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2009年4月13日(月曜日)

『むらからの発信』

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分42秒

ナギナタガヤが、穂をつけました。

郷土史研究会の大石孝さまがそれを教えてくださったのでした。

穂が実り、
やがて風にのっていちめんに種がまかれたとき、
梅園はナギナタガヤにおおわれて、
それは自然にたおれるから、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_13.html


2009年1月14日(水曜日)

FM島田76.5

カテゴリー: - kawamura @ 09時32分37秒

放送開始のその日から、ずっと聞いています。

みなさんも、車のFMを76.5にあわせましょう。

身近な情報満載で、とても楽しめます。

それに、情報発信の場としても
素敵な使い方があるのかも知れません。

地産地消のトレンドに、ピッタリかも。

受信地域が限られていますから、
島田市の住民参加番組が支持されるように思います。

みんなで番組作りに参加して
島田市の
だれもが耳をかたむけたくなるFM島田に育てましょう。


2008年11月17日(月曜日)

郷土史研究会の皆さまが

カテゴリー: - kawamura @ 21時57分04秒

先日、
郷土史研究会の皆さまがおみえになりました。

会長の大石孝様は、
金谷町の文化財保護審議会の委員をしていたころから
よく存じ上げています。

ナギナタガヤを教えて下さったのも
大石様です。

朝9時に、童子沢公園の入り口で待ちあわせて、
10人ほどで天王山の頂上に登りました。

曇天でしたが風のないおだやかな日でした。

牧ノ原の諏訪原城、横岡の鶴見城、掛川市の松葉城
などについてご説明いたしました。

その後、御林守河村家に移動して
家の歴史などをお話ししました。

帰りがけに、
大石様から高額のご寄付をいただき
恐縮いたしました。

さっそく「御林守河村家を守る会」の通帳に
入金させていただきました。

有難うございました。


2008年11月3日(月曜日)

三宅隆夫氏が紺綬褒章

カテゴリー: - kawamura @ 09時07分03秒

三宅隆夫氏が紺綬褒章を受章されました。

昨日の静岡新聞に写真入りで
大きく報じられていました。

おめでとうございます。
心よりお慶び申し上げます。

サンエムパッケージ株式会社会長の三宅隆夫氏は
平成16年春に旭日双光章を受章されましたので、
二度目の受章です。

島田ロータリークラブにとっても
たいへん誇らしいことです。

私は島田ロータリークラブ会員として
毎週木曜日に例会で三宅氏にお会いしています。

ロータリークラブの基本精神は
職業を通じて社会に奉仕する
というものです。

三宅氏はまさに職業を通じて
世界に多大な貢献をなさっています。

サンエムパッケージ(株)は
医療用マスクなどの不織布製品を製造販売し
世界で高いシェアー(Wikipediaより)を
誇っているのです。

1968年に新素材不織布に着目して製品化し、
その製造機器を開発し、
単身渡欧して世界に販路を拓き、
厳しく自己を律して家族を大切にし、
後継者三宅馨氏を立派に育て上げられました。

わずか三十数年でそのすべてを成し遂げられたことは
瞠目すべき偉業です。

島田ロータリークラブの会員として
また島田市民として
三宅隆夫氏の受章を
心よりお慶び申し上げます。


2008年10月18日(土曜日)

村祭り

カテゴリー: - kawamura @ 11時44分53秒

今日は大代神社の秋祭り。

朝七時から幟立てに行ってまいりました。

神社の名称を
もとの「大寶神社」にもどすことは出来るのでしょうか。

神社庁に聞いてみようと思います。

名称は、それにまつわる歴史をも伝えてくれますから
安易に変えてしまうのはいかがかと思うのです。

大寶神社という希有な社名が語る歴史的真実を
子供たちの世代にも伝えたいと願うのです。

どなたか神社名をもとに戻すことについて
ご存じの方はいらっしゃいませんでしょうか。


2008年10月16日(木曜日)

島田市大代の歴史

カテゴリー: - kawamura @ 08時35分13秒

(写真は静岡県指定文化財の鰐口。

御林守河村家の二代目助二郎が大宝神社に寄進した鰐口です。

鰐口の銘文に「大代の助次郎が大寶神社に鰐口を寄進する」と刻まれています。

大寶神社は、明治43年まで、大代天王山の山頂にありました)

さて、
大代の歴史をまとめてほしい、
という依頼が知人からありましたので
今日のブログはそれを書いてみようと思います。

金谷町史資料編一古代中世から抜萃します。

◎大治四年(1129)三月二十八日

質侶牧領域内の調査が終了し、
円勝寺の荘園として認定される。
(金谷町史資料編一 古代中世 P77,78)

円勝寺領として認定される。
「大□村 □は白ヵ」とされています。

つまり、文書の一字が欠落していますが
おそらく「白」ではないか、
ということです。

現在の大代を、大白としていたのではないか
ということ。

◎応永三十二年(1414)甲午十月一日

沙弥行一、大代の白山神社に鰐口を奉納する。
(金谷町史資料編一 古代中世 P184)

◎天文七年戊戌(1538)十一月

大代(の)助二郎、大法天王に社に鰐口を寄進する。
(金谷町史資料編一 古代中世 P218)

御林守河村家二代目助二郎が、
大代字天王山の山頂に明治43年まであった
大寶神社に鰐口を寄進しました。

◎大代村の発生について

御林守河村家文書には、
「大代村・之儀ハ前々より市平平馬両人ニ而御役儀相勤来リ候」
(金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世D―92)とあり、

延宝六年(1678)の大代山論裁許絵図にも
「大代村庄屋市平 同平馬」とあり、
大代村の発生期から
「河村市平」と「杉山平馬」が庄屋を務めていたことが確認されます。
(金谷町史資料編二 近世 付図 1 大代山論裁許絵図 延宝六年)

◎江戸時代の大代村名主

河村市平・(杉山)平馬・(渡辺)清左衛門・(山内)清兵衛
以上四家が大代村の名主役を務めました。

河村家は名字帯刀の御林守に任じられ、
江戸期を通じて、
筆頭の「御林守」と「名主」以外の職に就くことはありませんでした。

平馬、清左衛門、清兵衛の各家は、
平馬は江戸中期以降は「組頭」、
清兵衛は江戸後期に「組頭」として現れ、
江戸末期になって名主に昇格します。

清左衛門は江戸中期の一時期「名主」を務めています。

(えんえんと続くので、以下省略します)


2008年8月17日(日曜日)

農業専従者(7)

カテゴリー: - kawamura @ 06時28分50秒

再興した中国は、
いまやアメリカの喉元に、
しこたま蓄えたドルの匕首を突きつけています。

中国の外貨準備高は、
2006年2月に日本を抜いて世界一となり、
2位の日本の2倍近い水準まで拡大しました。

アメリカが如何に中国を重視せざるを得なくなったかは、
史上初めて
アメリカ大統領がオリンピック開会式に参加したことでも
浮き彫りにされました。

世界は中国を注視し、
日本はもはや斜陽の国となりました。

アメリカに安全保障を委ね、
中国に食料を依存する日本は、
ふたつの超大国のはざまで、
彼らの顔色をうかがいながら生きてゆくしかないのでしょうか。

日本国民が毒餃子を食わされて苦しんでも、
胡錦涛にもみ手をしてすり寄る我らの首相は、
「日中の緊密な経済協力を維持発展させるためには、
 また、それによって得た富で国民の食糧を確保するためには、
中国にもみ手をするしかないんだよ」
とでも言いたげです。

一体、
加工貿易によって得た資金で食糧を買えば良しとする姿勢を
どこまで容認しろというのでしょうか。

少子化と高齢化の二重苦を背負わされ、
産業の基盤をなすべき青少年への理数科教育の衰退もまた、
目を覆うばかりだというのに。

近い将来、
廉価の中国農産物に圧されて日本農業が滅び、
やがて円が価値を失って、
他国から高い食料を輸入せざるを得なくなったとき、
苦しむのは誰ですか。

いまや山間に住む農業専従者も、
国際的な食糧問題の嵐にさらされて翻弄され、
行方を見失いかけています。

このままでは
遠からず日本の田園風景は崩壊するでしょう。

嘗てのイギリス政府のように
「Food from Japan」
の旗を高く掲げる政治家の出現を期待します。


2008年8月16日(土曜日)

農業専従者(6)

カテゴリー: - kawamura @ 05時36分30秒

農業専従者の若者へ
娘たちが喜んで嫁ぐようになれば
農業の将来は明るくなると思いませんか。

それには、
アメリカの高度に合理化された農業や
人件費を極度に抑えることのできる中国農業に
競合して打ち勝てるような生産様式を創造しなければなりません。

まず農地を集約化できるように法改正をすべきと思います。

農業を縛り上げている旧弊な法制度を
根本から作り替えなければ
農地の流動性は生まれません。

(法改正には、
 気の遠くなるような時間がかかるのでしょう)

また、集約化するときに問題になる農地の価格は、
日本の総人口減少とともに低下してゆきます。

これから10年のあいだに
高齢化した農業専従者たちがリタイアして
不耕作地は一挙に広がるでしょう。

そうすれば農地価格はさらに低下し、
法制度さえ整えば
農地の集約化が可能になります。

現在の日本は
自国の安全保障を米国に委ねることで得た巨富をもとに
食料の6割を他国から輸入しています。

しかし、
1000万人とも言われる団塊の世代が
生産労働からはなれてやがて介護される側にまわるのですから
10年後の日本の国力が現状を維持できているとはとても思えません。

当然、円の価値は下がり
輸入する食品価格は上昇するでしょう。

日本の農産物に価格競争力が生まれたそのとき、
日本の農業は復活するのかもしれません。

しかし間に合うのでしょうか。

これほど農業従事者を苦境に追い込んでいて、
そのときまで日本の農業が存続し得ると思っているのでしょうか。


2008年8月15日(金曜日)

農業専従者(5)

カテゴリー: - kawamura @ 07時11分25秒

私自身は現在農業をしていませんけれど、
農家として登録されているので
農地を買うことができるのです。

つまり、農地を買えるのは
農家として登録されている者に限られるのです。

しかし実際のところ買おうとしても
高くて手が出ません。

バブルの余波が山間の地にまで及んでいて
10年ものあいだ荒れ果てた休耕地であっても
それは驚くほど高いのです。

第二東名関連や電力会社などの土地買収価格が
市場価格よりも桁外れに高いことにも影響されて、
山間の地であっても、
だれも自分の農地を安く売るひとなどいないのです。

つまり、土地を集約して大規模な農業を興そうとしても、
よほどの収益が見込まれなければそれは採算が合いません。

農業を始めようと思っても、
農家でなければ土地を買うことはできず、
たとえ農家であっても
買おうとすれば土地は極端に高価で、
高価な土地を買ったとしても
中国の農産物と競合するから収益は見込まれず、
結局のところ、
戦後の農地改革で細分化された農地は放棄され、
農業後継者は農業を見捨てて都市に出て行くのです。

さらに石油価格高騰の影響も、農業に押し寄せています。

お茶を刈るにはガソリンが必要ですし、
肥料も日ごとに値上げされています。

高齢化している農業専従者たちは、
10年も経たぬうちに農業を放棄するかもしれません。


2008年8月14日(木曜日)

農業専従者(4)

カテゴリー: - kawamura @ 07時01分48秒

食料自給率を40%から70%に向上させた
イギリスについて調べてみました。

二度の世界大戦時に深刻な食糧不足に見まわれた政府が、
「Food from Britain」
という強い政策的意志をもって実行したから
農業従事者もそれに従った、
というのが自給率向上の背景でした。

いまの日本で戦争が起こることを心配するのは、
富士山が爆発するのを心配するのと同じようなものだ
という意見もあるようです。

それが正しいかどうかはべつにして、
つまり戦争のことにはふれないで、
食料自給率について考えてみたいと思います。

何のために食料自給率を向上させねばならないのか、
ということです。

毒餃子事件が起きてはじめて食料自給率が問題になりました。

ポスト・ハーベスト農薬の問題もありました。

つまり、
アメリカから日本に穀物などを貨物船で運んでくる途中で
カビが生えたり虫がつくのを防ぐために使う薬の問題です。

収穫され脱穀された後で直接薬品を散布するから、
人体に対する影響は収穫前に散布した農薬よりも大きい、
というものです。

しかし、再燃した毒餃子問題はオリンピックでかき消され、
ポスト・ハーベスト問題もすでに忘れ去られてしまいました。

国民が安全な食品を口にしたいと願うのは
当然のことのように思うのですが、
いかがでしょうか?

安いけれど危険な食品と
安全だけれども高価格な食品と
どちらを選ぶのかは消費者の選択に依るのだから、
食料自給率の問題は経済原則に委ねるべきである、
ということなのでしょうか?

国民の食の安全は
消費者である国民が考えるべきことで、
日本国政府が考えるべき問題ではない、
ということなのでしょうか?

(つづく)


2008年8月13日(水曜日)

農業専従者(3)

カテゴリー: - kawamura @ 05時29分02秒

2000年の食料自給率をWikiで調べてみました。

アメリカ 125%
イギリス  74%
フランス 138%
ドイツ   96%
イタリア  73%
カナダ  161%
日本    40%

なんだか日本の自給率だけが
極端に低いように思えます。

2006年には、日本の自給率は
39%まで落ち込んだようです。

なぜ他国の食料自給率は高いのでしょう。

もちろんそれは戦争を経験しているからです。

以下産経新聞から(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/econpolicy/123926/)、
まずは英国について。

<同じ島国の英国は、20世紀初めごろまで、
 自由貿易政策の下、食料の多くを輸入に頼っていたが、
 2度にわたる世界大戦で深刻な食料危機に見舞われ、
 戦後、自給率を上げるための政策を推進。
 
 約50年前、40%前後だった自給率は
 最近70%台にまで回復した。>

つぎに日本について。

<農水省によると、
 昭和40年に70%台(カロリーベース)だった自給率は年々低下。
 平成18年度は39%と40%を割り込んだ。

 原因としては、食生活の欧米化で自給可能な米の消費が減ったことや、
 都市部への人口流出による農村の高齢化、農業の担い手不足などがあげられる。

 昭和30年代に始まった「国際分業論」という名の
 工業重視・食料自給軽視策のツケは重い。

 ひとの嗜好(しこう)などはそう簡単に変えられるものではなく、
 長年、打撃を加えられ続けてきた農村の生産性を上げることはもっと困難だ。

 極端な話、食料の輸入禁止という荒療治でも施さない限り、
 自給率が飛躍的に上がることはないだろう。

 人間が生きるために不可欠な食料を他国に依存することがいかに危険か。
「食の安全」という面だけでなく、そんな観点の議論も必要だ。>

食料自給率を上げる、と簡単に言いますが、
たとえば食料自給率をイギリス並みの70%にするための
有効な農地は確保できるのですか。

たとえば休耕地や
やがて人口減少によってもたらされる
放置された宅地や荒地が
農地として回復するのにはどれほどの期間を要するのですか。

たとえば土地が確保されたとして
それを耕作する農業専従者はいるのですか。

近い将来、
親たちが蓄えた個人資産1500兆円も食いつぶして、
貧困国に落ち込んだ若者の、
フリーターのなどのなかから希望者が現れて
農業専従者数も満足されたとしましょう。

しかし、
それで彼らの生活は成り立つのでしょうか。

農業は、生やさしいものではないのです。

テレビタレントたちが見せている
「な〜んちゃって農業」では
現実の農業を支えることはできないのです。

もしもそれらすべてが可能であったとき、
実現しようとしても、
さまざまな法律に縛られ、
さらに農水族の権益が立ちはだかり、
やがてその行く手を阻む巨大な農協の姿が立ち現れてくるでしょう。

それよりも、
そうまでして食料自給率を上げることに
国民の同意が得られるのでしょうか?


2008年8月12日(火曜日)

農業専従者(2)

カテゴリー: - kawamura @ 06時22分41秒

高度成長経済がはじまったのは
45年ほど前のことでしたでしょうか。

池田内閣が国民所得倍増計画を打ち立て
高速道路網や新幹線が完成して
東京オリンピックに日本中が沸き立ち
やがて田中内閣の列島改造によって
日本全土は完全に工業国家への変貌を遂げました。

日本の津々浦々にいたるまで
加工貿易に専心する国の姿が完成したのです。

一次産業労働者は工場に吸収され
沃野は埋め立てられて工場用地や
労働者の宅地となりました。

もっとも農業生産性の高い平地の田畑が消えて
農地は山間へ追いやられたのです。

それからバブルがはじける15年ほど前まで
日本は貿易黒字を続けてきました。

世界から一人勝ちと批難されながら
個人資産総額1500兆円という
驚異的な富を蓄えることに成功したのです。

総じて言えば
国民の生命を保障する国家安全保障を米国に委ね
国民の生命を保障する食料も
米国を主とする他国に委ねることによって得られた
歪んだ富を日本国民は手にしたのです。

こうして加工貿易が繁栄しているあいだに
農業従事者は
国のおざなりな保護政策のもとで
あるいは巨大な農業協同組合の支配下にあって
活力も展望も失って
現在の惨状にいたったのです。

これは国の方針であって
自国の安全保障と食料保障を他国に依存するという姿を
日本国家と国民が良しとしたのではありませんか?

いかがでしょうか?


