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2009年5月2日(土曜日)

etude67

カテゴリー: - kawamura @ 08時57分10秒

文久三年(1863)、
遣仏使節団正使の池田筑後守は二十七歳、
渡仏前は攘夷論者でしたが、
一転、急進的な開国論者となって帰朝しました。

3月10日にマルセイユに着いたとき、
その壮麗な街並みを遠望して、
ただただその文明の格差に呆然とし、
使節団はみな感涙にくれたのでした。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200905/article_2.html


2009年5月1日(金曜日)

etude66

カテゴリー: - kawamura @ 08時30分34秒

こんなふうに考えています。

いままでみてきたように、
幕府はどの藩よりも
最新の西洋情報に触れていたはずです。

出島を通じて西欧情報の収集に努めていたでしょうし、
ペリーにせよプチャーチンにせよ、
直接交渉に臨み、蒸気機関車の模型を贈られて、
最初にその科学技術に目を見はったのも
幕府でした。

そういう意味で、
幕府は最も開明派であり、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200905/article_1.html


2009年4月29日(水曜日)

etude65

カテゴリー: - kawamura @ 08時16分25秒

どんでん返しが待ちうけていました。

安政七年正月二十二日(1860年2月13日)に
横浜を発ったパウアタン号は、
遣米使節団七十七名を乗せて、
ホノルル、サンフランシスコ、
パナマを経由してアスピンウォール、
ワシントン、フィラデルフィア、
ニューヨークの各都市を訪問した後、
アメリカ最大の軍艦「ナイアガラ号」に乗船して、
大西洋、インド洋を経て、
万延元年九月二十八日(1860年11月9日)に
江戸に帰港しました。

どのようなどんでん返しか、ですって?

みなさん、
つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_28.html


2009年4月28日(火曜日)

etude64

カテゴリー: - kawamura @ 08時00分44秒

攘夷、その言葉のひびきは、
日本人の琴線をここちよくふるわせる何かがあります。

ユダヤの選民思想にも似て、
内向的でひとりよがりな思想です。

神州日本の土を夷狄に踏ませてはならぬ

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_27.html


2009年4月25日(土曜日)

etude63

カテゴリー: - kawamura @ 08時09分45秒

いまのいわゆるホワイトハウスは、
当時はエグゼクティブ・マンションと呼ばれていたようですが、
幕府の遣米使節団一行は、
日米修好通商条約の批准のためにそこを訪れました。

260年の鎖国を解いた神秘の国から、
ふしぎな装いをした上品な人々があらわれたのですから、
たちまち日本ブームが湧きおこりました。

二年後の遣欧使節団のときもそうでしたが、
日本人の気品に満ちたふるまいは
欧米人に崇敬の念をいだかせたようです。

ましてやアメリカは、その当時、
ビリー・ザ・キッドの時代です。

銃が正義の西部では、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_24.html


2009年4月24日(金曜日)

etude62

カテゴリー: - kawamura @ 07時04分13秒

つまるところそれは神、と思うのです。

神がつくり給うたこの世は、
いったいどのような構造になっているのか、
彼らはその仔細を知りたいと
われらの想像を遙かに越えた知的欲求をもつのでしょうか。

真理、というものが存在していて、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_23.html


2009年4月22日(水曜日)

etude61

カテゴリー: - kawamura @ 07時42分17秒

1860年(万延元年)遣米使節団、
珍道中のつづきをご紹介します。

********************

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載61回

(『万延元年の遣米使節団』 宮永孝)
 1860年3月〜9月 世界一周して帰朝)

「わが朋友は、床につこうとしたとき、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_21.html


2009年4月21日(火曜日)

etude60

カテゴリー: - kawamura @ 08時12分49秒

吉村昭の『生麦事件』を読んでいて、
佐賀藩や薩摩藩の科学技術力におどろきました。

佐賀藩では、
ペリー来航の前から反射炉の建設をはじめているのです。

そこで、鉄製大砲や蒸気機関を造りあげるのですが、
それらは一朝一夕にできるものではなく

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_20.html


2009年4月17日(金曜日)

etude59

カテゴリー: - kawamura @ 08時25分36秒

徳川慶喜が大阪城を抜けだした理由が
ぼんやりとわかるような気がしてきました。

もちろん肯定しているわけではないのです。

ただ、
尊皇攘夷を叫んで白刃を振りまわす脱藩浪士たちと、
ロンドンの地下鉄工事現場を目撃し、
ウェストミンスター寺院、
バッキンガム宮殿を訪れた者たちとの差違は、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_17.html


2009年4月16日(木曜日)

etude58

カテゴリー: - kawamura @ 07時33分28秒

使節団の目的は、
修好通商条約の延期ということだけれど、
西欧文明の視察が
最もおおきな目的のひとつであったように思います。

開国の是非を判断するために、
夷荻の文明をひと目見ておこうというのです。

しかし文久二年といえば、
一月に坂下門外の変で老中首座安藤正信が負傷し、
四月には薩摩藩尊王攘夷派が島津久光によって粛正され、
八月には、恩賜休暇でオールコックが帰国した直後に、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_16.html


2009年4月15日(水曜日)

etude57

カテゴリー: - kawamura @ 07時14分15秒

しばらく幕末日本を離れて、
1962年(文久二年)に西欧を訪れた日本使節団を、
ヨーロッパの人々がどのように見たのか、
それを当時の新聞記事などからながめてみましょう。

月代をそり上げ、丁髷を結って、
サトウやリーズデイルが翼(wing)と呼んだ
裃(かみしも)を身につけ、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_15.html


2009年4月14日(火曜日)

etude56

カテゴリー: - kawamura @ 07時41分19秒

プチャーチンが条約締結を急いだ背景には、
クリミア戦争がありました。

英仏連合軍がロシアと戦っていたのですから、
プチャーチンにしてみれば

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_14.html


2009年4月12日(日曜日)

etude55

カテゴリー: - kawamura @ 07時48分33秒

私ゴンチャローフは、
日本の対応の緩慢さに業をにやして、
いったん上海にもどりましたが、
ひと月半ほどしてふたたび長崎に帰ってまいりました。

そして、ようやく幕府全権団と
交渉の場につくことができたのです。

私たちはそこで、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_12.html


2009年4月10日(金曜日)

etude54

カテゴリー: - kawamura @ 09時24分21秒

ペリーから順序立てて読めばよかったのでしょうけれど、
手当たりしだいに幕末訪日録を読んだものですから、
最初に読むべきゴンチャローフをいまになって読むことになって、
かえって幕府のうろたえぶりが良くわかるとは
思わぬ成果でした。

プチャーチン提督を代表として
日本に通商条約の締結をもとめにきたロシア船隊は、
長崎に入港してから三か月ものあいだ、
煮えきらぬ役人の返答にのらりくらりとかわされて、
上陸の地すらあたえられず、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_10.html


2009年4月9日(木曜日)

etude53

カテゴリー: - kawamura @ 09時35分47秒

(写真は、猫と花と梅の木オーナーさま)

ペリーとプチャーチンがあらわれときのこと、
それはどういう偶然なのか、
べつに示しあわせたわけでもないのでしょうに、
米国のペリーが嘉永六年六月三日、
ロシアのプチャーチンが七月十八日と、
わずかひと月半の差で現れたのです。

そのとき、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_9.html


2009年4月8日(水曜日)

etude52

カテゴリー: - kawamura @ 08時27分56秒

私、ゴンチャローフは、秘書官とは名ばかりで、
じつは小説家なのです。

ですから、いかに外交交渉とはいえ、
こんなにも美しい長崎の丘を前にして、
上陸を許されないなんて耐えられません。

嘉永六年(1953)七月十七日、
長崎港を望見しはじめてから、
もう一か月が経とうとしています。

しかし、
これから神秘のベールを脱ごうとするこの国は
夢みるような美しさでした。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_8.html


2009年4月7日(火曜日)

etude51

カテゴリー: - kawamura @ 08時54分28秒

私、ゴンチャローフは、
いま小笠原諸島にいます。

(エメェ・アンベールは、もうとっくに読み終わりました)

私、イワン・A・ゴンチャローフは、
嘉永六年(1853)の夏に、
ロシア提督プチャーチンの秘書官として、
フリゲート艦パルラダ号に乗船し、
香港を発った直後に見まわれたたいそうな台風を乗りこえ、
ようやく小笠原の父島に、いま着いたところなのです。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_7.html


2009年4月5日(日曜日)

etude50

カテゴリー: - kawamura @ 08時31分29秒


(写真は、昨日の梅の木オーナーさまたち)

連載50回ということで、雑感を記します。

(だれも記念してくれないから、
 妻と娘たちが誕生祝いにくれた紅白のワインの
 白のほうをグラスにそそいで、
 山の桜たちをながめながら、
 ぼんやりと来し方を思っています)

来し方、それはどのようにして始まったのかさえ
もうさだかではありません。

たしかあれは、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_5.html


2009年4月4日(土曜日)

etude49

カテゴリー: - kawamura @ 10時14分13秒

江戸時代の和算が、
ある分野では西欧を抜いていたことも事実です。

関孝和は、
ベルヌーイよりもはやくベルヌーイ数にたどりつき、
ライプニッツよりもはやく行列式の理論を構築していたのです。

関の高弟建部賢弘が、
いわゆるリチャードソン加速を発見したのは、
リチャードソンより200年も早く、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_4.html


2009年4月3日(金曜日)

etude48

カテゴリー: - kawamura @ 08時47分40秒

「鼓腹撃壌」という言葉を思いおこします。
  (日出でて作き、
   日入りて息う。
   井を鑿りて飲み、
   田を耕して食う。
   帝力我に何かあらんや)

以前慶応大学の論文を引用して、
幕末におこった一揆の様相には著しい地域格差があるということを
私たちは知っています。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_3.html


2009年4月2日(木曜日)

etude47

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分44秒

幕末に来日した欧米人の日本観は、
その立場によって見事にわかれます。

オールコック、ミットフォード、サトウ、スエンソンなど、
外交官の見た日本と、
シュリーマン、フォーチュン、アンベール、など、
民間人の見た日本とでは、
まるで異国でもあるかのようです。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_2.html


2009年4月1日(水曜日)

幽体遭遇実験

カテゴリー: - kawamura @ 05時32分31秒

いまから外出するため、
あまり時間がございません。

昨年秋に、『欧州意識学会会報』に掲載された、
友人と私との共同研究論文を転載して、日記といたします。

データやその解析結果などの章は削除いたしました。

英訳する前の生原稿を噛みくだいて、
ふたつの実験の、
「主旨」と「結果」の概要のみをご紹介しましょう。

意識の問題に興味をお持ちの方はお読み下さい。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200904/article_1.html


2009年3月30日(月曜日)

水木しげる(表紙絵)、ラバウル戦従軍兵・滝利郎 他(文)

カテゴリー: - kawamura @ 08時44分52秒


ガダルカナルの師団司令部にいた滝おじさんのもとへ、
水木しげるが配属されていたことを、
おじさんは長いあいだ知らなかったそうです。

ガ島戦ではとてもお世話になった、
と感謝の言葉を伝えるために、
終戦後のある日、突然、
水木しげるが滝おじさんのもとを訪れたのです。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_30.html


2009年3月27日(金曜日)

etude46

カテゴリー: - kawamura @ 08時11分27秒

昨夜、数人の知人と激論を交わしました。
しかしかれらはみな紳士的で、
口角泡を飛ばしても別れるときは笑顔です。

とても楽しい夜でした。

現代日本の政治や官僚制度を

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_27.html


2009年3月26日(木曜日)

etude45

カテゴリー: - kawamura @ 07時22分17秒

スイスの参議院議員であり時計業組合の会長でもある
エメェ・アンベール氏の『絵で見る幕末日本』は、
以前ご紹介したことがあります。

エメェ・アンベールは、
オールコックやアーネスト・サトウのように
外交官ではありませんが、
日本と通商条約を結ぶために首席全権として来日しました。

アンベールの本書は、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_26.html


2009年3月22日(日曜日)

etude44

カテゴリー: - kawamura @ 09時29分08秒

アーネスト・サトウは英国へ帰ってしまいました。

19歳なかばで動乱の日本を訪れ、
それから6年半の青春の日々を、
維新の志士たちとともにすごしたあと、
明治政府の成立を見とどけて帰国しました。

しかし、サトウは、
維新政府の要職につく者の名を大久保から聞きながら、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_22.html


2009年3月21日(土曜日)

etude43

カテゴリー: - kawamura @ 09時21分56秒

英国特命全権公使ハリー・パークス卿とともに、
ミットフォードだけが天皇の謁見を許されたのは、
イギリス本国で、彼が宮廷に伺候した経験があったからです。

ペリー来航以来、
諸外国の人々が交渉相手としてきたのは江戸幕府でしたが、
その幕府が瓦解すると、
かれらはいままで神秘とされていた京の都をおとずれ、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_20.html


2009年3月20日(金曜日)

etude42

カテゴリー: - kawamura @ 09時15分22秒

鳥羽伏見の戦いのあと、
備前事件、フランス水兵虐殺事件、
天皇謁見の日の朝のイギリス公使襲撃事件、
と立てつづけに血なまぐさい事件が起こります。

備前事件の射撃指揮をした滝善三郎の、切腹の様子は、
以前、他の記録から抄出いたしました。

フランス水兵虐殺事件についても、
実行犯の切腹事件を、備前事件と同じ出典から引用しましょう。

つづきはこちらへ・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_19.html


2009年3月19日(木曜日)

etude41

カテゴリー: - kawamura @ 11時54分35秒

昨日は多忙を極め、ブログをお休みしてしまいまして、
申し訳ございませんでした。

そうそう、慶喜の遁走についてでした。

260年間、上様と呼ばれ、
江戸城の奥でなかば公家化していた徳川家は、
抑圧されてきた外様大名の燃えるような野望に
とても太刀打ちできなかったと言うことです。

列藩会議という策謀にやすやすとのせられて大政奉還し、

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_18.html


2009年3月17日(火曜日)

etude40

カテゴリー: - kawamura @ 08時58分33秒

中支派遣軍第十三軍司令部参謀部に勤務していた父に、
聞いてみたいと思っていたことがあるのです。

慶喜の遁走についてです。

仏壇に手を合わせても、亡き父は答えてくれません。

ガダルカナルの師団司令部にいた焼津の滝おじさんは、
当年93歳になりますが、
大阪城から逃げ帰った慶喜をいまでも罵倒しています。

(以前にも日記に書きましたが、
 滝おじさんの「ガ島戦記」は、
 防衛省戦史室に保管されていますし、
 文藝春秋(昭和55年8月号)の、
 五味川純平「ガダルカナル」最終回にも、
 おじさんの文章が引用されています。
 
 おじさんの元を訪ねて親交を深めた作家の澤地久江さんのことや、
 山岡荘八のことも何度も聞かされました。

 というわけで、滝おじさんは単なる歴史マニアではないのです。

 部下の将兵を戦場に残して江戸に帰城した慶喜に、
 おじさんはとても手厳しいのです)

徳川慶喜の遁走、
これは日本史上の謎のひとつです。

アーネスト・サトウが、慶喜をどのようにとらえていたのか、
それを抄出してみましょう。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_17.html


2009年3月16日(月曜日)

etude39

カテゴリー: - kawamura @ 09時05分33秒

『ニコライの見た幕末日本』は、
ロシア修道士ニコライが、
25歳から33歳までの8年間日本に滞在したときの記録です。

薄い冊子なので、
アーネスト・サトウの『一外交官の見た幕末日本』を読みつつ、
ちらっとよそ見する感じで目を通したら、
ものの2時間ほどで読んでしまいました。

でも、薄い本のなかに8年間が凝縮しているとも言えるわけで、
日本文化の核心を突いた言葉が記されています。

市民革命は、なぜ日本に起こらなかったのか。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_16.html


2009年3月14日(土曜日)

etude38

カテゴリー: - kawamura @ 09時01分17秒

今日は『ニコライのみた幕末日本』から抜萃します。

25歳の青年修道士ニコライは、
1861年(文久元年)六月、函館の土を踏みます。

そのニコライに『古事記』を教えたのは、
ニコライをキリスト教や英語の師として学んだ新島襄です。

もちろんあの同志社を創立した若き日の新島襄のことです。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_14.html


2009年3月12日(木曜日)

etude37

カテゴリー: - kawamura @ 07時55分11秒

日本海側の港を視察するために
新潟を訪れたハリー・パークス卿に、
サトウは七尾まで随行します。

ハリー卿と別れて、
サトウは七尾から大阪まで陸路の旅をするのです。

以前、
幕末における一揆の論文を見つけたときに、
藩ごとにその様相が
ずいぶん違っていたのをご記憶でしょうか。

政治的な見解についても、
藩によって驚くほどちがうのです。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_12.html


2009年3月11日(水曜日)

etude36

カテゴリー: - kawamura @ 08時41分16秒

読みすすんでいた下巻が見あたらないので、
上巻から引用することにいたしましょう。

(どこかに置き忘れたのです。
 ボケがはじまったのかもしれません・・)

ところで、
これまでの幕末の開国劇は、こんなあらすじでした。

ペリー来航以来、開国を余儀なくされていた幕府は、
1614年の禁教令、
1825年の異国船打払令などとの整合性を
どのようにすりあわせてゆくべきか、その対応に窮しました。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_11.html


2009年3月10日(火曜日)

etude35

カテゴリー: - kawamura @ 08時42分01秒

アーネスト・サトウが日本を訪れたのは
19才のときでした。

言ってみれば青二才の彼が、
どれほど痛快無比の青春を送ることになったのか、
彼の幕末交友録をひもとけば歴然としています。

どれほどの秀才であったとしても、
その年齢では
本来会うことも言葉を交わすことすらできぬ日本の要人たちと、
親交を深めているのです。

かれがどれほど子供でやんちゃであったかは、
こんな一節からもうかがい知ることができます。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_10.html


2009年3月8日(日曜日)

etude34

カテゴリー: - kawamura @ 10時46分46秒

薩英戦争、下関戦争と戦って、
イギリスが日本を見る目はどのように変わったのでしょう。

戦友を殺した薩摩や長州を憎み、蔑むようになったのでしょうか。

ところがイギリスは、
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_8.html


2009年3月7日(土曜日)

etude33

カテゴリー: - kawamura @ 08時20分18秒

アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』も、
ずいぶん読みすすんでしまいました。

この記録の価値は、
若々しい英国青年の目に映った
ありのままの日本が描かれていることです。

オールコックの『大君の都』のように
大所高所からとらえた文明批評というような一面がなく、
まさに原著書のタイトル
「A DIPLOMAT IN JAPAN(日本における一外交官)」
そのものの実体験が、
抽象化されることなく描写されているのです。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200903/article_7.html


2009年2月28日(土曜日)

etude32

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分17秒

結んだ条約を正確に履行しない幕府は、
しだいにイギリスに見かぎられていきます。

大君(タイクン)、
つまり幕府に契約当事者能力がないことが
しだいにあきらかになってきたからです。

欧米諸国からすると、
契約の相手を、大君とすべきか天皇(ミカド)とすべきか、
あるいは薩摩や長州のような雄藩とすべきなのか、
おおいに逡巡するところでした。

しかしいまだ天皇のおわします京の都は遠く、
それは夷狄であるかれらには踏みいることすらできぬ
神秘の都でした。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200902/article_5.html


2009年2月27日(金曜日)

中川大臣の功績

カテゴリー: - kawamura @ 08時29分24秒

世界が日本経済の先行きに不安をおぼえたあの会見。

各国の金融責任者がG8に息をひそめてつどい、
世界が瓦解するかもしれないという瀬戸際に立たされたかれらが、
保護主義にはしりたくなる思いをおさえて、
互いをじっと見つめて、
わずかな希望の光をさぐろうとしていたあの日。

つづきはこちらへ・・・
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200902/article_4.html


2009年2月26日(木曜日)

etude31

カテゴリー: - kawamura @ 07時57分03秒

eコミ管理者の<推奨>により、ブログを下記アドレスに移転いたしました。

梅の木オーナーご希望の方は、左のボタンでお申し込み下さい。

新しいブログ
今日の記事「etude31」
http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200902/article_3.html

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます :-D


2009年2月25日(水曜日)

etude30

カテゴリー: - kawamura @ 08時55分00秒

eコミ管理者から、下記通知が届きましたので、
ブログを移転することに致しました。

eコミュニティからの通知
「2.現在、皆さんが利用しているブログは「XOOPS」(ズープス)という仕組みを使っていますが、
 この「XOOPS」利用について事務局が行っていたカスタマイズやバージョンアップ等のサポート機能は終了します」。

eコミュニティから提示された選択肢、
「4.「XOOPS」を利用したブログに替わるものとして大手ブログや地域ブログに移行することができます(推奨)」。

推奨、ということで、私はこれを選ぶことにしました。

移転先は下記の通りです。

http://ohayashimorikawamurake.at.webry.info/200902/article_2.html

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。


2009年2月21日(土曜日)

サーバー不具合により

カテゴリー: - kawamura @ 07時07分49秒

サーバーの不具合により
皆さまにご迷惑をおかけします。

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2009年2月20日(金曜日)

etude29

カテゴリー: - kawamura @ 08時22分32秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載29回

キリシタンといえばすぐに思い出されるのが
白秋の『邪宗門』です。

あの頁をひらいたとき、
そこから立ちあがる濃いブランディの馥郁たる香り、
少年の私には禁断の園と思われるような
妖しい極彩色の世界があらわれたのです。

中学二年生の秋、奥座敷の廊下に丸くなって、
日溜まりにぬくもりながら読みふけった『邪宗門』。

邪宗門秘曲     
              北原白秋

われは思ふ、末世(まつせ)の邪宗(じやしゆう)、
切支丹(きりしたん)でうすの魔法(まはふ)。

黒船(くろふね)の加比丹(かひたん)を、
紅毛(こうまう)の不可思議国(ふかしぎこく)を、
色(いろ)赤(あか)きびいどろを、
匂(にほひ)鋭(と)きあんじやべいいる、
南蛮(なんばん)の桟留縞(さんとめじま)を、
はた、阿刺吉(あらき)、珍(ちんた)の酒を。

この、あんじやべいいる、がカーネイションのことだと知ったのは
ずいぶんあとになってからのことです。

明治18年生まれの白秋でさえ、
長崎にほどちかい熊本に生まれ福岡で暮らした
その白秋にとってさえ、
キリスト教は末世の邪宗なのです。

絶対神を信じる西欧人と、
清き明き直き心をもって八百万の神々とたわむれる我ら日本人と、
そこには越えられぬ深淵が口をあけています。

絶対神、それは人間ごときが疑念を差しはさむことのできない
唯一絶対の創造者であり真理そのものなのです。

旧約聖書、新約聖書、というとき、
それは、旧い神との契約の書、新しい神との契約の書、
という意味です。

生活の深奥から契約によって成り立つキリスト教文化圏と、
絶対神や、絶対真理や、それにもとづく契約などという
おどろおどろしいものとはとんと無縁な我ら日本人にとっては、
嘘もほうべん、なのです。

真理のために不幸になるより、
嘘でも幸せのほうが良いにきまってるじゃないか、
と思う国民なのです。

むしろ、絶対神などと言うもののほうが虚構に見えてしまうのです。

私たちは、神道をもとに、
仏教をとりいれ、儒教を生活規範にしていました。

そこには、
なんだかうさん臭い絶対神などというものはいないのです。

ですから、日本人についてあまり知識を持たないオールコックが、
英国公使館襲撃事件のあと辛辣な日本人批判をはじめるのは、
やむを得ないことなのかもしれません。

********************

(『大君の都』下 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年滞日)

「日本人の悪徳の第一にこのうそという悪徳をかかげたい。

 そしてそれには、必然的に不正直な行動というものがともなう」

「絹の梱を売るときには、いつも外側にほ同じ品質の束をおき、
 中側にはきわめて巧妙に織り合わせたもっと質の悪いものをいれてある。

 樟脳の瓶には、上の方にだけ本物がいれてあって、
 そのほかは米の粉である。油桶の下半分は水である。

 契約金はすぐにかれらが自分で使うために利用され、
 臆面もなくとられてしまう」

「だますことの巧妙さと一般性にかけては、
 日本人ははるかにわれわれにまさっている、とわたしは考える。

 うそということにかんしては、そのことばの十分な意味なり、
 そのやり方が
 どの程度にまで完全なものになっているかということを知るためには、
 役人、すなわち日本の官吏と多少つき合ってみる必要がある。

 いかなる代償を払っても、愛をもってしても、金にものをいわせても、
 真実をえることができない。

 一国がこういう特徴をもちつづけているかぎりは、
 本当の進歩というものは不可能だ、とわたしは信ずる。

 真の文明とは、必然的に進歩的なものなのである」

「ある国においては、真理にたいする愛はほとんど認めがたい。

 日本はそんな国である。

 虚偽・賭博・飲酒はさかんに行なわれているし、
 盗みや詐欺もかなり行なわれており、刃傷沙汰も相当多い」

「父親が娘を売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、
 しかも法律によって罪を課されないばかりか、
 法律の認可と仲介をえているし、
 そしてなんら隣人の非難もこうむらない」

「日本では人身売買がある程度行なわれている。

 なぜなら、娘たちは、一定の期間だけではあるが、
 必要な法律的形式をふんで、売買できるからである」

「男女が乱脈に交わることが多いために、
 この偉大な根本的な法則が破られる度合に正比例して、
 この法則を犯す国民が最高の文明に到達することは
 ますます不可能になってくるのである」

********************

襲撃事件のあと、オールコックは、
まるで日本を見かぎったかのようにみえます。

しかしまあ、それもまた、
やんぬるかなということでしょうか。


2009年2月19日(木曜日)

etude28

カテゴリー: - kawamura @ 08時56分07秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載28回

江戸時代を通じて、
ただ一箇条の憲法があったとするなら、
それは、キリスト教は禁制である、ということでした。

秀吉が、キリスト教の布教について、
宣教師に尋ねたところ、
「まず宣教師がキリスト教を布教し、
 つぎに戦艦がやってきて植民地とする」
と答えたというのです。

それがキリシタン弾圧のはじまりであると伝えられています。

島原の乱を最期に、キリスト教は禁制となり、
キリシタンは磔刑にされることになりました。

(そのあたりの信徒らの内面は
 遠藤周作の諸作にえがかれています)

したがって、大名や武士たちが、
バテレンの徒である異国の者どもを刃にかけたのは、
ただ一箇条の憲法に忠実であったという証です。

さすがにオールコックはそこまで理解していました。

戦争というものの残酷な実態を知らぬ者たち、
たとえばイラクを攻撃したネオコンたちには
そういう傾向があったのかもしれませんが、
幕末であれば艦砲射撃で、
現在であれば巡航ミサイルや航空爆撃で、
簡単に敵を殲滅できると考えがちです。

それもオールコックは理解していたのですが、
港湾から艦砲射撃をして沿岸都市を破壊したところで、
その向こうには広大な土地がひろがっていて、
都市を壊滅させたあと、
最終的に国土を占領するためには、
兵士を上陸させて白兵戦を行わなければならないのです。

それは現在でもおなじことで、
国土を占領するためには、
上陸した歩兵が白兵戦によって
ひとり一人敵を倒してゆくしかないのです。

ベトナムにしかり、イラクにしかりです。

(私の父は、さきの大戦中、
 上海の十三軍司令部参謀部に勤務しており、
 前線の惨状はあまりみていないのですが、
 それでも師団参謀たちの指導などに出かけたとき、
 水路にうかぶ敵の少年兵のあどけない姿を見て、
 「戦争は絶対にしてはいけない」
 と思ったと繰りかえし語っていました)

オールコックは、
白兵戦になったときの武士と日本刀の凄さを
目の当たりにしています。

武士との白兵戦など想像したくもなかったでしょう。

しかし、英国公使館襲撃事件のあと、
オールコックの心は開戦に傾きます。

そのあたりを、抜萃します。

********************

(『大君の都』下 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年滞日)

「この国では、これらの人々に対処するために法律がつくられ、
 『太陽の照るかぎり』外国人は日本の土に触れたり、
 居住したりさせない、とはっきり宣言されているのである。

 そのとき以来、憎むべき人間を根絶することに力をかすことは、
 日本人にとってはあらゆる称賛にあたいする
 忠義で愛国的な行為となったのだ。

 現在の大君王朝の創始者である権現様(徳川家康)の施行した古い法律、
 いや閣老たちの主張するところでは
 それよりももっと以前にできたこの法律は、
 けっして廃されなかったのである。

 この法律を無効にすることができるのは、ただ天皇だけであった。

 あるいはすくなくとも天皇の承認がなければ無効にできなかった」

「閣老のいうところでは、敵意をいだいているのは、
 すべて下層の非特権階級や僧侶であり、
 大名やその縁者・家臣はこれに関係がない。

 しかし私がすでに前章で指摘したように、
 事実はまさにその反対であることは否定しえない」

「対日貿易などはなくてもよいであろう。
 
 彼らが供給している茶や絹などは、どこからでも手にいれることができる」

「しかしながら、日本との貿易はさておくとしても、
 東洋におけるわれわれの威信というものは、
 すこしも経費を要せずして艦隊や軍隊の代わりをつとめるひとつの力である」

「われわれはこの地方において、ロシア、すなわち、
 満州の沿岸地帯に急速にふえつつあるその経営地と対抗している」

「ロシアは現在、こういう軍事的優勢のようなものを
 この水域にもとめているように思われる。

 日本列島を境界とする中国と満州の海岸から
 アメリカの海岸にいたる水域一帯においてである」

「他のヨーロッパ諸国が後退すれば、
 遠からず日本がロシア帝国の一部になることはほぼ確実である」

「そして、たとえこのために紛争が生じるとしても、国民は消極的であって、
 封建諸侯のみが活発にその争いに加わるにすぎないから、
 その紛争が長引くようなことにはなりえないであろう
(革命分子が登場しないと仮定すれば、
 紛争に加わるのは封建諸侯だけだということは、
 この国の現状から予期できることだ)。

 なぜなら敵意をいだいている諸侯を打倒しさえすれば、
 他の者はおそらく和睦し、平和を乞う必要を見てとって、
 これまで日本の支配者が考えていたよりももっとわれわれのカを評価し、
 条約によるわれわれの権利を尊重し、これを遵守するようになるであろう。

 そうすれば、おそらくわれわれは平和を獲得して、
 いっさいの妨害的な制限から解放され、
 生命・財産品証されて、貿易を営むことができるかもしれない」

「大英帝国を刺激して敵対行動に駆りたてたりする代わりに、
 条約の責務を遵守することによって
 平和的な関係を維持してゆく方が賢明だということを、
 大名たちやその支持者に教えるには、
 いままでよりももっと峻厳な懲罰が必要かもしれない。

 大名たちがどんなに抵抗しようとしても、
 大英帝国はいつでもこれを粉砕することができ、
 そしてかれらが外国筋からどんな背信的な示唆をえようとも、
 大英帝国は穏当な手段で効果がないなら、大名たちを粉砕するであろう」


2009年2月18日(水曜日)

etude27

カテゴリー: - kawamura @ 08時43分23秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載27回

カフカの「城」を思わせます。

もう40年ほどまえに読んだ本ですから、
おぼろな記憶しかありませんが、
どこまで踏みいってもあやふやな返答しかえられない、
茫漠とした役所の迷宮といった印象が残っています。

まさに彼ら欧米の公使たちにとって、
江戸城はカフカの「城」のような存在だったのでしょう。

あるいは、ロシアに攻め入ったナポレオンのような
果てしない雪原をまえに立ち竦む心境だったのでしょうか。

幕府の役人たちは、彼ら公使たちに、
いかに日本の真実をつたえず、
いかに通商条約の締結をあきらめさせるかということに
腐心しているように見えました。

というより、
すくなくともオールコックはそのように感じていました。

浪人の襲撃も、民衆の暴動も、
外国人をおびえさせ開国をあきらめさせるための
幕府の戦略のようにとらえていました。

そこへ英国公使館襲撃事件が起きたのです。

事件の前には、
戦争によって開国を求めることは不可能のように判断していたのが、
この事件のあと、
戦争もやむなしと考える時期があることがわかります。

今日はオールコックが、
英国公使館襲撃事件前の幕末日本の状況を、
どのように把握していたのか、
そうしてそれにどのように対処しようとしていたのかを
ご紹介しようと思います。

しだいに日本に対して辛辣かつ高圧的な態度に変貌していくのが
よくわかります。

********************

(『大君の都』中 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年滞日)

「民衆が起こしているように見せかけた運動といったが、
 本官の経験からしてもすべての消費物資ほ一般に騰貴しており、
 これが民衆の不満の原因とされていることは本官も知っているが、
 われわれの側からすれば、
 はたして日本人にとって物価高となっているかどうかはひじょうに疑わしく、
 またたとえそうであるとしても、それは人為的な原因にもとづくものであり、
 支配階級がみずからの正しさを立証せんがために
 直接手をくだして生ぜしめたものであるような気がする。

 しかも、本官は、
 いまだに外国人にたいする民衆の悪感情や敵意の徴候を見ることができない。

 侮辱や脅迫をうけるとしても、
 それは、あくまでも両刀を帯びた者たちからであり、
 この階級からだけなのである」

「本官は、このことをつぎのような理由からして、なおのことに信じて疑わない。

 大名や政府首脳部のなかには、
 外国とのいっさいの通商は革命の萌芽を包含していると見なす者が、
 すくなくともいくらかはいる。

 そして、かれらは、このような革命の萌芽が根をおろしてはびこるくらいなら、
 いつでも西洋諸国全部と断交する危険をおかすべく待ちかまえている。

 本官は、このことを、みずからの観察をとおして確信している。

 これまでにとられてきたすべての政策の過程をたどってみるならば、
 こういった考えが閣老会議で有力であるにちがいないことがわかる。

 まず第一に、かれらは、革命的な運動は、
 かりに国家にとって最悪のことではないにしても、
 自分たちにとっては最悪のできごとだと論じるかも知れない。

 革命は、大名と官吏がすべてであって、
 人民はただその農奴か声なき存在であるにすぎないような現在の体制を
 ほうむり去るからである。

 そして第二には、西洋諸国は艦隊や武器のために偉大かつ強力ではあるが、
 日本のような国に危害を加える能力にはかぎりがあるということである。

 かりに西洋諸国が江戸その他の一、二の大都市を破壊したところで、
 主な当事者であり、かつまた反動的な運動の張本人である大名たちは、
 ことごとく内陸の堅固な自領にしりぞくことができる。

 諸外国もこの領土までは追ってこないから、
 ここでかれらは比較的安全にとどまっておることができ、
 そのうちに諸外国の方は、戦力の源泉たる本国からとおく離れているがために、
 忍耐力をつかいはたして、疲れきってしまうことであろう。

 そして最後にあげられるのは、
 かれらが国内のありとあらゆる既製の制度がくつがえり、
 かれらじしんがこれまでのたかい地位から転落し、
 そして国全体が外国貿易のために窮乏して滅亡するよりは、
 外国勢カとたたかう危険をおかした方がましだと考えていることである。

 外国貿易がはじまれば、
 かれらがみずから消費するために必要な晶にたいする需要が際限なくたかまり、
 その代わりにはただ銀だとか、
 あるいは余計なものやない方がよいようなものがえられるだけで、
 せいぜい少数の者を富ませるにすぎず、
 多くの人びとが深刻な損失をこうむるというわけである。

 これらの論は、
 あらかじめ考えられた理論によって結果を説明するびとつの方法として
 ヨーロッパ人がつくりだしたものではない。

 これらの論ほ、閣老ないし外国奉行が、
 条約履行を延期ないし回避するためのさまざまの処置について
 本官と論議をしているさいに、
 いろいろなときにすこしずつのべたものである」

「それゆえに、このような見解が横行するかぎり、
 この国の政治を支配する人びとは、外国に挑戦することによって、
 多くの利をえこそすれ、失うものはなにもないわけである。

 挑戦することに決定されるようなことがあれば、
 その第一歩が、首都とその周辺のすべての外国人の一掃にあることは、
 ほぼ確実である。

 イギリス政府に、
 本官がこの国において友好的・恒久的な通商関係を樹立するために
 現在行なっている努力からこのような綜果が生ずるということを
 確信をもって予想している、というふうに解されたくはない。

 とはいえ、われわれは、
 現にこの種の破局の脅威にさらされているのである。

 そして、われわれは、
 いつ何時実行に移されるかも知れない脅威のもとで、
 彼我の関係をつづけているのである」

「外交代表の特権としてすべての条約にとくに規定されている
 『日本国を自由に旅行する権利』は、数人の大名によって、
 しかも大君の役人の黙認をえて、
 公道のみにものの見事に限定されているということに
 気づかないわけにはゆかなかった。

 大君の結んだ条約によって樹立された実際の関係がどんなものであるかを、
 これでわたしははじめてはっきりわかったように思う。

 かれは、条約を結びはした。

 だが、天皇はけっしてその条約を批准したり、認可したりしなかった。

 したがって、
 大名たちにその条約をまもるように強制できなかったのである。

 天皇の認可のないことには、
 条約は大君の領地(開港場と江戸)以外のなにびとにたいしても、
 さらには江戸にいる大名やその家臣にたいしてさえも、
 なんの拘束力ももたないのであった。

 大名の家臣たちは、まったく大君の支配下にある地域内でさえ、
 条約によって保証されている外国人に侮辱を与えたり、傷っけたり、
 殺害したりすることをなんとも思わなかったのである。

 西洋諸国は日本とその元首にたいして条約を結んだのではなく、
 五つの港とそれに隣接する地域のみを統治している大君とだけ
 条約を結んだのである。

 日本とわれわれとの現実の関係の根底になっている
 きわめてたよりない不安定な基礎はこれだとわたしは考えたのだが、
 のちにわたしが江戸に帰ってから驚くべき事件が起こって、
 そもそも大君の権力如何という問題が論じられたときに、
 わたしのその考えが正しかったことが十分に立証されたのであった。

 外国掛閣老は、天皇が条約を批准したとはいっているが、
 今日にいたるまでこの帝国〔日本〕の
 認められた唯一の元首の認可をえていないことはほぼ確実だ、
 とわたしは思う。

 このことを考えてみると、
 大君の権限のもとにある行政府が
 優柔不断なわけがかなりよくわかるのである」


2009年2月17日(火曜日)

etude26

カテゴリー: - kawamura @ 08時05分43秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載26回

英国公使館襲撃事件に戻りましょう。

オールコックは事件のあとの惨状をみて、
日本刀の切れ味の凄さに驚いています。

たとえば、
日本刀は冑(かぶと)を断ち割ることができると聞かされていて、
刀剣を売る店先で、
「その刀で冑を割って見せてくれないか」
と頼むのですが、店主にすげなく断られ、
刀剣で冑を割ることをいぶかしく思うというくだりがありました。

日本刀が世界のどの剣よりも優れていることは確かでしょう。

ドイツの技師たちがその製法を正確に記録して再現しようとしたのですが、
似て非なる物しかできなかったといいます。

日本刀は「samurai soword」として
欧米では神格化されているようです。

私もときおり、
月あかりの座敷に端座して伝来の刀槍類をながめているときに、
備前長船の蒼い刀身に吸いこまれるようで
鳥肌が立つことがあります。

初代の国際連盟事務次長にえらばれた新渡戸稲造が
『武士道』を書いたとき、
たちまち世界的名声を得るほど、
日本の武士やsamurai swordの名は欧米にも知られていました。

東禅寺襲撃事件で、
オールコックはその凄さを目の当たりにしたのです。

彼らの理解を超える大和魂の凄みを、
ひらめく太刀筋の中にみたのです。

********************

(『大君の都』下 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

「わたしは戦場を何回も見たが、
 剣の傷でこれほど恐ろしいのは見たことがない。

 ひとりの男の頭蓋骨は、
 うしろからきれいに切りとられており、
 頭の半分は背骨まで切り落とされていた」

「この滅多切りにされた恐ろしい死体をながめて、
 われわれもこのようになるところだったのだと考え、
 さらにかれらと志を同じうする者の手にかかって、
 これからさきわれわれも
 こういう運命に会うかも知れぬと考えていたときのわたしは、
 率直にいうと、恐怖と嫌悪の交り合ったおののきを感じたものだ」

「この深夜の悲劇に加わってうろたえた人びとの証言を比較し、
 あらゆるところから事実を集めて検討してみた結果、
 陰謀とその実行の全貌がかなり明らかになった。

 その場で殺された襲撃者のひとりの死体や、
 重傷を負って生け捕りにされた者の体から書類が発見されたが、
 それには襲撃の目的が書かれてあり、一四名の者が署名していた」

「『わたしは、地位の低い者ではあるが、
 外国人のためにこの神聖な帝国がけがされるのを
 傍観していることに耐えられなかった。

 このたび、わたしは、主君の意志にもとづいて挑戦する決意を固めた。

 わたしじしんは身分のいやしい存在にすぎないので、
 諸外国に国威を輝かすようなことは不可能だ。

 しかし、わたしは、いと小さい信念といと小さい勇士としてのカをもって、
 身分が低いとはいえ、それとは(わたしじしんとは)関係なしに、
 心から国家からうけた偉大なる多くの恩恵のひとつにたいしてでも
 祖国に報いたいとねがっている。

 このことが、やがては外国人を退去させる原因となり、
 いささかなりとも天皇および政府(大君)の心を安んじる原因ともなれば、
 まことにありがたい。

 わたしじしんの生命をもかえりみず、
 ことに当たる決心をしたしだいである。』

 そしてそのつぎに、一四名の者が署名している」


2009年2月16日(月曜日)

etude25

カテゴリー: - kawamura @ 08時34分35秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載25回

私はまちがっていました。

食いつめた浪人なんかじゃなかったのです。

英国公使館を襲撃したのは、
歴とした水戸藩士を中核としていたのです。

彼らは神国日本を穢したとして、
オールコック許すまじと決起したのです。

彼らは主君に害が及ばぬように、
自ら求めて脱藩浪士となりました。

その首謀者、弱冠23才の有賀半弥が、
辞世をのこしています。

水邊菊  千世すまん水の鏡尓う徒ろひて
     ひかりをみかく露の志ら菊  

若くから文武に励み、将来を嘱望されていた有賀半弥重将は、
滞日する欧米人の横暴を憎み、
ついに東禅寺を襲い、闘死したのです。

若干、23歳でした。

神国日本の将来を、真に憂いたのです。

どちらが正しい、というような話しではありません。

当時は皆、ぎりぎりの、命懸けの日々を送っていたのです。

後世の、ぬるま湯に浸かって惚けている私に、
あれこれ批判できるたぐいの話ではないのです。

彼らはそれを正義と信じ、ついに刃に倒れたのです。

オールコックたち欧米人が、
どれほど日本人の死生観を恐れたのか、
きょうは『大君の都』からひとまずはなれて、
英国公使館襲撃事件に遅れること六年、
慶応四年(1868)におきた備前事件の結末について
引用しようと思います。

英国外交官リーズデイル卿は、
備前藩士滝善三郎の最期をこのように記しています。

*******************

(『英国外交官の見た幕末維新』A・B・ミットフォード
 英国公使館員 
 1866年〜1869年滞日)

「不安な気持ちで数分が過ぎると、
 滝善三郎が広間に入って来たが、年は三十二歳で、
 背が高く、がっしりしており、堂々とした態度で、
 特に重要な時に用いる麻の袴を着けて礼装していた。

 彼と表に介錯が一人と、役人が三人、同道してきたが、
 彼らは金の刺繍で綾取りした陣羽織を着ていた。

 介錯という言葉は、
 我々の国でいう死刑執行人とは意味が違うことに注意して欲しい。

 この役目を果たすのは、紳士でなければならない。

 たいがいの場合、それは罪人の血縁者か友人によって行われるが、
 それは犠牲者と死刑執行人という関係よりも、
 主役と脇役との関係に近いといったほうがよいかもしれない。

 この時の介錯は、滝善三郎の弟子であって、
 滝の友人たちが仲間の中から剣術の達人として選んだ男であった。   

 介錯を左手に従えて、
 滝善三郎はゆっくりと日本側の検使の前に歩み寄り、
 二人で頭を下げて礼をすると、次に外国人側へ近づき、
 同じように礼をしたが、
 よりいっそう敬意をこめて頭を下げたように見えた。

 これに対して日本側も外国人側も礼儀正しく挨拶を返した。

 ゆっくりと威儀を正して滝善三郎は高座に上り、
 高い祭壇の前で二度うやうやしくお辞儀をすると、
 祭壇に背を向けて毛髭の上に座った。

 介錯は彼の左側にうずくまった。

 付き添いの三人の役人のうちの一人が、
 寺で供物をする時に使う三方の上に
 紙に包んだ脇差をのせて前に進み出た。

 それは長さ九インチ半ばかりの日本の短刀で、
 切っ先と刃は剃刀のように鋭利であった。

 役人が滝の前で深く一礼して、これを手渡すと、
 彼は、これをうやうやしく受け取り、
 両手を頭の高さまで上げて押しいただき、
 それから自分の前に置いた。

 もう一度深くお辞儀をした後で、
 滝善三郎は悲痛な告白をしようとする人間の心情を
 裏書きするような感動とためらいに満ちた声で、
 次のように述べたが、その表情や態度には少しの乱れもなかった。

「私は独りで、正当な理由もなく、
 神戸で外国人に発砲するように命じました。
 彼らが逃げようとした時、
 もう一度同じように命令しました。
 この罪によって私は切腹いたします。

 ご臨席の皆様方には、なにとぞ、ご検証の栄を賜わりますよう、
 お願い申し上げます」

 もう一度礼をすると、
 彼は上衣を帯の所まで脱ぎ下げて腰のあたりまであらわにした。

 彼は仕来り通りに、
 後ろへ倒れないように袖を膝の下に注意深く敷き込んだ。

 それは立派な日本の武士は
 後ろに倒れて死ぬべきではないからであった。

 慎重な落ち着いた手つきで、
 彼は自分の前に置かれた短刀を手に取り、
 思いを込めた様子で愛しげにそれを見つめた。

 一瞬の間、最後の気持ちを集中させようとしているかに見えたが、
 短刀を左側の腹に深く突き差し、ゆっくりと右側へ引いた。

 そして、傷の中で刃を返すと、上向きに浅く切り上げた。

 この胸の悪くなるような痛ましい動作の間、
 彼は顔の筋肉一つ動かさなかった。

 彼は短刀を引き抜くと、
 前屈みになって首を差しのべた。

 その時初めて苦痛の表情が彼の顔をちらりと横切ったが、
 一言も発しなかった。

 彼のそばにうずくまって、
 その動作を注意深く見守っていた介錯が、
 その瞬間、すっくと立ち上がり、
 一瞬、刀を空中に構えた。

 刀がさっと閃くと、重たい物が落ちるどさっという嫌な音がした。

 一太刀で首は体から切り落とされたのである。

 その後、死のような沈黙が続いたが、
 わずかにそれを破るものは、
 目の前の死体からどくどく流れる血潮の不気味な音だけであった。

 ほんの一瞬前までは、それは勇敢で、義侠的な男だったのである。

 本当に恐ろしいことだった。

 介錯は深く一礼すると、
 用意していた紙で刀を拭い、高座から下りた。

 血に汚れた短刀は切腹の血塗られた証拠として
 うやうやしく運び去られた。

 天皇の代理の二人の役人は、自分たちの席を離れて広間を横切り、
 外国人側の証人席へ来ると、
 滝善三郎の死刑の執行が忠実に実行されたことを
 よく見届けて欲しいと声を掛けた。

 儀式はそれで終わり、我々は寺を後にした。

 私が後で聞いた話だが、滝善三郎は広間へ入る前に、
 寺に来ていた藩の者を、
 その中の多くは彼の命令で発砲した者だったが、
 周りに呼び集めて、短い挨拶の言葉を述べたということである。

 その中で彼は、自分の犯した罪が重大であり、
 受けた判決は正当であると認め、
 彼らに二度と外国人を襲撃しないように
 重々しく警告を与えたとのことである。

 彼らに政府の役人からも同様に話があり、
 同僚が処刑されたことに対して
 外国人に決して悪意を持ってはならないという注意があった。

 それに答えて彼らは、
 決してそのような感情を抱いていないと言明した」


2009年2月15日(日曜日)

etude24

カテゴリー: - kawamura @ 07時59分40秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載24回

それは260年眠っていた侍の血が騒ぎはじめたとでもいうような、
幕末の不穏な様相でした。

信長のころにはじまる兵農分離が生みだした武士階級は、
260年にわたる安穏な治世で、すっかり官僚化していました。

そうして、
江戸時代初期の米を基準にした制度が、
貨幣経済の浸透によってしだいにくずされ、
階級間の垣根はおおよそ形骸化して、
幕末にいたっては武士が富裕な町人にあこがれるほどで、
大名のほとんどは破産状態でした。

貨幣経済が江戸時代の封建制度を破壊したのです。

そこへ黒船が到来したのです。

商人の取り立てにおびえながら暮らしていた幕末の武士たちの、
鬱屈していた血が、騒ぎはじめました。

傘を張りながら暮らしていた浪人たちが、
死に場所をえたといってもいいでしょう。

おそらく訪日者の記録にたしかなように、
農民町人は豊かで平穏な暮らしをしていたのでしょう。

武士たちこそが、時代の閉塞感に圧死しかけていたのです。

彼ら武士たちにとっては、
尊皇であれ佐幕であれ、攘夷であれ、
腰に携えた武士の魂を活かす、好機の到来ととらえたのかもしれません。

それとは知らず、
ただ開国通商を求めて訪日した欧米の外交官にとっては、
まことに無惨な血の季節がきたのです。

文久元年五月二十八日のことです。

********************

(『大君の都』下 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

「たしかにその夜ほ、
 わたしは危険のことなどすこしも考えずに横になった。
 いつも召し使いがわたし化粧台の上に置いておく習慣になっていた
 連発ピストルのはいった二つの箱も閉めたままで、
 そのひとつはカギがかかったままになっていたほどだ。

 いつもは不意に備えて、まくらの下に連発ピストルを置いてねるのが
 わたしの習慣だったのである。

 わたしが疲れてぐつすりねむっていたところへ、
 ひとりの若い通訳見習い生がやってきた。

 かれに与えられた仕事は、毎晩最後に主として火事の予防のために
 邸内を一巡し、召し使いが寝につき、
 火を消してあるかどうかをたしかめることであった。

 この見習いが暗いちょうちんをもってわたしの寝台のそばにきて、
 わたしを起こし、
 公使館が襲撃され暴徒〔水戸の浪士十四名〕が
 門内に押し入っていると報告した。

 わたしは起き上がったが半信半疑であった。

 護衛の者が馬小屋の世話をする別当〔馬丁〕がばくちでもやっているか、
 それとも酔っぱらってけんかでもしているのだろうとわたしは信じた。

 だが箱から連発ピストルをとり出し、
 その場にゆこうとして入り口の方へ五歩も歩かないうちに、
 突然オリファント氏が血まみれになって現われた。

 腕にぱっくり開いた傷口と首の傷から血が流れていた。

 と思うまもなく、こんどは長崎駐在領事のモリソン氏が、
 やられたと叫びながら現れた。

 ひたいの刀傷から血が流れていた。

 もちろんわたしは、かれらを襲った連中が追跡してくるものと思い、
 発砲して阻止する身構えをしてしばらくじっとしていた。

 その間に負傷した人びとほ奥のわたしの寝室にはいっていった。

 このときに武装していたのは、わたしだけだった。

 モリソン氏はまだ弾丸を三発あましていたが、
 傷のために目が見えず気がとおくなっていた。

 驚いたことにだれも追ってこなかった。

 わたしの周囲に集まってきた人びとのうちのひとりが、
 わたしのもう一方の箱を開けてピストルをとり出したが、
 他の二人はなにももっていなかった。

 オリファント氏は、最初の警報を耳にするや、
 いそいでテーブルの上の狩猟用の重いむちをとり、
 自分の部屋から通じている廊下で、
 襲撃してくる男たちにそのむちだけで立ち向かったのである。

 実際へまず護衛の者が、
 そして家をとり巻く一五〇名の連中〔護衛〕は、
 だれひとりとしてわれわれを助けにやってこようとはしなかったのだ。

 オリファント氏の出血がひどかったので、
 わたしはピストルを置いて、
 わたしのハンカチでかれの腕の傷をしばらねばならなかった。

 こうしているあいだに、つぎの部屋でひとしきり物を打つ音がした。

 徒党のうちの何人かが明らかに恐ろしい物音をたてて、
 庭に面しているガラス戸から押し入っていたのだ。

 しかるに役人や護衛はだれひとりとして
 この音に気がつかぬようであった」

********************

明日もまた、英国公使館襲撃事件を連載します。


2009年2月14日(土曜日)

etude23

カテゴリー: - kawamura @ 07時32分00秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載23回

