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2008年4月14日(月曜日)

崩落寸前!!


崩落の瞬間へ
カウントダウンが始まりました!!

崩壊寸前の建物の詳細は
旧金谷町教育委員会の依頼で建築士の方々が半年ほどかけて作成した
調査報告書をご覧いただくのが
よろしいかと思います。

河村家住宅調査報告書」の
「宗平おじいさんのお倉」「茶部屋」が当該箇所です。

下の写真は、2005年10月2日に撮影したものです。


2006年8月1日(火曜日)

河村家住宅調査報告書(7)

追記

敷地は、北側の川に沿って高く積まれた石垣や東側畑境の石垣、
南から西にかけて敷地を区切る山裾の低い石垣に囲まれている。
屋敷造営の際に施工されたと思われ、河村家の屋敷構えを特徴付ける重要な要素である。
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また、屋敷入口から主屋までのアプローチの2ヶ所に分けて敷かれた石畳は、
町史跡であるである旧東海道の石畳にも似た雰囲気を持って特徴がある。
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さらに、主屋前の広場と前庭を区切る塀は、現在台風被害によって撤去されているが、
主屋上手の「奥座敷」に出入りするための門扉が付いて接客空間を形作り、
この座敷に面して「前庭」と呼ばれる池を持つ庭園を設けて、格式の高さを表している。
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また、主屋の後にも池を持つ「裏庭」を設け、
二つの池は裏山の絞り水を集める溜池の役目も果たしていると思われる。
屋敷全体は、入り口から奥の「米倉」、「地の神様」まで段々上がっていく、
土地の高低に合わせた巧みな構成であり、
建物と合わせて総合的に整備活用計画を立てることが望ましい。


2006年7月31日(月曜日)

河村家住宅調査報告書(6)

次いでBランクは、「茶部屋」・「宗平おじいさんのお蔵」・「お蔵」・「米倉」・「地の神様」の5棟が該当する。
これらの建物は、茶部屋を除くと保存状況も良好である。
茶部屋については、特徴の項目でも一部触れたが、明治期から昭和40年頃まで使用された、
茶再生業の状況を如実に語る貴重な遺構であり、修理整備して当時の姿に復原すべき建物である。
金谷町内にもこれほどの状態を残す建物は他に無いのではないのかと推測される。

最後はCランクであるが、「マエ」・「ウラ」・「味噌部屋」・「物置」の4棟で、
これらの建物は朽損の程度も進み崩壊の危険性をも併せ持っているので、撤去もやむなしと判断せざるを得ない。

以上を総合的に考慮し、全体の整備活用計画を立案することが肝要であろう。


2006年7月30日(日曜日)

河村家住宅調査報告書(5)

7.所見

ここでは敢えて、保存状況や建築歴史的価値などの観点から、各建物を三つのランクに分類してみたい。

まず初めのランクをAとすると、当然のことであるが、金谷町の指定文化財である主屋が該当する。
今後修理などの必要が生じてくると考えられるが、
御林守の住居として末永く後世へと継承しなければならない建物であり、その価値を充分有する建物である。

可能であれば、将来行われるであろう修理の際には、是非詳細調査の実施とその成果に基づいて、
寛政5年の建立当初の姿に復原すると、建築史的価値は更に増すであろう。


2006年7月28日(金曜日)

河村家住宅調査報告書(4)


「茶部屋」の崩壊状況 
左が平成15年、右が平成18年

(6.特徴 の後半です)

一方、保存状況は決して良好とは言えないが、茶部屋も貴重な遺構である。
静岡県の近代産業を代表するものの一つとして、製茶業が挙げられる。
ところが、昭和30年代頃から茶再生工場では設備の自動化や大型化が進み、それに伴って小規模な木造から鉄骨造の建物へと移り変わり、
おそらく町内のあちらこちらにあった家内工業的な小さな茶再生工場は、次第に姿を消していったのであろう。

河村家では、「宗平おじいさん」は県内の茶業振興にも尽力した人物であったと伝えられ、それを示す史料も多く残されている。
当家の茶部屋は、そのような社会情勢の中にあって、昭和40年代頃まで実際に使用されていた数少ない遺構である。

金谷町内で大井川右岸にある川越しの遺構と考えられる旧加藤家住宅の主屋背後にも、茶再生工場の片鱗が残存していた、
しかし、それに較べて当家の茶部屋に残された、シャフト・プーリ−・ベルトなどの茶再生に使用された多くの設備の残存状況は、
それを上回って充実しているものと判断される。
今ひとたび旧状に復して、金谷町の茶業の歴史を物語る施設として再生活用したい建物である。


2006年7月24日(月曜日)

河村家住宅調査報告書(3)

6.特徴
  主屋は、御林守の住居遺構として貴重であることや、建立年代も明確であること、
  さらに建築史的な価値を有することなどから、金谷町の文化財に指定されている。
  建築規模も大きくて御林守の住居に相応しく、一般的な民家とは異なる風格を見せている。