2008年8月10日(日曜日)

農業専従者

カテゴリー: - kawamura @ 06時34分07秒

いちど荒らした土地は
簡単には田畑に戻りません。

毒餃子の問題が再燃して
ふたたび食糧自給率の話題が取りざたされています。

白魚のような手をしたテレビタレントたちが、
農業の生産性を上げよう、
などと絵空事を言っています。

しかし残念なことに
農地は生き物なので
いちど死んだ農地をもとに戻すのには
長い年月を要するのです。

それより、
農業後継者がいません。

私の村落でも
農業専従者の高齢化が進み
これはおそらく
日本中のすべての農村で起きていることなのでしょうけれど
あと10年もすると
農業専従者がほとんどいなくなります。

生産性の高い緑茶の産地、
静岡においてさえそうなのです。

誇張して言っているのではありません。

これはほぼ確実なことで、
あと10年すれば、
放棄された農地が日本のいたるところに見られるでしょう。

勤めが休みの土日だけ農業をしているひとたちも
やがてやめるでしょう。

中国から押し寄せる低価格の農産物に
太刀打ちできるはずもないからです。

ところで、
ユーロスターの車窓からフランス国土をながめたとき、
どこまでもつづく畑のあまりの広大さに
圧倒されたことがあります。

地平まで広がる畑の風景が
どこまで走っても変わらないのです。

アメリカもそうでした。

文明の先進国といわれる国々は
農業国でもあるのです。

(大げさな話しなんかしてないで庭の草でも取りなさい!
 と、叱られそうですから
 今日はここまで)


2008年8月8日(金曜日)

原爆

カテゴリー: - kawamura @ 06時04分41秒

伯父(父の兄)はもう亡くなりましたが、
戦前、文部官僚でしたので、
おもに関西の国立大学に赴任していた一時期があるのです。

広島大学から転任の辞令が出て広島を離れた翌日、
広島に原爆が落ちました。

そして長崎大学に着任する前日に、長崎に原爆が落ちました。

できすぎた話のようですが、事実です。

一昨年、弘前大学副学長を最後に退官した
従兄(伯父の子)に確認してみようとおもいます。

というのも、もっと時間的に切迫していたかもしれないのです。

つまり、原爆投下は、
伯父が広島を離れた数時間後だったのかもしれないということです。

確かめてみようと思います。

(つづきは後刻)


2008年5月23日(金曜日)

郡中議定(1819)その3

カテゴリー: - kawamura @ 05時58分46秒

文政二年の「倹約取究」のような郡中議定をみると、
近世後期には
すくなくとも私が思っていたよりも
はるかに民主的な政治形態が成熟していたようです。

西は天竜川から東は大井川までの地域が
やがて明治期の政治的区域に受け継がれていく様子を
我が家の古文書からもうすこし読み解いてみましょう。

文政二年の「倹約取究」にある村名は下記の通りです。

増田村、上西郷村、・・・・

また明治期の第三大区は下記の地域です。

このように、

(とまあこんなふうに書きたいのですが、
 時間がありません。
 つづきは、
 帰宅してから書くことができれば書きます)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月22日(木曜日)

郡中議定(1819)その2

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分33秒

昨日に引きつづき、
金谷町史通史編本編より抜萃します。

********************

惣代の者たちは、
先の河村家や鈴木家のように一村の村役人というだけでなく、
地域における用水組合や行政的な管理の面で
きわめて横断的な活動を展開し、
小地域の顔となるような存在であった。

彼らは経済的な土台もしっかりしていたが、
そうした者たちが七郡八九五か村の代表として参会し、
より大きな地域の利害をめぐって協議したのである。

この議定は、
文政二年七月に公儀から物価抑制の触れが出され、
これに呼応する形で同年九月に
一郡もしくは半郡単位での小規模な枠組みで郡中議定がなされた
(城東郡のうちの四一か村が集結して議定が行われ、
 二二項目にわたる物価下直への対応策が申し合わされた)後、
そうした経験の積み上げと総括のなかで、
翌十月に締結されたものである。

議定最期の締結文言には、
「今度天竜川より大井川界までの者が集まって
 相談し決定した以上は、
 違約のないようにしなければならない。
 何か問題が起きたときには、
 惣代の者たちに回状を送り早速参会する」
と記されている。

つまり、違約出来の状況に対して迅速な対応が準備されており、
こうした郡中議定が臨時的なものではなく、
一定のつながりの上に
恒常的に組織されていたものであることが理解される。

近世後期には、
遠州の東部・中部は既に
社会的・経済的かつ「行政」的に
一つの地域として認識されており、
それを運営する地域の「代表」として
郡中惣代らが集結し、
地域の方針を立てていたのである。

(金谷町史通史編本編 題3編 近世 p426・427)

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月21日(水曜日)

郡中議定(1819)

カテゴリー: - kawamura @ 07時05分54秒

(図3−7 郡中議定村々と組合議定村々)
金谷町史通史編本編より、
文政二年(一八一九)の郡中議定について、抜萃します。

********************

文政二年(一八一九)十月、
天竜川から大井川まで
現在のいわゆる中東部遠州地域七郡八九五か村の者たちの総代が参会し、
「倹約取究」なる郡中議定をまとめ上げた。

この議定領域は
図3−7に示した通りであり、
畿内の国訴(こくそ)の議定領域にも匹敵するような
広域的なものであった。

惣代は六五か村から七四名出ており、
町域からは大代村の河村市平と
牛尾村の鈴木彦右衛門が出席している。

ちなみに、
この議定史料はこの河村家に残されたものである。

この議定領域は、後の明治維新直後、
明治五年(1872)六月に設定された大区小区制の枠組と
直接的な連関を有している。

すなわち、
この領域は浜松県第二大区および第三大区の合同領域とほぼ符合し、
逆に遠州からこの領域を除いた地域は
浜松県第一大区とほぼ合致するのである。

明治四年十一月に開始された区制と
その後に展開した大区小区制の枠組は、
戸籍編成上の必要から近世期に展開した行政的枠組みを無視して
かなり機械的かつ強引に作られたように理解されてきたが、
むしろこうした郡中議定などの枠組みに規定されて存在したのである。

(金谷町史通史編本編 題3編 近世 p426・427)

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年2月27日(水曜日)

『鰐口考』31

カテゴリー: - kawamura @ 09時09分32秒

写真上段左から3枚『金谷町史』資料編一 古代中世より
左から4枚目以降『藤枝市史』資料編2 古代・中世より

(クリックすると写真は拡大されます)

家の歴史を研究しようとして
『静岡県史』全巻を購入したのが平成6年のことで、
大宝神社鰐口の一節を見つけたのは、
購入してまもなくのことだったから
その年の初夏のことになる。

私はまだ意気盛んな四十代で、
なすことすべてに成果を上げていたころのことだった。

「奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
 天文七記十一月吉日大工又二郎」

この一文を見出した朝をいまでもおぼえている。
興奮をかかえたまま妻に話し、
すぐに静岡大学の教授に報告した。

その後は教授の指導の下で、
数冊の分厚い資料を読みこむ作業がまっていた。
国会図書館までも出向いた。
太閤検地帳まで調べた。

そうして、教授の指導を受けて論文をまとめたのである。

論旨が明確であったから、あまり日数は要さなかった。
ほとんど半年ほどで完成したように記憶している。

それはどのような論旨であったか。

鰐口の懸けられていた神社は
古くから「大宝天王」と呼ばれていて、
その土地の地名は「大代」であり、
天分七年当時、
「助二郎」なる人物が生存していたことが確認できる土地、
それはこの島田市大代の地をおいて
他にあり得ないという論旨であった。

この誰の目にも疑いのないような論文について、
いまだ発表する場所を得ていない。

それは静大教授にも勧められたことだが、
いまだに現実化していないのだ。

「自費出版などしてもだれも読みませんよ。
 何処かの研究誌に発表しなさい」

そう言われたのだが。

どなたか、
『鰐口考』を発表するのに
適当な研究史がございましたらぜひご教示願いたい。


2008年2月16日(土曜日)

『鰐口考』28

カテゴリー: - kawamura @ 07時59分01秒

この鰐口の銘文については、
大学教授の指導のもとに、「鰐口考」と題して小論考にまとめ、
翌平成八年三月から開催された河村家の展示会「御林守展」の資料にした。

展示会は、三月初から五月末までの三カ月間、
諏訪原城へ登る坂の中腹にある石畳茶屋でひらかれた。

さいわい季節にも恵まれ、数万人の来訪者でにぎわった。

私たち夫婦は、日々、展示会資料の印刷に追われ、
署名してくれた全員に、
「鰐口考」と「続冑佛考」とを配布しつづけた。

そのうちの何人が読むかは疑問だったが、
私にとってそれは瑣末(さまつ)のことだった。

来客が途切れると、私は外の長椅子にすわり、
春霞のなかにひろがる大井川の雄大な流れや両岸の街並みをながめていた。

静岡の春の太陽は、
ときおり初夏の陽ざしを思わせるほどに照りかがやくことがある。

私は目をほそめ、その風景をぼんやりと眺めながら、
冑佛発見の経緯を満ち足りた思いで思い起こしていた。


2008年2月14日(木曜日)

『鰐口考』27

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分45秒

私が見いだした「静岡県史」の一節は、
丁度その時期の助次良の、次のような銘文である。

 「大宝天王に鰐口(わにぐち)を寄進し奉る 願主大代の助二良 
  天分七年十一月吉日     大工 又二郎 」

助次良が、大代の地名を冠しているのは、
大学教授の言葉をかりれば、
その地域を領有していた証(あかし)であるということだ。

天王山の頂上に建つ大宝神社の拝殿に、
誇らしげにこの鰐口を奉納する助次良の姿が、目に浮かぶようだ。

少々危(あぶ)ないと思われるかもしれないが、
一時期の私は、天王山のふもとのゆるいカーブを車で通り過ぎるとき、
いつも山の頂上を見上げていた。

ほんのときおり、大宝神社の跡地あたりに、
青空を背景にして助次良の姿が見えた。

それは、笑顔がはっきりと見えるほどのあざやかな姿で、
衣の袖の、紺の模様も、ゆるやかな風にゆれていた。

よくやったな、と、私を励ます助次良の、
よく透る声がきこえるようだった。


2008年2月12日(火曜日)

『鰐口考』26

カテゴリー: - kawamura @ 10時18分01秒

河村宗心も、一度は天王山砦を捨てたが、
今川氏親の反撃に助けられて、ふたたび勢力を取りもどした。

河井宗忠戦死のあと、
河村家には助次良が誕生して、それから約十年の平和が訪れた。

菩提寺法昌院についても、
開基を義父河井宗忠とし、
掛川の法泉寺からは四世久山芝遠和尚を招いて、その興隆につとめた。

妻にしても、父宗忠を失ったとはいえ、
子宝にも恵まれ、のどかな谷間の平和を満喫していた時期に違いない。

永正二年(1505)、
ふたたびこの一帯に、斯波方の手がのびはじめる。

鶴見勝間田の残党もそれに加勢して、
突如として河村家襲撃の火の手が上がった。

六月五日、居宅にいた妻は火をかけられて自害。

夫宗心は、翌六月六日、天王山砦での最期を遂げた。

伝承によると、宗心の子助次良は乳母の手で逃げのび、
近くの寺にかくまわれたと伝えられている。

天王山砦を陥落させた斯波方の蜂起を見て、
今川氏親の本格的攻略が開始されるのは、その直後のことである。

それからの遠江は、
今川の支配によって比較的穏やかな安定期をむかえる。

助次良も、激動の少年期をのりこえ、
大代の地に、着実な地歩を固めはじめていた。


2008年2月11日(月曜日)

『鰐口考』25

カテゴリー: - kawamura @ 07時34分41秒

河井宗忠は、おそらくは松葉城内で戦死したものと思われるが、
一説によると長松院境内で最後を遂げたともされている。

今川氏親は、直ちに鶴見勝間田殲滅(せんめつ)戦の火蓋を切る。
 
斯波方鶴見の居城は大井川の西岸にあって、
東から押し寄せた今川軍は大井川東岸に達すると、
偽旗を張って鶴見を揺動(ようどう)した。

夜陰に乗じて大井川を渡り、奇兵を敵城の裏山に配して、
一気に奇襲を懸けて陥落させた。
 
現在でも、偽旗を掲げたあたりの地名は、
旗指(はたさし)とよばれている。

また鶴見因幡が討ち取られ、城内の井戸に身をなげた奥方は、
唇の紅い小蛇と化して井戸のなかに棲息し、
人々に恐れられたと伝えられる。


2008年2月8日(金曜日)

『鰐口考』24

カテゴリー: - kawamura @ 07時45分23秒

明応五年九月十日、
河井宗忠に、運命の日が訪れた。

その日の経緯を、
宗忠が自ら開基として創建した長松院の寺史は、
このように伝えている。

<宗忠公が、粟ヶ嶽(あわ たけ)に登って、秋の宴をひらいていた。
 そこへ、たまたま勝間田播磨守があらわれ、
 宗忠公の幔幕を掲げて中をのぞいた。

 公は怒り、勝間田は謝罪したが、心を焼くが如き怨みをいだいた。
 やがて勝間田は、横岡城主鶴見因幡守を扇動して、
 宗忠公を滅ぼそうと偽計を設けた。

 公の家臣に落合氏というものがいた。
 
 落合氏はもともと宗忠公に疎まれていて、
 たやすく勝間田播磨の謀略におちた。

 九月十日、落合氏の内応によって、
 鶴見・勝間田は、松葉城を一気に攻め、遂に公は戦死した。

 落ちのびた河井一族の女たちは、
 辱(はずかし)めをうけるよりも死をえらび、
 麓を流れる倉見川の深い淵に身をなげたという。

 断崖の屹立(きつりつ)するその二つの淵は、
 御台淵、姫淵の名を今につたえている。>


2008年2月6日(水曜日)

『鰐口考』23

カテゴリー: - kawamura @ 05時46分43秒

ところで、河井宗忠が開基として創建した法昌院は、
天王山砦の下にあって、
いまでもその位牌は法昌院の位牌堂の奥に
法昌院殿補庵宗忠大居士として祀られ、
また、法昌院の境内には、宗忠八幡大菩薩の祠が建っていて、
今日にいたるまで代々河村家がこれを祀ってきた。

いまでは河井宗忠の居城松葉城の城趾は、
ただ一基の石碑を残すのみとなったが、
そのふもとの谷間にはいまなお松葉神社があり、
鳥居の石額に刻まれている「大寶天王」は、
宗忠のころからの信仰であったとつたえられている。

この大宝天王あるいは大宝神社を全国的に調べてみても、
ほんの数社しかその名は確認されない。

即ち、きわめて稀少な神社名であることがうかがえる。

実はそれと同じ名前を持つ「大寶神社」が、
河村宗心の守る天王山の山頂にも建っていて、
明治四十三年に大代神社と改名し、
ふもとの法昌院の横に移転しているのである。

掛川松葉城の大寶天皇、
大代天王山の大寶神社、
この二つの稀有な名の神社は、
河井と河村の固い信仰の絆を覗わせる。


2008年2月2日(土曜日)

『鰐口考』22

カテゴリー: - kawamura @ 10時07分33秒

十五世紀末の遠州一帯は、
応仁の乱以来、東の今川、西の斯波(しば)が相対峙して、
激しい戦闘が繰りかえされていた。

今川氏親の家臣河井宗忠は、
掛川倉見の松葉城主として、
敵対する斯波氏との最前線の城を守っていた。

その東へ尾根ひとつ越えたところに、
河村家の住む大代の地がある。

河村宗心は、松葉城主の三女を娶(めと)り、
河村家前の山頂からわずか五十メートルほどのところにある
天王山の砦を守っていた。

砦からは、西の松葉城、東の横岡城が遠望できる。

横岡城には斯波方の鶴見因幡守、
さらに南には、
おなじく斯波方の勝間田播磨守の居城勝間田城があった。

すなわち、今川方の河井と河村、斯波方の鶴見と勝間田が、
一触即発の緊張のうちに対峙していたのである。


2008年1月30日(水曜日)

『鰐口考』21

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分24秒

ものごころついたころから、私は、
わが家の初代河村宗心が、
掛川の松葉城主河井宗忠の三女を嫁にして、
この大代の地を領していたと、祖母から幾たびも聞かされていた。

この手の伝承には、虚飾にいろどられた部分があるにせよ、
いくばくかの真実も必ずふくまれているものだ。

実際、祖先の墓はふたつあって、
ひとつは古くから裏山の墓地の中央に立っていた。

もうひとつは、集中豪雨の崖崩れのあとから、
頭頂部の右側が欠けた墓石を父が見つけたものである。

ふしぎなことに、
墓地の墓には夫の忠学宗心居士が右、
妻の自雲妙性大姉が左なのに、
あらたに見つかった墓石では、
戒名の左右が逆になっていた。

また仏壇の位牌の裏には、
忠学宗心の命日永正二年六月六日の下に、助次良(すけじろう)父、
また自雲妙性の夫より一日はやい命日、
永正二年六月五日の下には、松葉城主三女と朱書されている。

後年妻と二人で、
祖先夫妻の法名を安養寺過去帳のなかにも見いだすことができた。


2008年1月28日(月曜日)

『鰐口考』20

カテゴリー: - kawamura @ 08時47分07秒

今日から数日に渡って、
『冑佛伝説』原稿の、
未発表部分を連載いたします。

日本甲冑武具研究保存会へ
『続冑佛考』の原稿を送ったあとの
虚脱感にさいなまれていたところから始まります。

*****************************

朝陽がのぼると、私は廊下の陽だまりのなかで、
胎児のようにまるくなって眠った。

数週間も経(た)って、深い疲れも癒されたころには、
ふたたび冑佛や歴史の世界が恋しくなってきた。

私は当時刊行されていた「静岡県史」を全巻購入し、
毎朝四時に目を覚まして、最初に中世編を読みはじめた。

ひとは誰でも、神に愛されていると感じる一時期があるのだろうか。
そのころの私は、雑念からとき放たれ、
二十歳のころのように心身が青く澄みわたっていた。

「静岡県史」を読みはじめて、ほんの数日後だった。

その一節には、私が長い間求めていた
河村家の草創期にかかわる記録が記(しる)されていたのだ。


2008年1月26日(土曜日)

『鰐口考』19

カテゴリー: - kawamura @ 10時17分06秒

後  記

丁度二年半前の、平成五年十月に、
写真家の木村仲久先生が我家を撮影に訪れました。

その日が、私の歴史探求への旅出ちの日となりました。

それから実質二年にも満たぬ研究期間の私を、
多くの方々が導いて下さいました。
ご指導賜わりました諸先生方に心から感謝申し上げます。

浅学非才の私の前に、
踏破すべきいくつもの峰が聳えていますが、
多くの方々の励ましを糧に歩み続ける所存です。

最後に、私の研究のすべてを、亡き父母の霊前に捧げます。


2008年1月25日(金曜日)

『鰐口考』18

カテゴリー: - kawamura @ 08時06分31秒

平成七年十一月十三日、
金谷町教育委員会町史編さん専門員片田氏、同主任平川氏とともに
藤枝市北方の安楽寺を訪ねた。

安楽寺所蔵の鰐口は二つあり、
その一つとして保管されていることを確認した。

天文七年の後、
この鰐口が如何なる経路を経て、
藤枝市北方安楽寺に至ったのかは、定かではない。
   
平成八年二月十九日    完


2008年1月24日(木曜日)

長生きの橋

カテゴリー: - kawamura @ 06時32分23秒

家族の会話から
キラリとひらめきました。

蓬莱(ほうらい)橋は、
大井川に架かる世界一長い木の橋、
ながいきのはし、
長生きの橋。

蓬莱橋を渡れば、
世界一長生きの(できる)橋、
というのはいかがでしょうか?

(時代劇の撮影によく使われる有名な橋のことですから、
 もう、どなたか気づいていらっしゃるかもしれませんネ(笑))


2008年1月23日(水曜日)

『鰐口考』17

カテゴリー: - kawamura @ 07時59分00秒

三、考察

前段までの論考をもとに、
藤枝市北方の安楽寺に保管されている鰐口銘文について考察する。

  <奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
   天文七記十一月吉日大工又二郎>

 地 名   金谷町大代     藤枝市北方 静岡市梅ケ島大代 静岡市口坂本

 大宝神社  〇(松葉にもあり)  

 牛頭天王               〇        〇

 地名大代  〇                     〇

 近代以降
 大代姓                                         〇

 天分七年
 助二郎   〇

上表より考察すれば、
第一に、牛頭天王を突然「大法天王」と云う稀有な神社名で呼び、
近世になってふたたび神社名を牛頭天王社に戻したとは考え難い。

また、松葉の大寶天王は、
明應五年の松葉城落城とともにその勧請主を失い、廃墟と化したと思われる。

即ち、天文七年の鰐口銘文に刻まれた「大法天王」とは、
金谷町大代字天王山に、
明治四十三年十一月十八日まで広い境内を有していた村社大寶神社であったと考えられる。

第二に、天文前後に大代姓は確認されない。

したがって大代は地名であり、
大代を所領とする最も有力な武士であった河村家二代目助次郎が、
その地名を冠して「大代助二郎」を名告ったと考えるのが妥当である。

要約すれば、
金谷町大代の河村家二代目助次郎が、
大代の地名を冠し、
字天王山の天王山城内に自ら勧靖した大寶神社に、
天文七年鰐口を寄進したものと考えられる。


2008年1月22日(火曜日)

『鰐口考』16

カテゴリー: - kawamura @ 21時03分02秒

(イ)藤枝市北方
  大代の地名、名字はない。

(ウ)静岡市梅ケ島大代
 前掲四書に、天分七年当時「大代助二郎」は確認されない。

(エ)静岡市口坂本
 口坂本一七六番地に、大代五十二氏宅がある。
 当家は近世まで名字はなく、明治初年から森代姓を名のったが、
 明治末年になって海野孝三郎氏の助言により大代姓に改姓した。

 『井川村史』と前掲四書に大代姓の根拠を求めても見あたらず、
 助二郎も確認されない。
 
 特に、口坂本は慶長の検地が二度に渡って行なわれたが、
 検地帳にあらわれる姓は藤若のみであり、助二郎の名もない。
 藤若姓は、口坂本に今でも二軒残っている。


2008年1月21日(月曜日)

『鰐口考』15

カテゴリー: - kawamura @ 06時59分26秒

さて河村家発生期の経緯は『遠江河村荘と河村氏』に記すとして、
本貫地に還った大代河村家の祖宗心は、
河合宗忠と与したが、やがて松葉城は落ち、天王山城も落城した。

『安養寺過去帳』によれば、宗心は「助次良父」と記されている。

河村家二代目助次良は、
初代宗心の没年永正二年(一五〇五)当時幼少と伝えられるから、
河合宗忠の建立した松葉の大寶天王を大代字天王山に勧請し
鰐口を寄進した天文七年には、壮年期であったと考えられる。
 
後の助次良は、
永禄三年今川義元の急死によって再び動乱期に巻き込まれる。

武田に支配され、忽ち徳川方の安部大蔵に天王山城を奪われるが、
この経緯は、『遠江河村荘と河村氏』詳述する。


2008年1月19日(土曜日)

