化的な遺産を捨てることに繋がります。

県内でも多くの歴史的な建造物が
文化財として指定され保護されています。

個人でこのような文化遺産を守っていくことの
経費的な負担助け、
文化財として保護する法律があるのも
そういった趣旨からだと思います。

祖先から受け継ぎながら、
自らの代で朽ちていく建物を目の前にして、
かぶとぼとけさんの心の痛みは
計り知れないものと推察します。

公的な資金を早く投入して、
以前の姿に一日も早く戻したい
と願っていると思います。

勿論、公的な資金を入れれば、
改造とか修繕すら
自分の思う通りにはならなくなってしまいますが、
そんなことは問わずに
朽ちる前に一日でも早くと切に願っている
かぶとぼとけさんの心中を考えると、
私も切なくなってきます。

私利私欲などかけらもないかぶとぼとけさんの心を
理解してあげてください。
一度でいいから、
建物を直接見てあげてください。
お願いします。

<19>2007年01月26日13:10 石松

森町にある友田家住宅が文化財に指定されています。
現在は予約制ですが、
一日一組限定で宿泊体験者の受け入れをしています。

数年(十年?)前に、立替え工事を行い、
保存対策をいたしました。
母屋本体のみですが・・。
この母屋は現在家の方は住んでいません。
隣に建てた家にて暮しています。

観光客が見学に来たりする他に、
体験宿泊が可能です。
宿泊者は自炊が原則です。
保存支援ボランテイアグループがあり、
周辺の草刈とか家の手入・修理を年1、2回しています。

地元に有志の方がいれば、
そのようなボランテイアグループを
組織するのもいいかと思います。

<22>2007年01月28日21:09 石松

磐田市の旧家の土蔵に関する新聞記事がありました。
見出し「地域の宝、保存活用を」
栗田家土蔵群 NPOが調査研修
磐田市見付の市登録文化財、
栗田家土蔵群で、二日間にわたる
歴史的建造物調査研修会が開かれた。

市からの委託で
栗田家土蔵群の改修設計をする
オズ一級建築士事務所(村上浩所長の主催。
NPO法人歴史的建造物保存・活動集団
(本部・滋賀県、村田信夫理事長)が協力して
土蔵群の専門家詳細調査を実施した。

調査終了後、
地元まちづくり団体や建築関係者ら約三十人が参加し、
歴史的建造物の調査研修会を開催した。

研修会では村田理事長らが歴史を重ねた建築物や
それを守る技術のほか、
活用することの重要性を訴えた。

村上所長は
「これからも町作りを担う人々にこうした場を作り、
地域の宝を皆さんにも認識してもらいたい」
と話した。
    1月23日?中日新聞朝刊 県西部版


2007年1月28日(日曜日)

コメント決定打!

カテゴリー: - kawamura @ 03時03分33秒

(21)Comment by kei — 2007年1月27日(土曜日) @ 16時09分30秒

もし、手立てを講ずるにはまだ少し猶予があるのでしたら、
今後、どうしていくのがよいのかを考えるために、
専門家、市の担当、市民が、
「河村家住宅」についてあらためて学ぶ機会がなんとか開けないだろうか、と思います。
(ご事情や経緯をよくわかっていないまま、勝手なことを申し上げることを、どうぞお許しください。)

河村さんが公開されている河村家住宅調査報告書()〜()を拝見しました。
感じることは多々あるのですが、最も強く思うのは、()の主屋について記載されている箇所です。

>しかし本建物は、昭和47年度に実施された静岡県内の民家緊急調査からは漏れており、
  その特色や価値が適切に評価されているとは思われない。

市の指定文化財である主屋についてのことですが、
茶部屋などほかの建物についても、同じ印象をもちます。
(報告書をまとめた方の表現の随所にも、それを感じます…。)

市に相談して、専門家(大学の研究室や在野研究者)、市の担当者、市民の参加できる場をひらき、
たとえば、調査報告書を作成された担当(NPO静岡県伝統建築技術協会)の方に協力をお願いして、
建物の映像をみながら、報告書の内容を話していただく、ということからではどうでしょうか。

その内容を元に、さまざまな視点(地域史や建築、自然のなりたち等々)、
文化財保護のあり方まで含めて話し合われることができたら、と思います。
テーマによっては「河村家住宅」が、
他の文化財選定をうける際の資料になるかもしれません。
(話し合いの内容は、記録報告をされるとよいです。)

公的施設を借りて規模の小さな会を何回かひらく、というかたちでしたら、
さまざまな負担も軽減されると思いますが、
かたちは柔軟に変えてテーマと集まる人に合わせても…と思います。

話し合いの過程で、さまざまな人が関わり、
目下の問題にもよい解決策が見出されてほしいと願ってます。

(せめて一時間以内の場所でしたら、多少の力仕事もお手伝いできるのに、、、と思うのですが。
でも、広くボランティアを募るということがありましたら、掲示でお知らせください。
在横浜市ですので、頑張ればなんとか…。)


2007年1月27日(土曜日)

ご助言に感謝します!

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分28秒

多数のコメントに感謝申しあげます。

とくに、
端緒をひらいてくださったmorotyannさまには、
心から感謝申しあげます。

「御林守河村家住宅」について皆さまからいただいたコメントを、
時系列でご紹介することといたします。

<1>2007年01月22日09:58 羽尻公一郎

あらら。素晴らしい庭をお持ちだとご苦労もあるのですね。

(2)Comment by morotyann — 2007年1月22日(月曜日) @ 10時04分45秒

昨年11月、
環境問題や古民家に熱い想いを抱いている仲間の紹介で
河村家を始めて外から見学致しました。
遠くからは、
里山風が色濃く残る田舎風景の中に旧家の屋根がマッチングし、
素晴らしい光景でしたが、
いざ近づき、前に立って見ると、その光景は一変、
凄まじい荒廃ぶりに目を見張り、
驚きと落胆を隠せませんでした。
何故、こんなになるまで放置されているんだろうか?
何故、誰か支援しないのだろうか?
何故地元にこんな由緒ある建物があるのに
知らん振りしているのだろうか?
疑問を持ちながら、私も何もやらずに今日に至りました。
再生や復興に向けて何が障害になっているのだろうか?
本当に河村さんが私利私欲なく立上ったら、
かなりの方が手を差しのべるのではないでしょうか、
有志を募り、先ず十分な話し合い、納得を得た上で、
片付け、修理、維持管理の仕組み作り
<資金問題が一番ネックかもしれない>
へとつなげてゆく、
河村さんは今、病み上がりで力仕事は無理のようですが、
有志の集まりのきっかけまでは力を振り絞って作るべきと思います。
頑張って下さい。 〆

<3>2007年01月22日11:07 TOSHI

しばらく目を離すと、いろいろなことが動いているのですね。

<4>2007年01月22日15:22 アラヤシキ・ツネ

困ったことになりましたね。
聞く側も途方にくれてしまいます。
守るものが何一つ無い
子沢山貧乏家の長女で良かったなあと、
つくづく思いました。
スズメバチの巣を破壊し、
遠くへ追っ払う仕事は私にお任せください。

<5>2007年01月22日21:05 nomad

蜂の子とったら焼酎に漬けて置いてください(ジュル

<6>2007年01月22日22:57 石松

春先を待たずに、手入れをするしかないですね。
文化財の崩落を手を拱いて見てられませんね。
地上から出来る範囲の手入れをするしかないですね。
脇屋の屋根はブルーシートを掛けておく程度しかない
かなあ。
島田市役所(元金谷役場)にも相談してはいかがですか?
すずめ蜂は巣を取らないと、危険ですね。手入れ作業をする
まえに処置が必要ですね。
>アラヤシキ・ツネ様にお任せですね。
このままですと、早晩屋敷の周囲は荒れ果ててしまいますね。
困りましたね。

<7>2007年01月23日01:25 アラヤシキ・ツネ

河村さんは、無垢で正直で素直な方です。
『冑佛伝説』、『蒼天のクオリア』を読めば
それがすぐに分かります。
私利私欲の人間に、あんなに美しい文章が書ける
はずがありません。

ところで、この場合の「私利私欲」という言葉の意味は、
文の前後から推察する限り、
良い意味に受けとめたほうが自然だと思います。

ここで使われている、私利私欲という言葉は、
文化財「河村家住宅」という日本の宝物を、
河村さん個人から突き離して眺め、
ご自分だけで全責任を負うのではなくて
みんなで力を合わせて守ろうじゃないか、
という意味だと思いますよ、おそらく。

それには、河村さんご自身が
みんなのリーダーとして先頭に立って行動すべきである、
と言っているように私には感じられます。
いかがでしょうか、河村リーダー?

(8)Comment by ≪緑の葉≫ — 2007年1月23日(火曜日) @ 05時36分12秒

おはようございます。
病み上がりですのに、たいへんですね。

「私利私欲」という言葉は、
不適切かつ失礼かと思いました。
お気持ち、お察し申し上げます。

ワタクシ、
素人ゆえどう助言したらいいのか わかりませんが
近くでしたら、草刈り、剪定くらいはお手伝いできるか
思います。
良い解決策や助言があることをお祈り致します。

<9>2007年01月23日08:57 TOSHI

日本人総体の意図であるから文化財に指定されているわけで、
そこに個人的思いを一切差し挟むなということは、難しいのでは?
私利私欲に流れて、
日本人総体の思いを欠いた場合のみ問題が起こりますね。
河村さんは、それをわきまえておられるので
アドバイスをしてくださる方も、ご心配無用。
善意からのアドバイスであろうと推察しておりますが。

(10)Comment by morotyann — 2007年1月23日(火曜日) @ 10時48分38秒

コメントを投稿しましたのは私です。
ご指摘の通り全く他意はないのですが、
不用意に使い、
大変不愉快にさせてしまいました事を心からお詫び致します。
11月に現地を見学し、
昨日の「途方に暮れておられる」と言う記事を読んで、
その後誰も手を差し伸べなかった事を知りましたが、
重要文化財ですし、保全を目指す仲間も多そうなのにどうしてだろうか?
有志で立上れば何とかなるのではないか、
何が障害になっているのだろうかと言う疑問が、
つい飛躍した言葉使いになってしまい、
不愉快な想いをさせましたことを改めて本当に心からお詫びを致します。
今から思うと過日、
ボランティアで駆けつけたにもかかわらず、
主役は自分だと言う人がいましたので
それを連想してしまったものと強く反省しております。
ただ、お呼びがかかればいつでも馳せ参じて、
お手伝いをしようとする純粋な気持ちには変わりはありませんので
そこだけはどうかお察し願います。
本当にすいませんでした。  再拝

<11>2007年01月23日12:03 アラヤシキ・ツネ

「私利私欲」という言葉の理解には、相当苦しみました。

ただ、文化財「河村家住宅」に対する、
その方の愛情がひしひしと伝わってきたので
理解につとめるよう努力しました。

私のコメントは、あくまでも「記事へのご助言」に対する
私の「解釈」の仕方です。
書かれた方の意図しているとことと
私の解釈とは全く違っているかもしれません。

ただし私が表現した「河村さん個人から突き放して眺める」、
という言葉は、河村さん所有の不動産であると同時に、
日本人全体の遺産でもあるという意味で書きました。
それ以外の意味は一切ありません。
分かりきった事ですので、
あえて書く必要もなかったのでしょうが。

「いかがでしょうか、河村リーダー?」は、
河村さんに対しての私流のユーモアです。
一人の人間としての河村さんが好きですので、
つい、余計な事を書いてしまいました。

<12>2007年01月23日12:47 石松

古い民家にはその建設された背景とか、
使用されてきた歴史があります。
単に建築年代が古いだけでなく、
昔の生活の場としての役割、
分化や伝統に裏付けられた価値があると思います。

そのような価値のものが、
風雪に堪えきれず朽ちていくのは
文化的な遺産を捨てることに繋がります。

県内でも多くの歴史的な建造物が
文化財として指定され保護されています。

個人でこのような文化遺産を守っていくことの
経費的な負担助け、
文化財として保護する法律があるのも
そういった趣旨からだと思います。

祖先から受け継ぎながら、
自らの代で朽ちていく建物を目の前にして、
かぶとぼとけさんの心の痛みは
計り知れないものと推察します。

公的な資金を早く投入して、
以前の姿に一日も早く戻したい
と願っていると思います。

勿論、公的な資金を入れれば、
改造とか修繕すら
自分の思う通りにはならなくなってしまいますが、
そんなことは問わずに
朽ちる前に一日でも早くと切に願っている
かぶとぼとけさんの心中を考えると、
私も切なくなってきます。

私利私欲などかけらもないかぶとぼとけさんの心を
理解してあげてください。
一度でいいから、
建物を直接見てあげてください。
お願いします。

(13)Comment by Anonymous(匿名) — 2007年1月23日(火曜日) @ 14時57分57秒

ご本人が先にコメントを述べられていますので、
今回の意見についてコメントしているのではないことを
先に明確にしておきたいと思います。

しかしながら、文化財保存に関して、
一般的な意見の中には、
ややもすればこのように理解されている場合が多いのかも知れませんね。
私欲をもっと明確に言えば、
「自分の家を他人のお金や労力で維持できるならラッキー」
と維持される方が思っているのではないか、
と受け取られかねない可能性があるということなのでしょう。
再度明確にしておきますが、
この意見は私の意見でも、
morotyannさまの意見でもないことを明記しておきます。

<14>2007年01月23日17:24 guonb

この「私利私欲なく」は「私心なく」のつもりのようです。

文化財を保有する本人が「私心がない」ことを
周囲に理解してもらうのはけっこう難しそう、
ということが書いた人の考えにあるような気がします。

<15>2007年01月23日22:33 アラヤシキ・ツネ

>guonbさまへ
「私心なく」のほうが、前の言葉よりまだ分かりやすいですね。

>石松さまへ
有り難うございます。同感です。

(16)Comment by ≪緑の葉≫ — 2007年1月25日(木曜日) @ 21時17分07秒

歴史ある貴重な文化的財産として
行政や地域の方々のご理解やご協力が得られます事、
そして要らぬ偏見が払拭されます事を切願致します。
建設的な提案が、メールやmixiに寄せられますように(祈)

(17)Comment by yfuji — 2007年1月26日(金曜日) @ 01時23分29秒

周辺の土地まで
島田市指定文化財「河村家住宅」に含めることは出来ないのでしょうか?
もしくは、これ以上島田市には期待しないで、
静岡県もしくは国の民族文化財指定を目指す方向はありえないのでしょうか?

