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2008年5月23日(金曜日)

郡中議定(1819)その3

カテゴリー: - kawamura @ 05時58分46秒

文政二年の「倹約取究」のような郡中議定をみると、
近世後期には
すくなくとも私が思っていたよりも
はるかに民主的な政治形態が成熟していたようです。

西は天竜川から東は大井川までの地域が
やがて明治期の政治的区域に受け継がれていく様子を
我が家の古文書からもうすこし読み解いてみましょう。

文政二年の「倹約取究」にある村名は下記の通りです。

増田村、上西郷村、・・・・

また明治期の第三大区は下記の地域です。

このように、

(とまあこんなふうに書きたいのですが、
 時間がありません。
 つづきは、
 帰宅してから書くことができれば書きます)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月22日(木曜日)

郡中議定(1819)その2

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分33秒

昨日に引きつづき、
金谷町史通史編本編より抜萃します。

********************

惣代の者たちは、
先の河村家や鈴木家のように一村の村役人というだけでなく、
地域における用水組合や行政的な管理の面で
きわめて横断的な活動を展開し、
小地域の顔となるような存在であった。

彼らは経済的な土台もしっかりしていたが、
そうした者たちが七郡八九五か村の代表として参会し、
より大きな地域の利害をめぐって協議したのである。

この議定は、
文政二年七月に公儀から物価抑制の触れが出され、
これに呼応する形で同年九月に
一郡もしくは半郡単位での小規模な枠組みで郡中議定がなされた
(城東郡のうちの四一か村が集結して議定が行われ、
 二二項目にわたる物価下直への対応策が申し合わされた)後、
そうした経験の積み上げと総括のなかで、
翌十月に締結されたものである。

議定最期の締結文言には、
「今度天竜川より大井川界までの者が集まって
 相談し決定した以上は、
 違約のないようにしなければならない。
 何か問題が起きたときには、
 惣代の者たちに回状を送り早速参会する」
と記されている。

つまり、違約出来の状況に対して迅速な対応が準備されており、
こうした郡中議定が臨時的なものではなく、
一定のつながりの上に
恒常的に組織されていたものであることが理解される。

近世後期には、
遠州の東部・中部は既に
社会的・経済的かつ「行政」的に
一つの地域として認識されており、
それを運営する地域の「代表」として
郡中惣代らが集結し、
地域の方針を立てていたのである。

(金谷町史通史編本編 題3編 近世 p426・427)

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
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2008年5月21日(水曜日)

郡中議定(1819)

カテゴリー: - kawamura @ 07時05分54秒

(図3−7 郡中議定村々と組合議定村々)
金谷町史通史編本編より、
文政二年(一八一九)の郡中議定について、抜萃します。

********************

文政二年(一八一九)十月、
天竜川から大井川まで
現在のいわゆる中東部遠州地域七郡八九五か村の者たちの総代が参会し、
「倹約取究」なる郡中議定をまとめ上げた。

この議定領域は
図3−7に示した通りであり、
畿内の国訴(こくそ)の議定領域にも匹敵するような
広域的なものであった。

惣代は六五か村から七四名出ており、
町域からは大代村の河村市平と
牛尾村の鈴木彦右衛門が出席している。

ちなみに、
この議定史料はこの河村家に残されたものである。

この議定領域は、後の明治維新直後、
明治五年(1872)六月に設定された大区小区制の枠組と
直接的な連関を有している。

すなわち、
この領域は浜松県第二大区および第三大区の合同領域とほぼ符合し、
逆に遠州からこの領域を除いた地域は
浜松県第一大区とほぼ合致するのである。

明治四年十一月に開始された区制と
その後に展開した大区小区制の枠組は、
戸籍編成上の必要から近世期に展開した行政的枠組みを無視して
かなり機械的かつ強引に作られたように理解されてきたが、
むしろこうした郡中議定などの枠組みに規定されて存在したのである。

(金谷町史通史編本編 題3編 近世 p426・427)

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2006年2月27日(月曜日)

古文書(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時15分21秒

江戸時代よりまえには、
文字を書ける人は
かぎられていていましたから、
いわゆる中世文書は
漢文で書かれていて、
だれが見てもはっきりとわかるような
見事な字で書かれていることが多いようです。

江戸時代以前は、
まだ社会組織が成熟していませんでしたから、
命令伝達をするときは、
人々を集めて、
口頭ですましていたのです。

つまり書面のやりとりをするのは、
ひとにぎりの支配者にかぎられていましたし、
とくに高位のひとたちには
祐筆とよばれる代筆者がいましたので、
秀麗な書面が残されているのです。

