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2005年12月12日(月曜日)

文化財(17)

カテゴリー: - kawamura @ 08時49分53秒

すべてはほろんで、家だけがのこりました。

文化財は、現在という静止した空間のなかに存在しているのではなく、
それをとりまく歴史的な時空のなかにある、ということをお分かりいただけましたでしょうか。
その家に住むひとも、それをとりまくひとびとも、もうだれもこの世にはいません。

両親を亡くしたあと、私は裏山の中腹にある墓地をよくおとずれました。
娘たちと墓前にそなえた線香のけむりが紅葉の空へながれてゆく、その行方に、
見わたせば祖先たちがひらいた山野がひろがっていて、
眼下には文化財河村家住宅の全貌が見おろせます。

私にはもとよりこの屋敷を維持保存する力はなく、ただ崩れてゆく屋根を、
茫然と、夢のようにながめているだけです。

来客に文化財建造物所有者の苦労話をしたとき、そのひとりから、
「祖先がいい思いをしたんだからあなたが苦しんでも当然ですよ」
と言われました。

そうかもしれません。
しかしそうなのでしょうか。
みなさまがどう思われるのか、ぜひお聞かせ願いたいと思います。

文化財シリーズはこれで終了いたします。


2005年12月11日(日曜日)

文化財(16)

カテゴリー: - kawamura @ 07時27分02秒

昭和二十年代の農地改革のあと、地主階級は日本から姿を消しました。
旧地主にかぎって、自作しない農地は強制的に国に買いあげられて解放されましたから、わずかにのこされた農地を自耕する以外に旧地主層が生きのびる方法はありませんでした。

a当時の記録として、祖父河村小次郎が旧地主の代表として農地委員会で活躍し表彰されたときの褒状がのこされています。

文化財所有者の多くは、農地改革終了の時点で、かぎられた農地を耕作する小さな自作農になったのです。
文化財建造物は、無用の長物となりました。
それを維持する経済的基盤をうしなった彼らには、さらにそれを建て替える資力すらありませんでした。
つまりその家を文化財建造物として誇りをもって保存したのではなく、それに住み続けるよりほかなかったのです。

彼らは経済力を奪われましたから、同時に発言力も失いました。
滅んだ彼らのおおくは、四散しました。
伝来の土地を捨て、都市にその活路を見いだすものもいました。
彼らは歴史の敗者として、この苛烈な改革を語ろうとはしませんでした。

父は旧清水市内で生まれると同時に河村家の婿養子になることがきまっていました。
東京の大学に進学して徴兵され、やがて上海の第十三軍司令部参謀部に勤務したのち、昭和二十一年に復員して河村家に入籍いたしました。
その時点ではまだ地主でしたが、まもなく農地解放が断行され、ほとんどの土地をうしなった河村家の婿養子として、父は自作農になりました。
父のもとには、創設された自衛隊からの勧誘や、十三軍の参謀たちが起業した会社への誘いもありましたが、悲運に背を向けることを潔しとせず、一言の愚痴もなく、この谷間の家を守るために生涯を捧げたのです。
享年六十四歳でした

つづきはまた明日。


2005年12月10日(土曜日)

文化財(15)

カテゴリー: - kawamura @ 01時18分40秒

この文化財シリーズを読みかえしてみて、情けなくなりました。
自慢話ならまだしも、祖先が城主や御林守や地主であったことを、くだくだと言い訳しているような、恥ずかしい内容でした。

このような家に生まれると、原罪を感じるのです。

わが家が、国の重文ほどの家でないことは承知しておりますが、どのような指定文化財にせよ、歴史を背負って生きる文化財所有者は、誇りよりも、むしろふかい原罪意識をかかえているように思います。
家のなかで語られるはるかな歴史やはなやかな祖先の業績とはうらはらに、それを支えてくれたまわりのひとびとの苦しみを思うのです。
そのように教育されたのです。
文化財所有者の歴史は搾取のそれであって、あたかも我らが歴史の加害者であったかのように、学校で教えられたのです。