万延元年(1861)といえば、桜田門外の変があった年で、
英国特命全権公使オールコックのまわりにも、
血なまぐさい風が吹きはじめました。

サー・ラザフォード・オールコックは
もとは英国の医師でしたが、
故あって初代駐日総領事(のちに特命全権公使)として
安政六年(1959)から文久二年(1962)まで在日し、
恩賜休暇でいったん帰国して、
元治元年(1864)に再来日、
一年ほど滞在します。

『大君の都』は、
幕末争乱期のまっただ中に着任したイギリス外交官の、
なまなましい記録です。

文久二年といえば、
御林守河村家の「箱枕」の表書きにその年号が記されています。

曾祖父河村宗平は安政三年の生まれですから、
その年にはすでに六歳になっています。

文久三年の春に
新撰組の前身である「壬生浪士組」が結成され、
やがて京都に血の雨が降ることは、
みなさんご承知のところです。

ちなみに、その浪士たちの取締役として、
幕府講武所師範中条金之助が任じられています。

話はすこしそれますが、
中条は幕府直参旗本で勝海舟とも交流があり、
じっさい中条金之助景昭(かげあき)の葬儀委員長は
勝海舟がつとめています。

私の祖父、河村小次郎は、
中条の子、克太郎景明(かげあきら)から剣術の指南をうけて、
飛龍剣龍車刀剣の免許の証を授かっています。

そのとき、中条克太郎から拝領した鉄扇には、
「中条君へ」として、
「敵をただ 撃つと思うな身をまもれ 自ずからなる 賤ヶ屋の月」
という山岡鉄舟の歌が刻まれています。

あの、官軍並み居るなかを
「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」
と悠々と西郷に談判を求めた傑人山岡鉄太郎のことです。

中条とともに牧ノ原開墾方に副隊長として参加した元幕府直参旗本
大草高重の孫が、私の叔母です。

オールコックの『大君の都』が
どうも御林守河村家の歴史とも重なりはじめて、
いよいよ京の夜に白刃が舞う文久元治がおとずれました。

********************

(『大君の都』中 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

「ヒュースケン氏が、つい先ごろ同氏を埋葬した川の土手を
 数百ヤードすすんだところで、
 道はアメリカ公使館〔善福寺〕のある民家の密集した地域を
 数本のせまい道と交差していた。

 二、三本の道が交差しているところへさしかかって間もなく、
 夜のしじまを破って凶暴な叫び声が起こり、
 待ち伏せていた六、七名の一団が隠れ場所から、
 抜き身の刀をひっさげておどりだしてきた。

 かれらは、二手に別れ、主カはヒユースケン氏をおそい、
 もう一方は刀のひらで役人ののっている馬をなぐりつけ、
 ほとんど立ち去れと命令するいとまもなしに追い払った。

 うしろからついてきた二名の役人も、
 それと同じようなすばやさで、別の方向へと姿を消した。

 他方、このように見捨てられたヒユースケン氏は、
 馬に拍車をあてて、
 両側から猛然とおそいかかる襲撃者たちのあいだを
 駆けぬけようと努力した。

 かれは、狩猟用のむちをもっているだけであった。

 しかし、かりに刺客の襲撃にたいして
 もっと十分な用意をしていたところで、
 このとつぜんさとか夜の暗さから考えると、
 はたして連発ピストルをつかえたかどうかは疑わしい。

 どうやらかれは、
 そのときには重傷を負わされたことに気づかないで、
 刺客たちの囲みを破ることができたらしい。

 そして、数百歩ばかり馬を走らせることができたが、
 そのときになってひどい手傷を負っていることに気がつき、
 すこし前方にまだ姿が見えていた馬丁を呼んで、
 馬からおりようとして地面に落ちたのであった。

 かれは、腹部を恐ろしく切り裂かれ、
 傷口からは内臓がでかかっており、
 その他にも軽い突き傷や切り傷をいくらかうけていた。

 かれはまったく見捨てられて、血の海のなかでのたうちつつ、
 正確にはどのくらいの時間かわからぬが、
 その場に倒れていた。

 暗殺者たちがあとを追ってこなかったところをみると、
 かれらは首尾よくことをなしとげたことに満足したらしい。

 一方、大君の紋章をもっていた勇敢な護衛はどうかというと、
 ながいことたってから、
 やっと助太刀をつれてもどってきた。

 かれは、公使館にかえってから、
 ほんの一、二時間しか生きていなかった」


2009年2月13日(金曜日)

etude22

カテゴリー: - kawamura @ 07時50分04秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載22回

仮説。

それはこういうことです。

戦後私たちが教えられえつづけた江戸時代の歴史、
「江戸時代の民衆は圧制に苦しみ、
 苛酷な税金をとり立てられて窮乏していた」
とする歴史観は、
このような過程で捏造されたのではないかということです。

幕藩体制から見れば、尊皇をとなえる外様大名たちの施政を、
つまり敵対勢力の藩政を、
欧米からの訪日者に褒めるはずはなく、
いままで見てきたいくつかの幕末訪日録のなかでも、
幕府の役人たちは、
「封建領主の圧政のもとで、民衆は苦しんでいる」
と欧米の公使たちにつたえました。

それは半ば信じられ、
そのまま欧米の新聞などに報じられたことも確かです。

ご承知のように、
薩摩や土佐のように太平洋に面して、
古来から外国との交易のさかんであった外様藩は、
幕末においても、
良きにつけ悪しきにつけ諸外国と接触をもちました。

オールコックが恩賜休暇で帰国し、
代理公使ジョン・ニールが着任してまもなく、
生麦事件が起きました。

つづいて薩英戦争が勃発し、
その後、薩摩とイギリスは急接近します。

このあたりからが、なんだかあやしいのです。

これはまだ未読なので確かなことは申し上げられませんが、
おそらく、こうなのではないかと思うのです。

つまり、
薩摩とイギリスは幕府を倒すために
力を合わせることになるのですが、
そのとき、
倒幕の大義が必要なはずで、
そのひとつとして、
「幕藩体制の民衆は圧政に苦しんでいた」
としたのではないかということです。

これは、幕府の役人が口をそろえて公言することでもあるし、
倒幕の御旗としてはとても都合のいいもので、
明治維新の必然性を支える強固な理由のひとつとして、
かれらは利用したのではないのでしょうか。

もちろん薩摩はそれを言い立てるでしょう。

私が知りたいのは、薩摩に味方する
イギリスがそれを流布させたのかどうかということです。

当時、すでに自国に強力なメディアを有していたイギリスで、
「江戸時代の民衆は圧制に苦しみ、
 苛酷な税金をとり立てられて窮乏していた」
とする虚言を、
政治的な意図をもってメディアに流したかどうかということです。

日本にはそのような新聞・雑誌は存在しませんでしたから、
明治維新後に幕末の記録を求めようとすると、
どうしても欧米からの訪日者の記録や
幕末期の諸外国の新聞などにたよるしかありません。

そこに、
もしも明治維新を正当化するためのひとつの理由として、
「江戸時代の民衆は圧制に苦しみ、
 苛酷な税金をとり立てられて窮乏していた」
とする虚言が、
あたかも真実であるかのように記録されているとすれば、
それが、
捏造された近世史観の根源であったと考えたのです。

私が、仮説、と申し上げたのはそういうことなのです。

薩英戦争のあと、
オールコックの言説は倒幕へ向けて変化するのか、
アーネスト・サトウは、
平和な民衆の現実と、
圧政に苦しんでいたとする虚言とを、
どのようにとらえて記録しているのか、
そうしてそれらは倒幕のための政治的策謀をにおわせているのか、
それを知りたいのです。

(ところで、あまりの私の暴走ぶりに、
 日々の読者数が半減しておりますけれど、
 それでも愛読して下さっている皆さまには、
 心から感謝申し上げるとともに、
 いましばらくのご辛抱をお願い申し上げます。
 
 また現実へ還ってまいります)


2009年2月12日(木曜日)

etude21

カテゴリー: - kawamura @ 08時01分53秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載21回

江戸時代の民衆は
「圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏していた」
とする虚偽の歴史観は、
どのようにして捏造されたのかを調べようと思います。

昨日は、
突然開国した日本市場から大量の産品が輸出されると
価格の急騰をまねきかねないとして、
幕閣みずから
「日本国民は窮乏生活を余儀なくされている」と流布した、
ことをご紹介しました。

しかしその嘘は、オールコックの旅によって、
民衆の活き活きとした姿に接することで
かんたんに覆されたのでした。

今日は、
欧米人が虚偽の言説を流布した例にふれます。

********************
(『大君の都』中 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

「冬の到来によって登山が不可能になる寸前に、
 ほんのわずかの晴天を利用して
『無二の』山(富士山)を訪れることに成功したのであった」

「わたしは神奈川から、つぎのようなことを聞いた。

 同地が台風に襲われたさいに、
 その台風はあらしの国の神聖な領域を汚した外国人にたいする
 神々の怒りのしるしだ
 といううわさがひろまったとのことである。

 しかしわたしには、
 このうわさは外国人が考え出したものであるかも知れない
 という気がしないでもない。

 というわけは、かの神聖な山への旅行中にも、
 また同地の寺院の僧侶といっしょにいたときにも、
 厳重な警戒のそぷりとか、
 われわれの旅行を不法侵入や神聖の冒漬だと見なすような気配は
 すこしもみとめられなかったからだ。

 とにかくわたしは、
 この種の感情が日本人のあいだに存在していたとは信じ難い。

 事実これと同じような仕方である者がホープ提督に、
 イギリス公使が東海道を旅行した結果、
 その道は神聖を冒潰されたがゆえに
 いちどつぶしてつくりなおす必要があるとの理由で、
 大君はそこをとおって天皇を訪問することが
 できなくなったと語ったことがある。

 わたしはこの問題について日本人に若干質問してみたが、
 そのような報告を裏づける法とか慣習とか伝説の存在を
 肯定する者はひとりもいなかった。

 のちに森山〔通訳〕がわたしといっしょにイギリスへきたときに、
 それがまったく外国人の考え出したものであって、
 あまりにもたやすく信じられて
 提督の派遣に具体化されたということをたしかめた」

「このころ、わたしは、イギリスの大衆が
 日本にかんしてあたえられているような情報についての、
 ひとつのおもしろい例に出くわした。

 それは、『タイムズ』紙の記事からの抜粋で、
 どうやらアメリカから伝わったものらしかったが、
 『タイムズ』ならではの流布ぶりを見せていた。

 『通商貿易の関係者や官吏や上層階級の者は、
 外国との交わりを奨励しているが、
 大衆は以前よりもつよい反対をしめし、
 外国貿易が食料品の価格を騰貴させていると苦情をのぺている』
 というわけだ。

 この記事のおもしろい点は、
 それがまったくの誤りであるばかりか、
 まさにその正反対だということである。

 物価が上がっていること、
 およぴそれがわれわれのせいにされていることは
 閣老たちからよく聞いている。

 だが、一般の人びとがこういう考えをもっている
 ということをしめすたしかな証拠はない。

 そして、大衆と接したかぎりでは、
 かれらはすこしも悪意を見せてはいないし、
 それどころか、
 すすんで貿易を行ないたい
 という気持ちを見せていることは確実だ。
 
 敵意とか制限といったふうに思われるものはすぺて、
 外国貿易を奨助している
 唯一の人びととして称賛されている官吏や上層階級からでているのだ。

 ロンドンの新聞の特派員たちは、
 概して博識で信頼するに足る。

 だが、その情報扱がアメリカだったり、
 へんぴな地域で発行されている地方新聞であったりするばあいには、
 とかくわれわれの主要な新聞がひろめている記事の
 ばかばかしさないし不正確さには限度がないようだ」

「ひじょうな専制や圧制があるのかも知れないが、
 住民からはそのような印象をうけない。

 すくなくとも苛酷な税金のとり立てや赤貧に
 苦しんでいるようには見えない」

「しかし、このような進歩は、
 基本的な変革が行なわれないかぎりは、
 すなわち、国民と支配者とのあいだに現存している
 すべての制度と関係を変える一大動乱が生じないかぎりは、
 とうてい達成しえないであろうということは
 確実であるように思われる」

********************

この最後の一文に秘められた深甚な意味は、
数年後にその全貌をあらわにするのです。

「民衆は、圧制に苦しみ、
 苛酷な税金をとり立てられて窮乏していた」
とする虚偽の歴史観が捏造されてゆくことについて、
私はひとつの仮説を立てようと思っています。

それを立証するためには、
さらに、すくなくとも数十冊の本を読みこまなければなりません。

しかし、おそらくその仮説は立証されるだろうと思います。

その仮説については、しだいに明らかにしてゆきます。


2009年2月11日(水曜日)

梅にさそわれたニャン

カテゴリー: - kawamura @ 09時42分44秒

梅下の猫にゃん


2009年2月10日(火曜日)

etude20

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分58秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載20回

江戸時代の民衆は
「圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏していた」
とする虚偽の歴史観は、
どのようにして捏造されたのかを調べようと思います。

その可能性のひとつとして、
突然開放された日本市場から大量の産品が輸出されると
国内価格の暴騰をまねきかねないと憂慮して、
幕閣みずから、
日本国民が窮乏生活を余儀なくされている
と流布したのかもしれないということがあります。

しかしその嘘は、先入観のないオールコックの眼によって、
またたく間に暴かれてゆきます。

民衆が溌剌として生活を謳歌している姿を、
目の当たりにするのです。

それを裏づける数箇所を、抄出しましょう。

再掲の一節もあります。

********************
(『大君の都』中 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

「開港後最初の一カ年間に通商の面で実際に達成されたことにかんしていうと、
 日本は中国製品と競争して、
 有利に本国市場へもたらすことができるような品質と価格の茶と絹を供給しうる
 ということがはっきり確認された。

 かなり上質の絹の一部は、中国の最上の産物よりも高く売れて、
 一ポンド四シリングであった」

「『外国貿易の急激な需要のために生じたあらゆる物価の高騰によって、
 国内は不安定な状態にある』という閣老たちのつね日ごろの主張には
 はたしてなんらかの根拠があるのかどうかということを
 自分じしんでたしかめたいとねがっていたのだ」

「それにわたしは、かねがね、
 脅迫的なことばや身ぶりで外国人をおどしてすべての進歩をさまたげる
 この恐るぺき害悪についていろいろのことを聞かさ れていたから、
 以前からあたえられているその害悪の存在をしめす証拠よりも
 もっと具体的な証拠を追求する発見の旅にのり出すぺきだということを
 痛感していたのである」

「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し坤吟させられている抑圧については、
 かねてから多くのことを聞いている。

 だがこれらのよく耕作された谷間を横切って、
 ひじょうなゆたかさのなかで家庭を営んでいる
 幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見てみると、これが圧制に苦しみ、
 苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。

 むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、
 またこれほど温和で贈り物の豊富な風土は
 どこにもないという印象をいだかざるをえなかった」

********************

このように閣老の流す虚言が、
民衆の姿をその目で確かめたことのない欧米人の耳に入れば、
それは事実となって流布される可能性があるのです。

その部分を、明日、論じましょう。

どのようにして、
「圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している民衆」
という虚偽の歴史観が捏造されてゆくのかを確かめたいのです。


2009年2月9日(月曜日)

etude19

カテゴリー: - kawamura @ 09時35分04秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載19回

********************
(『大君の都』中 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

「終わりにあたって、
 わたしは宮殿のなかで見たすべてのものの
 秩序と礼儀の正しさに心を打たれたといいたい。

 接見の場の事物は秩序整然としているし、
 装置の一般的な簡素さはほかに例がない。

 部屋や回廊にはすこしも家具がおかれていない
 −−日本の貴族は、かれの農奴ないし臣下と同じく、
例のごとくかかとのうえにすわって、
畳からわずか数インチの高さの脚付きの小さな漆器の盛り皿で食事をし、
また頭ぐらいの大きさの漆器か木製の枕で床の畳のうえに寝る。

 かれらが祖先のスパルタ的な簡素さを保ち、
 米と魚の同じょうな質素な料理に甘んじて、
 かれらの富を吸収したり元気を奪うような外国のぜいたく晶を
 必要としないということを本当によろこんでいるのではあるまいか」

「はじめの口実は、国内が不安定な状態にあるとか、
 政府の所在地である首都からそんなに遠く離れて旅行するのは危険だ
 とかいうことであった」

「だが、わたしとしては、とくに
『外国貿易の急激な需要のために生じたあらゆる物価の高騰によって、
 国内は不安定な状態にある』という閣老たちのつね日ごろの主張には
 はたしてなんらかの根拠があるのかどうかということを
 自分じしんでたしかめたいとねがっていたのだ。

 新たな外国関係の開始や古い隔離と孤立の政策からの逸脱にともなう
 興奮や外国人にたいする敵意がはたして政治の中心地から離れたところに
 存在しているかどうかということを判断しうる機会を
 えたいと望んでいたのだ。

 これは、国内をぶらぶら旅行しているあいだに、
 個人的に観察してこそなしとげることができるのだ」

「台所は、「台所の内部」という絵からもわかるように、
 家のなかでもっともよく設備のととのった部屋で、
 ごく自然なありとあらゆる付属品を装備している」

「主な部屋にはそれぞれひとつずつ、
 ときには二つか三つずつ浴室がついており、
 各部屋にはかならずあらゆる種類の便利な備品がそなえつけられている
 イギリスでは、正直なところ、
 一般に浴室そのものはひじょうに不足していて、
 このように清潔な模範的浴室はめったに見られない。
 
 これらの点にかんしては、
 日本人はヨーロッパ人に教訓をあたえる立場にある」

「われわれの一行のような外国人の騎馬行列がはいってくるということは、
 われわれが通過したすべての町にとって
 大きなできごとであったろうことは確実だ。

 事実、このようなことは前代未聞であったであろう。

 道路ぞいの村々や、もっと大きな町々でも、
 たいていは妄一本長くてはてしがないように見える道路からなりたっているので、
 われわれが近づいてきたという知らせがまるで電報を打って知らせたかのように
 速やかに誤りなくひろがって、
 全住民がいっせいにショックをうけたかのようにとび出してきた」

「わたしは、かれらが動揺する体や興奮した頭の密集した大きなかたまり
 −近づけば近づくほど恐ろしく大勢いるー
 のあいだに通路を開いてゆくそのやり方にいささか好奇心をいだいた。

 しかしながら、わたしの案内者たちはすこしもまごつくことなく、
 最先端の列の数歩以内にくると扇をひとふりして
『シタニリヨ〔下におろう〕」(びざまずけ)
 という命令を一言発した。
 
 そのとたんに、魔法にでもかかったかのように幅の広い通路が開かれて、
 頭という頭はみな下にさがり、
 体はおどろくばかりにそれ々れのもち主の
 足と膝のうしろにかくれてしまうのである」

「われわれがここ一両日のあいだに
 海抜六〇〇〇フィートの箱根山脈のふもとまでとおってきた道路は、
 他に比類ないほど美しかった。

 一般に、一連の肥沃な平野や渓谷を縫って
 なめらかな砂利を敷いたりっばな並木道がつづいている。

 その両側のキビ類・ソバ類・コメなどは豊作を約束されるできばえであった」

「ヨーロッパ人の日本人の政治と文明についての感想は、
 この土地を一歩一歩足でふみしめるごとにつよまってくる。

 この土地は、土壌と気候の面で珍しいほど恵まれており、
 その国民の満足そうな性格と簡素な習慣の面でひじょうに幸福でありつつ、
 成文化されない法律と無責任な支配者によって奇妙に統治されている。

 わたしは「成文化されない」といったが、その理由は、
 閣老たちはわたしに成文の法典があるとはいうものの、
 わたしはいままでいちどもその写しを手にしたことがないし、
 それにかれらがわたしを誤解させていないかぎりは、
 それはいまだかつて印刷されたことがないからだ。

 成文法、法律ないし法律家のない国で
 ひじょうに進歩した文明をもっているのは異常であるように思われる」

「入浴民族である日本人は、入浴するためにひじょうに遠くの方からやってくる。

 実際に、さきにのぺる機会があった浴場は、
 日本におけるひとつの重要な施設である。

 それは、ローマ人における浴場、フランス人におけるカフェのようなもので、
 堂々たる娯楽場である。

 日中の終わりに、日没後の数時間内に、夏の夕方に江戸の市街をとおってみると、
 一〇〇歩ゆくごとに浴場を見かける」

「湯にほいれないほど貧乏な者はひとりもおらず、
 すくなくともこのぜいたくがえられないほど悲惨な者もいない」

「民族のある体質的な特徴は、ある道徳的な特徴とともに、
 世代から世代へ伝えられる。

 日本人のばあいにもこの例外ではなくて、
 うそをつくその性癖はなにか最初の体質が完全に身についてしまったに相違ない。

 それでもなおその上に、
 日本人ほその性質のなかになにか上品で善良なものの痕跡を多くとどめている」

「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し坤吟させられている抑圧については、
 かねてから多くのことを聞いている。

 だがこれらのよく耕作された谷間を横切って、
 ひじょうなゆたかさのなかで家庭を営んでいる
 幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見てみると、これが圧制に苦しみ、
 苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。

 むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、
 またこれほど温和で贈り物の豊富な風土は
 どこにもないという印象をいだかざるをえなかった」

********************

いったいどこから
「圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している民衆」
という歴史観が生まれたのでしょう。

今まで数冊の幕末訪日録を概観したところでは、
まったくその正反対の印象しか受けませんでした。

なぜこんなことになってしまったのでしょう。

どのようにして、虚偽の歴史が創作されてゆくのか、
それを知りたいと思います。

肥沃な土地はよく耕され、農民は健康で、なによりも明るく、清潔に暮らしている。

これは、先入観のない何人もの西洋人が、その眼で確かめた事実です。


2009年2月8日(日曜日)

etude18

カテゴリー: - kawamura @ 08時30分34秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載18回

********************
(『大君の都』中 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

「他方、わらぷきの家の入り口のうえには、フジの木が、
 あくことのない欲望をいだいて、その遠大な腕をひろげ、
 春ともなれば紫色の花の豪華な房でおおわれる。
 
 小さな村落や農家が絵のように美しい一種の混沌のうちに点在している。

 それらは概して谷間や丘のふもとの木立ちのなかにある。

 そこには、スギ、タケ、シュロなどがはえており、
 いささかスイスの羊飼いの山小屋に似ていないこともない住居に
 東洋的な特徴をつけ加えている」

「日本の当局者たちは、外国の官吏たちに、
 賃金や産物が高いことをなっとくさせようと努力したのだが、
 そんなことはありえない。

 すくなくとも、それらが豊富に、あるいは十分にある証拠が、
 いたるところに見かけられる。

 破損している小屋や農家は、ほとんど見うけられない−
 これは、あらゆる物が朽ちつつある中国と愉快な対照をなしているー
 公共建築物や個人の住居も同様であるが、
 とくに前者のばあいにこのことがよくあてはまる。

 男や女は、このころともなれば衣類を身にまとうようになり、
 十分かつ心地よげに衣類を着ている。

 子供たちでさえも、衣類を身につけている」

「かれらはきっときれい好きな国民であるにちがいない。

 このことは、われわれがどんなことをいい、
 あるいはどんなことを考えても、かれらの偉大な長所だと思う。

 住民のあいだには、ぜいたくにふけるとか
 富を誇示するような余裕はほとんどないとしても、
 飢餓や窮乏の徴侯は見うけられない。

 かれらの生活の習慣は、明らかに、きわめて単純だ」

「畳を敷いただけの、大きすぎることもない、概して清潔な部屋」

「歳入が何万石という単位ではかられる大名から、
 その日暮らしの生活をしている小売り商人や農民にいたる人びとの、
 設備の十分ととのった家の全家具を見てみたまえ。

 これは、もっと富裕な人びとの持ち物のすべてであり、
 もっと貧しい人びとも、これ以上を必要としない」

「かれらの全生活におよんでいるように思える
 このスパルタ的な習慣の簡素さのなかには、
 称賛すべきなにものかがある。

 そして、かれらはそれをみずから誇っている。

 魚と米は、飲料である茶と酒とともに主要な食料品である。

 農民は、一日の労働を終えると、
 いつも熱い風呂にはいるというぜいたくさと、
 さらにもっとぜいたくな洗髪とマッサージを期待することができる。

 洗髪とマッサージは、
 理髪師ないし一晩中客をもとめて笛を吹きながら歩き回っている
 盲人の専門家〔あんま師〕にたよらなくても、
 妻の助力でいつも確実にしてもらうことができる」

「そしてこれらのことは、
 互いに見せかけのもてなしや道具などで他人に勝とうどするようなむだな努力
 ー互いにすぐれた知恵と文明を誇る国同士のあいだでは、
 うらやまれるその所有者にとって、
 幸福であるよりもかえって多くのみじめさの源泉であれ、
 またしばしば破滅をもたらすような競争−
 をしてねたみ合わなくてもよいようにしていると考えられる」

「日本の社会的順位では、百姓、すなわち農民は第二位を占めている」

「中国におけると同様に、日本においても農業は大いに尊重されている。

 そして、あらゆる方法で農業を奨励するのが支配者たちの政策である。

 大名たちの歳入はすべてコメの石数ではかられる」

「地主、すなわち政府の役人たちは、毎年、
 生産量が地代その他の租税額にもっとも近づいたときに査定する。

 生産量が大であれば、それだけ歳入も大となる。

 もし生産量が足りなければ、この調整法によって、
 地主はその六分の一をうけとるだけで、
 耕作者と同じように被害をこうむるわけだ」

********************

起きて半畳、寝て一畳、
私たちはそのような人生観を根底にもっています。

蒸気機関をもたず、産業革命を経なかったからというだけでなく、
私たちの倫理観のどこかに、
必要以上の物への執着を蔑むところがあるように思います。

物欲からはなれて、
高潔清廉な精神生活を送ることにあこがれ、
物質文明より、
気高い精神文化を尊重する国民性のように思うのです。

古来の神道の精神、清明心に通じるているのでしょうか。

西洋では結婚しようと思うと
高価な家具などをそろえなければならないから、
なかなか結婚することができないけれど、
日本では、
布団と卓袱台と食器と鍋釜さえあれば結婚できる、
それがとてもうらやましい、
という記述が幕末訪日録のなかで随所に見られます。

欧米は、物や金への執着が過ぎるように思います。

それは強さであり、
しかしなにかが怖ろしいほど欠落した弱点であるようにも思います。

キリストを生み、ギリシャに帰り、神は死んだといい、
そして太陽の眩しさに人を殺すという不条理にまで迷いこんだ彼らは、
流浪の民となり果てたのです。

金融危機もしかり。

ITを手にしてさらに燃え上がった金銭へのあくなき欲求が、
またたくまに地球を滅ぼしました。

我らから見れば、なんともあさましい姿です。

とくに米国の、尊大で無礼な態度は、
長い歴史のはてにもたらされる謙虚さという果実を、
いちども味わったことのない哀れさを感じます。


2009年2月7日(土曜日)

科挙

カテゴリー: - kawamura @ 08時25分36秒

「中国は古代において、煌びやかな近代であった」
というふうな言葉をどこかで聞きました。

その後の中国は、
アジア的停頓とよばれる長い歴史の澱みにおちいるのです。

それはなぜなのか。

昨夜、久しぶりに教え子の裁判官殿と飲んだときに、
科挙の弊について教えられたのです。

それには出典があるようですが、
書名はあとからメールで教えてくれることになっています。

科挙がどうもその原因ではないのか、というのです。

隋末期の598年に生まれた科挙の制は、
清朝末期の1905年までつづきます。

どの制度も最初はそうなのですが、
科挙も当初は華々しい成果を上げました。

しかしひとつの制度が1000年以上も続くと、
その弊害があらわになってきます。

つまり現実を軽視し、
詩文に優れることのみを偏重したために、
欧米列強が科学力を背景にして押し寄せてきたとき、
なすすべがなかったのです。

中国全土の俊才が、
皆詩文に長けることを目差したがゆえに、
科学技術や経済を尊重する気風を失ったというのです。

これはとてもわかりやすい説明で、
確かにそうかもしれないと思わせるものがあります。

明治以降の日本も、
高等文官試験としてその制度を取り入れ、
いまでもそれは国家一種試験として残っています。

あくまでも文官に偏重した制度で、
技官はどうしてもその下におかれます。

この科学技術の時代にそれはなかろうと思うのですが、
そのままです。

つまり、優れた理系の頭脳も、
いまもなお科挙の制の延長にいる日本では、
文官のほうがより高位高官を目差せるものですから、
文系に志望変更するというわけです。

幕末の訪日記録を読むと、
欧米の清朝を蔑視すること甚だしいものがあります。

詩文には優れていても、
清朝官僚は科学や実務に無知で、
欧米の科学技術力の前に、またたく間に国は簒奪され、
かれらの蚕食に身をまかせることとなったのです。

現代日本の官僚も、
同じ轍を踏まなければいいのですが。


2009年2月5日(木曜日)

etude17

カテゴリー: - kawamura @ 08時45分07秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載17回

********************
(『大君の都』上 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

「ながいあいだの孤立のために、
地球上の人類という大家族のなかのこの一家〔日本人〕は、
 かれら特有のものだと主張するに足るだけの
 理由があるような発達をなしとげてきた。

 日本人の外面生活・法律・習慣・制度などはすべて、
 一種独特のものであって、
 いつもはっきりと認めうる特色をもっている。

 中国風でもなければヨーロッパ的でもないし、
 またその様式は純粋にアジア的ともいえない。

 日本人はむしろ、
 ヨーロッパとアジアをつなぐ鎖の役をしていた
 古代世界のギリシア人のように見える。

 かれらのもっともすぐれた性質のある点では、
 ヨーロッパ、民族とアジア民族のいずれにもおとらぬ位置に
 おかれることを要求するだけのものをもっているのだが、
 両民族のもっとも悪い特質をも不思議にあわせもっている」

「過去何代となくただ君臨しているにすぎない称号だけの君主と、
 ただ統治するだけで君臨しない帝国の代理者というこの二重の機構は、
 たしかにびじょうに奇妙なものである。

 これがながいあいだ継続されてきた結果、
 世界の他のどこにもこれまでけっしてないような二重組織を生み、
 これが生活のほとんどあらゆるこまかい点にまでゆきわたって行なわれている。

 どの役職も二重になっている。

 各人がお互いに見張り役であり、見張り合っている。

 全行政機構が複数制であるばかりでなく、
 完全に是認されたマキヤヴュリズムの原則にもとづいて、
 人を牽制し、また反対に牽制されるという制度のもっとも入念な体制が、
 当地ではこまかな点についても精密かつ完全に発達している」

「現王朝の偉大な創始者である権現様〔徳川家康〕のおきてでは、
 大君の領内に外国人を住まわせる者は、
 だれでも大逆罪のかどで死刑に処せられるし、
 またその存在によって日本の神聖な土地をあえてけがそうとする
 いまわしい人種を殺して根絶するようにと、忠良なる臣民に命じている。

 たしかにこの法律は、廃止されたことはいちどもなく、
 それによれば、われわれはこの国では法律上の保護をうけぬ存在である。

 したがって、だれでもわれわれを殺すことができ、
 殺したあかつきには帝国が制定した法のびとつにょって、
 自分が正しいことを主張できる。

 多くの貴族や家臣が、
 みずからが憎悪している外国人と隣を接して住人でいるのである。

 これは奇妙な事態だ。

 そういう事態からは、殺人と屠殺以外のなにが生じょうか。

 外国人と武装階級の相対的な地位を変えなければならぬか、
 それともわれわれが首都を捨てて、
 現行の条約にょってさだめられた地位とは
 まったく異なった地位をこの国でうけいれるか、
 そのいずれかでなければならないことはまったく明らかである」

************************

ご承知のように、
13世紀末の中国からの侵略、元寇は、神風によって救われました。

つぎに16世紀、
ポルトガル・スペインの植民地時代に、
フランシスコ・ザビエルが訪れました。

かれら宣教師は、
侵略の先兵として送りこまれたという記述が諸所に散見されます。

しかしかれらにとって運の悪いことに、当時の日本は戦国時代で、
日本国民がもっとも好戦的な時代でした。

1600年の関ヶ原の兵力総数は、30万人ともいわれています。

1815年にヨーロッパの命運を決したワーテルローの戦いが、
兵力総数15万人といわれますから、
2世紀も前の日本の兵力数は膨大なものであることがわかります。

ザビエルたちは、ちょうどそのころ、
キリスト教の布教に訪れたのです。

その国にキリスト教が広まり、その国民が宣教師たちを受けいれたころ、
通商を求めるという名目で、巨大な戦艦が入港してくるのです。

しかし、きわめて優秀で、
名誉のためには進んで命を捨てる日本国民とは、
決して戦ってはならないとザビエルは故国に手紙を送りました。

そして、長い鎖国の時代がはじまり、やがて幕末をむかえたというわけです。

オールコックは、
江戸時代以前の、日本への侵略の歴史はあまり知らないようです。


2009年2月4日(水曜日)

etude16

カテゴリー: - kawamura @ 08時18分41秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載16回

********************
(『大君の都』上 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

「日本が世界にたいして門戸を固く閉じて動かず、
 わずかに長崎でオランダ人と中国人とにたいして小さな裏門だけを開けておいて、
 それらの国人はこの裏門から細々と物々交換的貿易を行なうことが許されていたとき、
 地球の反対側では大きな変化が起きつつあった。

 それを発明した当の中国では、
 一〇〇〇年ものあいだ実を結ばなかった三つのもの−印刷術・羅針儀・火薬−は、
 三世紀もたたぬうちに全ヨーロッパを変革し、
 新たに発見した大陸に一大帝国〔アメリカ合衆国〕を創設するに十分だった。

 最後に、今世紀になって蒸気と電気が現われて、
 長年の課題をたった一世代のうちに達成し、時間と空間を縮小し、
 広い海洋のうえにも軌道をつくって、ひじょうに遠い国々をも接近させたのであった。

 自負と孤立的存在というアジアの夢につつまれた中国と日本は、
 このような大変化を知らなかったか、それともそれに関心をいだかなかった。

 ところが、ついにこの両国が相ついで幾分乱暴にも眠りからさまされてみると、
 その沿岸には蒸気船からなる海軍が迫り、
 また全ヨーロッパはただちに入国させることを要求してその門を乱打していたのであった。

 中国は抵抗し、そしてむりに押しあけられた。

(略)

 日本は中国よりも賢明で、
 ヨーロッパと東洋の相対的地位を完全に変えてしまった諸変化を、
 中国よりもよく理解し、
 評価することができたと信ずべき理由があるように思われる。

 それは、ひとつには、
 目の前に現われる事実の真の意義を中国人よりもすばやく、
 また適応性をもってとらえたことにもあるようだが、
 同時にそれは、かれらがオランダ人との関係を保っていたことにもよることが大であろう。

 海をへだてた世界において実際に起こっていることについて
 信頼すべき消息をうることのできる門戸がこのように開かれていたのである」

********************

江戸時代、
長崎の港にひらかれた西洋への小さな窓、出島から、
蘭学とよばれるおもにオランダの学説をとりいれ、
新井白石、杉田玄白、平賀源内などを輩出したことは
よく知られるところです。

西洋の蒸気船が日本の門戸をたたいたとき、
すでに日本ではニュートン力学も研究され、
1796年には「蘭和辞典」刊行されていたのです。

窓が小さいがゆえに、
よけいに知的好奇心をそそったのかもしれません。

夷狄を忌避する伝統と裏腹に、
怖いもの見たさにもにた好奇心で、
西洋の学術文化を学んだのかもしれません。

いずれにせよ、オールコックは、
それが日本と中国を分けた大きな要因であろうというのです。

(このように、西洋の成功は偉大なイスラム文明のたまものであることを、
 彼らはおくびにも出しません)

しかしそれは、
西洋中心の思い上がった見解にすぎません。

西洋を学んだからというのではなく、
日本人本来の優秀さが、植民地化を防いだのです。

それは、押し寄せる西洋諸国との条約交渉の経緯をみれば
明らかなことです。


2009年2月3日(火曜日)

etude15

カテゴリー: - kawamura @ 07時53分35秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載15回

********************
(『大君の都』上 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

「書物は国民の趣味の写本だ、といわれているが、
 それはまんざら聞達ったことではない。
 とすれば、さらにそれ以上に、
 ひとつの国語は国民性を正しく写し出す鏡だ、
 と考えることができよう。

 特別に興味のある問題は、
 日本では象形文字の言語を借用しているということと、
 後世に音声表記法が発生したが、これを採用しても、
 象形文字の言語を廃することはなかったということである。
 周知のごとく、日本人は
(多くの点から見て根本的に異なっている)近隣の国民から、
 征服による圧迫もないのに、その全道徳・倫理体系とともに、
 国語と文学を、かれらじしんのものとして採用した。

 それでいて、受容した文明に張り合う文明と、
 はっきりした国民性と、
 力強く発達した独立の精神とをもっている。

 こういう国民は、日本人だけだ。

 このことは、文法書の序文にものべておいたが、
 否定すべからざる事実であったように思える。

 中国と日本の関係は、しばしば敵対的であり、
 またこの両国民のあいだには融合への歩みよりがなかったにもかかわらず、
 日本人はいまは知られていない遠い昔に、
 たしかに中国人の文字を採用したのである。

 ずっとあとになって、日本人じしんが音声表記法を考案した。

 これは、四七文字のアルファベットからなり、
 一定のアクセントをそれにつけ加えることによって、
 日本語のすぺての音を伝達するに十分なものである。

 そしてこれが、今日にいたるまで、
 およそ八世紀にわたって、一般に用いられてきた。

 しかるに日本人は、
 けっして中国人から採用した象形文字の言語を捨て去りはしなかった。

 したがって、この二つの言語と二つの書き方が、
 今日にいたるまで相並んで存在しているのである。

 たしかに日本人は、なんでも二つずつというのを好むようだ。

 二元的原理が人間の組織のなかにはいり、
 全自然に浸透しているのをわれわれは知っているが、
 日本の特質のなかには、この二元的なものが、
 どこよりもひときわ念入りに進歩しているようだ。

 ある博学な医者が主張するように、
 われわれが外見上二つの目と耳をもっていると同じく、
 頭のなかには二つの完全な頭脳がはいっていて、
 そのおのおのが両者を合わせた機能のすべてを果たし、
 また独立したいくつもの思考さえ同時に営むことができる
 ということが真実だとすれば、
 日本人の頭脳の二重性はあらゆる種類の複合体を生み、
 政治的・社会的・知的な全生活のなかにゆきわたり
 これらをいわば二重化する方法を
 生み出してきたと見なすことができるであろう」

********************

日本民族や文化の特性を、
二重性という観点から説明しているのはとても興味深いことです。

ましてや、現代の「右脳・左脳」理論を先取りしているかのような
一節にも驚かされます。


2009年2月2日(月曜日)

etude14

カテゴリー: - kawamura @ 08時09分01秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載14回

********************
(『大君の都』上 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

『日本は、多くの点で風変わりな国であって、
 その習慣や制度は、すでにのべたように、
 ヨーロッパはおろか、
 世界の他のいかなる地方のそれともまったくちがう。

 日本人は、
 地球上の三大地方に住んでいるすべての国民のうちで第一級に属し、
 ヨーロッパ人と比較されるにあたいする国民である。

 日本人は、多くの点でヨーロッパ人に負けてはいるものの、
 他のさまざまな点では正々堂々とかれらを追い抜いている。
 
 実際には、他の国々と同様に、この国にも、
 有用であると同時に有害な制度があり、
 合理的であると同時に不合理な制度がある。

 とはいえ、国民性をかたちづくっている堅実さ、
 法の執行とか公務の運営をつらぬいている不変性、
 有用なことを行ない、
 押しすすめてゆこうとするこの国民のたゆまざる努力、
 その他同じような性質の数多くのことを称賛せざるをえない』

『ひじょうに多数の国民が、かくも熱心に、かくも普遍的に
(ひとつもそれに反する例外なしに)、
 かれらの祖国を、政府を、お互い同士を、
 愛しているということ
 ー事実上国全体が閉鎖されてしまって、
 許可なくしては住民はだれも出国できず、
 外国人はだれも入国できないようになっていることー
 かれらの法律が何千年(何百年か)ものあいだ
 なんら変更されることなくつづいており、
 しかも正義が公平ないし平等に行なわれていることー
 政府は、容赦したり、あるいは他の慈悲の行為をなすために、
 専制的になったり、法を犯したりしてはならないということー
 君主とその全臣下は、いずれも特定の国民服を着用することー
 海外の流行をとりいれたり、国内で新しい流行を発明したりしないことー
 過去何世紀ものあいだ外国と戦争をしなかったことー
 ひじょうに多くの宗派が平和裏に協調し合って共存していること−
 飢えや貧困をほとんど知らぬか、
 あるいはすくなくともまれにしか知らぬということ−
 これらのことがらはすべてありえないようであるし、
 また多くの人びとにとっては、
 本当であればあるほど不可能であるように
 思われるにちがいなかろうが、
 とにかく最大限の注目にあたいする』

「たしかに、
 日本人ならびにその政府にかんするこの観察によって示された
 驚くべき状態についての目録全体のなかで、
 ヨーロッパ人がもっとも驚嘆するのは、最後の二つであるはずだ。

 それは、
 ひじょうに多くの宗派が協調し合って共存しているということと、
 イギリス本国(大ブリテン、アイルランド)よりも大きくはなく、
 しかもそれと大体同じょうな地理的位置にある一群の島々に住んでいる
 約三〇〇〇万の国民が、
 飢えと欠乏をほとんど知らぬということ、である。

 イギリスにおける状態よりもうらやましい
 このような状態を現出しているところは、ほかにはありそうにない」

***********************

『』の部分は、スェーデンの医師、トゥーンベリの文章を、
オールコックが引用しているものです。

私の性分として、オールコックの次は、
トゥーンベリの原文にあたりたいと思うのです。

本来は、スェーデン語で読むべきでしょうけれど、
そうしなければ微妙なニュアンスは伝わらないのでしょうけれども、
それはまったく無理なことですので、
翻訳本をさがしてみようと思います。

なぜなら、往々にして、
引用されなかった部分に真実が隠されているからです。

歴史は、そのようにして、
記述者の意向にそうようにして作られてゆくものだからです。

私も、それに最大限の注意を払いながら、
自らの歴史観を作り上げてゆきたいと願っているのです。

名著『逝きし世の面影』からこぼれおちた真実の落ち穂を、
ひとつひとつ拾いあげたいのです。


2009年1月31日(土曜日)

『一度も植民地になったことがない日本』2

カテゴリー: - kawamura @ 07時52分55秒

今日はちょっと忙しいので、
引用文だけにします。

********************

『一度も植民地になったことがない日本』デュラン・れい子

○日本人の清潔に驚いたバテレンたち

安土桃山時代、
はるばる日本に来航した
スペインやポルトガルのバテレン(宣教師)たちのことは、
よく知られている。

彼らはヨーロッパの珍しいものを多数持参し、
織田信長などの興味を引いたが、
彼らの真の目的はキリスト教布教とともに
母国の領土を拡大することだった。

つまり彼らは
我が日本をもフィリピンやマカオ同様、
植民地にしようとしていたのだ。

このことに興味を示す日本人が少ないのはなぜだろう。

だから信長に続く日本の為政者たちが
キリスト教を恐れたのは正しい判断だったと思う。

もしキリスト教布教を認めたら、
日本はスペインかポルトガルの植民地になっていたに違いない。
                          、
ローマ法王の名において
政治が動かされていたヨーロッパに比べ、
そのころの日本はすでに政教分離がなされており、
格段に進んでいたのである。

そのうえ、
日本に上陸したバテレンたちが驚いたのは、
日本人の清潔さであったという。

バテレンたちはアジアの端の端に、
今まで征服してきたアジア、アフリカ諸国とはまったく違う、
大文明国を発見したというわけだ。

そのころのヨーロッパは不衛生極まりなかった。

このあとの17世紀に建てられた、
今でも壮麗なヴェルサイユ宮殿でさえトイレは少なく、
華やかなイメージで語られる
マリー・アントワネットやポンパドゥール夫人も、
おまるで用を足し、
それは宮殿のまわりにぶちまけられていたという。

体臭をカバーするために香水が発達し、
優雅に結い上げたヘアスタイルの中は
シラミやダニでいっぱいだったと聞けば、
日本人なら誰でもあきれてしまう。

通りは窓や戸口から投げ捨てられた汚物やゴミであふれ、
ドブネズミが走りまわっていたのだからペストが流行ったのも当然。

はたして今のヨーロッパを見ると、
酒落たメイン・ストリートに犬の糞が落ちているのも、
不衛生民族のなごりではないかと思ってしまう。

バテレンたちが
日本人の清潔好きにカルチャーショックを受けたことは
容易に想像できる。

そのころのイエズス会のリーダーは、
部下の宣教師たちに
「日本人と会うときは風呂に入り、体を清潔にしろ」
と厳しく命じたという。

「そのころだって、汚れた体で体臭の臭う宣教師たちの話など
 聞きたいとは思わなかったろうな」
と想像して、ニヤニヤしてしまう私なのだ。

もう一度申し上げます。

当時の日本は、ヨーロッパ以上の文化を誇る国だったのです。

それゆえ布教を名目に
アフリカ、アジアで植民地拡大を進めていたスペイン、ポルトガルも、

日本だけは植民地にすることができなかったのではないだろうか。

********************


2009年1月30日(金曜日)

隠されてきた文明9

カテゴリー: - kawamura @ 08時23分23秒

インディー・ジョーンズを観るよりたのしかった。

いままで、
闇黒の時代と思っていた世界史の闇の底から、
突然、
金銀宝玉に彩られたイスラム文明が燦然と浮かびあがってきたのですから。

心の底から、痺れるような楽しさでした。

学ぶってことは、ホントに楽しい。

きっかけは、蒸気機関。

オールコックの『大君の都』を読んでいた時のことでした。

****************

「・・・湾の対岸にオランダ士官の監督下にある日本の汽罐工場
(一八五六年(安政二年)に建設された幕府の長崎海軍伝習所の付属工場で、
 三菱長崎造船所の前身)があることだ。

 日本人とオランダ人とがいっしょになって、あらゆる困難にもめげずに、
 地球上のこのへんぴな一隅で、
 蒸気機関の修繕と究極的にはその製造のために、
 あらゆる複雑な方法と応用とを創造せんと努力しているのである。
 (略) 
 各種の作業場を見てみると、
 なにからなにまではじめからつくりださねばならなかったことがわかる」

「この仕事は、何カ月間も多額の費用を注ぎこんで、
 しかるのちにある種の有形の結果を見るまでは
 とてもそれが価値のある企業であることを理解しえなかったような仕事であったが、
 すこしも日本人の抵抗にあわなかった。

 だが、それから一年もたたないうちに、
 大きな旋盤工場は完全に活動するにいたり、
 良家の子弟もふくむ日本人労働者たちが、蒸気機関用の全部品を製造している。

 そのほかに、浸油調節用ランプなどを製造していることもわかった。

 鍛冶工場にいたってはそれ以上である。

 そこでは、ナズミスのハンマー
〔イギリスの技術者ナズミスが一八三九年に発明した蒸気ハンマー〕
 によって工作が整然と行なわれ、
 損傷を修理するためのあらゆる必需品が製造されている。

 これこそは、日本人の進取の気象と器用さを示すずばぬけたこの上ない証拠であって、
 かつてこれらのことを企てた中国人を断然ひきはなしている。

 わたしは、かつては蒸気船ないし蒸気機関を見るだけであった日本人が、
 こんどはかれらじしんの手で
 管式ボイラーつきの蒸気機関をつくりだしたことを指摘しておきたい」

「アメリカの著述家は、
 不本意ながら日本人が当然うけるにあたいする名誉を
 かれら(米国)に与えざるをえないというような態度で、
 労働者たちは合衆国の蒸気艦シシッピー号を見たに相違ない
 ということをほのめかしている。

 だが、これは明らかにかれの誤りである。

 実際には、アメリカその他の蒸気船が
 日本近海に出没するずっと以前から計画されていた」

*******************

この一節にふれて、そこからイスラムへの旅がはじまったのです。

もちろん、すぐにイスラム文明に遭遇したのではなく、
蒸気機関からワット、ワットからヘロンの蒸気機関、アレクサンドリア、
そこからアラビアへ向かったように記憶しています。

とても楽しい旅でした。

まだ、二冊のイスラム本を、
もちろん『大君の都』と並行して読む予定です。

これから、ふたたびetudeシリーズへ戻って行きますが、
なんだかとても名残惜しいのです。

イスラム文化については、
高校のころに勉強した程度の知識しか
もちあわせていなかったものですから、
月面に古代遺跡が発掘されたとでもいうような驚きでした。

9.11をリアルタイムで見たとき、
なんて野蛮な奴らだ、なんて未開の奴らだ、
と憤慨しきりでしたが、
今回のイスラム本への旅を回想してみると、
すこし趣が違ってみえるようになりました。

イスラムにはイスラムの誇りがあったのです。

もちろん、9.11は野蛮な行為であり、
許されるものではありません。

しかし我らが、
幕末以来植えつけられた西洋崇拝の固定観念から、
一方的にイスラムを敵視し、
蔑視するのは過ちであることを知りました。

7世紀から、
西洋がルネッサンスに目覚めるまでの1000年の長きにわたって、
イスラムは世界最高の文明を誇っていたのです。

やがて彼らはイスラム教に内在する桎梏ゆえに、
政治も文明もともに衰えてゆきます。

しかしなんといっても、
1000年の間、彼らは世界文明の旗手でした。

その誇りがあるのです。

それを理解せずして、
我らがイスラムの石油を欲しいままにしているとしたら、
それは自らを恥ずべきです。

ちょうど我らが、
建国して100年にも満たぬ米国とのあいだに、
屈辱的な親和条約を結び、
彼らに睥睨されざるをえなかった幕末のことを思うのです。

私たちの日本文化は、その900年前の平安時代に、
『源氏物語』を生みだしているのです。

歯がみした武士たちの心情がわかります。

おそらく、
イラクでガムを吐き捨てているアメリカ兵に、
イラク国民がいだく心情に通底するものでしょう。

極論すれば、
欧米の力は、神を恐れぬ科学の力です。

(つづく)


2009年1月29日(木曜日)

隠されてきた文明8

カテゴリー: - kawamura @ 09時26分12秒

『科学で読むイスラム文化』ハワード・R・ターナーの
最後の2章から<>で引用しつつ、
科学と文明の関わりについて考えてみようと思います。

エジプト、メソポタミア、インド、ギリシャ、ローマ、ヘレニズム、
などの文明の正当の継承者として
イスラム文明がそれをさらに発展させたことは
すでに見てきたところです。

古代の文明は、実践や実験によらず、
純粋な思考によって観念や理論をうちたてるという
思弁哲学に依拠していました。

たとえば、ギリシャ時代に、
すでに原子という概念は考え出されていました。

しかしそれはあくまでも観念的なもので、
おそらくそうであろうというものにすぎませんでした。

その思想はイスラムに引き継がれ、
8世紀のイブン・ハイヤーンや、
9世紀のアル・ラージーによって
実験科学への下地が敷かれました

やがてヨーロッパ科学者たちの実験によって、
最終的にドルトンの原子説が生みだされたのは
18世紀のことです。

<実験という技法の意義の十全な認識は、おそらく、
 科学の歴史においてもっとも革命的進歩であるに違いない>

このように、
ギリシャの思弁哲学から近代西洋の実験科学へいたる過程に、
イスラム文化が大きく寄与していたことを忘れてはなりません。

天文学についても、
古代文明からイスラムがそれを引き継ぎ、
膨大な記録をのこしながらも、
やがて占星術へ傾いていったことは
くやまれるところです。

しかし西洋ルネッサンスがそれを引き継ぎ、
コペルニクスやケプラー、
そしてニュートンを生みだすまでには、
じつに15〜17世紀まで待たねばなりません。

古代の占星術から
ニュートンが古典物理学の扉をあけるまでには、
数世紀を要したのです。

ルネッサンスとは古代文化の復興・再生を意味していますが、
これは長い間教会によって抑圧されてきた民衆の活力が、
キリスト以前の自由な精神にふれて復活するということです。

端的に言えば<理性と信仰を分離>するということです。

<一六世紀から二〇世紀に至る世界の科学の枠組みは、
 合理的な規制にもとづいた探究と実証というプロセスが
 大多数の人々によって認知されているという意味合いからすれば、
 信仰からの分離の度合いを強めているということができよう>

20世紀をむかえると
量子力学と相対性理論が誕生して
科学はあらたな地平をひらきます。

つまり、
原子よりもさらに小さな粒子についての理論が打ちたてられたのです。

ギリシャの思弁哲学は観念の産物であり、
イスラムの実験は目に見える物質世界にとどまり、
近代西洋の実験科学は目に見えない原子の存在にまで到達し、
現代科学は原子の内部エネルギーを取り出すことまで成功するのです。