江戸時代になると、
村役人なども字を書くようになりましたので、
いわゆる近世文書は
ひらがなやくずし字も用いられるようになって、
急に読みにくくなります。

それでも近世文書は
お手本を見ながら
書かれていたようなところがあり、
まだ素人でも解読可能なものがあります。

ところが明治期になると、
国民全体に義務教育がおこなわれて、
庶民も字を書くようになりましたから、
くずし字にも個人的なくせが
つよくみられるようになったために、
たいへん読みにくくなります。

わが家の古文書も
明治時代の河村宗平文書の解読が
いちばん困難になるだろうと思います。

どなたか、
明治初年から昭和20年までの
葉書や手紙、その他の書面を
いっしょに解読してくださる方は
いらっしゃいませんでしょうか?


2006年2月26日(日曜日)

古文書

カテゴリー: - kawamura @ 05時33分36秒

「御林守河村家」に残されている古文書は、
近世文書(江戸時代)526点、
近現代文書(明治以降)2942点の、
約3500点です。

平成元年頃から
静岡大学人文学部長の本多隆成教授が、
旧金谷町を悉皆調査し、
「金谷町所在文書目録」を作成されたのです。

その第3集に
「河村隆夫家文書」が収められています。

なぜ河村<隆夫>家なのか
と申しますと、
旧金谷町に残された古文書には、
河村<俊>家文書、
河村<正一>家文書、
と三軒の河村家文書があるからです。

河村<俊>家は、
先祖が
武田・徳川の攻防の際に
徳川家康を助けて大井川の瀬踏みを案内した
河村弥七郎で、
田中城(藤枝市)攻めに功を立てた褒美として
金谷柏屋・島田柏屋屋敷を与えられて、
本陣柏屋、
また近隣十数ヵ村を束ねる大名主となりました。

河村<正一>家は、
本陣柏屋河村家の分家筋で、
金谷宿問屋を務めました。

旧金谷町にはそのように
三軒の河村家文書が残されているものですから、
わが家の古文書は
河村<隆夫>家文書、
と名づけられたのです。

(この三軒が、
以前お話しした、たいへんめずらしい
「丸に違い箸」の家紋をつかっているのです)

これらの古文書を完全に解読して、
のちの研究者のために
データベースをつくっておきたいとは
思うのですが、
古文書の解読には技術が必要で、
それを勉強してからとなると
相当の年月が必要です。

一時期すこしだけ学んだのですが、
生来の飽き性ですから、
2年と経たないうちに
やめてしまいました。

あと数年して
塾の仕事が一段落したあと、
古文書の解読に
ゆっくりととりかかろうと思っています。
「河村隆夫家文書」の目録が収録されています。


2005年7月27日(水曜日)

「倹約取究」(1819年)

カテゴリー: - kawamura @ 00時04分57秒

「金谷町史」通史編本編第3編第4章第1節組合村々の様相 より抜粋

[郡中議定]
文政二年(1819)十月、天竜川から大井川まで現在のいわゆる中東部遠州地域七郡八九五か村の者たちの惣代が参会し、「倹約取究」なる郡中議定をまとめ上げた。
この議定領域は図3−7に示した通りであり、域内の国訴の議定領域にも匹敵するような広域的なものであった。

惣代は六五か村から七四名出ており、町域からは大代村の河村市平と牛尾村の鈴木彦右衛門が出席している。ちなみに、この議定資料はこの河村家に残されたものである。

この議定領域は、後の明治維新直後、明治五年(1872)六月に設定された大区小区制の枠組と直接的な連関を有している。
すなわち、この領域は浜松県第二大区および第三大区の合同領域とほぼ符合し、逆に遠州からこの領域を除いた地域は浜松県第一大区とほぼ合致するのである。
明治四年十一月に開始された区制とその後に展開した大区小区制の枠組は、戸籍編成上の必要から近世期に展開した行政的枠組みを無視してかなり機械的かつ強引に作られたように理解されてきたが、むしろこうした郡中議定などの枠組みに規定されて存在したのである。

惣代の者たちは、先の河村家や鈴木家のように一村の村役人というだけでなく、地域における用水組合や行政的な管理の面で極めて横断的な活動を展開し、小地域の顔となるような存在であった。
彼らは経済的な土台もしっかりしていたが、そうした者たちが七郡八九五か村の代表として参会し、より大きな地域の利害をめぐって協議したのである。