『鰐口考』14

カテゴリー: - kawamura @ 07時59分33秒

筑後権守波多野遠義の子秀高が、河村荘に住し、河村姓を称えたのは、
遠義の娘が源義朝との間に朝永をもうけた関係で
平治の乱(一一五九)に義朝方に与して敗れた秀高の兄、波多野義通とともに、
相模の波多野本庄へ帰る途次であったと思われる。

相模河村郷は治承四年(一一八○)が『吾妻鏡』に初見であるから、
平治の乱から約二十年の間に、
兄義通から波多野本庄の西の守りとして招かれたのか、
ふたたび遠江河村荘から相模へ移り、河村郷を興したものと考えられる。

また金谷町大代法昌院の本寺上西郷村法泉寺は、
永享二年〈一四四〇)舂屋宗能大和尚の開創によるものであると、
寛文三年二月、天台僧教覚の書き記した
『梵鐘鋳造の浄財を募る趣意書』に縁起が述べられている。

舂屋宗能は『続冑佛考』あとがきに記されている奥州の、藤原氏の出とされ、
後に相模河村城から一里ほど南の大雄山最乗寺五世となった。

奥州と河村秀清、
最乗寺と相模河村城、
法泉寺と菊川町内に比定される河村荘、
法泉寺末である法昌院と大代河村家、
舂屋宗能の足跡と河村家の歴史との一致をみれば、
河村一族は、法泉寺開創の頃、
相模から本貫の地遠江河村荘へ移り住んだものと推論されるのである。


2008年1月18日(金曜日)

『鰐口考』13

カテゴリー: - kawamura @ 08時08分30秒

河合宗忠の祀られている河合八幡は、
今でも法昌院の境内に建っている。
宗忠八幡とも呼ばれ、代々河村家によつて祀られてきた。
また、昭和二十六年九月十五日の河村小次郎による祭文も残されている。

河合宗忠三女の嫁した金谷町大代河村家の祖宗心は、
法昌院附近の字天王山に比定される天王山城を守ったが、
永正二年六月五日、六日と夫婦ともに相続いてたおれた。 

初代宗心は、十五世紀中葉に、
相模国河村郷から、本貫の地遠江国河村荘近くへ移り住んだものと思われる。
遠江国河村荘が河村一族の本貫地であることは、
『駿河記』附録の系図を典拠としている。


2008年1月17日(木曜日)

『鰐口考』12

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分16秒

また『静岡県榛原郡誌』に次の記述がある。

 <≪大代村法昌院の寺記中に(今井氏の載録せられたるものに拠る)
  法昌院 開創、当院旧記に観應二年三月五日臨済宗夢想国師開山とあり、
  後文禄元年二月川合宗忠公其旧跡に就て精舎一宇を建立し、
  帰依に依り当国佐野郡上西郷村法泉寺八世玄達和尚を請して開山と為す、
  故に川合公を開基と称す云云(法昌院明細書)。
  過去帳写
  開山 通山玄達和尚 応仁元年三月二十日化す≫

  とあるも、蓋後人の古来の伝承を記述したるものなるべければ
  年代其他に杜撰多きが如し(夢窓国師は観応二年九月遷化なれば少しく訝かしけれども、
  斯る類例は他にもなきにあらず、
  されども文禄は応仁元年より百二十世余年の後なれば長禄などの誤にやあるべき)
  されど何等か因縁を有したることは自ら窺知せらるるのみならず、
  郷人平井磯次氏の談に法昌院の附近に一地区あり、
  これ今川氏の臣河井宗忠の城址なりと傳ふと云へり>


2008年1月15日(火曜日)

『鰐口考』11

カテゴリー: - kawamura @ 11時12分02秒

(ア)金谷町大代

『静岡県榛原郡誌』『静岡県小笠郡誌』『長松院誌』等によると、
十五世紀末、今川氏親家臣河合宗忠は、掛川市倉真の松葉城主であったが、
明應五年、横岡城主鶴見因幡守、勝間田播磨守に急襲されてほろんだ。

『遠江古跡図絵』に

 <野守が池 金谷の北在に家山村と云ふ所に野守が池と云有、
  大井川瑞にて川根の内なり、旱魃の折柄も水絶ゆる事なし、
  此池の由来を尋るに、昔京都に夢窓国師といへる貴き知識有、
  至て美僧なりと云、
  島原の遊女に野守と云女彼の夢窓国師の美貌に恋慕して慕ふと雖も、
  清僧なれば心に随はず甚だうるさく思召、
  京都を立退き遠州に下り給ひ此処に寺を建立す、
  龍燈山安養寺と云ふ、此寺夢窓国師の開基なり、七堂伽藍の霊地と云ふ、>

とあり、さらに『静岡県榛原郡誌』にはそれを受けて、

 <因に云、前記安養寺は河合宗仲廃して城地となして此所に居り、
  其附近に法昌院を創して自ら開基となり、
  安養寺は一時全く廃絶の姿となりしも
  後年又別地に安養寺を再興せるもの即現時の寺其ものなりと云ふ。>

とある。


2008年1月14日(月曜日)

『鰐口考』10

カテゴリー: - kawamura @ 09時34分32秒

ニ、大代助二郎

『角川静岡県姓氏家系大辞典』に

 <あらたに発生する武士の名字は、源平の争乱時代からみとめられる。
  それはもともと居住地からおこり、しかも所領の分割相続が例とされたから、
  所領の名を名のれば親子でも名字を異にすることになった。>

とある。

鰐口の寄進された天文七年当時、
地名あるいは名字としての「大代」にかかわる「助二郎」を名のる人物が確認されれば、
「大代助二郎」はほぼ特定されたことになるだろう。

『姓氏家系大辞典』〈秋田書店)第一巻の大代の項に

 <大代 オオシロ 遠江、陸前に此の地名あり。>

とある。この宮城県多賀城市大代は、研究対象外とした。

『角川地名大辞典静岡県』の大代の項には、
金谷町大代のみであるが、
静岡大学湯之上隆教授から、
静岡市梅ケ島に小字大代があることを御教示いただいた。


2008年1月13日(日曜日)

『鰐口考』9

カテゴリー: - kawamura @ 07時06分50秒

(エ)静岡市口坂本

前掲四書に、ただ「天王社」とある。

この天王社は、神社の役員である糟谷善一氏のお話によると、
江戸の初期に津島神社から分けられた牛頭天王社であり、
素戔嗚尊をを主祭神としている。

八王子神社が正式な名称であり、七月十五日には祇園祭りを行う。
また伊勢講の途次には必ず津島神社に参拝する習わしだった。

口坂本には、大法あるいは、大宝神社は確認されない。


2008年1月12日(土曜日)

『鰐口考』8

カテゴリー: - kawamura @ 03時52分42秒

(ウ) 静岡市梅ケ島大代

『駿河記』巻六安部郡巻之六梅ケ島の項に次の記述がある。

<〔大代〕戸数二十四〇 
  天神祠 祭神築地弥三郎重房之霊也。
  神体・,古鏡
  傳云、重房は当国梅地の住人なり。
  今川義元国主の時代、丙午四月十四日重房当郷の一撥の為に、
  この里にて主従三人討死しける。
  崇ありて里民頻に苦しみけれは、終に彼霊を天神と斎祭るなり。
  夫よりして無事を得たりと云云。今村落の上の段に石地蔵を建、
  樹木繁茂たる森あり。彼人ここにて討たれたりと云云。>

鰐口寄進は天文七年であるから、これは僅か八年後の事件であるが、そこに大法天王の存在は確認されない。


2008年1月11日(金曜日)

『鰐口考』7

カテゴリー: - kawamura @ 05時35分53秒

(イ)藤枝市北方(鰐口保管場所・安楽寺の所在地)

『駿河記』に次の記述がある。

 <○牛頭天王社相殿 山王権現 橘明神 鳥居前より登八丁山上に座。
  山王は旧安楽寺の鎮守なりと云。除地三石・高四石税地山林除>

また、静岡県神社庁の『明細書』に、

 <元禄十六年に弟橘神社から天王社に改称>

とある。

北方については、前掲四書に、大法あるいは大宝神社は確認されない。


2008年1月10日(木曜日)

『鰐口考』6

カテゴリー: - kawamura @ 07時38分01秒

また、大代から西へ、粟ケ嶽の尾根ひとつ越えたところに松葉神社があって、
鳥居には「大寶天皇」と刻まれた額が今も掲げられている。

静岡県神社庁の明細書に次の記述がある。

 <松葉神社 所在地 掛川市倉真八〇一八祭神 素戔嗚尊 蛭子命 
  由緒 不詳、伝ふるところによれば大寶天王と称す、
  大寶の年に津島の神を勅察し大寶天王と称す、
  明治四年社号を奉りて松葉神社と云う>

松葉神社神主の戸塚操氏のお話では、
「大寶天王は、松葉城のころからあり、河井宗忠公の勧請によると云う伝承が残っている。」
とのことである。


2008年1月9日(水曜日)

『鰐口考』5

カテゴリー: - kawamura @ 07時13分56秒

また土地登記簿謄本によると、
大寶神社の地番九七〇番の壱は、その順位番号壱番に、
「明治四拾弐年五月参拾壱日受附第壱参四弐号 帝室林野局長官ノ為メ所有権ヲ登記ス」、

弐番付ノ壱として
「明泊四十弐年拾月弐拾七日受附第弐六五〇号 
明治同年六月五日払下二依り榛原郡五和村大代村社大寶神社ノ為メ所有権ノ取得ヲ登記ス」、

弐番附記壱号として
「明治四拾参年拾弐月弐拾参日受附第参六七〇号明治同年拾壱月給八日改称二因り
登記名義ヲ村社大代神社ト変更シタルコトヲ附記ス」とある。

この経緯を見れば、
江戸末期には幕府直轄山林(御林)の内に、大寶神社があったことがわかる。

帝室林野局管理下の御料林は、幕府の御林をそのまま受け継いだものだからである。

その幕府の御林を、明治初年まで御林守として管理していたのが、
金谷町大代の河村家である。

云いかえれば、
少くとも明治初年の時点で、大宝神社は河村家の管理下にあったことは確かである。

因みに、天文七年当時の河村家二代目は助次良であった。

また、大寶神社の境内地に接して、
字天王山九六八番壱に、登記順位番号壱番として
「明治四拾年参月七日受附第八六七号榛原郡五和村大代百拾番地
河村宗平ノ為メ所有権ヲ登記ス」と記されている。


2008年1月8日(火曜日)

『鰐口考』4

カテゴリー: - kawamura @ 08時31分54秒

    (ア)金谷町大代

『榛原郡神社誌』に次の記述がある。

 <神社名 大代神社
 鎮座地 榛原郡金谷町大代一二八二番地の三
 祭神名 素戔嗚尊 大国主命 誉田別尊
      中略
 由緒  文武天皇の御代素戔嗚尊を勧請して大宝神社と称えた。
     寛永十六年社殿を御造営これを祀った。
     元禄九年、享保二年、宝暦四年再建、除地高二石五斗八合、
     明治十二年九月村社に列せられた。
     明治四十三年十月大代九七一番地宮下鎮座山王神社を合祀して大代神社と改称した。
     昭和三年十月大代字安田鎮座若宮八幡神社を合祀した。
     昭和二十一年六月十八日宗教法人令による神社を設立し、
     昭和二十八年七月八日宗教法人法による神社を設立登記した。>

『静岡県榛原郡誌下巻』第五人文第八章神社及宗教第一節神社に次の記述がある。

 <  (一)郡内神社一覧表
       榛原郡神社一覧表
               (明治四十五年四月本部神職支部副長報〉
    神社名  祭神   社格  所在地 例祭日
              ー略ー
   大室神社 素戔嗚尊 村社  大代 十月十八日

   白山神社 白山姫命 無格社 同    同

   山王神社 大国主命 同   同    同
              ー略ー>


2008年1月7日(月曜日)

『鰐口考』3

カテゴリー: - kawamura @ 07時50分05秒

  一、大法天王

神社名鑑によると、大法の名は皆無で、
大宝天王社、大宝社、あるいは大宝神社は、全国に九社のみ記載されている。

主祭神は素戔嗚尊が多く、創立は文武帝の御代、大寶年間と伝えられる。

さらに静岡県神社庁の調べでは、
現在それらの名を冠する神社は静岡県内には見あたらない。

即ち、大代助二郎が鰐口を寄進した大法天王社の名は、
歴史上極めて稀少な社名と思われる。
 
そこで前掲の四つの地域あるいはその附近に、
大法または大宝神社が嘗って存在したか否かを調べた。


2008年1月6日(日曜日)

『鰐口考』2

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分10秒

冑佛(かぶとぼとけ)発見の光芒に包まれていたまさにそのころ、
『静岡県史』中世資料編のなかに、
次の一節を見出したのです。

  奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日大工又二郎

  大宝天王に鰐口を寄進し奉る。願主は、大代の助二郎である。
  天文七年(1538)十一月吉日。大工は又二郎である。

大法天王とは大宝神社のことです。
天王信仰とは、
祭神として
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っているものを言います。
もちろん大宝神社の祭神も素戔嗚尊です。

大宝神社という名称は大変めずらしいものです。
全国にもほとんどありません。
ところがそれほどめずらしいのに、
現在の大代神社の前身である大宝神社のほかに、
西へ尾根ひとつ隔てたところに、
もう一つの大宝神社があるのです。

「大宝天皇」と描かれた石額が、
神社の鳥居に掲げられています。
それこそが、
掛川市倉真の松葉城主河井成信の祭神でした。

おそらくは
初代河村宗心の守る天王山の砦とともに、
河井成信の松葉城も、
この世にも稀な神社名の、
大宝天王への信仰に支えられていたのでしょう。

明応五年(1496)に河井成信、
永正二年(1505)に河村宗心、
二人がともに戦死したあと、
大宝神社に鰐口が寄進されたのは、
河村家二代目助次良が活躍をはじめた頃のことです。

さて、前振りはここまでにして、
さっそく本文に入りましょう。

*********************
鰐口考

河村隆夫

藤枝市北方の安楽寺に、次の銘文が刻まれた鰐口が保管されている。

  奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日大工又二郎

この鰐口は昭和三十三年十月二十日に県の文化財に指定されたが、
その由緒については明らかにされていない。

本稿は、大法天王社の特定、及びその所在地の特定、
また大代助二郎なる人物の特定についての論考である。

また研究対象地域は、
金谷町大代、藤枝市北方、静岡市梅ケ島大代、静岡市口坂本の四個所とした。

参考資料は、
主に『駿河資料』『駿河記』『修訂駿河国新風土記』『駿国雑誌』の四書である。


2008年1月5日(土曜日)

『鰐口考』1

カテゴリー: - kawamura @ 09時34分41秒

明日から、『鰐口考』の連載を始めます。

『遠江河村荘と河村氏』第一章は、
平安末期から応仁の乱までの
ほんの僅かの史料と伝承をもとに立論しましたので、
発表するのにはもう少し考証が必要と思います。
後日連載いたします。

鰐口(わにぐち)とは、
おそらく皆さんが初詣の神社で、
かしわ手を打つ前に、
じゃらじゃらと鳴らしたあの金属製のもの、
あれが鰐口です。

以前にも書きましたが、
霊感の降りるときは人生の一時期に集中していて、
冑佛(かぶとぼとけ)発見の余韻の中で、
毎朝四時に目を覚まし、
「静岡県史」中世資料編を
むさぼるように読みつづけていた頃のことでした。

『遠江河村荘と河村氏』を
お読みいただければお分かりのように、
「天文七年」(1538)に生存していた
御林守河村家の二代目は「助次良」です。
(良は郎とも書きます。
 中世には、音で字をあてたのです)

「大代」という地名も
それほどあるものではなく、
「大宝」神社は全国にほとんどありません。
(ここでも銘文では「大宝」を
 「大法」とあてています)

つまり、ある朝、

「天文七年」に
「大代」の
「助次郎」が
「大法天王」に

鰐口を寄進したという銘文を
「静岡県史」資料編に見つけたのです。


2008年1月4日(金曜日)

『遠江河村荘と河村氏』26

(75)『静岡県史』資料編古代一四五九号
(76)『静岡県史』資料編中世三ー一三七号
         一三七  後土御門天皇綸旨案 宣秀卿御教書案
      故海住山大納((高清))言家領遠江国河村庄((城飼郡))・近江国勅旨田等事、就被遺跡相続、
      任武家下知之知行不可有相違之由、
      天気所候也、仍執啓如件、
        延徳二年二月十八日    左少弁判((中御門宣秀))
      謹上 右中弁殿((清閑寺家幸))  表書名字也、
(77)『金谷町史』資料編一古代中世一四〇号頭注(6)
(78)『静岡県史』資料編中世三ー一九三号
(79)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(80)『静岡県史』資料編中世三ー一九五号
(81)『静岡県史』資料編中世三ー二〇九号
(82)『静岡県史』資料編中世三ー二〇四号
(83)『静岡県史』資料編中世三ー一九八・二一〇・二一二号
(84)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(85)『当院開基来由扣記』(原本・掛川市長松院所蔵)
(86)『町の文化財』(金谷町教育委員会、一九九四年)
(87)『静岡県史』資料編中世三ー二五四号
(88)『静岡県史』通史編2中世五二二〜五二五頁
(89)『静岡県史』通史編2中世五一八〜五一九頁


2008年1月3日(木曜日)

『遠江河村荘と河村氏』25

第三章脚注を二回に分けて掲載します。

*******************

(58)『静岡県史』資料編中世二ー一七八号
(59)『静岡県史』資料編中世二ー八二五号
(60)『静岡県史』資料編中世二ー一二六九号
(61)『静岡県史』通史編2中世三八八〜三八九頁
    『掛川市史』上巻五〇七〜五〇九頁
(62)『静岡県史』資料編中世二ー二三四四、二ー二四七〇号
(63)『静岡県史』資料編中世二ー二五二七号
(64)『静岡県史』資料編中世二ー二五二六号
(65)開基は門奈美作守。
   『寛政重修諸家譜』巻第九百三十
      藤原氏  支流
       門奈
        今の呈譜に、秀直は波多野三郎義通
        (按ずるに義道は尊卑分脈秀郷流にみえたり)
            が後裔門奈玄蕃允昌通が男なりといふ。
      ●直友(なをとも)
         五郎大夫 今の呈譜に、藤太郎秀直(ひでなを)に作る。
          今川義元に仕ふ。某年死す。年七十六。法名等専。

      ●直宗(なをむね)
         太郎兵衛 母は某氏。
      今川義元及び氏眞に歴仕し、今川家没落の後めされて東照宮につかへたてまつり、
      遠江國豊田郡岡村駒場村にをいて采地をたまふ。
      天正十二年五月十八日死す。年六十三。法名淨水。
    (◎この附記によれば、門奈氏は、波多野義通の後裔として、文明十年には、
      すでに遠江國豊田郡岡村に勢力を有していたものと考えられる。
      とすれば、西相模武士団の一つ波多野氏流の門奈氏が、
      河村氏や糟屋氏とともに移住してきた可能性もある。)
(66)『可睡斎史料集』第一巻寺誌史料、二三三頁(思文閣出版、一九八九年)
(67)『静岡県史』資料編中世二ー二六〇九号
(68)『川龍院(大代河村家永代院号)家先祖累代霊位(位牌)』(河村家所蔵)
『永代家系記録』(河村勝弘編、河村家所蔵)
(69)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―2・3・4
(70)『金谷町史』資料編一古代中世一五一号
拙稿「鰐口考」(『金谷町教育委員会主催御林守展資料』、一九九六年)
(71)『静岡県史』資料編中世三ー一四八〇号
(72)拙稿「鰐口考」(『金谷町教育委員会主催御林守展資料』、一九九六年)
(73)『静岡県史』資料編中世二ー二四九四〜二四九六号
(74)『静岡県史』資料編中世三ー三八号
         三八    甘露寺親長奉書案  親長卿記
        鴨社河((山城国))合禰宜祐長申、
        越中国寒江庄・越前国志津庄御米分・備後国勝田本庄・遠江国河村庄((城飼郡))、
        任当知行之旨、可令領知之由、可被書遣綸旨之由、被仰下候也、謹言、
           五月廿日((文明十五年))    親長((甘露寺))
          蔵人弁殿
    『静岡県史』資料編中世三ー一一二号
         一一二 甘露寺親長奉書案  親長卿記
       鴨社((山城国))前権禰宜祐長遺跡并当社領越中国寒江庄、除庶子部([割])分、
越前国志津庄御米分・備後国勝村本庄・遠江国河村庄((城飼郡))、任故祐有卿譲与旨、
代々相伝当知行不可有相違之由、可令不知比良木社権祝祐((鴨))平給之由、
被仰下候也、謹言、
            三月十((長享二年))八日
        進上    蔵人左少((中御門宣秀))弁殿
『静岡県史』資料編中世三ー一一三号
         一一三   後土御門天皇綸旨案 宣秀卿御教書案 
鴨社((山城国))前権禰宜祐長遺跡并当社領越中国寒□([江])庄除庶子割分、
越前国志津庄御米分・備後国勝田本庄・遠江国河村庄等事((城飼郡))、
任故祐有卿譲与旨、代々相伝当知行不可有相違者、天気如此、悉之、以状、
        長享二年三月十八日    左少弁判((中御門宣秀))
        比良木社新権祝館