このように、それぞれの時代を画するあらたなパラダイムは
長い準備期間の末に獲得しうるのだと知りました。

西洋がギリシャ・ローマからガリレオ・ガリレイを生みだすまで、
じつは、イスラム文化がそれを引き継ぎ発展させていたのでした。

(今日はちょっと忙しいので、ここまでにします。
 あわてて書いてます。
 あすも、もうちょっと、イスラムです)


2009年1月28日(水曜日)

隠されてきた文明7

カテゴリー: - kawamura @ 10時00分19秒

そうそう、
もとはといえば政治の話でした。

党首会談。

絶望的な日本政治の貧しさを見て、
どうして日本には民主主義が根づかないのか、
それを知ろうと、
幕末日本探訪記を読み解くことで
260年つづいた江戸時代の生の姿を調べ、
そこから日本政治復活のヒントを
探ろうとしたのでした。

江戸幕府は、
どうして動揺し瓦解したのか。

科学の力、
どうもそれが西洋文明の
覇道の源泉のように思えました。

蒸気機関、それは産業革命を背後で動かす
原動力でした。

西洋がどうして、蒸気機関を持ち得たのか、
それを知りたくて、
ついにイスラムへ旅立つことになったのです。

もちろん、オールコックの『大君の都』を忘れてはいません。

イスラムへの旅が終われば、必ずそこへ帰ってまいります。

じつは、イスラム礼賛にも少し疲れてまいりましたので、
現在引用している『科学で読むイスラム文化』は
明日で終わりにいたします。

明日は、
文明の変遷と科学のパラダイムシフトについて
考えてみようと思います。

********************

『科学で読むイスラム文化』ハワード・R・ターナー

○自然科学

「数学と天文学の原理は、
 その大半が、西の遺産であれ、東の遺産であれ、
 イスラム以前の「古代社会」から継承されたものであって、
 それは、ひとたびイスラム世界に導入されると、
 特定の時間と場所においておこなわれる
 宗教的な実践に必要とされるデータの獲得にすぐさま利用された」

「だが、一〇世紀以降、イスラムの科学的な努力の特質には変化が生まれる。
 「古代の」科学と「宗教的な」科学の間、
 つまり、ヘレニズム的な探究と思索のアプローチと、
 正統派イスラムのそれとの間の境界線は、
 対立の度合いを弱めてさほど目立たなくなったのだ」

「「人々に水を与えることは、もっとも尊いおこないである」
 と預言者ムハンマドは人々に語ったと伝えられているのだが、
 これは、イスラム世界をもっとも簡潔に表現した言葉の一つであるに違いない。
 
 イスラム教徒は、
 アルキメデスをはじめとする水力学の専門家たちが
 すでに達成していた発見を導きの糸とし、
 とりわけ、メソポタミアとエジプトにおいて水車を大幅に改良し、
 固定した地下水面をもった井戸を掘る技術を修得し、
 精妙な潅漑システムを作りあげた」

○錬金術

「錬金術に関する膨大な文献は、
 西洋ではゲベルとして知られている八世紀のバグダッドの伝説的な錬金術師
 ジャービル・イブン・ハイヤーンが著したものだと考えられている」

「九世紀の偉大な医師だったアル・ラージーは、
 錬金術と深いかかわりをもっていたのだが、彼の著作は、
 彼が、この分野におけるいかなる実務家よりも、
 たんなる理論や魔術とは対極にある
 実験という手段による証明を好んだことを明らかにしている。

 彼は、蒸留、
 焼
(物質を溶融温度以下で加熱して揮発性物質を追出したり酸化したりすること)、
 結晶化、蒸発、濾過といった基本的な錬金術的なプロセスによって
 正確な結果を手にすることができた。

 彼は、実験室で使用する器具や容器を改良、洗練したのだが、
 そうした努力によって
 蒸留器、ビーカー、フラスコ、漏斗、炉などは、
 今日、私たちが使用しているものに近づいたのである。

 アル・ラージーは、鉱物などの物質の体系的な分類、
 実験室で人工的に作りだした物質と
 彼が自然であると判断した物質の類別において
 ジャービルを凌駕している。

 彼の錬金術は、最終的には、その方向性を変えて
 化学に向かっていたものと思われる

「近代的な化学のための舞台を設定する上で大きな役割を果たしたのは、
 こうした進歩だったのである」

○光学

「イスラム世界の歴史におけるもっとも独創的な、また、
 もっとも重要な科学的な発見がなされたのは、
 光学という分野にほかならない」

「イスラム教徒による
 視覚と光に関する体系的で高度な研究を代表しているのは、
 西洋にはアルハーゼンとして知られている、
 一〇世紀にイラクに生まれたイブン・アル・ハイサムの偉大な業績である。

 彼が著した包括的な研究書
 『キタープ・アル・マナージル』(光学の書)は、
 独創的な新たな理論を提出しているばかりでなく、
 それを実験と数学によって論証しているという意味合いにおいて、
 中世のすべての科学文献の中で、
 もっとも傑出しているということができよう。

 イブン・アル・ハイサムは、光と人間の視覚について、
 事実上、すべての側面を探究している」

「彼が著した『キタープ・アル・マナージル』(光学の書)の
 もっとも高名な、また、もっとも独創的な業績の一つは、
 それがユークリッドの光学とアリストテレスの自然科学に見られる
 形象の知覚との統合を論証しているという事実である」

「イブン・アル・ハイサムとアル・ファーリシーは、
 実験の方法を大幅に発達させたのだが、とりわけ、
 実験と理論の相互関係の重視は、
 科学的な方法論を準備する偉大な業績だった。

 探究のプロセスの本質を見きわめていくことによって、
 実験科学は、ゆっくりと、だが、確実にその輪郭を整えていき、
 最終的には、すべての科学的な研究活動を支配するようになったのである」

○中世後期のイスラム

「一一世紀の初頭頃までにはイスラム文明は、最初の黄金時代の頂点を迎えていた。」

とりわけ、コルドバは、
 数多くのヨーロッパの富裕な階級の人々をひきつける抗し難い魅力をもっており、
 こうした人たちは、
 ちょうどその八世紀後に多くのアメリカ人が
 その娘や息子たちをヨーロッパ文化の中心地に留学させたように、
 教養の総仕上げのためにすでに伝説的な名声を確立していた
 スペインの首都へとその子弟を送り込んだのである

「宗教とそれにかかわる事柄を扱う科学と、物理的な世界に関する知識を、
 いずれかといえば、合理的な手法によって探究する古代ギリシャの科学は、
 その違いがしだいに明確になり、
 ついには、本質的に異なっていると考えられるようになった」

「思想の唯一の目的は正しい到達点、
 つまり、神の意志の実践に至る道に人々を導くことである
 という厳密に伝統的な考え方が教育にそのまま適用されたのである。

 こうした観点からすれば、
 知識のための知識は、たんに馬鹿げているばかりでなく、
 異端と同じように危険だった」

「私たちは、
 中世イスラムの科学に対する包括的で詳細な研究のほとんどが
 二〇世紀という、いずれかといえば、
 近年になっておこなわれるようになったという事実を
 記憶しておかなければならない。

 一五〇〇年という長大な歴史の営みの中で作りだされた何百、
 いや、おそらく、何千もの文献が世界中の文書館に埋もれているに違いない」

「中世後期のイスラム文化の凋落は、
 知識に対するヘレニズム的なアプローチが、歴史の変遷とともに、
 科学を、イスラムの天啓に規定されている救済への道筋を照らす
 実用的な「道具」として限定するイスラム的な観念に
 席を譲っていくプロセスに対応していると考えることもできる」

イスラム教徒は、一般的には、
 近代がその幕を開けるまでヨーロッパに関心をもっていなかった

 歴史の変遷とともに
 互いを「異端者」と呼ぶようになった相手との取引から
 利益が上がるはずがないと彼らは考えたのである」

「イスラム教徒が西洋を研究し、
 その概念、制度、慣例のいくつかを導入するようになった頃には、
 西洋は、基本的には世俗的で人道主義的なルネサンスの精神を謳歌していた」


2009年1月27日(火曜日)

隠されてきた文明6

カテゴリー: - kawamura @ 08時16分02秒

『科学で読むイスラム文化』ハワード・R・ターナー

○医学

「イスラムの医師たちは、
 気質は日々の生活の心労や緊張から
 きわめて大きな影響を受けると考えていた。

 疾病は、患者自身が内に秘めている
 治癒のプロセスを促進する力を利用することによって
 対処することができると考えられていたのである。

 こうした考え方は、
 中世の西洋社会において
 しばしば疾病と関連づけられていた「邪悪な精神」、
 つまり、魔術的な力といった観念とはまるで無縁だった

(イスラムの)こうした医療施設は、
 その規模と専門的な熟練の技のいずれの点においても、
 古代において知られている、あるいは、
 イスラム圏以外の中世のすべての医療施設を
 はるかに凌駕していた。
 
 中世ヨーロッパにおいては、
 ほとんどの病院は、宗教的な組織体、
 とりわけ、男子修道院がおこなう事業だった

「今日的な意味合いにおける病院は、
 1〇〇〇年以上も前に
 イスラム世界において初めて発達した」

「中世イスラムの病院の組織と建築物の立地設計は、
 その当時とすれば、かなり進歩したものだった。

 男性と女性にはそれぞれ独立した病棟が割り当てられており、
 内臓疾患、眼の障害、
 身体的形態に異常がみられる患者ばかりでなく、
 外科治療を必要とする患者、
精神的な障害をもった患者、接触伝染病患者には、
それぞれ個別の病棟が用意されていた

徹底的な訓練と薬理学的な施設は、医療の世界の「常識」だった。

すべての大病院は、
イスラム世界の
ありとあらゆる地域からやってきた医師を擁しており、
これらの医師は、常勤の管理者、専門家、臨床医師、
客員教師といったそれぞれの役割を担っていた」

「アル・ラージーのもっとも著名な著作の一つである
 『天然痘と麻疹について』は、
 ラテン語、英語、そのほかの西洋の言語に翻訳され、
 その訳本は一五世紀から一九世紀にかけて
 ほぼ四〇回も版を重ねた

「系統立った組織化という特徴をもっている
 イブン・シーナーの傑作『アル・カーヌーン』は、
アル・ラージーの著書とともに、
近代がその幕をすでに開けようとしていた時代まで
 ヨーロッパの医学校において
 基本的な教科書として使用されていた

「一四世紀にアンダルシアのグラナダで活躍した
 高名な医学の開拓者イブン・アル・ハティーブは、
 天然痘、コレラ、腺ペストといった疾病が
 医療の現場にひきおこす惨劇を観察する機会を
 数多く体験することによって、
 接触感染という概念によって流行病の研究をおこなっているのだが、
 これは、
 中世ヨーロッパの医学文献には
 まったくといっていいほど欠けていた概念だった

「外科手術におけるイスラムの業績は、
 人体の切開が一般的には宗教によって認められていなかった
 という事実を考慮すれば、きわめて著しいものだった」

「彼(アル・ザハラーウィー)の百科全書的な著作
 『キタープ(解剖の書)』は、
 三つの主要な外科手術に関する論文を収録しているのだが、
 これは、イスラム教徒ばかりか、
 ヨーロッパの医学校によって数世紀にわたって使用された

「アンダルシアに生まれたイブン・ズフルも、また、
 その時代を代表する偉大な医師であるばかりか、
 スペインのイスラム文化史上もっとも輝かしい巨星である。

 とりわけ解剖学に関する彼の著作は、
 中世のヨーロッパの医療に大きな影響を与えた

「デイオスコリデスが著した『薬物誌』の訳本は、
 シリア、ペルシャ、インド、極東から継承された知識とともに、
 この分野における傑出した学者や医師によって達成された
 数多くの革新の基礎を形成していたのだが、
 こうした分野におけるイスラムの業績は
 一七世紀に至るまで比較を絶していた

デイオスコリデスの『薬物誌』を凌駕している
 彼(アル・ビータール)の著作は、
 薬用植物を扱った最大のイスラムの文献であって、
 ヨーロッパにおいてはルネサンス期まで使用された


2009年1月26日(月曜日)

隠されてきた文明5

カテゴリー: - kawamura @ 07時32分56秒

『科学で読むイスラム文化』ハワード・R・ターナー

○地理学

「海路と陸路の集中的な整備によって
 最終的にはイスラム世界のすべての地域が
 互いに結び合わされたばかりか、
 通商路は、インドから東南アジアや中国へ、
 ボルガ川を遡って北欧へ、
 さらには、北アフリカの内陸にまで達した。

 イスラム軍の艦船は、
 遠くアイスランドまで到達したのである。

 商業、文化、宗教の中心地を繋いでいた交易網は、
 商船やキャラバンによって
 イスラム圏の内部と外部を世代を越えて繋ぐことによって、
 著しく均一であるとともに、
 その当時のヨーロッパでは一般的には知られていなかったほど
 高度な生活水準を達成していた
のである」

「かつてないほど堅牢で復元力をもった船舶が建造され、
 海図にはさらに安全な航路が書き込まれ、
 陸路の整備がさらに推進された」

「一一世紀の末葉に
 磁針を使って方向を示す装置である羅針儀が
 中国からイスラム世界にもちこまれると、
 一世紀も経たないうちに
 イスラム教徒やキリスト教徒の船乗りの間で
 広く使用されるようになり、
 彼らは、その信頼性と精度をさらに向上させていった」

「一〇世紀のバグダッド出身の地理学者、
 歴史家であるとともに広範な風物の記録者、
 哲学者でもあったマスウーディーは、
 彼が訪れた場所についての描写、
 古代世界の歴史的な記述、
 フランスの王制のようなヨーロッパの事象についての詳細な描写、
 記念碑や風習から医学や人間の本性に至る
 ありとあらゆる事柄についての注釈によって構成されている
 『ムルージュ・アル・ザハブ・ワ・マアマーディン・アル・ジャワーヒル』
 (黄金の牧場と宝玉の鉱山)を著した。

 アル・マスウーディーは、
 北ヨーロッパの人々については、明解な注釈を残していない。

 マスウーディーは、こうした人たちが面白味も教養もなく、
 感受性も鈍いと者えたのである。

 その三世紀後に活躍した高名な地理学者ヤクートは、
 ローマについて好意的な印象を書き残している。

 しかしながら、ヨーロッパの風俗習慣に対するこうした関心は、
 ヨーロッパがルネサンス以降に達成した科学と技術の分野における業績、
 とりわけ、軍事的な技術が脅威として認識されるまでは、
 大多数のイスラム教徒によって共有されることはなかった

「その当時(一二世紀)、
 宮廷の庇護を受けていた傑出した地理学者アル・イドリーシーは、
 国王の求めに応じて、
 世界地図を銀製の大きなレリーフマップ
 (土地の起伏の状能首表した地図)として構成し、
 次いで、その各部の詳細を七一枚の地図の上に再現し、
 それを『キタープ・アル・ロジャーリー』(ロジャーの書)
 と銘打った地理学書によって補完した。

 アル・イドリーシーは、とりわけ、
 ヨーロッパに関する情報を数多く盛り込んでいるのだが、
 その種の記録は、それまでにはまったく見られないものだった。

 アル・イドリーシーの地図は、
 西ヨーロッパの人々の地理教育に大いに貢献
し、
 ほどなくして大航海時代を迎えた西ヨーロッパの冒険家たちは、
 地球上のありとあらゆる大陸へとその足跡を印していった」

「次の世紀(一五世紀)には、
 オスマントルコ帝国の地図学者ピーリー・レイスが
 優美で詳細な地中海沿岸の地図を作成したのだが、
 これは、西洋の地図学に影響を与えた。

 イスラムと西洋の科学の相互作用が
 双方においてようやく進行していたのだが、
 西洋がイスラムを吸収する努力が圧倒的に勝っているという不均衡は、
 二十世紀にはいるまで改まることはなかった


2009年1月24日(土曜日)

隠されてきた文明4

カテゴリー: - kawamura @ 07時41分46秒

(左が、13世紀にペルシャのアル・トゥーシーが提唱した「トゥーシー連星」の概念図、
右は、16世紀にポーランドのコペルニクスの著書『天体の運行について』で使用した惑星運動の図解)

隠されてきた、っていう言い方は、
ちょっとヘンだとお思いですか?

つまりこういうことです。

ギリシャ・ローマ文明の栄光は、
じつはイスラム文明に引き継がれ、
その後イスラムから西洋ルネッサンスに橋渡しされたのに、
西洋は長い間それをひた隠しにしてきたということです。

(不勉強だった、と思っていましたが、
 どうもイスラム文化の豊饒が明らかになってきたのは
 最近20年間ぐらいのことのようです。
 特に、9.11以降から、イスラム文化の研究が盛んになりました)

きょうはちょっと引用が長くて、
退屈かもしれません。

紀元二世紀、
エジプトの天文学者プトレマイオスが著した
『アル・マジェスティー』、
それをもとにイスラムの天文学者たちが
1000年の歳月をかけて天動説を洗練します。

十三世紀に、ペルシャの天文学者アル・トゥーシーが
「トゥーシー連星」の概念を提唱します。

それによって、
天動説はほとんど説明されたかに見え、
やがて十四世紀になるとダマスカスの天文学者
イブン・アル・シャティールによって
すべての天体にその理論が適用されました。

ところで、
ポーランドの天文学者コペルニクスが
『コメンタリオルス(天球回転論)』を著したのは
紀元1530年、つまり十六世紀のことです。

コペルニクス的転回、
という言葉をご存じと思います。

天動説から地動説への転換は
たしかにコペルニクスに因るのですが、
コペルニクスがどうしてそれを思いついたのか、
その秘密を解き明かす文献の存在を知りました。

シャティールの「トゥーシー連星」がそれです。

********************

『科学で読むイスラム文化』ハワード・R・ターナー

○天文学

「紀元後一四〇年頃、エジプトの天文学者プトレマイオスは、
 恒星を基準とした惑星の位置と運動を数学的に示した
 理論的な著書を著した。

 そのデータは、
 彼自身とそれ以前の学者たちの
 直接的な天体観測にもとづいていた。

 アラブ人が
 『アル・マジエスティー』と呼んだこのヘレニズム期の著作は、
 古代と中世を通して使用されたもっとも系統的で包括的な
 天文学の手引書であり、
 ユークリッドの『幾何学原論』と同じように、
 後代の科学者や学者たちにきわめて大きな影響を与えた。

 イスラムの天文学者たちは、
 その内容に数多くの改良や修正をつけ加えたのだが、
 その影響から逃れることはほとんどできなかった」

「イスラム教徒は、
礼拝の時間割と方位について
 正確な知識をもっていなければならない。

 すべてのイスラム教徒は、
 イスラム教のすべての聖地の中でも
 もっとも神聖なカアバの神殿を擁している
 メッカに向かって礼拝するからである」

「そうした経験則と、
 それを補完するために導入された
 天文学と数学という学問分野は一体となって、
 宗教的な目的のためにその努力を傾注したのである。

 そうした実用性は、
 古代ギリシャや中世のヨーロッパの科学には
 まったく類例がない」

「イスラム教徒たちが
 この種の機器について達成した最大の功績は、
 もっと小型の天文観測機器アストロラーベの
 開発と改良である」

「紀元前二世紀頃
 ギリシャで発明されたと考えられているアストロラーベは、
 イスラム教徒の改良によって
 その機能が飛躍的に向上したのだが、
 その向上の度合いについては、
 そうした改良によってアストロラーベは、
 完壁の域に達したと評している学者もいるほどである。

 この驚くほど小型の、
 ものによってはきわめて小さな測定器は、
 技師が使用する計算尺どころか
 アナログコンピュータ一に匹敵するほどの機能をもっており、
 天文学と計時にかかわる様々な問題を解くことができる」

「久しく遊動している星だと考えられていた惑星は、
 天球に沿ってゆっくりと西から東に移動しているのだが、
 時折その移動を中断し、
 そのまわりの恒星との位置関係からすると
 それまでとは逆方向に移動し、その後また元の方向に戻る。

 ギリシャとインドの天文学者たちはこの現象と格闘し、
 それを説明するために
 天球のモデルに応分の修正をつけ加えた」

「プトレマイオスは、エカントという概念
(その上に周転円の中心点がある大円の中心が
 地球の中心から偏心しているという考え方)
 をつけ加えることによって
 周転円−大円のメカニズムを洗練した。

 エカントは、
 惑星の運動の接近、逆行、修復を説明することができた」

「イスラムの天文学者たちは、
 一般的にプトレマイオスに忠実だったのだが、
 最終的には、とりわけ、
 周転円に沿った惑星の動きというプトレマイオスの概念が
 等速運動の原理に違反している点に意義を申し立てた」

「こうした意義申し立ては、
 最終的には、十三世紀のペルシャの数学者、天文学者、
 占星家だったアル・トゥーシーが効果的に系統だてた
 惑星天文学にきわめて重要な改革をもたらした。

「トウーシー連星」として知られていた彼の有名な概念は、
 それぞれがその中心に村して等速な
 二つの運動をともなう周転円運動という仮説的なモデルを
 提出したものだった。

 このモデルは、
 一四世紀にはダマスカスの高名なウマイヤモスクの
 ムワッキト(公式の計時係)を務めていた天文学者
 イブン・アル・シャーテイルによって
 すべての天体に適用された」

「ローマのヴァチカン宮殿の図書館を訪れた
 ポーランドの天文学者コペルニクスが、
 惑星の運動の概念を図解している
 イブン・アル・シヤーテイルの
 一四紀の写本を目にすることは可能だつたばかりか、
 その蓋然性がきわめて高いと考えている科学史家は
 決して少なくない。

 その真否はともあれ、 コペルニクスの
 『コメンタリオルス(天球回転論)』(紀元後一五三○年)
 の中の図解は、
 イブン・アル・シヤーテイルの概略図と
 顕著な類似点をもっている。

 ここには天文学の歴史にとって
 もつとも中枢的な接点があったと言えるのではあるまいか。

 イブン・アル・シヤーテイルの概念は、
 地球のまわりを惑星が回っている
 と信じられていたシステムという範囲内で
 理論と観測結果を調停するために考えだされたものだった。

 それと同じような運動は、
 その概念化の過程において、今日、
 世界中のすべての人々に受け入れられている
 太陽を中心とした惑星のシステムの範囲内で
 完壁なモデルとして機能したのだ。

 二つの概念の間の直接的な接点のあるなしにかかわらず、
 天文学の理論におけるイスラム教徒の
 そうした革新は、
 天文学の歴史的嘉達に大き足跡を残している。

 イスラム教徒たちは、
 知識を蓄積することによって、
 ヨーロッパのルネサンスと啓蒙の時代に
 新たな探究の手法が生まれ、開花する地均しをした。

 高名な「連星」という概念を考案した
 一三世紀のペルシャの天文学者であるとともに数学者、
 占星術家だったアル・トゥーシーが
 三角法を球面天文学とは異なつた学問分野として扱ったのは、
 おそらく驚くべきことではない。

 それによって天文学者たちは、
 天球上の様々な位置の距離と方向を
 それまでよりもはるかに効率的に、
 また、
 正確に計算することができるようになつたからである」


2009年1月23日(金曜日)

隠されてきた文明3

カテゴリー: - kawamura @ 08時05分40秒

『科学で読むイスラム文化』ハワード・R・ターナー

○音楽

「そもそも、ギリシャの科学の基本的な教科課程は、 
算術、幾何学、天文学に音楽を加えていた。
 したがって、
 ギリシャの遺産の多くを継承、改良したイスラム教徒たちが
 音楽を数学の特殊な一分野に位置づけたのは
 ごく当然の成り行きだったということができよう」

「いずれにせよ、イスラムの古典音楽の作曲家たちは、
 過去1000年にわたって
 中世後期とルネッサンス初期の吟遊詩人の歌や、
 とりわけ、
 スペインの音楽に大きな影響を与えてきた」

○天文学

「紀元前三世紀に活躍したサモスのアリスタルコスは、
 おそらく、
 太陽中心説を唱えた最初の天文学者であるとおもわれる。
 
 この革命的な観念にもとづいて
 ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、
 ガリレオ・ガリレイがあらたな理論を展開することによって、
 今日、一般的に受け入れられている太陽系の基本的な構造と
 運行にたどりつくまでには、その後、
 ほぼ十八世紀もの長大な歳月が必要だった」

「ギリシャから中世初期に伝えられた惑星のシステムの観念は、
 地球を中心に位置づけ、
 そのまわりを天体が、月、水星、金星、太陽、火星、木星、
 土星の順番で回っており、
 恒星はその彼方に位置していると考えられていた。

 だが、ヘレニズム期の天文学者アリスタルコスは、
 それとは異なった考え方をもっていた。

 彼は、地球はその地軸に沿って日々一回転しながら
 一年に一回の周期で太陽のまわりを回っており、
 太陽と恒星は動かないと信じていた。

 アリスタルコスの同時代の人々は、
 それを認めようとはしなかった」

(明日も天文学からです)

*******************

今日は、大学での授業の日。

帰宅してからコメントを書くつもりです。

それにしても、アリスタルコスは、すごいっ!!
と思いませんか。   


2009年1月22日(木曜日)

隠されてきた文明2

カテゴリー: - kawamura @ 08時05分55秒

『科学で読むイスラム文化』ハワード・R・ターナー

○数学

「イスラムの数学者たちは、数の本質に変容を加え、
 数学の訓練を能率化し、数学のあらたな分科を作りだした。

 こうした業績のうち
 もっとも重要なものをさらに綿密に考察する前に、
 この時代において西ヨーロッパの数学はといえば、
 暦法をあれこれ詮索したり、
 計算版の使い方の説明に改訂を加えるといった状態に
 とどまっており、
 依然として(計算に)ローマ数字を使っていたという事実を
 指摘しておくことは、
 決して意味のないことではあるまい」

「数字を実在として考察する整数論、魔法陣の探求、
 数字と言葉の関係への興味ーー 
 こうしたすべての知的な活動は、
 イスラムの数学者たちをその彼方への神秘的な世界へと
 駆り立てた。
 そして、こうした領域から錬金術と魔術が生まれたのである」

「イスラム教徒たちは、洗練された数学を利用することによって
 水車をはじめとするさまざまな車輪や
 水を汲みだすシステムを設計すると同時に、
 農耕用の器具を改良し、
 複雑精巧な機械や弩などの武器を考案した」

「中世のイスラム教徒たちが、
 いわゆるユークリッド幾何学を
 定義づける作業と取り組んでいたこと、
 また、その過程においてそれと認識することなしに、
 非ユークリッド幾何学の発見にいたる道筋を
 示していたということが明らかになったのは、
 時代も下って一九世紀に入ってからのことだった」

「代数においては、
 大掃除や改良にとどまらない業績を達成している。
 この分野においてとりわけ傑出しているのは、
 八世紀に活躍したペルシャ出身の数学者
 アル・ハワーリズミーである。

 彼は、バビロニアやインド起源の数字を、
 ほとんど誰にでも使うことができるほど簡単な
 機能させやすいシステムに変換する作業に貢献したばかりか、
 「アルジェブラ」(代数)と「アルゴリズム」
 という二つの用語を作りだし、その背後の概念を確立した」

「総合的に見てみれば、数学にイスラムの代数が達成した貢献は
 じつに多大であるばかりか、この学問分野は、
 多くの点においてイスラムの数学者たちの創造に負っている」

「サイン、コサイン、タンジェント、コタンジェント
 といった比率を使用する三角法の諸機能は、
 イスラム科学において飛躍的に発達していった。

 イスラムの数学者たちは、
 古代ギリシャの弦のシステム(曲線との接点をもつ直線)
 の代わりにそうした比率を用いることによって
 球面三角形が関わっている複雑な問題の解決を
 はるかに容易にした」

「こうしたイスラムの大学者たちは、
 文化が目覚ましく進歩する歴史的な一時期には
 科学や芸術の一つの分野を越えた広範な領域に
 想像を絶した才能に恵まれた数多くの人物が
 輩出することがあることを
 私たちに教えてくれる」

(あすは、音楽と天文学についてです)


2009年1月20日(火曜日)

隠されてきた文明

カテゴリー: - kawamura @ 07時59分33秒

隠されてきた偉大な文明が、突然、
私の前にその全貌をあらわしました。

(もちろん、隠されてきた、というより、
 それを知らなかったのは
 不勉強のせいでもあるのです。トホホ・・)

隠されてきた文明、
それは古代文明の正当な継承者として
輝かしい科学文明を築きあげたイスラム文化のことです。

そのころ西洋は中世暗黒時代、
ギリシャ・ローマの古典文化が衰退した時代でした。

私が、その荘厳なイスラムの扉をあけるまでの経緯は
こういうことです。

ことは党首会談がはじまりでした。

自民の麻生と民主の小沢との
児戯にひとしいやりとりを見て絶望を深くしたのです。

あまりにもその絶望が深く、
日本政治の貧しさはいったいどこから来たのだろうと、
歴史を遡って、
もういちど日本歴史を辿ってみることにしたのです。

古代律令制から鎌倉武家政権の成立、
律令制の崩壊と戦国時代、
江戸封建制から西欧列強の外圧による維新、
そして終戦とGHQによる日本史の否定、
これらを振り返ってみて、
暗黒時代のようにとらえられてきた江戸時代の実態を
幕末訪日者の記録から読み解こうとしたのです。

そうすると、
欧米からの訪日者がどのように日本人を礼賛しても、
物質文明の観点からすれば格差が歴然としているのでした。

蒸気機関によって成し遂げられた産業革命が、
彼我の差を決定的なものとしていたのです。

そこで、
なぜ西洋は蒸気機関を生みだす科学を獲得しえたのか、
それを知りたくなったのです。

私の大学までの科学誕生の勉強の中には、
ガリレオやコペルニクスやドルトンやゲイリュサックや
そしてニュートンなど、
西洋文明のきらびやかな業績だけが羅列されていました。

しかし西暦480年に西ローマ帝国が滅亡してから、
1633年にガリレオが地動説を唱えて異端審問の末に終身刑に処せられるまで、
500年以上の歳月が流れているのです。

ギリシャやローマの古典文化が失われた中世暗黒時代の後、
いったいどのようにしてガリレオが生まれたのか。

それがず〜〜っと不思議でした。

科学の教科書などには、
アルカリとは、灰を意味するアラビア語に由来する、
と書かれ、
代数学を意味するalgebraはアラビア数学を語源としている、
などと書かれてはいたのです。

しかしそこからアラビア文化を調べてみようなどとは
思いもしませんでした。

それが、
幕末訪日録から産業革命までを調べるうちに、
ついに、
ジャービル・イブン=ハイヤーンに出会ったというわけです。

(しばらくイスラムへ本の旅をして
 ふたたびオールコックの『大君の都』へ戻ることにします)


2009年1月19日(月曜日)

etude13

カテゴリー: - kawamura @ 09時23分08秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載13回

********************
(『大君の都』上 オールコック著
 イギリス初代駐日公使
 1859年〜1862年)

われわれは、日本人とともに生活することによって、
数世紀前にまいもどり、
われわれ自身の過去の特徴でもあった封建時代というものを、
日本史の中でもういちど体験することができたからである。

すなわち、ここには、時と場所とをへだてて、
封建制度があるわけである。

封建制度は、その主な特徴のすべてにおいて、
われわれの封建制度と大いに一致し、類似していて、
その偶然の一致ぶりに驚かざるをえないが、
また異なっている点も多い。

それゆえに、この東洋版の封建制度を研究してみることは、
きわめて興味のあることである。

(略)

外国人が最終的に追放されてから一世紀後の日本と日本人、
彼らの習慣と制度がどのようであったかということは、
知性のある観察者であったスウェーデンの医師、
トゥーンベリーをとおして知ることができる。

彼はヨーロッパの一国のスェーデン
(そこにはいまだに封建制度がしかれている)
からきたばかりであった点で、
日本の政治の根本的原理の精神と意義について
論及する最適任者であったといえよう。

ところで、
われわれがトゥーンベリーのいうところを信用するとすれば
(彼の印象の真実性は疑う余地がないけれど)、
外見上は同じだと思われる事物が、
同じ結果を生じるどころか、それとはまったくちがって、
スェーデンでは圧政と悪をもたらし、
日本では秩序と法と正義をもたらしている、
ということになる。

同じものが、
一方では不満と革命の企てをもたらし、
他方では社会秩序と平和と繁栄をもたらしている
というわけだ。

********************

私はずいぶん前に
封建制度と紋章の関係について調べたことを
このブログに書きました。

確かに、
封建制度は、人類史上、日本と西欧にしか発生しませんでした。

マルクスが、
日本において西欧封建制度の完成した姿が見られる、
と書いたその言葉を引用したことが以前ございますが、
日本の江戸時代封建制度について
オールコックもまた言及していることに驚かされました。

幕末の訪日者たちは、
彼らと類似の日本封建制度を目にして、
それが、社会秩序と平和と繁栄をもたらしていることに
目を見張ったのです。

日本がアジアの中で孤立しがちな理由は、
このへんにもあるのかも知れません。

中国はたしかに偉大な文明を築きましたが、
それは遠い過去のことで、
幕末期の日本は、
清帝国をはるかに凌ぐ異質の文明を確立していました。

ギリシャやローマの時代には蛮族の地であった
フランスやドイツやイギリスが、
現在の最先進国であるようなものです。

このようにしてみると
日本がアジアのなかで孤立しがちで、
いささか西欧文明寄りになる理由が
肯けるような気がします。

(つづく)


2009年1月18日(日曜日)

Abu Musa Jabir ibn Hayyan

カテゴリー: - kawamura @ 08時06分18秒

ジャービル・イブン=ハイヤーンは
西暦800年前後に
イスラムで活躍した近代科学の祖です。

またalgebra(代数学)の語源は、
アラビア数学の書
『hisab al-jabr wa’l muqābala
 (約分と消約の計算の書)』(820年)
からきています。

その著者の名前はアル=フワーリズミーといって、
『Algoritmi de numero Indorum』
(直訳『インドの数に関して、アル=フワーリズミー』)
をも著し、
この書の冒頭
Algoritmi dicti (アル=フワーリズミー曰く)
から、
現代でも盛んに用いられる
アルゴリズム (Algorithm) という言葉が生まれました。

このように、
インド数学やギリシャ文化の正当の継承者は
イスラム文化だったのです。

当時のヨーロッパは中世暗黒時代でした。

アル=フワーリズミーの前掲二著作は
ラテン語に翻訳されて西欧に伝えられ、
その後500年間、
ヨーロッパ各国の大学で教えられたそうです。

冒頭のジャービル・イブン=ハイヤーンの業績は
さらに目を見張るものがあって、
彼の著作はヨーロッパ錬金術に大きく影響しました。

ニュートンの論文の多くが
錬金術に関するものであったことを思うと、
西洋物理学はイスラム科学の子であったとさえ
言えそうです。

エジプト、ギリシャ、インド、メソポタミアの文明が、
イスラムに流れ込んで美事に開花し、
それをヨーロッパのルネッサンスが受け継いだのだとしたら、
そして火薬や羅針盤や活版印刷技術を
中国文明から受け継いだのだとしたら、
文明は盛衰を繰りかえしながら互いに影響し合って
進展するのであって、
ひとり現代西洋文明のみが偉大である
というような思い上がりは過ちです。

西欧がそれらを集大成して産業革命を起こし
科学技術力によって世界を植民地化して、
現在ではグローバリゼーションなどといって
世界を単一言語、単一文化に
染め上げようとしている風にも見えますが、
いかがなものでしょうか。

いずれにしても、
そのようにして手に入れた科学文明を武器に、
西欧諸国がこぞって
幕末期の日本を訪れたのです。

明日は、英国から訪れたオールコック著の
『大君の都』から抜萃論評いたします。


2009年1月17日(土曜日)

科学と歴史2

カテゴリー: - kawamura @ 08時23分50秒

ワットの功績が大きい、と思います。

産業革命を飛躍させ、
資本家と労働者というような
現在よく知られる資本主義社会の母胎を産みだしたのも
もとはといえば蒸気機関の力のように思います。

ワットがゼロから作ったんじゃなくて、
それ以前に多くの累積があったことは
もちろん承知しています。

それでも、
完成された形に仕上げたのは、ワットでしょう。

みなさんご承知のように、
原子力発電と言っても、あれは蒸気機関にすぎません。

薪を燃やすか、石炭を燃やすか、天然ガスを燃やすか、
原子を燃やすか、という違いにすぎないのです。

核エネルギーを取り出す理論は驚異ですが、
そこから先は、蒸気機関です。

蒸気機関にすぎません。

しかしワットはどのようにして生まれたのでしょう。

そこに至る道、
ワットを産みだすまでの科学思想の歴史に、
私は興味があるのです。

それが、現在の物質文明の根底にあるからです。

アジアもアフリカも、
その科学の力に屈服したように思えるのです。

もちろん精神世界は別の話です。

江戸時代の日本が、
物質文明の光と影にさらされずに、
質素ではあるけれども安寧の社会を産みだしたことは
確かです。

江戸時代の平和は、
現在の世界が学ぶべき多くを秘めていることも
確かです。

しかしそれは、ペリーの蒸気船が出現して
一変しました。

蒸気機関の力が、
つまり科学の力が日本の歴史を動かしたのです。

それでは、
どのようにして科学は生まれたのか、
その思想の根底に何があるのか、
それを知りたいのです。

ギリシャでしょうか。


2009年1月16日(金曜日)

科学と歴史

カテゴリー: - kawamura @ 06時17分49秒

科学の歴史、ではありません。

科学の進歩と、歴史の発展とが
どのように関わってきたのかを
正確に把握しようと思うのです。

私は、若いころ科学を学びましたが、
歴史に目覚めたのは「冑佛」以来のことですから、
ずいぶん後になってからです。

ちかごろ幕末の日本訪問記などに目を通していると、
18世紀に起こった西洋の産業革命が、
世界史に大きく影響していると感じるようになりました。

それは現代の世界情勢や、思想にも
多大な影響を及ぼしています。

(目覚めた布団の中で、そんなことを考えました)

16世紀から17世紀にかけては
西欧より日本のほうが
いろんな意味で優れていたように思います。

小麦よりも稲のほうが
効率のいい農作物であったことも、
それに大きく寄与しているでしょう。

西欧には、まだナイフやフォークもなく、
肉を鷲づかみにして食べていたころ、
日本では箸で、
一日三度の食事を作法に則って食べていたのです。

すでに茶道なども出来ていましたから。

室町期は、
建築様式や舞台芸術や、さまざまな分野で
日本文化の骨格が整った時期でした。

西欧では、
十字軍、イスラムとの戦い、
イスラム文化の影響、そして大航海時代、
それはのちの植民地時代の前触れとなるものでしたが、
それらを経て、
彼らはアジアに進出してきました。

1540年代には
ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝え、
ザビエルが鹿児島に上陸します。

1571年には、
スペインがフィリッピン群島を占領しました。

ところで、
1543年がコペルニクスの地動説、
1583年にガリレオの振り子の等時性発見、
1616年、33年に地動説の異端審問がひらかれ
ガリレオは有罪となります。

しかし、現代科学の萌芽は芽生えはじめているのです。

(つづく)


2009年1月15日(木曜日)

『一度も植民地になったことがない日本』

カテゴリー: - kawamura @ 08時13分17秒

『一度も植民地になったことがない日本』

うわさのデュラン・礼子の本です。

18万部突破のベストセラーとか。

お軽い文体でするする読めます。

ちょっと、抜萃してみましょう。

********************

○19世紀に公害対策をしたオランダ

1800年代の産業革命後、
どんどん工場が造られると、
オランダでも公害の心配が出てきたんだよ。
だから今ある工場の煙が届かないところに
隣の工場地帯を造ることにした。
そして、
その中間には畑や牧場や個人住宅を配置したんだ。

(日本の公害が起こる1970年代の100年以上前に、
 オランダでは公害が起きるほど工場が乱立したのです)

○先進国は古い物を大切にする

ヨーロッパに住んで、昔の物を大切にしていく姿勢が
正しいと思うようになってきた。
アムステルダムの中心部には、
1700年代に建てられた建物が残っている。
今も残っているということは
修復保全を繰り返してきたということだ。
そのため大きな木で支えたり
補修したりと最大の努力がされており、
傾いた建物に人が住んでいたりもする。
それを見て
「へー、オランダは貧乏なんですかねぇ?
 こんな古い建物を、突っかえ棒をして使っているなんて」
とおっしゃる日本人ビジネスマンもいたっけ。

いや、アムステルダムだけではない。
パリ中心部のシテ島には、やはり同じころの建物がある。
その中の一軒、
今はレストランとして使われている店へ行ったことがあるが、
アムステルダムの古い建物同様、
大きな太い木で支えられていた。
しかし内部はレストランとして問題なく機能しているし、
人は古さを楽しんでいる。

日本人の感覚からすると、
こんな面倒くさいことはやめて新しいものを建ててしまえば、
となるのだろうが、
「だったら壊さないで!」
と私は声を大にしていいたい。

一度壊してしまったら、もう二度とできない。
その価値が分からないと先進国ではないのだ。

(なんだか、私のために書いてくれたような文章です。
 そうなんです。
 一度失われたものは、永遠に帰ってこない。
 日本がどれほど経済的繁栄をつづけても、
 失われた歴史的遺産を買うことはできないのです)

********************

あすは、
「○日本人の清潔に驚いたバテレンたち」
から抜萃します。


2009年1月13日(火曜日)

etude12

カテゴリー: - kawamura @ 08時06分00秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載第11回

********************

(『イタリア使節の幕末見聞記』V・F・アルミニヨン
  伊国マジェンタ号艦長海軍中佐
  1866年訪日)

ごく小さい細工品を仕上げる
精密さと巧妙さという点にかけては、
日本人は誰からも学ぶ必要がないといえるだろう。

日常普段に使われる漆器、銅製品、陶磁器などは
日本人のこの能力の証であり、
ヨーロッパでもこれに勝る物を作るのは困難だろう。

(略)

日本人は印刷術および木版を知っていた。

日本人が工夫した優れた技法の中には、
ヨーロッパではまだ知られていないものもある。

(略)

日本の農耕法が簡単で、しかも優れていることは
従来数多くの旅行者によって指摘され、称賛されたが、
われわれも自分の目でそれを確かめることができた。

(略)

急流の水や丘から流れ落ちる水も、
巧みに作られた無数の堀によって
稲田の中に自在に引き込まれている。

(略)

この島国では、絹、茶、綿、米などが豊富に産出する。

土地は極めて肥沃であり、農業ははなはだ盛んで、
小さな土地でも大きな生産力を持っている。

金、銀、銅、および石炭の鉱山は効果的に採掘されている。

住民は勤勉で賢い。

有益な産物はすべて極めて豊富で、
住民は他の国に頼ることなく、
ほとんど自給自足が可能である。

(略)

日本国民の資質については、
昔の宣教師らが書き残したものがもっとも確かであり、
このことは最近の出来事によっても明らかなので、
それをここに引用するのが適切であろうと思う。

シャルルヴォア神父の述べるところによれば、
日本人は率直、真率かつ誠実であり、
終生変わらぬ友である。

彼らは富を軽蔑し、商業を賤業と見なすほどである。

そして、真理を愛し、
それを知ったときには公言するのを恐れない。

悪口、虚言、ごく些細な盗みも、
彼らにとっては極めていまわしく、
死に値することである。

日本人は自制心が強く、
他の国民のように
すぐに興奮に刈られて激怒するということがない。

しかしまた、自尊心が強く、
侮辱されたりすると、必ず復讐しようとする。

彼らが冷然たる態度を示す時には
もっとも恐れなければならないことがしばしばである。

********************

巻末にシャルルヴォア神父の言葉を引用しているのは、
全権公使としての配慮も感じられます。

しかし、幕末の日本を訪れた欧米人は一様に、
日本人の優秀さ勤勉さに驚いています。

次回は英国公使オールコックについての書を
ご紹介します。

(つづく)


2009年1月12日(月曜日)

etude11

カテゴリー: - kawamura @ 13時49分11秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載第11回

********************

(『イタリア使節の幕末見聞記』V・F・アルミニヨン
  伊国マジェンタ号艦長海軍中佐
  1866年訪日)

男は家族を養うのに足りるだけ稼いで、
働きすぎて疲れるようなことはないようにする。

日本人は、いつも頭を働かせて、あれこれと工夫をし、
無駄な労力を省くことのできる装置を考えるのを好む。

しかし同時に勤勉でもあり、
愚痴をこぼさずに進んで自分の義務を果たす。

友達付き合いでは気前がよく、
求められれば喜んで援助をし、
節約して蓄えた金は友人と一緒に使う。

職人には組合があり、頭として棟梁がいて、
世襲的な規約がある。

生活は平安に、呑気に過ぎて行く。

財布が空になれば、
米や茶を分けてくれる友人もあるだろう。

(略)

日本人の暮らしでは、
貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。

人々は親切で、進んで人を助けるから、
飢えに苦しむのは、どんな階層にも属さず、名も知れず、
世間の同情にも値しないような人間だけである。

(略)

清帝国の首都では、
こういう物乞いに至る所で出会うが、日本では少ない。

下層の人々が日本ほど満足そうにしている国は、
ほかにないといえるだろう。

(略)

翌日、武士が一人、マジェンタ号を訪れ、
絹の紐をかけた漆塗りの立派な小箱を差し出した。

中には、封印された封書が入っており、
外国奉行の受領書が収められていた。

文書には英語の訳文が添えられていた。

その英文は毛筆で書かれていたが、
十分に明瞭で分かりやすい書体であった。

このことから私が悟ったのは、
われわれが日本語を知るよりも、
日本人のほうがわれわれヨーロッパ人の言語を
むしろよく知っているということであった。

(略)

われわれからの贈り物は、日本の役人たちを驚かせた。

率直に言って、彼らが非常に頭のよいことと、
ものを見る目の高いことの証拠である。

彼らがとりわけ高く評価したのは、
モザイク、写真、兵器類であった。

物理学の器具も若干あって、
その中のマイクロメーターはとくに塩田に贈った。

この青年は、
この器具の原理もかなりよく理解しているらしかった。

********************

著者アルミニヨンは、
イタリアと日本との条約締結のために来日したので、
この書のほとんどの内容は
伊国全権公使としての彼と
幕府との折衝の過程が描かれているのです。

それでもところどころに日本の光景が素描され、
民衆の暮らしぶりが浮き彫りにされています。

階級間格差が少なく、
すべての階級が簡素な暮らしをしていて、
それでいて闊達に生活を楽しんでいいる江戸時代の様子が
描かれています。

(つづく)


2009年1月11日(日曜日)

etude10

カテゴリー: - kawamura @ 08時27分12秒

「○○○○○○○のためのエチュード」

連載第10回

********************

(『イタリア使節の幕末見聞記』V・F・アルミニヨン
  伊国マジェンタ号艦長海軍中佐
  1866年訪日)

大名の着る衣服は優美ではあるが、贅沢とは映らない。

日本の高貴な人士を一定の距離から見てそうと分かるのは、
物腰の優雅さと供の者の数の多いことによってである。

(略)

カション氏が、モトベーという名の若い日本人を
われわれの所へよこした。

この青年はフランス語で語り、
われわれの通訳を務めてくれた。

彼は一冊の文法書と何冊かの読本とを携えていて、
一日中勉強していた。

モトベーは、
外国奉行や政府役人との会談には使えないだろう。

彼は武士ではないので、
彼を会議に列席させることは
定式に反することになるからである。

(略)

江戸では小銃が作られている。

この小銃はヨーロッパの最良のものに比べても、
あらゆる点でひけをとらない。

日本の職人は、才覚があり、しかも勤勉で、
優れたところのある品を見ると、
自分の手で同じものを作り出すまでは気がすまないのである。

サドヴァの戦い以前に、日本は針鉄砲を知っていて、
これを高く評価していた。

アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどが
よい製品を適切な価格で売り込むことを競いあった結果、
日本人の目は大いに肥えたのである。

この点において、
日本人が中国人に大きく勝っていることは明らかである。

中国人はヨーロッパ人を軽蔑しているために、
西洋文明の物的優位の原因を知ることもできないのである。

中国の諸港では、
トリノ製の騎兵用遂発短銃を売っているのを見かけたが、
横浜ではすでにエンフィールド・カービン銃やルフォシュー銃よりも
もっと優れたものはないかと言い始めている。

機械に関する優れた素質ゆえに、
日本人は「東洋のイギリス人だ」と言った人がある。

********************

これまでの幕末見聞録と違って、
著者はイタリア海軍中佐であり、
伊国全権公使として幕府との交渉にあたる人物ですから、
この書は大所高所からの見聞録です。

しかし高名な知識人としての慧眼は、
日本人の本質を的確に洞察しています。

金銀貨幣の各国との交換率など、
為替問題などに目を通すと、
幕府の役人たちが、混乱を極める幕政の中で、
苦慮し逡巡しながらそれらを解決してゆく姿に
同情を禁じえません。

よくもまああの幕末の争乱期に、
欧米列強に伍して、
中国のように植民地化されずに乗り越えたものだと
感心いたします。

(つづく)


2009年1月10日(土曜日)

「純粋」ということ

日本文化の核心は何かと考えるうちに、
青春に回帰しました。

それは「純粋」ということです。

「純粋」とは、20才のとき、
私がはじめて書いた小説らしきものの、主題にした言葉です。

私の処女作ともいうべき『翼』から引用します。

********************

あの澄みきった「純粋」の曙光を、突如として総身に浴びる迄、
天上の彼方から差し延べられた透明の手に抱かれる迄、
僕は何を戸惑いさ迷うてきたのか。
僕は河岸によじ登ろうとしていたのか。
よじ登って、河の行く方を確かめようと、
学問だの道徳だの云う測量器を駆使していたのか。
それに心を奪われていたのか。
そして例へその河の行く方を見定めたところで、
一体何になると云うのだ。

しかし、「純粋」は翼だった。
それはひたむきな昇天の願い、
空に、太陽に抱かれようとする真白の翼だった。
「存在」がやがては、海に辿り着くように、
「純粋」の翼は、太陽の眩めく光耀に包まれようと羽搏く、
痛切な願い、だった。

********************

と、まあこんなことを書いておりました。

昭和47年に文芸誌批評欄に掲載された『翼』への批評文にも、
「純粋」の言葉が使われています。

引用してみます。

********************

『北方浪費』創刊号の谷島瑶一郎(私のペンネーム)「翼」は長編の第一章だが、
100枚はあろう。
地味好みの私の眼には、
この作者の才能は精巧なステンドグラスのように七色の光彩を放って見える。
ほめ倒すわけではない。
若書きの初々しさ、
抑制不能の情感の誇示、
それとこれとの混淆が時に鼻につくけれども、
また三島由紀夫耽溺の跡も歴然としているにしても、
ここに華麗な才能の萌芽があることは碓かである。
今回は自殺末遂の″純粋″探求者の手の記だが、
一節を引いておこう。

********************

私の作品への上記批評にもあるように、
若年のころから、ずうっと日本文化とは何なのかということを考えてきて、
それはどうも、
清明心、つまり「純粋」ということではないのかと
あらためて思うのです。

(つづく)


2008年12月10日(水曜日)

白洲次郎が10人いれば・・

カテゴリー: - kawamura @ 07時41分38秒

親友から電話がありました。

ニュースで流れている解雇社員の数は
おそらくその50倍ぐらいが実態だろう
ということです。

そのからくりはこうです。

大企業では、
工場や事務所がブロックに分けられていて、
一見、どれもおなじ社員のように見えるけれども、
じつはブロックごとに
別々の業者が請け負っているのだそうです。