<18>2007年01月26日07:54 TOSHI

やはりものごと、
事実に照らし合わせて考える必要がありますね。
私には、貴兄のお考えが理解できたように思えます。
他の諸兄のご意見もぜひ拝読いたしたく。

<19>2007年01月26日13:10 石松

森町にある友田家住宅が文化財に指定されています。
現在は予約制ですが、
一日一組限定で宿泊体験者の受け入れをしています。

数年(十年?)前に、立替え工事を行い、
保存対策をいたしました。
母屋本体のみですが・・。
この母屋は現在家の方は住んでいません。
隣に建てた家にて暮しています。

観光客が見学に来たりする他に、
体験宿泊が可能です。
宿泊者は自炊が原則です。
保存支援ボランテイアグループがあり、
周辺の草刈とか家の手入・修理を年1、2回しています。

地元に有志の方がいれば、
そのようなボランテイアグループを
組織するのもいいかと思います。

(20)Comment by ≪緑の葉≫ — 2007年1月26日(金曜日) @ 18時33分22秒

こんばんは
どなたの書き込みもなく、私も素人ゆえ
昨日は、あのようなコメントしか残せませんでしたが
気になって、調べてみました。
あくまで参考にして頂ければという気持ちで
ワタクシが住んでおります富士市の例を紹介させて頂きます。
市民の憩いの場所の一つに『広見公園』があるのですが
こちらに、寄贈・移築復元という形で残されている指定文化財もございます。

http://www2.tokai.or.jp/omine/hiromikouen.htm

この問題が、最善の形で解決され
河村さまのおココロが安気なさる事を祈っております。


2007年1月26日(金曜日)

私利私欲?(3)

カテゴリー: - kawamura @ 09時34分06秒

Anonymousさまのコメント中のお言葉が、
あまりにも核心をついているので、
ふたたび引用させていただきます。

「自分の家を他人のお金や労力で維持できるならラッキー」

この「自分の家」である文化財「河村家住宅」そのものは、
市と私とで修理費用を折半していることは前述いたしました。
文化財への市の補助金は、議会で裁可されたものですから、
法的にも倫理的にも問題なかろうと思います。
そこで、前掲引用文をすこし変えさせていただいて、

「自分の家(の周辺)を他人のお金や労力で維持できるならラッキー」

としてみると、
文化財周辺の庭園や建造物を維持する方法
についての問題であることが、明確になってきます。
そこで、この問題について、
ふたつの対極をなす見解を考えてみます。

(1)庭園及び周辺建造物は個人所有であるから、
   当然個人が全額負担すべきである。

(2)所有権は個人にあるとはいえ、
   邸内の中心に文化財建造物があるために、
   居住もしていず、
   周辺施設を使用しているわけでもない。
   つまり実質的に所有権があるとはいえない。
   したがって、
   文化財指定した主体である市が全額負担すべきである。

このふたつの極論の、どこに折り合う地点をみつけるか、
ということなのだろうと思います。

周辺建造物の修理はべつにして、
1年間に庭園の剪定を1回、
邸内の草刈り、草取りを春夏秋に3回行うとして、
その費用は最低で見積もっても年間40万円ほどかかります。
現在は、私が全額自己負担しています。

その費用も「周辺」をどこまでと見るかによって変わります。
そこで、
ふたたびmorotyannさまのコメントから引用させていただきます。

*************************
遠くからは、
里山風が色濃く残る田舎風景の中に旧家の屋根がマッチングし、
素晴らしい光景でしたが、いざ近づき、前に立って見ると、
その光景は一変、凄まじい荒廃ぶりに目を見張り、
驚きと落胆を隠せませんでした。
*************************

この「里山風が色濃く残る田舎風景」を維持するのに、
私は現在農業をしておりませんので、
すべてシルバー人材センターに依頼しています。
周辺の草刈りまでふくめると、
低く見積もって総額70万円以上はかかります。
低く見積もって、というのは、
梅の剪定は身内でやっていましたので、
それを除いてのことだからです。

私も今までは、充分に働けましたので
なんとかやりくりすることはできました。
しかし、癌を患ってみて、
病床での眠れぬ夜にこの文化財問題を考えたとき、
底知れぬ不安におそわれたのを思いおこします。
命あるうちに、この問題を解決して、
子孫に引き継がせたいと願っているのです。

さらに、まったく異なる解決方法として、
庭園と周辺建造物の所有権をふくめて、
そのすべてを市へどうするか、
というような第3の道もあろうかと思います。
いかがでしょうか?


2007年1月25日(木曜日)

私利私欲?(2)

カテゴリー: - kawamura @ 09時34分22秒

eコミとmixiとに、多くのコメントをいただき有難うございます。

morotyannさまのご助言に私はたいへん感謝していることを
まず皆さまに申し上げねばなりません。

とくに「私利私欲」という言葉をつかってくださったことに、
なにより感謝しているのです。

つまり、島田市指定文化財「河村家住宅」の保存問題を考えるとき、
そこに「私利私欲」が内在しているかに見えることが、
その問題解決をもっとも阻害しているように思えるからです。
つまり、

「自分の家を他人のお金や労力で維持できるならラッキー」

という印象は、かならずどなたの胸にも浮かぶだろうと思うからです。
また、それをすこし好意的にみれば、

「文化財を保有する本人が「私心がない」ことを
 周囲に理解してもらうのはけっこう難しそう」

ということでしょう。
じつは、まさに上記の理由は、いままで私どもが、
皆さまに草刈りなどをお願いしにくくしていた要因のひとつだったのです。
とくにご近所の方々に、たとえば邸内の草刈りなどをお願いしたとき、

「なぜ、自分でやらないのか?」

と言われるだろうと危惧して、
お願いすることをためらっていたのもその理由からでした。
そのような意味で、morotyannさまが、「私利私欲」という言葉を用いて、
まさにその核心部分に一石を投じてくださったことに感謝しているのです。
さて、

「自分の家を他人のお金や労力で維持できるならラッキー」

この意見に集約されている問題を論ずるまえに、
いくつかの事実確認をする必要があろうかと思います。

(1)市指定文化財「河村家住宅」に私どもは居住しておりません。
   また、邸内にも居住しておりません。
   「河村家住宅」の所有権はたしかに私にありますが、
   家族が居住するという意味での「自分の家」とは思っておりません。
   つまり、建造物は皆さまの見学用としてしか機能していないのです。
   極論すると、私の日々の生活と、
   「河村家住宅」の維持保存とは、無関係なのです。

(2)島田市から文化財指定を受けているのは、母家のみです。
   邸内の周辺建造物はもちろん、
   庭園や石垣などは指定されていません。
   文化財「河村家住宅」の保存に要する費用は、
   島田市と私とが折半で負担します。
   また、1年間に5万円の文化財管理料を市からいただいています。
   (3年前までは、1年間に1万円でした)
   裏返して言えば、庭園や周辺建造物の管理は全額自己負担なのです。
   これは、文化財指定がなく、まったく私の個人所有ですから、
   当然のことといえば当然です。
   言いかえれば、
   「河村家住宅」へいたるまでの石畳や庭も個人所有ですから、
   所有者である私の事情によって荒れはて、草むして、
   見学者が「河村家住宅」へ到達困難になったとき、
   見学者の苦情はどこへ向けられるのでしょう。

問題の根底には、
建造物や庭園を含む土地の所有権問題があるようにも思います。
寛政五年(1793)に、
御林守河村市平が建てた役所兼住宅と周辺のすべては、
当時の河村家の権勢であれば維持可能であったのかもしれませんが、
時代は変わったのです。

morotyannさまもご気分を害されずに、皆さまどうぞ、
ふたたび腹蔵のないご意見を賜りたくお願い申し上げます。


2007年1月23日(火曜日)

私利私欲?

カテゴリー: - kawamura @ 00時00分48秒

昨日の文化財関連の記事に、貴重なご助言をいただきました。
あたたかいお言葉をいただきまして、心より感謝いたしております。

ところで、その記事のなかに、
「私利私欲」という言葉が使われています。

この「私利私欲」という意味が、
文化財所有者である私ども夫婦には明確に理解できません。

おそらく、投稿された方にはあまり他意はないのでしょうけれども、
あんがいこの問題の本質を突いた言葉かもしれません。

そこで、

本件文化財維持問題に関して、
文化財所有者(私)の「私利私欲」とは何を意味するのか

この問題につきまして皆さまに、匿名でのご意見を賜りたいと存じます。

過去の記事も参考になろうかと思いますので、
下記URLをご一読下されば幸いです。
ほかにも「投稿の一覧表示」にも、文化財関連の記事が多数含まれています。

http://www.community-platform.jp/cell15/modules/wordpress/index.php?p=492
http://www.community-platform.jp/cell15/modules/wordpress/index.php?p=493
http://www.community-platform.jp/cell15/modules/wordpress/index.php?p=494
http://www.community-platform.jp/cell15/modules/wordpress/index.php?p=495
http://www.community-platform.jp/cell15/modules/wordpress/index.php?p=497
http://www.community-platform.jp/cell15/modules/wordpress/index.php?p=542
http://www.community-platform.jp/cell15/modules/wordpress/index.php?p=543

以下、昨日の記事と、ご助言とを転載いたします。

どうぞ、皆さまの忌憚のないご意見を賜りますよう
重ねてお願い申し上げます。

昨日の記事
*************************
文化財「河村家住宅」
カテゴリー: General- kawamura @ 08時40分18秒

しばらく病気にかまけているあいだに、
島田市指定文化財「御林守河村家住宅」は
たいへんなことになっていました。

あたり一面に竹が生え、
地の神様はほとんど毀れて、屋根が崩れおち、
米倉の屋根には杉の木が生え、
お蔵の庇の下には大きなスズメバチの巣ができ、
皆さまご承知のように脇屋の屋根は崩落して、
倒壊は目前になりました。

どうしましょう?

途方にくれています。
*************************

記事へのご助言
*************************
昨年11月、環境問題や古民家に熱い想いを抱いている仲間の紹介で
河村家を始めて外から見学致しました。

遠くからは、里山風が色濃く残る田舎風景の中に旧家の屋根がマッチングし、
素晴らしい光景でしたが、いざ近づき、前に立って見ると、
その光景は一変、凄まじい荒廃ぶりに目を見張り、驚きと落胆を隠せませんでした。

何故、こんなになるまで放置されているんだろうか?
何故、誰か支援しないのだろうか?
何故地元にこんな由緒ある建物があるのに知らん振りしているのだろうか?
疑問を持ちながら、私も何もやらずに今日に至りました。

再生や復興に向けて何が障害になっているのだろうか?

本当に河村さんが私利私欲なく立上ったら、
かなりの方が手を差しのべるのではないでしょうか。

有志を募り、先ず十分な話し合い、納得を得た上で、
片付け、修理、維持管理の仕組み作り
<資金問題が一番ネックかもしれない>
へとつなげてゆく。

河村さんは今、病み上がりで力仕事は無理のようですが、
有志の集まりのきっかけまでは力を振り絞って作るべきと思います。

頑張って下さい。 〆
*************************


2007年1月22日(月曜日)

文化財「河村家住宅」

カテゴリー: - kawamura @ 08時40分18秒

しばらく病気にかまけているあいだに、
島田市指定文化財「御林守河村家住宅」は
たいへんなことになっていました。

あたり一面に竹が生え、
地の神様はほとんど毀れて、屋根が崩れおち、
米倉の屋根には杉の木が生え、
お蔵の庇の下には大きなスズメバチの巣ができ、
皆さまご承知のように脇屋の屋根は崩落して、
倒壊は目前になりました。

どうしましょう?

途方にくれています。


2006年9月19日(火曜日)

うわぁ!