2008年1月2日(水曜日)

『遠江河村荘と河村氏』24

本節を概観すると、
河井姓については『人天眼目抄』を初見文書とし、
つぎに『円通松堂禅師語録』に成信戦死の詩偈と初七日經、
また二男宗鏡童子の死を悼む一文があって、
それから約二百五十年後の『当院開基来由扣記』に、
初めて後世に伝わる河井氏観の始源が記された。

河井成信を語る史料は、以上の三点のみである。

『当院開基来由扣記』が書かれてから約二百三十年後の昭和五十年前後に、
『円通松堂禅師語録』をもとに、視座を逆転させるかにみえた三論文

(秋本太二「今川氏親の遠江経略」『信濃』二六巻一号、
広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にしてー」『地方文化の伝統と創造』、
小木早苗「今川氏の遠江支配」『駿河の今川氏』第四集)

が現れたが、その根拠は脆弱で、五百年に渡る史観を揺るがすほどのものではなかった。


2008年1月1日(火曜日)

『遠江河村荘と河村氏』23

(四)

氏親の反今川勢力掃討戦は、鶴見氏のつぎにふたたび原氏に向けられる。

河井氏が今川方であったとする第四の根拠は、
原氏一族の孕石氏が反今川方の原氏を攻めたことである(87)。

明応三年九月に、伊勢長氏が原氏を攻撃。同五年九月十日松葉城主河井成信討死。
同六年、氏親、孕石氏に命じて原氏を討伐。
同七年十一月十三日に、氏親は孕石行重に国衙を給与している。

仮に倉見川筋の河井氏が反今川であったとすると、
今川方孕石氏は、東に河井氏、南に原氏の反今川勢力に挟撃され、
明応七年に原氏の要害を攻める以前に滅亡していたであろう。

天文八年(一五三九)、原田荘本郷の一分地頭である孕石光尚が
「原田荘本郷之内孕石譜代相伝之知行分坪付石米納所帳」
および「国役納所之覚書」という二つの帳簿を書写したことは『県史通史編2中世』に詳しい。

その文中に、
「この文書に現れる地名は、本郷内とはいっても、原野谷川上流の山間部に点在しており、
田地より畠・山野が圧倒的に多い地域である。」とある。

また、孕石氏知行分田地の総計は多くみても六・三町(別帳簿は五・六四町)にすぎない(88)。

一方、原氏の本貫地原田荘の初見史料である弘長二年分の原田荘細谷村正検取帳の写しを見れば、
細谷村の総田数は四十七・七一町である(89)。
これは原田荘地頭職原氏知行分一村のみの田数である。

河井氏の田数は不明だが、
氏の細谷村一村で比較しても原氏と境界を接する孕石氏が、
南の原氏と東の河井氏の挟撃に耐えられるほどの勢力を有していたとは思われない。

従って、孕石氏一人が今川方として、反今川勢力に包囲されていたとするには、
地理的にも、その勢力においても無理がある。

即ち、河井成信は孕石氏とともに今川方として、東方から孕石氏を援護していたものと推論される。


2007年12月31日(月曜日)

『遠江河村荘と河村氏』22

大晦日となりました。
皆様のおかげで無事に年越しができそうです。

今から、神様参りにいってまいります。
五百年を越えてこの家を守ってきてくれた神々に、
感謝の祈りを捧げに行ってまいります。

皆様にとりまして来年も良い年でありますよう
心からお祈り申し上げます。

**********

明應五年九月二十六日、氏親は河井成信の死を悼み、
長松院に采地を寄進する旨の書状を、叔父の長松院二世教之一訓和尚に送っている。

この経緯を『深沢山長松院誌』は、次のように記している。

<公の戦死を聞いて今川氏親は大いに悼み、采地として
  『遠江国金屋郷深谷・山口郷内奥野・下西郷内仏道寺 五段田事右、為料所
   奉寄進之上者、如前々可有執務之状如件、
      明応五年九月廿六日
                       五郎(花押)
       長松院』
 を寄進し長松院を香華所とし、永く菩提を弔い堂内に、霊牌を祀りて開基英檀と称し、
  門外に一宇を設けて鎮守の神と恭敬せり
法名は 宗忠 川井院殿補庵宗忠大居士
御内 月渓院慶室妙讃 大姉
明応五年九月十日卒>


2007年12月30日(日曜日)

『遠江河村荘と河村氏』21

明應五年(一四九六)七月十八日、
氏親の叔父一訓和尚からの要請によるものと思われる長松院宛文書がある(84)。

         < (花押)((今川氏親))
  於当寺長松院、甲乙人等令濫妨狼藉者、速可処厳科者也、
  仍而如件、
   明應五年七月十八日 >

この書状を契機に、長松院開基として氏親の叔父一訓和尚に深く参じ、
今川氏被官である河井宗忠は、斯波方鶴見勝間田両氏と、一触即発の対立関係に発展した。

明應五年九月十日、その日の河井成信の所在は知る由もないが、
長松院裏手の宝篋印塔と五輪塔、
また今なお長松院境内に祀られている若宮権現「鎮守護法宗忠居士」を人々が尊崇していることを思うと、
自決の地は、氏親の叔父一訓和尚の待つ長松院境内であったと考えるのが妥当と思われる(85)。

直ちに今川氏親は鶴見勝間田殲滅戦の火蓋を切る。
『掛川誌稿』「鶴見氏城跡」の条に、

 <今川家の時、大井川の東相賀村に偽旗を張り、奇兵を長者原より下して此城を陥たりと云傳ふ。>

とあり、現在も横岡城の対岸に旗方(はっさし)の地名を残している。
また、鶴見因幡守が討ち取られ、井戸に身を投げた奥方はやがて唇の紅い小蛇と化して井戸の中に棲息し、
人々に畏れられたとも伝えられる(86)。


2007年12月29日(土曜日)

『遠江河村荘と河村氏』20

今川氏親は、明應五年七月十八日と、同年九月二十六日に、長松院宛文書を発行しているが、
これ以前の今川氏の動向を年代順に整理してみると、
まず、『円通松堂禅師語録』によれば、
明應三年(一四九四)八月、伊勢長氏が原谷郷に侵攻し、松堂高盛の円通院が焼失する(80)。

翌明應四年八月、伊勢長氏は伊豆国から甲斐国に侵攻し、直ちに講和を結んで退却(81)。

同年九月、長氏は、鹿狩りを装い、突如小田原城に大森藤頼を攻め、手中に収める。

ところで、『静岡県史』によれば、明應三年八月から明應五年六月までの約二年間に、
伊勢長氏あるいは今川氏親が発給した文書の宛先は、
長氏が伊豆国に対して一通(82)、氏親が駿河国に対して四通である(83)。

すなわち、
河井成信戦死以前の約二年間、伊勢長氏は、伊豆国から関東を固め、
氏親は駿河国の支配強化に努めていたことを窺わせる。


2007年12月28日(金曜日)

『遠江河村荘と河村氏』19

(三)
                                      
河井氏が今川方であったとする第三の根拠は、
河井成信の居城松葉城落城の二年前、
明應三年(一四九四)に、伊勢長氏が原氏の高藤城を攻撃したことである(78)。

『円通松堂禅師語録』によれば、
文明の初年までは明らかに今川方であった原氏が、
この頃は斯波方の勢力下にあって、
その発生から宗忠戦死に至るまで今川氏への一心忠義に徹した河井氏とは、
すでに袂を分かっていたものと思われる。

おそらくは、原氏が血族の孕石氏と決別したのもこの時期であろう。

原氏の居城高藤城は、松葉城から西へ尾根を幾つか越えたところにある。
もしも河井成信を反今川とすれば、明應五年(一四九六)に、
長松院に禁制を出してまで攻撃しようとした松葉城を見過ごし、
掛川を通過して南から高藤城を攻めたことになる(79)。

これでは、高藤城を攻めている際に、
河井・松浦両氏にたやすく背後を突かれたであろうし、退路を断たれたであろう。

即ち、伊勢長氏は、河井・松浦両氏を親今川として退路を確保した後に、
高藤城を攻撃したと考えるのが妥当であろう。


2007年12月27日(木曜日)

『遠江河村荘と河村氏』18

  (二)

河井成信と今川氏とを繋ぐ第二の根拠は、
深沢山長松院開基河井宗忠が、開山の石宙永珊、二世の教之一訓にともに参じていることである。

開山石宙永珊との関係は『人天眼目抄』に、
二世教之一訓との関係は『当院開基来由扣記』に確認される。
特に教之一訓は、今川氏親の叔父ともされている(77)。

この一訓和尚が、開基河井成信の居城を攻撃しようとする今川氏親に、
礼銭を携えて禁制を求めたとする説は、どのように考えても首肯し難いことは先述した。


2007年12月26日(水曜日)

『遠江河村荘と河村氏』17

文明六年(一四七四)、
義忠は遠江見付府中城にあった狩野氏と吉良氏被官の巨海氏を討ち滅ぼし、
引間に進出して斯波氏と対峙。
このとき中遠一揆に敗死した今川範将の子貞延が、
兵一千余騎を義忠に付けられて引間城を攻めている。

翌文明七年(一四七五)、
義忠は、斯波方の国人横地勝間田連合軍と小夜の中山付近で戦い、
そのとき前出の遠江今川氏堀越陸奥守貞延が戦死する。

翌文明八年(一四七六)、義忠は横地・勝間田軍を殲滅するが、
凱旋の帰途、塩買坂で残党の襲撃を受けて落命した(73)。

『静岡県史』によれば、今川義忠戦死のあと文明の内訌を経て、
突然三通の河村荘関連文書があらわれる。

最初は、文明十五年(一四八三)五月二十日、
二通目は、長享二年(一四八八)三月十八日、
ともに後土御門天皇が、遠江国河村荘等を鴨祐長とその子鴨祐平に安堵すると云う内容で、
甘露寺親長から中御門宣秀にあてられた奉書案である(74)。

河村荘がもともと賀茂社領であったことは、
寛治四年(一〇九〇)七月十三日の寄進文書によって明らかである(75)。

三通目は、延徳二年(一四九〇)二月十八日に、
中御門宣秀から清閑寺家幸に送られた綸旨案で、
後土御門天皇が、遠江国河村荘を清閑寺家幸に安堵すると云う内容である(76)。

すなわち、三通の文書は、鶴見氏に対峙するために河村氏が大代へ立ち去ったあとの、
荘園所有権の混乱に対する奉書案と見れば、
河井氏に追われた鶴見氏の横岡城築城は寛正から文明初年、
河村氏の大代移住は文明中、三通の文書は文明末から延徳と、矛盾なく年代順に整列する。

『尊卑分脈』によれば中御門家は河村荘を立券した観修寺家の一門であり、
甘露寺親長は中御門宣秀の外祖父、のちに宣秀の妹は今川氏親の妻となり、
また氏親の家臣として河井成信、成信の三女が嫁した大代河村家、
そして河村氏の本貫地が奉書案の河村荘であることを思うと、
同時代に河村荘をめぐる人々をつなぐ細い糸が見えてきたようにも思われる。


2007年12月25日(火曜日)

『遠江河村荘と河村氏』16

河井成信(号宗忠)が、横岡城鶴見因幡守への備えとして、
相模から本貫地遠江国河村荘に還住した河村氏を、
大代天王山城を守るべく招いたのは、
河村荘一帯が一触即発となる文明五年(一四七三)の頃であったとみるのが妥当と思われる。

今川義忠にとって、松葉城と長松院とが、
きたるべき斯波方との戦に備えて掛川城を守るための重要な布陣であったように、
河井成信の松葉城にとって、三女を嫁がせた河村宗心(助二良父)の守る大代天王山城は、
東の鶴見・勝間田両氏に対峙するための要衝であった(68)。

大代河村氏が鶴見因幡に備えて守ることとなった天王山城の山頂に、
明治四十三年まで建っていた村社大寶神社(69)について、
現大阪大学村田修三教授は、
この大寶神社は、松葉城主河井成信の宗教領域の境界を示すものであると考えられている。

一方、現在の掛川市倉見川のほとりに建つ松葉神社の、
「大寶天皇」と刻まれた鳥居の額について、
宮司の戸塚操氏のお話では、
「大寶天皇は松葉城の頃からあり、
河井宗忠公の勧請によるという伝承が残っている」とのことである。 

『神社名鑑』によると、大宝天王社、大宝社、あるいは大寶神社は全国に九社のみ記載され、
また静岡県神社庁の調べでは、現在それらの名を冠する神社は静岡県内には認められない。
即ち、松葉城と天王山城とに、
ともに祀られていた大寶天王社の名が歴史上極めて稀少な社名であることは、
松葉城主河井成信(号宗忠)と天王山城主河村宗心(助二良父)とを繋ぐ証左のひとつであると考えられる(70)。

 <奉寄進大法天王鰐口、願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日、大工又二郎>

藤枝市安楽寺にこの銘文が刻まれた鰐口がある(71)。
これは大代河村家二代目助二良が、
天文七年(一五三八)、地名を冠して大代助二郎を名告り、
天王山城内の大寶神社に鰐口を寄進したものと思われる(72)。


2007年12月24日(月曜日)

『遠江河村荘と河村氏』15

文明五年(一四七三)、将軍警護のために上洛していた今川義忠は、幕府に働きかけて、
今川方河井成信(号宗忠)の勢力下にある懸革荘の代官職を拝命すると、
直ちに帰国し、遠江国守護職奪回のための布石を東遠に打ちはじめる(67)。
『駿国雑志』は、この経緯を次のように記している。

 <又義忠上京、前将軍義政公、並細川勝元に拝謁す。
   止る事二百余日、其後臺命あり、急ぎ分國に下向し、三遠の賊徒を退治せしめ、
   海道一遍の管領たるべきの承命あり。義忠領承し、急ぎ皈國す。
   家臣朝比奈備中に命じて、遠州掛川に新城を築く。
   文明七年春、遠州の住人横地某、勝間田某等謀叛す。>

義忠が預け置かれた懸河荘は、南の横地氏、東の勝間田氏が反旗を翻したとき、
それに呼応して、横岡の鶴見氏が大代川を遡行して倉見川源流から一気に南下すれば、
目前に懸革荘が現れ、鶴見軍は容易にその北面を衝くことができる。

その倉見川を押さえるために、河井成信を松葉城主として配したものと思われる。
このように、懸革荘の北面にあたる倉見川筋に今川方の河井・松浦両氏を配した後に、
重臣朝比奈備中守に命じて掛川城を築城したものであろう。


2007年12月23日(日曜日)

『遠江河村荘と河村氏』14

『掛川誌稿』「鶴見氏故居」の条に、つぎのように記されている。

<郭中中西ト云所、木戸口ノ内ニ鶴見氏ノ屋敷跡ト呼所アリ、
相傳昔遠州ニ三十六人衆ト云士アリ、
其中鶴見因幡守栄壽ト云人、父子三代五十餘年此所ニ居リシト云、
又栄壽ノ城跡、今榛原郡ノ志戸呂横岡ニアリ、
此人明應五年、倉見松塲ノ城主河井宗忠ヲ襲テ討レ、
宗忠モ亦死ス、此事奥野長松院ノ記及松堂録ニ載タリ、
  然レバ鶴見氏ノ掛川ニ住セシハ、築城以前ノ事ナリ、>

横岡に移住した鶴見氏が大代から安田を抜けて、長松院の脇を流れる逆川を下ると、
やがて文明七年(一四七五)の戦場となる山口に出る。
山口は南の河村荘に接し、さらに南は横地氏の所領へと続く。
長松院の立地は、鶴見氏と横地氏との連携に楔をさし、
河村荘の河村氏を援護するための絶好の地点に今川氏の支城として位置している。

この河井成信の遠江復帰を足掛かりにして、今川義忠は、遠江への本格的攻略を開始した。


2007年12月22日(土曜日)

『遠江河村荘と河村氏』13

<河井氏発生についての私の新説1065文字を削除しました。
この部分はは全くの新説ですので、もう少し推敲してから発表します。
以下その続きから>

文明二年(一四七〇)、今川義忠は、細川勝元の要請により、
斯波方の後方攪乱のために遠江へ進入する(64)。

文明三年(一四七一)、河井成信は石宙永珊を招いて開山とし、
自ら開基となって、懸河大野に深沢山長松院を開創した。

『人天眼目抄』によれば、
「懸河河井方、母儀点海妙愛ノ佛事ノ用意ニ罷越留守ニ此聴聞ハアリ」とある。
これは河井姓の初見文書であり、
川僧慧濟のこの講筵は文明三年から五年の間であることが、
中田祝夫氏によって明白になった。
同氏は、東京大学史料編纂所本『人天眼目抄』の筆者は石宙永珊であろうとしている。

即ち、長松院創建の文明三年以前に、
すでに河井成信が懸河に拠点を築いていたことは明らかである。
長松院末として文明十年に創建された聖寿寺(遠江国豊田郡岡村)(65)
及び文明十三年創建の養勝寺(遠江国榛原郡下湯日村)が、
ともに天竜川と大井川河口の湊に近い要衝地であることを考えれば、
河井成信による深澤山長松院の開創は、
今川義忠の後押しによる斯波方への一連の布石の端緒であったと推測される(66)。
また聖寿寺と養勝寺は、ともに後の長松院二世教之一訓を開山としている。

懸河に居城をもつ鶴見氏が、文明以前に、河井氏によって横岡城へ追われたことは、
後の鶴見氏松葉城攻めの遠因となったのかもしれない。
その横岡城の背後から、古瀬戸後期四段階のものと思われる古窯が発掘された。
藤沢良祐氏(瀬戸市埋蔵文化財センター)は、
これを一四五〇年前後から一四七〇年代までのものであろうとしている。
これは、推論した鶴見氏移住の時期と一致しているし、
また、川根沢窯及び三ツ沢窯からの遺物が、
横地氏・勝間田氏関連遺跡からの出土遺物と一致していることは、
鶴見氏と横地・勝間田両氏との交流をも裏付けているものと思われる。
また、瀬戸は当時斯波氏の勢力下にあって、
そこから志戸呂へ陶工が移住し高度な窯業技術を伝えていることは、
鶴見氏が斯波氏に属していたことを窺わせるものである。 


2007年12月21日(金曜日)

『遠江河村荘と河村氏』12

今日から第三章を連載します。
私の仮説の部分は、もう少し検証をくわえてから発表いたします。

********************************

三  河井宗忠と大代河村氏

 明應五年(一四九六)から『当院開基来由扣記』の書かれた寛延三年(一七五○)までは
約二百五十年の歳月を経ているが、寺を子とすれば開基と開山とはその父母にも比すべきもので、
来歴を重視する寺の日課の回向文として、歴代の住職に日々詠み継がれるものであるから、
『当院開基来由扣記』に記された長松院草創期の内容は、概ね正しいとみてよいと思う。
 即ち、私は、『円通松堂禅師語録』にみえる「菊源氏成信」は松葉城主河井成信(号宗忠)であり、
また成信が氏親の家臣であったために、明應五年九月十日の成信戦死を悼んだ氏親が、
同年九月二十六日に長松院を香華所として土地を寄進したとする説を是とする。

  (一)