その原罪意識は、敗戦後の、日教組による偏向教育がわれらの心底にふかく植えつけたものだろうと思います。
西欧の、産業革命によって生まれたブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争史観を、そのまま無批判に日本にあてはめ、敗戦にうちひしがれてあがらうことすらできぬ我らに説いた彼らこそ、糾弾したく思います。

たしかにそのような一面はあるにせよ、それは一面にすぎず、また、地域によっておおきく状況が違っていたのですから、こと静岡県においては肯定的にとらえる視座もあったはずです。
一年の半分が雪におおわれる東北の寒村と、常春の静岡とを同列にとらえるのには無理があるでしょう。
しかし嵐のような共産主義思想化教育は、過激な革命思想をふかく我らの意識にすり込んだのです。
洗脳された少年たちは、やがて学生運動家となって角材をふるいました。
しかしそれは遠い異国の革命思想であって、おだやかな我が国の歴史とは無縁のものでした。

附属中学のとき、後輩に没落地主の子が何人かいました。
みんな暗い眼をして、少年なのに、希望の感じられない顔でした。
ぼくがなにをしたというのか。
十字架の重みにうめく彼らの声が聞こえるようでした。

つづきはまた明日。


2005年12月9日(金曜日)

文化財(14)

カテゴリー: - kawamura @ 11時52分57秒

明治初年から昭和二十年までのあいだのほとんどの期間、河村家は不在地主でした。
曾祖父河村宗平は茶業指導のため、祖父小次郎は教育のため、また父勝弘は上海の十三軍司令部参謀部におりましたので、大代の本宅は、最後の御林守河村市平の妻、こと、宗平の妻、ちせ、のふたりが長年守っておりました。
宗平の長女千年世(ちとせ)の婿養子にむかえた小次郎と、私の父勝弘は、昭和二十年までほとんど大代の地をふむことはありませんでしたから、その間の河村家の戸主は典型的な不在地主であったといってもよかろうと思います。

しかしながら、河村市平は二十四区連合民会議員、曾祖父宗平は大代村戸長、五和村村会議員、静岡県製茶監督員をはじめとするさまざまな茶業指導の職につき、菩提寺法昌院の晋山式を親元としてとりおこなってもおります。
明治四十三年に村社大寶神社が大代神社と改称して現在のちにうつるときも、神社の総代のひとりとして戸籍謄本にその名前を確認できますし、地域の宗教行事や山論のときなどには、その代表として活躍した多くの記録がのこっています。

それらはほとんど無報酬で、旦那衆とよばれた彼らは、地域のために無償で奉仕することがおもな仕事でした。
現在のように議員になると利権を誘導して立派な家が建つというような時代ではなく、ノーブレス・オブリージュという精神がまだ生きていた時代でしたから、議員に精励するとその家はなにもかも失って、やがて井戸と塀だけが残る、と言われるほどでした。
「井戸塀政治家」は、地主としての安定収入があった彼らなればこその理想であったのかもしれません。

つづきはまた明日。


2005年12月8日(木曜日)

文化財(13)

カテゴリー: - kawamura @ 10時28分42秒

中部大学からの帰りの新幹線で、めずらしく歴史の話に花が咲きました。
その若い仲間は古代から中世までの政治史が専門でしたが、私が明治維新の特異性について言及すると、それは斬新な新説ですね、とおどろいていました。

12月2日のブログに書いた「明治維新の採用した天皇制は、志士たちがえがいた王政復古という観念の産物で、歴史的必然性のなかから生まれたものではない」というものです。
もとより私は歴史の素人ですので、これを立証するためにはたくさんの文献にあたらねばなりませんが、それは老後のたのしみとして、ひとまずここでは直感的にそう感じたということにしておきましょう。