この議定は文政二年七月に公儀から物価抑制の触れが出され、それに呼応する形で同年九月に一部もしくは半部単位での小規模な枠組で郡中議定がなされた(城東郡のうち四一か村が集結して議定が行われ、二二項目にわたる物価下直への対応策が申し合わされた)後、そうした経験の積み上げと総括のなかで、翌十月に締結されたものである。

議定最後の締約文言には、「今度天竜川より大井川境までの者が集まって相談し決定した以上は、違約のないようにしなければならない。
何か問題が起きたときには、惣代の者たちに回状を送り早速参会する」と記されている。つまり、違約出来の状況に対して迅速な対応が準備されており、こうした郡中議定が臨時的なものではなく、一定のつながりの上に恒常的に組織されていたものであることが理解される。
近世後期には、遠州の東部・中部は既に社会的・経済的かつ「行政」的に一つの地域として認識されており、それを運営する地域の「代表」として郡中惣代らが結集し、地域の方針を立てていたのである。


2005年7月26日(火曜日)

名主市平病死(1743年)

カテゴリー: - kawamura @ 00時01分52秒

『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世D―92

乍恐以書付を奉願上候御事
一、大代村名主市平儀去十月病死仕倅八十吉・幼年ニ而御役儀難相勤奉存候ニ付、後見相立市平・倅ニ名主役被仰付候様ニ村中百姓共奉願上候、大代村・之儀ハ前々より市平平馬両人ニ而御役儀相勤来リ候・在所ニ御座候得ハ古来之通り両人相立申度奉願候・市平儀も草切以来之名主ニ御座候、村受八十吉十六才・ニ罷成り候得ハと少シ間後見仕候ハゝ末々名主役も相・勤り可申与乍恐奉存候、依之市平弟孫太夫義・弐十ヶ年以前ニ懸河御領宮脇村へ養子参住所・仕候得共、市平分地をも所持仕、其上当村出生之者ニ・御座候得バ気立も存知罷有候ゆへ右孫太夫後見・ニ而八十吉ニ役儀被仰付被下置候様ニ惣百姓とも奉願上候御事・右御願申上候趣平馬方へ数度訴申候得共存知寄御座候得ハ奥印不罷成候由申候ニ付乍恐拙者とも名印・計リニ而御願申上候御慈悲ニ被為聞召訳願之通リ被為仰付被下置候ハゝ末々之者迄難有奉存候以上r
        寛保三年亥三月
以下百六名印r
大草太郎左衛門様 御役所

寛保二年(1742年)十月、大代村の名主(河村)市平が病死しました。
長男八十吉(やそきち)はいまだおさなく、名主のお役はつとめられないでしょうから、後見人をたてますので、八十吉に名主の役を仰せつけられますよう、お代官、大草太郎左衛門さまにお願い申し上げます。
大代村は、(河村)市平と(杉山)平馬の両人で名主役をつとめてまいりましたので、古来の通り、ふたりの名主を立ててくださいますようお願いいたします。
河村家は草切り以来の名主ですから、十六才までは村中で応援し、後見いたします。そうすれば、八十吉も名主役もつとめられるようになるでしょう。

市平の弟孫太夫(まごだゆう)は、二十年以上まえに掛川の宮脇村へ養子にいきました。
孫太夫は大代地内に分地も所有していますし、そのうえ当村生まれのものですから、気だてもよく承知しておりますので、なにとぞ孫太夫を後見人として、八十吉に名主役を仰せつけられますよう、大代村の総百姓そろってお願い申し上げます。

これを、もうひとりの名主、平馬に申しましたが、何度お願いしても印を押してくれません。
ですから、私たち総百姓にて印を押し、お願い申し上げますので、お慈悲をもってこの願いをお聞き届けられ、八十吉に名主役仰せつけてくだされば、私たち百姓は、いつまでも感謝することでしょう。
        寛保三年(1743年)三月
                      以下総百姓 百六名印
大草太郎左衛門様 御役所

河村家には、いまもこの文書と八十吉愛用の品がのこっています。

河村家が、当主病死の不幸にみまわれたとき、草分け以来の名主役を河村家につがせるように、大代村のみなさんがこぞってはたらきかけ、印を押してくださったのです。
このときおおくの方のご協力がえられなかったなら、いまの河村家はありません。

いま、文化財「御林守河村家」の保存問題が危機に立たされているとき、三百六十二年前のこの古文書のもつ深い意味が、私のこころをゆさぶります。


2005年7月15日(金曜日)