「これこれの精度の部品を、月に何個納入して下さい。
 スペースと機械はお貸しします」

たとえば月に5万個の部品が必要とします。

大企業の仕事を請け負いたいという
無数の業者のなかから、5つの業者を選びます。

請負業者は激烈な競争のなかで、
製品の精度を高め、経営効率を上げて、
大工場の中で仕事をしようとつとめます。

親会社は、参入を許可したそれぞれの業者に、
1万個ずつ部品を発注します。

業績悪化しはじめると、
親会社は、まず、
納入業績のもっとも悪い業者との契約1万個を解除します。

親会社の社員を解雇するわけではありません。

大企業は複数の請負業者とのあいだに
決められた精度の製品納入契約を結んでいるだけで、
請負業者が何人解雇しようと
親会社には関係ないのです。

会社と会社の契約を解除しただけで、
親会社が解雇したわけではないのですから
その解雇数は報道の対象とはなりません。

さらに景気が悪化すると
第2第3の業者との契約を解除します。

ちょうどロケットが、
ブースターをひとつずつ切り離してゆくように、
日本企業は、
世界恐慌の引力圏から離脱しようとしているのです。

このようにして、日本企業は、
製品の質を保ち、
経営効率を失うことなく生き残ることができたのです。

しかし、
現在報道されている大企業の解雇社員の数は、
派遣にせよ本社員にせよ、
親会社の社員数なのです。

バブル後の塗炭の苦しみのなかで
究極の経営方式を産み出した日本企業でさえ、
企業と直接契約している派遣社員や本社員まで
解雇せざるを得なくなっているのです。

このシステムを産みだした大企業さえ、
直接契約した社員を解雇しはじめたのです。

その子会社、下請け、孫請けなどをあわせれば、
おそらく報道されている数の50倍くらいが
解雇者数の実態だろうということでした。

これから、
徐々にその実態が明らかにされてゆくだろう
ということでした。

恐るべき経営手法を身につけた日本企業でさえ
このありさまですから、
一時しのぎの救済を約束されたGMなど、
今後の経営如何では破綻する可能性大なのです。

そこで、やはり政治不在の話に戻ります。

「こんなとき、10人の白洲次郎がいればなあ・・」

百年に一度という危機だというのに、
日本の首相は、最悪の三人がつづきました。

私も友人も
べつに小沢を応援しているわけではありません。

小沢にしても似たようなものだろうと思っています。

名だたる日本企業が、
円高の魔弾につぎつぎと倒れてゆきます。

為替は政治の責任です。

この時期に、政治の舵取りがいないのです。

アメリカにはオバマがいるのに、
世界不況の暴風雨の中で
日本は漂流しています。


2008年12月9日(火曜日)

党首会談(9)

カテゴリー: - kawamura @ 08時26分22秒

昨年、「支配線」という概念を
拙論『紋章と封建制度』のなかで私は提唱しました。

もちろん物理学のいう「世界線」から着想したもので、
それは以前の「歴史線」とおなじです。

「支配線」とはこのような概念です。

個人に対して命令権をもつ組織が複雑化するほど
個人は自由度の高い判断を強いられ、
明確に屹立した個性がそこに発生すると考えました。

その組織の命令系を支配線と名づけたのです。

たとえば中世の騎士の手もとに、
教会と領主との双方から
同日同時刻に出頭すべしという重大命令が届いたとき、
その二律背反の選択に騎士は苦しみます。

教会と封建制度の二つの支配線の交差点で、
騎士が深く考えをめぐらし、
難題を解こうとするとき、
騎士個人に
選択の自由が与えられたともいえるのではないでしょうか。

やがていずれか一方に判断したとき、
すくなくとも二つの自由度をもつ個人が
そこに発生したと私は考えたのです。

歴史における個の発生は
このように支配線の交差によるものであるという概念を
私は提唱したのです。

西欧市民においてもそれはおなじで、
教会や領主やギルドなど
さまざまな支配線の交差するところに暮らしていました。

社会組織が複雑化するほど支配線もまた複雑化し、
そこに、
自由度の高い鮮烈な個性が誕生すると考えたのです。

日本においてはどうでしょうか。

(つづきはまたあした)


2008年12月7日(日曜日)

党首会談(8)

カテゴリー: - kawamura @ 10時00分48秒

すこし視点を変えてみましょう。

民主主義が成立する要件としての、
個の発生ということについてです。

日本において
民衆ひとりひとりが個を確立する過程について
考えてみようということです。

それは封建制度の成立と深くかかわっています。

以前にもブログに書きましたが、
世界史上において
封建制度が発生したのは
日本と西欧においてだけでした。

まず武士(騎士)が誕生し
彼らはその領地の保護を有力な武士に求め、
やがて多くの領地を保護する有力武士は
大名(諸侯)となりました。

征夷大将軍あるいは国王は
その頂点に立っている領主で、
将軍(国王)は大名(諸侯)に、
大名(諸侯)は武士(騎士)に
領地を保護する代償に忠誠を誓わせたのです。

十一世紀ごろ、
この制度がなにゆえに日本と西欧においてのみ
発生したのかというと、
日欧における農業生産量の発達も
ひとつの要因であろうとされています。

鉄器の使用もそれに寄与しました。

たとえば中国では
古代から鉄器を国家管理下におきましたので、
民衆にそれがゆきわたることはありませんでした。

したがってそれ以後の中国は
農業生産量が飛躍的に向上することもなく、
長い期間にわたって停頓してしまうのです。

日欧では、
民衆が鉄器具を使うことで農業生産量は飛躍的に伸び、
ひとりの農民が何人もの非農業生産者を養うことができました。

それで戦闘だけを生業とする武士が
誕生し得たというわけです。

さらに商人や歌人や茶人や僧侶などが次々と生まれ
社会は多様化し多重に階層化して、
複雑で豊かな市民社会が形成されました。

(つづきはまたあした)


2008年12月6日(土曜日)

党首会談(7)

カテゴリー: - kawamura @ 08時24分55秒

(銀杏を撮影する人たち)

維新からわずか50年で、
設立当初の国際連盟の常任理事国となりました。

世界の列強に仲間入りしたのです。

もうすこし正確に言うと、
1868年に明治政府が誕生して
1920年に国際連盟の常任理事国となったのです。

明治初期には
ちょっと無理のあった王政復古の太政官制の
まず公卿と諸侯が一掃され、
薩長土肥の維新功臣が実権をにぎりますが、
征韓論をめぐって参議の対立がおこり、
多くの参議が下野した結果
大久保利通の独裁体制となります。

下野した江藤新平は佐賀の乱おこしてさらし首となり、
西郷隆盛は西南の役に散りました。

木戸孝允は西南戦争のさなかに病没し、
やがて大久保も暗殺されます。

維新の元勲たちが次々に落命したのちに、
大日本帝国憲法が発布され、
日清日露の戦勝、日韓併合とつづいて、
1920年に常任理事国入りを果たすのです。

世界が瞠目した日本の躍進は、
階級内権力闘争であったとはいえ
抑圧されていた外様藩下級武士たちの
激烈なパトスを原動力としていたのです。

アジア各国が西欧列強に植民地化されてゆくなか
ひとり日本はそれを跳ね返し
むしろ国際連盟常任理事国となるのです。

国際連盟の常任理事国は、設立当初、
大日本帝国、フランス、イギリス、イタリアの
わずか四カ国にすぎません。

維新後わずか50年で、
実態はさておいたとしても、
世界の頂点に登りつめたといっても
過言ではないでしょう。

とくに、
アジアの小国であった日本が
大国ロシアを打ち破った日露戦争の勝利は、
植民地化され喘いでいたアジア諸国に
はかりしれない影響を与えました。

このように明治時代に、
奇跡的な発展を遂げることができたのは、
廃藩置県、地租改正、四民平等、廃刀令などによって、
江戸時代260年の
確立した体制を破壊したことによるのでした。

振りかえれば戦国時代に門閥政治が終焉し、
明治維新において江戸時代の封建体制が終焉したのです。

戦国期にも明治維新にも多くの血が流れ、
やがて前体制が崩壊することによって
あらたな体制が誕生したのです。


2008年12月5日(金曜日)

目ざめるときに

カテゴリー: - kawamura @ 05時58分56秒

今朝、眠りからさめるときに
怖ろしい真実に気づきました。

それはこんなことです。

キリストは私たちに
神はいないことを教えたのだ、
そうしてそれゆえに
神はいるのだと云うことを。

「我が神、我が神、なんぞ我を見棄て給いし」
イエスがそう叫んだとき、
エリアは来ず、彼は神の非存在を知りました。

それゆえに彼は罪人に言うのです、
「今日汝は我とともにパラダイスに在るべし」と。

神はいない、だからこそ、
苦悩にみちたこの世に、
超越神はいるのだということを
イエスは説いたのでしょうか。

日本人は
神仏などいないことをはなから知っています。
しかしそれゆえに
神仏はいるのだということも、
知っているのです。

目ざめるときに
こんなことを考えました。


2008年12月4日(木曜日)

党首会談(6)

カテゴリー: - kawamura @ 08時03分46秒

維新から現在に至るまで
実学を学ぶために留学することはあっても
政治や外交のための留学生は
少なかったように思います。

政治留学の話です。

日本の縄文時代、
つまり日本人が
森の木の実や魚や貝をとって暮らしていたころ、
ギリシャでは直接民主制がおこなわれ、
すでに上下水道が完備されたローマでは
共和制が敷かれていました。

日欧では民主政治の歴史の厚みがちがうのです。

60年前に
突然マッカーサーからプレゼントされた民主主義を
日本人なりに薬籠中のものとしなければなりません。

現在の恥ずべき政治状況を刷新するためにも
政治留学生たちに
その要諦を学んでほしいのです。

ところで
江戸時代のなかばにアメリカの独立戦争があり
やがてそれはフランス革命を引きおこし、
反動政治の時期がわずかにあったにせよ、
欧米は明らかに民主主義の時代をむかえたのに、
維新の勢力が古代律令制の復活とも見える
天皇親政の中央集権体制を目差したのは
すこし無理があったように思います。

また
明治維新は階級内権力闘争にすぎず、
市民はそれに参加していません。

幕藩体制が薩長土肥の政治に置き換えられただけの、
武士のあいだでの権力委譲にすぎませんでした。

そこに市民の姿は微塵も見えません。

私は思うのです。

日本において市民革命が起こらなかったのは
すでに室町戦国期において
それににた革命が為されていたからだと。

室町時代には一揆が幾たびも発生し、
西欧と日本においてのみ誕生した
封建制度の母胎ともなる惣村もみられて、
農村における自治がおこなわれる風潮のなかから、
やがて乞食同然の藤吉郎が
関白太政大臣豊臣秀吉になったのですから、
一揆などを含めた下剋上を
広義の市民革命と捉えることができないでしょうか。

革命への民衆のパトスはそこで解消されたのかもしれません。

いずれにせよ
明治政府は強力な中央集権体制のもとで西欧化をめざして
それなりの成功を収めました。

しかし天皇家からの血統を玉条とする門閥が戦国末期に滅亡し、
長い江戸時代を経て、
突然、天皇親政が復活するとは、まさに歴史の不可思議です。

(あしたにつづく)


2008年12月3日(水曜日)

党首会談(5)

カテゴリー: - kawamura @ 07時48分16秒

(朝霧?朝靄?)

昨日の政治留学生支援のこと
もう少し説明しなければなりません。

ひとつは格差の問題。

国家予算を投じるというのは、
すぐれた能力を持ちながら
相応の教育や資格試験を受けることができない
低所得者層の子弟に道をひらくという
意味もあるのです。

最初の試験は
現在のセンター試験のようなものでも
良いのではないでしょうか。

たとえば
政治をするのに数学や物理が必要か
などと云う意見に耳かたむける必要は
ないように思います。

つまり政治を志す者にも、
理数系の教科とはいえ高校生で学ぶ程度のことは
無理なく理解する能力が求められると云うことです。

すべてが数値化されIT化されている現在、
官僚の上に立って国家を統治するのに
高度に数学化された経済などを理解する能力は
当然のように政治家にも求められるでしょう。

つまり
世界歴史や政治史などの知識を
深く理解することは基本ですが、
高校程度の基本的数学や物理学も
なんなく理解する程度の能力が、
世界第二の経済大国である日本を運営する政治家には
欠かすことのできない資質と云うことです。

実際、先進各国の首脳たちは、
十代の後半から二十代にかけて
日本の学生には想像もつかないほどの
猛勉強をしているのです。

日本のように
大学受験のときだけ、
あるいは国家試験のときだけというのではなく、
在学中には、毎日山のような宿題をかかえて
寝る間もないほどの勉強をつづけているのです。

青春の思想が人生の思想となると云われます。

まさに先進国首脳たちが
青春期に集中的に学んだ論理学や数学が、
歴史や芸術などの広汎な知識的教養とあいまって
世界政治を多角的に理解する基本能力となっているのです。

先進各国の首脳会談の席で、
日本の首脳が
どれほど世界の政治経済を的確に洞察し
しかもそれをウィットに富んだ言葉で語ることができるのか
疑問に思いませんか。

いったいG8の席で各国首脳をうならせるような
魅力的な人格を、
日本の首脳は持ちあわせているのでしょうか。

そんなことは官僚にまかせればいい、
官僚が原稿を書くからそれを読んでいればいいんだ、
政治家のすることはべつだ、
という方もいらっしゃるかもしれませんが
私はそうは思いません。

それではいつまでも官僚主導の
社会主義国家日本から脱却することが
できないように思うのです。

さて
膨大な国家予算を投じて政治留学生を支援する
もうひとつの理由は、
円高の解消にも寄与するのではないかと云うことです。

日本と違って
先進各国には明らかな階級格差があるのですから、
維新のころに渡欧した武士たちが
藩や幕府や明治政府の支援を受けて
留学先でもかろうじて威厳を保てたように、
世界第二の経済大国日本の政治エリートとなるべく
留学するのですから、
恵まれない階級の子弟であっても
各国上流階級に不自由なくとけ込めるように
支援すべきです。

白洲次郎は日本においても富豪の子でしたが、
とくにオックスフォード時代に身につけた
貴族階級との親交が、
どれほどGHQなどとの交渉の場で役だったことでしょう。

白洲次郎の洗練された教養が
どれほど日本を救ったことでしょう。

それは若くして身につける必要があるのです。

首脳会談は政治のためにあるのですから、
それ以外の深い教養は
自然にあふれてこなければなりません。

後年身につけたものですと、
どうしても不自然になり、
それを気にしながらでは
とても優雅に振る舞うことなどできないのです。

そういう意味で、
政治後進国日本から
先進各国の政治エリート養成機関に送り込む留学生には
潤沢な資金援助をすべきなのです。

それが円高問題を解消する一助になればと思うのです。

政治後進国日本が
国際的な自信を取り戻すことになるのなら、
その出費を惜しむべきではありません。

ああ、
歴史の話から大きく逸れてしまいました。

あすは明治維新に戻りましょう。

(退屈な話がつづいてしまって、
 すみません)


2008年12月2日(火曜日)

党首会談(4)

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分04秒

江戸時代にように
ひとつの体制が260年もつづけば
それは必然的に硬直化し制度疲労をおこし
やがては瓦解します。

ましてや西欧諸国では
産業革命や市民革命が澎湃として沸き起こっているとき、
ひとり日本は鎖国していたのですから、
江戸幕府が黒船の出現に衝撃をうけたことも
肯けるというものです。

鎖国は日本独自の文化を開花させましたが、
世界の潮流からすれば奇異な花ともなりました。

ひと言でいえばそれは箱庭文化です。

完成された支配体制のなかに押しこめられた
日本民族(戦国末期の宣教師の資料などによる)の才能は、
たとえばありふれた大工でも
数十種類の鉋(かんな)や鑿(のみ)や鋸(のこぎり)をあやつって
精密な障子の桟や柱や梁や、
あるいは日曜家具をつくりあげたように、
拡大するよりも集約する方向へ、
微細なものの美しさを創造する方向へむかったのでした。

この伝統は
現在のソニーの小型製品や
トヨタの車などに生きています。

世界の追随を許さないほどの驚くべき技術が
そこに凝縮しているのです。

私はちかごろ思うのです。

幕末の武士たちの立ち振る舞いが
西欧においてたいへん賞賛されたことを。

彼らはおそらくは
お世辞にも上手とはいえない英語をあやつり、
月代を剃り髷を結うという奇異な風体をしていたのですが、
欧米の上流人たちにはたいへん尊敬されたのです。

明治の乃木希典もそうでした。

そこで、
ひとつ提案があるのです。

話題は党首会談からはるかにそれますが、
ちかごろの円高を逆手にとって、
海外の主要大学に
留学生を大量に送り込むというのはいかがでしょうか。

それは面接を重視した留学生試験を課して、
ハーバートロースクールやシアンス・ポなどで、
国家予算を投じて大量の国費留学生に政治を学ばせるのです。

自由に英語仏語をあやつれる才能豊かな若者を
日本に閉じこめておかずに世界へ送り出すのです。

さまざまな支援体制を整備して、
世界政治を先導しうる若者を育てるのです。

いつまでも
世界で発言できない日本の首脳たちを見るにつけ
その必要性を感じます。

そこに大量の国家予算を投じても、
国民に返ってくるものは
はかり知れなく大きいものとなるでしょう。

ちょっと時代錯誤かもしれないけれど、
そうでもしなければ
260年の鎖国の呪縛から解きはなたれることが
できないように思うのです。

(ちょっと急いで書いてます。あしからず。
 あしたにつづく)


2008年12月1日(月曜日)

党首会談(3)

カテゴリー: - kawamura @ 00時15分47秒

戦後60年を越えて
政治が世襲議員に独占されているのを見るにつけ
歴史の変遷を思わずにはいられないのです。

昨日は、
古代天皇家の政権から派生した貴族政治が長くつづき、
やがてそれを打倒する武家政権が現れ、
それもまた腐敗して応仁の乱が起こり、
燃えひろがった戦火は門閥制度を破壊し、
戦国下剋上のなかから
乞食同然の藤吉郎が関白太政大臣豊臣秀吉まで成り上がった
というところまででした。

日本史上において秀吉の出現が意味するものは
古代律令政治のながれを汲む門閥政治が
完全に終焉したということです。

ワスプ(WASP、White Anglo-Saxon Protestant)
とよばれる現在のアメリカの支配階級が
黒人大統領オバマを是認したように、
400年をさかのぼる日本においても、
応仁の乱以来100年もつづいた戦乱の世を治めるために、
過去の門閥などを完全に否定して、
才能と実力とをあわせもつ秀吉を時代が選んだのです。

私は浅学ゆえ知りませんが、
これは世界史上でもまれなことではないでしょうか。

つぎに現れる徳川家康も
三河の小豪族松平氏の末裔であり、
天皇家のながれを汲む過去の門閥政治とは無縁の者です。

しかし家康があまりにもすぐれた体制を構築したために、
260年の長きにわたる安定した政権のなかで、
新たな門閥が発生しました。

直参旗本であり、譜代大名、外様大名がそれでした。

やがてその体制もまた制度疲労をおこし
黒船の来襲によって終わりを告げます。

(明日は明治維新から)


2008年11月30日(日曜日)

党首会談(2)

カテゴリー: - kawamura @ 08時29分26秒

日本はどうして政治三流国家となり果てたか、
ということについて考えているのでした。

党首会談で見た麻生と小沢の
国家元首としての適格性を考えたとき、
どうしてこのようなことになってしまったのか、
深い絶望から
日本の歴史にまで思いが及んだのでした。

古代に律令国家が誕生し、
やがて腐敗して官僚貴族の荘園制が生まれ、
荘園制に異を唱える開発領主たちの反乱が起きて
武家政権が成立しましたが、
脆弱な鎌倉幕府は三代で滅びます。

やがて北条氏が実権をにぎり
元寇は神風によって駆逐しましたものの、
朝廷のクーデターが起きて
一瞬天皇家が政治の中心に座りますが
たちまち追い払われて室町幕府が誕生します。

しかし頼朝にせよ尊氏にせよ
その源流は天皇家です。

源氏は清和天皇を祖とし、
足利氏は河内源氏の嫡流ですから、
古代律令制の
天皇家支配のなごりをとどめているのです。

実際江戸末期まで、
武家政権の棟梁は征夷大将軍の称号を
朝廷からさずかっています。

この天皇家と政治との関わりについては
後に考えるとして、
室町幕府が成立しやがて八代もつづくと
政治は腐敗し混乱を極めて
応仁の乱が発生したというところまで
昨日概観したのでした。

応仁文明の乱の火の手は全国におよび、
それから100年以上の長きにわたって
日本全土が戦火に覆われます。

戦火は既成のものすべてを破壊し尽くし、
下剋上の戦国時代が幕をあけるのです。

加賀の一向一揆などは
弁慶の勧進帳にも登場する名門富樫氏を追放して、
一向門徒が自治を行うなど、
それ以前の歴史からはとうてい考えられなかったような
革命にもにた時代が訪れたのです。

朝廷の命脈はおとろえ公家は四散します。

つまり、古代律令制から脈々とつづいた門閥政治が
終わりを告げたのです。

とはいえ戦国時代にも
門閥や武家政権のながれを汲む諸大名もおりました。

今川は清和源氏の末流ですし、
武田は甲斐源氏の嫡流、
上杉は越後守護代長尾氏の出身で
のちに13代将軍足利義輝から諱を授かっています。

しかし戦国下剋上の奔流は
それら門閥政治の亡霊を破砕して
その集大成とも云うべき新たな三人の武将を
日本史に登場させたのです。

日本人がこよなく愛する
あの三人の武将です。

それでも織田信長はまだ、
尾張守護斯波氏の被官織田氏の分家でした。

ところで
ちかごろアメリカでは
オバマが初の黒人大統領になったと騒いでいますが、
信長の次にあらわれた秀吉は
ほとんど乞食同然の身から
征夷大将軍にして関白太政大臣豊臣秀吉となるのですから、
とてもオバマどころではありません。

そうしてそれを当時の日本人は受け入れたのですから、
門閥をあがめる風潮は完全に潰え、
庶民のなかに、
すでに実力を尊重する思想が根づいていたということです。

じつに100年の破壊のあとに現れたのは
乞食から身を起こした天才秀吉でした。

(つづきはまたあした)


2008年11月29日(土曜日)

党首会談(1)

カテゴリー: - kawamura @ 07時09分58秒

(写真は最後の銀杏)

昨夜仕事場から帰った深夜のニュースで
ちらっと見ただけの印象を申しあげると、
なんとまあ人相の悪い人たちなんだろう
と苦笑しました。

麻生首相は
義弟が寛仁親王という
超名門ゆえに担がれてその気になった
クレー射撃がお上手なやんちゃ坊主、
小沢も
弁護士で東京府会議員だった父親の
弔い合戦に担がれて
27歳の若さで衆議院議員に当選したという
二世議員。

しかし二人とも
一国の首相というには
気品も知性もあまり感じられません。

どうしてこんなことになってしまったのか。

私たち日本人の立ち位置を
またシリーズで
すこしずつ考えてみようかと思います。

ざっと歴史を振り返ってみましょう。

縄文弥生はさておいて
奈良時代の大和朝廷が統治した地域はわずかなものでしたが
それでも律令制度のうえに成り立つ
それは原始共産制のような小国家でした。

やがて朝廷のまわりに
官僚貴族が発生して平安時代がはじまります。

官僚貴族の許認可権の乱用とでもいうべき荘園制が生まれて、
平安時代の後期になるとそれが崩れくずれて、
ついに東国から武士の反乱が起きます。

武士と云うのは開墾地主たちのことで、
源平の戦いとは
彼らの土地所有権を奪取するための戦いでした。

鎌倉時代の初期は、
西国にはいまだ朝廷の勢力も残っていて
奥州には藤原氏の王国がありましたから、
とても全国を統治したとは言えません。

実際、脆弱な鎌倉政権は三代で滅び
やがて起きた朝廷のクーデターもたちまち潰えて
南北朝を経たあと
なんだか歴史のあだ花のような室町期を迎えます。

現代日本文化の根幹をかたちづくった室町期は、
百年ほど栄えたあと政権抗争が発生します。

門閥政治の幕引きとでもいうべき応仁の乱が
全国に波及してゆくのです。

応仁の乱以後
江戸時代をむかえるまで
長い戦乱の時代がつづくのです。

(きょうはここまで)


2008年11月26日(水曜日)

木(き)

カテゴリー: - kawamura @ 08時12分57秒

銀杏を撮影する方々へ。

この二三日がベストでしょう。

朝八時、
今朝のような快晴の日に
谷間の静寂に身をひたし
ひたすらシャッターをきりつづけるのです。

黄金の装いに身をつつみ
銀杏は空へ飛び立とうとするかのようです。

中学二年生のときに書いた詩を思い出しました。

賢治に傾倒していたころの詩です。

木(き)
       河村隆夫

風よざわめけ
燃えたて

まっ青あきぞら
焼きこがせ

枝よはばたけ
舞いたて

紅葉のはねを
撒きちらせ


2008年11月23日(日曜日)

四智転得

カテゴリー: - kawamura @ 08時32分53秒

何か月ぶりかの二連休がとれて、
いつものように朝5時に目覚めたあと
ゆっくりとものを考える時間がありました。

自分はなにをしたいのか
残された人生を
なにに捧げるべきなのかを
ぼんやりと考えました。

若いころのように
意識が澄み渡って
明鏡止水ともいうべき
雑念の消失した瞬間は
なかなか訪れることはありません。

老境に近づいている今になって
自分はなにをなすべきか、と我にとらわれ、
迷妄の思いにからめとられようなどとは
予想外のことでした。

成すべきことは山積していて
御林守河村家の歴史『遠江河村荘と河村氏』の刊行、
冑佛(かぶとぼとけ)の
実物大写真集『冑佛圖録』の取材と刊行、
クオリアのこと、
それからいま取り組みはじめたこと、
そのどれひとつをとってみても
残された人生で
足りるのかどうかさえわからないというのに、
仕事に埋没していて
なにひとつ手のつかない状況です。

まったく中途半端な人生です。

しかしそうであろうとなかろうと
私はいまやりたいことをやろうと思います。

それがなにかはブログで語ることはできませんが
私にとって究極のテーマです。

あれこれ考えるよりも
いま目の前にある全集を読みこみ
よくその本質を洞察すること、
そうして自分の血肉にすること、
そこへこれまでの思索の果実を投げ込み
熟成させて一冊の書として世に問うこと、
それに集中しようと思います。

たとえ多年を要するとも
一心にことを為し、
二障を払えば四智転得すべし。


2008年11月15日(土曜日)

原理主義

カテゴリー: - kawamura @ 08時00分00秒

まさかそこまでとは知りませんでした。

彼らは神を信じ、
共産主義という愚かなドグマを
70年間も信じることができる人々です。

一神教の彼らは、ドグマが好きなのです。

キリスト者は
十字軍の旗のもとに回教徒を殺戮し、
またスターリンや毛沢東は、
共産主義の名の下に
ヒットラーをもはるかに越える
大虐殺者となりました。

それと同じように、
アメリカもまた原理主義であると知りました。

彼らはあたかも、
地球が滅んでも自由主義経済原理は守るべし、
と言っているかのようです。

GMは破産すべし、それが資本主義である、
と言うのです。

我ら仏教徒には思いも及ばない頑なな世界です。

イスラム原理主義者が爆弾を身体に巻いて
テロ攻撃をするように、
アメリカの自由主義原理主義者は
金融時限爆弾を世界にばらまいて
アイスランド国家を破産に追い込むほどの
金融テロリストだったのです。

彼らはそれを正義と信じています。

(明日に続く)


2008年11月11日(火曜日)

心脳問題の解決方法

カテゴリー: - kawamura @ 09時35分22秒

(写真は拙著『蒼天のクオリア』)

今朝、
仕事場からの帰りの車の中で
心脳問題解決のヒントを得ました。

気がついてみれば
そんなことかと思う方法ですが、
おそらくそれが
大きなパラダイムの変革をもたらすでしょう。

この方法について、
長年考えてそこに辿りついたのですが、
それが心脳問題を解決する方法とは
気づかずにいました。

震えるような予感を感じています。

今朝舞いおりたインスピレーションは
ほんのヒントにすぎません。

しかし
それを説明をする場として、
ブログはふさわしくないように思うのです。

もうすこしこれを温めて、
茂木健一郎先生にご相談しようと思っています。

断っておきますが、
今日はエイプリールフールではありません。


2008年11月9日(日曜日)

苦海から見えるもの

カテゴリー: - kawamura @ 06時40分54秒

苦海から手をかざして
目陰に見えるのは
仏法の霊山です。

若き日に仏法の大海に漕ぎい出し
たちまち暴風に帆柱が折れ
数十年の歳月を漂流して
いまふたたび艪を失いました。

すべからく苦海の流れに身をまかせるべし
と諦観しています。

なにを食しているのかですって?

いまや我が身を食べ尽くし
骨立を風に曝しています。

それでも仏法を思うのです。

孤舟に積んだ経典の第一巻を
今朝がた読みおえたところです。


2008年11月8日(土曜日)

脳コピー機

カテゴリー: - kawamura @ 08時40分13秒

脳血管障害などで脳組織が壊れたとき
脳コピー機によって修復することができるようになるでしょう。

高性能PETによって
脳神経細胞の構造を記憶しておけば、
培養されたニューロン細胞を
もとの構造と同様につなぎ合わせて
障害のある部分と置き換え、
もとの健康な脳が復活するというのも
夢ではないのかもしれません。

植物人間もそれで蘇生するかもしれない。

理研はすごい!

この凄さは、
超、をいくつつけてもいいくらいに
超〜すごいことなのだ!!

近いうちに
実験室の培養液の中に
脳が浮かんでいるという
SF映画のような場面が現実化するでしょう。

毎日jPより

<脳組織の一部で、
 思考や運動などを担う「大脳皮質」を、
 さまざまな細胞に変化できるヒトのES細胞(胚(はい)性幹細胞)から作ることに、
 理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の
 永楽元次研究員と笹井芳樹グループディレクターらが成功した。

 胎児の段階にあたる未発達な皮質だが、
 単独の脳細胞でなく、
 数種類の細胞が数多く組み合わさった脳組織を作ったのは世界で初めて。

 将来は、アルツハイマー病などの解明や薬の開発、
 脳梗塞(こうそく)の後遺症軽減などにつながる可能性があるという。

 6日、米科学誌「セル ステム セル」(細胞・幹細胞)の電子版に論文が掲載された。

 永楽さんたちは、
 約3000個のES細胞を、直径約1センチのくぼみの中で培養液に浮かせ、
 細胞が自然に集まって固まりを作るようにした。

 必要な薬品を加えるなどすると、培養開始から46日で、
 中心が空洞の直径2ミリの球形組織ができた。

 できた組織は、4種類の神経細胞がそれぞれ層を作って重なった4層構造で、
 受精後7〜8週の胎児の大脳皮質とそっくりだった。

 神経細胞同士がネットワークを作り、各細胞が連動して同時に活動することも確かめた。

 成人の大脳皮質は6層構造。

 今回の皮質は、
 発達過程でいえば「40〜50%程度」(笹井さん)の段階に相当すると考えられるという>

脳コピー機も夢ではありません。


2008年11月1日(土曜日)

燃費のためなら女房も泣かす

カテゴリー: - kawamura @ 03時35分01秒

お父さん
もっと早く走ってくださいよ
うしろに車の列ができてます

燃費のためなら女房も泣かす〜♪
わては燃費の鬼じゃもの〜♪

お父さん
うしろの車がパッシング
おおきなダンプがついてます

燃費のためなら女房も泣かす〜♪
これも地球のためじゃもの〜♪

ただ今リッター24.5?!

これからリッター25?を目差すんや!!

せやかて
わては
わては燃費の鬼じゃもの〜♪

(ホンマに愛車プリウスは
 ただ今リッター24.5?なんやっ!

 もうちょっとおもしろいフレーズを思いついた方
 ぜひコメント欄へ!!))


2008年10月27日(月曜日)

青酸カリ=シアン化カリ

カテゴリー: - kawamura @ 07時32分46秒

青酸カリ、と聞けば
みなさん何度かお聞きになったことがあると思います。

じつはシアン化合物とは青酸化合物のことなのです。

シアンは化学式ではCNとあらわされ、
血液中のヘモグロビンの鉄と強く結合します。

本来ヘモグロビンの鉄は、
酸素と結合して全身の細胞に酸素を供給しているのです。

CNが鉄と結びついて酸素との結合を阻害するために、
体内の細胞が酸欠状態となって死に至ります。

青酸カリは探偵小説などに登場する毒物の代表です。

食品の中に
青酸化合物が混入していたなど
恐ろしいことです。

これは食の安全とか言うレベルの問題ではありません。

この数年、
企業人のなにかが壊れてしまったような事件が
相次いでいます。

金融不安など暗い世相ですが
どんなに苦しくとも
私たちはじっと歯を食いしばってこらえましょう。

朝の来ない夜はないのですから。


2008年10月26日(日曜日)

枯れ草のように餓(かつ)えた

カテゴリー: - kawamura @ 05時58分01秒

日経サイエンス今月号に
インターネットのことについて
茂木健一郎先生と
木村忠正東大准教授の
対談が掲載されています。

日本のインターネット利用者の
特殊性を表すデータが載っていました。

Wikipediaの
英語版、フランス語版、日本語版で
それぞれ話題となった単語をリストアップした表の
各国版1〜5位までを抄出してみましょう。

英語版
1.ジョージ・W・ブッシュ
2.ウィキペディア
3.米国
4.キリスト
5.2006年イスラエル・レバノン戦争

フランス語版
1.2005年2月(の出来事)
2.2004年12月(の出来事)
3.アルジェリア
4.フランス
5.(ウィキペディアの)トップページ

日本語版
1.ONE PIECEの登場人物一覧
2.舞ー乙HiME
3.ONE PIECE
4.BLEACH
5.銀魂

データ「こんなに違うウィキペディア」には
20位まで載っていますけれど
まあ5位までの内容とほとんど変わりません。

日本の特殊性が
異様なまでに際立っているのです。

英語圏、フランス語圏では
社会政治問題に関心が向いているのに
日本ではすべてがアニメ関連で占められています。

これをどのようにとらえたらよいのか。

首相がいかに漫画好きとはいえ
日本国民全体がアニメ漫画オタク
というわけでもありません。

それとも
インターネット利用者の年齢層が
日本だけ極端に若年層に傾いているのでしょうか。

Mixiなどを見れば、そうとも思えません。

そうすると
30代、40代までアニメや漫画に
関心が集中しているということなのでしょうか。

それとも
日本だけインターネットの利用法が異なっていて、
社会問題や政治問題を調べるときには
書籍や新聞など
他の媒体を用いているということなのでしょうか。

あまり言挙げしたくないことですが、
日本人が
社会や政治問題にまったく関心を失ってしまった
ということなのでしょうか。

アナキーな状況が国民全体に蔓延していて
社会経済政治問題への参加を
どこかで諦めてしまったようにも思います。

悲しいかな
これが真相なのでしょう。

100年に一度という金融危機のさなかで、
政治への信頼を失い
社会への関心さえ失って、
枯れ草のように餓(かつ)えたこの国民感情に
なにかの拍子に火がつかないといいのですが。


2008年10月21日(火曜日)

巌頭之感

カテゴリー: - kawamura @ 16時58分11秒

人生の浮沈に心ゆれるとき
しらず口ずさんでいる言葉があります。

曰く不可解、
この一節で知られる藤村操の巌頭之感。

悠々たる哉天壌 遼々たる哉古今 
五尺の小躯を以て 此大を測らんとす 
ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ 
万有の真相は唯一言にして悉す 
曰く不可解 
我れ此恨みを懐いて煩悶終に死を決するに至る 
既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし 
はじめて知る 大なる悲観は大なる楽観に一致するを

明治三十六年五月、
この辞世を残して
若干十八歳の一高生、藤村操が華厳の滝に身を投げたことは
世に知られているところです。

十八の少年ゆえ
それほどの哲学を内包している句ではありませんが、
それでも若い気概を感じるのです。

悠々たる哉天壌 遼々たる哉古今
五尺の小躯を以て 此大を測らんとす

この気宇の壮大、苦悩の深淵に比べれば
我が哀しみのいかにちっぽけなことか。

運命を乗り越え
私は生きようと思います。


2008年10月13日(月曜日)

フェルメール展

カテゴリー: - kawamura @ 09時01分28秒

土曜の夜
旧友の望月君と横浜で再会しました。

望月君は横浜市立大学教授ですが
学生時代からずっとつきあっている
気のおけない仲間のひとりです。

おたがい良く飲むし良く食べるし、
時をわすれて語り合い、
気がついたころには
おおかたテーブルの上のものは消えてしまって、
立派なメタボが二人できあがっていたというわけです。

横浜駅に一泊して
翌日フェルメール展をみることにしました。

早朝のことでしたので100人ほどの列ですみました。

会場はラッシュアワーのようで
順番にみていたら一日かかってしまうほどです。

さきにお目当てのフェルメールだけをみることにしました。

ヘッドフォーンの解説を聞きながら
やがて解説が途絶えたあとも
じっと見つづけました。

ヘッドフォーンのおかげなのか
会場の雑踏がフェードアウトして
やがて全身が静謐につつまれました。

会場にひとり立っているかのように感じられました。

そこは17世紀のデルフトの街なのですが
音がしないのです。

私は「手紙を書く婦人」のまえに立ちつくしました。

左上の高い窓にかかる
カーテンのかがやきを見つめているうちに、
なんだか涙があふれてきました。

フェルメールがどれほどこの世を愛していたのか
わずかな光を
ひかりそのもののやわらかさを
かれの繊細な指で
掬いとろうとしているかのようにみえました。

椅子の藍いろの布にあたるかすかなひかりさえ
しずかな音楽を奏でていました。

婦人の耳や手くびに燦めく宝飾品もひかりをやどして
ピアノの音のしずくのようでした。

いちめんにしずかなひかりの賛美歌が聞こえるようでした。

私はいつまでも立ちつくしていました。

頭の大きなおじさんが
いつまでもいつまでも立ちつくして
会場のみなさんにはとても迷惑をかけたのだろうと思います。

ごめんなさい。


2008年10月1日(水曜日)

勘違いなさらぬように(4)

カテゴリー: - kawamura @ 09時18分22秒

年齢別人口分布グラフをご覧になって
不思議に思いませんか?

第一次ベビーブームで生まれたのは、
太平洋戦争から復員した兵士たちの子供、
57歳から61歳までの5年間で1000万人強。

第二次ベビーブームは第一次ベビーブームの子供たち、
33歳から37歳までの5年間で1000万人弱。

第一次から第二次までは25年間経っています。

ところが、
第二次ベビーブームの5年間で1000万人もいるというのに、
それから25年以上経ったいまも
第三次ベビーブームが来ないのです。

どうしたことでしょう。

戦場で銃弾をかいくぐってきた兵士の子は
第一次ベビーブームで学生運動、
催涙弾の飛びかう中でゲバ棒をふるった学生の子は
第二次ベビーブームで校内暴力、
学校の窓硝子をバットでたたき割っていた少年たちの子は
ついにベビーブームを成しませんでした。

どうしたことでしょう。

少子化の理由はいろいろ考えられるのでしょうけれど、
その対策を法制化して効果が現れるまでには
ずいぶんと時間がかかるでしょう。

我ら団塊の世代はすでに引退の時期を迎えています。

とすれば、
第二次ベビーブームの1000万人に期待する他はありません。

彼らにこの国の牽引者となってもらうほかに
なにか方策があるのでしょうか。

(つづく。
 河村祭シリーズと交互に書こうと思います)


2008年9月29日(月曜日)

勘違いをなさらぬように(3)

カテゴリー: - kawamura @ 15時23分46秒

ひとつのグラフが
日本の未来を予見させます。

年齢別人口統計のグラフです。

2008年現在(Wikipedia2006年人口より)
57歳1,952千人
58歳 2,102千人
59歳 2,306千人
60歳 2,289千人
61歳 2,176千人

上記の合計人口は10,825千人。

10年後、
67歳〜71歳の合計人口が1000万人ほどになることは、
上記グラフをご覧いただければ一目瞭然です。

1000万人が
労働者から被介護者に変わってゆくのです。

1000万人の年金と医療費と介護費用とを
それにつづく若い勤労世代が負担するのです。

少子化は改善されず、
すでに2005年から日本は人口減少社会に突入しました。

この明らかな事実をふまえて
社会制度を整備しなければなりません。

(つづく)


2008年9月28日(日曜日)

勘違いなさらぬように(2)

カテゴリー: - kawamura @ 06時45分16秒

私がどれほど過激に見える発言をしても
私はコミュニスト(共産主義者)ではない
と昨日申しました。

文化と伝統を守るという基軸は
揺るがせてはならないと考えているからです。

守るとは
刻々と変容することですらあるのです。

一見矛盾しているように思われるかもしれません。

我が家の家訓のひとつに
「代々初代」というものがございます。

守るとは
頑なに形骸を固守することではなく、
代々初代の気概をもって
変化する世に融通無碍に適応することである
というのです。

核となる文化伝統は独楽(こま)の中心にあって、
周辺はめまぐるしく変転する時代に合わせて回転しながら、
涼やかに静止して立っている。

それがこの日本を守る姿勢にもつながれば良いのに
と思っているのです。

日本が今のような危機的状況にあるとき
ナントカ主義というようなお題目は
意味を成しません。

資本主義にせよ共産主義にせよ
そのように古びたドグマはすでに過去の遺物とすべきで
愚かしい幻影にとらわれていれば
その魔手に国家の足を掬われます。

『五輪書』の流水のように、
敵の位を見分けながら
いかほどにもゆるゆるとよどみの有るように、
大きく強く打つのです。

頑なに教条にとらわれていれば、
身動きがとれずに負けるのです。

ところで本当に日本は危機的状況にあるのでしょうか。

それはひとつのグラフを見ればあきらかです。

(つづく)


2008年9月26日(金曜日)

ミシュレ

カテゴリー: - kawamura @ 06時17分45秒

選挙がちかいからと云うわけでもないけれど、
ミシュレの『フランス革命史』を読みかえしています。

この文体は、一種の発明です。

躍動する革命の様相を、
見事に的確に描写しています。

日本の東海の山村で
御林守河村家の居宅が完成するすこし前に、
フランス革命が勃発しました。

それは明治維新のような階級内権力闘争ではなく、
圧政に苦しむ市民の蜂起、市民革命でした。

翻って幕末から明治にかけての日本の平民は
維新の闘争に参加していません。

ご承知のように
日本の民主主義はマッカーサーの贈り物です。

フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの首を、
市民がギロチンで切り落として手中にしたフランスの民主主義と、
日本の民主主義とではその出自が全く違うのです。

おそらく、
日本人の政治的心情はいまだ江戸時代で、
我らはあまり御上の政治には期待せず、
興味もなく、
意地悪ばあさんや横山ノックを知事にしたりして楽しんでいます。

江戸時代よりもはるかに過酷な法に縛られ、
5000万件の年金が不明になっても怒るでもなく、
被虐的な被支配者根性にどっぷり浸かったまま
華やかな首相交代劇に魅了されているのでしょうか。


2008年9月24日(水曜日)

アダージョ・アルビノーニ

カテゴリー: - kawamura @ 06時09分21秒

ヴェニスは美しい街で
私はずいぶん昔、二度訪れたことがあります。

アルビノーニはそのヴェニスで生まれました。

18世紀のヴェニスは、
市民の日常生活さえ歌に満ちあふれ、
すべての階級において音楽の占める比重は大きなものでした。

ヴィヴァルディが奉職し、
ジャンジャック・ルソーが記録にとどめた
ヴェニス音楽の至宝のひとりがアルビノーニです。

彼の音楽の、
とくにアダージョを聞く朝は
やわらかな幸せにつつまれます。

私がアルビノーニをこんなに好きなのは、
アルビノーニがアマチュアだからでしょうか。

鬼面人を驚かすような
絢爛たる才能というのでもなく
ほととぎすそのかみやまのたびまくらほのかたらひしそらずわすれぬ
とでもいうような、
やさしくあまくやわらかな感覚。

それを私は愛しているのです。


2008年9月21日(日曜日)

自分を欺きつつ

カテゴリー: - kawamura @ 07時00分59秒

誰もが自分を欺きつつ生きてゆくのでしょう。

というのは
「溢れんばかりの教養を感じます。
 羨ましい。嫉妬さえ感じます」
というお褒めのコメントをいただいて
複雑な心境になったのです。

コメントをくれたかずちゃんを
私はよく知っているからです。

彼は先日、
日本経済新聞の一面を飾ったような
十年がかりの大きなプロジェクトを
成し遂げようとしている企業人です。

彼ら企業家が
若き日に見た自らの可能性を棄てて、
それはスポーツであったり、
あるいは絵画や音楽の道であったりするのですが、
若き日の彼らが
人間らしく生きられると信じたその道を棄てて、
自分を欺きつつ事業に没頭して生きてきたことを
知っているのです。

この激しい競争社会で成功を収めるには
どれほどの犠牲を払わねばならないのか。

また、
上場企業の副社長まで登りつめた別の知人が
「ここまで来るのに
 どれほどのものを棄ててきたか分かりますか」
と吐き捨てるように言った酒席の言葉も思い出されます。

しかしこれは彼らのような成功者に限らず、
私たち誰もが胸の奥に秘めている言葉ではないでしょうか。

青年期に描いた甘い夢をあきらめ、
ある者は会社に勤め、また個人事業を興し、
あるいは家業を継いだりして、
苦い種を噛みながら生きているのではないでしょうか。

誰もが自らを欺きつつ、
それでも歯を食いしばって生きているのではないでしょうか。

それが生きることのようにも思います。

私がそのような挫折感のなかで
「随所徹立所皆真」
という言葉に辿りついたことは、
拙著『蒼天のクオリア』に書き記しました。

私はたまたま若き日に文学をめざし、
文章を書き慣れているというのにすぎません。

おそらくほとんどの人は、
若き日の可能性を棄てて成功を勝ち得たかずちゃんにこそ
強い嫉妬を憶えるでしょう。

悩める若者たちに申し上げたい。

若者が自分らしく生きたいと願うのは
古今を通じて変わらぬ姿です。

しかしそれは不可能で、
誰もが自らを欺きつつ、
苦い種を噛みながら生きているまさにその姿に、
輝く人生の実相があるのです。

一歩一歩よろめきつつ歩むその姿こそ、
自分らしく生きていると云うことなのです。


2008年9月20日(土曜日)

老いてゆくこと

カテゴリー: - kawamura @ 09時01分40秒

二十歳の青い苦悩と
いまの枯れてゆく悲しみと
比較することなんてできません。

でも老いてゆくことは
ほんとに悲しみなんでしょうか。

たしかに眼は見えにくくなって
かんたんな字も忘れるし
一分前に言えた名前も言えなくなるし、
良いことなんか何もないように思えるけれど
年を重ねることはほんとに
悲しいことばかりなんでしょうか。

(僕ら団塊の世代は
間もなくこの国のお荷物になってゆくのは必定ですから、
 僕らが上手に老いて、
 若者の負担を減らしてゆくことは
 これからの日本にとって
 とても大切なことになるでしょう)

視点を変えれば
老いてゆくことは
欲望から解放されてゆくことでもあります。

焼きつくような二十歳の性欲も
いまはすっかり失われて、
日々の苦悶からも解放されました。

あくなき食欲も失せ、
自分の嗜好に合わせた
少量の食で満足しています。

これはまさに
若年の日に憧れた「足るを知る」世界です。

いよいよ老境に近づき
すべてを達観する日がそこまで来ていると思えば
寿ぐべきことです。

僕らには若者にない経験の蓄積があります。

遙かな春秋の記憶があるのです。

物忘れは始まっても
年月をかけて刻まれた思考回路は残っています。

その生きた智慧を
さりげなく若者に伝えましょう。

たとえばこんな言葉。

「あなたが思っているより
 他人はあなたのことを考えてはいません。
 あなたが知らないだろうとひそかに思うより
 他人はあなたのことを知っています」


2008年9月19日(金曜日)

考えることと書くこと

カテゴリー: - kawamura @ 08時04分28秒

考えていることは
書かないようにしてきました。

「論理は最低の真理である」
と若いときに思いこんでしまったので、
理屈をこねるのは
みっともないことと
ずっと思っていたのです。

たとえば
「人間が歴史から学んだことは、
 歴史から何も学んでないということだ」
というようなことについてあれこれ述べ立てることは、
たどたどしく、くだくだしく、
とても私の美意識にそぐわないと思っていたのです。

もっとすっきり
詩のように表現することが、
積みかさねる論理をひらりと飛び越えるようで、
素肌に直にしみてくる感覚が得られるように
思えたのです。

ブログもそのように思っていました。

でも、
論理の踏み台を蹴り上げて、
たかく舞いあがる詩の翼がひろがる日は
まれにしか来ません。

ですから、
今まで書かなかったこと、
つまり私が何を考えているのかと云うことを、
これから書こうと思うのです。

ブログはそれにふさわしく、
日々考えていることを、
記録してゆくのに適しています。

なぜこんなふうに思いはじめたのかというと
「学力は低下していない?」シリーズが
友人からほんの少し反響があったからです。

なにか新鮮な切り口を見つけたとき、
それがいままで意図的に避けてきた時事問題であれ、
永遠の宗教的真理についてであれ、
シリーズを立てて書きこんでみようと思うのです。

つたない思索の記録は、
自分のためにも、
そしてそれがほんの僅かであれ
ひとの為になるのであれば、
日々考えていることを
これから書こうと思うのです。


2008年9月2日(火曜日)

逆境が必ずしも不幸とはいえない

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分25秒

鳥肌が立ちました。

足もとから鳥肌が立って
どうしようもありませんでした。

NHK「プロフェッショナル」
科学者・小池康博を見たのです。

夏期講習期間中に録画しておいた中で
いちばん見たかったものでした。

プラスティック光ファイバーの開発者
小池康博。

光ファイバーに小池康博のプラスティックをつかうことで
これからさまざまな可能性が拓けてきます。

小池は大学院時代にプラスティックに出会って、
それから14年間、
鳴かず飛ばずの日々を送ります。

月曜から土曜まで研究室に籠もって
プラスティック光ファイバーの開発に没頭したのです。

土曜の夜、
独身の小池は、
ひとりでジャズを聞いて、
さまざまのことを考えたといいます。

14年後。

アインシュタインの光の方程式にヒントを得て
不純物の量を減らしてみました。

数メートルしか届かなかった光が
100メートル先まで到達したのです。

その瞬間を、
今でも昨日のことのように憶えていると言いました。

小池はこんなふうにも言いました。

「逆境が必ずしも不幸とはいえない」

さまざまの試練は
その人を磨きあげてくれるのです。

科学することを愛していれば、
生きることの深い意味を愛していれば、
逆境は必ずしも不幸とはいえないのです。

逆境は必ずしも不幸とはいえないのです。


2008年8月29日(金曜日)

レイモン・ラディゲになれなかった

カテゴリー: - kawamura @ 09時49分04秒

「ぼくはもう二十歳なんです。
 それなのにひとつも名作が書けなかった」

ぼくはそういって声を上げて泣きました。

教授は目を丸くして

「そうか」

とだけ言って、うつむいてしまいました。

二十歳のぼくはランボーやラディゲと競うつもりで
いたのです(笑)。

アルチュール・ランボーは
19歳にして詩集『地獄の季節』をあらわし
20歳で惜しげもなく筆を棄てます。

ラディゲは
『肉体の悪魔』と『ドルジェル伯の舞踏会』をものして
20歳で病死します。

どれほど彼らに憧れたか、
ぼくがどれほど彼らの栄光と悲惨に酔いしれていたのかは
冒頭のぼくの言葉でお分かりでしょう。

天才と夭折、
それはぼくにとって
生きることと等価でした。

激しく生きて傑作を残し、二十歳で死ぬ、
それ以外の人生なんか考えられなかったのです。

ところで、いまのぼくは57歳、
来週から梅の木の剪定をはじめようと思っています(笑)。

あれから40年近い歳月が流れました。


2008年8月21日(木曜日)

『十五少年漂流記』が好きです

カテゴリー: - kawamura @ 06時12分28秒

熊懐女史は
フランス語のTOIEC980点という
極めつけの才女でした。

島田進学スクール講師に応募してきましたので、
その採用面接をしたときのことです。

「広島大学の博士課程では
 どのようなフランス文学を専攻されたのですか?」

「ラブレーです。ガルガンチュアとパンタグリュエルとか」

「ああ、あのう○こまみれの物語ですね」

「どうして知ってらっしゃるんですか?」

熊懐女史は目を丸くして驚いていました。

こんな田舎町の塾に、
なんでラブレーを読んだ男がいるんだ、
みたいな感じでした。

私は専門が物理化学で、
文学を正規の課程として学んでいません。

ですから、いろいろ女史から教えていただこうとして、
それ以来、小説の話しを何度かさせていただきました。

女史は人格も温厚なかわいらしい女性で、
私のつたない文学談義にもつきあって下さいました。

ジッドの作品について話していたとき
「ところで熊懐先生がいちばん気に入っている小説は何ですか?」
と聞くと、しばらく考えて、
「『十五少年漂流記』が好きです」
と答えられました。

目の醒める思いでした。

これには、私も思わず唸らせられて、
「かっこいいですね」
と答えるしかありませんでした。

おそらくは西洋文学のすべてを、それも原書で渉猟し、
フランス語・英語の微細なニュアンスさえ心得ている彼女をして、
「『十五少年漂流記』が好きです」
と答えさせたものは何だったのでしょう。

私はこの言葉がとても気に入って、
小説談義に花が咲くと
「私は『十五少年漂流記』が好きなんです」
と少年のように目をキラキラさせて答えることにしています。

そのときの相手の反応が楽しみなのです。

フン、と、かるく鼻をもちあげて、
「ホフマンスタールなんかが私は好きです」
とか相手が言おうものなら、
苦笑をかみ殺しながら、
「『アンドレアス』はどう思われますか?」
などと、すかさず論争をふっかけたくなるのです。

(つづきは後刻)


2008年8月20日(水曜日)

失われた小説たち

カテゴリー: - kawamura @ 07時16分38秒

『緑の館』もそうですが
40年前に読んだ文庫本のほとんどは
私の書棚から消えてしまいました。

オードゥーの『孤児マリー』なんかもそうです。

ラクルテルの『反逆児』、
シュティフターの『水晶』、
ガルシンの『紅い花』、
ロープシンの『青ざめた馬』、
ゴールズ・ワージーの『林檎の樹』、
コンスタンの『アドルフ』、
コレットの『青い麦』、
シュトゥルムの『みずうみ』、
モーリアックの『愛の砂漠』、
マイヤー・フェルスターの『アルト・ハイデルベルグ』、
ノヴァーリスの『青い花』、・・・

こういったちょっとマイナーな文庫本を思い出すと、
なつかしいカバヤのドロップの、
色とりどりのひとつぶひとつぶに特有のクオリアが宿っていたように、
記憶の一冊一冊から燦めくような香りが立ち上がってきます。

薄い本をひらくと宇宙が広がり、
渦状星雲に吸いこまれるように、
時を忘れて読みふけったのでした。

耳順に間近な私ですが、
時折、記憶のちいさな文庫本たちを思いおこしては
それぞれの馥郁たる香気を楽しんでいます。


2008年8月19日(火曜日)

『緑の館』

カテゴリー: - kawamura @ 06時13分52秒

茂木健一郎先生は
いまコスタリカの密林にいます。

密林に溶け込み、
幻の鳥ケツァールにまみえたとき、
先生は『緑の館』のリーマを思いおこしたのです。

ケツァールは絶対秘仏のように
写真に納めようとしてもそれを拒否する幻の鳥。

しかし私には
先生に衝撃を与えた秘鳥ケツァールと、
そのときよみがえった『緑の館』のリーマと、
そのクオリアの鮮烈さはどのようだったのか
ということに思いをそそられます。

つまり、
天才の頭脳の中で
仮想と現実とはどのように拮抗し
どのように共鳴し合うのかということです。

アンリ・ルソー、ゴーギャン、田中一村、
これら密林の幻想と、
眼前に舞う極彩色の秘鳥ケツァール。

色彩の仮想と現実が織りなす世界のむこうに、
『緑の館』のリーマを思い描く。

茂木先生の脳の深くに広がる『緑の館』の密林とリーマ。

そしてコスタリカの森の闇に
曳光を引いて乱舞する無数の蝶。

『熱帯の夢』(集英社)の出版を待ち望みます。

(つづきは後刻)


2008年8月5日(火曜日)

縁起観?