 第一の根拠は、河井氏あるいは山名郡川井村と遠江今川氏との関わりあいは古く、
その歴史を背景に、やがて斯波氏との火蓋が切られんとする文明の初年、
朝比奈備中守が掛川城を築くころに、河井宗忠も今川義忠の家臣として松葉城主に取り立てられた
と推論しても不合理ではないからである。


2007年12月20日(木曜日)

『遠江河村荘と河村氏』11

このブログで、ただ一つの歴史というものは存在しない、
ということをお話ししたことがあります。
歴史は、ある研究者の学説のひとつにすぎません。

ましてや中世以前の記録の乏しい時代の歴史は、
わずかな記録の断片をどのように組み合わせるかで、
ずいぶん異なった様相を呈するものです。

ところで私は、冑佛(かぶとぼとけ)の研究を続けていますが、
その発端となったのは、御林守河村家に伝わるひとつの伝説でした。

「ご先祖さまが兜の中に入れて戦った」という
たったひとつの伝説からすべてが始まったのです。
伝承はときに、記録から漏れた真実を語り継いでいると知りました。

本居宣長の『古事記』をみる姿勢も、
伝えられた原典に忠実であるべきで、
後世の曲解をつとめて排除すべし、としていたように思います。

河井宗忠に関する中世史料はほんの僅かで、
極論すれば、
河井宗忠を今川方とする史料も、
反今川方とする史料も、
中世史料としてはどちらも存在していません。

河井宗忠を今川方とする近世史料(江戸時代の文書・史料)として、
河井宗忠の死後、二百五十年たってから、
深沢山長松院十世中興活山鉄獅和尚の『当院開基来由扣記』があらわれます。
『掛川史稿』はさらに後世のものです。

それらは、江戸時代には存在していたかもしれない文書や、
あるいは先述した冑佛のように、
当時の生きた伝承をもとにして書かれているはずです。

講演で私が伝えたかったのはそのことです。
つまり、

1974年の秋本太一「今川氏親の遠江経略」、
1976年の広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にしてー」、
1979年の小木早苗「今川氏の遠江支配」、

以上の三論文は、河井宗忠が明應五年(1496)に戦死してから、
実に五百年の歳月を隔てて書かれたものです。

しかも最初の秋本論文には明らかな誤謬がみとめられ、
後の二論文は、その誤謬をもとに曲解を重ねて大きく逸れ、
ついには平成九年(1997)の『掛川市史』に至ったというわけです。
『掛川市史』は、いわば三論文の犠牲者のようなものです。

ですから、
根拠のない新説を採るより、
長い歴史にさらされて生き残った伝承文化を
尊重していただきたい。
そのほうが、五百年後に突然産み落とされた奇説を採るよりも、
よほど確かで、市民にとって健全な歴史です。

それが、講演で私の訴えたかったことなのです。

論文を糧としている人には、新説奇説も意味があるのでしょうけれど、
何百年もの伝承を地域の文化としている人々にとって、
あるいは文明三年(1471)に創建された深澤山長松院を
累々と守ってきた歴代のご住職にとって、
さらには河井宗忠を祖先のひとりとして
この地に五百年以上住み着いている御林守河村家にとって、
ゆえなく伝承を覆されることは、
迷惑以外の何ものでもないということです。

研究はどうぞご自由に、研究誌に発表していただきたい。
『市史』は市民の財産です。
『市史』は、市民を勇気づけ、市民が明るく前へ進んでゆけるように
書いていただきたいということです。

(ちょっと過激でしたか?)

つづきはまた明日。


2007年12月19日(水曜日)

『遠江河村荘と河村氏』10

第三章の連載をお約束しておきながら、
またまた今日も、長松院での講演のお話です。

じつはご住職から講演のお話をいただいたときに、
こんなふうに聞かされていました。

「河井宗忠公は、今川の臣として、
いまでも地域の信仰をあつめています。
古くから開基河井宗忠公の徳をたたえてお祭りも催されている。
ところが今度編纂された『掛川市史』には、
河井宗忠は反今川として今川氏親に滅ぼされたとされています。
いかに歴史研究者とはいえ、軽々に地域の信仰を覆してよいものか。
伝統文化をないがしろにされて、檀家の皆さんは当惑している。
『掛川市史』は市民の歴史的財産であって、
新説を発表するための研究誌ではない。
どのような根拠でそのようなことを言うのか、
河村さん、あなたは河井宗忠について研究されたようだから、
河井宗忠が今川方であることををお話ししていだいて、
檀家の皆さんに安心してもらいたいのです」

ご住職の主旨はこのようなことでした。

講演の話をいただくずいぶんまえから、
私は河村家の歴史について資料を集め、
遠江河村荘、相模山北の河村城、大雄山最乗寺、奥州河村氏、
などと金谷河村氏との関係をまとめていたのでした。
もちろん、祖先河井宗忠公について詳しく調べたことは
言うまでもあありません。

何度も申し上げるようですが、
河井宗忠公は、深澤山長松院の開基であり、
御林守河村家の菩提寺、龍燈山法昌院の開基でもあります。
そして河村家の祖先でもあるということは、
くり返し書いてまいりました。

河井宗忠は私にとって、単なる歴史上の人物ではないのです。

ご住職の苦渋の訴えを聞いて、
私は火がついたように河井宗忠の研究を始めました。
さらに深く掘り下げ、
限りなく客観的で正確な立論を目差しました。

そうして『遠江河村荘と河村氏』の第二章、第三章の
骨子ができあがったのです。
そしてその概略を『河井宗忠公略傳』としたのです。

私は、迸る思いを秘めて講演を始めました。

つづきはまた明日。


2007年12月18日(火曜日)

『遠江河村荘と河村氏』9

平成十一年二月、
河井宗忠五百回忌法要のその日、
私は金谷長史編纂専門員の片田氏と長松院を訪れました。
澄み渡る冬の日でした。
寺の本堂には多くの檀家たちが集まっていて、
開基河井宗忠公への愛惜と深い信仰心が感じられました。

その檀家たちの前で、一時間半ほどの講演をしたのです。

その日のために、
私は『河井宗忠公略傳』なる小論考をしたため、皆様に配布しました。

以下、その「あとがき」から転載します。

************************
 後 記

長松院の御住職から、河井宗忠公傳の御依頼を受けたとき、
 確かな因果を感じました。
 私の菩提寺は、金谷町大代の龍燈山法昌院で、
 開基は河井宗忠公とされています。
 また龍燈山の鎮守は宗忠八幡大菩薩であり、
 その祠は法昌院の境内に建っています。
 河井八幡とも呼ばれ、代々私の家で祀ってまいりました。
河村家は川龍院を永代院号とし、位牌には、
 永正二年六月六日を命日とする忠學宗心居士(助二良父と附記されています)と、
 同年六月五日を命日とする自雲妙性大姉(松葉城主三女と附記されています)とが
 初代として記され、古い墓石も残されています。

昭和三十二年九月の河井宗忠公四百五十回忌には、
 私の祖父もお招きいただきました。
 また、幼い頃から河井公のことを聞かされて育った私が、
 奇しくも五百回忌のために略傳をしたためさせていただくことになりましたことは、
 長松院御住職への感謝の念とともに、誠に深い悦びにたえません。

拙文ではございますが、河井宗忠公五百回忌の法要に、この一文を捧げ奉ります。

平成十一年二月吉日   河村 隆夫


2007年12月17日(月曜日)

『遠江河村荘と河村氏』8

明日から、第三章を分割掲載致します。

そうそう、皆さんは、なぜこんなことを十年もかけて私が書いたのか、
不思議に思われたことでしょう。

それは、十年ほど前に新しく編纂された『掛川市史』が発端でした。
そこには、掛川市倉真川上流に居城を持つ
河井宗忠についての新説が採られていたのです。

私の祖先の墓石については、以前投稿したことがあるから、
憶えている方がいらっしゃるかもしれません。
ちょうどブログを書いている今頃、
朝陽の差す墓所にいくと、光の角度のぐあいで、
消えかけた墓石の文字が、うっすらと見えるのです。
私が幼い頃には命日までくっきりと見えていました。
酸性雨の関係なのでしょうか、
近年とんと見えにくくなってしまいました。

墓石には、
左に「忠学宗心居士」右に「自雲妙性大師」と書かれています。

『安養寺過去帳』や『川龍院家位牌』には、
「忠学宗心居士」の下に「助二郎父」、
(この河村家二代目「助二郎」が、大宝神社に鰐口を寄進したことは、
すでに『鰐口考』に書きました)
「自雲妙性大師」の下には「松葉城主三女」とあります。
つまり、私の体には、河井宗忠の血が流れているのです。

ところで、問題は、松葉城主河井宗忠が、
今川方であったか、反今川方であったのかということなのです。
どうだっていいことじゃないか、と思われるかもしれません。
どっこいそれがそうでもないのです。
というのも、これは地域の信仰に深くにかかわることでもあるからです。

深澤山長松院(掛川市奥野)は、その開基を河井宗忠としています。
ある日そのご住職から、
「河井宗忠の五百回忌をやるが、河井宗忠について話してくれないか」、
と講演の依頼が舞い込んだのです。
平成十一年二月のことでした。

つづきはまた明日。


2007年12月16日(日曜日)

『遠江河村荘と河村氏』7

『遠江河村荘と河村氏』の二章が終わりましたので、その脚注を掲載します。
明日から三章を連載します。
*******************************

(41)『静岡県榛原郡誌』上巻
    『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―2・3・4・他
    『榛原郡神社誌』
    戸籍謄本
(42)『金谷町史地誌編』四三〇頁
(43)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世L―477・479
     L―477「安養前住寿山仙翁和尚葬式諸般結算帳」
     L―479「金銭諸払作米取立葬式諸般結算帳」
(44)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―23・25
(45) 掛川市長松院所蔵(原本)
(46)『掛川市史年表』(掛川市史編纂委員会、一九九七年)
(47)小木早苗「今川氏の遠江支配」(『駿河の今川氏』第四集、今川氏研究会、一九七九年)
(48)広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にしてー」
   (『地方文化の伝統と創造』地方史研究協議会編、雄山閣、一九七六年)
(49)秋本太一「今川氏親の遠江経略」(『信濃』二十六ー一、信濃史学会、一九七四年)
(50)『静岡県史』資料編中世三ー二五四号
 「孕石殿    氏親」
遠江国山名郡内貫名郷国衙引田之事
右、去年丁巳於原要害依抽忠節、為其賞宛行之了、弥可嗜忠節状如件、
      明応七年戊午十一月十三日
                     氏親(花押)
                孕石殿
(51)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(52)『静岡県史』通史編2中世六五〇頁
    『国史大辞典』4「禁制」
(53)『静岡県史』資料編中世三ー二二一、三ー三八八、三ー一四三九
     三ー一六〇六、三ー二八二六、三ー二四七〇号
(54) 掛川市長松院所蔵(写)
(55)『静岡県史』資料編中世三ー一六二五、三ー一六二六、三ー一六二八
三ー一六二九、三ー二一一二、三ー二一一三、三ー二九八〇
三ー三三〇五、三ー三三〇六、三ー三三九九号
(56)『静岡県史』資料編近世一ー四一二、一ー四一三号
(57)桑田和明「戦国大名今川氏による寺領安堵についてー駿河・遠江を中心にー」一一一頁
   (『駿河の今川氏』今川氏研究会、一九八七年)
    ・・・このように、今川氏一族、今川氏と関係の深い人物が葬られた菩提所は、
    寺領を寄進された他、多くの特権を菩提所であるということで安堵・寄進されている。・・・


2007年12月15日(土曜日)

『遠江河村荘と河村氏』6

これを袋井市春岡の西楽寺と比較してみると、
今川期には、義元が天文十二年と二十一年、氏真が永禄四年と永禄八年、永禄十年に寺領を安堵している(55)。
豊臣期には、天正十八年十二月廿八日豊臣秀吉寺領寄附朱印状に遠江国西楽寺領事として合百七拾石とあり、
徳川期にも、慶長八年九月十一日の徳川家康寺領寄附朱印状写に西楽寺領事として合百七拾石とある(56)。
今川から豊臣の間に、寄進された寺領に変化がなかったと思われる根拠は、天正十八年の豊臣秀吉寺領寄附朱印状の次の一節である。

   <然上者如有来門前諸役・山林竹木等令免除候也>

 即ち、今川、豊臣、徳川と、時代の変遷に伴う地理的価値等の変化によっても、
西楽寺においてはさほど寄進の石高に変化がなかったものと思われる。
 このように比較してみると、長松院への今川氏と徳川氏の寄進額の多寡から、
今川氏が開基河井成信(号宗忠)の戦死を悼んで、如何に長松院を厚遇したかが推測される。
即ち、明応五年九月廿六日、氏親の寺領寄進文書は、今川氏親家臣河井成信の戦死を悼んで、
河井氏を開基とする長松院に与えられたとするのが妥当であろう。(57)
 河井氏を反今川とする説の形成過程は、ほぼ明らかになった。
昭和四十九年の秋本論文、昭和五十一年の広瀬論文、昭和五十三年の小木論文、
この三論文によって、約五百年間に渡って語り継がれた史観は逆転したかにみえたが、
その三論文の根拠をたどれば、『円通松堂禅師語録』をでていない。
新たな史料が発見されたわけでもなく、『当院開基来由扣記』から約二百三十年後に、
単に『円通松堂禅師語録』の解釈を反転させたというにすぎない。


2007年12月14日(金曜日)

『遠江河村荘と河村氏』5

つぎに、明応五年九月廿六日の氏親の寺領寄進文書に、戦闘終了を意味する文言は認められない。

   <遠江国金屋郷深谷・山口郷内奥野・下西郷内仏道寺並五段田事右、
為料所奉寄進之上者、如前々可有執務之状如件、
      明応五年九月廿六日
                       五郎(花押)
            長松院>

 長松院への寺領寄進は、今川期には、氏親が明応五年と永正弐年、義元が天文六年と天文十一年、氏真が永禄三年と、
今川氏代々寄進が受け継がれている(53)。
徳川期にも寄進は続けられるが、今川期に寄進された寺領の内
「金屋郷深谷・下西郷内仏道寺並五段田」が減じられていることが次の朱印状写(54)からわかる。

<徳川家康朱印状
   遠江国佐野郡奥野村之内五十八石七斗任先規寄附也并山林竹木諸役等
   免除証者仏事勤行修造等無懈怠可勤仕之状如件
    慶長八年九月十九日 家康朱印>

秀忠の代にも五十八石餘、家光の代には四拾八石餘と減じられて
爾後家綱以下家茂に至るまで同文の朱印状写が、長松院に保存されている。
 今川期の寄進石高は記録にないが、明治十三年七月に記された『曹洞宗長松院明細帳』の「由緒」の項に
「○慶長八年九月十九日徳川家康公ヨリ更ニ五拾八石餘ヲ受ク 傳ヘ云フ今川氏ヨリ受クル所ノ二十分ノ壱ナリト」とある。


2007年12月13日(木曜日)

『遠江河村荘と河村氏』4

 秋本氏は河井成信反今川説の根拠を、さらに『円通松堂禅師語録』の一節に求めている。

  <しかし、同(明応)五年になると、松葉城主川井成信の戦死という事件が起こってくるが、
これも前記語録によって明らかにされる。
             悼輔菴宗忠菴主
   明應丙辰秋之季十日。菊源氏成信侍中輔菴宗忠菴主戦死矣。
       因野衲述贅言一章。為帰郷一曲以餞行去。
        因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
        端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。
 この川井氏の事件については、古くより今川氏のために戦死したと伝えられているが(『遠江風土記伝』『掛川誌稿』)、
同語録の内容からみると原氏に殉じて今川軍に討たれたとみるのが妥当のように思われる。
最後の皇州も.駿州とみるより原氏の遠陽州を指したと解すべきであろう。
これに対する今川側史料としては、明応五年七月十八日長松院に掲げた氏親の禁制が認められる。(『長松院文書』)。
深沢山長松院(掛川市大野)は、川井氏の居城松葉城(同市倉見)に近く、
氏親の禁制は同城攻撃に際して出されたものとみられる。
ついで同年九月廿六日、氏親は同寺院に寺領を寄進しているが、これは戦斗の終了を意味したものであろう(長松院文書)。>

『円通松堂禅師語録』に、「皇州」という言葉は、この七言絶句の他には認められない。
また、「皇州」を、遠陽州と読むべきであろうか。
 「皇州」の使用例を各種の漢和辞典から引用してみる。
    (?)辞源三(商務印書館)
指帝都。南朝宋鮑照氏集二代結客少年場行詩¨“昇高臨四關’表裏望皇州。” 
      唐李白李太白詩二古風之十八¨“衣冠照雲日’朝下散皇州。”
(?)辞海(上海辞 出版社)
犹帝都。謝眺《和徐都曹出新亭渚》詩¨“宛洛佳邀遊’春色満皇州。”
(?)辞海下冊(臺灣中華書局)
猶言帝都謝眺詩『春色満皇州』
  (?)大漢和辞典(大修館書店)
  帝都〔鮑照、代結客少年場行〕升高臨四關、表裏望皇州。
    〔謝眺、和徐都曹出新亭渚詩〕宛洛佳邀遊、春色満皇州。
      (?)増補辞源(角川書店)
帝都をいふ。鮑照詩「繁霜飛玉關、愛景麗皇州」
 (?)〜(?)は中国版、(?)(?)は日本版である。
これらの使用例はすべて、「皇州」を帝都の意味で用いている。
 使用例のないものとして次例がある。
(?)大字典(講談社)
我が國の稱。神州。
 このように使用例の限られた特殊な「皇州」という言葉を、十五世紀中葉の足利学校に学んだ英聖松堂高盛が、
遠陽州を指す言葉として用いたとするのは無理があるように思われる。
一心忠義徹皇州、の解釈は、河井成信の一心忠義は京都(帝都)にまで知れ渡った、とするのが妥当ではなかろうか。
つぎに、明応五年七月十八日長松院に掲げた左記の氏親の禁制に、松葉城攻撃の文言は認められない(51)。

      <(花押)
  於当寺長松院、甲乙人等令濫妨狼藉者、速可処厳科者也、仍而如件、
    明應五年七月十八日>

 明応五年当時、長松院住職は氏親の叔父とされる教之一訓で、長松院開基である河井成信は存命中であった。
秋本氏の説によると、長松院二世教之一訓は、生存している開基河井成信を討たんとする今川氏親に、
礼銭を携えて禁制を求めたことになる(52)。生きている開基を討つ側にその寺の和尚が与するとは奇怪なことで、
後世まで喧伝されるたぐいの話であろうが、そのような風説は寡聞にして知らない。
逆に『当院開基来由扣記』には、「公夫妻嘗参院二代教之和尚而聴法」と記されている。
 即ち、この禁制は、長松院付近一帯が戦場となるために、長松院が反今川勢力を恐れて、
開基河井成信の主君今川氏親に禁制を求めたとする解釈が妥当であろう。


2007年12月12日(水曜日)

『遠江河村荘と河村氏』3

(3)『掛川市史』上巻五四三頁・一〜三行目

 <早雲は、徐々に原氏と共同歩調をとる国人領主たちを追いつめていったのである。
その具体的な戦いの経過がわかるのが、明応五年(一四九六)の松葉攻めである。
     松葉城は前の章でみた国人領主川井成信(号宗忠)の居城であった。>

『掛川市史年表』(46)には、明應五年九月十日の項に「河井宗忠、反今川勢により松葉城で倒れる。」とあり、
同時に刊行された『掛川市史』の右の記述と『掛川市史年表』とは矛盾している。 
河井成信を反今川とする説の発生は、どの論文を端緒としているのだろうか。
ここに小木早苗氏の「今川氏の遠江支配」(47)がある。掲載誌の発行は昭和五十四年である。
 その河井氏に関する一節を抜粋してみる。

  <…(原氏は)以前より付近の土豪とも一揆的結合があったらしく、川井氏などもこれに同調していった。
二十年近くの空白を経て氏親が遠江侵入を開始するのは、明応三年(一四九四)のことと思われる。
   氏親の遠江における初見文書は、明応五年(一四九六)七月十八日長松院(現掛川市日坂町)に出した禁制である。
長松院は川合氏の菩提寺であり、川合氏は氏親の遠江侵入開始とともに滅ぼされたものである。>