さて、昨日はおふたりからコメントをいただき、それぞれの興味深い内容に感謝いたしております。

kawaiさまの、それぞれの見解は多面体の一面にすぎずどの説にも一理ある、というお話しはもっともで、以前私が、史実は存在しない、と言い切ったこととつながるように思います。

歴史の巨大なダイヤモンドの一面をみて、青く光っている、という人もいれば、べつの一面をみて、赤く光っている、という人もいるように、歴史の切り口によってそれぞれ違う史実が見えるのですから、日本はその歴史を青と言い中国が赤と言うことなどじゅうぶんに起きうることです。
神の視点に立てる人はいませんので、神の眼で見た客観的な史実など存在しえません。
そういう意味で、kawaiさまのご意見に私も賛成です。

makkyさまのお書きになった梅棹忠夫の「江戸時代の封建制は、ドイツの連邦制のようなもので、契約にもとづく社会制度であり、圧制的でも後進的でもなく、優れた制度であった」という言葉も私が待ち望んだものでした。
どうも人口に膾炙される江戸時代の姿が、それこそ一面的なゆがんだかたちでしか伝えられていないことに不満がありましたが、戦後六十年を経てようやく共産主義思想も色あせてきて、これからゆっくりとあたらしい歴史観が創造されてゆくように思います。

ドグマの度の強い色眼鏡で見た歴史観ではなく、しかしそれをも否定せずすべてをバランスよくとりいれた歴史観がひとびとに広まることを期待します。

つづきはまた明日。


2005年12月7日(水曜日)

文化財(12)

カテゴリー: - kawamura @ 05時37分51秒

私は懐古趣味でもなく、封建制度を肯定する者でもありません。
北朝鮮や中国などをみれば、独裁国家よりも自由で平等な日本のほうが好ましいことは明らかです。

士農工商とは中国の古典に典拠をもつ言葉で、職業分類をあらわし、かならずしも身分の上下を意味してはいません。
兵農分離のあと、士と農工商が区別されましたが、中江藤樹の『翁問答』にみられるように農工商の間に序列はありませんでした。
つまり、江戸時代には士農工商を序列とする厳格な身分制度があった、とするのは間違いで、武士と平民がいて、平民のなかに農民と町人が並列的にいた、とするのが現在の一般的な説のようです。

先日もお話ししたように、士分の者が農工商に婿入りしたり、農工商のなかから士分に取りたてられることもありましたので、士農工商は厳密な身分制度ではなかったように思います。
とくに江戸末期においてはそれが著しかったようです。

士分の者は人口のおよそ7%ほどで、苗字帯刀が許され、給米をあたえられていました。
農工商がのこりのほとんどで、とくに農民は国民のおよそ84%を占めていましたから、もしも武士が圧政的に平民を支配していたとするならば、江戸末期の混乱に乗じて民衆の革命がおきていたでしょう。

御林守河村家の石垣を築き、建造物を建てたのは、おそらく村内のひとびとでしょうけれども、苛酷な賦役を課されたというような話しはつたえられてはおりません。
おそらく、相当の対価をそれぞれに払い、無理のない相互関係のなかで築きあげられたものと思います。
御林守河村家は苗字帯刀が許され、給米も与えられていましたが、村内のひとびととのあいだには友好的な関係がたもたれていたものと思います。
明治初期の戸長選挙の結果などが、それを物語っているのでしょう。

つづきはまた明日。


2005年12月6日(火曜日)

文化財(11)

カテゴリー: - kawamura @ 08時24分06秒

不在地主を、寄生地主とよぶことがあるようです。
この禍々しい呼びかたには、戦後の左傾化した研究者たちの怨念が感じられます。

たしかに安藤昌益をまつまでもなく、江戸末期には東北地方まで貨幣経済がひろがり、借金のかたに土地をとりあげられて、地主と小作人という関係をはるかにこえた悲惨な状況を呈していた地域があることは確かです。
静岡県ではそれはほとんど無縁のことで、とくに現在の島田市にあたる天領は東海道一の難所とされた大井川の両岸にあって、川止めのときなどには、西国の大名や松尾芭蕉のような文化人が長逗留するなど、江戸の初期から貨幣経済に親しんだ土地柄でしたから、安藤昌益のみた地獄はこの地には無縁でした。