カテゴリー: - kawamura @ 05時50分04秒

「此生ずるに依りて彼生ず。此滅するに依りて彼滅す」

ホントかな?と思う。

以下、講義中に思いついた走り書きを転載します。

**********************

原因があって結果があるわけではない。

このような結果を招いたのは、
おそらくこれが原因ではなかろうかと
類推するにすぎないのであって、
結果と呼ばれる現時点から過去に遡って
その理由らしきものを恣意的に探り当て、
それを原因と呼ぶのである。

**********************

物理の世界では明確な因果関係が成り立っているはずだ、
と思われるかもしれませんが、そうでもないのです。

数式化されるのは理想的な場合で、
つまりそれは観念の世界でのみ成り立つのです。

現実にはそのときどきの条件下で
いくつもの補正をしなければなりません。

たとえば大砲の弾がどの地点へ着弾するのかを
正確に知ることなどできません。

風速や湿度や砲身の振動などの
無数の条件を加味しても
それですべてではありません。

ましてや実生活のなかで起きる出来事に
明確な因果関係を求めることなど
できようはずもないのです。

たとえば交通事故が起きたとしましょう。

交通事故という結果をもたらした原因を明確にすることなど
不可能だということを
どなたも認識していらっしゃるでしょう。

まあそれではおさまりがつかないので
いちおう「わき見運転」とか「速度超過」とか
それらしい理由を考え出すにすぎないのです。

私が結果的にこうなったのは、あのときああだったのが原因に違いない、
という程度の類推にすぎないので、
すでに消滅した過去に原因を求めることは
現在を生きるための気休めにすぎないようなところが
あると思いませんか?

「此生ずるに依りて彼生ず。此滅するに依りて彼滅す」

それはホントのことでしょうか?


2008年8月2日(土曜日)

ロシア文学とぼくらの時代(6)

カテゴリー: - kawamura @ 07時32分53秒

学生時代、
それはいまから35年ほどまえ、
ながい夏休みに、
ふたつの演劇部に所属していたころのことです。

(深山さんはこのあたりのことをご存じかもしれません)

「モーターサイクル・ミュージカルショー」で舞台に立つ以前に、
私はもうひとつの演劇部で、
シーリングの2という役をやっていました。

シーリングというのは照明係のことで、
観客席の真上の
屋根裏のようなところに寝そべって
舞台に照明をあてる役目です。

台本通りにやればいいとはいえ、
台詞と照明のタイミングをあわせるのは、
それなりの難しさもあります。

そうそう、
チエホフとの出会いをお話しするのでした。

それは終幕の
最高に盛りあがるシーンで、
演劇部に所属していたとはいえ
いまは上演していた劇のタイトルもなにもかも忘れてしまって、
そのシーンだけが強烈に思い起こされるのです。

ほそい骨組みを踏みはずせばそのまま観客席に落下しそうな、
ひくい天井の屋根裏に寝そべって、
私は台本通りに役者たちに照明をあてていました。

いよいよ最後のシーン、
抱擁する男女にあてていた照明を
いっぱいに絞って、
カターンと真上に外すのです。
(そのカターンというのがとても難しいのです)

その一瞬舞台は真っ暗になり、
同時に幕が降りるというわけです。

私はそこでチエホフに出会ったのです。

役者が最後に叫びます。

「アントン・パーロヴィッチ・チエホフだった!」

その声は闇にのまれて、
つぎの一瞬幕が降り、
しばらくの静寂のあと
観客席から拍手が沸き起こるという最終シーン。

それだけのことなのです。

チエホフの名は知っていましたが
そのときはじめて
チエホフのフルネームを知りました。

たしかにそれだけのことなのですが
感動的な音楽が流れていたからなのか、
私にはなぜかそのときはじめて
チエホフに出会ったような気がしたのです。

あのロシア文学にお決まりの
没落してゆく地主貴族たちの物語を、
そのときなぜだか切なく思い起こしたのです。

桜の木に斧をあてるあの音を、思い起こしたのです。

カターン、と照明をあげるときの音から
それは連想されたのかもしれません。

いまでも耳を澄ますと
記憶の屋根裏の闇の向こうから
その音が聞こえてくるような気がします。

それが、わたしとチエホフとの出会いでした。


2008年6月25日(水曜日)

ロシア文学とぼくらの時代(5)

カテゴリー: - kawamura @ 07時03分47秒

ほんのワンフレーズしか憶えていないのですが、
どなたか、この歌の名前を知っていますか?

 五列縦隊の 
 分列行進
 羽を生やした幻の軍団
 花の炎を 
 めらめら燃やせ
 真っ赤な色した
 お空のために

この歌は、
私が演劇サークルに所属していたころに上演した
「モーターサイクル・ミュージカルショー」の中で
唱われていたのです。

それはいまから40年ほどまえ、
土方巽や笠井叡が活躍していたころのことで、
つまりアングラと呼ばれた演劇の時代でした。

せまい部室のなかに舞台がしつらえてあって
うす暗い舞台の真ん中に
500CCくらいのバイクが
青い煙を出して
ぶるんぶるんいっているのです。

ガソリンの臭いが立ちこめて
舞台の後ろの暗がりで
演劇部員たちがさっきの歌を唱っています。

私はなぜだかそのバイクの前
つまり舞台の一番まえに立って
なにか台詞をしゃべっているのです。

舞台の記憶はそこまでしかありません。

演劇が終わったあと
大学の前のうらぶれた居酒屋で打ちあげをしました。

私は新米部員で
あんまり居酒屋で騒いだという記憶はありません。

おとなしくしていたのだと思います。

飲み会のあと
ひとりの女性とどこかの部屋へ行きました。

ぼんやりとしか憶えていないのですが、
オーケストラの部室だったような気もします。

とても綺麗な女性でしたが、
朝まで手を握ることもなく話しつづけました。

なにを話したのか、
当時はまだ女性がジーパンをはくのはめずらしい時代でしたが
その女性が紺のジーパンをはいていたことぐらいしか
憶えていません。

この話は、ここまでにしましょう。

さて、
私はそのころもうひとつの演劇部に所属していて、
そこでチエホフと出会ったのです。

(妻が起きてきたので、きょうはここまで)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年6月24日(火曜日)

ロシア文学とぼくらの時代(4)

カテゴリー: - kawamura @ 05時31分27秒

『アンナ・カレーニナ』のことを酷評する人は
この世にいそうもありません。

あれほどの長編で
微細にわたって磨きあげられた優美な作品を
他に挙げよといわれてもちょっと思いつきません。

美少女の恋人である青年士官を
舞踏会でひと目で虜にしてしまう貴婦人アンナの美貌は、
ポーの『赤死病』の最後の
仮面舞踏会の美と恐怖のシーンをさえ思い起こさせます。

美とは恐ろしく残酷なものだという言葉を
彷彿させる名場面です。

豪奢なロシア貴族社会を織りなす絵巻物に
砕かれた宝石のように一面に撒かれた布石が、
やがてひとつの破局に向かって収斂してゆく。

ドストをして完璧と言わしめたほど、
青磁のようにやわらかな光沢を放つ
非の打ち所のない作品なのに
かえってその瑕疵のないところが
私には気になるのです。

さりげなく物語に撒かれた宝石の破片、
その布石が気になるのです。

実人生に布石は存在しないからです。

それは後になって
あのときこうだったからこうなったのだと気づくのであって、
はじめからそれが分かっているわけではないのです。

ですから、
トルストイの物語をなめらかに繋ぐ布石が
いかにもできすぎている感じを与えているように
私には思えてならないのです。

因果とは後付の理屈にすぎないからです。

(『アンナ・カレーニナ』が古今に比類ない名作であることは
 私も承知しています。
 でも、いちどしかない人生ですから、
 どれほど世評の高い作品であろうと、
 自分にとって何が真実であるのか、
 それだけは大切にしたいのです)

ところで、
みなさんは東山魁夷の白馬を
どのように思われますか?

私は、
あの白馬がなければいいのに、
といまでも思っています。

いかがでしょうか?

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年6月21日(土曜日)

ロシア文学とぼくらの時代(3)

カテゴリー: - kawamura @ 08時25分17秒

トルストイの『人生論』に
水車について考察する件りがあります。

それはまるで「ミリンダ王の問い」じゃないか、
と驚いた記憶があります。

トルストイは、
当時のヨーロッパの貴族たちからも
羨望のまなざしを向けられていた名門ロシア貴族で、
しかも階級制度やロシア正教にも疑問を投げかける
悩める伯爵でもありました。

彼の作品中でもっともキャラ立ちしているといえば、
『戦争と平和』のアンドレイ・ボルコンスキイをおいて
他にないでしょう。

それはまさにノーブレス・オブリージュの化身のような伯爵です。

トルストイは理想化された自己の似姿を描いたのでしょうか。

それはナポレオンとロシアとの戦いを背景に、
高潔さゆえに苦悩する青年将校の物語です。

そうなのです、トルストイの小説は壮大な物語で、
ドストのようにしつこく、
何度も何度もくりかえし宗教について
泡を飛ばして語るようなところがありません。

トルストイの作品にあふれる博愛精神は理解します。

それに傾倒した白樺派から
『友情』なんかがあらわれてくる経緯も分かります。

でも、ボルコンスキイには、
名作に不可欠なあの悪魔的な深みがない、
人間の宿業ともいうべき闇の宇宙が見えないのです。

プーシキンの『スペードの女王』のような
五欲の業に鷲づかみにされて身を滅ぼす人間の宿痾が、
ボルコンスキイの背後には見えないのです。

それは名門伯爵トルストイの限界なのでしょうか。

しかしボルコンスキイが人間として美しいことはたしかです。

正直なところ、
私だってボルコンスキイには憧れます。

すべての小説のなかで、
私がいちばん好きなのはボルコンスキイだ
と言ってもいいでしょう。

あの高貴な人格には、だれだって憧れるでしょう。

トルストイがロシアの民衆に熱狂的に愛されたことも
頷けます。

それでも私は、ドストを推したい。

なぜって、
ドストのえがく苦悩にみちた濃藍の宇宙は、
私の青春そのものだからです。

(もっとも、ぼくらの時代、
 ローマ軍のファランクスのようにゲバ棒が林立していたあの時代に、
 ロシア貴族の物語はあまり受け入れられなかったのかもしれません。
 とはいえ、トルストイはほとんど無政府主義者だったのですが)

ドストもトルストイも
ロシア革命前夜の腐敗と矛盾に支配された社会を、
ひとりは悪魔的な側面から、
もうひとりは博愛精神の光をあてて描いたのでしょうか。

このように疾風怒濤の時代に生まれた作品は、
人生の波濤に翻弄されている若者たちに、
時代を越えて読み継がれるのでしょう。

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年6月19日(木曜日)

ロシア文学とぼくらの時代(2)

カテゴリー: - kawamura @ 05時57分55秒

ドストエフスキーにのめり込んだのは
もう40年も前のことですから
記憶はおぼろになってしまいましたが、
かえって余計なものがふるい落とされて、
エッセンスだけが
浮かびあがってくるような気もします。

一作を挙げよと言われれば、
私はためらわず『悪霊』を推すでしょう。

ドストエフスキーの作品の中で
もっとも鮮明な人格といえば、
スタブローギンでしょうか。

素手で熊をも殺す怪力と
怜悧な頭脳と
美貌を合わせもつ貴族の青年ですが、
氷のような無神論者です。

凡そ世界の名作と呼ばれる小説は
悪魔的で複雑な魅力を持つ
新しい人格を創造しています。

『嵐が丘』のヒースクリフ、
『白鯨』のエイハブ船長、
『罪と罰』のラスコーリニコフ、
などがそれでしょうか。

『悪霊』のスタブローギンも
それらに劣らぬ凄絶なキャラクターです。

人間の理性を信奉し
神をないがしろにする彼の末路は、
ちょうど共産主義という理性万能の思想が
ソ連邦の成立から70年しかもたなかったように、
悲惨な最期を遂げるのです。

ドストエフスキーは
退廃に堕したロシア正教会を嘆きながらも
共産主義思想に傾くことなく
信仰こそ人間存在の根底であると
訴えつづけた作家のように思います。

癲癇(てんかん)持ちであった彼は、
しばしばその発作に襲われ
そのとき宇宙の中心を駆けぬけてゆくような
神秘体験をしたとも吐露しています。

大いなるものへの畏怖と信仰は
その体験に根ざしているのかもしれません。

ところで
私があえて『カラマーゾフの兄弟』を選ばないのは、
上述した作品のような燦然としたキャラクターが
見られないからです。

カラマーゾフが偉大な大作であることは
言を俟ちません。

ドストエフスキー畢竟の集大成であることも同じです。

しかし、アリョーシャは
すこしキャラが弱いように感じませんか?

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年6月18日(水曜日)

ロシア文学とぼくらの時代

カテゴリー: - kawamura @ 07時07分34秒

ぼくらの時代には、
ロシア文学は血肉のようなものでした。

ぼくらの時代、
それは学生運動の最後の炎が
一瞬の光芒を輝かせて消えていったころのことです。

私の大学入試直前に安田砦の攻防戦、
おかげで東大史上に例のない
入学試験を中止した年となりました。

さらにフランシーヌ・ルコントが死んだのは
私の大学入試直後の3月30日、
その日は私の誕生日なんですっ!

学生運動の嵐はさらにつづき、
まもなく浅間山荘事件、
やがて日本赤軍の無惨な内ゲバなどがあって、
それが学生運動の末期の姿だったと知るのは、
もっとずっと後になってからのことでした。

私たちにはそれらの出来事が
革命前夜のようにも思えましたから、
ノンポリの私でさえ高揚して、
国の将来や人生のあるべき姿についてなど、
口角泡を飛ばして深夜まで語り合ったものでした。

マルクスが盛んに語られていたからなのか、
それともまだ
明治以来の教養主義の名残があったからなのか
ロシア文学が好んで読まれました。

あの独特の暗さをもつロシア文学が
明治期に翻訳されたのは、
ロシア革命以前の未開の地を思わせる暗さが
ちょうど明治維新後の人々にとって
江戸時代を彷彿させたからなのでしょうか。

(もっとも江戸時代を闇黒であったとするのは
 もっぱら明治政府を正当化するための
 プロパガンダであったにせよ、
 革命期のあとの文明開化の奇妙な明るさのなかで
 明治の人々が江戸時代を思い描くときには
 そのような暗さをたしかに感じていたのかもしれません)

そういう意味で、
革命とか維新とか、
そんな言葉がもてはやされていたぼくらの時代にも
ロシア文学はうってつけだったのかもしれません。

カミュやカフカやサルトルなどの
フランス文学のエスプリの効いた世界よりも
いまだ高度成長前の
農村社会の風景を多分に残していた日本にふさわしいのは
ロシア文学だったのでしょうか。

だれもが必読書のようにドストやトルストイを読みました。

私はもっぱら新潮文庫派でしたから
あのブルーグレイのドストの表紙を
いまでもぼんやりと覚えています。

ドストの写真が載っていたように思います。

のめり込むように、次からつぎへと読みました。

カラマーゾフだけは筑摩だったか、
二巻に分かれていて
全集本だったように記憶しています。

クリーム色のハードカバーで、
長いあいだ枕頭においていたのを覚えています。

大審問官なんかは何度読みかえしたことでしょう。

ドストを皮切りにして
プーシキンやトルストイやロープシンやゴーゴリや、
数えあげればきりがありません。

あの暗く不安な文学、
いまそれらをすべて思いおこしたとき
いったいロシア文学のあの未明の世界が
どうしてそれほど魅力的だったのか、
ぼくらの時代にどのような意味を持っていたのか
もういちど考えてみたくなりました。

というのは、
昨日の朝、車のラジオで、
ふたたびロシア文学が脚光を浴びはじめたと
聞いたからです。

何度かシリーズで書いてみようと思います。

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月30日(金曜日)

時空間のお話し

カテゴリー: - kawamura @ 05時56分09秒

きょうは時空連続体や次元のお話しをするつもりです。

空間認識能力の不思議などについてです。

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月28日(水曜日)

授業の可否(5)

カテゴリー: - kawamura @ 06時54分16秒

(御林守河村家の廃園に立つ茂木健一郎先生)

高校1年生に数学を教えるのには
とても慎重を要します。

なぜって
ここで数学が嫌いになると
もう一生数学とは縁がなくなってしまうからです。

高校2年生からまったく数学を学ばなくなる人が
進学校でもほぼ半数います。

ということは
全国の高校2年生と同年齢の少年少女たちの、
どれぐらいが数学2・Bを学ぶのでしょうか。

おそらくは4分の1から5分の1くらいでしょうか。
もっと少ないのかもしれません。

つまり
高校数学になると
とたんにお手上げになってしまう子どもたちが
きわめて多いのです。

なぜなのでしょうか。

それは中学3年と高校1年との数学難易度の格差が
極端であることも一因なのでしょう。

あるいは
虚数単位の出現がその一因なのかもしれません。

具象的な数学から
抽象的な数学への過渡期だからかもしれません。

以前ブログで書いたことの繰りかえしになりますが、
小学校算数の自然数、小数、分数、
中学校数学の正負の数を含んだ整数、無理数、
そこまでは実際に目で見ることができる
いわゆる実数です。

無理数が見えるかって?

1辺が1の正方形を書くと、
その対角線は√2ですから
なんと無理数は目に見えるのです。

√2は目に見えるのに
正確に数字で表すことができないというあたりから
なんだか数学に不信感を抱きはじめる子どもたちが
増えはじめることは事実です。

√2=1.41421356・・・
と限りなくつづく循環しない無限小数となって、

無理数は目に見えるのに数字で表せない、

これが子どもたちの抱く
数学への最初の違和感でしょうか。

高1数学であらわれる虚数単位
iの二乗が−1というあたりになると
これは具象の世界を越えて
もはや空想することさえまったくできなくなります。

なぜって
中学1年生のときに
おなじ数をかけると必ずプラスの数になるんだと
しっかりと教えられているからです。

それも、
先生は具象の世界を使って
わかりやすく説明してくれたはずです。

2乗してマイナスになるなんて
そっ、そんな〜
矛盾してるじゃないか〜
とうろたえるのももっともなことなんです。

具象の世界の延長として成立している数学と、
具象の世界とはまったく関係なく
完全に抽象化された世界の数学との違いを
なるべく早い段階で教えるべきと思います。

たとえば、
マイナスとマイナスとをかけるとマイナスになるような
そんな数学もありうるのだというように、
数学は遊びなんだと、
とても面白い知的ゲームなんだと言うことを
教えるべきなんだろうと思います。

つまり、学齢期の子どもたちのように、
脳のなかにニューラルネットが形成される発達段階で、
楽しく論理を学ぶための最適の勉強法が
数学なんだということを理解させてあげれば、
な〜んだ、数学ってゲームなんだ、
と気づいてくれるのでしょうか。

√2や虚数単位を使って日々の生活をするひとは
ほとんどいないでしょう。

学齢期の数学は
論理を学ぶための
つまり脳のニューラルネットを形成するための
遊びにすぎないことを
どれほどの人が理解しているのでしょうか。

しかしその遊びであるはずの数学の
もっと先まで進んで行くと
なんだか不思議な世界が広がっていることも
知的好奇心のつよい少年たちには
教えるべきかもしれません。

(表題から大きく逸れていますが、まあご容赦ください :mrgreen:

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月27日(火曜日)

テッペンカケタカ

カテゴリー: - kawamura @ 05時05分26秒

ホトトギスとウグイスと
森の声が入れかわりました。

ウグイスの初音をきいたばかりと思っていたのに、
谷間のいちめんにきこえていたその声は
もうすっかり杜鵑(ホトトギス)の
鋭い声に変わってしまいました。

杜鵑に托卵された鶯は
卵を我がものと思い
けなげに温め
やがて雛がかえってもそれとは気づかず
えさをあたえて雛を育てるうちに
杜鵑の子に
我が子をひそかに巣の外に棄てられてしまうのです。

鶯の親は
やがて杜鵑の雛が大きく育ってはじめて
我が身と姿が大きくちがうことに気づくのでしょうか。

そのとき、鶯は何を思うのか。

みずからの愚かさを呪い、
それでも、我が身と似ても似つかぬその子をさえ
愛おしく思うのでしょうか。

驚きといとおしさと憎しみと
その相克が鶯の声を
いっそう美しく磨きあげるのでしょうか。

いったい自分の人生はなんだったのかと、
この世の不条理を切なく訴えるのでしょうか。

朝の四時というのに
森からは杜鵑の声に重ねるように
鶯の声も聞こえてきます。

我が子の御霊を弔うように、
鶯の声が聞こえてきます。

美しいさえずりとしかきこえなかった四月の森が
杜鵑の声を聞く初夏になって
にわかにその陰翳を深め
森の緑もまた苦悩に彩られて燃え立つようです。

しかしたとえそれがこの世の実相であるとしても
生と死の織りなすこの世の裏面であるとしても
鶯の歌は愛憎を越えて
生きとし生けるものへの賛歌であることを
彼らの競い鳴く
暁暗の森に祈ります。

それにしても
鶯の声を聞いて
泥に咲く蓮華の意味を知りました。

美しき花は、地獄に咲くのです。

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月24日(土曜日)

授業の可否(4)

カテゴリー: - kawamura @ 05時15分33秒

(写真は茂木健一郎先生と御林守河村家住宅)

昨日は快心の授業でした。

授業後の生徒の反応も上々でした。

と、自分で思っているだけなのかもしれません。

なぜこのように否定的なことを言うのかと申しますと、
自分の仕事に自信を持つということは、
進歩をあきらめたということでもあるからです。

つまり、いつも前進するために、
むしろ積極的な不満をかかえていようと思っているのです。

しかし、常に謙虚に反省する姿勢が重要とはいえ、
ほんとうに昨日は気持ちよく教えることができました。

というのは、
先週の金曜日は体調不良で
ちょっと準備不足の授業でしたから、
今回の授業はすこし心に期するところがあったのです。

教えるべきことの本質はなにか、
一年を通して大学三年生たちに何を伝えようか。

それを考えたのです。

たったひとつのテーマに絞りこんで、
彼らの生涯の支柱となるような思想を
育もうと思ったのです。

それは「生命の厳格な一回性」ということです。

私たちが生きているというこの現象が
どれほど不思議なことで
それがどれほど掛け替えのない一回限りのものであるのかを
伝えようと思うのです。

生命の厳格な一回性と、
緑の惑星にうまれた生命の深遠な意味と尊厳とを、
科学の側面から、
哲学の側面から、
宗教の側面から、
さまざまな視座から語ろうと思うのです。

今回は、
如何に我らが
この世に存在しないものに支えられて生きているのかについて
話しました。

この一年が、とても楽しみです。

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月13日(火曜日)

授業の可否(3)

カテゴリー: - kawamura @ 07時43分09秒

おおよそひとがひとにものを教える
ということくらい大それたことはない
と思っています。

たとえそれが小学生に対してでも
自分が教師であると胸を張って
ものを教えるということには
昔から抵抗がありました。

私はそれほどの人間ではないからです。

これは時代の影響かもしれません。

明治期のように
高等教育を受ける人口がきわめて少なく
先生は尊敬されるべきであるという認識が
社会に共有されていた時代には
私の祖父のように
髭をたくわえ背筋を伸ばして
教壇に立つことが許されました。

もしも今日の学校で
蝶ネクタイにタキシードを着て
カイゼル髭を生やした先生が教壇に立ったとしたら
だれもが腹を抱えて笑いころげるでしょう。

現代の日本には
ひとが人を尊敬するなどという風潮はなく
人間のあさましい姿だけが日々報道され
人々が
生きることの尊厳を失いかけているように見えます。

私もそのひとりなのかもしれません。

だれもが人間としての自分に自信が持てずに
苦しんでいるのかもしれません。

みなさんの身の回りに
誰かひとりでも
人間としてこころから尊敬できる高潔な人が
いますか。

子どもたちに
あの人のように人間として立派な人になりなさい
と言えるようなひとがいますか。

政治家ですか
官僚ですか
大学教授ですか
だれかそんな人がいまの世にいるのですか。

いわゆる偉いひとでなくても
隣のおじさんであろうと
自分の親であろうと
それはかまいません。

いまの世に
人間として高潔に生き抜こうとしている尊敬すべき人が
どこかにいるのでしょうか。

構造改革ではありませんが
明治期につくられた尊敬すべき人間像も
すでに色あせて
時代に合わなくなっているようです。

目標とすべき人間像を
子どもたちにどのように話したらよいのか、
皆さんはどう思われますか?

(つづく。
 表題から大きく逸れてしまいました。
 すみません)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月12日(月曜日)

授業の可否(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時13分35秒

先生にとって快心の授業は
生徒にとっては難解な授業であることが多い、
というお話でした。

たとえば対立するふたつの概念を
黒板の左と右とに分けて
比較しながら解説する授業は
年齢によって
見事に理解度が分かれます。

大学受験生に
複素平面とベクトルの成分表示とを
同時に説明すると
座標の回転や直交条件などの特性を
鮮やかに理解します。

中学受験生に
比例と反比例を同時に解説しますと
混乱してほとんど理解しません。

あるいはこういう例もあります。

中学生に
ひとつの問題を
(私にとって)完璧に論理的に分解し
一段階ごとに丁寧に解説してゆく授業を
しばらくつづけていたことがあります。

誰でも理解できる
すばらしい手法だと自負して
悦に入りながら教えていたのですが
あるとき
ひとりの生徒が

「なんにもわからん」

と言ったのです。

私は目が点(笑)。

なぜって、
問題を論理的に細分化して、
一段階ごとにわかりやすく解説しているはずなのに
いったい何が分からないのだ、
となんだかとても不安になりました。

その方法はすぐにやめて
べつの方法で教えることにしましたが
しばらくそのことが気にかかっていました。

なぜ高校生には理解できる手法が
小学生には理解できないのでしょう。

やがて
それはおそらくこんなことではないのかと
思いはじめるようになりました。

つまり、
脳の神経回路の発達段階に依るのではないのか
ということです。

もちろん個人差はあるのですが
どうも中学一年くらいまでは
論理というものを
正確には理解し得ないように思います。

高校生と小学生とに理解度の差があるように
教える先生と子どもたちの間には
それをはるかに越えた
ニューラルネットワークの差があるのでしょう。

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月11日(日曜日)

授業の可否

カテゴリー: - kawamura @ 06時34分52秒

若い先生たちに話すことのひとつに

「先生がうまくいったと感じる授業は
 生徒にとっては
 わからない授業であることが多い」

という指針があります。

これに気づいたのは
12年ほどまえのことでした。

NHK全国ニュース「おはよう日本」に
私が出演したときのこと、
急に生徒たちは
私を尊敬のまなざしで見るようになりました。

それまでは
私語を交わす生徒を注意したり
質問する生徒の席まで行って説明したり
うるさくなれば怒ったり
いっしょに笑ったりしながら
授業を進めていました。

ところが、
全国ニュースに出たとたん、
教えていた高校でも塾でも
生徒たちは私語を交わすことなく
ひたすら私の言葉に耳をかたむけ
ノートをとり続けるようになりました。

尊敬のまなざしで見つめられるのは
とても気持ちのいいもので、
もちろん自分がそれほどの人間ではないことぐらい
承知しておりましたが、
それでもあまりの授業のやりやすさに
自分のもてる力をフルに発揮して授業を致しました。

授業のあとで質問に来る生徒も
礼儀正しく
一礼して帰るような日々でした。

そんな授業を半月ほど続けたある日、
私は生徒たちにテストをしてみました。

さぞかしよく理解しているだろうと思ったからです。

もうお分かりのように、それは惨憺たる結果でした。

幸運なことに、
それで私は気づくことができたのです。

「先生が気持ちよく教えた授業の内容は
 生徒の身についていない」

それはなぜでしょう。

先生が気持ちよく教えるとは
どういうことなのでしょうか。

先生が気持ちよく語るとき
それは先生が気持ちいいと感じるのレベルの語彙で
語っていることが多いのです。

先生が気持ちいいと感じる言葉のテンポで
先生が気持ちいいと感じる笑いで
先生がうまくできたと感じる説明で、
そのように授業をされると、
生徒たちは一見それにのせられたようにうなずき、
その波にのせられて笑い
生徒たち自身もよくわかったような気がして
満足げに教室を去るのです。

とてもいいように感じませんか。

でも、それが落とし穴なのです。

(あすにつづく。
 なぜこんなことを書く気になったのかと申しますと
 昨日の大学での授業が
 とてもうまくいったと感じたから、
 自省を促す意味で書いているのです。
 まあ反省文のようなものなんです)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月8日(木曜日)

文化って?(7)

カテゴリー: - kawamura @ 06時57分47秒


風景について
こんな話しをしたことがありました。

海に突きだした岬や山並みをながめるとき
それと空との境を眼がなぞってゆきます。

その曲線のうむ快感
雑木の山がすこしやわらかく感じられ
針葉樹林が厳しさをただよわせるのは
空とそれとの稜線の生みだすものだ
という話しです。

この話しは
高橋シュウと御前崎の海岸線を走っているとき
車窓の風景をながめながら私が話したことです。

拙著『蒼天のクオリア』のなかにも
こんな一節があります。

*******************

沢村は喫茶店の窓を見た。

うすく黄に染まりはじめたポプラの葉が、風にゆれている。

初秋の透明な風だった。

沢村は、樹を見るというより空間をみていた。

ちょうどマシュマロの味を舌が愉しむように、
枝葉のひろがりを視(み)て、
自分の空間認識能力を眼が楽しんでいたのだ。

そのうち沢村は、無数の葉がおなじ風にふかれながら、
一枚一枚、ちがう身振りで白い葉裏をみせるのに気づいた。

そうか、これがconcertedに反応しているということか。

オーケストラのように、風はいくつもの旋律にわかれて、
それぞれの葉を、無数の姿でそよがせている。

沢村の目には、うす青い溶液のなかに落とした一滴の試薬が、
数種類の分子と、さまざまな反応経路をたどって、
まさに協奏的に反応してゆくのと、
ポプラの葉のゆれるさまがおなじようにみえる。

*******************

とまあこんな話しです。

つまりその国々の風景が生みだす曲線は
音楽のように
その国民のこころの根底にながれて
独自の空間認識能力を育むのだ
ということです。

波うつ草原の風景や
荒野と屹立する山塊の風景
あるいは砂漠の風景
そういった国々特有の風景が生みだす曲線の美は
その国の思想や芸術に
影響を与えずにはおかないでしょう。

こころの底に
針葉樹林の風景が広がるというのではなく、
<思想の針葉樹林>が形成されるのだろう
ということです。

(つづく)

(脳科学者茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中)


2008年5月5日(月曜日)

文化って?(6)

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分27秒

風景がその国の歴史に
どのようにかかわってきたのか、
それをいくつかの例をひいて
考えてまいりました。

なぜ私がこのようなことを書くのか。

それは風景を守ることが
その国の歴史や文化を守ることである
と考えるからです。

文化財指定された
御林守河村家住宅だけが無傷で立っていて、
庭は廃園となり、
周辺建造物は崩落して、

さらにそれをとりまく里山の風景も
無惨に荒廃してしまったとしたら、
それでも歴史や文化を守ったことになるのか、
という切実な問いからこのシリーズは始まったのです。

きのうはじめて
河村家住宅から20分ほどのところにある
「ならここの湯」に行ってまいりました。

脱衣場にいた少年たちにどこからきたのか
聞いてみましたら「川崎から」と答えました。

「このちかくに親戚があるの?」

「親戚はないけど、キャンプにきた」

あとから周辺を見渡すと
キャンプ場はあふれるほどの人でした。

この連休を
ただ自然のなかでキャンプするために
これほど多くの人々が集まってくるのです。

人々が湯につかってなにげなくながめる風景は
放置された自然の山々ではなく
絶え間なく人の手が加えられているということを
いったい何人のひとが知っているのでしょうか。

ブログを書く手をとめて
窓のそとに目をやると
五月の風が、梅の枝をかすかにゆらしています。

さみどりの里山から鳥の声がきこえてきます。

私はなにひとつ成し遂げられずとも
せめてこの風景だけは守ろうと思います。

このたび柳川製材の柳川金雄さんのご協力も
得られることになりました。

裏山を整備して
広葉樹を植えていくという計画です。

さらに四季を彩る樹々が
私たちの目を楽しませてくれそうです。

(「文化って?」は、まだまだつづきます)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中) 


2008年5月4日(日曜日)

文化って?(5)

カテゴリー: - kawamura @ 04時37分53秒

(神奈川県山北町河村城址の案内板・ちょっとピンぼけ)

日本と欧州において発生した封建制度が
世界史上他に類を見ないものであることは
歴史上の事実です。

日欧においてそれはほとんど同時期、
11世紀ごろにおこってくるのですが、
鉄製農具の発達によって
農業生産高が飛躍的に向上することも
その一因でした。

ひとりの農民が
数人の非農業従事者を
食べさせることができるようになって、
武士や、役人や、歌人、僧侶などが
安定的に成立し得るようになった
ということが
封建制度成立の地盤をつくりました。

封建制度が発生するには
それだけでは不十分で
西欧の領主貴族、日本においては武士、
それらの誕生が必要なのです。

ヨーロッパを旅すると
中世の城塞都市が各地に残っています。

城塞都市のなかには
領主の城、教会、そして領民の住む街がありました。

城壁の周辺には広大な農地が広がっていて
他国の攻撃があったときには
農民たちも城壁のなかへ逃げ込みました。

点々と各地に存在する
そのような城塞都市は
世界のなかで
欧州の他には日本においてしか存在しませんでした。

日本の急峻な山や、滝のようにながれる川が
城壁の役目をしたからです。

その中世城郭のまわりに
侍屋敷や、城下町がまとまって、
さらに
それをとりまくように農村が広がっていました。

このような小領主を支配していたのが
欧州の大貴族であり、日本の戦国大名であったのです。

このように
日本の山ごもれる風景は、
日本における封建制度の成立に大きくかかわっていました。

このへんの話しは
ほんのわずかな友人に話しただけで
2万字ほどの論文を
公開したことはございません。

きょうご紹介したのはそのほんの一部分です。

論文に興味がある方はいらっしゃいますか?

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中) 


2008年5月3日(土曜日)

文化って?(4)

カテゴリー: - kawamura @ 06時09分13秒


きのうは午前中に来客があり
午後は大学で授業がありましたので
ブログのつづきを書くことを
すっかり忘れておりました。

(昨日の「中村羊一郎教授茶部屋来訪記」は
 中日新聞の記事にあわせてUPしようと思います)

毎朝、
朝餉の支度をしている妻と会話しながら
ブログを書いているのですが
今朝は長期休暇のはじまりの日ですから
ゆっくりと文化について
思いを巡らしてみたいと思います。

風景は時代精神を反映しながら
変遷し成長していくというところまででした。

それぞれの国の文化が
その国の気候風土や
地政学的な影響の集積であることは
論を待たないと思います。

たとえば日本が
豊葦原瑞穂国と呼ばれたのは
東南アジアにルーツをもつ
水耕稲作文化によるものです。

しかし東南アジアのように
洪水によって泥田が自然発生する気候ではありませんから
日本においてそれに似せて
水田を造成するのには
高い土木技術を必要としました。

とくに山国で水稲栽培をするには
急流から水を引き
高い石垣を組んで
水平な水田を造り上げなければなりません。

そこで日本の土木技術が発達し、
それは金山の発掘にも応用されて
やがて黄金の国ジパングを
生み出すもとにもなったのです。

我らが古里を想うとき
なにげなく思いうかべる水田の風景は
歴史的に形成され成長してきた稲作文化を
背景として成立しているのです。

フランス国土をユーロスターで横断してゆくときの
いつまでもいつまでも果てしなく広がる畑と
山ごもれる日本の水田と
その風景に相違には驚かされます。

風景の相違が
そこに暮らす人々の生活や思想に影響を与え
日仏の文化におのずと異なる様相を与えることは
当然の帰結です。

山ごもれる日本の豊かな森は
鉄の精錬に大きく寄与して
鉄器が農業生産高を飛躍的に伸ばしたのは
周知のことでしょう。

鉄の精錬には
膨大な量の薪が燃料として必要ですから。

また、
たとえば世界史上
日本と欧州においてのみ封建制度が成立したという
歴史的事実の成立にも、
起伏に富んだ日本の地形が
大きくあずかっていることをご存じでしょうか。

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中) 


2008年5月2日(金曜日)

文化って?(3)

カテゴリー: - kawamura @ 07時45分41秒


やまとは 国のまほろば
たたなづく 青垣  
山ごもれる やまとし うるわし

よく知られた日本武尊の歌です。

貴種流離譚として
長く日本国民に愛されてきた日本武尊の、
国褒めの歌に通じるような
最期の歌です。

私たちの心の底に
たとえば集団無意識ともいえる共通の深層心理に
山ごもれる古里の姿があるのです。

それは山間の地に住むひとも
都会に住むひとも同じでしょう。

日本人のふるさと、と言ったとき、
おそらくは同じように
うましくにぞあきづしまやまとのくには
と歌われるその風景を思うのでしょう。

それぞれの国民が
それぞれの原風景をもっているはずです。

我ら日本国民の
古事記や万葉に歌われる風景は
何処にあるというのではなく
私たちの心象風景のなかにあるのです。

それは千年も二千年もの年月をかけて育んできた
心理の深層に広がる国民共有の風景です。

我らはそれを愛し
またそのように眼前の里山に手を加えて
原風景を再現してきたのではないでしょうか。

雄略天皇の国見をした光景が
いま残されているはずもなく

(つづきは帰宅してから書きます)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中) 


2008年5月1日(木曜日)

文化って?(2)

カテゴリー: - kawamura @ 06時19分42秒

(Wikipediaの写真を拝借しました。
不都合でしたら削除いたします)

あれはたしかフランクフルト空港に降りてゆくときのことでした。

森が広がっていて、それはどこまでも森が続いていて、
まるでドイツ全体が森に覆われているかのようでした。

その印象が残っていたからか、
ケルンの大聖堂を見たとき、
無数に突き立つ小塔をながめて、
ああこれは森だ、
と直感しました。

ゲルマン民族の心象風景、
つまり森に覆われた彼らの原風景を摸したのだと
気づいたのです。

欧米を旅するはるかまえの、
二十代のころ、
私はこんなふうに書いています。

「私の示す空は、あの、仰ぎみる気層をのみさすのではない。

 空はひとつの心象宇宙であり、
 云わば、硬質の精神要素によって構築された、ひかりの宇宙である。

 しかしそれが真夏の蒼空であり、
 雲の切れ間にひらめく冬の空であることに変わりはない。

 いったい心象と云え精神と云え、
 その本質に於て、
 旋回する一双の翼と、あるいは宇宙船と、
 異質のものであるとは言えない。
 
 あるとき鉄筋の建築は精神であり、
 精神は又、そびゆる尖塔である」

ケルンの大聖堂のように
優れた建築が精神であるとするなら、
建築物の建ち並ぶ都市の風景もまた
その国民精神の象徴であるといえるのでしょう。

たとえばパリの街並みがフランス精神を象徴しているように。

(つづく)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中) 


2008年4月30日(水曜日)

文化って?

カテゴリー: - kawamura @ 05時44分00秒

広辞苑にはこんなふうに書いてあります。

「文化(culture)
 人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。
 衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など
 生活形成の様式と内容とを含む」

このように茫漠とした言葉には
さまざまな定義が付与されるでしょう。

ですから
ひとそれぞれの定義があっていいと思います。

私は、文化とは風景である、と考えています。

私たちのまわりに広がるなにげない風景は
まさに人の手を加えて成り立っていいるものだからです。

営々とつづくその国の歴史のなかで
その国の技術や精神の表象として
固有の風景が生まれたのです。

風景は自然にそこにあるのではなく
国民がその風景を選んだのです。

世界の国々を旅すると風景の多様さに驚かされます。

森の国、平原の国、都市の国、海の国など
それぞれの国柄は
その風景において特徴づけられています。

森の国に住む人たちの心には、
深い森がひろがっているはずです。

森に棲む獣や木の実などの意味は、
海の国に住む人々とはまったく違った姿で
その国の人々の伝承や深層心理に息づいているでしょう。

深い森は狩猟生活に適していて
そこに生まれる文化は、
平原の国の農耕文化とは様相を異にするでしょう。

日本の文化は
日本国に特有の風景をその母胎としているはずです。

言いかえれば
固有の風景が失われたとき
その国の文化は滅ぶのです。

(つづく。
 連休もちかいし、
 文化って何か、を考えてみようと思います)

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中) 


2008年4月29日(火曜日)

月の蝶

カテゴリー: - kawamura @ 07時39分05秒

四季の風景を録画して
皆さんに楽しんでいただこうと思っています。

たとえば鳥の声、
せせらぎ、
風の音など、
あるいは桜、
そして新緑に匂い立つ森、
銀杏、
やがて谷間を染める紅葉など。

それからホタル、
しかしなによりも
月。

ひとり月光を浴びて
青らむ夜景のなかへ溶けてゆく感覚を
みなさんに覚えていただきたいのです。

足下へ、くっきりと影を落とす月、

見渡せば、夜陰の森は蒼く煙るようです。

昼と見迷って、蝶が舞い立つことがあります。

青条揚羽が光芒のすじをひいて
月の空をひらりと舞ったあと
森の闇へ消えてゆきます。

池の端の葉のうえの
月に眠る美しい糸トンボを
ゆびさきでとらえる感触も
楽しいのかもしれません。

そうしてみると
やはり谷間の底に立って
早暁のさえずりや
しずかに満ちてくる月の光を
身をもって味わうのがよろしいのかもしれません。

ヴァーチャルの仮想感覚をお伝えするのは
よろしいのかどうか
悩むところです。

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中) 


2008年4月27日(日曜日)

驢馬

カテゴリー: - kawamura @ 06時29分34秒

シオンの女(むすめ)よ大に喜べ
エルサレムの女よ呼(よば)はれ視よ
汝の王汝に来(きた)る
彼は正義(ただしく)して
拯救(すくひ)を賜り
柔和にして驢馬に乗る
即ち雌驢馬の子なる駒に乗るなり

(旧約聖書 ゼカリア書 第九章九節)

*********************

彼らエルサレムに近づき、
オリブ山の麓なるベテパゲに到りし時、
イエス二人の弟子を遣さんとして言い給ふ、
『むかひの村にゆけ、其処に入らば、
 軈て人の未だ乗りたることなき
 驢馬の子の繋ぎあるを見ん、
 それを解きて牽き来れ。
 誰かもし汝らに
「なにゆえ然するか」
 と言はば
「主の用なり、彼ただちに返さん」
 といえ』
 弟子たち往きて、
 門の外の路に驢馬の子の繋ぎあるを見て
 解きたれば、
 其処に立つ人々のうちの或者
『なんぢら驢馬の子を解きて何とするか』
 と言ふ。
 弟子たちイエスの告げ給いし如く言いしに、
 彼ら許せり。
 斯て弟子たち驢馬の子をイエスの許に牽ききたり、
 己が衣をその上に置きたれば、
 イエス之に乗り給ふ。
 
(新約聖書 マルコ伝第十一章一節〜七節) 

(脳科学者 茂木健一郎先生序文
 『蒼天のクオリア』『冑佛伝説』河村隆夫著
 amazonまたは島田駅前BOOKS ZEN(0547-33-0002)にて発売中) 


2008年4月26日(土曜日)

シャガールはなぜ驢馬を描く

カテゴリー: - kawamura @ 18時46分02秒

シャガール展を見てきました。

Quay of Bercy(Le Quay de Bercy)
と題された絵のまえで立ち止まり、
後ろのソファーに座ってながめているうちに
眠ってしまいました。

青い驢馬の夢をみたのです。

目ざめたとき
絵の右上に描かれた驢馬なのだとわかりました。

夢のなかで
驢馬はなにか謎めいたことを言っていましたが
それがなにかはわかりません。

シャガ−ルはユダヤの家庭に生まれました。

彼はユダヤ教の厳しい律法のなかで育ったのでしょうか。

それなら何故
イエスキリストが
エルサレムに入城のときに乗った驢馬を
好んで描くのでしょう。

ユダヤ教とキリスト教とは
近親憎悪のように反目の歴史を刻んできたのに。

それがたとえゼカリア書にしるされているとはいえ
イエスによってそれが成就され
熱狂して迎えたそのイエスを
やがて十字架に架けて殺すことになったのに。

シャガールはなぜ驢馬を描くのでしょう。


2008年4月19日(土曜日)

青のコメント

昨日の日記
かはたれたそかれ」に寄せられたコメントです。

*********************

はじめまして。
その青を私も1度だけ見たことがあります。

数年前に深夜残業をしてタクシーの中から
東京の街並みをぼんやり眺めていた時、
夜でもない朝でもないその青色に心奪われました。

タクシーが静かに深い水底を走っていて
水面を見上げたような印象だったのを覚えています。

あの青のことだ!
と嬉しく思ったのでついコメントしました。

Comment by panda8 — 2008年4月18日(金曜日) @ 16時45分15秒

*********************

うれしい、
こんなにうれしいことはないとおもえるほどの
コメントでした。

「彼は誰れどき」と「誰そ彼どき」にたまゆら訪れる
青の刻、
それを宝石のように
ひとり胸に抱いてきた私にとって
この「青のコメント」は
長い孤独から私を解放してくれました。

ある感覚を共有しているというのは
価値観を共有しているというのより
もうひとつ深いところでつながっているという
感じがします。

えもいわれぬクオリアの感覚を
このように共有できるのはまれなことです。

茂木健一郎先生が
拙著『蒼天のクオリア』に書いて下さった序文を思いおこします。

2000字にも及ぶ序文の
ほんの一部分を抜萃してみましょう。

**********************

 こうして、
河村さんの半生に取材した本の序文を書かせていただきながら、
私は不思議な必然と偶然の交錯を感じている。
私が河村さんと出会ったことは、おそらく偶然であろう。
しかし、河村さんを知れば知るほど、
そこに何らかの必然性を感じることを禁じ得ない。
北海道の白い大地で、
静岡の豊かな自然の中で、
河村さんが見てきたこと、感じて来たことが、
私にとっても切実な意味を持つように感じる。

       (茂木健一郎先生の序文より抜萃)

**********************

もちろん茂木先生と私では
天の星と海底のヒトデほどの差があることは
承知しておりますが
拙著『蒼天のクオリア』をお読みになった先生が
なにかの感覚を私と共有なさったのは
確かなことだろうと思います。

クオリアを共有する感覚は本当にまれなことで
幼いときに生き別れた兄弟に巡りあったような
切なく懐かしい感じをいだかせるものです。

いずれにせよ、
不意におとずれた「青のコメントは」
至福の瞬間を私にさずけてくれました。


2008年4月18日(金曜日)

かはたれたそかれ

カテゴリー: - kawamura @ 06時13分40秒

私は朝が早いので
明け方のあの一瞬を見ることができるのです。

あの一瞬とは、
一面がコバルトブルーにそまるわずかな時間のことです。

夜と朝のはざまに
ふいに異界があらわれたように
青い光にみたされるあの瞬間です。

そこにひとが立てば
霧のようにかすかな青いひかりの粒におおわれ
あちらへと行ってしまいそうな
もうそのひとへ声もとどかぬような
手をさしのべても
引きもどすことさえできぬような
そうしてもうそのひとはだれでもないような
ふしぎな青い情景です。

それは夕暮れどきにも訪れます。

休日の夕に
家族と語らい
笑い声がながれてゆく窓のそとに目をやると
そこに宇宙が降りてきたような
青く澄んだ世界がひろがっているのです。


2008年4月17日(木曜日)

未開の大陸

茂木先生の最近のお言葉

「自分の正体をそう簡単に明かすな」

「自分のなかに未開の大陸をもつ、
 簡単に他人からわかられない自分をもつ」

自己同一性を保証するもの
それは簡単に明かすな、
ということなのだろうと思います。

ながらく私を支えてきたのは
二十代の作品群でした。

誰に語ることもなく
それをよりどころに
その後の三十年を生きてきたのでしたが
もういいのだろうと思って
ちかごろ語りはじめたのです。

若年の日に
私の思想はほぼ完成していて
見方によれば
いまよりも優れていたのかもしれません。

しかしそれは過去のことで
いまの私には
年齢にふさわしい
新しい思想が必要です。

いちど過去の海底を浚渫して
すっかり出直そうと思って
『谷島瑶一郎初期作品集』
などと銘うって
若年の日の私を
洗いざらいさらけ出してしまおうと思ったのです。

しかし最近の私を支えている思想は
もちろん誰にも話すことはありませんが
どうもその若年の日の思索の延長にあることを
免れえないように思えてきたのです。

つまり現在の私の胸中にひろがる未開の大陸は
丘に登って見霽かすと
水平線のあたりで
過去の大陸とつながっているようなのです。

完全に断絶したと信じていたふたつの大陸が
ほそい砂州で結ばれていたのです。

ですから、
ここはひとつ茂木先生のお言葉にしたがって
過去の大陸について明かすことを
すなわち『谷島瑤一郎初期作品集』の公開を
中止しようと思うのですが、
どうしたものか
悩んでいます。

はじめたばかりの
谷島瑤一郎初期作品集』でしたが
結論が出るまで
しばらくお休みいたします。

新しい大陸の全貌が明らかになるとき
それを生み出した
過去の大陸も同時に公開するほうが
いいのかもしれません。


2008年4月11日(金曜日)