この説の根拠を注釈にみると、

  <「広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にしてー」
  (『地方文化の伝統と創造』地方史研究協議会編)(48)
「長松院文書」(『静岡県史料』第四輯、二二四頁)>

 とある。
 「長松院文書」ではもとより河井氏を今川方としているので、
ここでは昭和五十一年に発行された広瀬良弘氏の前掲論文の一部を抜粋してみる。

  <…これらの多くは原氏一族と思われ、原野谷川流域に居住していたものと思われる。
   また、やはり原氏と連繋を保っていた菊源氏川井成信は原野谷川上流で孕石(原氏一族の孕石氏の居住地)の東方、
   松葉に根拠に置いていた。(傍点筆者)>

この説の典拠を注釈にみると、

 <『円通松堂禅師語録』四>

とある。
広瀬氏前掲論文の次の一節には、明らかな地理的誤解がある。

  <…原野谷川上流で孕石(原氏一族の孕石氏の居住地)の東方、松葉に根拠に置いていた。>

河井氏の居城松葉城は、原野谷川上流ではなく、原野谷川から東へ尾根をいくつか越えた倉見川上流にあって、
原氏の居城高藤城から、直線距離にして十キロほど北東に離れている。
 また『円通松堂禅師語録』に、菊源氏成信について記されているのは、前掲の三個所だけであるが、
そのいずれにも、河井氏が原氏と連繋を保っていたとは書かれていない。
広瀬氏が、「連繋を保っていた」とする根拠は不明である。
ところで、広瀬論文の二年前、昭和四十九年に、秋本太一氏が「今川氏親の遠江経略」(49)を発表している。その一節に、

 <…(原氏は)松葉の川井氏等とも連携を保っていたことも、同語録によって知ることができる。(傍点筆者)>

とあり、広瀬論文(前掲傍点部分)の表現は、この秋本論文と酷似していることがわかる。
また、秋本氏も、「連携を保っていた」とする根拠を明らかにしていない。
秋本氏は、原氏一族寺田氏の出自である松堂高盛が、
河井宗忠の戦死に際して詩偈を贈ったことに象徴される河井氏との親密な基調を、『円通松堂禅師語録』の底流に見たことで、
河井氏が原氏と連携を保っていたとしたのであろうか。
とすれば、例えば孕石氏と河井氏とを比較したとき、
歴然たる原氏の血族であり、原野谷川沿いに原氏と領地を接していた孕石氏は、
河井氏より一段と強固な連携を原氏との間に保っていてもよさそうであるが、そうとも断定し得ない。
実際、明応六年(一四九九)、孕石氏は原砦を攻撃している(50)。


2007年12月11日(火曜日)

『遠江河村荘と河村氏』2

 (2)『掛川市史』上巻五四四頁・三行目

 <…川井成信の戦死の日を明応五年九月一〇日としている。なにによってその月日が記されたのかはわからないが…>

河井宗忠について、『円通松堂禅師語録』にみとめられるのは、僅かに次の三個所である。

        <悼輔菴宗忠菴主
  明應丙辰秋之季十日。菊源氏成信侍中輔菴宗忠菴主戦死矣。
  因野衲述贅言一章。為還郷一曲以餞行去。
  因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
  端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。
         宗忠菴主初七日經
  向一毫端上。七莖  紅。無三無二妙。不滅不生宗。
  剣樹刀山壊。 湯爐炭融。鷲峰與今日。貫卻寸心忠。
         悼宗鏡童子
 源氏成信侍中之二男。法諱宗鏡童子者。文明丙午之歳孟夏之月初誕也。
 容顔美麗。精神聰敏。如越谿蓮。似荊山玉矣。父母慈愛鞠養。朝暮不離懐抱。
  恨成人遲。期長生計。已及丁末僅二歳也。茲仲呂二十八日。忽得病苦。
  逾月累日。將向季夏。而爺孃酸辛謹致丹誠。 爾上下神祇。頻加醫藥。
  以療養。嗟吁天哉。不得靈驗。不幸短命而死矣。二親慟哭。戀慕切也。
  余雖阻重山復水。傳聞其餘哀不淺。感慨不止。故寄伽陀一章。以欲截愛河之流。
  拂迷雲之暗。誠是 錐不達之謂歟。一如他南泉指庭前花。召大夫云。
  時人見此一株花如夢相似者乎。若能一撥 轉。豈唯公與陸公執手而合。
  天地同根萬物一體之道而已哉。宗鏡童子忽免不孝之罪過。爲導雙親之孝子必爾矣。>

 「明應丙辰秋之季十日」とは明応五年季秋十日、即ち陰暦九月十日を指しているものと思われる。
あるいは秋之季(あきのすえ)と読んでも、やはり陰暦九月十日を指すものであろう。
 本文中屡々『円通松堂禅師語録』が引用されているにもかかわらず、
「なにによってその月日が記されたのかはわからない」とするのは、不思議なことである。


2007年12月10日(月曜日)

『遠江河村荘と河村氏』1

四十代から、十年ほどかけて完成した『遠江河村荘と河村氏』を、抜粋して連載します。
中世北遠の歴史と河井宗忠、河村氏とのかかわりについて調べたものです。

死蔵していてもしょうがないので、少しずつWeb上で公開することに決めました。

はじめは、河井宗忠についての論考部分です。

***************************************

『遠江河村荘と河村氏』 河村隆夫

二  今川氏と河井宗忠

(一) 天王山城と河井宗忠

大代天王山の山頂付近にある大きな井戸は、今は茶園造成の土砂に埋もれて、
みるかげもなく草むらに覆われているが、ほんの最近まで、常時十トンほどの豊かな清水をたたえ、
中世と変わらぬ空の色を映していた。
一間四方もある丸太組のこの井戸が、農業用水として使われなくなったのは、
昭和の末年ごろのことである。
そこから、尾根をへだてて百メートルほど西に、現在も絶えることなく透き徹った水の湧く泉があって、
昭和二十年代頃まで、その山頂の泉のまわりには、水田が耕されていた。
その昔、天王山を守っていた兵士たちの喉を潤すには充分の水量である。
 また山頂の茶園から、無数のかわらけとともに出土した古鏡は、
明治四十三年まで天王山の山頂に建っていた大宝神社(41)の宝物と思われるが、
のちに大代神社に奉納されたあと、紛失して行方がしれない。
 『遠江古蹟図繪』の三十九「野守池」の一節に、夢窓国師が金谷に滞留し、
「寺を一箇寺建立したまひ開山と成る。寺号を龍燈山安養寺と云ふ。」と記されている。
 『静岡県榛原郡誌』上巻には、この一節をうけて、

   <因みに云、前記安養寺は河合宗仲廃して城地となして此処に居り、
其付近に法昌院を創して自ら開基となり、
安養寺は一時全く廃絶の姿となりしも後年又別地に安養寺を再興せるもの
即現時の寺其ものなりと云ふ。>

 とある。
 現在の安養寺は、河村家よりも谷間の奥にあり、砦として使えそうな急峻な地形の上に立っている。
本尊は、慶長年間に利生寺に移され、その製作年代は、鎌倉期あるいはそれ以前の作とされる(42)。
また、安政二年(一八五五)の『安養前住寿山仙翁和尚葬式諸般結算帳』に、
「比帳面ハ奥乃村長松院様ヘ相納候帳面ニ御座候以上」とあり、
長松院と安養寺との関係が確認された(43)。
また、法昌院の鎮守は、白山妙理大権現と宗忠八幡大菩薩とされ、
宗忠八幡は今でも法昌院の境内に建っている。河井八幡とも呼ばれ、
昭和二十六年九月十五日の河村小次郎による祭文も残されるなど代々河村家によって祀られてきた(44)。
『静岡県榛原郡誌』上巻に、現存する龍燈山法昌院について、次の記述がある。

  <大代村法昌院の寺記中に(今井氏の載録せられたるものに據る。)
法昌院 開創、當院奮記に觀應二年三月五日臨濟宗夢想國師開山とあり、
後文祿元年二月川合宗仲公其奮跡に就て精舎一宇を建立し歸依に依り
當國佐野郡上西郷村法泉寺八世玄達和尚を請して開山と為す、
故に川合公を開基と稱す云云(法昌院明細書)。
過去帳寫
開山 通山玄達和尚 應仁三月廿四日化す
    二世 揚山順番和尚 文明二年十一月二十二日寂す              
    開基 法昌院殿補庵宗忠大居士   明應五年九月十日
    月桂院殿慶室妙讃大師川合宗仲妻  明應五年九月十日
但夫婦共佐野郡奥野長昌寺池の傍に自殺
とあるも、蓋後人の傳承を記述したるものなるべければ年代其他に杜撰多きが如し
(夢想國師は観應二年九月遷化なれば少しく訝しけれども、斯る類例は他にもなきにあらず、
されども文禄は應仁元年より百二十餘年の後なれば長祿などの誤にやあるべき )、
されど何等か因縁を有したることは自ずから窺知せらるるのみならず、
郷人平井磯次氏の談に法昌院の附近に一地區あり、
之れ今川氏の臣河合宗忠の城址なりと傳ふと云へり、>

この、文中にある「一地區」こそ、天王山であったと推定される。
その根拠は、諸書に記されているが、平成九年三月十九日の現大阪大学村田修三教授の御説は、
それを決定づけるものと思われる。当日、村田教授は御体調を崩されて、
現地視察こそされなかったが、天王山付近の立体模型と地図、資料等に基づいての御説を、
金谷町教育長室において約一時間にわたって披露され、町史編纂専門員片田達男氏と私とで拝聴した。
村田教授の論旨を要約すると、次のようになる。

  ?時代についても、平面的にも、河井氏と河村氏との連合軍が、
この地域を領していたものと考えられる。
  ?大宝神社は、河井氏の宗教領域の境界を示すものであろう。
 ?天王山が、茫漠とした城として用いられた可能性は充分ある。
茫漠とした城とは、堀や堀切をつくらず、自然の地形をそのまま要害とした戦闘拠点であるが、
平時には、例えば大宝神社のように民衆ともかかわっていた。

(二) 今川氏と河井宗忠

 本章の主題である今川氏と河井宗忠との係わりについては、
以下『掛川市史』の河井宗忠に関するいくつかの論点について考察を加えながら記してみたい。

(1)『掛川市史』上巻五一八頁・四行目

 <同時代史料である『円通松堂禅師語録』には「菊源氏川井成信」と書かれているのである。
河井も河合もまちがいではないが、ここでは川井と書くことにしたい。>

  『掛川市史』上巻五一八頁・一一行目

    <『松堂高盛禅師語録』にははっきりと「菊源氏川井成信」と書かれている>

『円通松堂禅師語録』に「菊源氏川井成信」と書かれている個所は認められない。
また、『松堂高盛禅師語録』なる書は『新纂禅籍目録』
(駒澤大学図書館・昭和三十七年六月発行)には掲載されていない。
明應五年(一四九六)九月十日、今川氏親の家臣河井宗忠が、松葉城在城のとき、
鶴見因幡守と勝間田播磨守の連合軍に急襲されて戦死したとするのは、
深沢山長松院十世中興活山鉄獅和尚の『当院開基来由扣記』(45)を根拠としている。
『当院開基来由扣記』とは、寛延三年(一七五○)、
大阪天満の松景山冷善院主である義誉上人の質疑に答えて、活山和尚が上人宛に送った書簡の写しで、
長松院は元文四年と宝暦元年の二度の火災によって書物を悉く焼失していたために
活山和尚が伝承などをもとに『当院開基来由扣記』を記したものである。
即ち、『円通松堂禅師語録』にみえる「菊源氏成信 」「宗忠菴主」を、
今川氏親家臣松葉城主河井成信(号宗忠)と同定したのは、『当院開基来由扣記』に初見である。
また姓については、文明三年(一四七一)〜同五年(一四七三)に、
長松院開山石宙永珊によって筆録された『人天眼目抄』に「懸河河井氏」とあるのが初見である。
『当院開基来由扣記』もまた河井としていることから、姓は河井と書くのが妥当であろう。


2007年11月7日(水曜日)

レシャード・カレッド氏

カテゴリー: - kawamura @ 07時42分56秒

昨日届いた「学士会会報」に、
『アフガニスタンの最近の情勢と 世界の新たな関心について』
と題する、レシャード・カレッド氏の論文が載っていました。
ご承知のように、レシャード氏は島田市在住の医師です。

ところで、学士会とは、旧帝大卒業生のいわば同窓会です。
明治十九年に組織され、
東京都千代田区に学士会館が建てられました。
「学士会会報」の執筆者のほとんどすべてが、
旧帝大教授、准教授の方々で、
全く商業誌的な傾向のない、控えめで正確な内容です。

卒業以来愛読してきた会報誌ですが、
この三十年間に、私の知りあいの文章が掲載されたのは、
北大の同級生、茂木健一郎先生、
そして今回のレシャード・カレッド氏の三人だけです。

レシャード氏の文章は、故国が荒廃に曝された者の、
切々たる哀しみに充ちています。
高校時代に暗誦させられた李白の詩、
床前明月光、疑是地上霜、
で始まるあの「静夜思」を思い出します。

レシャード氏の許可を得て、
論文をこのブログに転載させていただこうと思っていますが、
いかがでしょうか?


2007年4月6日(金曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(7)

反応がすくなかったので、
名作『剣』のUPはいたしません(プンプン)。

山岡鉄舟の話しにもどります。
山岡鉄舟がどんなにすごいか、
このエピソードだけで充分でしょう。

というのは、
勝海舟が江戸城を無血開城すると決したことを、
駿府までせまっていた東海道先鋒軍司令官西郷隆盛に告げるべく、
官軍ひしめく中を、
「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」
と名乗りをあげて西郷と面会したというのです。
3月9日のことです。

江戸総攻撃は3月15日、と命じられていた西郷は、
鉄舟の言をうけて13・14日に勝海舟と会談しました。
会談によって江戸総攻撃を中止、
江戸城の無血開城を決して、
あやうく江戸は戦火を免れることとなったのです。

その西郷隆盛をして
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、
 そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
と言わしめたのですから、
山岡鉄舟のはかりしれぬ凄さがうかがえます。

鉄舟は、はじめ千葉周作らから北辰一刀流を学び、
のちに一刀正伝無刀流の開祖となった剣の達人でありました。

(つづく)


2007年4月4日(水曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(5)

山岡鉄舟をとりまく人々の背後に、
偉人勝海舟の姿が見え隠れします。

勝海舟は、男谷精一郎や島田虎之助から剣術を学び、
直心影流の免許皆伝となりました。
剣の鍛錬だけではなく、
とくに虎之助にすすめられて修行した禅の精神が、
勝の人生の背骨になったようです。

『氷川清話』には、このように書かれています。
「禅学修業
 かの島田という先生が、剣の奥義を極めるには、
 まず禅学を始めよとすすめた。
 (略)
 この座禅と剣術とがおれの土台となって
 後年大そうためになった。
 瓦解の時分、万死の境に出入して、
 ついに一生を全うしたのは、
 全くこの二つの功であった。
 ある時分、
 たくさん刺客やなんかにひやかされたが、
 いつも手取りにした。
 この勇気と胆力とは、
 ひっきょう、この二つに養われたのだ」

剣と禅については、『氷川清話』のさまざまな個所に書かれています。
しかしそれほどの達人でも、岡田以蔵に助けられたことがあるのです。

おなじく『氷川清話』から。
「人斬り以蔵のこと
 (略)
 ちょうど寺町通りで三人の壮士がいきなりおれの前へ現れて、
 ものをもいわずに切りつけた。
 驚いておれは後へ避けたところが、
 おれの側にいた土州の岡田以蔵がにわかに長刀を引き抜いて、
 一人の壮士をまっ二つに斬った。
 「弱虫どもが、何をするか」と一喝したので、
 あとの二人はその勢いに辟易して、どこともなく逃げていった」

と、このようなこともあったのです。

山岡鉄舟も剣客で、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖でした。

(つづく)


2007年4月3日(火曜日)

山岡鉄舟の鉄扇(4)

伊佐新次郎岑満は、
勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の書の師として知られています。

その伊佐(号如是)の書が我が家に残されているのです。

伊佐は、明治九年に中条家の隣に移り住んでいますから、
中条家と親交のあった大関家から、
祖父か父を通じて河村家にもたらされたものか、
あるいは
曾祖父河村宗平がお茶にかかわることで、
牧之原開墾方と通じていて、
伊佐を我が家に招いたときの揮毫の書か、
(というのも、伊佐が酒好きで酒を振舞われた礼に書を残した、
と、我が家に伝えられているからです)
いずれであるのかはもう少し調べないとわかりません。

(河村宗平に関する膨大な量の書簡類や文書を解読すれば、
 明治初年の茶業史や牧之原開墾方の歴史が
 見えてくるのでしょうけれども、
 悲しいかなそれほどの時間がありません)

伊佐が幕府の要職に就いていたころ、
米国領事ハリスに唐人お吉を世話して
国際親善につとめたという話しはよく知られているところです。

ともあれ我が家に一幅の掛け軸を残し、
山岡鉄舟の書の師であった伊佐新次郎は、
明治二十四年に没して谷口の法林寺に葬られています。

(つづく)


2007年3月23日(金曜日)

観光と物語

カテゴリー: - kawamura @ 07時00分56秒

先日、松山市長の中村さんとお話しする機会がありました。
寿司屋の座卓を囲んで、数人で話したときのことです。

愛媛県松山市の観光のことに話しが及んで、
私が、「地域をまとめる物語をつくろうとしています」
と申しましたら、突然市長が私の手を取って、
「私もそれと同じことを議会で主張しつづけているんです」
と欣喜雀躍のようすでした。

思えば松山市には、
明治の文豪夏目漱石と正岡子規、
日露戦争の立役者秋山好古、真之兄弟、
また名所として松山城や道後温泉と、
物語の素材にはこと欠きません。
路面電車もとても風情がありますし、
遠く関西方面からも信仰をあつめ
大祭には数十万人の人出でにぎわう「椿さん」(椿神社)も
物語のひとつの核になりそうです。

それらがひとつひとつ離れて存在しているのではなく、
あざやかな物語の糸で結ばれていれば、
地域全体がひとつの有機体として
観光客の眼にうつるのではないかということです。

あたりまえのことですが、
人は物理的な風土のなかに暮らしているだけではなく、
歴史がつむぎ出す情感のなかでも暮らしています。
もう少しいえば、
その街のうえをながれるやわらかな時間とともに、
すべての人々のこころのなかに、
かけがえのない物語が
それぞれにつむがれているのだろうと思います。
その物語のひとつひとつの糸をさらに大きく編んで、
地域をおおう雄大な物語を創出しようというのです。

それはちょうど、その日の夕に、
茂木健一郎先生の講演にあった
マルセル・デュシャンの「泉」のように、
すでにあるもの(レディ・メイド)に物語を付加して
芸術作品を創り出してゆく過程にもにています。

ともあれ、
夜の松山空港に降り立ってから二泊した松山市の思い出は、
私の記憶の名所となりそうです。

(その松山市のお話しについては、
 友人の松村や白洲信哉さんのことなど、
 またなんどかに分けて書こうと思います。
 松村、観光案内ありがとう。
 白洲さま、ごちそうさまでした。
 またメールします)


2007年2月6日(火曜日)

花倉の乱

カテゴリー: - kawamura @ 10時47分54秒

花倉は、現在の静岡県藤枝市にあって、
つまり花倉の乱とは、
私の住む島田市の隣街で起きたことなのです。

静岡県ではよく知られていることですが、
氏親が家督を継ぐときに活躍したのが伊勢新九郎(のちの北条早雲)で、
このあたりのことを司馬遼太郎は『箱根の坂』に書いています。

また、今川氏親の正室寿桂尼の出自である中御門家には、
京の通りをへだてて、ふたつの家がありましたが、
寿桂尼の生家は、権大納言中御門宣胤家で、
向かいは中納言の家であったと、
私の謡の先生、中御門宣子さまからうかがいました。

(その向かいの中納言家が、島田市菊川に歌碑をとどめる
中御門中納言藤原宗行の生家のようです)

さて、花倉の乱に話しをもどしましょう。

氏親が亡くなったあと、
嫡男氏輝、弟の彦五郎が日を同じくして急死します。
なんともきな臭い感じがしますが、
その直後の今川家家督争いとして、
花倉の乱が起きるのです。