たしかに大代村の地主のなかにも、借金のかたに土地を取りあげてふくれ上がった地主もいたようですが、それはめずらしいことで、静岡のように気候にめぐまれた豊かな土地では、努力しだいで換金作物も多くとれ、作物の市場として東海道一の宿場町が大井川両岸にひかえていたのですから、借金の返済も東北地方などにくらべれば比較的容易だったのでしょう。

地主が小作人を搾取する、といったステレオタイプの見方は、すくなくともこの地においては無縁のことだったようです。
それでもそのような印象がひとびとの脳裡にのこるのは、おそらく日本列島の北半分を手にいれようとして果たせなかったソ連邦の、共産主義思想化勢力が、教育界などに浸潤していたためだろうと思います。

マルクスの『資本論』をお題目のように唱える共産主義の御本家ソビエト連邦は、すでにこの世にはありません。

つづきはまた明日。


2005年12月5日(月曜日)

文化財(10)

カテゴリー: - kawamura @ 09時00分01秒

明治から大正末年まで、河村家の戸主がいくつかの公職についたとはいえ、江戸時代に、幕府の貴重な資源である御林を管理する御林守として、苗字帯刀を許され給米をあたえられていた、というような家格を代々継承していたわけではありません。
明治維新以降の河村家は、現在でいえば市会議員、村長などをつとめ、とくに曾祖父河村宗平は県知事直属の製茶監督員を十五年ほど奉職いたしましたが、これらは江戸時代の名主や御林守のように世襲制ではなく、社会制度として河村家の地位を保証するものではありませんでした。

つまり、江戸時代に幕府直轄山林の管理者である御林守の役所としてつかわれていた河村家住宅は、明治維新以降、すこしふつりあいになりました。

しかし祖先以来の所有地は河村家のものとして残されましたので、経済的な変化はあまりなかったのだろうと思います。
公的地位は失ったけれどもその所有地は残された、という変化が、河村家をとりまくひとびとの心にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

地主制の地主というのは、その規模もさまざまですが、単なる大土地所有者のことで、江戸時代の名主とはまったく違います。
おなじように広い土地を所有していたものの、名主は世襲の村長、つまり政治的責任を負っていたのに対して、地主にはそれがありませんでした。
地主とは、大土地所有者として、経済的な富裕層を意味していたにすぎません。

江戸時代には、名主や御林守としてまわりのひとびとを政治的におさめていた家が、地主となってからは単に搾取するだけの家になったかのように見えたかもしれません。

終戦直後、ソ連の煽動で「地主は死んでしまえ!」というビラが飛びかったと父は嘆いておりました。
搾取被搾取、というマルクス主義的なとらえ方は歴史の一面にすぎず、実際の地主たちは、河村家の戸主たちのように、さまざまな公職についたり、寺や神社の総代をつとめるなどの、いまでいうボランティアをしていたという一面もあるのです。

明日はそのあたりについてお話しします。


2005年12月2日(金曜日)

文化財(9)

カテゴリー: - kawamura @ 06時59分41秒

明治維新のときに採用された皇国史観にすこし無理があったのは、欧米列強と伍するために、強力な国家体制の確立をいそいだところにあるのでしょう。
先日お話ししたように、明治維新は、それまでの日本歴史から自然に生みだされたとはいえない天皇制国家というあたらしいドグマの創造によって、なし遂げられたのだろうと思います。