『谷島瑶一郎初期作品集』17


この作品集をまとめるうちに
二十歳そこそこの私が何を考えていたのか
ようやくおぼろに掴めてきました。

理学部の学生としての科学的世界観を越えて
精神世界をも俯瞰しようとする
なんとも無謀な戦いを挑みはじめていたことが
読み取れます。

ですから、これらの論考は、
これまでに抄出した小説とも
じつは深くかかわっているのです。

たとえば
16『天才論』の最後の一節

「光と闇との意識以前に、絶対の暗黒の宇宙の本質を洞察し、
 愛し得た者のみ、
 あちらへと舞い立つ翼を持つ。」

8『翼』の最終シーン

「「飛べ!飛び立て、洋子!」
 
 絶叫して僕は、
 激しく彼女を見上げ方(ざま)に、
 手を離し、
 崖の腹を思いさま突いて、月の海へ飛び立った。

 愛の、比翼の鳥は、
 永遠へ舞い立とうと身構へた刹那に、
 片翼を、「純粋」の翼を失ったのだった。」

このふたつの翼がおなじ思想を底流としていることは
どなたにも瞭然のことでしょう。

さらにこの思索の道の端に
40年後に
茂木健一郎先生との会遇によって
ふたたび目をひらかされることになる
クオリア問題の萌芽があらわれていることに
驚かされます。

それでは
前置きはこれまでにして
昨日のつづきをはじめましょう。

********************

『天才論』(抄・21歳)

           谷島瑤一郎

 天才は能才にこの世では敗北するが、
 彼等は、絶対の暗黒の宇宙に、
 永遠に星となって輝く。

 彼等が能才に敗北するのは、
 意識の力を放擲するからだ。

 光と闇との相対の意識の力では、
 彼等の求める、
 あちらへと飛び立つ力は得られぬからだ。

 それではどのようにして、
 彼等は原初の宇宙を発見し、
 そこへ羽搏く力を得るのか。

 天才は夜を愛する。

 ひとを愛するよりもさらに強く、
 自己がそこで生まれ、
 そこから来た暗黒の夜を愛する。

 夜には、
 昼の光に目くらまされて見失っていた、
 星空がひろがる。

 青年はみな天才と云うが、
 彼等は必ず星を詩う。

 青年期は丁度、
 遍計所執の世界に迷う自己を突きはなして、
 静かに己を見つめられる自我の発見の時期だ。

 十数年生きて、
 初めて彼等は思いついたように、
 孤独な自己の後姿を見る。

 そのとき、
 青年はだれしも、
 自分がどこから来て、
 どこへ行くのかと自己に問う。

 深い存在の不安に立ちすくむ。

 誰も答えない。

 愛するものたちを昼の世界に置きざりにして、
 彼等は唯自己一人を見つめるために、
 夜へ旅立つ。

 日没とともに、
 愛憎怨恨の渦巻く世界は消えて、
 ただ一人を闇がつつむ。

 彼等は星を仰ぐ。

 私はどこからきたのか。

 声は闇にのまれる。

 私はどこへ行くのか。

 そのとき、凡痩な青年の胸にも、
 切なく、
 身を縒るような孤独のかなしみがこみあげる。

 そうして星空を仰ぐ。

 それはなぜだろうか。

 彼等は星の孤独にはるかな郷愁を覚える。

 青年のうたうありふれた星の詩はこうして生まれる。

 天才は、
 星への郷愁のうちに、
 嘗って星であった自己の宇宙を発見する。

 この夜空のように、
 母の胎内の、
 絶対の暗黒の宇宙に生まれて、
 仄かな原初の無意識によって
 宇宙即ち自己を直覚した記憶が、
 深い感慨となってよみがえる。

 こうして彼等は、
 ひとがそこで生まれ、
 やがてはそこへ帰って行く原初の宇宙を発見する。

 天才が、夜の風景を愛する故由はここにある。

 さて、天才は帰ろうとする。

 彼等には、
 遙かな暗黒の宇宙がみえるが、
 翼の力はまだ弱い。

 ところでその力は、どこから来るのか。

 暗黒の宇宙へ帰るとは。

 それは絶対の無から生じて
 再び絶対の無へ帰ってゆくことだ。

 それはひとにとって、誕生と、
 死を意味する。

 郷愁の思いあまって、
 天才は天祈する。

 彼等の多くは、
 想像の翼によって暗黒の宇宙へと舞いたつ。

 想像とは、死の模倣だ。

 肉体を殺し、ひととき精神が遊離することだ。

 そうして想像の鳥となって暗黒の世界を俯瞰する。

 そこはつめたく死んだ無機質の世界ではない。

 その闇黒は、
 やがて生まれてくる赤熱の命を孕んでいる。

 それは彼等が胎児のころ、
 いまだ虚妄の意識に覆われる以前の、
 赤剥けの生命の素肌がじかにふれて、
 宇宙の本質を直覚し、
 その永遠の静謐を愛していた、
 絶対の闇黒の宇宙だ。

 誕生と死とを孕み、
 永遠の静寂に支配された世界、
 そこにこそ死の意味、
 即ち生の意味が存在し、
 そこに於てのみ宇宙の本質が直覚され得る絶対の世界。

 胎児のときその本質を直覚し得た天才のみが、
 ふたたび想像の翼を羽搏かせて帰って行くことのできる
 暗黒の宇宙である。

 ひとは天才の作品によってのみ、
 間接的に原初の宇宙を感覚する他はない。

 ふたたびしかし、
 この原初の闇黒の宇宙とは何か。

 私はいまさらここに陳腐な精神、
 物質の二元論を述べるつもりはない。

 その縁起にささえられた本質は空だからだ。

 光と闇のように、
 彼が生じて此が生じ、
 彼が滅してこれが滅するのでも、
 そうでないのでもない。

 また精神と物質の本性は空であって、空でない。
 故にそれは空である。

 これを洞察し得ぬものは、
 永遠に闇黒の宇宙へ帰ることはできない。

 そこにこそ宇宙の本質、
 生の本質、
 そして死の本質が横溢する、絶対の闇黒。

 そうして、それらの本質が、
 すべて空に帰一することを直覚し得る唯一の宇宙である。

 ところで科学は、
 長い年月をかけて、
 丁度鏡の中に己の姿を見るように、
 物質の世界に映し出された精神の世界像を探ってきた。

 今日に到って、
 やうやく物質は精神であり精神は物質であると云うところに、
 彼等は辿り着いたかにみえる。

 物質の無限の階層性は、
 即ち精神の無限の階層性であって、
 又、科学の諸法則は、単なる物質界の法則ではなく、
 精神と物質のかかわりあいの場に生ずるものであり、
 それは精神界の法則とも言い得るものだと知ったのである。

 即ち精神と物質とを分別することの虚妄を悟り得たのである。

 これは笑止な例だが、
 電子計算機に精神は宿るか否かと云う問題がある。

 電子計算機でなくとも、
 最も単純な生物であっても良い。

 なぜなら、
 二者の構造を同じにすることは原理的に可能だからだ。

 それ等に精神が在るかと云えば、永遠の謎だ。

 ひとが白い砂を舌の上にのせたとき、
 それが塩であるか砂糖かは、
 それをのせたひとの感覚によってしか分からぬように、
 精神は個の直覚によってのみ認識され得る。

 たとえ石に精神が宿ったにせよ、
 石のほかに、何者にもそれを知る術はない。

 ひとは相似た相貌とことばを共有する類(たぐい)には
 精神の存在を認めるが、
 狼や、花にはそれを認めることも否定することもできない。

 天才は鳥のかなしみを直感する。

 石のみる夢を、
 沼の呪いを、
 何故に直感するのか。

 そのとき、
 天才は光の速度で記憶をさかのぼる。

 闇黒の宇宙が閃(ひら)めく。

 そこからゆっくり、
 彼等が樹であったころ、
 魚であったころを想い起こす。

(つづく)


2008年4月10日(木曜日)

『谷島瑶一郎初期作品集』16


二十歳のころの私がどのようなことを考えていたのかは
私自身とても興味のあるところです。

青春の残骸が詰まっている例の銅製の箱から
今日は古びた原稿用紙をとりだして
いったい若年の日の私が何を考えていたのかを
読み解いてみましょう。

もちろん原稿用紙のままでいると云うことは
それは未発表の作品であって、
つまりだれにも知られることなく
40年間
この箱のなかで眠っていたということです。

後年私が冑佛に出会うことがなかったのなら
あるいは
茂木健一郎先生という知己を得られなかったら
そしてブログという発表の場を与えられなかったら
この銅製の箱のなかに眠る作品群は
私の死後になって
ようやく陽の目を見たのかもしれません。

あるいは、
だれにも知られることなく
焼き棄てられたのかもしれません。

さあ、胎児のまま隠されていたこれらの作品に
ひかりをあててあげましょう。

***********************

天才論(21歳)

                    谷島瑶一郎

 神意に達したとき仄みえる濃藍の領域は、
 おゝくの文学作品の中で、
 死に接したひとの意識として現れてくる。

 あるいは深い夜の風景として描かれる。

 愛憎怨恨の呪縛をたち切り、
 むき出しの生命が死あるいは深い自然とたち向うとき、
 已に生命はその濃藍の領域に達している。
 それは自己との闘いのときだ。

 遍計所執の迷妄をはなれて、
 すなわち人と人との間の欲望の世をはなれて、
 唯一人の自己が、
 死と、
 あるいは深い自然と闘わねばならぬとき、
 見失っていた本来の自己が立ち帰ってくる。

 自己がそこから生まれ、そこから来たところの宇宙へ、
 帰って行くと行っても良いだろう。

 見失っていた本来の自己とは、
 すなわちその濃藍の宇宙だからだ。

 秀れた作品は必ず、この青光る宇宙そのものである。

 しかしこの濃藍の宇宙とは何か。

 死、あるいは自然への恐怖が、
 眠っていた太古の意識を覚醒させ、
 濃藍の宇宙への扉をひらくのだろうか。

 それでは太古の意識とは何か。

 母親の胎内の海に生まれて、
 うごめいていたときの闇の意識か、
 あるいは歴史的に蓄積された動物だったころの記憶だろうか。

 ひとは一人で生まれてくる。

 胎内での十ヶ月のうちに、
 脳細胞の90%は完成している。

 ひとはそのとき何かを思うはずだ。

 無垢の脳細胞が闇の世界をありのままに映しとっていたとき、
 ひとが何を思い、
 何に脅えて、
 母親の腹を蹴ったのか。

 記憶をたどるすべもないが、
 対立する光さえない絶対の闇黒に生まれて、
 唯一人で闘わねばならなかった胎児は、
 生え初めた意識の全力を絞って、
 とりまく闇黒が何か、
 翻って暗黒に生まれた自己が何か、
 そして暗黒への恐怖に対して、
 言葉以前の無意識によって防衛機制の壁を築こうとしたに違いない。

 おそらく受精の瞬間から死に到るまでのうちで、
 最も凄じい速度で脳細胞が働き、
 とりまく暗黒を無意識のうちへそっくり包みとり、
 それが何であるかを知ろうとした時期に違いない。

 そこから私が生まれ、
 そこから私が来た絶対の暗黒の宇宙。

 そして正に、
 その絶対の暗黒の宇宙こそが私なのだ。

 天才とは、 優れた資質に依って、
 胎内にうごめく時期に、
 その絶対の暗黒の宇宙即ち自己を、洞察し尽して生まれた者である。

 彼等がデモニッシュなのは止むをえないことだ。

 なぜなら、彼等の無意識が、
 絶対の暗黒の宇宙即ち自己を、
 そして生命と宇宙の本質を見抜いたとき、
 彼等はその宇宙に安らい、
 やがてその宇宙を愛するまでに到っただろうから。

 つまり、天才は暗黒を愛する。

 その暗黒こそが生命と宇宙の本質であるからだ。

 これは、生得のものでなければならない。

 生まれた瞬間、人々を光が襲う。

 そして光を知ったとき、
 絶対の暗黒は単なる闇と化し、
 それは忘れさられるからだ。

 その誕生のとき、人々は凄じい声で泣く。

 光と闇とが相対し、
 つまりすべてが相対と化す迷妄の世界へ放り出されたことを
 呪うのだろうか。

 絶対の暗黒の宇宙、
 そこにある生命と宇宙の本質を、
 遍計所執の世界に処する法を身につけた青年期に、
 再び天才は発見する。

 天才は帰ろうとする。

 この光と闇にすべてが霧消してしまう相対の世界には、
 生死と宇宙の本質かそこにこそある絶対の暗黒の宇宙は、
 どこにも見出せぬからだ。

 あちらへと彼等は願う。

 あちらへ、
 それは生後に獲得した意識によっては、永遠に到達し得ぬ、
 遙かな宇宙だ。

 光と闇との意識以前に、絶対の暗黒の宇宙の本質を洞察し、
 愛し得た者のみ、
 あちらへと舞い立つ翼を持つ。

(今日はここまで)


2008年4月9日(水曜日)

リラの薫る街を

私の仕事場の階下に、BOOKS ZENという本屋があります。

ほとんど毎日顔を出していますが、
先日、「ちくま日本文学」の文庫版を3冊買ったとき、
ZENさんが

「ハードカバーで以前買われていると思いますよ」

私はそれに応えて

「昔の本は全部売ってしまいましたから」

「勿体ないことをしましたね。
 貴重な本もあったんでしょうに」

これは横にいた奥さんの言葉です。

そうなんです、
いまにして思えば勿体ないことをしたのかもしれません。

当時の蔵書でいま手元に残っているのは
わずか50冊ほどしかありません。

還暦ちかい今の私よりは少ないのでしょうけれど、
それでも当時の私は学生にしては大量の蔵書をかかえていました。

当時というのは、40年ほど前のことです。

ちょうどそのころは安部公房が新刊を出していたころで、
公房の初版本はほとんどもっていました。

べつに初版を集めていたというわけではなく、
たまたま同時代だったというにすぎません。

しかし、
大学に残って研究をつづける道をあきらめたとき、
それは大学4年の春でしたが、
私は蔵書のすべてを古本屋に売ってしまいました。

文学の痕跡を絶とうと思ったのです。

理学部の学生でありながら小説を書いて
新聞や雑誌に名前が出ていたことなど、
無かったことにしようと思ったのです。

未練を残せば、
必ずそれが重荷となって
いつかしらふたたび私を深海へ引きずりこむでしょう。

文学や哲学の深さは
それを成り立たせている言語の意味論にも似て、
不立文字の真相に
あえて言葉の蟷螂の斧をかざすというふうな
無間地獄の様相をしめしているのです。

しかし今でも、
そこが核心であるのだろうと思っています。

真剣をかざして
命がけで立ち向かった者にしかわかりません。

そこへ至る道は、
それ以外に無かろうと今でも確信しているのです。

さて、大学4年の私が、
本を売って手にした金は
すべてワインに消えました。

それもどうしたことか、赤ワインでした。

赤ワインの渋みが必要でした。

粋な香りのする白の軽さより、
二日酔いに苦しむ赤のアクのつよさが
そのころの私には必要でした。

五月の休日のころ
リラの薫る街を
ワインに酔いしれて彷徨いました。

フェステル・ド・クーランジュの
「古代都市」なんかを片手に
大通り公園のベンチに座って
春の空をながめていました。

しかし、
以前にもこのブログで書いたことですが、
大学卒業このかた、
私は一言も文学の話をしないで生きてきました。

正確に言うと
蒼天のクオリア』を上梓するまで、
若き日の私が文学的評価を受けていたことなど
だれにも話したことはありませんでした。

しかし40代の半ばになって、
冑佛との出会いを契機に、
固く閉ざしたはずの文学の扉が
ゆっくりと開きはじめたのです。


2008年4月8日(火曜日)

『谷島瑶一郎初期作品集』15

北大の中村義男名誉教授から送られてきたのは
何だったのか。

日本経済新聞に私の記事が掲載されたのは
平成16年11月17日でしたから、
それからちょうどひと月ほどたって
それは送られてきたのです。

先生のお葉書の返礼に
拙著『蒼天のクオリア』を同封したことは
昨日記しましたが、
今日お話しするのは
12月の末に
ふたたび先生から送られてきた拙著の感想と
一枚の古い紙片のことです。

まずは先生のお手紙から引用しましょう。

*********************

・・・

お送りいただいた『蒼天のクオリア』
大変面白く読了いたしました。

小生貴兄が谷島瑶一郎のペンネームで
北海道の文芸界で令名を馳せておられたこと
承知していなかったようです。

そこで想い出したのが
当時の学生諸君が作っていた新聞です。

谷島瑶一郎のエッセイ
「黒い犬」が載っているのです。

その新聞には小生も投稿していて、
保存していた次第です。

とまれ「冑佛」の研究に辿りつかれた
貴兄の半生の軌跡を、
貴兄の卓抜な文章にて興味深く読みました。

茂木健一郎氏の序文も面白く拝見しました。

”個別と普遍の交錯する領域”
それが創造的な科学・芸術の世界なのでしょう。

大野先生の描く湯川先生の講義風景にも
それを感じます。

いつか貴兄にお目に掛かる機会を得て
お話を伺いたいものです。

・・・・

二〇〇四年十二月二十三日   中村義男

河村隆夫様

*********************

エッセイを書いたことなど
私の記憶からも消えうせていました。

しかしそれを読んでいくうちに
理学部の一室で
新聞編集の竹腰君にせっつかれて
小文をなぐり書きしたのを思いおこしたのです。

文学修行に挫折して
東京から帰ってきた直後のことです。

*******************

「黒い犬」
            谷島瑶一郎

朝起きると、窓は白い。

八時に僕は下宿を飛び出す。

足の裏がつめたくなる。

夢から醒める。

見上げると、空は快晴。

黒い犬が走ってくる。

雪煙が上がる。

僕は避ける。

どこかへ消えた。

電車、降りてまた地下鉄、
その間、
もう夢にもあらわれない
遠く忘れていた黒い犬のことを想う。

過去の幻だ。

高校時代まで、黒い犬の記憶はない。

それは突然姿を見せる。

冬の朝、
浪人だけの下宿を出て顔を合わせた。

それだけのことだ。

その夕、僕は血を吐いた。

硝子の窓に夕焼けが映っていた。

犬の遠吠えが聞こえた。

北十二条に着く。

人の流れを縫って改札機をすり抜け
階段をかけのぼる。

雪だ。

今年の四月から
僕は毎朝八時半に登校。

それからは一度も黒い犬を見ていない。

しかし今朝の犬は?

いや、あれは夢だ、
昔の、
暗い夢を見たのだ。

首すじに吹きこむ雪。

僕はフードを深くかぶる。

*****************

黒い犬、
それは二十歳の科学青年がほんのひととき夢見た
文学の化身でしょうか。

いずれにせよ
夕暮れの学生控え室で
私の目の前に座って原稿を待っている竹腰君に
わら半紙に走り書きした文章を
手渡したのは憶えています。

文学をきっぱりと捨てて
科学に専心していたころの
貴重な記録です。

中村義男名誉教授に、心から感謝申し上げます。


2008年4月7日(月曜日)

中村義男先生

4年ほどまえのことです。

その絵葉書は封筒に入って送られてきました。

裏返すと、差出人は北大の中村義男名誉教授でした。

日付は平成16年11月17日になっていて、
ちょうどそれは
私の文章が
日本経済新聞文化欄に
八段抜きの記事として掲載されたその日でした。

「兜に秘める伝説の小仏」
と題された日経の記事を読んで
即座にしたためたというふうな書面でした。

**************************

 前略
 本日日経紙上にて
 貴兄の「冑仏」についての一文を拝見しました。
 
 どこかで見た顔と名前だと思い
 同窓会名簿を見ました。

 進学スクール塾長とありましたので
 間違いないと思い
 一筆しました。
 
 小生液体科学講座のスタッフでしたが
 二000年に定年となり
 比較的ヒマな日々を過ごしています。

 新聞も文化欄から読むという生活です。

 貴兄も旧家の出と伺いましたが
 面白いテーマで
 この新聞掲載が機となって
 ますますご研究が進むことを祈っております。

 たぶん数々の反響がおありかと思いますが
 その一つが北大時代の教官の一人です。

                早々
 二〇〇四・十一・十七

 河村隆夫様        中村義男

**************************

そのころ私はまだ『冑佛伝説』を
書いておりませんでしたので、
葉書の返礼といっしょに
蒼天のクオリア』を同封して
先生にお送りしました。

その後、
拙著の感想とともに
驚くべきものが送られてきたのです。


2008年4月5日(土曜日)

『谷島瑶一郎初期作品集』14

これは作品というより、試験答案です。

これを書いたときのことはいまでも憶えています。

私は理学部の学生でしたから、
教養時代の外国文学は選択科目でした。

今日のように日本と中国とが深い関わりを持つようになるなど、
当時は思いもしないことでしたが、
つまり先見の明があったというわけではなく、
どういうわけか「中国文学」を選択したのです。

父が上海に長く居たせいかもしれません。

父の仕事場はキャセイホテル、
住居はブロードウェイマンションでした。

中支派遣軍第十三軍司令部がそこを接収したから、
父は二十代のほぼ10年をそこで暮らすことになりました。

いまになって、
もっと上海のことを聞いておけばよかったとくやまれます。

父が亡くなってから、もう30年の歳月が流れました。

いずれにしても、
そんなわけで私は中国文学を選択したのです。

その試験は、
郁達夫の作品について書け、というものでした。

天狗だった私は、
全文を一気に答案用紙に書き込んで、
瞬く間に試験会場を去ろうともくろんでいたのでした。

担当は中野美代子教授でしたが、
その日の試験監督は若い亀井秀雄助教授で、
答案用紙が配られてから
ものの10分ほどで答案を書き上げ、
肩で風切って会場をあとにしました。

答案を出すとき、
亀井氏がちょっと私の方を見ました。

その驚いた風な顔に、
私は気をよくしてその場を去りました。

外は吹雪でした。

フードを目深にかぶって、
私は雪の街にさまよい出ました。

いまにして思うと、
途中退出が禁止されていて、
あれは非難の視線だったのかもしれません。

傲岸不遜の学生に、
若くてすこし気の弱そうな助教授は、
気圧されて言い出せなかったのかもしれません。

でも成績は優でしたから、
そうでもなかったのかもしれません。

もう40年も前のことです。

生意気に、
試験答案なのに、
「水中花」なんてタイトルをつけています。

**********************

水中花

               河村 隆夫

 郭沫若はお坊ちゃんである。

 友の郁達夫は大人である。

 芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。

 このかなしいあきらめを、
 郭沫若は知らなかったし、
 郁達夫は知っていた。

 と、まあ、太宰の文章を拝借したところまでは良いが、
 彼等の文学を「美」と言うにふさわしいかどうか、
 あやしいものだ。

 あれは「芸術」と云えるだろうか、
 しかし確かに「美」に達してはいない。

 凡そ中国の文学を観るに、
 想像の翼が悉く切り落とされているのには驚く。

 蛇鳥だ。
 が、それでもすこし、微笑っている。

 平凡社の現代中国文学選第5巻の郁達夫の作品、
 「沈倫」、「春風沈酔的晩上」、「過去」、
 三篇のみを通読しての感想だから、
 分析のメスを持たない。

 流しこまれたものは痼のままに留めて、
 それをほぐさず、イメエジの流れに筆をまかせる。

 と、「水中花」が浮かぶ。

 実は私、一度もその「水中花」を見たことはないが、
 ふとそれがひらいた。

 水はどことなく澱み、だが、濁りはみえない。

 あまい匂のする夢の砂糖水にゆれる一茎の「水中花」。

 自足しながら、
 そうして、
 何処にむかって花ひらいたと云うのでもないように、
 ゆれている。

 「沈倫」は最初の一行、一頁までは努めて目を通したが、
 胸がわるくなって止した。

 「何を這うのだ?」と私は苛立つ。

 郭沫若は走った。

 思想家、あるいは行動家として、疾駈した。

 郁達夫はどうだろう?

 あれは空ろな、
 夢をみる、
 蛇だ。

 「春風沈酔的晩上」を嘲笑いながら読み了えてみると、
 なんだか、例の「水中花」の花びらが、
 見えぬほどふくらみを増しているのに気づいた。

 それで、作品はと言えば、
 構成の肩が張っていて、
 傑作意識に歪んだ著者の顔が透かし見える。

 心理描写にしても力を籠めすぎて、
 無理の跡がのこっている。

 だが、「水中花」はなにかを吸った。
 ふしぎなことに、根のない茎が伸びていた。

 このあたりから、郁達夫の脚がおぼろになる。

 先時、蛇とか言ったが、
 どうやら、足どりがつかめなくなった。

 地を這っていることは確かなようだが。

 「過去」。

 作品世界へ浸ってゆくうちにいつとはなく、
 意識は惑乱していた。

 ふしぎな、香気のない酩酊に、
 しらぬまに襲われたのだ。

 それは初めての、色彩のない世界を夢遊する経験だった。

 川端の夢は、藍いろの美意識に染められた世界を、
 ながれる。

 島尾敏雄の夢はノスタルヂアにただよう。

 しかし「過去」の夢は、
 どの世界をさまようというのだ。

 どこを探しても著者の顔はなかった。

 いままで大地に身をくねらせていた蛇は、
 「過去」に於て突然、
 途方も知れない意識の大河に呑まれたのだ。

 郁達夫はもはやながれている蛇になった。

 捕えようとするとそれは蛇ではない。

 かろうじてゆるやかな、意識のながれを掬うだけにおわる。

 蛇の夢みた花は、
 ようやく妖しく咲き誇ったようだ。

 そうしてそれは、
 「過去」の水槽に、
 永遠に萎れることなくゆらめきつづけるだろう。

 だが、蛇のみる夢の中に、
 花は何を咲いたと云うのだろう。

 観念から、あるいは美醜からかくも隔り、
 夢のなかを、
 夢の汁を吸いながらそだち、
 いっぱいに花びらをひろげてみせたとき、
 突然花は、
 夢を、
 夢みる蛇を哄笑したのだ。

 ようするに、私はなんだか恐ろしくなってきた。

(外国文学2試験答案)


2008年4月4日(金曜日)

茂木健一郎先生序文『蒼天のクオリア』


いまからちょうど4年前の
4月4日のことです。

わたしが初めての自伝『蒼天のクオリア』を書いて、
2004年の4月に
茂木健一郎先生に序文をお願いしたところ
こころよく引きうけて下さったのでした。

今朝、その日のことを思い出しました。

あれから4年しかたっていないのに
ずいぶん長い時間が流れたように感じます。

あの日のことを、
茂木先生はブログに書いて下さいました。

2004年4月4日の「クオリア日記」から転載します。

http://www.qualia-manifesto.com/qualiadiary/qualiadiary20.txt

********************

2004.4.4.

 珍しく、起こったことを淡々と書こうと思う。

 土曜ではあるが、お仕事である。
 朝10時、丸の内ビルディングのカンファレンス
ルームへ。
 (財)社会経済生産性本部主催で、
 一橋大学の野中郁次郎さんがオーガナイザーの
「日本型独創経営を考える会」
で話をさせていただくために出かけたのである。

(略)

 そこから歩いてすぐの東京ステーションホテルで、
河村隆夫さんとお会いする。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~nazoden/

 河村さんは、静岡県金谷市の旧家の当主で、
「兜仏」の研究で知られる。
 私はクオリアの会でお知り合いになったのだけども、
 最近河村さんが自伝的御著書をお出しになるこ
とになり、
 その序文のようなものを書かせていただいたので、
その件について一つコーヒーでも飲みながら
お話しましょう、ということになったのである。

 河村さんの娘さんが東京の大学に入学
されるというので、その記念すべき日でもあった。

 河村さんはかの地の名士なので、
なんとか総代とか、世話役とか、いろいろ
やらされて大変のようであった。
 そういうことを書いてみたら面白いんじゃ
ないですか、と言ったら、
 いや、そうしたら、地元の人たちとの
関係が壊れますから、
 表現者というのは、そういう人間関係を
壊してまで表現するものなのでしょうが、
私はそこまではやる気がない、
 と言われたのだった。
 
 「赤目四十八滝心中未遂」 の車谷長吉さんは、
すべてを書いてしまったわけですけど・・・。

 新幹線に乗るべく、自動改札を入っていく
河村さんの「もこっ」とした背中を見送りながら、
私は「坊ちゃん」の赤シャツ問題のことを
考えていた。

*****************

2004年の4月というと、
私が『脳とクオリア』を読んで衝撃を受け、
初めて茂木先生にお電話したのが1999年ですから、
それから5年後のことです。

それからクオリアMLのオフ会などで何度かお会いして、
上の日記にあるように東京駅でお会いした2004年4月3日は、
先生が『脳内現象』発表する2か月まえ、
脳と仮想』で小林秀雄賞を受賞する1年半まえ、
またNHK『プロフェッショナル』キャスターをつとめられる
ほぼ2年前のことになります。

さらに『脳内現象』が日本文芸大賞を受賞したことは
先日のブログで書きました。

あの日からちょうど4年、
茂木健一郎先生は天馬空を行くが如きご活躍です。


2008年4月2日(水曜日)

3年日記

カテゴリー: - kawamura @ 08時41分09秒

2006年4月1日
クオリア素子

2007年4月1日
告白

2008年4月1日
国立の奇跡

これは、茂木先生クオリア日記
4年日記」のパクリです。


2008年4月1日(火曜日)

国立の奇跡


それはひとりの少年の歌声からはじまったのです。

藤色のウィンドブレーカーを着て、
少年はうつむきがちに、
ちいさな声で口ずさんでいました。

(うつむくなよ、ふりむくなよ)

少年が歌っていることなんか
まわりのだれも気づきませんでした。

ここは国立競技場。

そうです、
今年の1月14日
高校サッカーの決勝が終わって、
表彰式がはじまる直前のことでした。

これは、あの日、
国立競技場にいた者しか知らないことです。

テレビ放送はすでに終わって、
グランドに表彰台が運びこまれ、
大会主催者たちは整列を始めていました。

そのとき
敗れた藤枝東応援席から、
それはしずかに湧き起こりました。

少年の涙声につられて
まわりの少女たちが歌い出したのです。

(うつ向くなよ ふり向くなよ)

選手の親たちも
輪を描くように
それにつづいて歌いはじめました。

(君は美しい、戦いに敗れても
 君は美しい)

やがて、
藤枝東応援席の全体がどよめくように歌い出しました。

誰も皆泣いていました。

地に伏せて号泣しているものもいました。

せつなく、絞りあげるような泣き声と歌が、
流経大柏の応援席を揺るがした、
そのときです。

流経大柏の応援席からも
その歌声に応えるように
はじめはかすかな
そしてその歌声はしだいに大きくなって
やがて国立競技場全体を揺るがすように響き始めたのです。

(今ここに青春を刻んだと グランドの土を手にとれば
 誰も涙を笑わないだろう 誰も拍手を惜しまないだろう)

ふたつの応援席から
たがいを讃えあい
なぐさめあうように歌声が交わされました。

(また逢おう いつの日か
 また逢おう いつの日か
 君のその顔を忘れない)

グランドでも、
選手たちに、もはや敗者も勝者もなく
おたがいに震える肩を抱きあい
声を殺して泣いていました。

表彰式は中断され
大会関係者たちも
しきりに目頭をぬぐっていました。

その時でした。

グランドの中央にくずおれていた河井選手が
天を仰ぐように
両手を空に差し出したのです。

突然、曇天の一角が裂けて
光の帯が河井選手をつつみ、
小柄な少年は光芒を放って
そのまま天に掬いあげられるかのように見えました。

彼は光の渦のなかで立ち上がって
手にしていたボールを高く蹴り上げました。

ボールは光の帯に吸いこまれて
空高く舞い上がり
やがて眩しさに見えなくなりました。

天空には瑠璃のように高い歌声が響いていました。

この光景は
「国立の奇跡」としていまなお語り継がれています。


2008年3月26日(水曜日)

ATLAS

カテゴリー: - kawamura @ 07時02分38秒

CERN(セルン)は、
スイス・ジュネーブにある世界最大の素粒子研究機関。

そのCERNに参加する
世界数十カ国数千人の素粒子研究者たちは
ある巨大マシンの完成を待っている。

その名は、ATLAS(アトラス)。

全長40メートル、高さは8階建てのビルに相当する。

しかしそのATLASでさえ
これから幕を開ける人類史上最大の実験に用いる
ひとつの検出器にすぎない。

スイス田園地帯の地下100mに
山手線ほどの円周をもつ巨大リング
「大型ハドロン衝突型加速器」
通称LHCがすでに建設されている。

それは検出器ATLASの完成を待っているのだ。

研究者たちは、
ただひたすら「その時」を待っている。

ひとつの粒子を発見しようとしているのだ。

山手線のように2本のパイプが並行して走り、
そのふたつの疑似宇宙空間のなかを
無数の陽子が
光速の99.9999991%の速度で逆向きに走る。

激突した陽子から
その粒子が放出されるのを発見しようというのだ。

ヒッグス粒子、
それは標準モデルにおいて
素粒子に質量を与える力の粒子。

その質量が
標準モデルの予想する170GeV前後であれば、
自然のいわゆる4つの力のうちの3つは
標準モデルによって統一されたことになる。

4つの力、
「電磁力」「弱い相互作用」「強い相互作用」「重力」。

これらのうちの「重力」を除いた3つの力が
標準モデルによって統一されたことになるというのだ。

つまり、
この宇宙を躍動させている力の4分の3が
標準モデルによって数学的に解明されたことになる。

私は思う。

脳と宇宙の関係を。

ただそれだけを思う。

宇宙がかくも美しく数式によって表現され得るのは
それを認識する我らの脳の解析手法がそうだからなのか。

それとも我らの脳とは無関係に
創発的に宇宙は創造されつづけるのか。

しかしたとえ創発されたとしても
それを認識するのは我らの脳ではないのか。

その謎は、
渦状星雲のように、
宇宙の遠くに輝いている。

いずれにせよATLASによって
標準モデルの完成が確認されたとき、
最後に残されたただひとつの力
「重力」を解き明かすのが
超ひも理論である。

ここからさきは
「超ひも理論は世界を説明できるか」
(茂木健一郎と愉しむ科学のクオリア・日経サイエンス5月号)
をお読み下さい。


2008年3月23日(日曜日)

桜と鳥と

カテゴリー: - kawamura @ 07時27分23秒

彼岸の中日が雨だったので
お墓参りを昨日いたしました。

この春大学を卒業するふたりの娘たちは
墓地のなかに立つあじさいの剪定をしていました。

妻に聞くと
春の彼岸には毎年そうしていたというのですが
どうも私には覚えがありません。

ひとりは公務員に、
もうひとりは大学に残って歴史研究の道へ進みます。

やわらかな陽差しにあじさいの新芽が輝いています。

墓石は十五ほど並んでいて、
そのまわりを
私は竹箒で掃ききよめ、
妻はそれぞれの墓の前にお花を供えています。

なんでも仏壇に多めの花を供えてしまったので、
母が植えた水仙の花を切りとってきて
まにあわせたというのです。

居並ぶ墓列のまえの、
一段低くなったところに、
ヒロさん(松浦廣吉)と呼ばれていた下男の墓と、
我が家に代々仕えていた家のお墓があります。

私はそのまわりも掃ききよめます。

ヒロさんの生い立ちなどは
あまりくわしくは聞いていませんが、
妻帯せずに最後まで我が家に尽くしてくれました。

ヒロさんを語るものといえば、
色あせた写真が二・三葉のこされている程度です。

もうひとつのお墓には、もう訪ねる人さえおりません。

そのとき、桜のこずえで、鳥の声がしました。

私たちは手をとめ、耳を澄ませました。

風はやみ、しずかな陽差しが降っています。

それは墓守桜とよばれる大きな桜の頂上から
聞こえてくるようです。

よく透る声で、
遠くの榧の木にいるもう一羽の鳥と
鳴きかわしています。

私は、
父と母が鳥に姿をかえてきてくれたと気づきました。

私の好きな水仙を供えてくれたの、
ありがとう、と母が言っているようでした。

春の陽差しの降るなかで、
妻や娘たちがそれをどのように聞いていたのかは
わかりません。


2008年3月21日(金曜日)

『谷島瑤一郎初期作品集』13

左から、『洋子からの手紙(前編)』、『洋子からの手紙(後編)』、『幻想としての初期万葉』が掲載されました。

初期万葉の魅力にとりつかれたのは
近藤潤一先生の講義を聴いてからのことでした。

今朝はじめてググってみて、
近藤先生の偉大さに驚きました。

http://www.asahi-net.or.jp/~gv2k-smz/Juniti/Juniti.html

<昭和6年2月1日函館生まれ。本名 近藤潤一。
 北海道大学文学部教授・教養部長・付属図書館長、
 平成6年定年退官し、北海学園大学教授。
 北海道大学名誉教授。
 日本文学(中古・中世)関係著書論文多数。
 昭和21年『壷』入会、23年同人、斉藤 玄個人冊子『丹精』に参加、
 48年『壷』復刊編集同人、50年壺中賞準賞受賞、
 55年『壷』編集長、
 60年素玄賞受賞、
 平成3年『壷』主宰、朝日新聞北海道版俳壇選者、
 俳人協会評議員。句集『雪然』『秋雪』
 著書『玄のいる風景』『北の季寄せ』。平成4年鮫島賞受賞
 平成6年9月16日没。享年63歳。正四位勲三等旭日中綬賞。>

私がお会いしたのは、昭和40年代の半ばでしたから、
そのあとずいぶん活躍されたのだなあ、
と胸に迫るものがあります。

当時は教養にも教授室をもっていらっしゃいましたので
近藤先生のお部屋には何度も通いました。
初期の小説はほとんど目を通していただきました。

しずかな、透明な思索の気配のなかに
峻烈な精神が棲んでいるという感じの部屋で、
私はその空気を吸いたくて
足しげく通ったというところもあるのです。

田舎育ちの私がはじめて出会った文学者でした。

大学を留年して文学修行に東京へ行った顛末は、
拙著『蒼天のクオリア』に書きましたが、
意気盛んに出発するときも
挫折して帰ってきたときも
近藤先生の部屋を訪ねました。

北方文芸にはじめて作品を発表した日のことは
忘れません。

それは雪の日でしたが、
昼食にいったクラーク会館の入り口で、
思いがけず近藤先生とお会いしたのです。

「うまくなったね。いい作品でしたよ」
「ありがとうございます」

それだけの会話でしたが、
積みかさねた日々の感慨が
その底に流れていました。

師弟の会話、という感じで、
忘れられないのです。

何よりも忘れられないのは、
私が卒業して就職し、
やがて父が倒れて帰省した年の正月でした。

懐かしくて、
年始の挨拶に電話したとき、
「早く世に出て下さい」
そう言って下さいました。

やさしい静かな声で
「早く世に出て下さい」
そう言って下さいました。

私が塾をはじめたばかりのころでした。

夜は塾、昼は高校の講師、
そして休日は農作業をしていたころのことです。

「はい」と答えましたが、
今でもその約束を果たしてはいません。

『幻想としての初期万葉』は
近藤先生の授業の課題であった国文学のレポートです。

ですから、
谷島瑶一郎ではなく本名で書かれています。

********************

『幻想としての初期万葉』

              河村 隆夫

 大和には 群山ありと
 とりよろふ 天の香具山
 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ
 海原は 鴎立ち立つ
 うまし国ぞ あきづ島 大和の国は

 この歌を読む度に、
 私は不思議な程鮮やかにレームデンの「ウィーン」と云う幻想画を思い浮べる。

 春のウィーンの遠景の、
 そのほとんどを明澄な空が占め、
 中央に奇妙な姿の鳥が数匹舞う。

 安らぎと希望が仄かにただようているかのその絵に、
 私はふと云い知れぬ清冽な水の音を聞いたやうに思った。

 それはむしろ、ふるえる朝日の切口、
 今しも零れ落ちるかの、夜露の粋美な果敢なさを思わせる。

 ”原光景”とでも云うに相応しかろう。

 しかし何故、遙か古の初期万葉の世界が、
 あれ程明晰に、現代の最先端である幻想画を私に彷彿させたのか。

 それは時折襲ってくる海への郷愁に似た不可解さを伴っていた。

 私達を取巻く現実は、夥しいイメエジの軍勢に侵蝕されている。
 その纏りつくイメエジの触手を断ち切ろうと、
 現代の最先鋭の幻想画家達は、好んで夢を画題にすると云う。

 夢の世界には価値感が無く、
 丁度子供が砂浜に光る石を見つけた時の喜びのような、
 何ものにも囚われぬ素朴な”原始の心”がそこにはある。

 そして、幼児の持つ”原始の心”は、
 歴史の幼児期である初期万葉世界の人々の心に通ずる。

 彼等画家達は、
 我々の意識の遙か奥底に潜む、その”原始の心”によって、
 存在の秘密に逼ろうとするのであろうか。

 そしてそこに、
 イメエジに侵されぬ”原光景”を見ようとするのではなからうか。

 又、万葉の天皇の眼に映った世界は、
 正にその”原光景”ではなかったのか。

 何故なら、彼等の心こそが、”原始の心”だからだ。

 存在そのものを見透かすことのできる”原始の心”は、
 私達の心にあっては無意識の中の幼児精神であり、
 それは夢となって現れ、
 又、歴史的には、初期万葉世界の人々の心であった、と私は考える。

 舒明天皇の御歌は、
 こうして私を幻想的な”原光景”の世界へと誘ったのである。

 しかし”原光景”が最早、幻想でしか無いとは、
 何と云う奇妙なパラドクスであらう。

 又私は、万葉の主人公達の激しい主格が、
 私の観念も情緒も一足跳びに跳び越へて、
 剥き出しの顔を、ぬっと差し出すのを感じた。

 彼等には観念も情緒も無く、
 その流れを遡った源泉のみがあるらしい。

 それはあまりにも透明な、清水の結晶のような泉である。

 その張り詰めた水面には、在るがままの総てが映し出されている。

 そして、精神と呼び得る否やも分らぬこの清絶な主格の裏に、
 微かな、しかし鋭い血の匂を私は嗅いだ。
 偉大なる殺戮者の匂を。

 それは丁度、幼児の精神の孕む、
 無垢なるが故の残虐さに対比されよう。

 そして又、その血の匂、死の匂は、
 幻想画の中にも漂うているのである。

 現代からイメエジを悉く払拭してゆくところに現れる”存在の秘密”。
 ”原光景”への狂ほしい程の希求。
 そしてその、存在の極に潜む、死。

 純粋な”存在”とは、人間にとって”死”ではないか。

 万葉の人々の清明さが、
 その純粋な”存在”に、今しも蝕まれんばかりの、
 絶妙な危険を孕んでいるように私には思われたのである。

─幻想としての初期万葉─


2008年3月20日(木曜日)

『谷島瑤一郎初期作品集』12

小説を書いていた二十歳のころ
世界のすべてを理解しているというふうな
お馬鹿さんでした。

むしろ還暦近いいまのほうが迷いの中にいます。

悟りなんかはるか彼方にいて、
そ知らぬふりをしている感じです。

知人が言いました。

「波乱の人生なんか求めちゃいけない。
 求めなくても、 
 想像をこえた波乱がむこうからやって来る」

最後まで、
修行僧の覚悟をもって生きていこうと思います。

そういうとき
二十歳のころの
愚かな天狗だった自分を振りかえってみるのも
一興です。

さて、
3月12日の日記に引き続き、
今日もまた少年の挫折と再生の物語、
『波』を抄出します。

********************

  『波』 (抄・21歳)

                  谷島瑶一郎

 窓に、空をすべる鴎がみえた。
 ぼくはあわてて、つぎの停車を告げる、白いボタンを押した。

 やがて車が止まって、海のみえる町に着いた。

 この町は三度目だから、
 今度は、つよく鼻に匂うのが潮の香であると分った。

 うす青い排気ガスのなかにバスが走り去ると、
 胸の湧くような潮風のなかを、
 記憶になつかしい家々の立ちならぶ砂の道に向って歩きはじめた。
 晩夏の、硫黄の燃えるような光をうけて、
 家なみのうらに盛りあがる丘の緑が、
 空に染めぬいたような異様な美しさを見せている。

 通りには一人もいない。

 町は変っていなかった。

 ぼくは記憶のスクリインはすべりこんでゆくという期待に、
 胸があつくなって、足が止まった。

 十歳の夏、あのトタン屋根の上に立ちはだかっていた、入道雲。
 庭の芝生に、いちめんの青い花がゆれていた。
 まぶしい潮風。
 まつ毛に、ひかりがやさしくからみついて、
 僕は笑うように眼をほそめた。

 軒さきに煌めく、緑の、大きな硝子玉。

 『おかあさん、これ、なに?』

 『浮子(うき)よ、網につける、う、き』

 空を背に、母の白い顔と、ちいさなぼくが映っていた、
 緑の、大きな硝子玉。

 鴎の呼びあう声がきこえる。

 昔と変わっていない。
 だが、それはあり得ないし、
 そうだ、あってはならない。

 ぼくは、ポケットのナイフをつよく掴んだ。
 象牙の感触が、汗ばんだ指につめたくしみて、心地よかった。

 道が白くつづいている。
 砂の道が、左に折れて、家なみにかくれたところで、海に会える。

 ぼくは歩きはじめた。
 靴のそこに、砂が灼きついてくる。


2008年3月19日(水曜日)

まっくろくろすけのこと

それはととろにでてくるあれのことです。

梅の木オーナーのブログに

「島田市指定文化財「御林守河村家住宅」を
 無料でご案内いたします。

 マックロクロスケが住んでいます。
 まえもってブログをお読みいただければ、
 いっそうお楽しみいただけると思います」

と書きましたら、

「河村家のまっくろくろすけの事
 もうすこし詳しくブログで読めますか?

 5歳になる娘が喜ぶだろうと思いまして。」

とお問い合わせがありました。

きょうは
まっくろくろすけのことをお話しします。

家の写真はブログのなかにも
HPにもございますのでどうぞそちらをご覧下さい。

(「御林守河村家住宅」の紹介TV番組    

それでは、まず、古い家を思い浮かべてみて下さい。

それは西洋のものでも日本のものでもかまいません。

ホラー映画にあらわれるあんな感じの建物がいいでしょう。

そこにはなにかが棲みついているように感じませんか。

得体の知れないなにか、
形をもたないなにかを感じませんか。

建物自体が、生きているようなあの感じ。

柱の影に、誰かが立っている気配を。

たしかにそれは、
なにかが棲みついていて、
闇にひそんで私たちを待っているのです。

私はそういう家で生まれ、育ちました。

闇にひそむもの、
それはしかし恐ろしいものとはかぎりません。

座敷わらしのようなかわいい姿をとることもありますし、
ときにはまっくろくろすけのすがたで
私たちを楽しませてくれることもあるのです。

妻はいつも歎いています。

なんど掃除しても
畳の上に
まっくろくろすけののこしたすすのようなものが
おちているのです。

それは私たちのうしろへ音もなく舞いおり
かすかなかぜにのって
なんどのやみのほうへきえてしまいます。

(それはたんに屋根裏のすすが
 まいおりてくるのかもしれませんけれど(笑))

これを書いているとき、
まさに今、午前5時、
裏山の闇から
私を呼ぶようなかん高い鳴き声が聞こえています。

だれが呼ぶのでしょうか?

見に行ってきます。


2008年3月16日(日曜日)

宇宙開闢

カテゴリー: - kawamura @ 04時53分15秒

最初の二三杯は
いっきに流し込みます。

酔いがくるまで
ひたすら飲みつづけるのです。

お酒をおいしいと感じたことなんか
いままで、
つまり40年ほどのあいだに
一度もありません。

私は酔うためにしか飲まないのです。

お酒がおいしくて飲んだことはないのです。

いずれにせよ
これを書いているいまも飲んでます。

高潔に生きるか、
破滅を求めて生きるか、
人はそれを選べるってことだけでも
すごいことじゃありませんか。

一度しかない人生だから
浄く生きたいとは思っていますが、
でも
ときに疲れることだってあるでしょう?

そんなとき
どこか遠くから聞こえてきます。

悟りとは悟らで悟る悟りなり
悟る悟りは夢の悟りぞ

私は耳をふさいで
酒を飲むんです。

酔いつぶれて
記憶の本棚から
「月下の一群」なんかをひっぱりだしてきて
クロスの詩を諳んじてみるのです。

酔うときはそんなふうに、
湖面に浮かぶ月を
手で掬おうとして逝った李白のようになりたいと
願います。

ベランダに出てみると
いまは満天の星しか見えないけれど
もうすこしすると
宇宙開闢に似た夜明けがくるのです。


2008年3月12日(水曜日)

『谷島瑤一郎初期作品集』11

私のHPに表示されている過去の小説などを
時系列で発表しています。

だれも読んで下さらなくてもいいんです(笑)。

所詮自己満足にすぎないことは
承知していますから。

そうして小説のすき間に
その当時のほかの文章を
さし挟んでいくことにしましょう。

『賛歌』 19歳
『思い出』19歳
『翼』  20歳
『予感』 20歳

ときましたので、
HPの順番からすると
次は

『波』  21歳

ということになります。

『波』は海や陽光が感じられて
とても気に入っている作品のひとつですが、
未完なのです。

屈折した少年の
挫折と再生をテーマにしたこの作品は
ほんとうは、完成していたのです。

部屋にこもって
薄い茶色のノートに
後半部分を書きつづけたことを記憶していますが、
そのノートが何処かへいってしまいました。

『宇宙論』も、
原稿の後半部分が失われてしまったのですが、
その顚末はまた次回にお話ししましょう。

それでは今日は『波』の冒頭の部分をどうぞ。

(どなたか、か、感想をくだされ!(笑))

********************

  『波』 (抄・21歳)

                  谷島瑶一郎

受話器を置いた。
ぼくは口びるを噛んだ。
きつく、噛んだ。
口びるがやぶれて、血が一つぶ、拳に落ちた。

部屋に戻って、
ジャックナイフを、ポケットにほうりこんだ。

象牙の柄に、花の模様が彫刻してあるが、
よく切れる。

船乗りだった父の形見だ。

海のみえる町までバスでゆけるから、
大通りに出てバスを待った。

汗がぷつぷつ噴いて、
何度かハンカチをしぼるほど暑い、晩夏の日曜日のことだ。

強い陽ざしにいちめんが白くかすんで、
眼が痛くなった。

口びるがかわいて、傷に汗がしみる。

舌さきでなめると、血の味に、遠い海が匂った。
 
シグナルが青にかわり、
クリイムいろのバスがほこりを巻き上げてやってくる。

ポケットのナイフをたしかめると、空を見た。

深く、雲がなかった。

乗りこんだバスには、
白い麦わら帽子を
窓からさしこむ光にきらきらさせている中年夫人といった、
閑雅な感じの女性が一人、
それから、
サングラスが盲人みたいなやくざ風のおあにいさんが、
まん中あたりに一人、
そして十八歳のぼく。

テレビ塔の電光板が、二時になって、
バスは走りはじめた。

車の揺れに身をまかせていると、
潮の匂いが鼻をかすめた。

外を眺めやったけれど、ビルの海だ。

まだ走り出したばかりなのだから、
蒼い海は三十分のむこうに波うっている。

幻臭とでもいうのかと、ぼくは一人で微笑った。

景色や声は思い出せても、どうも匂いはよみがえらない。

でも時おり、幼いころの、得体のしれぬ匂いが、
思わせぶりに鼻のあたまをかすめてゆくことがある。

匂いには意味はない。

ただ匂いが、
潮の香にまつわる記憶が、
ぼくを不安にさせる。

いらだたせる。

さざ波がきこえた。

遠くからのように波は、
うしろから、記憶の扉を突き破って、襲ってきた。

頭の奥に海がひろがった。

小島があらわれて、誰かの声が岩陰からぼくを呼んだ。

ぼくは両肘に頭をはさんで、つよく振った。

(つづく)


2008年3月10日(月曜日)

『谷島瑤一郎初期作品集』10

今回は何にすべきか迷っています。

作品として発表したものにしようか、
未発表の作品か、
あるいはレポートや試験答案の中で
二十歳のころの私をよくあらわしているものにしようか、
迷っているのです。

すべては私の手もとの、
銅製の箱の中に納められています。

この赤がね色の箱は、
父が中支派遣軍第十三軍司令部参謀部にいたころに
使っていたもので、
この箱をみたことがあるのは、
私の家族と、
教え子のなかのほんのわずかな生徒だけです。

私の青春は、
35年ほどまえから
この箱のなかで眠りつづけていました。

いまようやく蓋があいて、
それはゆっくりと目覚めようとしています。

まあ、いろいろ考えたすえに、
社会学のレポートにすることに決めました。

ちょっと思い上がった青二才、
って感じがして気に入っています。

まさに茂木先生のおっしゃる
「根拠のない自信」に支えられていたころのことです。

もちろんレポートですから
谷島瑤一郎を名のってはいません、
本名で書いてはいるのですが、
仰々しい内容は
ほとんど作家気分です(笑)。

ご興味がおありの方は、
どうぞお読み下さい。

*******************

予感(社会学レポート)

                  河村 隆夫

おそらく爾後半世紀の間は、
カリスマ的権力の台頭を見極めることが、
宗教社会学の最も今日的な意義であると思われる。

私には資料もなく、
研究に打ちこむ暇すら得られなかったが、
日頃こころに暖めていた諸々の思念を、
この、カリスマ的権力台頭の必然性を旨として、
極めてエッセイ風に書き綴ることになるであろう。

ところで宗教の必然性を、
人間能力の無力さ、
欠乏のもたらす強制的統合、
偶然性、
これらにあるとすれば、
凡そは科学のめざましい進出によって、
能力は補捉され欠乏は癒され、
最も本質的な問題である偶然性さえ、
その幅は狭められたかに見える。

科学万能の幻想は現在に於ても、
人々を魅了している。

神秘化の段階は過ぎたが、
その明瞭さと、有無を言わさぬ即物的有効性、
あるいは恐るべき進展の速度に依って、
人類自らの知性に、自らが驚異を感じている。

宗教の源泉が自然への畏怖にあるとすれば、
科学的知性の驚異が、
無知な人々の間に、
一種の宗教感情を引き起こすことはもっともである。

人々は知性に依って自ら、
万能の、すなわち神に成り得るとの期待を抱いた。

が、一つの誤謬がある。

それは、解答であった。

この矢つぎ早に産み落とされてゆく、
数学の、物理学の、あるいは心理学の明晰な解答は、
人類の将来を養ってあまりあると、
人々は幻惑された。

数学や物理学の、
体系的な科学に於てはそれで良かろう。

しかし精神の領域に、答は無いのだ。

宗教は云わば、
人間能力の限界の壁に描かれた宇宙のパノラマである。

そうして我々自身が一個の宇宙であることを知る時、
パノラマの裏に広がる永劫の宇宙と感応は始まり、
しだいに自身が、更に大きい宇宙を現じてゆくのである。

ところで、パノラマは壁に、何を映じるのだろうか。

宇宙とは、思うに「力」の謂である。

「力」は無常の波を生むが、
しかし科学でのような分析的解答を与えはしない。

だが、その無常の時点に於て、
疑問を発すること自体が、
ある意味での解答ではなかろうか。

これは仏教には即座にあてはまるし、
又、キリスト教の神については、
あらゆる偶然性(すなわち無常)を、
必然性へと視点を移動させる宇宙観のコペルニクス的転回点であることを思えば、
神は、無常の陰画である。

これは日本の神概念に於ても、一致する点がある。

冒頭に私は、
この半世紀の間に、
カリスマ的権力の台頭することを予言したが、
それは食糧、資源、などのエネルギー欠乏によって、
最初の兆候を現しはじめるだろう。

氾濫していた物質の水位が下がると、
精神巌礁は渇えた肌を見せはじめる。

欠乏は強力な秩序を必要とするし、
秩序は、人々の精神に固い枷をはめる。

その引き起こす苦痛は、
科学的の解答によっては癒されない。

逼迫した事態は、秩序の外に、
苦痛を解消するための宗教を、
求める余念を与えないであろう。

人々は、宇宙の深淵を一歩前にして、
科学の、数個の公理を礎石とした高層建築を仰ぎみるに、
最早、脅威も、
あるいは知性に依る救済感すら覚えないことに愕然とするであろう。

何故ならそれは、宇宙の深淵に比さないからだ。

くらべ得るのは、精神巌礁の根の深さのみとなった。

それに気づいた時人々が、
一足跳びに宗教の前にひれ伏すとは、私には思われない。

一旦地に落ちた偶像は、
容易に再び輝くことはなく、
更に、即物的な解答に慣らされてきた人々が、
ふたたび精神への旋回を企てるのには間がいる。

そこに於て恐らく、
この半世紀の間は、宗教と云うより呪術へ、
要するに、
欠乏に対して現世的な利益を保障する政治の呪術、
カリスマ的権力の下へと走るであろう。

更にその未来に、
私は、破滅と、
さらに破滅の予兆に満ちた新しい宗教の勃興を予感している。


2008年3月7日(金曜日)

隠していたこと

カテゴリー: - kawamura @ 09時08分48秒

ほんとうは書くべきなのに
隠していたことがあるのです。

サイエンス2月号のこと。

なかったことにしようと思っていたのですが
やはりなんだかノドに骨がつっかえたようで
すっきりしません。

だから書こうと思います。

かといってまだ内容がこなれてもいないし、
それどころかしっかり読みこむ気にもなれないでいます。

なぜって、
あまりにも直球ストレート勝負の論文だからです。

クリストフ・コッホとスーザン・グリーンフィールドの論争です。

題して「意識はどのようにして生まれるか」。

な、なんだ、もろ直球じゃん!