  しかし本建物は、昭和47年度に実施された静岡県内の民家緊急調査からは漏れており、
  その特色や価値が適切に評価されているとは思われない。
  
  その理由として、寛政5年の建立当初の建築様式が明らかでなかったことが挙げられる。
  すなわち、柱や梁・その他各部材などをよく調べてみると、
  現在の平面とは異なる形式が復原できそうである。
  
  僅かではあるが一部の例を述べると、「トコノマ」と「イマ」が並ぶ中央の部屋筋は、
  現況とは異なり、「イマ」は南隣へ1間延びた広間となり、
  「トコノマ」には当初は床の間がなかったのではないかと考えられる。
  推定復原される広間の上部には、当時を偲ばせる豪快な梁組が2室にまたがって架けられており、
  架構の特徴を示している。
  
  このように建物全般に亘って痕跡調査を行ない、寛政5年当初の建築様式を復原すると、
  現状とは全く異なる平面となり、
  県内における他の民家には殆ど類例を見ない独特な形式になると思われる。
  このことは、御林守という役職の住居を、一層特徴付けることに繋がるのかもしれない。
  
  いずれにしても、痕跡調査を主体とする詳細調査の必要が感じられる。

  (「6.特徴」のつづきはまたあした)


2006年7月23日(日曜日)

河村家住宅調査報告書(2)

これらに対して、家伝や後世の修理墨書などによって、概ね建立時期の判断可能な建物は次のものである。

3)マエ
  棟木の下面に、「昭和四年三月屋根換」と記されているので、
  昭和4年(1929)に、屋根の葺き替えの行われたことが知られる。
  では、建立時期は何時かというと、外見所見からは明治期が想定される。

4)宗平おじいさんのお蔵
  家伝によると、当主の曾祖父である宗平おじいさんが建てたとされ、この建物の由来となっている。
  細部の状況を調査すると、釘は従来我が国に伝わる断面が四角の形のいわゆる和釘が使用されており、
  従って建立時期は明治20年頃より前であったことが知られ、
  おそらくは明治初年に建てられたものと判断される。

5)その他の建物
  上記4棟以外の建物に関して建立年代を示すものは伝わらないが、
  建物の朽損状況や建築技術及び材料の風蝕などから総合的に検討すると、
  明治期の後半から昭和戦前頃までに逐次建てられたことが推測される。


2006年7月22日(土曜日)

河村家住宅調査報告書(1)

この報告書は、平成十五年に金谷町文化財保護審議会において決議された事項にもとづいて、
静岡県伝統建築技術協会が、数ヶ月にわたって河村家住宅を調査したものです。
本文、図面、写真から構成されているもので、
これから、毎日少しずつ、その内容を公開してまいります。

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河村家住宅調査報告書

平成15年12月
特定非営利活動法人静岡県伝統建築技術協会

1.建物名
  河村家住宅(合計10棟、屋敷図・平面図参照)
  主屋・マエ・茶部屋・宗平おじいさんのお蔵・ウラ・味噌部屋・お蔵・物置・米倉・地の神さま

2.所在地
  金谷町大代岡穂平
  
3.所有者
  河村隆夫

4.概要
  山裾に抱かれた一段高い敷地の北側で、東から、「マエ」・「茶部屋」・「宗平おじいさんのお蔵」・
  「ウラ」・「味噌部屋」・「お蔵」・「物置」・「米倉」・「地の神さま」という、9棟の建物がならんで建ち、
  「宗平おじいさんのお蔵」の南に主屋が建っている。
  また、「地の神さま」の脇には防空壕跡も残存している。
  敷地の西から南にかけては、傾斜の急な山林となる。
  主屋の南東に前の池を設けた前庭があり、さらに背面にも裏の池を設けて裏庭を形成する。

5.各建物の建立時期
  明確な史料によって建立時期の判明する建物は下記の2棟で、建立時期の古い年代順に述べる。

  1)主屋

  家蔵の古文書の中に寛政五年(1793)の普請帳があり、外見所見からもこの時の建物と判断される。
  普請帳の表紙には

     寛政五年
   本家普請大工木挽人足諸入用目録帳
     子 十二月

  と記されている。表題が示すように、この普請帳には、大工・木挽の作料を初め、
  各職人への入用や、近隣から寄せられた普請見舞いの品々が逐一記されており、
  建立の背景を窺うことができる貴重な史料である。

  2)お蔵
  棟木の下面に、「奉上棟昭和十壱年五月吉祥大元尊命家門繁盛守護」の墨書が確認され、 
  この建物は昭和11年(1936)の建立であることが判明する。
  外見からは、この建物が10棟のうちで最も新しいものと考えられる。
  (附記 このお蔵より以前に建っていた古い土蔵は、屋根が崩れ、
      雨水のために家伝の古文書が多数失われました。それで、建て替えたのです)

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つづきはまたあした。 


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