それでは、ひとびとから見た河村家の地位が比較的安定していた江戸時代から、明治期へ移行する過程で、河村家がどのようであったのかを考察してみましょう。

曾祖父河村宗平は江戸末期に生まれ、ちょうど維新の激動期に少年時代をおくったことになりますから、宗平の父であり最後の御林守河村市平と河村宗平との経歴を概観することで、江戸から明治への移行期における河村家の姿がみえてくると思います。

江戸後期の河村家は、名主から離れて幕府に任命された御林守の役職についていましたから、明治初年に御林守を返上すると同時に公的地位を失いました。
大代村のあらたな行政区画が浜松県第三大区となって、各村々の戸長は江戸期最後の名主がそのままそれを継承しましたから、短期間ではありますが、明治初年の河村家は大代村の副戸長をつとめていた時期があります。

明治九年には、河村市平は、二十四・二十五小区連合民会議員となっています。
ちなみに二十四区の議長は、最後の本陣柏屋河村家の河村八郎次がつとめています。
河村八郎次は初代榛原郡長になるひとで、江戸時代の本陣柏屋河村家は、金谷宿と近隣十数か村とをたばねる大庄屋でした。

またおなじ明治九年の請願書では、河村市平が大代村の代表をつとめています。
明治十二年になると、各村の戸長選挙がおこなわれ、河村宗平が大代村での最高点を得て戸長に当選しています。
戸長とは、村長とおなじです。
やがて大代村が、志戸呂村や横岡村と合併してあらたに五和村となると、河村宗平はその最初から村会議員をつとめました。
河村宗平が、やがて茶業において、榛原郡のみならず愛媛県や宇治茶の製茶研究所に教師として招聘されるなどの茶業指導ののちに、静岡県製茶監督員として長期にわたって活躍したことは、すでにブログに書いたところです。

以上、明治期における河村家当主の役職を概観したわけですが、この姿がまわりのひとびとの眼にどのように映ったのかは、あさってのブログに書くことにしましょう。

明日は、朝五時に起きて、愛知学院大学での授業をしてきます。
ブログは帰宅後になりそうです。


2005年12月1日(木曜日)

文化財(8)

カテゴリー: - kawamura @ 08時30分21秒

江戸幕府から御林守に任命された河村家は、苗字帯刀と給米をあたえられて、武士の定住していない天領(現島田市)においては特別な地位についていた、ということを昨日お話ししました。

島田市指定文化財「御林守河村家住宅」は、河村家がそのような公的地位についていたころの建造物ですから、近隣のひとびとも、御役所として建物をながめていたのでしょう。
そのような意味で、河村家を見るひとびとの視線は、社会制度のなかで安定したものだったとおもいます。
つまり、その家に住むにふさわしい役職についていて、御林守としての責務を果たしていたのですから、高い石垣にかこまれ、石畳をそなえ、太い梁にささえられた頑丈な建造物に住んでいても、それを見るひとびとの眼に、違和感はなかったものと思います。

江戸時代の河村家は、初期の庄屋のころも、御林守に任命されてからも、公的な役職をつとめその責任を果たしていたのですから、寛政五年に建てられた家も、まわりのひとびとにとって得心のいく姿だったのでしょう。

そこが、明治期以降と違うところなのです。

御林守の役所として建てた建造物に、明治期以降は強い権力を伴う役職からはなれ、役所としてつかうこともないままに住み続けたところに矛盾があるのです。
それでもまだ、明治初年から昭和二十年までは、江戸期の苗字帯刀というほどではないにせよ、河村家当主はさまざまな公的役職に就いていましたから、河村家当主とその建造物を見る近隣のひとびとの眼に、それほどの違和感はなかったのかもしれません。

つづきはまた明日。


2005年11月30日(水曜日)

文化財(7)

カテゴリー: - kawamura @ 07時45分58秒

昨日は、江戸時代の身分制度がそれほど厳密なものではなく、士分のものが商家へ婿養子に入ったり、農工商のなかから士分に取りたてられるなど、身分間での流動性がみとめられたということをお話ししました。
士分の特権として苗字帯刀がありますが、士分以外でも特に有力なものには、各藩の大名から苗字帯刀の特権があたえられました。