コッホといえば、「意識の探求」の著者です。

かの、ノーベル賞科学者、
二重らせん構造の発見によって科学史に燦然と輝く
フランシス・クリックの序文を戴いて、
クリックとの共同研究の成果などを網羅した書が
「意識の探求」です。

スーザンは知らないが、コッホと聞くと具合が悪くなります。

だってまだ完全に読んでいないんだよっ!!(笑)

(ゾンビ・システムのところなんかとってもおもしろいけど)

でも、コッホのニューロン連合と
グリーンフィールドのアセンブリとの違いがよく分からない。

「目覚まし時計は
 なぜ眠っている(無意識の)人の意識を呼び起こすのか?」
ってことだって分かっちゃいない。

こんなささいなことでも
コッホとスーザンの仮説は分かれます。

どうだっていいじゃん!
とみなさんは思うでしょ、
でもとっても大切なことなんだ。

私はスーザンのいっているアセンブリが
例のニューロンの自発発火に関係しているんじゃないかと思ってる。

従来はノイズと思われていたものが、
じつは意識の重大な秘密を握っているんじゃないかって。

(昨年末のあんこう鍋のあと、
 東大の池上高志さんとお話しする機会がありました。
 池上さんから話しかけて下さったのです。
 というか隣に座って下さったのです。

 私は、疲れとお酒で朦朧とした意識のまま
 いろいろとあらぬことを口走っていたような記憶さえおぼろです。
 
 池上さんが真剣に話して下さったと言うことだけでも光栄でした。
 何の専門分野ももたぬ私に、熱心に語りかけてくれました。

 池上さん、白洲信哉さん、とても楽しい夜でした。
 茂木先生、有難うございました) 

でも、
サイエンス2月号をひらいてもっとびっくりしたのが
茂木先生と、あの前野の対談でした。

前野といえば「意識は錯覚である」という
まあなんとも
分かっているのか分かっていないのか分からない人なんです。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」
「浪速のことは夢のまた夢」
「邯鄲の夢」「胡蝶の夢」
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」

と我らの人生が夢の如くであると言い擬えてきたのは
文学の世界のことと思っていたのに
なんともはや科学者がそう言い放つとは思いもしなんだ。

我らの人生は、すべて錯覚にすぎない、というような
ロマンチックなお話は文学でやるべし。

錯覚でも夢でも、そんなことどうだっていい。

錯覚であるクオリアとはなにか、と問うているんです。

我らが日々生き、日々感覚している
豊かなクオリアに満ちたこの人生は何かと問うている。

それは錯覚であり、夢幻にすぎないと言い放つのは、
まさに遍計所執の迷妄の中にいる言葉です。

そこは出発点にすぎません。

そのクオリアは、どのようにしてどこから生まれ、
それは何を意味するのか、
クオリアの峰はまだ遙かな空に聳えています。

至る道さえも定かでないその峰をめざして、
茂木先生は一人で歩いているのです。


2008年3月6日(木曜日)

茂木先生の星時間

カテゴリー: - kawamura @ 06時35分34秒

サンデ−毎日の連載を先週から読みはじめた。

先生の文章を読むときにいつも感じる空間の感覚、
それは谷川俊太郎や宮沢賢治ともちがう
透徹した時空間の感覚、
おそらくそれは物理学の空間認識からくるのだろう。

静謐の宇宙を感じる。

そう思って読みかえしても、
取り立ててそれが書かれているわけではない。

「文明の星時間」では
歴史について書かれているのだけれども、
書かれているその歴史事象の遠くに、
星雲のひろがる宇宙空間を感覚するのだ。

どうしてそうなのだろう。

タイトルのせいだろうか。

茂木先生の魅力のひとつは
確かにそこにあるのだろうと思う。

歴史を書いても、音楽を書いても、
その背景に濃藍の宇宙がひろがっている。

それはこの世のよしなしごとや権力から遠く離れた
星からの視座である。


2008年3月3日(月曜日)

『谷島瑶一郎初期作品集』9

『谷島瑶一郎初期作品集』9

『翼』への批評文

(「北方文芸」第5巻第9号9月号60頁)

以下批評文

********************

 『北方浪漫』創刊号の谷島瑤一郎「翼」は長編の第一章だが、
 一〇〇枚はあろう。

 地味好みの私の眼には、
 この作者の才能は精巧なステンドグラスのように
 七色の光彩を放って見える。

 ほめ倒すわけではない。

 若書きの初々しさ、
 抑制不能の情感の誇示、
 それとこれとの混淆がときに鼻につくけれども、
 また三島由紀夫耽溺の跡も歴然としているにしても、
 ここに華麗な才能の萌芽があることは確かである。

 今回は自殺未遂の”純粋”探求者の手の記だが、
 一節を引いておこう。

  <公園には誰もいない。/
   丘の中腹の、閑(のど)かな住宅地から、
   あざみの花のような犬の鳴き声が聞こえてくる。
   かすかな風に、ピアノの音が、
   いまにもこわれそうな水玉を運ぶように運ばれてくる。/

   つい今しがたまで、このベンチの傍らの、
   巨(おお)きな柊(ひいらぎ)の木の根もとに、
   薄桃色のワンピースの少女が、
   空を仰いで、虚(うつ)けたように佇んでいた。/

   春の空は、麻薬の粉をふるいにかけている。
   陽差の金の糸と、霞の白い絹糸を、
   きめ細かな薄布に織りあげ、
   空に貼りつめ、
   その織目から僅かな粉が絶えず舞い下りてくる。

   見下ろす街並みは、廃人の眠りを貪り、夢みている。>

 ──私は、久しい間、こういう文章を道内誌上で読んだ覚えがない。

 ロマン志向の露骨な工芸品的文体だが、
 わずか四日間で第一章を書き上げたらしいことにも驚かされるし、
 この秀抜な新人の向後を見守りたいと思う。

********************

二十歳そこそこの私が、
このように批評されて、どんなに舞い上がったのか、
舞い上がって天まで飛んでいってしまったのか、
お知りになりたい方は『蒼天のクオリア』をお読み下さい。

札幌地下街の紀伊國屋書店で、
はじめてこの批評文を目にしたとき、
ひとつひとつの文字が、
立ち上がってくるように感じられました。

悦びの炎のあとに、その灰をかきわけると、
黄金の自信が残っていました。

その黄金がのちにどのような幸不幸をもたらすのかは、
拙著をお読みになればお分かりいただけると思います。


2008年3月2日(日曜日)

『谷島瑤一郎初期作品集』8

『谷島瑤一郎初期作品集』8

『翼』(20歳)  (抄・最終回)

                   谷島瑤一郎

 ─ふいに彼女が身を屈めて、あの紅い花を手折った。

しなやかに差し延べたその手を取って、
 身体を支えている僕の手に、その時彼女の肉体の手応えはなかった。
 
 僕達は既にその時、何かを越えてしまっていたのかもしれない。

 しかし見えざる必然の大河は、
 悪意の滝壺を深く穿ち、僕達を手ぐすねひいて待ち受けていたのだ。

 彼女は立ちあがって、広がる果てしない海へ、
 その花を一輪投げた。

 月を浴びてか、花自体が光りを帯びているかのように、
 薄紅く仄光り、闇に浮かび、
 そうして急に眼下の、絶え間ない波のたゆたいに向って吸い込まれてゆく。

 知らず僕達の眼はその薄紅い光を静かに追い、
 遂に波間に消えた時、懐かしむかのように、顔を見合わせ微笑み合っていた。

 ぐらっ、と足下が揺れた。

 突然闇に身体が浮いた。

 突然闇に身体が浮いた。

 すうっと底へ身体が沈む。
 意識が沈んでゆく。

 遮二無二もがいた手が、岩に引っ掛った。

 頬が、掌が切れた。

 針の痛みが走った。

 崖の半ばに身体が宙づりになった。

 見れば今しも崩れそうな岩の突端にしがみついている。

 足場が無いのだ。

 何ものかの凄じい悪意を直感した。

 バサッと飛び立つ海鳥。
 かすかな風が頬を拭った。
 
 岩と身体の隙間から月に映える海面が覗く。

 遙か白い波紋が誘っている。

 僅かな身震いも許さぬ不気味な岩の手応え。

 ・・・死! 死を、今さら恐れているのか!・・・・・・

 目まぐるしい狂気が頭に焦りの渦を巻く。

 ・・・洋子!僕と一緒に、お前の、愛の、翼を! 

 灼かれるような願いに心臓が萎えた。

 肌に大粒の汗が浮いては引いた。

 遂に、
 
 「飛べ!飛び立て、洋子!」
 
 絶叫して僕は、
 激しく彼女を見上げ方(ざま)に、
 手を離し、
 崖の腹を思いさま突いて、月の海へ飛び立った。

 愛の、比翼の鳥は、
 永遠へ舞い立とうと身構へた刹那に、
 片翼を、「純粋」の翼を失ったのだった。

 しかしあの瞬間、見上げ方(ざま)に見留めた彼女は、
 濃藍の天蓋に浮かぶ崖の端に身を乗り出し、
 丁度満月の中に顔を収めて、
 遠く微笑み見下ろしていたように思われる。

 その彼女の長い髪は、
 夜の海風に靡き、
 白い額は月の幻影のようにしめやかな光を帯びている。

 淡い月光の流れる鼻梁の下に、
 真珠のように可愛らしい前歯が、
 形の好い唇の微笑みに覗いて、きらりと仄かに光った。

(『翼』 完)


2008年3月1日(土曜日)

『谷島瑤一郎初期作品集』7

カテゴリー: - kawamura @ 07時56分48秒

『谷島瑤一郎初期作品集』7

(『翼』第二回から原稿用紙約40枚省略)

(省略部分のあらすじ。

 高校三年生の僕(瑤一)が洋子と出会って、まあ、いろいろあるうちに、
 女性の確かな存在感に比べて、男性の虚妄を感じ始める。
 ラストシーンを理解するために、
 女性を「海」、男性を「湖」ととらえる場面を
 ちょっと、抄出してみよう。

 <僕はその時、今の自分の心が、丁度火口湖に似ていると思った。
  そして彼女の海へそそいでいるのだ。
  海は、今までずっと海だったし、これからも間違いなく海だ。
  しかし湖は違う。
  地震に襲われて底に亀裂が走ったら、涸れて何も無くなってしまう。
  海はいつまでも海だ。
  彼女の瞳を見た時、あの二つの窓から海を覗き見た時、
  僕の湖は海へ流れる河を見つけた。
  僕はそっくり海に成りたかった。
  そして絶え間なく海へそそいだ。
  湖の不安を忘れようと。>

 瑤一はこんなことも考える。

 <視線が合って、刹那でも僕の眼差しに戸惑いの色が現れたら、
  それを旗印に、”未来”に阿り仕え、
  ”後悔”を武器として携えた、夥しい不安の軍隊が、
  この瀟洒な「純粋」の城を、逆う間もなく粉微塵にしてしまうだろう、
  とも思ったし、
  それに、胸に巻きつく彼女の腕が、次第にきつく、
  やがては命綱でも抱く時のような刀で抱き締めてくるのが、
  少々痛みを伴って快良く感じ取れたからだ。>

 あるいは、こんなことも考える。

 <あの澄みきった「純粋」の曙光を、突如として総身に浴びる迄、
  天上の彼方から差し延べられた透明の手に抱かれる迄、
  僕は何を戸惑いさ迷うてきたのか。
  僕は河岸によじ登ろうとしていたのか。
  よじ登って、河の行く方を確かめようと、
  学問だの道徳だの云う測量器を駆使していたのか。
  それに心を奪われていたのか。
  そして例へその河の行く方を見定めたところで、一体何になると云うのだ。・・・・・・・・・

  しかし、「純粋」は翼だった。
  それはひたむきな昇天の願い、
  空に、太陽に抱かれようとする真白(ましろ)の翼だった。

  「存在」がやがては、海に辿り着くように、
  「純粋」の翼は、太陽の眩(めくる)めく光耀に包まれようと羽搏く、痛切な願い、だった。>

 とまあ、こんなことを考えながら、いよいよラストシーンに近づきます。
 長いあらすじでしたが、さて本編にもどりましょう)

『翼』(20歳)   (抄・第三回)

                   谷島瑤一郎

 襟元の最後の釦(ボタン)を締め終る彼女の、
 そのきめ細かな白無垢の手を、
 僕は軽く、蝶を捕えるように取って、
 月に透き徹るその手の甲に、これが最後の、清い接吻(くちづけ)をしるした。

 そして、子供を叱る時の母のような微笑みの花片が、
 その時彼女の頬に止まっているのを見た。

 やはり彼女は、「存在」の、海、だったのだ。

 ─「なんだ、歩けるじゃないか。」

 思わず声に出して云う程、
 軋んでいたはずの身体は、思いの外た易く、滑らかに節々が動く。

 それでも、崖までの遠い道程を思うと、ほとんど彼女の肩に縋らねばならなかった。

 月明かりの降り積った砂浜を踏んで、
 僕達はお互いに、見えぬ手を差し延べ合い、
 そして固く握り、絡み合わせて、崖の方へ、「死」の方へと歩み始めた。

 僕は先時の、「存在」を舐め廻す、蛇のように卑劣、醜悪な、「観念」の舌を恥じた。

 自然を、
 静かに横たわる自然を、
 卑しい、物欲しげな眼差しで、穿鑿し、削り、砕き、
 甚しいのは、それに薬品をさえ掛けて、
 飢えた犬のように舌舐(なめず)りして匂をかぎ廻る。
 この浅はかさ、下衆根性。・・・今や僕は、火のようにそれを恥じた。

 額は汗でしとどに濡れた。
 解(ほつ)れ垂れる前髪を、僕は幾度か空いた方の手でかきあげた。

 しかしその度に、彼女は手布(ハンカチ)を取り出し、
 額から、喉元に到るまで、すっかり汗ばんだ肌を拭って呉れた。

 そうして再び彼女の肩に支えられて歩み出すと、
 痺れた頭の眩(くるめ)きの中(うち)に、次第に永遠を感じてくるのだった。

 やがて僕達は、蛇の肌の光を帯びて月にそそり立つ、崖の頂上へと、
 苔むした岩間の道のうねりを登り続けていた。

 最早、言葉は交さなかった。
 むしろ要らなかった。
 それでも、触れ合う肩の温は、お互いの肌に、仄ぼのとした安らぎを与え合っていた。

 その時、僕達を取り巻く総ては、既に永遠の微光を放っているかのようだった。

 岩間を這う蟹の、濡れた甲羅に映る月、
 やおら舞い立つ海鳥の羽搏き、
 潮の音、
 そしてその香りさえもが永遠の色を帯びて光っている。

 それは静かに湧き起こる永遠の賛美歌だった。

 恐るべき罠が、悪意の伏兵が、巖の暗がりに潜んでいるとも知らず、
 僕達は永遠の合唱に聞き惚れ、夢みるようにそこに佇んでいた。

 ・・・そうだ。僕は今、この宝石を刻むように貴重な時を、唯、見ることだけに費そう。

 考えるな、皮肉な批判の眼は潰してしまえ、
 あそこを、岩間を這う蟹のように、この光景の中に溶け込み、「存在」となろう。

 瞳の窓を開き切って、内奥の精神を海風に当て、汚濁を拭い去って、
 僕は一個の「存在」に成りきってしまおう。・・・・・・

 次第に高まるその歌声の中に眼を挙げると、
 酔うような月の光が、ふんだんに振りそそがれる美酒の如く、
 淡く甘い匂さえ放って、崖の上に一面隈なく流れていた。

 夜露に濡れたのか、それとも月光に濡れたのか、
 薄蒼くしめやかに光る崖上の巖の、
 深い夜空に浮かびあがる方を見ると、
 夜目にも紅い花が一輪、一点血を注いだように崖の橋に揺れている。

 ・・・死、だ。死の、翼だ。
 「純粋」の極に羽搏く翼は。

 飛び跳ねた途端に地面に叩きつけられる、飛蝗(ばった)の羽根ではない。
 束の間の「純粋」に酔う、貧弱な翼ではない、それは。

 「純粋」の鳳凰(ほうおう)だ、死は、死の翼は。・・・・・・

 ─彼女の物静かな瞳は、尼僧のあの密かに深い喜こびをたたえて、
 その招き揺れる紅い花を見つめている。

 僕達は崖上に立って、しばし来し方を眺め遣った。

 淡い輝きを放つ砂浜は、女の頂のようにゆるやかな曲線を夜目に描いて、
 向う側の岬の影に呑まれ、巨大な三日月を夜陰に浮かびあがらせている。

 視線はその砂浜の波打際を辿り、
 僕は遂に崖下の、白く波の砕け散る、
 そしてその波の音さえも伝わらぬような遙か深淵を見下ろしていた。

 何万哩(まいる)の彼方に生まれ、
 長い、記憶の覚つかぬ程長い旅を終えて、この崖下にあえかに果てた無数の波の背。

 この時僕は、密に思い当った。

 これが、海、であると。

 生命の初まる前、太古、既に海は、今この一瞬と同じように砂浜に向けて波を使わし、
 そしてそれはしぶきをあげて果てていた。

 総て同じだ。
 何も変っていはしない。

 海は、静かにそこに在った。

(つづく)

********************

この『翼』は、ちょうど20歳のときの作品ですが、
それから私は進歩したのか、退歩しているのか、
疑わしいところです。

明日はいよいよ最後の場面です。

おたのしみに。


2008年2月29日(金曜日)

『谷島瑶一郎初期作品集』6

カテゴリー: - kawamura @ 08時09分10秒

『谷島瑶一郎初期作品集』6

『翼』(20歳)(抄・第二回)

              谷島瑶一郎

第一章

    瑤一の手記         (一×六八年六月)

 窓を開け放つと、春先の空に淡い緑の丘がうかび、
 その頂上に立つ細い白い柱(ポール)が、時折、
 陽炎のゆらめきの中に、キラッと光る、春の午後。

 この数日、絵筆がのらなくて困る時には、
 丘の頂上の公園まで散歩に出かけることにしている。
 今そこから帰ってきたところだ。

 僕はそこで、二・三時間、白いベンチの上に寝そべって空を眺めていた。

 公園には誰もいない。
 丘の中腹の、閑かな住宅地から、
 あざみの花のような犬の鳴き声が聞こえてくる。
 かすかな風に、ピアノの音が、
 今にもこわれそうな水玉を運ぶように運ばれてくる。

 つい今しがたまで、このベンチの傍らの、
 巨きな柊の木の根もとに、
 薄桃色のワンピースの少女が、空を仰いで、空(うつ)けたように佇んでいた。

 春の空は、麻薬の粉をふるいにかけている。

 陽差の金の糸と、霞の白い絹糸を、
 きめ細かな薄布に織りあげ、空に貼りつめ、
 その織目から僅かな粉が絶えず舞い下りてくる。

 見下ろす街並は、廃人の眠りを貪り、夢みている。
 
 ふいに一陣の風が立った。

 已に少女の姿は消え、
 不確かに空を仰ぎさ迷う視線の跡だけが、
 私の記憶の中に、白い繊維状の螺旋を描いて残った。

 ふと、その風の中に、僕は、きわめて静かな音楽を聞いたように思った。

 昔から不思議に待ち存(なが)らえている、
 あの張り詰めた悲しみの琴の、
 かすかに奏でる調べであろうかと思った。

 雄大に巻き起こる、見えぬ風の五線譜の中に揺れる、
 様々な花の歌う歌声であろうかとも思った。

 不意に、僕は、その悲しみの弦を断ち切られたような、
 痛烈な錐の痛みを感じた。

 丁度、去年の今頃のこと、洋子と知りあったのは。

 天使の羽をひしめいているようなこの春の空、
 いや、あれはもう初夏の光の降りそそぐ頃のことだ。

 実は、僕は今年大学に入学したばかりなのだが、
 講義には全く出ていない。
 本業は絵を描くことだと思っている。

 今日は絵筆ものらないし、
 洋子の思い出が、俄に僕の胸を占めてしまった。
 だから彼女との間に起きた事件を書き綴ってみようと思う。

 読んで下さる方が居れば、幸いだ。
 
 (つづく)

********************

なんだか昔の作品を引きずり出して
みなさんにお見せすることに意味があるのだろうかと
訝しく思うようになった。

たまたま、白洲信哉氏の著作を読むうちに
二十歳のころの作品が恋しくなって
書斎に埋もれていた青春の残骸を
もういちど眺めてみたいという
感傷がわいてきたというにすぎなかった。

しかしもう始めてしまったことだから
もうすこし続けてみようと思う。

eコミの主旨からは大きく逸れて迷走中。

畏れ乍ら、
みなさまのご意見を拝聴いたしたく
コメントお願い申し上げ奉り御座候(笑)。 :mrgreen:


2008年2月28日(木曜日)

『谷島瑶一郎初期作品集』5

カテゴリー: - kawamura @ 08時06分20秒


思い出』をお読みになりたい方は
タイトルをクリックして下さい。

*******************

『谷島瑶一郎初期作品集』5

(今回の作品は長いので、抄出します)

『翼』(20歳)(第一回)

                谷島瑶一郎
          

         プロロオグ

 私が、彼の死体を発見したいきさつはこう云うことです。

 その前日、小包みが私のところへ送られて来まして、
 差出人の名前を見ますと、「島村瑤一」、と書いてありましょう、
 私、実にびっくり致しましてね、あわてて包みを開けてみますと、
 つまり、これから読んでいただく彼の手記やら何やらが出て来た、
 と、まあ、こう云うことなんです。

 ああ、皆さん、「島村瑤一」と云っても、きっとお分かりにならない。
 もっともです。それではひとつ、彼についてお話し致しましょうか。

 私、実は、高校時代、彼と同級でした。
 三年の時だったか、彼、これもまた同じクラスのある女生徒と、
 事件を起こしましてね。
 それについては、瑤一君の手記の中にくわしく書いてありますから、
 ここでは省きますが、兎も角、彼だけは一命を取り止めました。

 女生徒の方は?と仰しゃいますか。
 そう、結局、あの方は、死体も発見されませんでしたし、
 行方知れずと云うことになっていたんじゃありませんか、
 私も、はっきりとは知らないんです。

 お名前はたしか淺野洋子、と云いましたが、・・・・・・

 事件の翌年、彼は、どこか遠くの地方大学に入学したそうです。
 それから彼は、唯の一度も手紙の遣り取りをしてませんから、
 実のところ、すっかり彼のことなど忘れていました。

 そこへ、突然この手紙でしょう。

 むさぼるようにして読みました。
 そうして数時間、昔の憶い出にのめり込み、
 やがて、夢の靄(もや)のかかった頭がしだいに晴れ渡ってきた頃、
 ふと、小包みを解いた紙屑の陰に、キラッ、と光るものをみつけました。

 鍵です。謎を掛けて寄こしたんですね。
 しばらく考えあぐねて、鍵を手に、いじくり廻していました。
 はた、と思い当たったのです。
 これは、俺の所へ来い、と云うことなんだ、とね。
 住所?ははぁ、案の定、住所は包み紙に正確に書き記してあります。
 よし、明日の朝、一番の列車で彼の所へ行こう、そう心に決めると、
 また、知らぬ間に、彼の憶い出を、
 逃げる幽霊の裾をつかまえようとするかに、追い駆けていました。

 彼は、美貌でした。
 家庭も裕福でしたし、何一つ不満なところなどあるまいと、
 端から見たら、羨ましい限りなのですが、彼の眼はいつも違う。
 何処かを、熟っと見据えているんです。
 くるめきの錐(きり)のような尖った視線、
 澄みきっていて、何もかも貫抜かずには置かないような、
 云い知れぬ空の高みをさ迷っている、凛烈な視線でした。

 幾度か、彼の部屋に誘われて、長い間話したことがありますが、
 例えば、私が、何か夢中にあってしゃべりまくっていましょう。
 するとそのうち、あたりが妙に静かになって、
 不意に、彼がそこに居ないような気がしてくる。
 そうして、彼の方を、見る。
 熟っと、見据えているんですね。
 表情一つ変えず、薄い微笑をうかべている。

 不気味でした。

 急に微笑が引き攣り、
 血みどろの口が、かっと開いて逼ってきそうな、
 いささか怪奇じみた顔なのです。
 それがまた、夏の夕方のことでしたから、なお更です。

 しかし、
 一々このような彼の性癖について語ってみたところで、きりが無い。
 ただ、そう云う奇妙な男でした。

 ─翌日、彼のアパートを訪ねて、
 丁度、お午時分に部屋の前に着きました。

 ちょっと見たところ、二間続きのアパートらしい。
 合鍵を取り出し、錠を外して、その最初の部屋に、忍び入りました。
 それは勿論、不安で胸が萎えてしまいそうでした。
 せわしく視線を走らせると、画集だの、パレットだの、画布だのが、
 うず高く積みあげられ、散らかっている。
 彼は、絵を描いていたのです。

 そしてその、次の部屋に、
 彼は、喉骨を切り削いで死んでいました。
 夥しい血の、巨大なしみの中に、彼は横たわっていました。

(プロロオグ終わり・つづく)

********************

執筆年齢順にUPするとなると、
この作品が『思い出』のつぎに来るのでしょうか。

『思い出』と『翼』のあいだにもいくつかの作品を書きましたが、
それらはレポートとして書いたものや、
小品すぎて忘れ去られたものなどがほとんどです。

その、記憶に埋もれてしまった作品にも、
今回は陽をあててみようと思います。

しかし、あんまりコメントがつかないので、
この企画は頓挫する気配濃厚ですね(笑)。


2008年2月24日(日曜日)

『谷島瑤一郎初期作品集』4

カテゴリー: - kawamura @ 17時36分57秒

『谷島瑤一郎初期作品集』4

(『思い出』は、あと2回ほど連載します)

     思い出(19歳)  (第三回)

                      谷島瑤一郎        

 洞穴は丁度腰をかがめて歩けるくらいの高さで、
 思いの外簡単に入ってゆくことができます。

 所々つめたい清水が湧き出し、つま先からくるぶしのあたりまで、
 凍るように固くなりました。

 今でもその時の、徴くさい空気の感触が、
 折にふれてしっとりと肌によみがえります。

 穴の奥に、ふたつ、きらめくものが見えました。

 ゆれながら近づいてくるようです。

 私は息を止めて、見つめました。

 一旦止まって、また釆ます。
 私の鼻さきに、笑うような、白狐の顔がうかびました。

 紅い舌で、固くなった私の顔を舐めずり、くるりとふり返ると、
 もうまったくの聞でした。

 壁の一面に苔が生え、体をささえているてのひらに、
 異様にうごめく虫を感じながら、私は幻に酔うように立っていました。

 やがて、私はなんだかうれしさに踊るようになって、
 漆黒の聞の中を奥へ奥へと這いずってゆきます。
 
 顔から背すじから、体中じっとりと汗を湧かせてふと頭をもたげると、
 閣の底に、白い光の点が眼にとまったのです。
 
 しばらく這ってゆくと、やはり出口であることが、
 あわい月あかりがクリームのように丸くさしこんでいるのを見てわかりました。

 あかりの中へにじり寄り、なんとか頭だけを、
 丁度ころげ落ちた生首のようにさし出して、
 ぐるりとあたりを見廻すと、さやさやと風が、夏の青葉にさやめき、
 月を照りかえして遠くには、天王山城の城跡がまぼろしのように闇に浮きあがっています。

 (つづく)

********************

昨日は単身ホテル住まいの身となりました。
実は、妻がインフルエンザにかかったのです。

受験生をかかえる私ですから、
うつされてはかなわないといことで、
ホテルに逃げていたのです。

妻はタミフルを飲んで、
なんだかとてもハイテンションになったと申しておりました。

ようやく妻の熱も下がって、咳も止まったようなので、
私も帰宅してブログをUPしたというわけです。


2008年2月23日(土曜日)

『谷島瑶一郎初期作品集』3

カテゴリー: - kawamura @ 06時39分13秒

『谷島瑶一郎初期作品集』3

(『思い出』は、あと3回ほど連載します)

      思い出(19歳) (第二回)

              谷島瑶一郎

 うす暗い木立ちの中は、湖の底にいるようにしずまって、
 きつつきの幹をたたく音、低いふくろうの鳴き声、
 ひぐらしの悲しい声とかが、長い間をおいて、聞こえるだけでした。

 涙のこぼれ落ちるままに、折りとった小枝を幹にたたきつけたり、
 ぬらめく苔に、足をすべらせてころんだりしながら、
 時の経つのも忘れて歩きつづけました。

 やがて森の底に夜露がひかるころになると、私は泣きやみ、
 しずけさにうっとりして、歌をうたいながらあるきました。

 かすかな私をよぶ声が聞こえました。

 耳を澄ますと、木霊でした。

 鳥肌がたって、私は盲滅法に走ってゆくと、
 ふと淡い月のひかりが、絹糸のように.梢のきれ聞から洩れてきます。

 その時どうしてか、祈るように切なく、月を見たいと思いました。

 そうして、森の一部が丸く切りとられている個所を見つけると、
 私は落葉をかさこそ鳴らしながら近づいてゆきました。

 木洩れる月の光は、まだ私の胸のところです。
 
 立ち止まって、杉のすき間に差すひかりの膜に、
 顔を半分照らしてみました。右眼がまぶしい。

 すこし行くと、大きな沼のほとりに出て、
 怖いような満月を夜空に仰ぐことができました。

 ほとりのひばの木の下に坐ると、
 露にぬれた葉が、ひやりと足にさわります。

 ひっそりとしていました。

 草のほそい葉が、ゆれてきらきらそよぎ、
 油をはったような沼の面に、満月の影がゆらめいています。

 それが、沼のむこうの闇にふたつ光る、狐の眼のかがやきよりも、
 はるかに美しいと思うと、
 なぜか底の方から不思議な笑いがこみあげてくるのでした。

 私は立ち上って、沼の淵まであるいてゆき、
 底を覗いてみました。

 底は見えず、月と、しろい私の顔がうつっています。

 私はすこしほほえんでみました。

 沼はゆらいで、私のしろい顔も、紅い口びるも、
 さらに大きく笑ったり、泣いたりもするように見えました。

 そうして長いことほとりに佇み、
 夢のようにあたりを見まわしていると、
 羊歯の緑に覆われた杉の根もとに、真っ黒い口があいています。

 近寄ってみると、それはかなり大きな洞穴でした。

 私は、恐怖より、身を捨てるような衝動にまかせて、
 呑みこまれるようにその洞穴に入ってゆきました。

 (つづく)

********************

フィクションが頭の中へ流れてくるときの気持ちよさは
たとえようがありません。

それは完成された形で、言葉に乗って流れてくるのです。

やわらかなまるみを帯びた言葉のむれにつつまれてゆくのです。

うっとりとしていると、
知らぬまに完成しているというふうでした。

そのころの私が書いたものはみんな小品で、
ほんのわずかな時間に書き上げたものばかりです。

つたない作品ですが、自分ではとても気に入っています。

雑誌に発表したのは、書きおえてから数年後のことでした。

ところで、雑誌編集者の斉藤夕美子さんのことですが、
森の石松さんから、

「日 付 : 2008年02月22日 23時13分
 件 名 : 斉藤夕美子様の件

 検索してみましたら
 1つ偶然検索できました。
 札幌市、会社経営、斉藤夕美子(55)
 とありました。日付けは2004年12月20日
 です。
 同姓同名の方かもしれませんが・・・・。
 
 http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/
 20041220k0000m040104000c.html

 参考になれば幸いです」

というメッセージがありました。
石松さま有難うございました。


2008年2月22日(金曜日)

『谷島瑤一郎初期作品集』2

カテゴリー: - kawamura @ 07時42分50秒

『谷島瑤一郎初期作品集』2

(『思い出』は、今日から5回ほどの連載になる予定です)

           思 い 出(19歳)

           谷島瑤一郎

 はじめて私が大井川を渡ったのは、小学校四年の春休みのことでした。
 いまから丁度十年も前のことになりますが、
 おぼろげな記憶の中でもふしぎにくっきり、その日の大井川を描き出すことができます。

 それは、牧之原台地の中腹にある金谷駅から汽車に乗り、
 なだらかな斜面を下ってゆくとき、
 車窓からながめた春の日曜日の、きららかな午後の風景でした。

 遠くにつらなる峰々のむこうに、
 富士の頂が、残雪にうすい空のいろをうつして聳えています。
 規則的にひびく汽車の音と、茶園の香りに満ちたゆるやかな風をうけて、
 窓に肘をついて外をながめていた私は、
 ぼうっとした春霞の景色の中を、
 一筋、真白の輝きをつよめながら近づいてくる大井川の白砂に眼をうつしていました。

 静岡の四月の太陽は、時おり初夏の暑さを思わせるほどに照り輝くことがあります。
 その砂金のふるような光をうけて、
 河原にひろがる白砂や、
 砂を採掘した穴の水たまりが、まばゆい黄金色にきらめくのです。

 対岸がかすむほど幅広い大井川も、
 普段の水嵩はごく僅かなもので、
 広大な河原の中に、二・三のほそい流れがゆるゆると流れているだけです。

 その時、車内のどこかで、ラジオがかすかな琴の音を流していました。
 それは確か、「春の海」か、「六段」のいずれかで、
 幼い私も耳にしたことのあるさわやかな琴の連弾でした。

 ふと鉄橋の下からおどろいたように舞いたつ白い鳥の群が、
 まるい弧を虚ろな春の空にしるして飛びゆく、
 その方角に、南アルプスの蒼峰がつらなっています。

 私は、ずっと昔、
 蝶を採集にさまよいあるいた故郷の森の中に妖しく飛び交う色あぎやかな蝶と、
 酔ったようにそれを追いかけている自分の姿とを想い起していました。

 夏の休みは、蝶の採集や、森の小川の淵に魚を釣ったり、
 滝のふかみに溺れかかったり、
 始終まわりの人たちをはらはらさせ通しでした。

 ある日私は、いたずらをして父にしかられ、
 泣きながらあてどもなく森の中をさまよったことがあります。

 それは夕暮時にちかく、森の梢のすき問に、満月がのぼろうとしていました。

(つづく)

********************

この作品が最初かというと、そうでもないのです。

これは、18歳の頃の日記がもとになってできた作品です。
そのころ手慰みに、
いくつも小説のようなものを書きつづっていましたから、
そのうちのひとつが作品として残ったというわけです。

先日中学高校の同級生たちと飲んだとき、
私が中学のときに書いた小説を憶えていた友人がいました。

その小説については記録も記憶もありません。

でも、そんな嗜好がその頃から芽生えていたことは確かです。
小説家になりたいとか、名作を書きたいとか、
そういう夢があったわけではありません。
ただ、物語の世界を切実に求めていたのでしょう。

なにか内に蠢くものを、
吐き出したかったのでしょうか。

もう遠い昔のことで、
少年の私が何を考えていたのかなど、
とんと忘れてしまいましたワイ(笑)。


2008年2月21日(木曜日)

『谷島瑶一郎初期作品集』1

カテゴリー: - kawamura @ 07時55分55秒

『谷島瑶一郎初期作品集』1

讃歌

                 谷島瑶一郎
               

 ヘルダーリン、
 貴方の瞳には空がみえる。

 青さは澄み、秋の空だ。

 貴方の瞳は、ギリシャの光に、神のひらめきを見ていた。
 鳩の心にのみふれる光を。
 
 そしてひとを厭い、発狂の宝冠を承ける日まで、
 ディオティーマとの恋のたまゆらに永遠の美をゆめみつつ暮した。

 しかしヘルダーリン、
 過去は夢にすぎず未来もまた幻だが、
 私にあふれる未来の光は、
 貴方をやさしく酔わせたギリシャの光と、
 ひとつの源泉からくるように思われる。

 それは美の泉だ。

 私は美の戦士だった。
 すべてに反逆し、火をつけ、蹴とばし、
 出発の炎に焼かれていた戦場の紫紺の夜明けに、
 私は光の王国を見た。
 
 ヘルダーリン、聞いてくれ。
 私はふり返らなかった。
 
 ただ、前進したのだ。

 疾駈していたそのとき、
 すでに私は、王国の丘に立っていた。

 見はるかす原野には、清流が白く走り、鴎が舞い、
 濃藍の海が地平にきらめいている。
 
 山脈の空に白雲が立ち、風はさわやかだった。

 その緑野の麓に、灰色の、都市の廃墟が見える。

 嘗って、ひとが滅亡の舞を舞ったという、
 いまは瓦礫の、地獄の舞台を、
 私は丘の上から煌びやかな夢の絵巻に思い描いた。

 死人の顔に、生前の笑顔を彷彿するように。
 
 だが、私は、笑う仮面を剥ぎ、
 ただれた顔をのみ冷たく見つめた。
 
 私は耳を澄ませた。

 しずかな風だ。

 いちめんの花が薫っている。

 廃墟に血の手が上る。

 魂は軛(くびき)にひかれてとび散り、
 段だらの血の街に塗(まみ)れて、
 ひとびとは笑いながら踊り続ける。

 毒に酔い潰れて、末期の舞を舞いつづけている。

 その血薔薇の唱声の底に、
 私はせつない祈りを聞いた。

 蝕(むしば)まれるひとの、かなしい呪詛を、
 救いを求めるか細い祈りを、私は聞いた。

 ヘルダーリン、私は愛の光にあふれる王国の丘に立って、
 闇に泣き、祈る者たちにのみ語りかけよう。

 時を越えて、しずかに語りかけよう。

 ヘルダーリン、
 貴方の声が、過去から走るひとすじの光となって、
 血を吹く者たちの傷を癒すように。

********************

この作品は、
何という会社であったか
その会社名も忘れてしまいましたが、
札幌市内の雑誌編集者斉藤夕美子さんから依頼されて、
どこかの新聞に載せる小品を書いてほしいということで、
大学二年であったか三年であったか、
そのころ書いた作品です。

しかしこの作品は没になって、
以来陽の目を見ることはなかったということです。

内容があまり一般向けでなかったからでしょうか(笑)。

ですから、
これがいちばん若いときの作品というわけではありません。

ただその当時の、
なんだかなにかを思い詰めたような心境を
よく表しているように思えたから、
巻頭に掲げたのです。

(もしも斉藤夕美子さんがこのブログをお読みになっていたら、
 『Kくん』と題した私の作品、
 それもちいさな新聞に掲載されたものですが、
 それが私の手もとにございません、
 ぜひその原稿でも新聞でもお送りいただければ幸いに存じます)


2008年2月20日(水曜日)

初期作品集

カテゴリー: - kawamura @ 08時14分09秒

(ヘンに思われるかもしれませんが 
 しばらく三人称で日記を書こうと思います)

白洲信哉氏の著作を読みつづけているうちに、
彼のこころに、
二十歳のころの記憶が力強く立ち上がってきた。

西郷信綱の『万葉私記』を片手に、
国文学の教授だった近藤潤一先生の部屋を
しきりに訪ねていたころのことだった。

「自分の背丈の何倍もの本を読みなさい」

そう言われて、
彼と結城が競いあうようにして
本を読みあさったのもあの頃だった。

講義の合間を縫って、
彼は図書館の蔵書を片っ端から借りてきた。

彼は理系の学生だったから、
専門教科書のほかに、
高木貞治の『解析概論』や
『ファインマン物理学』なんかも胸躍らせて読んでいた。

理学部の授業は原書を用いていたから、
その予習は大変だった。

生来軟弱な彼は、
小説を書く時間を確保しようとして、
大枚をはたいて訳本を買うことにした。

それは貧乏学生の彼には高嶺の花だったが
背に腹は代えられなかった。

そのころの乱読の癖は
還暦間近のいまでも続いている。

それでも読み残した本は無数にあって、
目を閉じるまでに
それはおそらく
読みつくすことはできないのだろうと彼は思っている。

話がそれてしまった。

今日皆さんにお話ししようと思ったのは、
小説家を目指していたころの彼の青春の残骸、
それを作品と呼べるかどうかは
皆さんの判断にお任せするとして、
その連載を始めようと思う。

書斎の隅で腐り果ててゆくだけの彼の未発表原稿に、
「初期作品集」という大それた表題をつけて、
せめてわずかでも陽の目を見せてやりたいのだ。

明日から、
気の向いたときに(笑)、
彼の二十歳前後のころの作品をできる限り時系列で
発表しようと思う。

題して
『谷島瑶一郎初期作品集』。

(みなさんお読みになりたいですか?(笑))


2008年2月19日(火曜日)

白洲信哉氏の著作(6)

カテゴリー: - kawamura @ 10時17分45秒

魂の居場所』のどこにそれが書かれていたのかは彼には思い出せない。

ただ、白洲正子が古事記や初期萬葉に登場する悲劇の皇子たちに興味を示していた
という一節があったように記憶している。

彼は学生時代、
三島の『軽皇子と衣通姫』なんかに触発されて、
夢幻能の様式で初期萬葉の皇子たちを描きたいと願っていた。

しかし、能にしても初期萬葉にしても、
どうして青春期に白洲正子と同じ志向をもつに至ったのかが
いまの彼には不思議だった。

白洲正子は「姫様」、彼の家は山間僻地の梅農家である。

まあいずれにせよ(笑)、
二十歳のころの彼の座右の書が、
岩波古典文学大系の『古事記』『萬葉集』『謡曲』だったことはすでに書いた。

ただ骨董の世界だけは、遠巻きに眺めているところが彼にはあった。

父親から「何も売るな、何も買うな」と言われていたからである。

一品でも骨董を買うと、
御林守河村家伝来の品々が一瞬にしてその来歴を疑われる、
だから骨董に手を出してはならない、
とことあるごとに言い聞かされていたのである。

それでも、白洲氏の本を読むと、
古き良きものへの愛着が沸々とわき起こってくる。

そうだ、
伝来の品々を日々愛翫すればよいのだ、
長火鉢を自宅に移して江戸後期の鉄瓶で茶を沸かそう、
古九谷の茶器で、あるいは銀器で茶を飲もう、
と思ったが、
彼にはそれは怖くてできない。

なぜなら、
一等大事に扱うようにと伝えられていた九谷の杯で酒を飲んだとき、
もともと震える左手が、そのときわなわなと大きく揺らいで、
ゆっくりと、
それはスローモーションのようにしずかに床に落ちて砕け散った瞬間を、
いまでも思い起こすからである。

とはいえ、山村のことである。
彼の家には大した名品が残っているわけではない。

ましてや、
河村家は維新のとき刀を奪われ、終戦時の改革で多くの農地を失ったから、
伝来の品の中でもましなものはほとんど売り払われ、
煤けた箱だけが残っている。

鍔(つば)だけでも手元に置いて、鼻の脂でもすりつけてみよう、
矢立なんかもいいかもしれない、
とつぶやきながら、
矢立の蓋が壊れるかもしれないと彼は恐れる。

生来気が小さいのである(笑)。

思い切って、
青山二郎や白洲正子のように、
伝来の品を抱いて眠ってみようとも考える。

しかし一体、
白洲正子は何を求め、
彼女の愛に育まれた初孫の白洲信哉氏は、
白洲正子の『魂の居場所』を何処と考えたのだろうか。

(つづく)


2008年2月18日(月曜日)

『思考の補助線』2

カテゴリー: - kawamura @ 06時02分37秒

思考の補助線』2

あのころ
河村たちクオリアンは、
脳科学者としての茂木健一郎先生に心酔していた。

茂木健一郎先生の掲げるクオリアの旗の下に
生きることの不思議に気づいたものたちが
続々と集まったのである。

彼らはクオリアンのバイブル『脳とクオリア』を片手に、
「認識におけるマッハの原理」
「相互作用同時性」
などについて侃々諤々の議論を交わした。

そしてクオリアの深遠な謎について
真理の裂け目から吹き上げる冷風に身を震わせながら
語りあった。

つまり
河村たちクオリアンは
先生がスポットライトを浴びて
鮮やかに輝くはるかまえに
純粋脳科学者としての先生を身近に感じていたのである。

(つづく)


2008年2月17日(日曜日)

『思考の補助線』

カテゴリー: - kawamura @ 07時55分17秒

妻に言った。

「先生が帰ってきたよ」

『思考の補助線』を読み終えて
河村は胸を撫で下ろした。

このところ
茂木健一郎先生のテレビ出演の回数は異様に多くなっていた。

しかし
才能あるものが世に出て
その才能を万民が楽しむ、
河村はそのことにすこしの疑念も懐かない。

実際彼は、NHK「プロフェショナル」を
毎週必ず予約録画して見ている。

先生が出演する民放の番組もほとんど見逃さない。

しかし一抹の不安もなかったといえば
それは嘘になる。

碧天に掲げられたはずのクオリアの旗が
ときおり雲に隠れて、
そのありかを見失うような気がしていたのだ。

そこへ『思考の補助線』が出た。

曙光が差したようだった。

読了して、河村は、
先生の掲げるクオリアの旗が
いまなお高く翻っていると知った。

それは苦悩の銀に裏打ちされた確かな姿で、
青空に、翩翻と翻っていたのだ。

しかし彼ほどの天才をもってしても
「生きることの情熱と
 まっすぐに結びついた輝ける不思議を、
 たった一度しかない人生の中で、 
 受難しつくしたい」
と言わしめるほどに、
クオリアの問題は難解である。

「世界全体を引き受けよう」として
先生は呻吟していたのだ。

先生はやはり本物だった、
テレビ画面では笑顔をみせながら
深い苦悩の夜を過ごしていたのだ。

クオリアの進化論的解釈も
「哲学的ゾンビ」の視点に立てば
中立性を帯びることを、
河村はこの書で初めて知った。

「「個別」と「普遍」は、意識を媒介項として結合される」
この言葉も懐かしかった。

というのも、河村がつたない自伝小説を世に問うたとき、
先生が下さった序文の一節に
「普遍性は、必ず、一人一人の人間の個別の人生の中にある」
と書かれていたのを思い起こしたからである。

(つづきはまた明日)


2008年2月15日(金曜日)

白洲信哉氏の著作(5)

カテゴリー: - kawamura @ 07時18分40秒

それがいつのことだったかは思い出せない。

「浪漫」という雑誌にそれは掲載されていた。

こんな一文である。

「幾山河越えてきて 一番うまいものは 水だ」

この言葉はじつに印象深く、
いまでも私はそれを大切な言葉のひとつにしている。

白洲信哉氏の文章を読むと
この言葉を思い出すのだ。

名酒は名水に似るように、
氏の文章は一見素直な癖のない文章だが、
この繊細さは
代を重ねなければ生まれえないことを、
知る人はいるのだろうか。

小林秀雄と白洲正子という
稀代の文章家の血を引いて
初めて生まれうる文章なのだということを
本人さえも気づいていないのかもしれない。

あれこれ言うまえに
『白洲正子の宿題』から一節を引いてみよう。

********************

僕は小学校五年生の冬休み、初めて祖母と二人で旅行に出掛けた。
最初に訪ねたのが奈良の三輪山に鎮座する大神神社であった。
少し上がった境内から真正面に見える二上山を指差して、
「夕日があの丁度真ん中に沈んで、朝日はこの三輪山から昇るの」
と祖母が言ったのをいまでも鮮明に記憶している。
当時はまるで意味も分からなかったし、深く考えもしなかった。

その後幾たびとなくこの地に足を運び、
僕の中では一つの「風景」として心に刻まれていった。
そして必ず
「倭は国の真秀ろば たたなづく青垣・・・」
という倭建命の望郷の歌を思い出す。
特に新緑の新たな命に満ちた三輪山周辺は、
まさに重なり合う翠したたる垣根のような美観だ。 
大和はこうした風景そのものが、歴史を語っているのだと、
祖母は暗に教えてくれたのかもしれない。

しかし、
「この美しい三輪山は何物か?」
と問われると、気の利いた言葉を持ち合わせていない。

********************

白洲氏はじつにさりげなく
「気の利いた言葉を持ち合わせていない」
と巧まずして言い放つ。

この文章のあとにはいくつかの文献を引いて
三輪山の意味を詳述しているというのに。

それでもさりげなく言い放つその姿に、
私はかすかな嫉妬さえ覚える。

中島敦の『名人伝』を思い起こすからだ。

天衣無縫にも見える氏の心境は、
超絶技巧を極めた祖父母の文華を血肉にして
初めて達しうる境地なのかもしれない。

冒頭のあの言葉を、もう一度思い起こしてみよう。

「幾山河越えてきて 一番うまいものは 水だ」


2008年2月13日(水曜日)

白洲信哉氏の著作(4)

カテゴリー: - kawamura @ 08時57分25秒

(「いま読んでいる本」をあらため「白洲信哉氏の著作」とします。
 今日は『白洲正子の宿題』から)