カテゴリー: - kawamura @ 09時31分45秒

「eコミしまだ」の予定表が送られていたのを、さきほど拝見いたしました。
なんとびっくり!このように書かれています。

10月下旬 河村家草取り&文化財保護活動の意見交換会(予定)

有難いことです。
こころから感謝申しあげます。
河村家の年に一度の公開日やら、観月会やら、山芋会やら、
やりたいことは山のようにあるのに、なにひとつ手をつけてもいませんでした。

予定ではなく、ぜひ本当にやっていただきたいと思います。
河井先生、maeさま、今後ともどうぞご指導の程宜しく御願い申し上げます。


2006年8月1日(火曜日)

河村家住宅調査報告書(7)

追記

敷地は、北側の川に沿って高く積まれた石垣や東側畑境の石垣、
南から西にかけて敷地を区切る山裾の低い石垣に囲まれている。
屋敷造営の際に施工されたと思われ、河村家の屋敷構えを特徴付ける重要な要素である。
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また、屋敷入口から主屋までのアプローチの2ヶ所に分けて敷かれた石畳は、
町史跡であるである旧東海道の石畳にも似た雰囲気を持って特徴がある。
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さらに、主屋前の広場と前庭を区切る塀は、現在台風被害によって撤去されているが、
主屋上手の「奥座敷」に出入りするための門扉が付いて接客空間を形作り、
この座敷に面して「前庭」と呼ばれる池を持つ庭園を設けて、格式の高さを表している。
.
.
また、主屋の後にも池を持つ「裏庭」を設け、
二つの池は裏山の絞り水を集める溜池の役目も果たしていると思われる。
屋敷全体は、入り口から奥の「米倉」、「地の神様」まで段々上がっていく、
土地の高低に合わせた巧みな構成であり、
建物と合わせて総合的に整備活用計画を立てることが望ましい。


2006年7月31日(月曜日)

河村家住宅調査報告書(6)

次いでBランクは、「茶部屋」・「宗平おじいさんのお蔵」・「お蔵」・「米倉」・「地の神様」の5棟が該当する。
これらの建物は、茶部屋を除くと保存状況も良好である。
茶部屋については、特徴の項目でも一部触れたが、明治期から昭和40年頃まで使用された、
茶再生業の状況を如実に語る貴重な遺構であり、修理整備して当時の姿に復原すべき建物である。
金谷町内にもこれほどの状態を残す建物は他に無いのではないのかと推測される。

最後はCランクであるが、「マエ」・「ウラ」・「味噌部屋」・「物置」の4棟で、
これらの建物は朽損の程度も進み崩壊の危険性をも併せ持っているので、撤去もやむなしと判断せざるを得ない。

以上を総合的に考慮し、全体の整備活用計画を立案することが肝要であろう。


2006年7月30日(日曜日)

河村家住宅調査報告書(5)

7.所見

ここでは敢えて、保存状況や建築歴史的価値などの観点から、各建物を三つのランクに分類してみたい。

まず初めのランクをAとすると、当然のことであるが、金谷町の指定文化財である主屋が該当する。
今後修理などの必要が生じてくると考えられるが、
御林守の住居として末永く後世へと継承しなければならない建物であり、その価値を充分有する建物である。

可能であれば、将来行われるであろう修理の際には、是非詳細調査の実施とその成果に基づいて、
寛政5年の建立当初の姿に復原すると、建築史的価値は更に増すであろう。


2006年7月28日(金曜日)

河村家住宅調査報告書(4)


「茶部屋」の崩壊状況 
左が平成15年、右が平成18年

(6.特徴 の後半です)

一方、保存状況は決して良好とは言えないが、茶部屋も貴重な遺構である。
静岡県の近代産業を代表するものの一つとして、製茶業が挙げられる。
ところが、昭和30年代頃から茶再生工場では設備の自動化や大型化が進み、それに伴って小規模な木造から鉄骨造の建物へと移り変わり、
おそらく町内のあちらこちらにあった家内工業的な小さな茶再生工場は、次第に姿を消していったのであろう。

河村家では、「宗平おじいさん」は県内の茶業振興にも尽力した人物であったと伝えられ、それを示す史料も多く残されている。
当家の茶部屋は、そのような社会情勢の中にあって、昭和40年代頃まで実際に使用されていた数少ない遺構である。

金谷町内で大井川右岸にある川越しの遺構と考えられる旧加藤家住宅の主屋背後にも、茶再生工場の片鱗が残存していた、
しかし、それに較べて当家の茶部屋に残された、シャフト・プーリ−・ベルトなどの茶再生に使用された多くの設備の残存状況は、
それを上回って充実しているものと判断される。
今ひとたび旧状に復して、金谷町の茶業の歴史を物語る施設として再生活用したい建物である。


2006年7月27日(木曜日)

続・文化財保護コメントバトル

カテゴリー: - kawamura @ 06時14分52秒

7/22「崩壊する文化財周辺」に寄せられたコメントを端緒にして、
島田市指定文化財「御林守河村家住宅」の周辺建造物の崩壊について、
さまざまなご意見が寄せられています。

以下、コメント欄をコピーいたしました。
さらに多様な視点からのご指摘をお待ちしております。
どうぞ、コメントをよろしくお願い申し上げます。

*************************

昨日(7/26)のコメントバトル

kappaさま

 河村家を存続させる方法としては、社会に河村家の価値をより認識させることだと思いますが、
 その価値は、今は、建築物や家財が持つものに焦点が当てられているようです。

 私は、河村家の御林守という役目やそれに関わる資料等が持つ研究対象としての希少価値にも着目し、
 社会にアッピールことにも目を向けたらいかがかと思います。
 と言っても、私は評論するだけで、無責任な発言しかできませんので、悪しからずお願いします。

 ゼロックスの広告が御林守に注目した理由は、
 御林守の持つ希少性(大井川流域の森林豊かさは全国的に著名)と、
「森林の資源管理」、「江戸時代の社会」は、今の社会の関心事であるためと思います。

 Comment by kappa ? 2006年7月26日(水曜日) @ 09時41分18秒

kawamura

 kappaさま、貴重なご意見ありがとうございます。
 kappaさまのおっしゃる通り、御林守河村家の価値を皆さまに知っていただくように、努力いたします。

 発売中の「文藝春秋」164・165ページに掲載されている富士ゼロックスの広告に見られるように、
 江戸時代における御林守の役割が注目されはじめているようですから、いまが良い機会かもしれません。
 御林守の啓蒙に努力してみます。ご助言ありがとうございます。
 
 kappaさまは、家具類はお好きですか?

 Comment by kawamura ? 2006年7月26日(水曜日) @ 10時30分18秒

kappaさま

 もちろん大好きです。古い民具などを眺めるのは楽しいことで、河村家や家財の保存はすごく大切だと思います。

 しかし行政による支援を求める段になると、厳しい競争になるので、
 その競争では御守林の希少性がポイントになるのではないかと、
 他人事で思いつきのような意見を申させていただきました。
 お気にさわりましたと思いますが、お許しをお願いします。

 Comment by kappa ? 2006年7月26日(水曜日) @ 12時11分23秒

kawamura

 kappaさま、たいへん感謝しております。
「御林守の希少性」とは、核心をついていると思います。
「御林守」は、大学の先生方にさえ今まではほとんど知られていない役職で、
「徳川林政史研究所」においてのみ深く研究されてきた分野です。

 その意味で、富士ゼロックスの「文藝春秋」広告のもつ意味は大きいと思います。
 kappaさまのご指摘に感謝しております。

 Comment by kawamura ? 2006年7月26日(水曜日) @ 12時42分55秒

石松さま

 本来は行政の中で支援されるべきと考えます。
 しかし、実態は行政の方も、地方交付税の圧縮・削減により財政事情の悪化は止められません。
「協働」というスローガンにより、住民主導のボランテイアに頼らざるを得ないかも。

 Comment by 石松(石川喜一郎) ? 2006年7月26日(水曜日) @ 13時03分53秒

kawamura

 石松さま、現実的なご提案を有り難うございます。
「住民主導のボランティア」を立ちあげるのも、住民主導であるべきとお考えでしょうか?
 いかがなものでしょうか?

 Comment by Anonymous ? 2006年7月26日(水曜日) @ 16時14分55秒
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2006年7月26日(水曜日)

文化財保護コメントバトル

カテゴリー: - kawamura @ 07時45分22秒

7/22「崩壊する文化財周辺」のコメントを2件ご紹介いたします。

石松さまより

  屋根の写真を見るたびに心が痛みます。
  毎年1回、屋根の点検と補修をしないと復元すら出来なくなってしまいそうです。
  なんとかしなければなりませんね

eコミしまださまより(再掲)

  御林守河村家を守る会で掲載された写真を見て、愕然としました。
  文化財とされながら、確かに崩壊が近い状況です。
  これは、なんとかしていかなくてはと強く感じさせられます。
  前回の管理人のぶろぐにも書きましたが、
  eコミュニティしまだを情報共有に基づく地域の人と人とのつながりを
  築く場としつつ、必要であれば地域や、
  地域の役者さんである行政やNPOや企業を「変えていく」きっかけを創る場にも
  なってほしいと思います。
  アクションを考えませんか?

お二人のご意見を胸に刻んで、これから具体的な行動をとらなければなりません。
そこで皆さまにご意見をうかがいたく存じます。

指定文化財周辺の、建造物や庭園の手入れなどを、だれが、どのようにやるべきか、
ということについて、以下の3つの、どの立場を選択されるのか、
またそれはどの様な理由からなのかを、
匿名で結構ですから、ぜひコメントいただければと思います。

1.指定文化財周辺の建造物や庭園は、個人所有であり、文化財指定されていないのだから、
  所有者個人に維持管理の責任がある。
  しかし、それに価値を見いだすかどうかは、所有者個人の判断にゆだねられる。
  つまり、所有個人の判断によって、それらは崩壊するままになるかどうかが決まるだろう。
  
2.指定文化財周辺の建造物や庭園は、個人所有であり、文化財指定されていないけれども、
  所有者個人に維持管理の責任を押しつけるには、経済的負担がなどが大きすぎる。
  また、島田市指定文化財は、所有権は個人にあるとはいえ、
  学校の生徒たちが見学し、市民も団体や個人で訪れることなどもあり、
  市民の共有財産という一面もある。
  それゆえ、文化財指定した主体である島田市が、
  周辺建造物や庭園の維持管理に一定の責任を負うべきである。

3.指定文化財周辺の建造物や庭園は、個人所有であり、文化財指定されていないとはいえ、
  見学者の安全や、指定文化財建造物の毀損を考慮すれば、
  その管理責任は、文化財指定した主体である島田市にある。
  文化財は、それをとりまく風景の中にあってこそ価値が見出せるのだから、
  周辺建造物や庭園を維持管理する責任は、指定主体である島田市にある。

以上の立場のいずれか、あるいはそれ以外でも結構ですから、出来るかぎり明確な立場で、
文化財保護についてのご意見を、コメント欄にお書きいただければ幸いです。

皆さまのご意見をお待ちしております。


2006年7月25日(火曜日)

eコミュニティしまだ

カテゴリー: - kawamura @ 05時37分51秒

「eコミュニティしまだ」の代表をつとめられている東海大学の河井先生が、
管理人のブログでこのように書いて下さいました。心より感謝申しあげます。

そして、実際に行動を起こすべき時期がきていることを感じました。

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御林守河村家を守る会で掲載された写真を見て、愕然としました。
文化財とされながら、確かに崩壊が近い状況です。
これは、なんとかしていかなくてはと強く感じさせられます。
前回の管理人のぶろぐにも書きましたが、
eコミュニティしまだを情報共有に基づく地域の人と人とのつながりを
築く場としつつ、
必要であれば地域や、地域の役者さんである行政やNPOや企業を
「変えていく」きっかけを創る場にもなってほしいと思います。
アクションを考えませんか?

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2006年7月24日(月曜日)

河村家住宅調査報告書(3)

6.特徴
  主屋は、御林守の住居遺構として貴重であることや、建立年代も明確であること、
  さらに建築史的な価値を有することなどから、金谷町の文化財に指定されている。
  建築規模も大きくて御林守の住居に相応しく、一般的な民家とは異なる風格を見せている。

  しかし本建物は、昭和47年度に実施された静岡県内の民家緊急調査からは漏れており、
  その特色や価値が適切に評価されているとは思われない。
  
  その理由として、寛政5年の建立当初の建築様式が明らかでなかったことが挙げられる。
  すなわち、柱や梁・その他各部材などをよく調べてみると、
  現在の平面とは異なる形式が復原できそうである。
  
  僅かではあるが一部の例を述べると、「トコノマ」と「イマ」が並ぶ中央の部屋筋は、
  現況とは異なり、「イマ」は南隣へ1間延びた広間となり、
  「トコノマ」には当初は床の間がなかったのではないかと考えられる。
  推定復原される広間の上部には、当時を偲ばせる豪快な梁組が2室にまたがって架けられており、
  架構の特徴を示している。
  
  このように建物全般に亘って痕跡調査を行ない、寛政5年当初の建築様式を復原すると、
  現状とは全く異なる平面となり、
  県内における他の民家には殆ど類例を見ない独特な形式になると思われる。
  このことは、御林守という役職の住居を、一層特徴付けることに繋がるのかもしれない。
  
  いずれにしても、痕跡調査を主体とする詳細調査の必要が感じられる。

  (「6.特徴」のつづきはまたあした)


2006年7月23日(日曜日)

河村家住宅調査報告書(2)

これらに対して、家伝や後世の修理墨書などによって、概ね建立時期の判断可能な建物は次のものである。

3)マエ
  棟木の下面に、「昭和四年三月屋根換」と記されているので、
  昭和4年(1929)に、屋根の葺き替えの行われたことが知られる。
  では、建立時期は何時かというと、外見所見からは明治期が想定される。

4)宗平おじいさんのお蔵
  家伝によると、当主の曾祖父である宗平おじいさんが建てたとされ、この建物の由来となっている。
  細部の状況を調査すると、釘は従来我が国に伝わる断面が四角の形のいわゆる和釘が使用されており、
  従って建立時期は明治20年頃より前であったことが知られ、
  おそらくは明治初年に建てられたものと判断される。

5)その他の建物
  上記4棟以外の建物に関して建立年代を示すものは伝わらないが、
  建物の朽損状況や建築技術及び材料の風蝕などから総合的に検討すると、
  明治期の後半から昭和戦前頃までに逐次建てられたことが推測される。


2006年7月22日(土曜日)

崩壊する文化財周辺

カテゴリー: - kawamura @ 12時29分03秒

左上 茶部屋 
中 積みあがる瓦(宗平おじいさんのお蔵)
右上 宗平おじいさんのお蔵
左 味噌蔵(ほとんど原形をとどめていない)


河村家住宅調査報告書(1)

この報告書は、平成十五年に金谷町文化財保護審議会において決議された事項にもとづいて、
静岡県伝統建築技術協会が、数ヶ月にわたって河村家住宅を調査したものです。
本文、図面、写真から構成されているもので、
これから、毎日少しずつ、その内容を公開してまいります。

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河村家住宅調査報告書

平成15年12月
特定非営利活動法人静岡県伝統建築技術協会

1.建物名
  河村家住宅(合計10棟、屋敷図・平面図参照)
  主屋・マエ・茶部屋・宗平おじいさんのお蔵・ウラ・味噌部屋・お蔵・物置・米倉・地の神さま

2.所在地
  金谷町大代岡穂平
  
3.所有者
  河村隆夫

4.概要
  山裾に抱かれた一段高い敷地の北側で、東から、「マエ」・「茶部屋」・「宗平おじいさんのお蔵」・
  「ウラ」・「味噌部屋」・「お蔵」・「物置」・「米倉」・「地の神さま」という、9棟の建物がならんで建ち、
  「宗平おじいさんのお蔵」の南に主屋が建っている。
  また、「地の神さま」の脇には防空壕跡も残存している。
  敷地の西から南にかけては、傾斜の急な山林となる。
  主屋の南東に前の池を設けた前庭があり、さらに背面にも裏の池を設けて裏庭を形成する。