江戸時代の人口構成は、およそ、武士が7%、農民が84%、町人などが残りの9%とされています。

天領であった金谷宿は現在の磐田市に置かれていた代官所に支配されていて、士分のものは定住しておりませんでした。
金谷宿には本陣柏屋の河村八郎左右衛門が名主として、大代村は御林守河村市平が苗字帯刀を許されていましたが、現在の島田市に相当する天領においても、それはほんのわずかのことで、この地域における苗字帯刀の家は7%よりはるかに少なかったものと思います。

ましてや大代村は東海道から大代川ぞいに10kmほど遡上しなければならず、士分のものが来村するのは、ふつうは年貢の取りたて以外には考えられませんが、大代村には幕府直轄山林がありましたので、幕府の役人がときおり訪れることもありました。

そのような意味において、大名からではなく、江戸幕府から苗字帯刀を許された「御林守河村家」が、島田金谷の宿場や大代村のひとびとから、どのように見えたかは、あまり説明を要しないものと思います。

つづきはまた明日。


2005年11月29日(火曜日)

文化財(6)

カテゴリー: - kawamura @ 07時08分05秒

江戸時代は、どうも巷間流布されているように過酷な時代ではなく、もっと自由でゆたかな時代だったようです。
士農工商という概念も、もともと江戸時代では一般的ではなく、明治維新を正当化するために明治期になって流布されたもので、江戸時代があたかも階級的に硬直化し明治維新は起こるべくしておきた、とするための明治政府のプロパガンダでもあったようです。

どうも、明治維新前とそのあとでは、おおきく日本の様子が変化したように思います。

たとえば鎌倉幕府が平安末期の混乱に乗じて勢力を得た東国武士の、自然発生的な武力革命によって誕生したのとはちがって、明治維新は、外国の脅威から日本国を守るために”天皇制”という新たなドグマを創造して政権交代をした、というところに特徴があるようにおもいます。

ドグマというのは、たとえばロシア革命によって創造された共産主義というドグマも、70年しかもちませんでした。
ひとびとはあたらしく咲いた造花の夢に酔って、一時期は興奮し国威も発揚されるのでしょうが、それは所詮架空のドグマにすぎないのであって、やがて色あせ、破綻します。

日清日露と連勝し、やがて”天皇制”というドグマのもとに発生した「統帥権」が、日本軍を破滅にみちびくのです。

話がそれてしまいました。
本当はもっとこのへんを語りたいのですが、文化財というテーマからかけはなれてしまいますのでここまでにしましょう。

あしたは、江戸時代の御林守河村市平から説きおこします。


2005年11月28日(月曜日)

文化財(5)

カテゴリー: - kawamura @ 02時28分07秒

前回までは文化財「御林守河村家住宅」を、所有者である私の視点からながめてみました。
これからしばらくは、それをとりまく人びとから見た河村家の姿を想像してみましょう。

河村家は、大寶神社についてお話ししたときのように、大代村の成り立ちの最初からかかわってまいりました。
『安養寺過去帳』や位牌の裏に書かれ、またその墓石がふたつ残されている御先祖様、
忠学宗心居士と自雲妙性大姉は、永正二年(1505)に亡くなっています。
当時の大代村に住むひとびとから見た河村家は、一種の支配者的な色彩の濃い家であったと思われます。
詳細は大寶神社シリーズをごらん下さい。

江戸期には、金谷町史資料編二に付図として「大代山論裁許絵図 延宝六年(1678)」が添付されていますが、
その図面に「大代村庄屋市平」と書かれ、またその他の多くの文書からあきらかなように、
後に御林守を拝命する河村家は、江戸初期には庄屋あるいは名主として大代村の村役人を務めていました。