氏親の正室寿桂尼の子、梅岳承芳(のちの今川義元)と、
氏親の側室の子、玄広恵探との争いがそれです。
恵探が自害して終結を迎えるこの争乱があったのが、
天文五年(1536)のことでした。

天文七年に河村家二代目助次郎が、
大寶神社に鰐口を寄進する2年前のことです。


2007年2月5日(月曜日)

風林火山と河村家

カテゴリー: - kawamura @ 06時41分09秒

昨日、NHKの大河ドラマ「風林火山」を見ていて、
天文五年の年号があらわれたとき、
深い感慨をおぼえました。

というのも、
天文、という年号は、
河村家二代目助次郎が活躍していたころのものだからです。
助次郎の名は、『安養寺過去帳』に

川龍院忠学宗心居士 助次郎父

と初見されます。
また、「金谷町史 資料編一古代中世」の口絵の6番に、
大代の助次郎が大寶天王に寄進した
鰐口の写真が載っていて、
本文中にもそのことが載っています。

(明日もまた「風林火山」にあわせて
 河村家草創期のお話しをすることにいたしましょう)


2006年2月7日(火曜日)

徳川慶喜の日記

昨日浮月楼のことを書いて、
『徳川慶喜家扶日記』
を思いだしました。

この日記の原本は、
千葉県松戸市の戸定歴史館
にあるようですが、
慶喜が現在の浮月楼の地に
別邸をかまえていたころ、
そこを訪れた人びとの名が
日記にしるされているのです。

たとえば明治5年1月25日に、
「中条潜助、大草多喜次郎御機嫌伺罷出」
とあって、
牧之原開墾方頭取の
中条潜助景昭(中条金之助景昭)や
同じく開墾方頭並の
大草多喜次郎高重などが、
定期的に元将軍へ
作物を献上していたことが
記録されています。

金谷原開墾方は、
幕末の江戸市中取締の任にあった
新徴組の内の
直参旗本中条大草など
攘夷十七人組が、
慶喜護衛のために
私立の精鋭隊を結成したのが端緒です。

のちに久能山東照宮警護
にあたるころには
新番組と改称し、
明治二年、
金谷原開墾御用となりましたが、
静岡藩成立後は
静岡藩士として、
静岡藩開墾方と称しました。

隊長は中條潜助景昭、
副隊長は大草多喜次郎高重でした。

日記を散見すると、
明治14年5月17日には、
山岡鉄太郎が訪れています。

明治27年11月12日には、
中條金之助景昭(かげあき)が病気のため、
倅克太郎景明(かげあきら)が、
名代としてお茶を献上しています。

その後は克太郎景明が
ひきつづき参上しているところをみると、
景昭の病状は
おもわしくなかったようです。

しかし祖父河村小次郎が
中條克太郎景明から受けた
飛龍剣、龍車刀剣の免許状や、
そのとき山岡鉄舟から中條景昭におくられた
鉄扇を、
祖父が克太郎から賜ったこと、
あるいは、
昨年他界した伯母の
母方の祖父が大草高重であること、
あるいは、
平成八年三月三日に
島田市阪本の種月院でとりおこなわれた
「中條景昭百回忌法要」に参列したあと、
中條家当主中條昭夫様が、
その場で87歳の母君に電話されて、
中條克太郎の諱(いみな)景明を、
「かげあきら」とお読みすることなどを
私にお教えいただいたこと、
あるいは、
中條景昭の葬儀委員長は
勝海舟で、
昭夫様の父君は、
勝のお膝であやされていたことなど、
たまたま
浮月楼のチリ公使晩餐会から
『徳川慶喜家扶日記』を想起して、
さまざまのことが思いだされました。

これらについて、
いつかくわしくまとめたい
と思っています。

(いまから受験生の激励に
 高校の校門まで行ってまいります)


2005年12月4日(日曜日)

開山忌

カテゴリー: - kawamura @ 19時37分28秒

11月二十五日は、菩提寺龍燈山法昌院の開山忌でした。
朝九時から午後一時ごろまで、お役を務めてまいりました。

今日は以上。


2005年11月9日(水曜日)

水害(3)

カテゴリー: - kawamura @ 07時41分22秒

濁流はたちまち金谷の街並みを呑みこみました。

大代川も大井川も、川底がまわりの土地より高い、いわゆる天井川ですから、はけぐちをうしなった洪水は、またたくまに市街地を黄色い海にしたのです。
避難する人たちは二階から小舟にのってかろうじて逃げました。
天正の瀬替えにみられるように、金谷河原とよばれる地域が、古くからなんども洪水に見まわれたことはよく知られているところです。

大代地区にかかる橋はほとんど落ち、崖崩れで道路は寸断されました。
父は災害復旧の委員に任命されてオートバイで奔走していました。
五和西小学校は、いまは廃校になってあとかたもありませんが、床上浸水になった校舎の床下には黄色い泥がたまり、それをかきだすのに何週間もかかって、二学期がはじまったのは九月に入ってしばらくしてからのことでした。
いまでもあの泥の異臭をおぼえています。

父は戦時中、軍司令部参謀部にいましたから記録をとるのはお手のもので、水害時の詳細な記録が残っています。
水害の痕跡は山肌にもそれをとどめていて、滑落して谷のようになった斜面に、災害から数年ののちに家族で植林した記憶があります。
いまでも、山のその部分だけ樹相がちがっていますから、ひと目でわかります。
11月20日の山芋会のときに、前山のその部分をごらんください。

すべては遠い記憶になりました。
秋光あきらかな今朝の谷間は、湖の底のようにしずかです。


2005年11月8日(火曜日)

水害(2)

カテゴリー: - kawamura @ 05時31分39秒

山がすべり落ちる、という光景をごらんになった方はあまりいないと思います。

小学校三年生の私は、豪雨の窓からそれを目撃したのです。
はげしい雨にけむる前山の頂上のあたりから、音もなく、それは鋭い雨のナイフに切りおとされたかのように、山の一部がすべり落ちたのです。
崩落した土砂が大代川をせき止めました。
一瞬、川が黄色くふくれ上がると、たちまち濁流が堤防を乗りこえてきました。
いたるところで決壊し、黄色い奔流が、ほそい水田を越え、県道を切り、さらにこちらがわの一段低くなった水田へとなだれ込んできました。

それらすべてが、窓のむこうの、巨大なスクリーンにうつる音のない記録映画を見ているかのようでした。
長い年月を経て、記憶がそのように変質したのかもしれません。
いずれにしても、自然の脅威、というようなきれい事ではなく、あまりにも凄くて思考が停止していた、といったほうが正確かもしれません。

その日、下流の金谷町では、はじめは雨もなく、大代地区の上空にわだかまった黒雲をふしぎそうにながめていたと言います。
やがて、大代川の激流が街並みを飲みつくすのには、さほどの時間はかかりませんでした。


2005年11月7日(月曜日)

水害

カテゴリー: - kawamura @ 08時20分48秒

夏に前線が通過するとき、大粒のはげしい雨が土をうがつような勢いで降ることがあります。
昨日の、紅葉祭りの慰労会で話題にあがった四十五年ほどまえの集中豪雨のときには、その雨が、三日三晩降りつづいたのです。

私が小学校の三年生の夏休みのことで、すこし高台にあるわが家の窓から、私はその光景を目の当たりにしたのです。
それはしのつく雨が三日ほど降りつづいている午後でした。
両親とも家に居ず、おそらく随所で氾濫する水路や河川の決壊を防ぐために、大人たちは奔走していたのでしょう。

窓のそとの、河村山とよばれる前の山のふもとを大代川がながれていて、ときおり、黄色い水の手が、堤防をこえてちらちら見えはじめました。
堤防のこちら側にはひと筋の水田があって、その水田と、わが家のまえにひろがる「河村まえ」とよばれるひろい水田のあいだを、ほそい県道がへだてていました。

天の底が抜けたような雨、とでも言うのでしょうか、その豪雨が、ときには右へ、あるいは左へとしろい雨脚をみせながら風景のなかを踊りつづけているようでした。
大代川の水量は、限界にちかづいていたのでしょう。

決壊をしらせる黄色い水の手が、堤防に手をかけはじめたのは間もなくのことでした。


2005年11月5日(土曜日)

上水道(2)

カテゴリー: - kawamura @ 05時51分20秒

バブルのころ、農水省から山間地域への補助金が10億ほどでるので大代地区でそれをつかおう、というような話が舞いこんだことがあります。

当時、全国の市町村が箱物造りに狂奔していたころのことです。
私はすでに猪瀬直樹の「日本国の研究」を読んだあとだったような気がします。

公民館に地元の人たちをあつめて、アーバンデザイナーのような方が説明をしたのですが、その席上で、私はこんな意見を述べました。

「どんな箱物をつくっても、そこへひく水道がありませんよ。その建物へくるお客がいたとして、どういう水を飲んでもらうというのですか?」
「それよりも、この地区に水道を通してください。あなたが私の家を訪ねてこられたときにお出ししたお茶には、茶園からしみ出した微量の農薬がふくまれているかもしれないのですよ」

その方は、「どうりで、そのあと具合が悪いような気がした」と会場の笑いをさそいました。

私はすかさず、「あなたが笑うその水を、ここにいる私たちは、毎日、毎日、自分の子どもや孫に飲ませているのですよ」

その後、この10億の話は立ちきえて、かわりに上水道の敷設計画が持ちあがりました。
実際には紆余曲折がありましたが、それから数年かけて、いまは大代地区の全戸に安全な上水道がひかれています。


2005年11月4日(金曜日)

上水道

カテゴリー: - kawamura @ 06時39分41秒

大代地区に上水道がひかれたのはほんの数年まえのことで、それまでは沢の水をつかっていました。
二三の地区では簡易水道といって、沢の水を共同タンクにため、自分たちで塩素殺菌して飲料水としているところもありました。
しかしほとんどの集落では、山の水をそのまま飲んでいたのです。
私の家もそうでした。

おさないころは、屋敷をとりまくようにながれる南沢の水を、竹をふたつに割って節をぬいた樋で、裏のタンクに注ぎいれていました。
やがて農薬がさかんにつかわれるようになると、沢の水をやめて裏山のわき水をつかうようになりました。
湧き水は二個所にあって、それをホースで山の中腹のタンクまでひき、落差を利用して水道としてつかっていたのです。
夏のさなかに学校からかえってきて、のどをならしながら飲む湧き水のおいしさは、もうなかなか味わうことはできません。

天然のおいしい水は、いまでは貴重ですが、それはめぐまれた山にしかありません。
おおくの湧き水は、山頂までたがやされた茶畑の肥料からとけだした硝酸性窒素などをふくんでいて、飲用水にはむきません。
上水道をひく運動をはじめたきっかけは、私の地区にきた若いお嫁さんの話をきいたときでした。

赤ちゃんは真夜中でもお乳をほしがって泣きます。
きゅうに強い雨がふりだした夜など、母乳が思うように出なくてミルクをつくろうとすると、水道のじゃ口からどろをふくんだ黄色い水が出てくるというのです。
乳飲み子に黄色いミルクを飲ませるときは悲しかった、若い母親のその言葉を聞いて、私は大代地区に上水道をひく運動を立ち上げたのです。
もう十年以上もまえのことです。


2005年8月28日(日曜日)

区民体育大会

カテゴリー: - kawamura @ 06時09分10秒

今日は8:30から区民大会がはじまります。

会場は、30年ほどまえまで五和西小学校の運動場だったところで、小学校が廃校になったあとは、ゲートボールやバレーボール、少年野球などに使われています。

いま、打ち上げ花火の号砲がきこえました。
さて、これから、のべ300人ほど出場する選手の「選手誘導係」として、区民大会のお手つだいをしてきます。

台風一過、きょうはさわやかに晴れて、区民大会を満喫してこようと思います。

後刻、そのようすを携帯でご報告いたします。

準備体操
moblog幼児競争
moblog総区長
moblog元町会議員
リレー


2005年8月21日(日曜日)

袋詰め

カテゴリー: - kawamura @ 21時32分52秒

夜の7時半から、8月28日の区民大会につかう、賞品の袋詰め作業がはじまりました。
集まったのは3人の区長と10人ほどの班長で、9人ほどが農家、のこりがサラリーマンの方々です。
平均年齢は55才ほどでしょうか、さまざまな景品を三種類の袋につめ、ジュースを分け、30分ほどでおわりました。

作業は簡単でしたが、終わったあとで、ふだん会わない方たちとの雑談がゆかいでした。

潮干狩りの話をしているとき、ダンテ・ガブリエル・ロセッティの詩を思いおこしていました。

I have been here before but when or how I cannot tell.
I know the grass beyond the door, the sweet keen smell,
the sighing sound, the lights around the shore.
・・・・・

こんなかんじだったとおもいますが、高校生のころにおぼえた詩ですから、まちがいだらけかもしれません。
どなたか、忘れてしまったこのつづきを教えていただけませんか?


2005年8月20日(土曜日)

班長会

カテゴリー: - kawamura @ 22時18分40秒

夜の7時半から9時半まで、2時間にわたって大代地区の班長会がありました。

区民大会から、防災訓練、敬老会、駅伝大会、市町の合併による自治会組織の規約審議会など、いつも妻にまかせっきりの班長会に、今夜は出席しました。
班長は純然たるボランティアで、年間にするとそうとうの時間をさいて、地域のためにつくします。

だれもまわりもちでやることですが、私のように夜間の仕事をもっていると、班長は妻の役目になるのです。

寺の責任役員、神社の総代は、私の役目ですが、いつかは私も仕事からはなれて、班長の役のようなボランティアも、しっかりと務められるようになりたいものです。

あすの夜7時半からの、区民大会の賞品の袋づめも、私が出るつもりです。

今日はみごとな満月です。
ぜひ、来月の観月会を成功させたいものです。


2005年8月11日(木曜日)

携帯からの投稿

カテゴリー: - kawamura @ 02時02分36秒

昨日携帯から投稿したとき、パスワードを変えていたのをわすれて、UPできませんでした。 :neutral:
深夜一時に目がさめて、あらためて投稿したものです。

式の最中に写真をとるのは、さすがにできませんでしたので、受付のときと式の終わった後の写真と、ふたつをUPします。

moblog受け付けのようすです。
moblogおせがきが、おわったあとのようすです。


2005年8月9日(火曜日)

おせがき

カテゴリー: - kawamura @ 22時35分27秒

明日はおせがき。
菩提寺、龍燈山法昌院のおせがきが、朝の七時からはじまります。

責任役員の私は、仕事をやすんで、地域の信仰のために朝からつとめます。

私は二十代のはじめから、仏教に感じる心がありました。
仏教は、宗教というより、深い哲学のようにおもいます。

キリスト教やイスラム教などの一神教とちがって、仏教は絶対神をもちません。
仏陀のおしえが、あまりにも深く、ひとの理解をはるかにこえているものですから、
ひとはそこに神秘を感じ、信仰の対象となったのでしょうか。

専門外の私の、とぼしい知識をもとに考えますと、
仏教の世界観は、「依他起」「遍計所執」「円成実」から成りたっているようにおもいます。
赤子のときありのままの世界の姿をみて、青年になって言葉の罠におちてその世界を否定し、
やがて老いたとき、いちどは言葉によって否定された世界が、
ふたたびふかい輝きをともなってその姿をあらわす、といったところでしょうか。

明日のおせがきのようすを、携帯から、写真投稿してみようとおもいます。


2005年7月27日(水曜日)

「倹約取究」(1819年)

カテゴリー: - kawamura @ 00時04分57秒

「金谷町史」通史編本編第3編第4章第1節組合村々の様相 より抜粋

[郡中議定]
文政二年(1819)十月、天竜川から大井川まで現在のいわゆる中東部遠州地域七郡八九五か村の者たちの惣代が参会し、「倹約取究」なる郡中議定をまとめ上げた。
この議定領域は図3−7に示した通りであり、域内の国訴の議定領域にも匹敵するような広域的なものであった。

惣代は六五か村から七四名出ており、町域からは大代村の河村市平と牛尾村の鈴木彦右衛門が出席している。ちなみに、この議定資料はこの河村家に残されたものである。

この議定領域は、後の明治維新直後、明治五年(1872)六月に設定された大区小区制の枠組と直接的な連関を有している。
すなわち、この領域は浜松県第二大区および第三大区の合同領域とほぼ符合し、逆に遠州からこの領域を除いた地域は浜松県第一大区とほぼ合致するのである。
明治四年十一月に開始された区制とその後に展開した大区小区制の枠組は、戸籍編成上の必要から近世期に展開した行政的枠組みを無視してかなり機械的かつ強引に作られたように理解されてきたが、むしろこうした郡中議定などの枠組みに規定されて存在したのである。

惣代の者たちは、先の河村家や鈴木家のように一村の村役人というだけでなく、地域における用水組合や行政的な管理の面で極めて横断的な活動を展開し、小地域の顔となるような存在であった。
彼らは経済的な土台もしっかりしていたが、そうした者たちが七郡八九五か村の代表として参会し、より大きな地域の利害をめぐって協議したのである。

この議定は文政二年七月に公儀から物価抑制の触れが出され、それに呼応する形で同年九月に一部もしくは半部単位での小規模な枠組で郡中議定がなされた(城東郡のうち四一か村が集結して議定が行われ、二二項目にわたる物価下直への対応策が申し合わされた)後、そうした経験の積み上げと総括のなかで、翌十月に締結されたものである。

議定最後の締約文言には、「今度天竜川より大井川境までの者が集まって相談し決定した以上は、違約のないようにしなければならない。
何か問題が起きたときには、惣代の者たちに回状を送り早速参会する」と記されている。つまり、違約出来の状況に対して迅速な対応が準備されており、こうした郡中議定が臨時的なものではなく、一定のつながりの上に恒常的に組織されていたものであることが理解される。
近世後期には、遠州の東部・中部は既に社会的・経済的かつ「行政」的に一つの地域として認識されており、それを運営する地域の「代表」として郡中惣代らが結集し、地域の方針を立てていたのである。


2005年7月24日(日曜日)

大代神社

カテゴリー: - kawamura @ 00時01分34秒

今朝8時から、大代神社の総代があつまって、桜の枝をかたづけることになっていました。
境内にたっていた桜の枝が、強風に折れて、茶畑に落ちたというのです。

8時すこしまえに神社につくと、おおきなレッカー車がうごいていました。
枝のおちた桜は、かなりの巨木でした。
ひとりがその桜にのぼって、枝に専用のベルトをしばりつけ、チェーンソーで切って、レッカー車でひきあげ、まず境内におろします。
さらにもうひとつのチェーンソーで、直径50センチほどの枝を切断して、それをかついで山のなかまではこんで捨てるのです。
最後に幹を切り、根もとまですっかりかたづけました。
茶畑におちた枝も、長さが10メートルほどあって、いくつかに枝わかれしているので、それも寸断してレッカーでひきあげ、さきほどとおなじ作業をくりかえしました。
けっきょく、桜の木とおちた枝と、もう一本の枯れ枝を片づけおわるのに、3時間以上かかりました。

私は菩提寺法昌院の責任役員だけでなく、大代神社の総代のひとりでもあります。
どちらもボランティアですが、地域の信仰にかかわっているという幸せをかんじます。

法昌院は、私の祖先が開基として創建した寺であることは、以前、「晋山式」の記事にも書きましたが、大代神社についても、河村家の祖先と二代目助次良がふかくかかわっています。
その歴史については、後日、ご説明いたします。

とちゅうでふりはじめた小雨は、あたたまった体のほとぼりをさまして、ちょうど働きやすいおしめりになりました。


2005年7月11日(月曜日)

のうまく さあまんだあば

カテゴリー: - kawamura @ 00時00分33秒

一、のうまく さあまんだあば
       さらだあかん  
             (三十三回くりかえします)
二、おんりき ていれいじん
       ていれいじん
  まいとり まいとり そわあか

三、おんりき 悪病退散
  そくめつ じんじょう そわか

毎年、盛夏の朝から、呪文をとなえるひくい声が谷間の奥までひびきます。
今年も、祭日がちかづいているのです。

大代川の上流にある栗島地区の、小高い山のうえにちいさなお堂が建っていて、村びとはそれを、おふどうさん、とよんでいます。八月中は、栗島のひとたちは毎日三・四人で、おふどうさんにおつとめをするのです。