5.各建物の建立時期
  明確な史料によって建立時期の判明する建物は下記の2棟で、建立時期の古い年代順に述べる。

  1)主屋

  家蔵の古文書の中に寛政五年(1793)の普請帳があり、外見所見からもこの時の建物と判断される。
  普請帳の表紙には

     寛政五年
   本家普請大工木挽人足諸入用目録帳
     子 十二月

  と記されている。表題が示すように、この普請帳には、大工・木挽の作料を初め、
  各職人への入用や、近隣から寄せられた普請見舞いの品々が逐一記されており、
  建立の背景を窺うことができる貴重な史料である。

  2)お蔵
  棟木の下面に、「奉上棟昭和十壱年五月吉祥大元尊命家門繁盛守護」の墨書が確認され、 
  この建物は昭和11年(1936)の建立であることが判明する。
  外見からは、この建物が10棟のうちで最も新しいものと考えられる。
  (附記 このお蔵より以前に建っていた古い土蔵は、屋根が崩れ、
      雨水のために家伝の古文書が多数失われました。それで、建て替えたのです)

*************************
つづきはまたあした。 


2006年7月21日(金曜日)

石川喜一郎様

カテゴリー: - kawamura @ 07時26分04秒

島田市指定文化財「河村家住宅」をとりまく建築物の崩落について、
石川喜一郎様から、強力な援護のコメントをいただきまししたので、
できうるかぎり正確にこれにお答えして、実際の陳情書にしようと思います。

この日記をご覧の皆さまのなかに、さらにこのようにしたら、と思われる方がいらっしゃいましたら、
匿名でも結構ですから、コメント欄にてご教示いただければ幸いです。

とくに、島田市関係者の方からのご助言をお待ちしております。

以下、石川喜一郎様のご質問にお答えします。
*************************

  脇屋の屋根の修理について

1)現在の文化財指定されている建物、構築物の範囲指定を調べてください。

答)  母家だけです。

2)本屋(主屋)のみなのか、脇屋とか蔵も含めて文化財指定されているのか確認をしてください。

答)  1)と重複いたしますが、母家だけが指定されています。

3)指定対象構築物の場合、現状の状態を、写真や専門家の判定又は査定を付して説明書を提出します。

答)  指定されてはいないのですが、指定文化財の周辺建造物につきましては、
    平成15年12月に、下記の報告書が提出されています。

    「河村家住宅調査報告書<平成15年度 町指定文化財「河村家住宅」詳細調査業務>」
    この調査報告書は、金谷町文化財保護審議会の決議にもとづいて、
    静岡県伝統建築技術協会が、数ヶ月をかけて詳細調査したものです。
     
4)修理費の見積り取得
 現状を修理する費用、(工期、人工、材料費)を積算した見積書作成を工務店等に依頼する。

答)  修理費が補助される可能性があれば、見積書作成を依頼したく存じます。
    見積書の作成は無料であろうと思いますので。
    
5)出来れば脇屋の内部に格納してある、設備や製茶機械等の歴史的価値や重要度を記述する。

答)  前出の調査報告書に、詳述されていますのでこれからシリーズでその内容をUPします。

6)機械設備の名称、製造年月日、製造会社名を台帳にまとめる。

答)  これらは、お茶の郷の学芸員の方が、すでに調査済みと思います。

7)これらの資料を添えて、市の教育委員会宛に提出して、予算措置を陳情します。
  必要であれば、市議会議長宛の陳情書を作成します。

答)  周辺構造物に関しましては、文化財指定されていませんので、
    受理されるかどうかあやぶまれるところです。
*************************

以上、石川喜一郎さまのご質問にお答えいたしましたが、
皆さまのご意見をお聞かせ願えれば幸甚に存じます。


2006年7月20日(木曜日)

積みあがる瓦

カテゴリー: - kawamura @ 04時48分44秒

(奇妙な瓦の写真は、午前中にUPします)

これは重力の法則に反しています。
瓦が落ちて割れるのならまだしも、宗平おじいさんのお蔵の屋根瓦が、
自然に積み上がっているという不思議な現象が起きました。

瓦のはがれたところは雨ざらしになって、雨がしみこむたびに軒が傷んでゆきます。

どうしてこんなことになったのでしょう?
どなたかこのいのちをもつかのようにふるまう瓦たちの謎を、解明してみませんか?

しかしこれはあんまりはっきりとは申しあげられない微妙な問題なのです。
つまり、ある日脇屋の屋根をみると、瓦が自然に積み上がっていて、
それからもう一年ほどたつのですが、どうもことは解決の方向に進展してゆかないのです。

どのような機関に相談すべきと思われますか?


2006年7月2日(日曜日)

暮らしている遺跡

カテゴリー: - kawamura @ 08時33分13秒

河井先生の「暮らしている遺跡」とは、ほんとうにその通りで、
遺跡とはいえ、それは死んだ過去の遺物として
展示ケースにおさめられた人手のかからない模型ではないのです。

人びとはそこを訪れ、草木は生い繁り、風雨にさらされた建物は日々傷んで、
放っておけば崩れおちてゆくだけです。
こまめに世話をしなければ美しい花は咲かないように、
歴史的文化財も絶えまなくやさしく世話をしてやる必要があるのです。

私たち夫婦は、自身が日々暮らしてゆくように、
「御林守河村家住宅」の世話をしながら暮らしています。

どなたかお仲間になっていただけませんか?

やまももやなしや、きんかんや山芋や、たけのこや梅や、
数えきれないほどのたのしみもありますから、
みなさまいかがですか?


2006年6月20日(火曜日)

中部地域支援局(3)

カテゴリー: - kawamura @ 08時12分51秒

これはあとになって気づいたことですが、
きのうは約束の時間より30分はやく訪ねてしまったのに、
「中部地域支援局」の奥川次長様、石川様ともにいやな顔ひとつせずに
さまざまのことを教えてくださいました。

とくに「NPO文化財を守る会」の存在を知らされたことが大きな収穫でした。

まだこの会とコンタクトをとってはいないのですが、
このような会があるということ自体、
大きなこころの支えになります。
ほっとする気もちでした。
恒久的に文化財建造物を維持保存してゆくのには、
相応のシステムが必要と考えていたからです。
この会は、その一つになり得るのかもしれません。

石川喜一郎さまに教えていただいた、
森町の「文化財ボランティア」と同じように、
このところ、文化財建造物の保護ボランティア活動が
しだいに起こりはじめているのかもしれません。

期待するところです。


2006年6月19日(月曜日)

中部地域支援局(2)

カテゴリー: - kawamura @ 04時51分40秒

今日は午前9:30に、中部地域支援局にて
「御林守河村家」のことについてお話しがあるということですので、
これから伺うところです。

ところで、ときどきコメントをくださる石松さまから
耳寄りな情報がよせられましたので、以下転載させていただきます。

***********************
 森町文化財ボランテイア募集
 
 森町教育委員会では、町内の文化財を生かした
 町作りを計画しており、この活動へのボランテ
 イアを広く募集しています。
 活動は、国指定重要文化財(友田家住宅など)
 の清掃、歴史民俗資料館等の史資料の補修・
 整備、森町の文化財周辺の整備、森町の文化財
 に関する研修などです。専門的な知識や技術は
 必要ありません。
 文化財を生かした町づくりにあなたも参加して
 みませんか。
***********************

ということで、すでに文化財保護ボランティア活動は始まっているようです。

石松さま、貴重な情報をありがとうございました。
また、中部地域支援局でのお話の内容は、後日ご紹介いたします。


2006年6月13日(火曜日)

文化財保護(5)

カテゴリー: - kawamura @ 07時52分57秒

きょうはeコミの河井先生発案による「文化財サポーターズクラブ」の概要を
ご説明しましょう。

それはどのような主旨かと申しますと、
小中高の生徒たちに地域の伝統文化や自然環境にふれてもらい、
それらへの愛情を涵養し、その保護活動に参加していただくというものです。

島田市内にはいくつかの文化財建造物がありますが、
それらを見学し歴史を学んだあと、草取りなどの実体験を通じて
文化財保存とその周辺環境の維持保存の意義を体感してもらうのです。

たとえば「御林守河村家」について考えれば、
これまでご紹介してきましたように、
エコ社会であった江戸時代における「御林守」の役目が全国的に見なおされようとしている機運をうけて、
「御林守」の意味を現代の森林環境保全の視点からも説明する必要があろうかと思います。

また江戸時代に「御林守河村市平」がどのような生活をしていたのかを、
のこされている数々の生活用品や、陣笠、裃(かみしも)、刀剣などから、
実際にその目で確認しながら学ぶことができます。

その学習のあと、邸内の草取りや梅の実の収穫などをしてもらうのですが、
その体験実習は、ボランティア活動として学校の学習単位に認定されるのが望ましいでしょう。

つづきはまたあした。


2006年6月11日(日曜日)

文化財保護(4)

カテゴリー: - kawamura @ 09時14分54秒

昨日は、「御林守」を見なおすうごきがそろそろはじまってくれるといいですね、
ということでした。

よくきくお話のひとつに、沿岸部の漁業従事者の方々が、
沿岸の海のゆたかさは、そこへ流れこむ河の水の豊かさによることを知って、
山林価格が暴落して崩壊した水源の森林を、自分たちの手で再生させようとしている、
というお話しです。
よく流布されていることですので、お聞きになったことがあると思います。

遠いエルニーニョが日本に天候異変をもたらすように自然のメカニズムは精妙細緻で、
水源の森林と、河口ちかくの海の豊かさとは密接に関連しているようです。

このように、水産資源や大気の浄化とも森林が深くかかわっているというのは、
いわゆる環境問題としてそれをとらえようとする姿勢で、
それと同じように、江戸時代の「御林守」による森林管理も、
環境問題の観点からみなおされるといいな、と思います。

そしてこの環境問題は、
次世代にどのような国土を残すのかという世代間の問題でもありますから、
河井先生の提唱された「文化財サポーターズクラブ」には、
学齢期の児童たちに参加していただくのがよろしいかと思います。

このようにしてみれば、「文化財保護ボランティア」は、
単なるボランティア活動というのでなく、
地球環境とも深くかかわる地域や世代をこえた奉仕であろうと思います。

つづきはまたあした。


2006年6月10日(土曜日)

文化財保護(3)

カテゴリー: - kawamura @ 07時21分20秒

谷間の朝はとても美しく、毎朝それを楽しめるしあわせを感じています。
朝露にぬれる新緑の樹々や草葉が、陽をあびてきらきら輝いています。

さて、文化財保護のお話しでした。
これは一年ほどまえにコメントバトルというかたちで問題を投げかけたことがございますが、
いったい、「御林守河村家住宅」はだれにとって意味があるのかということでした。

いま江戸時代が見直されています。
鎖国によって閉じた市場のなかで木材がどのように有効に消費されていたのか、
そしてどのようにそれらを管理していたのかは、
我が家にのこされた500点以上の近世文書(御林守関係文書)を精査することで、
しだいにあきらかになることでしょう。

いまはそれほど知られてはいませんが、
江戸時代に「御林守」が果たした役目もやがて人々に見直される日がくるかもしれません。
現代の人々の眼で、(歴史はいつも現在の人々の目を通した歴史ですから)
全国に数カ所存在していた幕府直轄山林「御林」の価値を問い直してみようとする動きが
すこしずつはじまっているようです。

そのような観点から、島田市内にのこされた「御林守河村家住宅」を、
学校の生徒たちに知ってもらうことは大切であろうと思います。
自然環境を大切に管理して生きていた先人の知恵を彼らにつたえることは、
私たち大人の役目でもあります。

そこで、一年ほどまえにeコミの河井先生が提唱された
文化財サポーターズクラブ」を現実のものとしてみようではありませんか。

具体的なお話しはまたあした。


2006年6月9日(金曜日)

文化財保護(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時30分43秒

先日、女性の見学者が裏庭にたつ建物をみて、
「こわれたら二度とかえってこないんですよ」となんだか私をせめるようにつぶやきました。

わかっています。わかっているけれどもどうしようもないのです。
自分の生まれ育った家の屋根や壁がくずれ落ちてゆくのを日々ながめるのは、
自分の生身が腐ってゆくようです。

と、声にだしては言わなかったけれど、ただだまってうなづきながら、
祖先からうけついだものをもちこたえられない我が身のふがいなさをなげくだけでした。

生産性のない文化財とその周辺の景観を維持するのには、莫大な資産を要します。
そういう資産を所有していたころの、
その家格にふさわしい家がたまたまのこされて文化財建造物に指定されたのです。

その資産は、戦後の改革でうしなわれました。
それをわかっていただきたいのです。
建物は往時の「御林守河村家」の住宅ですが、それを守る私はふつうの人なのです。

私にできることといったら、
せいぜい年に一・二回庭師に剪定を依頼し、
年に三回シルバー人材センターに文化財周辺の草刈りをたのみ、
休日に夫婦で屋敷の草とりをして、
晴れた日には母家の戸をあけて風をいれ、
ほんのときおりおとずれる見学者にご説明をすることぐらいなものです。

とはいえ市から指定文化財への補助金をいただいています。
三年ほどまえまでは年間一万円、現在は年間五万円です。

それは一年間にかかる庭師やシルバー人材センターへの支払い等の、
二十分の一ほどにあてさせていただいています。

それを、私たち夫婦は二十年以上つづけてまいりました。
いつまでそれができることでしょう。

ましてや倒れた塀やくずれ落ちてゆく屋根を修復するなど、
とうてい私個人の力でまかないきれるものではありません。

新しい展開を必要としています。
従来の手法で、つまり、文化財の周辺環境を文化財所有者個人の力でととのえるのには、
限界がきています。

おそらくは文化財建造物所有者に共通のテーマとして、
文化財の維持保存のためにあたらしい手法を考えなければなりません。

(梅雨どきがめぐってくるたびに、
 大きな穴のあいた屋根が、私の気をめいらせるのです)


2006年6月8日(木曜日)

文化財保護

カテゴリー: - kawamura @ 05時26分26秒

静岡県「中部地域支援局」がどうして取材にみえたのかは、
昨日のコメント欄をご覧になるとおわかりいただけると思います。

初倉知区で、史料や古民具を所有する方からのお問い合わせがあって
(それが具体的にどのようなものであったのかは存じませんが)、
どうもそのヒントを得ようとしてみえたようです。

指定文化財建造物の維持保存に苦しむ私の立場と、
史料や民具を地域に役立てたいとするその方の立場とは、
歴史や伝統の保存に意義を認めるという意味において、
志を同じくするものでしょう。

島田市内に、歴史文化を民間の力で後世に残そうとする
具体的な悩みをかかえた方がいらっしゃるとは、
おどろきでもありまた友を得たような気持ちです。

これから「文化財保護ボランティア」の創成にむけて、
「中部地域支援局」やその初倉の方とも力をあわせていければと思います。

kawai先生、maekawaさま、またeコミのみなさま、
昨年のセル交流会の成果でもある
「文化財保護ボランティア」や「文化財サポーターズクラブ」の実現にむけて、
ぜひご協力をお願い申し上げます。

また、みなさまは、具体的にどのようにしたらよろしいと思われますか?
みなさまのお考えを、率直にコメントいただければ幸いに存じます。

(石松さま、どう思われますか?)