その当時の河村家を、大代村のひとびとがどのようにとらえていたかを物語る古文書がのこされています。
一度ご紹介したものですが、その概訳を再掲します。

「寛保二年(1742年)十月、大代村の名主(河村)市平が病死しました。
長男八十吉(やそきち)はいまだおさなく、ひとりでは名主のお役はつとめられないでしょうけれども、
後見人をたてますので、八十吉に名主の役を仰せつけられますよう、
お代官大草太郎左衛門さまにお願い申し上げます。
大代村は河村市平と杉山平馬の両人で名主役をつとめてまいりましたので、
古来の通り、ふたりの名主を立ててくださいますようお願いいたします。
河村家は草切り以来の名主ですから、十六才までは村中で応援し、後見いたします。
そうすれば、八十吉も名主役もつとめられるようになるでしょう。

市平の弟孫太夫(まごだゆう)は、二十年以上まえに掛川の宮脇村へ養子にいきました。
孫太夫は大代地内に分地も所有していますし、そのうえ当村生まれのものですから、
気だてもよく承知しております。
その孫太夫を後見人といたしますので、八十吉に名主役を仰せつけられますよう、
大代村の総百姓そろってお願い申し上げます。

このことを、もうひとりの名主、平馬に申しましたが、何度お願いしても印を押しません。
ですから、私たち総百姓にて印を押し、お願い申し上げますので、
お慈悲をもってこの願いをお聞き届けられ、八十吉に名主役仰せつけてくだされば、
私たち百姓は、いつまでも感謝申し上げます。
        寛保三年(1743年)三月r
                      以下総百姓 百六名之印r
大草太郎左衛門様 御役所」

この文書をみれば、当時の河村家が、大代村のひとびとから慕われていた名主のように見うけられます。
すくなくともTVに出てくるような悪代官と結託した名主ではなかったようです。
江戸前期の名主河村家を見るひとびとの眼は、善意にみちていたように思えます。

つづきはまた明日。


2005年11月27日(日曜日)

文化財(4)

カテゴリー: - kawamura @ 07時32分36秒

文化財は、現在という静止した空間のなかに存在しているのではなく、それをとりまく歴史的な時空のなかにある、ということを前回お話ししました。

「御林守河村家住宅」について、具体的に申しあげますと、河村家が幕府直轄山林の管理者であったころに、役所として、あるいは御林守のシンボルとして建てた家は、明治維新を経てその役職を失ったあとでは、役所やシンボルとしての機能も同時に消失したのです。
明治期から昭和二十年までは、不在地主として、所有地からあがる年貢米でそのシンボルとしての家を維持することができました。
農地改革後、所有農地のほとんどを失って地主から自作農となった河村家は、経済的基盤をなくしたわけですので、「御林守河村家住宅」は維持管理に苦労するだけの無用の長物となりました。
私の代になって、農業からはなれると、夏は比較的よいのですが、冬は天井が高くて暖房効率が悪いものですから、住宅としてさえもてあますようになりました。
有形文化財に指定されたあとは、その管理者として別棟を建てましたので、「御林守河村家住宅」は、役所としても、シンボルとしても、ついには住宅としての機能も失いました。

すべての機能をうしなって、「御林守河村家住宅」は、島田市指定有形文化財建造物として、しずかな谷間にひっそりと建っています。

つづきはまた明日。


2005年11月24日(木曜日)

文化財(3)

カテゴリー: - kawamura @ 07時53分20秒

文化財建造物は、現在という静止した空間の中に建っているのではありません。
それは、その建物に住むひとびとの歴史や、それをとりまく地域に住むひとびとの歴史的な時間のうえに存在しているのです。

たとえば「御林守河村家住宅」は、寛政五年(1793)に建てられ、江戸期は御林守として苗字帯刀の身分で暮らしていましたので、住宅も役所としての機能をはたしていました。
幕府炭会所の役人が、江戸新橋からしばしばやってきたときの記録も残されています。