祭日は、七月の末日です。

祭日のまえには、お堂のまわりを掃除する日があります。
その草刈りのときにまむしを見つけたりすると、生きたままむしるようにして、そのきもをたべたあとは、すてるのか、焼酎につけるのか、滋養になるといってそれを好むひともいます。

いよいよ祭りの日がおとずれます。
ひとびとはちいさなお堂にひしめきあって、まず長い時間をかけて上の呪文をとなえつづけます。
読経がおわったあと、それぞれに持ちよったもの、おはぎであったり、お赤飯、ちいさなおにぎり、ふくろいりのお菓子などを、おたがいに分けあうのです。
妻は私と結婚して、母が亡くなったあと、二十代で、はじめてこのお祭りに参加したときのつよい印象をいまでも私に話すことがあります。

今年は、私も、ぜひ参加しようと思っています。
                                                                 
石段は、草に埋もれています。
ふだんは、お堂のなかには入れません。


2005年7月6日(水曜日)

よろずさん

よろずさん、は屋号で、ほんとうは渡辺さんです。
よろずさんは、私とおなじ法昌院の大世話人のひとりで、午前中に一時間半ほど、八月の大施食会(おせがき、のこと)についてなど、お寺の運営にかかわるさまざまな話をしました。施食会は八月十日ときまっていて、大世話人は朝はやくから客殿につめて、護持会費などの集金業務のあと、式がはじまると檀家総代として参列しなければなりません。

よろずさんは、藤枝東高校の先輩でもあり、会社を退職後、私立高校の教壇に立っているところなど、私と共通の経歴もあって、気ごころのしれた頼りになる方です。私も、二十代の後半から四十歳になるまで、静岡学園高校に講師としてつとめていました。夜の塾と、昼の高校と、いまおもえばよく体がもったものです。
よろずさんは私よりひとまわり以上年上ですが、理系のひとらしく、理詰めの几帳面な仕事をされます。

よろずさんが、お帰りになるとき玄関先ですこし立ち話をしたのは、道楽でつくっているという果樹のことでした。
果樹に農薬を散布するのには、時期をえらばなければきついお叱りをうけるというのです。
その果樹は他家の茶園のちかくにあるので、茶刈りのまえに茶葉に農薬がつくと、刈りとった葉を棄てなければならないといわれたそうです。
お茶は当地の名産ですから、数々のきびしい規制があるのだと納得いたしました。

よろずさんのように、退職後もボランティアで活躍されている方々が、社会のさまざまな面をしっかりとささえています。


2005年6月26日(日曜日)

秘密の洞穴

カテゴリー: - kawamura @ 00時03分03秒

私が19歳のときに書いた「思い出」は、その内容のほとんどが創作ですが、少年が洞穴にはいってゆく場面は実際のできごとです。

小学校四年生のころ、文殊堂の建つ庄司の山肌に、ふかい洞穴があることを小耳にはさみました。それは庄司地区の少年たちだけの秘密のようで、ひそひそばなしをかわしていたのでしたが、私の地獄耳はそれを聞きのがさず、そしらぬふりをして、そのありかを、しっかりと聞きとりました。
つぎの日曜日に、ひとりで洞穴にむけて出発しました。すこし不安でしたが、それよりも恐いものみたさのような好奇心にさそわれて、山の奥へ、谷間のほそい道からさらに崖の上へと登ってゆきました。
崖の端に立つと、ふかい緑色の淵が見おろせて、谷の底から青葉の風が吹きあげてきました。崖の上から森にはいると、ときおり、間をおいて、ふくろうの鳴きごえがきこえます。深い山では昼間でもふくろうが鳴くのです。さらに森をすすむと、夜光のようなぼんやりした青いひかりのなかに、まっ黒い口をあけていたのが、秘密の洞穴の入口でした。

ここからは、「思い出」をお読みください。
いまではもうその秘密の洞穴がどこにあるのか記憶が定かではありませんけれど、もういちどあの洞穴にはいって、ひんやりとした空気を味わってみたいと思っています。

はな誌 第6号(「思い出」掲載誌)
昭和49年12月1日発行 
発行責任者 芒順子 札幌市中央区南11西6
もくじの中央に
「思い出 谷島瑶一郎」とあります。
谷島瑶一郎は、当時の私のペンネームです。
下の、著者のプロフィールのいちばん上に、
谷島瑶一郎 静かに燃えている北大生。将来性有望。」とあります。
しかし、将来性有望ではありませんでした。残念!


2005年6月22日(水曜日)

退董式(たいとうしき)

カテゴリー: - kawamura @ 07時47分47秒

晋山式は、正式には晋山結制式、といいますが、その前日におこなわれる前住職の退任式のことを、退董式とよびます。
私の菩提寺、龍燈山法昌院では平成十年十一月二十八日に前住職二十四世の退董式がおこなわれ、翌二十九日に、新住職二十五世の晋山結制式がおこなわれました。
退董式のスケジュールはつぎの通りです。

首座入寺式         午後三時
  一、僧堂鐘一会   大衆入堂
  一、住持入堂
  一、版三下     首座暫到位へ
  一、維那巡堂・打槌告報帰位
  一、知事・首座  礼三拝致語r
  一、首座入堂 大展三拝
  一、首座住持に致語r
  一、巡堂・就位 知客帰位
  一、維那告報 帰位
  一、普同三拝
  一、散 堂


2005年6月21日(火曜日)

晋山式(四)

カテゴリー: - kawamura @ 06時44分16秒

晋山式は、住職が変わるときの行事ですから、どの寺でも、数十年に一度しか行われないめずらしい儀式です。
旅の僧侶の、宿泊さきである親元の家を出てから、寺の山門までの行列は、あたらしい住職を先頭に、つぎに親元、檀家総代、といった順番で、稚児行列まで入れると数十人におよぶにぎやかな行列です。
山門に着くと、そこからは、いよいよ古式が厳しくなり、緋毛氈をひいた参道を、おおきな傘をさされたあたらしい住職が、親元とともに、寺にむかって歩くのです。


2005年6月20日(月曜日)

続々晋山式

カテゴリー: - kawamura @ 07時04分17秒

晋山式の朝は、全山が紅葉し、谷間の底を縫う道のところどころに、華やいだ笑い声がきこえます。稚児の衣裳にはしゃぐ子たち、なれない礼服にこわばった表情で会釈する大人たち、ひとびとは、晴れやかな足取りで親元の家へ向かいます。
親元の家から、新しい住職が山寺へ出発する時刻を、村人たちは待っているのです。

親元の座敷では、新しい住職と、その侍者(じしゃ)役の僧侶など数人の僧侶が、親元夫婦と古式に則った儀式を行っています。
親元の私は、紋付き羽織袴の装束で、なれない作法を無事終わらせることに汲々としています。

(これは、平成十年十一月二十九日の記録です。まだまだ続きます)


2005年6月19日(日曜日)

続晋山式

カテゴリー: - kawamura @ 17時31分28秒

行き暮れて、旅の僧侶がある村で宿を借りました。
その村の寺には、住職が不在で、葬式や法事のときには、ひとびとは隣村の僧侶に助けをもとめるしかなく、困りはてていました。
庄屋さまは、ひとなみすぐれた旅の僧侶の話を聞きつけて、邸に招いて法話に耳をかたむけます。やかて、庄屋さまはその僧侶を見込んで、山寺の住職に招き入れました。

いまでも、曹洞宗の寺が新しい住職を迎えるときには、この中世の因習にならって儀式が行われます。それが、晋山式なのです。

晋山式物語は、まだまだ続きます。


2005年6月18日(土曜日)

晋山式(しんざんしき)

カテゴリー: - kawamura @ 01時03分13秒

どこの寺にも、檀家をまとめる世話人会があります。
地区ごとの世話人たちとはべつに、位階が居士・庵主の家の中から、数人の大世話人とよばれる人たちが選ばれます。
大世話人の平均年齢はおおよそ70歳くらいでしょうか。
大世話人は、宗教法人としての寺の運営にかかわる干与者(かんよしゃ)となり、そのなかには、寺の規模に応じてですが、ひとりから三人くらいの、責任役員とよばれるものがいます。
責任役員は、ほかの法人でいえば理事にあたるもので、寺の経営に法的な責任を負います。

責任役員になる家は、ほぼ世襲のようなもので、たとえば寺院の創建にかかわった家や、遠い過去に多額の喜捨をした家などに多いようです。
近年に高額の浄財をしても、あまり選ばれることはありません。寺の歴史とのかかわりが重視されるようです。

ちなみに私は、父の死後、菩提寺法昌院の大世話人になり、45歳で責任役員となって、いまにいたります。
だれもそれを立派だとほめるはずもない純然たるボランティアで、寺と檀家の間に立って苦しむだけの、損な役まわりです。
しかし我が家の祖先、河井宗忠が法昌院を創建したので、永代院号居士として、末代まで寺の役から逃げるわけにはいきません。
寺を創建した者を開基といい、開基が招いた初代の住職を開山といいます。
つまり、私の家は開基の末裔なのです。

ところで、寺の住職が変わるときには、特別な儀式があります。
それが、晋山(しんざん)式です。

あす(6/19)の交流会資料をつくるために、きょうは、ここまでです。続編は、あすのおたのしみ、ということでお許しください。


2005年6月17日(金曜日)

防空壕

河村家屋敷の、いちばん奥の石段をのぼると、ひとつの秘密めいた区画があります。その中心には米倉がたち、さらに右手奥の、ちいさな小屋の屋根のようなものに近づいてみると、それは小屋ではなく、地中へ石段がおりていて、その下にコンクリートで固められた地中の部屋、防空壕があるのです。
(左は6月6日の写真です。今朝は草がのびてしまって、石段が見えなくなってしまいました)

おさないころ、この区画にはいると、なにか神聖な気持ちがしたものです。そこをとりまいている南沢のせせらぎが聞こえていたせいかもしれません。あるいは、樹齢三百年とも四百年ともいわれる杉や榧(かや)の木立が、霊気をただよわせていたからかもしれません。防空壕の左手には地の神様がまつられていますが、昨年の風雨にさらされて、ほとんど崩れおちてしまいました。

こんな山の奥になぜ防空壕があるのか、不思議におもわれる方もいるでしょう。
これは祖父が戦時中につくったもので、河村家の裏手にあるおおきな山、地もとのひとはそれを“たけやま”とよんでいますが、その山に、なんども爆弾が落とされたからなのです。いまはその頂上には、NHKや防衛庁のアンテナがたっていますが、当時はなにもないただのおおきな山でした。それではなぜ爆弾が落とされたのか。ここからさきは、祖母にきいた話です。

大茶園で有名な牧ノ原台地に、戦時中、大井航空隊の基地がありました。敵艦載機に、航空隊の赤トンボとよばれる複葉機が撃たれて、黒煙をはきながら、それでも大井川の河原にまで飛んでいって墜落した、という話はよくきかれます。祖母の話によると、この基地を爆撃するために飛来した敵機が、悪天候のとき、飛行場の位置を確認できず、やむをえず、ちかくのおおきな山、つまり“たけやま”に爆弾をおとして飛びさった、というのです。着弾点がすこしでもそれれば、わが家は粉微塵になっていたのかもしれません。そのために、コンクリートで固めた防空壕をつくった、というわけなのです。

先日おみえになった茂木健一郎先生は、米倉の床下から出入りする蜜蜂をみて、それが私のおさないころからそうだったと聞くと、おどろいていらっしゃいました。蜜蜂は、ときには熊ん蜂と壮絶な戦いをくりひろげて、ほとんど死滅してしまいます。しかし、数ヶ月もすると,またどこからか蜜蜂はもどってきます。そうして、数十年間、床下のちいさな穴から蜜蜂は飛びたち、谷間の花々の蜜をすって暮らしているのです。

このひそかな一区画を覆っていた裏山の巨木たちは、三年ほどまえのつむじ風で倒れてしまって、いまはあかるい陽ざしがこの神域を照らすようになりました。


2005年6月13日(月曜日)

文殊堂

カテゴリー: - kawamura @ 15時03分39秒

文殊堂は、大代川のいちばん上流にある庄司地区から、掛川の倉真川へむかう山道の途中にあります。庄司文殊トンネルをぬけて、左手のほそい坂道をのぼってゆくと、急な曲がりかどのところに、道標がたっています。
庄司文殊トンネルr
文殊堂道標
文殊堂

現在はちいさなお堂ですが、四十年ほどまえには、そうとうひろい地域で信仰をあつめていたようです。いまでは訪ねるひともたえましたが、それでもときどき、文殊堂の話が、旧金谷町内のお年寄りの口から、なつかしそうにきかれることもあります。
この文殊堂を建てた記録は、御林守河村家につたわる古文書のなかに、天保六年の「文殊堂建立施主附帳」としてのこされています。

表紙にはつぎのように書かれています。
「   天保六年
 文殊堂建立施主附帳
    未 九月吉日  」
またこの文書のなかに、
「 願主
   御林守
    河村市平 印 」
とあって、文殊堂を、御林守河村市平が願主として建立したことがわかります。
また、寄付者のなかの主なものの住所、金額、名前などを列挙してみます。

まず筆頭に、金谷本町世話人・金弐分弐朱・河村八郎左衛門(本陣柏屋)の名があり、河村一族の文殊信仰がうかがえます。ほかに、竹下村世話人・金弐分・下嶋八左衛門、金谷医王寺から金弐拾疋など、六十八件もの名をつらねていて、寄付総額は、拾七両弐分三朱ト四拾弐文におよんでいます。
また村名をあげれば、嶋村、竹下村、志戸呂村上組、同下組、横岡新田、同本田、横岡村、倉真村、東山村下、金谷宿町、同坂町、田町、上本町、金谷河原町、横町、市ヶ島、本町、倉沢村、東山上村、島田向谷、萩間村、小鮒川村、丹間村、堂山、黒又村など、広範囲にわたっています。

なぜ河村家は文殊堂をたてたのか、金谷河村一族につたわるその明白な理由については、後日の日記にしるそうとおもいます。
このように河村家は、菩提寺の法昌院、法昌院境内にある河井八幡、それより歴史のふるい安養寺、文殊堂、と地域の信仰にふかくかかわってきました。さらに、明治四十三年まで河村山のむこうにあった大宝神社についてなど、宗教にかかわることをかこうとするときりがないので、すこしずつ、分けて書いていこうとおもいます。

梅雨入り宣言をきいたとたんに、谷間の朝は、ふりそそぐ初夏の陽ざしです。


2005年6月12日(日曜日)

野球場

「御林守河村家住宅」のまえに、野球場とよばれる土地があります。
いまは造成されてすこし小高くなっていますが、昭和三十年代の水害のまえは、県道とおなじ高さのもっとひろい土地でした。水害のときのことはまた日記に書くとして、きょうは野球場とよばれる土地についてお話しします。

現在のその土地は、ま四角に造成された荒れはてた雑種地にすぎませんが、近所のひとたちがみな野球場とよぶのが、私には不思議でした。ふるい写真をさがしてみても、野球場の写真はありません。おさないころの記憶をたよりに、その土地がどのようであったかをかこうとしても、おぼろで、思いだせません。
先日、シルバー人材センターに梅の下草刈りをおねがいしたとき、はじめてその意味がわかりました。七十をこえたおじいさんにきいてみると、なつかしそうにめをほそめて、話してくれました。その土地は、ほんとうに野球場だったのです。
大代川のみなもとにある国有林は、明治時代から戦前までは天皇家の御料林、江戸時代には幕府の御林、室町時代には幕府の御鷹場でした。そのおじいさんが国有林にはたらきにきていた昭和二十年から三十年代のことのようです。河村家の近所のひとたちや、国有林で働く男たちが、お昼どきや、仕事のおわった夕暮れどきに、みんなあつまって野球の試合をしたようなのです。
バットとボールぐらいはあったのかもしれませんが、ミットはなく、おそらく素手で、力仕事でつかれはてた男たちが興じる、かずすくない娯楽のひとつだったのでしょう。おじいさんは目を輝かせて語ってくれました。
祖父小次郎おじいさんのことも、曾祖父宗平おじいさんのことも知っていました。昭和十八年になくなった宗平おじいさんを知っているということは、天皇家のものだったころにも、そのおじいさんは御料林につとめていたのでしょう。小次郎おじいさんは私が十七のときになくなりましたから、思い出がたくさんありますが、宗平おじいさんについては、父が養子だったし、母はあまり昔のことを語りませんでしたから、くわしくきいたことがありません。六月七日の日記に書いたていどの、記録にのこされたことしかしりません。これから、お年寄りのかたたちに、すこしずつ聞いていこうと思っています。
ともあれ、野球場とよばれる土地が、実際に男たちが野球に興じた土地だったと知っただけでも、私には喜びでした。

野球場の、川辺に立つ一本の山桜は、敗戦後の谷間で、鬱屈した思いをはじき飛ばすように野球に夢中になった男たちの歓声を、しずかに聞いていたのかもしれません。

中央に立つのが山桜


2005年6月9日(木曜日)

河井宗忠のこと

午後、歴史研究家の大塚勲氏が、私の仕事場にあらわれました。氏は、「焼津市史」「本川根町史」などを執筆され、元静岡大学人文学部長本多隆成教授との共著もあるかたで、島田市に数すくない本物のひとりです。私も大塚氏の論文や御著書からおおくを学びました。

以前発表した「遠江河村荘と河村氏」を大塚氏にお渡してあったので、それを読まれてのご感想と「圓通松堂禅師語録」についてなど、ひとしきりお話しになって帰られました。詳細は、氏が論文を発表するとのことですからここに書くことはできませんが、いつもその博識には驚かされます。

私が四十代の前半から約十年ほどかけて書いた「遠江河村荘と河村氏」は『金谷町史』の参考文献にもなっていて、平安末期から戦国期までの御林守河村家の歴史を考察したものです。金谷町文化財保護審議委員をつとめていたころ、町史編纂委員の、おもに静岡大学の先生がたにお読みいただいたものです。

河井宗忠論は、その拙文の重要な部分を占めていて、また宗忠は御林守河村家の祖先でもあるのです。正確にいえば、河井宗忠は、河村家の始祖河村宗心の妻、自雲妙性大姉の父にあたります。このふたりの墓は、河村家の墓地にふたつあって、それぞれの墓石の表面に、ふたりの戒名を読みとることができます。
河村家墓地。手前が、十四代河村勝弘と妻さきの墓。

先祖のふたつの墓。
手前の墓石は十四代勝弘が、集中豪雨のあと竹藪で発見したものです。
奥の墓石には右に忠学宗心居士、左に自雲妙性大姉とあり、前の墓石ではそれが左右反対になっています。

「遠江河村荘と河村氏」のなかの河井宗忠論は、おもに湯之上隆教授に御指導していただきましたから、拙文のなかのその部分だけが論文らしい体裁をなしています。河井氏の発生から明応五年に河井宗忠が戦死するまでの経緯を、おもに「圓通松堂禅師語録」に依拠して書いていたものです。

今日の河井宗忠論は、秋本太一論文の誤謬に端を発していて、それを論拠とするいくつかの論文でさらに誤認をつみかさね、増幅して、ついに現今の反今川河井宗忠論にいたったものです。掛川市奥野の長松院ご住職は、この誤説の闊歩をじつになげいておられて、私の拙文の完成をおまちになっていましたが、ついにご覧いただくことなく他界されました。河井宗忠は長松院開基でもあり、檀家には今川家家臣河井宗忠公をまつる祭事もつたえられていて、河井宗忠の御霊は、地域の信仰の核をなしています。数百年におよぶその民衆信仰を、後世のこころない誤見が破壊したのです。
歴史は、厳密にいえばどの説が正しいなどと断定できるものではなく、のちにひとつの史料が発見されるだけでも覆されます。学問の世界では、そのときはそれを正せばよい、ということなのでしょうが、民衆のいちどけがされた信仰心や誇りは、もとの純潔な状態にもどることはできません。
そんなことが、たとえ学問とはいえゆるされるのか、という思いが、私に「遠江河村荘と河村氏」を書かせたのでした。

近い将来、「遠江河村荘と河村氏」をもうすこし精度をたかめて発表しようと思っています。
御林守河村家の説明板。


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