「投稿記事の一覧表示」から文化財保護関連の記事をお読みになって、
参考にしていただければと思います。

(ところで、梅の実がうれた実をもてあますように、
 わずかな風にはらはらと落ちてゆきます。
 梅の実をお採りになりたい方はぜひお早めに。
 あと数日、と思います)


2006年6月7日(水曜日)

中部地域支援局

カテゴリー: - kawamura @ 06時46分00秒

今日の10時から、
静岡県の「中部地域支援局」の次長様ともうお一人が、
私の取材におみえになることになっています。

その意図はいまひとつ不明ですが、先日のお話しのようすからすると、
私のブログをごらんになってのことのようです。
それが文化財保存にかかわることなのか、あるいは地方文化の発信についてなのか、
それはよくわかりません。

しかし私ごときものにもお役にたてることがあるのなら、
及ばずながらいかようなりともお力添えいたしたく思っています。

昨日は東京からも別の取材がありまして、いまからその資料をそろえようと思います。

「中部地域支援局」のおふたりがお見えになるまえに、
御林守についての古文書を撮影して、メールで送らなければなりません。
それにつきましては、また後日ご報告いたします。

それではまたあした。


2005年12月12日(月曜日)

文化財(17)

カテゴリー: - kawamura @ 08時49分53秒

すべてはほろんで、家だけがのこりました。

文化財は、現在という静止した空間のなかに存在しているのではなく、
それをとりまく歴史的な時空のなかにある、ということをお分かりいただけましたでしょうか。
その家に住むひとも、それをとりまくひとびとも、もうだれもこの世にはいません。

両親を亡くしたあと、私は裏山の中腹にある墓地をよくおとずれました。
娘たちと墓前にそなえた線香のけむりが紅葉の空へながれてゆく、その行方に、
見わたせば祖先たちがひらいた山野がひろがっていて、
眼下には文化財河村家住宅の全貌が見おろせます。

私にはもとよりこの屋敷を維持保存する力はなく、ただ崩れてゆく屋根を、
茫然と、夢のようにながめているだけです。

来客に文化財建造物所有者の苦労話をしたとき、そのひとりから、
「祖先がいい思いをしたんだからあなたが苦しんでも当然ですよ」
と言われました。

そうかもしれません。
しかしそうなのでしょうか。
みなさまがどう思われるのか、ぜひお聞かせ願いたいと思います。

文化財シリーズはこれで終了いたします。


2005年12月11日(日曜日)

文化財(16)

カテゴリー: - kawamura @ 07時27分02秒

昭和二十年代の農地改革のあと、地主階級は日本から姿を消しました。
旧地主にかぎって、自作しない農地は強制的に国に買いあげられて解放されましたから、わずかにのこされた農地を自耕する以外に旧地主層が生きのびる方法はありませんでした。

a当時の記録として、祖父河村小次郎が旧地主の代表として農地委員会で活躍し表彰されたときの褒状がのこされています。

文化財所有者の多くは、農地改革終了の時点で、かぎられた農地を耕作する小さな自作農になったのです。
文化財建造物は、無用の長物となりました。
それを維持する経済的基盤をうしなった彼らには、さらにそれを建て替える資力すらありませんでした。
つまりその家を文化財建造物として誇りをもって保存したのではなく、それに住み続けるよりほかなかったのです。

彼らは経済力を奪われましたから、同時に発言力も失いました。
滅んだ彼らのおおくは、四散しました。
伝来の土地を捨て、都市にその活路を見いだすものもいました。
彼らは歴史の敗者として、この苛烈な改革を語ろうとはしませんでした。

父は旧清水市内で生まれると同時に河村家の婿養子になることがきまっていました。
東京の大学に進学して徴兵され、やがて上海の第十三軍司令部参謀部に勤務したのち、昭和二十一年に復員して河村家に入籍いたしました。
その時点ではまだ地主でしたが、まもなく農地解放が断行され、ほとんどの土地をうしなった河村家の婿養子として、父は自作農になりました。
父のもとには、創設された自衛隊からの勧誘や、十三軍の参謀たちが起業した会社への誘いもありましたが、悲運に背を向けることを潔しとせず、一言の愚痴もなく、この谷間の家を守るために生涯を捧げたのです。
享年六十四歳でした

つづきはまた明日。


2005年12月10日(土曜日)

文化財(15)

カテゴリー: - kawamura @ 01時18分40秒

この文化財シリーズを読みかえしてみて、情けなくなりました。
自慢話ならまだしも、祖先が城主や御林守や地主であったことを、くだくだと言い訳しているような、恥ずかしい内容でした。

このような家に生まれると、原罪を感じるのです。

わが家が、国の重文ほどの家でないことは承知しておりますが、どのような指定文化財にせよ、歴史を背負って生きる文化財所有者は、誇りよりも、むしろふかい原罪意識をかかえているように思います。
家のなかで語られるはるかな歴史やはなやかな祖先の業績とはうらはらに、それを支えてくれたまわりのひとびとの苦しみを思うのです。
そのように教育されたのです。
文化財所有者の歴史は搾取のそれであって、あたかも我らが歴史の加害者であったかのように、学校で教えられたのです。

その原罪意識は、敗戦後の、日教組による偏向教育がわれらの心底にふかく植えつけたものだろうと思います。
西欧の、産業革命によって生まれたブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争史観を、そのまま無批判に日本にあてはめ、敗戦にうちひしがれてあがらうことすらできぬ我らに説いた彼らこそ、糾弾したく思います。

たしかにそのような一面はあるにせよ、それは一面にすぎず、また、地域によっておおきく状況が違っていたのですから、こと静岡県においては肯定的にとらえる視座もあったはずです。
一年の半分が雪におおわれる東北の寒村と、常春の静岡とを同列にとらえるのには無理があるでしょう。
しかし嵐のような共産主義思想化教育は、過激な革命思想をふかく我らの意識にすり込んだのです。
洗脳された少年たちは、やがて学生運動家となって角材をふるいました。
しかしそれは遠い異国の革命思想であって、おだやかな我が国の歴史とは無縁のものでした。

附属中学のとき、後輩に没落地主の子が何人かいました。
みんな暗い眼をして、少年なのに、希望の感じられない顔でした。
ぼくがなにをしたというのか。
十字架の重みにうめく彼らの声が聞こえるようでした。

つづきはまた明日。


2005年12月9日(金曜日)

文化財(14)

カテゴリー: - kawamura @ 11時52分57秒

明治初年から昭和二十年までのあいだのほとんどの期間、河村家は不在地主でした。
曾祖父河村宗平は茶業指導のため、祖父小次郎は教育のため、また父勝弘は上海の十三軍司令部参謀部におりましたので、大代の本宅は、最後の御林守河村市平の妻、こと、宗平の妻、ちせ、のふたりが長年守っておりました。
宗平の長女千年世(ちとせ)の婿養子にむかえた小次郎と、私の父勝弘は、昭和二十年までほとんど大代の地をふむことはありませんでしたから、その間の河村家の戸主は典型的な不在地主であったといってもよかろうと思います。

しかしながら、河村市平は二十四区連合民会議員、曾祖父宗平は大代村戸長、五和村村会議員、静岡県製茶監督員をはじめとするさまざまな茶業指導の職につき、菩提寺法昌院の晋山式を親元としてとりおこなってもおります。
明治四十三年に村社大寶神社が大代神社と改称して現在のちにうつるときも、神社の総代のひとりとして戸籍謄本にその名前を確認できますし、地域の宗教行事や山論のときなどには、その代表として活躍した多くの記録がのこっています。

それらはほとんど無報酬で、旦那衆とよばれた彼らは、地域のために無償で奉仕することがおもな仕事でした。
現在のように議員になると利権を誘導して立派な家が建つというような時代ではなく、ノーブレス・オブリージュという精神がまだ生きていた時代でしたから、議員に精励するとその家はなにもかも失って、やがて井戸と塀だけが残る、と言われるほどでした。
「井戸塀政治家」は、地主としての安定収入があった彼らなればこその理想であったのかもしれません。

つづきはまた明日。


2005年12月8日(木曜日)

文化財(13)

カテゴリー: - kawamura @ 10時28分42秒

中部大学からの帰りの新幹線で、めずらしく歴史の話に花が咲きました。
その若い仲間は古代から中世までの政治史が専門でしたが、私が明治維新の特異性について言及すると、それは斬新な新説ですね、とおどろいていました。

12月2日のブログに書いた「明治維新の採用した天皇制は、志士たちがえがいた王政復古という観念の産物で、歴史的必然性のなかから生まれたものではない」というものです。
もとより私は歴史の素人ですので、これを立証するためにはたくさんの文献にあたらねばなりませんが、それは老後のたのしみとして、ひとまずここでは直感的にそう感じたということにしておきましょう。

さて、昨日はおふたりからコメントをいただき、それぞれの興味深い内容に感謝いたしております。

kawaiさまの、それぞれの見解は多面体の一面にすぎずどの説にも一理ある、というお話しはもっともで、以前私が、史実は存在しない、と言い切ったこととつながるように思います。

歴史の巨大なダイヤモンドの一面をみて、青く光っている、という人もいれば、べつの一面をみて、赤く光っている、という人もいるように、歴史の切り口によってそれぞれ違う史実が見えるのですから、日本はその歴史を青と言い中国が赤と言うことなどじゅうぶんに起きうることです。
神の視点に立てる人はいませんので、神の眼で見た客観的な史実など存在しえません。
そういう意味で、kawaiさまのご意見に私も賛成です。

makkyさまのお書きになった梅棹忠夫の「江戸時代の封建制は、ドイツの連邦制のようなもので、契約にもとづく社会制度であり、圧制的でも後進的でもなく、優れた制度であった」という言葉も私が待ち望んだものでした。
どうも人口に膾炙される江戸時代の姿が、それこそ一面的なゆがんだかたちでしか伝えられていないことに不満がありましたが、戦後六十年を経てようやく共産主義思想も色あせてきて、これからゆっくりとあたらしい歴史観が創造されてゆくように思います。

ドグマの度の強い色眼鏡で見た歴史観ではなく、しかしそれをも否定せずすべてをバランスよくとりいれた歴史観がひとびとに広まることを期待します。

つづきはまた明日。


2005年12月7日(水曜日)

文化財(12)

カテゴリー: - kawamura @ 05時37分51秒

私は懐古趣味でもなく、封建制度を肯定する者でもありません。
北朝鮮や中国などをみれば、独裁国家よりも自由で平等な日本のほうが好ましいことは明らかです。

士農工商とは中国の古典に典拠をもつ言葉で、職業分類をあらわし、かならずしも身分の上下を意味してはいません。
兵農分離のあと、士と農工商が区別されましたが、中江藤樹の『翁問答』にみられるように農工商の間に序列はありませんでした。
つまり、江戸時代には士農工商を序列とする厳格な身分制度があった、とするのは間違いで、武士と平民がいて、平民のなかに農民と町人が並列的にいた、とするのが現在の一般的な説のようです。

先日もお話ししたように、士分の者が農工商に婿入りしたり、農工商のなかから士分に取りたてられることもありましたので、士農工商は厳密な身分制度ではなかったように思います。
とくに江戸末期においてはそれが著しかったようです。

士分の者は人口のおよそ7%ほどで、苗字帯刀が許され、給米をあたえられていました。
農工商がのこりのほとんどで、とくに農民は国民のおよそ84%を占めていましたから、もしも武士が圧政的に平民を支配していたとするならば、江戸末期の混乱に乗じて民衆の革命がおきていたでしょう。

御林守河村家の石垣を築き、建造物を建てたのは、おそらく村内のひとびとでしょうけれども、苛酷な賦役を課されたというような話しはつたえられてはおりません。
おそらく、相当の対価をそれぞれに払い、無理のない相互関係のなかで築きあげられたものと思います。
御林守河村家は苗字帯刀が許され、給米も与えられていましたが、村内のひとびととのあいだには友好的な関係がたもたれていたものと思います。
明治初期の戸長選挙の結果などが、それを物語っているのでしょう。

つづきはまた明日。


2005年12月6日(火曜日)

文化財(11)

カテゴリー: - kawamura @ 08時24分06秒

不在地主を、寄生地主とよぶことがあるようです。
この禍々しい呼びかたには、戦後の左傾化した研究者たちの怨念が感じられます。

たしかに安藤昌益をまつまでもなく、江戸末期には東北地方まで貨幣経済がひろがり、借金のかたに土地をとりあげられて、地主と小作人という関係をはるかにこえた悲惨な状況を呈していた地域があることは確かです。
静岡県ではそれはほとんど無縁のことで、とくに現在の島田市にあたる天領は東海道一の難所とされた大井川の両岸にあって、川止めのときなどには、西国の大名や松尾芭蕉のような文化人が長逗留するなど、江戸の初期から貨幣経済に親しんだ土地柄でしたから、安藤昌益のみた地獄はこの地には無縁でした。