しかし明治維新とともに御林守の役職と刀とを剥奪されましたので、その時点で、住宅のもつ役所としての機能は終わりました。
明治期から昭和二十年の終戦までの河村家は、山林と、金谷河原の農地と、大代の本宅をとりまく農地とを所有していましたから、そこからあがってくる年貢米を米倉に蓄えるなどして、曾祖父も祖父も不在地主ではありましたが、「御林守河村家住宅」を維持管理する原資は充分にみたされていました。

昭和二十年代の農地解放では、金谷河原の農地のすべてと、大代の本宅周辺農地のほとんどを失いました。
上海の十三軍司令部から復員した父は、農地改革のもとで、旧地主階級にかぎって自作しない田畑を没収されましたので、残されたわずかな田畑を自作農として耕作しました。
このころには、米倉はその機能を失っていたはずです。
そのかわりに、荒茶を製造するための茶工場がはたらきはじめました。
曾祖父の建てた蔵も、その一部を茶工場として使うことになりました。
しかし私の幼少期にも、子どもたちは奥座敷や床の間には入れないというような、役所として使われていた当時のなごりをかすかにとどめていました。

つづきはまた明日。


2005年11月23日(水曜日)

文化財(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時59分33秒

有形文化財に指定される以前から、その所有者は、建物そのものと、それのもつ歴史に愛着をもっていたはずです。

しかしどれほどその建造物を誇りに思っていても、老朽化して住めなくなるという物理的要因と、社会制度の変化によって屋敷全体の維持が困難になるなどの社会的要因によって、建物を取り壊して建てかえる必要が生じてきます。

社会制度の変化によって維持が困難になる、とはどのようなことでしょうか。

文化財指定に値する建造物は、その一棟だけで成りたっているのではなく、広い庭と、母家をとりまくいくつかの建物によって構成されています。
そのすべてが生活の場であり、それらは時代の必要に応じてそれぞれ建て増しされてきたのです。
つまり、広い屋敷といくつかの建物群は、おおくの労働力にささえられてはじめて成りたっていたのであって、その建物は、現在の役所であり、公民館であり、あるいは工場であったりしたのです。
おおくの人たちがそこで働き、給金を得ていた生活の場でもあったのでしょう。

建造物所有者が、社会制度として広大な所有地から収益を得ていた時代には、屋敷全体の維持が可能でした。
また、安価な労働力が得られ、さらに、現在のように過酷な固定資産税や相続税などもなければ、その建造物の維持や庭の手入れをすることなどもできました。

つづきはまた明日。


2005年11月22日(火曜日)

文化財

カテゴリー: - kawamura @ 08時08分34秒

文化財について考えてみたいと思います。
文化財のなかの有形文化財、とりわけ建造物に焦点をあてて、それをめぐるさまざまのことを書いてみようと思いたったのです。

文化財といっても、国指定の重文、県指定、市町村指定、とさまざまですが、そのなかで、個人の所有する建造物についてその維持保存の問題点などを掘りさげてみましょう。

建造物はあくまでも歴史的建造物であって、単に物理的に存在しているというのでなく、その歴史が指定要件として重視されます。

たとえば島田市指定有形文化財「御林守河村家住宅」は、幕府直轄山林が全国に数カ所しかなく、またそのなかで御林の管理者である御林守の子孫が現住しているのはまれです。
以前日記にも書きましたが、幕府の御林は、建築資材として、薪炭などの燃料として、また木材の売却による資金調達など、さまざまな意味で、幕府にとって重要な資源でした。
その御林の管理者である御林守の住宅が現存しているのは、全国的に見てもめずらしいことのようです。

そのような意味で指定されたのですが、指定されたあとの管理や維持保存はどのようになっているのか、その現状や問題点などについて、これから何回かにわたって書いていこうと思います。


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