その歴史的意味

カテゴリー: - kawamura @ 08時14分13秒

昨日の日記に、説明をつけたそうと思います。

これは、matumotoさま、yfujitaさまの、
「なぜ「河村家住宅」は市指定文化財に指定されたのですか?」
という両氏のご質問にこたえる文章でした。

さて、有形文化財としての建造物の指定ではありますが、そこにはふたつの側面があります。
ひとつは、建造物自体の価値、もうひとつはその建造物のもつ歴史的価値です。

建造物自体の価値につきましては、昨日、『町の文化財』(平成6年4月1日発行・発行者 金谷町教育委員会)の紹介文を転載いたしましたが、きょうは、この建物のもつ歴史的意味について、ご説明したいと思います。


『金谷町所在文書目録 第3集』(平成3年3月31日発行・発行者 金谷町役場)の全200頁のうち、その約4分の3、つまり12頁から154頁までの143頁にわたって、「河村隆夫家文書」として計3,468点にのぼる河村家の古文書の目録がおさめられています。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

その近世編460番に「本家普請大工木挽人足諸入用目録」があります。
これは、寛政五年(一七九三)に「河村家住宅」を建てたときの記録です。
大代村の名主であった市平が、寛政元年(一七八九)に御林守の役職に任ぜられ、その四年後に、御林守の役所をも兼ねた住宅を建てました。
それが現在の、島田市指定文化財「河村家住宅」です。

御林守とはなにか、につきましては、後日ご説明いたします。

私も、古文書すべてに目を通したわけではありません。
重要なものはおよそ把握しているつもりですが、この住宅のもつ、深い歴史的意味を解きあかすのには、これから長い時間をかけなければなりません。
のこされた人生の宿題と思っています。

梅雨空がつづいています。目のくらむような青空を、はやく仰ぎたいものです。


2005年6月13日(月曜日)

文殊堂

カテゴリー: - kawamura @ 15時03分39秒

文殊堂は、大代川のいちばん上流にある庄司地区から、掛川の倉真川へむかう山道の途中にあります。庄司文殊トンネルをぬけて、左手のほそい坂道をのぼってゆくと、急な曲がりかどのところに、道標がたっています。
庄司文殊トンネルr
文殊堂道標
文殊堂

現在はちいさなお堂ですが、四十年ほどまえには、そうとうひろい地域で信仰をあつめていたようです。いまでは訪ねるひともたえましたが、それでもときどき、文殊堂の話が、旧金谷町内のお年寄りの口から、なつかしそうにきかれることもあります。
この文殊堂を建てた記録は、御林守河村家につたわる古文書のなかに、天保六年の「文殊堂建立施主附帳」としてのこされています。

表紙にはつぎのように書かれています。
「   天保六年
 文殊堂建立施主附帳
    未 九月吉日  」
またこの文書のなかに、
「 願主
   御林守
    河村市平 印 」
とあって、文殊堂を、御林守河村市平が願主として建立したことがわかります。
また、寄付者のなかの主なものの住所、金額、名前などを列挙してみます。

まず筆頭に、金谷本町世話人・金弐分弐朱・河村八郎左衛門(本陣柏屋)の名があり、河村一族の文殊信仰がうかがえます。ほかに、竹下村世話人・金弐分・下嶋八左衛門、金谷医王寺から金弐拾疋など、六十八件もの名をつらねていて、寄付総額は、拾七両弐分三朱ト四拾弐文におよんでいます。
また村名をあげれば、嶋村、竹下村、志戸呂村上組、同下組、横岡新田、同本田、横岡村、倉真村、東山村下、金谷宿町、同坂町、田町、上本町、金谷河原町、横町、市ヶ島、本町、倉沢村、東山上村、島田向谷、萩間村、小鮒川村、丹間村、堂山、黒又村など、広範囲にわたっています。

なぜ河村家は文殊堂をたてたのか、金谷河村一族につたわるその明白な理由については、後日の日記にしるそうとおもいます。
このように河村家は、菩提寺の法昌院、法昌院境内にある河井八幡、それより歴史のふるい安養寺、文殊堂、と地域の信仰にふかくかかわってきました。さらに、明治四十三年まで河村山のむこうにあった大宝神社についてなど、宗教にかかわることをかこうとするときりがないので、すこしずつ、分けて書いていこうとおもいます。

梅雨入り宣言をきいたとたんに、谷間の朝は、ふりそそぐ初夏の陽ざしです。


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