たしかに大代村の地主のなかにも、借金のかたに土地を取りあげてふくれ上がった地主もいたようですが、それはめずらしいことで、静岡のように気候にめぐまれた豊かな土地では、努力しだいで換金作物も多くとれ、作物の市場として東海道一の宿場町が大井川両岸にひかえていたのですから、借金の返済も東北地方などにくらべれば比較的容易だったのでしょう。

地主が小作人を搾取する、といったステレオタイプの見方は、すくなくともこの地においては無縁のことだったようです。
それでもそのような印象がひとびとの脳裡にのこるのは、おそらく日本列島の北半分を手にいれようとして果たせなかったソ連邦の、共産主義思想化勢力が、教育界などに浸潤していたためだろうと思います。

マルクスの『資本論』をお題目のように唱える共産主義の御本家ソビエト連邦は、すでにこの世にはありません。

つづきはまた明日。


2005年12月5日(月曜日)

文化財(10)

カテゴリー: - kawamura @ 09時00分01秒

明治から大正末年まで、河村家の戸主がいくつかの公職についたとはいえ、江戸時代に、幕府の貴重な資源である御林を管理する御林守として、苗字帯刀を許され給米をあたえられていた、というような家格を代々継承していたわけではありません。
明治維新以降の河村家は、現在でいえば市会議員、村長などをつとめ、とくに曾祖父河村宗平は県知事直属の製茶監督員を十五年ほど奉職いたしましたが、これらは江戸時代の名主や御林守のように世襲制ではなく、社会制度として河村家の地位を保証するものではありませんでした。

つまり、江戸時代に幕府直轄山林の管理者である御林守の役所としてつかわれていた河村家住宅は、明治維新以降、すこしふつりあいになりました。

しかし祖先以来の所有地は河村家のものとして残されましたので、経済的な変化はあまりなかったのだろうと思います。
公的地位は失ったけれどもその所有地は残された、という変化が、河村家をとりまくひとびとの心にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

地主制の地主というのは、その規模もさまざまですが、単なる大土地所有者のことで、江戸時代の名主とはまったく違います。
おなじように広い土地を所有していたものの、名主は世襲の村長、つまり政治的責任を負っていたのに対して、地主にはそれがありませんでした。
地主とは、大土地所有者として、経済的な富裕層を意味していたにすぎません。

江戸時代には、名主や御林守としてまわりのひとびとを政治的におさめていた家が、地主となってからは単に搾取するだけの家になったかのように見えたかもしれません。

終戦直後、ソ連の煽動で「地主は死んでしまえ!」というビラが飛びかったと父は嘆いておりました。
搾取被搾取、というマルクス主義的なとらえ方は歴史の一面にすぎず、実際の地主たちは、河村家の戸主たちのように、さまざまな公職についたり、寺や神社の総代をつとめるなどの、いまでいうボランティアをしていたという一面もあるのです。

明日はそのあたりについてお話しします。


2005年12月2日(金曜日)

文化財(9)

カテゴリー: - kawamura @ 06時59分41秒

明治維新のときに採用された皇国史観にすこし無理があったのは、欧米列強と伍するために、強力な国家体制の確立をいそいだところにあるのでしょう。
先日お話ししたように、明治維新は、それまでの日本歴史から自然に生みだされたとはいえない天皇制国家というあたらしいドグマの創造によって、なし遂げられたのだろうと思います。

それでは、ひとびとから見た河村家の地位が比較的安定していた江戸時代から、明治期へ移行する過程で、河村家がどのようであったのかを考察してみましょう。

曾祖父河村宗平は江戸末期に生まれ、ちょうど維新の激動期に少年時代をおくったことになりますから、宗平の父であり最後の御林守河村市平と河村宗平との経歴を概観することで、江戸から明治への移行期における河村家の姿がみえてくると思います。

江戸後期の河村家は、名主から離れて幕府に任命された御林守の役職についていましたから、明治初年に御林守を返上すると同時に公的地位を失いました。
大代村のあらたな行政区画が浜松県第三大区となって、各村々の戸長は江戸期最後の名主がそのままそれを継承しましたから、短期間ではありますが、明治初年の河村家は大代村の副戸長をつとめていた時期があります。

明治九年には、河村市平は、二十四・二十五小区連合民会議員となっています。
ちなみに二十四区の議長は、最後の本陣柏屋河村家の河村八郎次がつとめています。
河村八郎次は初代榛原郡長になるひとで、江戸時代の本陣柏屋河村家は、金谷宿と近隣十数か村とをたばねる大庄屋でした。

またおなじ明治九年の請願書では、河村市平が大代村の代表をつとめています。
明治十二年になると、各村の戸長選挙がおこなわれ、河村宗平が大代村での最高点を得て戸長に当選しています。
戸長とは、村長とおなじです。
やがて大代村が、志戸呂村や横岡村と合併してあらたに五和村となると、河村宗平はその最初から村会議員をつとめました。
河村宗平が、やがて茶業において、榛原郡のみならず愛媛県や宇治茶の製茶研究所に教師として招聘されるなどの茶業指導ののちに、静岡県製茶監督員として長期にわたって活躍したことは、すでにブログに書いたところです。

以上、明治期における河村家当主の役職を概観したわけですが、この姿がまわりのひとびとの眼にどのように映ったのかは、あさってのブログに書くことにしましょう。

明日は、朝五時に起きて、愛知学院大学での授業をしてきます。
ブログは帰宅後になりそうです。


2005年12月1日(木曜日)

文化財(8)

カテゴリー: - kawamura @ 08時30分21秒

江戸幕府から御林守に任命された河村家は、苗字帯刀と給米をあたえられて、武士の定住していない天領(現島田市)においては特別な地位についていた、ということを昨日お話ししました。

島田市指定文化財「御林守河村家住宅」は、河村家がそのような公的地位についていたころの建造物ですから、近隣のひとびとも、御役所として建物をながめていたのでしょう。
そのような意味で、河村家を見るひとびとの視線は、社会制度のなかで安定したものだったとおもいます。
つまり、その家に住むにふさわしい役職についていて、御林守としての責務を果たしていたのですから、高い石垣にかこまれ、石畳をそなえ、太い梁にささえられた頑丈な建造物に住んでいても、それを見るひとびとの眼に、違和感はなかったものと思います。

江戸時代の河村家は、初期の庄屋のころも、御林守に任命されてからも、公的な役職をつとめその責任を果たしていたのですから、寛政五年に建てられた家も、まわりのひとびとにとって得心のいく姿だったのでしょう。

そこが、明治期以降と違うところなのです。

御林守の役所として建てた建造物に、明治期以降は強い権力を伴う役職からはなれ、役所としてつかうこともないままに住み続けたところに矛盾があるのです。
それでもまだ、明治初年から昭和二十年までは、江戸期の苗字帯刀というほどではないにせよ、河村家当主はさまざまな公的役職に就いていましたから、河村家当主とその建造物を見る近隣のひとびとの眼に、それほどの違和感はなかったのかもしれません。

つづきはまた明日。


2005年11月30日(水曜日)

文化財(7)

カテゴリー: - kawamura @ 07時45分58秒

昨日は、江戸時代の身分制度がそれほど厳密なものではなく、士分のものが商家へ婿養子に入ったり、農工商のなかから士分に取りたてられるなど、身分間での流動性がみとめられたということをお話ししました。
士分の特権として苗字帯刀がありますが、士分以外でも特に有力なものには、各藩の大名から苗字帯刀の特権があたえられました。

江戸時代の人口構成は、およそ、武士が7%、農民が84%、町人などが残りの9%とされています。

天領であった金谷宿は現在の磐田市に置かれていた代官所に支配されていて、士分のものは定住しておりませんでした。
金谷宿には本陣柏屋の河村八郎左右衛門が名主として、大代村は御林守河村市平が苗字帯刀を許されていましたが、現在の島田市に相当する天領においても、それはほんのわずかのことで、この地域における苗字帯刀の家は7%よりはるかに少なかったものと思います。

ましてや大代村は東海道から大代川ぞいに10kmほど遡上しなければならず、士分のものが来村するのは、ふつうは年貢の取りたて以外には考えられませんが、大代村には幕府直轄山林がありましたので、幕府の役人がときおり訪れることもありました。

そのような意味において、大名からではなく、江戸幕府から苗字帯刀を許された「御林守河村家」が、島田金谷の宿場や大代村のひとびとから、どのように見えたかは、あまり説明を要しないものと思います。

つづきはまた明日。


2005年11月29日(火曜日)

文化財(6)

カテゴリー: - kawamura @ 07時08分05秒

江戸時代は、どうも巷間流布されているように過酷な時代ではなく、もっと自由でゆたかな時代だったようです。
士農工商という概念も、もともと江戸時代では一般的ではなく、明治維新を正当化するために明治期になって流布されたもので、江戸時代があたかも階級的に硬直化し明治維新は起こるべくしておきた、とするための明治政府のプロパガンダでもあったようです。

どうも、明治維新前とそのあとでは、おおきく日本の様子が変化したように思います。

たとえば鎌倉幕府が平安末期の混乱に乗じて勢力を得た東国武士の、自然発生的な武力革命によって誕生したのとはちがって、明治維新は、外国の脅威から日本国を守るために”天皇制”という新たなドグマを創造して政権交代をした、というところに特徴があるようにおもいます。

ドグマというのは、たとえばロシア革命によって創造された共産主義というドグマも、70年しかもちませんでした。
ひとびとはあたらしく咲いた造花の夢に酔って、一時期は興奮し国威も発揚されるのでしょうが、それは所詮架空のドグマにすぎないのであって、やがて色あせ、破綻します。

日清日露と連勝し、やがて”天皇制”というドグマのもとに発生した「統帥権」が、日本軍を破滅にみちびくのです。

話がそれてしまいました。
本当はもっとこのへんを語りたいのですが、文化財というテーマからかけはなれてしまいますのでここまでにしましょう。

あしたは、江戸時代の御林守河村市平から説きおこします。


2005年11月28日(月曜日)

文化財(5)

カテゴリー: - kawamura @ 02時28分07秒

前回までは文化財「御林守河村家住宅」を、所有者である私の視点からながめてみました。
これからしばらくは、それをとりまく人びとから見た河村家の姿を想像してみましょう。

河村家は、大寶神社についてお話ししたときのように、大代村の成り立ちの最初からかかわってまいりました。
『安養寺過去帳』や位牌の裏に書かれ、またその墓石がふたつ残されている御先祖様、
忠学宗心居士と自雲妙性大姉は、永正二年(1505)に亡くなっています。
当時の大代村に住むひとびとから見た河村家は、一種の支配者的な色彩の濃い家であったと思われます。
詳細は大寶神社シリーズをごらん下さい。

江戸期には、金谷町史資料編二に付図として「大代山論裁許絵図 延宝六年(1678)」が添付されていますが、
その図面に「大代村庄屋市平」と書かれ、またその他の多くの文書からあきらかなように、
後に御林守を拝命する河村家は、江戸初期には庄屋あるいは名主として大代村の村役人を務めていました。

その当時の河村家を、大代村のひとびとがどのようにとらえていたかを物語る古文書がのこされています。
一度ご紹介したものですが、その概訳を再掲します。

「寛保二年(1742年)十月、大代村の名主(河村)市平が病死しました。
長男八十吉(やそきち)はいまだおさなく、ひとりでは名主のお役はつとめられないでしょうけれども、
後見人をたてますので、八十吉に名主の役を仰せつけられますよう、
お代官大草太郎左衛門さまにお願い申し上げます。
大代村は河村市平と杉山平馬の両人で名主役をつとめてまいりましたので、
古来の通り、ふたりの名主を立ててくださいますようお願いいたします。
河村家は草切り以来の名主ですから、十六才までは村中で応援し、後見いたします。
そうすれば、八十吉も名主役もつとめられるようになるでしょう。

市平の弟孫太夫(まごだゆう)は、二十年以上まえに掛川の宮脇村へ養子にいきました。
孫太夫は大代地内に分地も所有していますし、そのうえ当村生まれのものですから、
気だてもよく承知しております。
その孫太夫を後見人といたしますので、八十吉に名主役を仰せつけられますよう、
大代村の総百姓そろってお願い申し上げます。

このことを、もうひとりの名主、平馬に申しましたが、何度お願いしても印を押しません。
ですから、私たち総百姓にて印を押し、お願い申し上げますので、
お慈悲をもってこの願いをお聞き届けられ、八十吉に名主役仰せつけてくだされば、
私たち百姓は、いつまでも感謝申し上げます。
        寛保三年(1743年)三月r
                      以下総百姓 百六名之印r
大草太郎左衛門様 御役所」

この文書をみれば、当時の河村家が、大代村のひとびとから慕われていた名主のように見うけられます。
すくなくともTVに出てくるような悪代官と結託した名主ではなかったようです。
江戸前期の名主河村家を見るひとびとの眼は、善意にみちていたように思えます。

つづきはまた明日。


2005年11月27日(日曜日)

文化財(4)

カテゴリー: - kawamura @ 07時32分36秒

文化財は、現在という静止した空間のなかに存在しているのではなく、それをとりまく歴史的な時空のなかにある、ということを前回お話ししました。

「御林守河村家住宅」について、具体的に申しあげますと、河村家が幕府直轄山林の管理者であったころに、役所として、あるいは御林守のシンボルとして建てた家は、明治維新を経てその役職を失ったあとでは、役所やシンボルとしての機能も同時に消失したのです。
明治期から昭和二十年までは、不在地主として、所有地からあがる年貢米でそのシンボルとしての家を維持することができました。
農地改革後、所有農地のほとんどを失って地主から自作農となった河村家は、経済的基盤をなくしたわけですので、「御林守河村家住宅」は維持管理に苦労するだけの無用の長物となりました。
私の代になって、農業からはなれると、夏は比較的よいのですが、冬は天井が高くて暖房効率が悪いものですから、住宅としてさえもてあますようになりました。
有形文化財に指定されたあとは、その管理者として別棟を建てましたので、「御林守河村家住宅」は、役所としても、シンボルとしても、ついには住宅としての機能も失いました。

すべての機能をうしなって、「御林守河村家住宅」は、島田市指定有形文化財建造物として、しずかな谷間にひっそりと建っています。

つづきはまた明日。


2005年11月24日(木曜日)

文化財(3)

カテゴリー: - kawamura @ 07時53分20秒

文化財建造物は、現在という静止した空間の中に建っているのではありません。
それは、その建物に住むひとびとの歴史や、それをとりまく地域に住むひとびとの歴史的な時間のうえに存在しているのです。

たとえば「御林守河村家住宅」は、寛政五年(1793)に建てられ、江戸期は御林守として苗字帯刀の身分で暮らしていましたので、住宅も役所としての機能をはたしていました。
幕府炭会所の役人が、江戸新橋からしばしばやってきたときの記録も残されています。

しかし明治維新とともに御林守の役職と刀とを剥奪されましたので、その時点で、住宅のもつ役所としての機能は終わりました。
明治期から昭和二十年の終戦までの河村家は、山林と、金谷河原の農地と、大代の本宅をとりまく農地とを所有していましたから、そこからあがってくる年貢米を米倉に蓄えるなどして、曾祖父も祖父も不在地主ではありましたが、「御林守河村家住宅」を維持管理する原資は充分にみたされていました。

昭和二十年代の農地解放では、金谷河原の農地のすべてと、大代の本宅周辺農地のほとんどを失いました。
上海の十三軍司令部から復員した父は、農地改革のもとで、旧地主階級にかぎって自作しない田畑を没収されましたので、残されたわずかな田畑を自作農として耕作しました。
このころには、米倉はその機能を失っていたはずです。
そのかわりに、荒茶を製造するための茶工場がはたらきはじめました。
曾祖父の建てた蔵も、その一部を茶工場として使うことになりました。
しかし私の幼少期にも、子どもたちは奥座敷や床の間には入れないというような、役所として使われていた当時のなごりをかすかにとどめていました。

つづきはまた明日。


2005年11月23日(水曜日)

文化財(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時59分33秒

有形文化財に指定される以前から、その所有者は、建物そのものと、それのもつ歴史に愛着をもっていたはずです。

しかしどれほどその建造物を誇りに思っていても、老朽化して住めなくなるという物理的要因と、社会制度の変化によって屋敷全体の維持が困難になるなどの社会的要因によって、建物を取り壊して建てかえる必要が生じてきます。

社会制度の変化によって維持が困難になる、とはどのようなことでしょうか。

文化財指定に値する建造物は、その一棟だけで成りたっているのではなく、広い庭と、母家をとりまくいくつかの建物によって構成されています。
そのすべてが生活の場であり、それらは時代の必要に応じてそれぞれ建て増しされてきたのです。
つまり、広い屋敷といくつかの建物群は、おおくの労働力にささえられてはじめて成りたっていたのであって、その建物は、現在の役所であり、公民館であり、あるいは工場であったりしたのです。
おおくの人たちがそこで働き、給金を得ていた生活の場でもあったのでしょう。

建造物所有者が、社会制度として広大な所有地から収益を得ていた時代には、屋敷全体の維持が可能でした。
また、安価な労働力が得られ、さらに、現在のように過酷な固定資産税や相続税などもなければ、その建造物の維持や庭の手入れをすることなどもできました。

つづきはまた明日。


2005年11月22日(火曜日)

文化財

カテゴリー: - kawamura @ 08時08分34秒

文化財について考えてみたいと思います。
文化財のなかの有形文化財、とりわけ建造物に焦点をあてて、それをめぐるさまざまのことを書いてみようと思いたったのです。

文化財といっても、国指定の重文、県指定、市町村指定、とさまざまですが、そのなかで、個人の所有する建造物についてその維持保存の問題点などを掘りさげてみましょう。

建造物はあくまでも歴史的建造物であって、単に物理的に存在しているというのでなく、その歴史が指定要件として重視されます。

たとえば島田市指定有形文化財「御林守河村家住宅」は、幕府直轄山林が全国に数カ所しかなく、またそのなかで御林の管理者である御林守の子孫が現住しているのはまれです。
以前日記にも書きましたが、幕府の御林は、建築資材として、薪炭などの燃料として、また木材の売却による資金調達など、さまざまな意味で、幕府にとって重要な資源でした。
その御林の管理者である御林守の住宅が現存しているのは、全国的に見てもめずらしいことのようです。

そのような意味で指定されたのですが、指定されたあとの管理や維持保存はどのようになっているのか、その現状や問題点などについて、これから何回かにわたって書いていこうと思います。


2005年11月19日(土曜日)

究極のセレンディピティ(「脳」整理法(6))

カテゴリー: - kawamura @ 08時14分15秒

あすは山芋会、みなさまとお話しできるのがたのしみです。

さて、私の究極のセレンディピティは、茂木健一郎先生との出会いであったということを、昨日お話しいたしました。
2000年12月のオフ会以来、なんどかおつき合いをさせていただくうちに、先生はとてもきさくな方だということがわかってまいりました。

やがて昨年の早春に、私がつたない自伝小説を書いたとき、メールでおそるおそる序文のお願いをしたところ、即座にこころよく引きうけてくださいました。
送られてきた序文の内容は、50歳をすぎた私を感涙のよろこびに満たしてくれました。

先生への御礼の返事に「士は己を知るもののために死す」とまで書きました。
大袈裟におもわれるかもしれません。
でも、私はそれまでの三十年間、ひと言も自分が小説を書くことなど他言したことはありませんでした。
それは私の青春の墓標として、すでに塚の底に埋められ、忘れはてたことさえ忘れてしまったはずの死産の子のようなものでした。

天命を知る50歳になって、ふたたび、自分の人生を神の御前に捧げたくなりました。
潔く、天に恥じることなく生きたこころの軌跡を、神に捧げるつもりで書いたのです。
河村家を守る、と時代錯誤の一念に身を投じた私の人生を、茂木先生はわかってくださいました。
かたくなに閉ざした心の扉をあけて、外からあたたかい光を投げかけてくださったのです。

谷間の村に埋もれるつもりの一介の凡夫である私に、過分のお言葉をいただきました。
そのお言葉だけで、私には充分でした。

しかし、さらに究極のセレンディピティはつづくのです。

それは一日おいて、来週の月曜日にお話しします。


2005年10月3日(月曜日)

崩落の現実

カテゴリー: - kawamura @ 07時42分54秒

崩落する屋根をごらん下さい。
まず、写真をクリックしてください。
屋根におおきな穴が、二つあいています。
雨で、天井の梁がくさりはじめました。
全体が崩れおちる日は、ちかいでしょう。

これが、島田市指定文化財「河村家住宅」をとりまく建築物の現状です。
放置されたままです。
生まれそだった建物が朽ちてゆくのは、自分の骨身が腐ってゆくような悲痛を感じます。

ご意見ご感想がございましたら、ぜひコメント下さるようお願い申し上げます。


2005年9月29日(木曜日)

草刈り応援隊たすけて〜!

カテゴリー: - kawamura @ 09時13分52秒

本日から、「御林守河村家」草刈り応援隊員を募集します。

◎島田市指定文化財「河村家住宅」周辺の、草刈り、草取り、梅の枝のせんてい、などをしてくださった方は、1時間の実労働時間にたいして、1キログラムの梅の実をご自由にお採りいただけます。

◎お名前と、電話番号をお教えくだされば隊員として登録させていただきます。

◎ご希望の草刈り日時を、前日までに電話にてご連絡ください。

◎草刈りの道具は、各自ご持参ください。

◎草刈り後、ボランティア時間を、自己申告にて表にご記入ください。

◎小梅(5月下旬)・・・二本しかありません。
 大梅中梅(6月)・・・約百本ほどあります。

◎自己申告表にもとづいて、ボランティア時間と同量の梅をご自由にお採りいただけます。
(基本的には、ボランティア1時間について、梅の実1キログラムといたします。ただし、草刈り機をお使いの方につきましては、ボランティア1時間につき、梅の実2キログラムといたします)

◎当日のお食事などは、各自ご持参のうえ、当家敷地内にてご自由にお召し上がりください。

「草刈り応援隊」に参加ご希望の方は、お電話、メール,お手紙、またはコメント欄など、どのような方法でも結構ですので、ご連絡ください。

◎連絡先r
 住所   〒428-0009 島田市大代1882
 氏名   河村隆夫
 電話番号 0547(46)1648
 メール  kabuto*mwc.biglobe.ne.jp(*印を@に変えて下さい)
 携帯電話 090-7046-3220

eコミセルin大代(6月19日)の記録です。
(「地域メディアを創ろう!!」セルのHPで、動画をご覧いただけます)
http://www.community-platform.jp/cell14/modules/wordpress/wp-trackback.php/68


2005年7月22日(金曜日)

石垣

カテゴリー: - kawamura @ 00時01分20秒

シルバー人材センターから派遣されてきたふたりが、4時間30分ずつ、のべ9時間の草刈りをして、ようやく石垣がきれいに現れました。

石垣は「御林守河村家住宅」の正面にもめぐらされ、屋敷全体をとりまくように3メートルほどの高さに積みあげられています。その全長は50メートルほどにもなるでしょうか。

ただ、梅園がわの石垣はみえにくくなっていますが、「御林守河村家住宅」を正面にみて左三分の一ほどは、崩れはじめています。
いつか、宝くじにでも当たったら、崩落した石垣を修復しようとおもって、毎年買うのですが、はずれます。それでも、くちびるをかみしめて、今年も宝くじ売り場にならぶつもりです。

いまから二百十二年まえに積まれたこの石垣が、どれほどの人足を要したのか、あるいはどれほどの期間をついやしたのか、深い山間の地でそれがおこなわれたことに、あらためておどろかされます。

石垣のうえには、さわら、檜、榧(かや)、杉などの巨木が立ちならんでいます。

「御林守河村家住宅」は、建物だけが建っているのではありません。
みなさまがいつかこの家を訪ねられたときには、それをとりまく石垣にも、歴史をしのぶ視線をそそいでやっていただきたいものです。

いまから二百十二年まえに、河原でちょうどいい大きさの石をえらび、それをかついで屋敷のまわりまで運んで、ひとつひとつ積みあげていった人足たちの声が、風のむこうからいまも聞こえてくるようです。

拡大すると、石垣が奥までつづいているのがみえます。


2005年7月21日(木曜日)

第二回コメント・バトル

カテゴリー: - kawamura @ 00時00分45秒

ブログ存続問題によって、いままで思いつくままに書いてきた私のブログの内容を、もういちど検討しなおす必要をかんじています。
ここに、第二回コメント・バトルを開催して、当ブログの読者のみなさまの率直なご意見を拝聴しようと思います。

6月2日にはじめたこのブログも、この記事で55回目になりました。
きのうまでの54の記事、または今日以降の記事のなかで、どの記事に共感されたか、どれがこのブログにふさわしくないと感じられたか、あるいはどのような記事を希望されるのか、というようなことをコメントいただければと思います。
eコミの将来をにらみながら、当ブログの姿勢に関しまして、ご意見を頂戴したいと思います。

きのうまでの54の記事、または今日以降の記事のなかから、評価できると思われる記事のタイトルと、10点満点の採点と、記事へのコメントとを記入していただきたく、よろしくお願い申しあげます。複数の評価でも歓迎します。

(例)「秘密の洞穴」6点、〜のような理由でよかったと思う。
   「竹斬り殺法開眼」7点、〜の実情がよくわかる。

という感じで書いていただければ幸いに存じます。
このコメント・バトルは、長期間にわたって、コメントが記入できるようにしたいと思います。
バトル終了後に、各タイトルごとの採点を集計し、発表させていただきます。
この結果をもとに、これからのブログを書いていこうと思っています。

それでは、第二回コメント・バトルの開催を宣言いたします。
点鐘します。
チ〜〜ン。
みなさま、コメントの記入をはじめてください。お願いいたします。


2005年7月20日(水曜日)

ブログ存続の危機?

カテゴリー: - kawamura @ 00時01分04秒

正確には、eコミの存続が、フォーラムで問題になっているというべきでしょうか。
そのセルのひとつである「御林守河村家を守る会」にしてみれば、ブログの存続が問われているということです。

フォーラムの記事をみて、はじめて、eコミの費用はすべて「独立行政法人防災科学技術研究所」の実験費で賄われている、と知りました。
無料でブログをやらせていただいている私にとって、実験がおわったあとのことがたいへん気になりました。

eコミが存続できるとは、その出資母体にとって、eコミの存在が意味をもつということです。

「独立行政法人防災科学技術研究所」にとっては、実験データがえられます。
それでは、つぎの出資母体があったとして、なにがえられるのでしょうか?
たとえば島田市がeコミに出資するためには、私のブログが島田市にとってメリットがあるようでなければなりません。

セル「御林守河村家を守る会」のブログが、文化財「河村家住宅」の存在意義を市民のみなさまにお知らせするという役目をもつことも、メリットのひとつかもしれません。
あるいは、「自立する文化財」をめざすことで、文化財保存のための税負担をかるくするということもそうかもしれません。
具体的には、河井先生の提唱された「文化財保護サポーターズ・クラブ」を創設できれば、その目的に一歩近づけます。「観月会」も、成功させたいものです。
ひとつひとつ具体的に行動して、実績を重ねるしかありません。

ブログが存在意義をもつためには、私自身のさらなる努力も必要ですが、eコミの存在をできるだけ市民のみなさまにお知らせしていただいて、その存続をおおくの方が望むようになれば、島田市も出資する価値を見いだしてくれるかもしれません。

当面、私にできることは、愛読されるブログをめざすことです。
今朝のモンキアゲハ


2005年7月15日(金曜日)

その歴史的意味

カテゴリー: - kawamura @ 08時14分13秒

昨日の日記に、説明をつけたそうと思います。

これは、matumotoさま、yfujitaさまの、
「なぜ「河村家住宅」は市指定文化財に指定されたのですか?」
という両氏のご質問にこたえる文章でした。

さて、有形文化財としての建造物の指定ではありますが、そこにはふたつの側面があります。
ひとつは、建造物自体の価値、もうひとつはその建造物のもつ歴史的価値です。

建造物自体の価値につきましては、昨日、『町の文化財』(平成6年4月1日発行・発行者 金谷町教育委員会)の紹介文を転載いたしましたが、きょうは、この建物のもつ歴史的意味について、ご説明したいと思います。


『金谷町所在文書目録 第3集』(平成3年3月31日発行・発行者 金谷町役場)の全200頁のうち、その約4分の3、つまり12頁から154頁までの143頁にわたって、「河村隆夫家文書」として計3,468点にのぼる河村家の古文書の目録がおさめられています。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

その近世編460番に「本家普請大工木挽人足諸入用目録」があります。
これは、寛政五年(一七九三)に「河村家住宅」を建てたときの記録です。
大代村の名主であった市平が、寛政元年(一七八九)に御林守の役職に任ぜられ、その四年後に、御林守の役所をも兼ねた住宅を建てました。
それが現在の、島田市指定文化財「河村家住宅」です。

御林守とはなにか、につきましては、後日ご説明いたします。

私も、古文書すべてに目を通したわけではありません。
重要なものはおよそ把握しているつもりですが、この住宅のもつ、深い歴史的意味を解きあかすのには、これから長い時間をかけなければなりません。
のこされた人生の宿題と思っています。

梅雨空がつづいています。目のくらむような青空を、はやく仰ぎたいものです。


2005年7月14日(木曜日)

第一回コメント・バトル終了

カテゴリー: - kawamura @ 00時49分16秒

そろそろ、コメントも出つくしたようですので、ここに、平成十七年度第一回文化財保護コメント・バトルの終了を宣言いたします。
点鐘します。
チ〜〜ン。
おおくのコメントをくださった方々に、感謝申し上げます。

「文化財は、誰のためにあるのか」

このテーマに対するコメントを解析させていただくまえに、まず、「なぜ「河村家住宅」は市指定文化財に指定されたのですか?」という、matumotoさま、yfujitaさまのご質問 にお答えする必要があるかと思います。

このご質問は、本来は、文化財に指定した主体、旧金谷町あるいは新島田市にお尋ねし、お答えいただくべきものと思います。

しかしそれでは、みもふたもございませんので、私なりに、できる限り正確に答えさせていただきます。
当時の記録を調べますと、「河村家住宅」を指定するための主な調査は昭和六十一年九月二十九日におこなわれ、(財)文化財建造物保存技術協会(文化庁所管)の斉藤昌作氏、静岡県文化財保護審議会委員(静岡県教育委員会所管)で建築家の神村清氏が来られ、ほかにもさまざまな調査がございまして、その後、昭和六十二年七月二十七日に、旧金谷町から有形文化財として指定されたものです。

私は指定した主体ではありませんので、このご質問にお答えするのはすこし筋違いでしょうけれども、公の書面に記されている確かなものを、ここに転載して、仮のお答えとさせていただきます。

******************************************r
『町の文化財』58頁(平成6年4月1日発行・発行者 金谷町教育委員会)

町指定文化財 昭和六十二年七月二十七日r
 建造物 河村家住宅 
       金谷町大代岡穂平  河村隆夫氏宅r
 河村家は代々名主を勤め、江戸幕府より苗字帯刀を許され、御林守の役職で幕府直轄の山林を管理していました。
 現在の住宅は、寛政五年(一七九三江戸時代後期)に建てられたものです。住宅は、南北に六間半、東西に九間で、カヤぶき寄棟造りですが、現在はカヤの部分は保護のためトタンで覆われています。
 中央の入口には大戸があり、この大戸にはさらに潜り戸がつけられています。いまではあまり見かけられないめずらしいものです。日常の出入りにはこの潜り戸を使っていたと思われます。
 入口を入った所は七坪半(約二十五平方?)ほどの土間になっています。当時は、裏口までの通し土間だったということですから、現在の二倍ほどの広さだったわけです。ここは、集められた年貢を一時保管する場所だったようです。
 建物の中の造りは、太い大黒柱に支えられた、ちょうなで削っただけの太い梁や桁などすべて頑丈な骨組みで造られています。土間の上は天井裏を利用した物置になっています。
 奥座敷の天井板の張り方は「武者張り」といい、武家のみに許された造りであると言われています。天井板は、表側から張り、次々に合わせてあり、合わせめがすべて表に向いています。この工夫は、襲撃されたとき矢が合わせめにささり、奥までとどかない方法だと言われています。
 母屋のまわりには、倉や味噌蔵米倉、納屋など当時のままの建物が建ち並び、たぶの木、桜、さわらなどの古木を見るとき、この家の歴史をいっそう強く感じます。
******************************************r

ほかにも、いくつかの本に記載されていますが、上記のものが適当と判断いたしまして転載させていただきました。

以上をもちまして、matumotoさま、yfujitaさまのご質問の回答にさせていただきます。

さて、日をあらためまして、みなさまのコメントにつきまして、考察をさせていただきたいと思います。


2005年7月10日(日曜日)

文化財保護コメント・バトル

カテゴリー: - kawamura @ 00時00分36秒

今日の上映会のまえに、文化財保護などについて雑談いたしました。

他の文化財にくらべて、建造物の文化財指定件数がすくないのは、その維持管理がたいへんだからでしょうから、島田市においては建造物の市指定文化財は、おそらく「長谷川家長屋門」と「河村家住宅」のふたつだけだろうということです。
そうすると、所有者がその維持管理に苦労しているとしても、その意見を主張するものがふたりしかいないのでは、行政への発言力に欠けるというのです。

そこで、さらに広い範囲で、この文化財保護にかかわる問題提起をしていこうと思います。
そのために、これから、このブログを読んでくださっている方々から、本音で(ここが大事です)コメント欄において、討論をしていただければと思います。
討論でなくとも、一回だけの意見の開陳でもけっこうです。
記名、無記名は自由です。

今回のテーマは「文化財は、誰のためにあるのか」です。

なお、コメント・バトル参加資格は、下記の通りといたします。

1.文化財保護に関心のある方
2.司法関係の方(法律論など)
3.行政関係の方
4.ブログの読者の方
5.無関心の方
6.野次馬

以上、どなたでもけっこうです。

それでは、平成十七年度、文化財保護コメント・バトル第一回の開催を宣言します。
点鐘いたします。
チ〜〜ン。
みなさん、ただ今より、コメントの書きこみを開始してください。
時間は無制限です。


2005年6月23日(木曜日)

新聞記事(セル交流会in大代)

カテゴリー: - kawamura @ 07時41分26秒

6/19の「セル交流会in大代」が、新聞記事になりました。
6/21の静岡新聞18面に、カラー写真入りで掲載されました。

「eコミ」の活動がこのように報道されることで、よりひろく社会的に認知されていくものと思います。新聞社に連絡してくださった方に、感謝申し上げます。
また、eコミカフェ(仮称)、水のワークショップ、コミュニティおおつ委員会、環境ひろば水とみどり、子どもセル、酒と音楽と男と女、しまだ不思議発見、こども宝物マップ、みちくさ、地域メディアを創ろう!の各セルのみなさまのおかげで、このように大きく採り上げていただくことができました。心から感謝申しあげます。
以下、新聞記事を転載します。

ITで地域情報共有化
 「eコミ」仲間が交流
 
 ITを活用して防災、環境など地域の安全・安心に関する情報を共有化する「eコミュニティしまだ」の参加グループ交流会が十九日、島田市大代で開かれた。
 会場は江戸幕府直轄の山林を管理していた「河村家」。旧島田市と旧金谷町の合併後、五月に「御林守河村家を守る会」が「eコミ」に参加したことから、新たな仲間について知ってもらおうという趣向だ。
 十五代当主の河村隆夫さんが同家の歴史を説明した後、寛政五年(一七九三年)に建てられた貴重な文化財を守る活動、そば打ち体験などを行った。
現在、「eコミ」には十三グループが登録し活動している。


2005年6月22日(水曜日)

文化財サポーターズクラブ

カテゴリー: - kawamura @ 08時12分05秒

文化財サポーターズクラブとは、kawai先生のご提案のよるものです。

これは前日の文化財保護ボランティアに関連して、各小中学校などで、文化財保護を目的とするサポーターズクラブを創設して、そこをボランティア活動の拠点とする、というものです。
ボランティア活動を、継続的なものにするために、小中学校からさらに高校、でき得れば大学一般社会人まで、各段階ごとにこの文化財サポーターズクラブを設置して、文化財保護ボランティア活動を永続的かつ広汎なものにしようという発案です。
たとえば、ボーイスカウトのように、世代を超えて活動できるようなクラブにできればと思います。

昨日と同様、みなさまのご意見を拝聴したくおもいますので、ぜひコメントをお願い申し上げます。

文化財保護ボランティアも、文化財サポーターズクラブも、ともに6/19の「セル交流会in大代」の成果です。
これらは、ほとんどが立ち話のなかで生まれたもので、あのように解放された雰囲気のなかでの自由な発想は、おふたりの会話を拝聴しているだけの私にも、胸おどる思いでした。
ぜひこのような交流会を、何度もひらいていただければと思います。
よろしくお願い申し上げます。


2005年6月21日(火曜日)

文化財保護ボランティア

カテゴリー: - kawamura @ 07時04分56秒

セル交流会で、おふたりの先生方から教えていただいた、あたらしい概念です。それはこのようなものです。
現在、小中学生がボランティア活動をすると、それは授業の単位として認められます。
その活動を文化財保護にも適用しよう、というものです。
保護者も参加するなどして、地域の文化を学びながら、
あるいは梅エキスを自分たちでつくるという楽しみなども味わいながら、
草取りに汗をながして文化財保護に参加し、
しかもそれは授業単位として認められる、というボランティアです。

ぜひ、実現させたいと思います。
みなさんいかがでしょうか?
具体的にどのようにしたらよいのか、たくさんのご意見をお待ちしています。


2005年6月20日(月曜日)

セル交流会のこと

カテゴリー: - kawamura @ 06時37分31秒

おおくの方に、草取り草刈りのボランティア活動をしていただいたのは、はじめてのことです。こころから感謝申しあげます。
雨も、最後までふらずに終わることができました。
みなさまのご厚情をささえにして、文化財保護に微力ながら努めたいとおもいます。今後ともどうぞよろしくお願い致します。
ありがとうございました。


2005年6月19日(日曜日)

セル交流会in大代(6/19)

カテゴリー: - kawamura @ 17時43分44秒

セル交流会におおくのみなさまにお越しいただき、はじめは草深かった庭が、見ちがえるように奇麗になりました。手打ちそばもふるまわれて、おいしくいただきました。
先生方から、さまざまのアドバイスをうけて、御林守河村家の今後の展望が開けてきました。
みなさま、どうもありがとうございました。

ぜひ、何度も何度も、お越しください。お待ちしております。


2005年6月15日(水曜日)

泥縄method

カテゴリー: - kawamura @ 07時34分56秒

6/19日のセル交流会では、なにをお話しすればよいのでしょう。
講話『河村家の歴史』となっていますので、歴史をお話しすればよいのでしょうけれど、どのあたりをどんなふうにお話しするべきなのか、まだなにも構想がございません。
いつも、日々の暮らしに追われていて直前になってあわてふためく、これぞまさに我が得意技「泥縄method」とはこのことであります。

そこで、ちょっとずるいことを考えました。
みなさまに、お聞きになりたいことを投票していただいて、それをテーマとしてお話しするというのはいかがでしょうか?
たいへん恐縮ではございますが、下記項目のなかから、お聞きになりたい項目の数字を、複数でもけっこうですので、お選びいただき、コメントとしていただければ、幸いに存じます。
なお、投票者が1名のときは、その方の個人的ご興味によってお話の内容がきめられてしまいますので、ぜひ何名かのかたにご投票をお願い申し上げます。お決めいただければ、率爾ながら、前夜、「泥縄method」にてパワーポイントを作成いたしたく存じます。

1.平安末期から昭和二十年代までの御林守河村家の歴史概略
2.御林守について(江戸期林業史)
3.製茶監督員河村宗平について(明治から大正にかけての茶業史)
4.河井宗忠について(1500年前後)
5.冑佛(かぶとぼとけ)について
6.戦後の河村家
7.文化財の維持保存について
8.今後の「御林守河村家」の展望について
9.フルート演奏会、お食事会、などについて

さて、もっとも恐れるのは、投票者ゼロのときのことでございます。そのときは、講話内容もゼロ、というわけにもいかず、話の方向性をみうしなってしまいますので、何卒、ご投票あるいはアドバイスをいただきたく、こころよりお願い申し上げます。

みなさまのコメントを、伏してお待ち申し上げます。

河村隆夫拝
玉の木、とよんでいますが、たぶの木、あるいは玉串の木、ともいうようです。昭和十四年の写真ではもっと丈が高く、大きな木でした。その後落雷にあって、木の上部がなくなり、幹は虚(うろ)になってしまいました。


2005年6月3日(金曜日)

セル交流会in大代(6/19)

カテゴリー: - kawamura @ 10時01分24秒

6月19日のセル交流会は、お車で来られる方も多いとおもいますが、駐車場は数十台駐車可能ですので、ご安心ください。

いつもは、雉のつがいが窓のそとをあるいているのですが、
梅の下草を刈ったせいか、このところ雉のかん高い鳴き声がきこえません。
二匹の家猫が活躍しているせいかもしれません。
今日から三日間妻が不在で、私はひとり住まいです。
ひとりでめざめる新緑の谷間の朝は、しずかに小雨がふっています。


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