白洲正子の志向するヴィジョンは
あまりにも私のそれと似ている。

白洲信哉氏のたどる古道は
まさに白洲正子の歩いた道である。

古事記、萬葉集、謡曲などは
二十歳前後に愛読した書で、
当時の私は、
あの少しくすんだ紅色の本、
岩波古典文学大系を枕頭の書としていた。

訳本などには興味がなかった。

原著を読むべしとする信条はいまも変わらない。

分かろうとわかるまいと百万遍読むのだ。

あとから脚注など読むうちに
なんとなく分かってくる、
そういう読み方をいまでもしている。

私が現代社会について行けない理由は
そんなところにもにもあるのだろう。
(まあ、別について行きたいとも思っていないが(笑))

それはそれとして、
二十歳のころ、
結城秀の主宰する同人誌に
私はこんな作品を投稿している。

これは確か、
教養科目で選択した
国文学のレポートだったように思う。

以下全文。

********************

幻想としての初期万葉

          谷島 瑶一郎

 大和には 群山ありと
 とりよろふ 天の香具山
 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ
 海原は 鴎立ち立つ
 うまし国ぞ あきづ島 大和の国は

 この歌を読む度に、
 私は不思議な程鮮やかにレームデンの「ウィーン」と云う幻想画を思い浮べる。
 
 春のウィーンの遠景の、
 そのほとんどを明澄な空が占め、
 中央に奇妙な姿の鳥が数匹舞う。
 
 安らぎと希望が仄かにただようているその絵に、
 私はふと云い知れぬ清冽な水の音を聞いたやうに思った。
 
 それはむしろ、ふるえる朝日の切口、
 今しも零れ落ちるかの、夜露の粋美な果敢なさを思わせる。

 ”原光景”とでも云うに相応しかろう。

 しかし何故、遙か古の初期万葉の世界が、
 あれ程明晰に、現代の最先端である幻想画を私に彷彿させたのか。
 
 それは時折襲ってくる海への郷愁に似た不可解さを伴っていた。

 私達を取巻く現実は、 夥しいイメエジの軍勢に侵蝕されている。
 
 その纏りつくイメエジの触手を断ち切ろうと、
 現代の最先鋭の幻想画家達は、好んで夢を画題にすると云う。
 
 夢の世界には価値感が無く、
 丁度子供が砂浜に光る石を見つけた時の喜びのような、
 何ものにも囚われぬ素朴な”原始の心”がそこにはある。
 
 そして、幼児の持つ”原始の心”は、
 歴史の幼児期である初期万葉世界の人々の心に通ずる。
 
 彼等画家達は、我々の意識の遙か奥底に潜む、
 その”原始の心”によって、
 存在の秘密に逼ろうとするのであろうか。

 そしてそこに、
 イメエジに侵されぬ”原光景”を見ようとするのではなからうか。
 
 又、万葉の天皇の眼に映った世界は、
 正にその”原光景”ではなかったのか。

 何故なら、彼等の心こそが、”原始の心”だからだ。
 
 存在そのものを見透かすことのできる”原始の心”は、
 私達の心にあっては無意識の中の幼児精神であり、
 それは夢となって現れ、
 又、歴史的には、初期万葉世界の人々の心であった、と私は考える。

 舒明天皇の御歌は、
 こうして私を幻想的な”原光景”の世界へと誘ったのである。

 しかし”原光景”が最早、幻想でしか無いとは、
 何と云う奇妙なパラドクスであらう。

 又私は、万葉の主人公達の激しい主格が、
 私の観念も情緒も一足跳びに跳び越へて、
 剥き出しの顔を、ぬっと差し出すのを感じた。

 彼等には観念も情緒も無く、
 その流れを遡った源泉のみがあるらしい。

 それはあまりにも透明な、清水の結晶のような泉である。

 その張り詰めた水面には、在るがままの総てが映し出されている。
 
 そして、
 精神と呼び得る否やも分らぬこの清絶な主格の裏に、
 微かな、しかし鋭い血の匂を私は嗅いだ。

 偉大なる殺戮者の匂を。

 それは丁度、
 幼児の精神の孕む、無垢なるが故の残虐さに対比されよう。

 そして又、その血の匂、死の匂は、
 幻想画の中にも漂うているのである。
 
 現代からイメエジを悉く払拭してゆくところに現れる”存在の秘密”。
 
 ”原光景”への狂ほしい程の希求。
 
 そしてその、存在の極に潜む、死。

 純粋な”存在”とは、人間にとって”死”ではないか。

 万葉の人々の清明さが、その純粋な”存在”に、
 今しも蝕まれんばかりの、
 絶妙な危険を孕んでいるように私には思われたのである。

─幻想としての初期万葉─

********************

これを読み返すと、
還暦近くなった私がいまさら文章を書くのは、
なんだか老醜をさらしているような気がして、
少し滅入る。

二十歳の私、谷島瑤一郎に申し訳ないように思うのだ。

しかし
「意欲のある老人は最強である」
と茂木先生も仰っていることだし、
恥を顧みず書きつづけることといたしましょう(笑)。


2008年2月10日(日曜日)

雲の翳

カテゴリー: - kawamura @ 10時58分03秒

梅の剪定をしていると、
白梅の背景にふかい青空がひろがっている。

それで、ひとつ気がついたことがある。

それはいままでも気づいていたのだろうけれど、
はっきりとは自覚されなかった。

青空に雲が浮かんでいる。

その雲の下に、
よく見ると薄く刷毛ではいたような翳が見えるのだ。

それはよほど目をこらさなければ見えない。

私の目には、
紺碧の空に白い雲が浮かんでいる美しい光景だが、
雲の落とすあの翳の中には、村もあり街並みもある。

その人たちはいま、雲の翳のなかにいる。

平和な風景の底には深い闇が潜んでいる
とまでは言わない。

しかし、
青空のなかに、うすい雲の翳が見える、
それはなにか発見のようで、
胸ときめくものだった。


2008年2月9日(土曜日)

いま読んでいる本(3)

カテゴリー: - kawamura @ 06時35分58秒

謡曲ばかり読んでいたころ、
私はむしろ犬王の舞にあこがれていた。

もちろん世阿弥の夢幻能には心酔していたが、
それはいまでも見ようと思えば見ることができる。
犬王の幽玄能は
数百年前に我らのまえから消えた。

私は三島文学から能の世界を知ったが、
いまでも夢幻能は世界最高の芸術と思っている。

時空を超越したクオリアの世界、
それが世阿弥の夢幻能である。

その世阿弥をして、
若き日にひそかに憧憬した犬王の舞は今はない。

それとも犬王の舞は、
いまでもどこかでその命脈をつないでいるのだろうか。

秘境の村で、
義満が寵遇したという典雅な舞を見ることができるのか。

今もその思いは強く残っている。

そこへ、この文章に出会ったのだ。

衝撃の一節だった。

********************

高千穂では舞人を、「ほしゃどん」(奉仕者)と呼び、
その道中をユーモアのある舞を舞いながら同行する。

それを「道神楽」とも言うそうで、
舞ながら宿に入る光景は、
能の橋掛かりのようで、一種独特な道行きである。

神楽は普通の民家を一夜の舞台に設えて行われる。

演目は三三番で、その順番は地域によって違うそうだ。

が、多くは猿田彦が先陣を務める「彦舞」から始まり、
巻いては太鼓や笛、鈴の音色に合わせて舞う。

熟練した人もあれば父と子の組み合わせなどさまざまだった。

なかには初舞台といったような中学生もいたが、
その初々しさがかえって新鮮で、時々笑いを誘ったりもする。

自由で楽しそうに、しかも真剣に舞っていた。

********************

この一節を読んだとき、
犬王の舞は、いまでもきっと、どこかのかくれ里で舞われている、
そんな確信めいたものが芽生えた。

それは緑深い谷間の奥で、ひそかに、
人知れず舞われているにちがいない。


2008年2月7日(木曜日)

いま読んでいる本(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時48分30秒

琴線にふれたところを抜萃します。

********************

S「例えば骨董にしたって、
  きれいな東洋美術は買いはしない。

  なんだかはっきりしないものがいいわけで、
  骨董も旅も風景も
  同じ対象を選んでいた気がするんですよね」

A「うん、流れているものは同じですよね。

  でもちょっと補足しますと(笑)、
  剥げるげるものはどんどん剥がしていって、
  素顔が美しいものが対象でしたね。

  装いが美しいものじゃなくて
  生地、素地が美しいもの。

  焼きものでいえば、絵付けでごまかすのではなく、
  生地と形が真っ直ぐに立っていて、
  しかも自分から「見て見て」って
  いってるものじゃない。

  見られなくたって構わないといっているような
  風景とかもの。

  それに、そこに一種の荒んでいくというか、
  滅びてゆくものの美しさも必要で、
  できたてのホヤホヤは良くないわけですね」

S「ものでも風景でも歴史ですね」

********************

「愛国心を育てる教育」を例にとっても、
 愛すべき伝統や文化が失われていては、
 そんなものが育つわけがない。

 本文で触れたが、安易な市町村の合併で、
 地名が失われ根なし草になれば、
 「郷土愛」がなくなるのも当然である。

 愛国心などは教育するものでなく、
 伝統や文化を
 愛すべきレベルへ引き上げることから始めてこそ
 重要だと思う。

********************

この作家の本を読んでいると
長らく異郷を彷徨っていた自分が
懐かしい故郷の風景につつまれてゆく気がする。


2008年2月5日(火曜日)

いま読んでいる本

カテゴリー: - kawamura @ 11時04分51秒

透明な文章、
欲望のにおいもしない、
癖のかけらも感じられない、
それでいて気品のある
男の文章。

私もそんな文章を書いてみたいと
つねづね思っていた。

そのひとの作品を読むと
境地はそのさきへ達している。

つまり文章が感じられないのだ。
文章は消えてしまって、
情景だけが
菱田春草の絵ように浮かびあがってくる。

その作家の本の中で
いくつか印象に残った一節を
数回にわけて転載することにしよう。

今日はそのひとつ。

********************

・・・祖母は「いかにも京都には文化がある」と羨んでいた。
前述の「佐々木」では二代目の達子さんが亡くなる一年くらい前から、
祖母が行っても食事がカレーライスしか出さなくなった。
祖母はそれでもしばらく行っていたがそのうちに彼女は他界した。

それからしばらくたって祖母は
「あれは『もう来ないでくれ』という合図だったのね。
 それがようやくわかった」
という話をしていたが、長年の常客に
「もう体が難しいから来ないでくれ」
とはっきりと言えない達子さんの心中を理解できなかった自分を
恥じているようであった。

********************

「祖母」と「達子さん」のあいだに交わされていた深い情感が、
死によって断ち切られるやるせなさを痛切に感じる。
京人ゆえ言いだせなかった「達子さん」の心中を、
死後にして知る悲しさを感じる。


2007年10月18日(木曜日)

佐藤泰志(茂木健一郎先生序文「蒼天のクオリア」)

佐藤泰志の作品集が刊行される、
と釧路に住む池ヶ谷北斗君からメールが届きました。

池ヶ谷君は島田進学スクールの卒業生です。
もう20年ほど前のことですから
記憶は定かではありませんが、
彼は、小学校6年生から高校三年生まで
私の塾に在籍していたと思います。
小学校五年からだったかもしれません。
いずれにしても、なつかしい便りでした。

北斗君ありがとう。

池ヶ谷君が佐藤泰志の名前を
気にとめていたと言うことは、
おそらく私の「蒼天のクオリア」を
読んでくれたのでしょう。
佐藤の名は、その最後のシーンに出てきますから、
彼の記憶に残っていたのかもしれません。

学生時代、私は「谷島瑶一郎」という筆名で
雑誌などに小説を書いていました。
佐藤泰志と私の名が、大きな見出し
新聞の小説批評欄に載っていたのを憶えています。

佐藤は5回芥川賞候補になったあと、
41歳で自死してしまいます。
自殺する直前の話は、
第百回直木賞作家の藤堂志津子から
電話で聞きました。
惜しむべき才能でした。

その彼が、
十七年の歳月を越えて甦ったのです。

皆さまにおかれましても、
佐藤泰志作品集」を
ぜひご一読されますようお願い申し上げます。


2007年9月29日(土曜日)

スノーボールアース仮説

カテゴリー: - kawamura @ 09時11分12秒

ひさびさビックリ!
「日経サイエンス」の茂木健一郎先生対談コーナー。
ゲストは岐阜大教授川上紳一。

スノーボールアース仮説とは、
「今から6億〜8億年前の先カンブリア時代の終わり頃に、
地球全体が完全に氷床に覆われるような激しい氷河期が存在した」
というもの。
知らなかった!
これぞ茂木先生クオリアワールドの醍醐味!!

この仮説は、「縞々学(しましまがく)」から生まれた。
このネーミングも遊びがあって良い。
なにごとも、特に研究には遊びがないと本物じゃない感じがする。
余裕をもって、研究を楽しむことが大事だから。

地層の縞々がもつリズムを解析するところから、
スノーボールアース仮説は生まれた。
もちろん反対意見もあって、論争はまだ続いている。
だれも反対しないような仮説は無意味。
既成概念をくつがえすような仮説にこそ、
激烈な反対意見が沸騰するような仮説にこそ、
痺れるほどの魅力を感じる。

凍結した地球が融け、
平均気温がマイナス50℃から100℃ぐらい上昇すると、
あのアノマロカリスを生むカンブリア大爆発がおとずれる。
つまり、地球全体が凍結しても、
どっこい生物は生きつづけてきたということだ。

現代と同じような地球温暖化だって、5500万年前にあった。
北大西洋が割れて、地下から大量にマグマが流れ出し、
海底のメタンハイドレードが溶けだして、
そのメタンガスが温暖化をもたらしたという。
それは、北緯80度の北極圏に、
メタセコイアの大森林が存在したほどの温暖化だった。

なんだか、地球の気候が大変動に見まわれたその後に、
突然、生物進化の新局面を迎えるような気もする。
このまま人類が地球を毀しつづけて、
あるとき、そう遠くない将来に、カタストロフィーが訪れる。
現在の生態系が崩壊して人類は滅ぶ。
そのあと、ロシアが熱帯になるような熱い地球になる。

それから数千万年あるいは数億年を経て、
地球上のどこかで細々と生きのびた人類の子孫に、
劇的な進化が訪れて、やがて新人類が誕生するのかもしれない。

あ〜、たのしいな。
茂木先生がクオリアの冒険譚を公開し続けてくれるかぎり、
科学を夢見る悦びは尽きません。


2007年7月18日(水曜日)

藤本昌利教授

カテゴリー: - kawamura @ 11時28分24秒

このところ書斎を整理しておりましたら、
葉書が何枚かでてまいりました。

拙著『蒼天のクオリア』に登場する
北大学部生時代の教官
藤本昌利教授のお葉書をご紹介します。

それを拝見したとき、いつもは達筆な先生の字が
大きく乱れているのをふしぎに思っておりましたが、
あとからお聞きすると、
先生は病の床に伏していらしたようで、
葉書を書かれたのは
お亡くなりになる直前のことだったのです。

***********************
ライラック祭りの粧い華やかなる札幌の街に
貴兄よりの力作著書『蒼天のクオリア』が届きました。

著者の慎ましき人柄を反映して
光り輝く美しい冊子に籠もる
たくまぬ人生哲学の数々に
身の引緊る思いです。

懐かしき北大藤本研時代を想起し乍ら
札幌にて厚く御礼申し上げます。早々
***********************

藤本研究室の床に寝そべって
カルコンのサーモクロミズムを発見した雪の夜を
なつかしく思い起こします。

このお葉書が届いてからほどなく
藤本先生はご他界されました。


2007年5月11日(金曜日)

宇宙飛行士毛利衛氏と恩師岡不二太郎教授(2)

カテゴリー: - kawamura @ 10時08分11秒


恩師岡不二太郎教授の奥さま
岡正子さまから手渡された雑誌の記事を紹介します。

それは宇宙飛行士毛利衛氏が、
岡先生の「自然科学概論」の授業に感銘を受けて、
やがて宇宙飛行士への道を歩むというお話しでした。

私も北大理学部の出身ですが、
毛利衛氏も同じ北大理学部で化学を学びましたから、
二人とも私の従兄大関邦夫さんの後輩にあたります。

従兄は北大理学部助教授から弘前大学教授を経て
弘前大学副学長になり、
毛利氏は北大工学部の助教授から
宇宙飛行士になりました。
それで、毛利氏のことは
先輩である従兄の大関邦夫さんからも
学生時代の様子などを聞いたことがあるのです。

しかし、
まさか毛利氏が恩師岡先生の感化を受けていたとは
驚きでした。

以下、記事の一部分をご紹介します。

***********************
宇宙は創造の空間

科学者になりたい
夢を具体的にスタートさせた
北大理学部への入学

(中略・後刻UPします)

そんな私が北海道大学理学部に入学した時から、
「科学者になる」という夢への具体的な歩みが
始まったといえるでしょう。

当時、教養課程の授業で、
いまでも記憶が鮮明に残っている授業があります。
それは、
岡不二太郎教授の自然科学概論という科目でした。

岡教授は、中谷宇吉郎先生の本をテキストとしながら、
「科学とは何か」「真実とは何か」
について話を進め、

「大学の教科書というのは、
 現役の教授たちが書いているわけであるから
 間違いがたくさんある。
 いま現在正しいと思われていることも、
 それは現時点で矛盾がないから正しいだけであって
 永遠の真理ではない。
 真理は偉大な誤謬である。」

と強調されたのです。

ちょうど自然科学の方法論という根本的なテーマに
強いこだわりをもっていたときだけに、
「なるほど、大学の講義というものは違うものだなあ」
と新鮮な驚きを感じさせてくれたことを覚えています。

1992年9月12日から8日間にわたり、
私は米スペースシャトル「エンデバー」の
搭乗員の一人として、
43件の宇宙実験に取り組みました。
日米双方の科学者が提案・準備したもので
無重力・超高真空などの宇宙特有の環境利用する、
地上では実現不可能な実験です。

この実験を通して私たちは、
「化学反応の基礎的な過程はどうなっているのか」
「生命が誕生するのか」など、
長年多くの人々が抱き続けてきた疑問に
答えを見つけていくための糸口をひらく仕事が
できたと思っています。

またこれまでの「常識」、「理論」を
くつがえすような新しいデータが得られる中で、
私たちがスペースシャトルに乗り、
宇宙に飛び出すと言うことは、
「科学が、真理を解釈するための誤謬である」
ことを確かめる仕事でもあるのだと
改めて感じています。

(後略・後刻UPします)
***********************


2007年5月10日(木曜日)

宇宙飛行士毛利衛氏と恩師岡不二太郎教授(1)

カテゴリー: - kawamura @ 08時44分53秒


札幌を去る日に、北海道大学時代の恩師
故岡不二太郎教授の奥さま岡正子さまを訪ねました。

私が帰郷してから、
数えきれないほどの励ましのお手紙を下さった岡先生の霊前に、
ご挨拶をしようと思っていたからです。

五月晴れのその朝、
奥さまは和服をお召しになって玄関に立っていらっしゃいました。

霊前に先生がお好きだった静岡の新茶などをお供えしたあと、
奥さまとの話題は、
私たち夫婦でお供をした岡先生ご夫妻との最後の旅行のことでした。

拙著『蒼天のクオリア』から引用します。
(文中の「沢村」は私のことです) 

*************************
沢村は先生の一学生にすぎなかったのに、
はじめてお会いしてから他界されるまでの三十年間、
先生はことあるごとに長い書簡を下さった。

そして平成九年の五月の連休旅行には静岡を訪ねて下さり、
沢村たち夫婦そろって、
晴天の伊良湖岬で先生御夫婦を出迎えた日を、忘れることができない。
初夏を思わせるような海岸で、奥様の写真をとる先生の姿を、
沢村は今も忘れることができない。

二泊三日、沢村は先生の背中を流し、
さまざまの話に興じた。
旅行のあいだ、先生は食事を召し上がらなかった。
先生のその旅は、ご家族も覚悟の旅で、
その二か月後、先生は黄泉の国に旅立たれた。

沢村はすぐに札幌にかけつけたが、
先生はすべてをご承知のうえで、
最後の旅のお供に彼を選んでくださったということだった。

斎場へ向かうバスのなかで、
沢村は声を噛みころして泣いた。
先生は、まさに沢村の生涯をつうじての恩師だった。
*************************

ひとしきり岡先生の思い出にひたったあと、
奥さまは一枚の記事のコピーを見せてくださいました。


2007年4月20日(金曜日)

あっ、わかった!!

カテゴリー: - kawamura @ 06時06分15秒

思い出しました。
昨日のブログにでてくる女性心理学者の名前です。

「あっ!わかった!!」
と叫んで事務室へ走ってメモしました。
アハ!体験です。

塾の授業中でしたから、
生徒たちはあっけにとられていました。

その名は、ランゲ・アイヒバウムでした。

30年前に読んだ本の著者の名前を、
昨年の7月17日まで憶えていたことはたしかなのです。

というのは、茂木先生の追っかけをして福岡を訪ねたとき、
講演会の講師控え室に招かれたことは
その日のブログに書きましたが、
私の横にすわっていたのが自治医科大学の加藤敏教授でした。

加藤氏と心理学についてのお話しをしたなかで、
(もちろん私はずぶの素人でしたから、
 冷や汗を流しながらいままでの知識を総動員して話したのですが)
加藤先生は、
天才をどのようにとらえるかはその時代背景に大きく影響される
ということを主張していらっしゃいました。
そのとき私は、
「ランゲ・アイヒバウムもそのようなことを言っていますね」
と言おうとしたのに、それを言い出す勇気がなくて、
あとになってとても悔しい思いをしたことを憶えているのです。

その時点ではたしかにランゲ・アイヒバウムの名を憶えていたのです。

昨日それをブログに書こうとして、ふっと記憶から落ちたのです。
どうしても思いだせず、のど元までなんどか出かかるのですが、
どうしても思いだすことができませんでした。

ずっとそれを考えていて、なにげない瞬間、ぱっと思いだしたのです。

あ〜、すっきり。

ここから先は、30年前に読んだ本のうろおぼえの内容です。

アイヒバウムはその著書『天才』のなかで、
画家のフェルメールを例にあげていたように思います。
たしか年表のようなものがありました。
フェルメールの存命中は、彼はそれほど高い評価ではなく、
死後100年以上経ってから、
突然天才の評価を下されたというのです。

つまり、市民画家であったフェルメールの絵は、
市民が隆盛を極める時代になった後世に
初めてその天才的価値が見いだされたというのです。
社会の価値基準は時代によって変遷し、
それとともに時代の求める天才の価値基準も変わるというのです。
(と書かれていたと思います)

ランゲ・アイヒバウムの『天才』をお持ちの方がいらっしゃいましたら、
ぜひコメントいただき、間違いを正していただけたらと思います。

でも私は、アイヒバウムよりも、
たとえそれが小粒であれ天才のほうを評価します。
天才の研究なんかをするまえに、
なにかひとつでも芸術的創造をしてみたらいかが?
と言いたくなってしまうのです。
(といいながらアイヒバウムの著作に感銘を受けたこともたしかですが)

天才と秀才はちがいます。
天才と能才もちがいます。
能才や秀才は、お勉強やお仕事ができる人たちです。

天才はそんなこととはまったく関係がありません。
たしか宮城音弥の『天才』に、
天才、秀才、能才、異才の表があったように記憶しています。

天才は、秀才や能才にこの世では負けるのです。

さて、私が20代の半ばに書いた『天才論』を、
お読みになりたい方はいらっしゃいますか?
今度こそ、いらっしゃいますか?
どうですかっ?!


2007年4月8日(日曜日)

人間原理

カテゴリー: - kawamura @ 08時39分05秒

みなさん「人間原理」という言葉を
きいたことがあるでしょうか。
日経サイエンスの先月号
「茂木健一郎と語る科学のクオリア」
にでてくる言葉です。

地球外生命体の探索を
これほど長い間つづけても
一向にその気配すらみつからないのは、
じつは私たち人間が存在しうるためには
この自然界に奇跡的な条件が成り立っていなければならないから、
ということが分かってきました。

それを説明するのに、
とても面白い例があげられています。

それは、氷が浮くということです。

氷が浮くのは、
液体の水が結晶して個体になるとき、
体積が増えるからです。

ふつうの物質は、
液体から固体になるとき、
縮んでその体積がちいさくなります。

ところが水はそうならないのは、
水の分子構造のためなのです。

皆さんご承知のように
水は酸素原子の両脇に水素原子がくっついている形をしています。
Oの2S軌道と2P軌道が混成して
SP3混成軌道をつくるから、
酸素と水素の結合する角度が約104.5度になるのです。
その角度で結晶すると、
体積が膨張するというわけです。

つまり、
水分子の結合角がほんのわずかにずれただけで、
氷が水に浮くことはないのです。

じつはそのことが、
生命の誕生に大きな影響を及ぼすことになるというのです。

北極海には氷が浮いています。

もしもあの氷が、
すべて沈んでしまったとしたら
どんなことになるのでしょう。

深い海の底に氷が堆積してゆきます。
光のとどかない海底では、
氷は二度と溶けることはありません。
氷の層はしだいに厚くなって
やがて海底を覆いつくすでしょう。
そして地球の気象に
壊滅的な変動を起こすことになるでしょう。

とてもそのように氷に閉ざされた海で、
生命が誕生するはずはありません。

このように、
水分子の結合角がほんのわずかにずれただけでも、
生命は誕生し得なかったのです。

最初に申し上げたように、
自然界に奇跡的な条件が成り立っていなければ、
私たち人間が存在しえなかった、
というのはこういうことなのです。
それを人間原理というのです。

それではなぜ、
私たちの宇宙では
このように奇跡的な条件が成り立ったのでしょう。
それは、
無数の星がまたたく宇宙の中で、
地球のように美しく青い星が存在している奇蹟と同様に、
私たちが住む宇宙の他に、
別の宇宙定数をもつ無数の宇宙があるのではないか
という考えに必然的に帰着します。

それが多宇宙理論です。

多宇宙についてはまた後日お話ししましょう。


2007年4月1日(日曜日)

告白

昨年の秋、裏庭の池の底で、
大きな蝦蟇蛙が、三匹あおむけになって死んでいました。
それからというもの、裏の池は死の池になってしまいました。

それから二週間ほどして池の底を見ると、
ちいさな、それは水面に目をちかづけなければ見えないほど
ちいさな生き物がいっぱいうごめいていました。
エビのようなもの、魚のようなもの、
さまざまな種類の生き物が蝦蟇蛙の死肉を食べているのです。

その日は気味悪くなってその場を離れました。

数日してまた池の底を見ると、
三匹の蝦蟇蛙の死骸はすっかり骨だけになって、
そのまわりに
先日見たときよりすこし大きめの生き物が泳いでいました。
ちょうど先カンブリアのころの捕食生物
アノマロカリスのようにも見えました。
その大きめの生き物は、
池の底にうごめくちいさな生物を、
二本の触角のようなもので捕まえて食べているのです。

ゆっくりと進化がはじまっているようでした。

冬になっても、生物の種類は増えつづけ、
裏庭の池は太古の海のようにも見えました。

やがて春がおとずれてもゆるやかな進化はつづき、
すこしずつその体も大きくなって、
いままで見たこともないような
生物が現れはじめました。

三月初旬の風のつよい日に、
木蓮の花がすっかり散って、
白い花びらが池の水面をおおいました。

よく見ると、その花びらの上に、
そこかしこ美しい人魚たちがすわっているのです。
肌の白さに、花びらと人魚と、
見わけがつかないほどでした。

私はそのなかのお気に入りの人魚を、
シモーンと名づけて愛しています。
手のひらにおさまるほどちいさな彼女は、
ときおり透きとおるような可憐な声で歌います。

このことはいままでずっと秘密にしてきました。
でも、2007年の4月1日というこの日に、
告白をしようと決めたのです。

(妻には内緒です)


2007年3月26日(月曜日)

翻訳文学

カテゴリー: - kawamura @ 08時54分33秒

イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』は
当時のベストセラーでしたから、
多くの方々がお読みになったことと思います。

その本の中ほどに、
ロープシンの『蒼ざめた馬』の末尾の言葉、

 われ、汝に暁の明星を与えん

をひいて、その意味を解きあかしています。

読みすすむうちに、
「暁の明星」という言葉に我ら日本人がいだく
「夜明けがちかい」というふうな
ロマンチックなイメージとは全く異なる
おそるべき内容が含意されていることに、
驚かされます。

ロープシンは『黙示録』に精通していて、
彼の作品は『黙示録』を知らずして
理解し得ないと言うのです。

山本七平はさらに言います。

「だがロープシンならまだよい。
 これがドストエフスキーの作品だったら、
 あの縦横無尽ともいえる聖書の引用を、
 どう説明したらいいのだろう」

「現著者とその読者の世界と、
 訳者とその世界とは、
 はっきりと別なのである」

私も実にそう思います。
というのも、私の参加しているクオリアMLで、
ちかごろそのような事態に遭遇して、
月に二・三度投稿しているところだからです。

皆さんは、
ジル・ドゥルーズの『意味の論理学』の次の一節を、
どのような意味だと思われますか?

『意味の論理学』ジル・ドゥルーズ(小泉義之訳)
 「第5セリー 意味」より抜粋

「意味は、命題から引き出され、命題から独立している。
 というのも、意味は、命題の肯定と否定を中断しながらも、
 命題の消え去る複製であるからである」


2007年3月25日(日曜日)

うぐいすの歌合わせ

カテゴリー: - kawamura @ 09時58分45秒

雨の日に、
ぼんやりとうぐいすの声を思い出すのも一興です。

晴れた谷間の一か所から、
最初のうぐいすの鳴き声がきこえます。

その声をたしかめてからとでもいうふうに、
ひと呼吸おいて、
対岸の山肌からうぐいすの声がそれに応えます。

さらに遠くのの森からも、
裏山からも、
その歌合わせがしばらくのあいだ
谷間にここちよくひびきます。

それはうぐいすのテリトリーの確認である
というような興醒めなことはいわずに、
あんなにもちいさな鳥なのに、
それでも歌うよろこびを知っていて、
精いっぱいそれを謳歌していると思えば、
なぜかうきうきしてきます。

いままであくせくと生きてきたことが
嘘のように感じられるあかるい春の日です。

空飛ぶ鳥を見よ、
播(ま)かず、刈らず、倉に収めず。
野の百合(ゆり)は如何(いか)にして育つかを思え、
労せず、
紡(つむ)がざるなり、
されど栄華を極めしソロモンだに、
その服装(よそおい)この花の一つにも如(し)かざりき。
きょうありて明日、炉に投げ入れらるる野の草をも、
神はかく装い給えば、まして汝らをや。
汝ら、
之(これ)よりも遥かに優(すぐ)るる者ならずや。


2007年2月24日(土曜日)

善悪2

カテゴリー: - kawamura @ 13時30分04秒

なにごとも極端はいけないという話しのつづきです。

会話のなかで話したそれは、
以前からの私の持論のひとつです。
さらにその昔から私がいだいていた考えに、
”風景がひとを育てる”というものがあって、
今日のお話しはそれに似ています。

東京には新宿歌舞伎町があり、
札幌には薄野があるように、
都市には必ずそのような区画があって、
それはその善悪を問うまえから、事実として、
どの都市にも存在しています。

もちろん東京には霞ヶ関もあれば、
永田町も、神田も、田園調布もあり、
それは地方都市においても然りです。

ところで、東京から、歓楽街としての、
新宿、渋谷、池袋などを完全に消し去って、
それでも都市は機能するでしょうか。

霞ヶ関無しでは国が機能しないと
誰しも思うのでしょうけれど、
それは歓楽街においても同じであろうと思います。

何年ほど前になるのか、
筑波学園都市ができたてのころのことです。

理想的な研究都市を創ったはずでしたが、
ふしぎなことに、
研究者たちがつぎつぎに投身自殺をするのです。

美しい公園があって、
それをはさむように研究棟と
快適な居住空間とが広がっている、
ように見える完璧な設計のはずでした。

理想的な研究都市でのあいつぐ自殺は、
当時の社会問題にもなりました。

ところがその研究者たちのなかで、
実にいきいきと生きのびた人たちがいたのです。
その秘密とは、
彼らが、研究都市からすこし離れたところにある
ゲイ・バー
(これは正確な記憶ではありませんので、
 調べてから必要があれば訂正いたします)
に足しげく通っていたというのです。

おそらく筑波研究都市にも、
小綺麗なクラブやスナックはあったのかもしれません。
しかし赤提灯のならぶような歓楽街はなかったのです。

研究者たちが日頃のいかめしい鎧を脱ぎすてて、
裸で話しあえる場所、
それはすこしのいかがわしさを秘めている方がよいのですが、
そのような自らを開放する場所がなかったのです。

これはさまざまな組織においても
同じことがいえるでしょう。
その組織の規模如何を問わず、
そこには霞ヶ関の部署も、丸ノ内も、
そして新宿歌舞伎町の人々も必要なはずです。

会社の全員が霞ヶ関人間であったら
どれほど気詰まりなことでしょう。
組織が円滑に機能するには、
善も悪も、明も暗もすべての面を
そなえていなくてはなりません。

だいたい善悪など、
あとから人間がこしらえた概念にすぎません。

これは、ひとりの人間のなかに、
都市や組織の相似形が存在しているゆえなのでしょう。
つまりひとりの人間のなかには、個人差はあるにせよ、
霞ヶ関の部分も、銀座の部分も、
そして新宿歌舞伎町の部分も事実としてあるのです。

『いじめは悪である。
だからいじめっ子を根絶やしにして、
いじめで自殺する子を救おう』

それはあたかも、
全員が霞ヶ関人間になるべし、
とでもいうような所詮無理な話のように
私には聞こえます。
むしろ、
自殺者があいつぐような社会病理としてのいじめは、
特異な人間を抹殺しようとする社会意識こそが、
その原因のように思います。

特異な人間をいじめ、抹殺しようとするまえに、
ひとりひとりの人間の内面は実に多様性に満ちていて、
いじめられる人間の特質は
いじめる人間のなかにも存在し、
それぞれに個人差があるにすぎないということを、
そしてその特異な個性こそ褒めるべきであることを、
子どもたちに教育すべきように思います。


2007年2月23日(金曜日)

善悪

カテゴリー: - kawamura @ 08時04分02秒

しばらくまえに、知人と歓談するなかで、
こんな話しをしました。
それはほんの数人の酒席での話しです。

いじめの話しがきっかけとなって議論が白熱したとき、
私はこんなふうに申しました。
(これはとても長い話しです。
今日と明日の二回に分けましょう)

「なにごとも極論にはしりすぎてはいけない。
たとえば
『いじめは悪である。
だからいじめっ子を根絶やしにして、
いじめで自殺する子を救おう』
というだれしも否定できない正論をかかげて、
正しく美しい道だけを突き進もうとすると、
やがてその道の果てには、
巨大なカタストロフィーが待ちうけているだろう。

それはもう少し巨視的な観点から見ると、
戦争をくり返すメカニズムと似ている。

戦争の悲惨を見た者たちは、
口々に命の尊厳をとき、
戦争につながるあらゆる悪を根絶やしにしようとする。
それは一見正しい行いで、誰しも否定できない。
そのような主張は、
戦争当事者の世代と次世代くらいまでつづくだろう。

やがて、命は地球よりも重い、
というスローガンにひとびとが倦んできたころ、
そして戦争があったことすら知らない世代が世の大半を占めたころ、
善にふれすぎた振り子が、
突然悪へ振れ戻す。

それは、あたかも善悪の帳尻をあわせようとするかに、
ふたたび戦争という巨大な悪がひとびとを覆うのだ』

と、まあ今日はここまで。


2007年2月21日(水曜日)

『地上』島田清次郎

カテゴリー: - kawamura @ 08時25分58秒

それはもうとうに失われた本ですが、
色あざやかなカバーにつつまれた文庫本で、
バイロン、ナポレオン、ディズレーリ、
などの伝記を読んだ記憶があります。
三十五年もまえのことです。

作者は鶴見祐輔だったと思います。
(あとから検索してみます。
 後記・検索してみました。鶴見俊輔ではなく、父の鶴見祐輔でした。直しておきます。
 ところで、成城の鶴見家の向かいに柳田国男が住んでいたとは驚きでした)
熱情あふれる青春の文体で、
十代後半の私の激情をかきたてたものでした。

『地上』はその文体に似ているのです。
それともそれは反対で、鶴見祐輔が、
島清の文体に影響されていたのかもしれません。

島清こと島田清次郎の名は、
杉森久英の『天才と狂人の間』でつとに有名ですが、
私もいちど『地上』を読んでみたいと
かねがね思っていたのでした。

『地上』が空前のベストセラーになったあと、
イギリスの文豪H.G.ウェルズ、
ゴールズワージーなどと面会するなど、
文学者としての栄誉を極め、
やがて狂疾に陥って、
31歳の若さで早逝した天才作家の作品を
だれしも読みたいと願うでしょう。

それが手に入ったのです。

島田駅前「BOOKS ZEN」さんのおかげで、
若くから読みたいと切望し、
あきらめかけていた『地上』を、
今読みはじめることができたのです。


2007年2月17日(土曜日)

レクイエム

カテゴリー: - kawamura @ 12時42分57秒

風花の舞う森を、
レクイエムを聴きながら走りました。

ふいにうしろから、
悲しみに肩さきをつかまれたときのように、
涙があふれました。
モーツァルトの旋律は、
ななめうしろからその手をさしのべてきます。

なみだもろいのは、がんになって、
いのちのことを考えるようになったからかもしれません。
年甲斐もなくすこしセンチメンタルにすぎるとよくいわれます。
でも、生来の気質だからしかたありません。
このところ、文化財のことなんかで、
すこしまいっているのかもしれません。

茂木先生が我が家へお見えになって、
二人で墓地から坂道をおりてくるとき、
枯れかけた桜の古木のしたを過ぎながら、
私は先生に申しました。

「小林秀雄の講演に出てくる
 桜でごね得をたくらんでいると勘違いされた男のように、
 そんなふうに私はみえますか?」

それに先生がどのようにお答えになったのかは
憶えておりません。

ただ、風が吹いていました。
6月の風が、新緑の谷間を吹きわたって、
先生のお言葉を碧天へ吹きあげていったようにも思います。


2007年2月15日(木曜日)

遠野物語

カテゴリー: - kawamura @ 08時22分18秒

『遠野物語』を再読しています。

「あなやと思ふ間もなく、
 二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、
 裾にて炭取りにさはりしに、
 丸き炭取りなればくるくるとまはりたり」

柳田国男『遠野物語』二二の一節です。
老女の葬儀の夜、
亡くなった老女の亡霊が
炉の脇を通りすぎる一瞬の場面で、
この個所のリアリティについて語ったのが誰であったかを、
忘れてしまいましたが、
高名な文学者であったように記憶しています。

確かにその通りで、亡霊が現世とかかわる一瞬を、
見事にとらえています。

しかし、一度そのような御高説を耳にすると、
どうしても、そのように読むべき、という力が加わります。
やはり優れた文学は、若年の日に、
純白の心にしみこませるもののように思います。

昨夏に読みかえしたフランス文学の印象も、
青春の日の味わいとはずいぶんちがっていたのに
驚かされたものでした。

豊富な経験や知識を透かしてみる老年の視座と、
青春の日の清廉な視線とでは、
この世界の様相がまったくちがってみえることに
驚かされたのです。

いま再読している『遠野物語』もしかりです。


2007年2月11日(日曜日)

いいお天気ですね

カテゴリー: - kawamura @ 08時36分44秒

帰郷した若いころ、その一言が言えませんでした。

近所の方に「いいお天気だね」と言われると、
私は、何か気の利いたことを答えなくてはならない、
と気をもんだものでした。

そのころの私は、
「いいお天気ですね」にこたえて、
「でもすこし雲が出てきましたから、
 夜は雨かもしれませんね」
などと苦しまぎれの返答をしたものでした。
それはたいへん失礼なことであったと、
あとになって知りました。

いわゆる社会と同化してゆくための挨拶が
うまくできなかったのです。
二十代も後半にさしかかっていたころのことです。

私の先輩や仲間たちからは、
「いいお天気ですね」という挨拶を
あまり聞いたことがありませんでした。
「おはようございます」「こんにちは」
「はじめまして」「さようなら」
このたぐいの挨拶をかわす程度で、
天候の挨拶などあまり耳にしたことがなかったのです。

帰郷してまもなく父を亡くした私には、
こんな変な話しを相談する相手などなかなかいませんでしたから、
恥を忍んで伯父(父の兄)に訊ねてみました。
かって文部官僚だった伯父の明快なひと言で、
私は救われたのです。

「同じ言葉をこたえればいいんだよ」

それは魔法のひと言でした。
私にとって、
それはニュートンの運動方程式に出会ったときのような驚きでした。

「いいお天気だね」「ああいいお天気ですね」
「あったかくて好い日だね」「あったかくて好い日ですね」
これでいいのだ、
と何かあたらしい真理を発見したようなうれしさでした。

考えてみれば、
挨拶するというのは、
同意を求めているということです。
堅苦しく言えば、
共通な価値観の確認と言うことでしょうか。

「いいお天気だね」「ええ、いいお天気ですね」
これを翻訳すれば
「お前は私たちの仲間だね」「ええそうですとも」
と言っているのです。

でも、私はそれに気づくのにとても長い時間がかかりました。
研究者や小説家をめざしていた青年の日の私は、
人とちがう発想にしか価値を見いだし得ませんでしたから、
挨拶が仲間意識の確認であるなどとは、
考えてもみませんでした。
動物がすれ違いざまに
互いの体臭を嗅ぎあって安心するようなものだと知ったのです。

「普通」の人になろう、
と必死の努力をしていたころの、
遠い昔のことです。
いまはもうりっぱに「普通」の人になりました。(かな?)


2007年2月9日(金曜日)

おどろき!「プロフェッショナル」

MITの石井裕は大学の後輩でした。
もちろん面識はありません。
ただ同じ校風のなかで学び、
同じように札幌の初夏をたのしんだというにすぎません。

石井の目はトンでいました。
見るからにいままでの日本では生きにくかろうと思わせる風貌です。

科学や芸術は創造こそすべての世界ですから、
創造者である彼らは、自らを混沌のなかに置かなければなりません。
規制や桎梏といったたぐいのものから自らを開放し、
冥い創造の海に身を投げると、
その海の底にあたらしい着想の真珠が輝いているというわけです。
つまり、既成概念の重力から自由にならなければ、
新奇な発想は得られないのです。

基本的な精神の方向性が、善の方向を向いていればよいのです。
真善美を求める心さえ根底にながれていればそれで良く、
その先はすべての束縛をはなれた自由空間のなかに身をおくのです。
そしてそれを楽しめる勇気を持たなくてはなりません。
既成概念を離れるとは、社会通念を無視するふうにもみえますから、
思わぬ糾弾を社会から受けたとき、
それを真摯に受けとめて責任をとる勇気を持たなくてはなりません。

創造的才能の華やかさはひとびとの耳目をあつめ、
賞賛されますから、
必ずその才能が涸れたあとには悲惨がまっているのです。
とくに日本のような風土ではその落差が大きいでしょう。
しかしそれを恐れていてはなりません。
創造者であるまえに、真善美の体現者であることが必要で、
その姿勢が純潔でさえあれば、
必ずやふたたび理解されるときが来るのです。

真の創造性は、混沌の中からしか生まれません。
そこには価値の高低もなく思想の方向性もありません。
ただすべてが在るのです。
それは人間の既成概念の彼方にある世界です。

創造者たちは、苦悩と恍惚に満ちたその世界にいるのです。


2007年2月2日(金曜日)

冬の日のカメラ

カテゴリー: - kawamura @ 10時54分42秒

二日酔いの頭で、ぼんやりと書いています。
しずかな冬の日です。

この二・三日写真ばかりとっていました。
私の所属するクラブで、
30分ほどお話しをすることになっていたからです。
「御林守河村家について」というその卓話は、
昨日無事にすみました。

パワポ用に写真が必要だったのですが、
デジカメをAUTOにして撮っても、
写りが暗くなってしまいます。
そこでカメラのモリサワさんにお聞きして、
いろいろと教えていただいたのに、
なかなか教えられた通りにはうまくいきません。
もちろん私の腕に問題があることは分かっています。
(頭に問題があって、
 ものおぼえが悪くなっているのかもしれません)

私はどんな道具でもそれについているマニュアルを
ほとんど読みません。
実際に試行錯誤をして身につけていかないと、
憶えられないのです。
これは、
すべての分野についてそのようにしています。
書かれたことには頼らず、
まず、実際に行動してみるのです。
ですからあやまちの多い人生でしたが、
自分の足で歩いてきたという実感はあるのです。

知にかたよらず、
冬には冬の風に肌身をさらして、
手応えのある人生を生きようと思うのです。

一度しかない人生ですから、
たとえ紆余曲折があったとしても、
自分の足で、
そのときもっとも正しいと信じた道を、
一歩一歩あゆんでいこうと思うのです。

(というのは長い言い訳で、
 ホントのところは、生来怠惰で、
 ただマニュアルを読むのが
 面倒なだけだったりして・・)


2007年1月31日(水曜日)

ギャバガイ問題

カテゴリー: - kawamura @ 07時33分22秒

ひさびさにおもしろい言葉に出会いました。

「ギャバガイ問題」

心理学の世界の言葉と聞いただけで、
ちょっと眉にツバをつけてしまう私です。

ましてや、その名も「ギャバガイ問題」。

「茂木健一郎と愉しむ科学のクオリア」(日経サイエンス)
の対談のなかにでてくる言葉です。

心理学者小林春美博士との対談はとても面白くて、
いちどお読みになってみるとよろしいと思います。

でも、
こういう話しになぜだかいかがわしさを感じてしまうのは、
私だけなのでしょうか。

はるか学生時代のことを思い出しました。

教養科目の社会学で、
「GemeinschaftとGesellschaftがあって、
 本質意志と選択意志がある」
と学んだとき、思わず教授に質問してしまいました。

「とてもわかりやすいけれども、
 個々の人間は多様性に満ちていて、
 そんなにかんたんな概念で、
 複雑な社会が一刀両断できるのでしょうか」

と、それだけで私の質問は終わりませんでした。

「そして、発明されたそのような概念は、
 その存在を科学のようには確認できないのに、
 いかにもいかがわしく見えるのに、
 まったく本当のことだなあ、
 と感じるのはなぜなんでしょう?」

教授がそのときなんと答えたのかは、
もう忘れてしまいました。

世界を読み解くある切り口を発明して、
それを精妙細緻に築きあげていったものが物理学だとすると、
「ギャバガイ問題」と物理学と、
いったいどこが違うというのでしょう。

物質に意味が付与されること、
あるいは現象が意味をもってくること、
たとえば「PV=nRT」のように、
個々の気体粒子はまったく勝手気ままにふるまっているのに、
粒子の平均行程から数学的に導かれる
気体全体としてのふるまいは、
個々の粒子からはかけはなれた
性質や意味をもっているように見えることと、
個々の人間のふるまいは閉ざされた主観のなかで
勝手気ままに動いているように見えても、
「Gemeinschaft」や「Gesellschaft」といった概念によって、
じつにみごとに社会全体が説明されるように見えることとは、
同じなのでしょうか。

いったいこれは何なんでしょう?

ところで、
「ギャバガイ問題」を解くカギは、
「事物全体制約ルール」
「事物カテゴリー制約ルール」
「相互排他性ルール」
だというのです。
なんだそりゃ、
と夜店の見せ物小屋をのぞくような気持ちで
読みはじめたのですが、
じつにそれらのルールを使うと
言語獲得の過程をうまく説明できるのです。

これらの概念が、
脳のニューロン回路に確認されたとき、
はじめて私は納得するのでしょうか。
それとも、
ニューロン回路がそのような直覚を生む仕組みが、
解明されてはじめて納得するのでしょうか。

概念という観念世界の産物と、
脳という物質との、
明確な対応関係が見出されてはじめて、
私は安堵するのかもしれません。

やはり私は心理学や社会学のように、
天空にある複雑な概念を論ずるのでなく、
いま見えているこの空の青、
この「青はどこからくるのか?」
それだけを知りたいのです。


2007年1月21日(日曜日)

誕生式

カテゴリー: - kawamura @ 05時28分01秒

とてもふしぎに思うことがあるのです。

というのも、田舎に住んでいますと、
近所づきあいが大切で、冠婚葬祭には
必ずおつき合いをしなければなりません。

冠婚葬祭といいましたけれど、
冠は元服、婚は婚礼、葬は葬儀、祭は祖先の祭祀のことです。

いまは元服の儀式はありませんし、
(成人式が元服にあたるのかもしれません:後記)
葬儀以外で祖先の祭祀というと、8月のお盆くらいしか思いあたりません。

とうことは、ひとりの人生のなかで、
多くの親類縁者をよんで盛大な式を催すのは、
結婚式とお葬式のふたつだけのようです。

それではなぜ、一人の人間がこの世にあらわれた、誕生を祝う式、
誕生式というものがないのでしょうか。
とてもふしぎに思います。

それとも、どこかの国では誕生を祝う風習があるのでしょうか。
私は、寡聞にして知りません。

(娘に指摘されて気がつきました。キリスト教徒の洗礼の式はそれにあたるのでしょう。その式には、一族が集うようですから:後記)

日本にも赤ちゃんが生まれたことを、
一族をあげて祝う儀式があってもよさそうに思うのですが。

他の国や特定の部族でそのような儀式があったとしても、
なぜ日本ではそれが行われないのか、
どなたか詳しい方はいらっしゃいませんか。


2007年1月20日(土曜日)

独白

カテゴリー: - kawamura @ 21時34分07秒

私はいま、爆心地に立っています。

途方にくれて、
破壊された町からあとずさりするように、
すこしずつ遠ざかろうとしているのです。

一歩一歩あゆみつづければ、いつの日か、
あとかたもなく壊れた記憶の街並みを、
遠い丘から
なつかしく眺める日もくるのでしょうか。

グラウンド・ゼロ。

癌告知の衝撃の大きさは、はかりしれぬものでした。

告知のとき、心の宇宙が、一瞬灼熱の火の玉と化したのです。

しかし癌の衝撃をかくして、そしらぬふりをして生きる方が、
いわゆる美学にかなっているのかもしれません。

幸運にも癌の魔手からのがれ得たこの命をたたえるように、
明るく、力強く、ひとびとと握手しながら
生きるべきかもしれません。

じっさい私のように、
早期に発見されて完全に治癒する例はすくないようです。
多くの癌患者は、程度の差こそあれ、
癌告知からはじまって、
再手術、抗癌剤投与、転移などをくりかえすのでしょう。

いまにして思えば、私はほんとうに幸運でした。
しかしそれはあくまでも「いまにして思えば」ということで、
手術後の病理検査の結果が、第二層まで癌浸潤が認められれば、
あるいは腫瘍マーカーが陽性となってどこかに転移していれば、
その時点から全くちがう人生を歩むことになったのです。

そこが時間というものの不思議なところで、
あの50日間は、最悪の可能性をも秘めていたのです。

つまり運不運、どちらの結果に到るのかをまだ知らされず、
悪夢にうなされ、不安の底なし沼に落ちていった50日間。

その日々の心理を書こうと思っています。
生きること、死ぬこと、そのような根元的な問いが、
あの50日間のなかに凝縮していたように思えるからです。


2007年1月19日(金曜日)

生身の姿・40才

カテゴリー: - kawamura @ 10時36分10秒

このころの私は、サンルーフのついた車を乗りまわしていました。
サンルーフから差しこむつよい陽ざしは、
毛のうすくなりかけた頭頂部を、
はっきりと浮かびあがらせるという難点がありました。

初夏の風が流れこみ、ユーロビートのひびきに身をまかせて、
東名高速を光の速度で走っていたころのことです。

そのころの三年間、ちょい不良の時代について語るのは、
もうすこし時がたってからにいたしましょう。

(妻とふたりの娘については、肖像権がとれませんでした)


2007年1月18日(木曜日)

ちょい不良のころ・予告編

カテゴリー: - kawamura @ 07時52分10秒

父が亡くなったのは私が28才のときでしたから、
それから37才までの十年間は、ただひたすら仕事をしていた記憶しかありません。

昼は静岡学園高校で化学を教え、
夜は島田進学スクールの塾長としてすべての事務をこなし、
小学生から大学受験生まで、数学、物理、化学を教えていました。
数人の塾講師のなかで、経営者の私が、
じつは一番の労働者として休みなく働きました。
二・三か月休みなしなどというのはふつうのことでした。

私が27才のとき、島田駅前の区画整理で土地は半減し、
うしなわれた土地の補償費は、荒廃した屋敷の修理と、
姉の和服の支払いとに父がつかい果たしましたから、
父の死後に私の手もとにのこされたのは、
銀行や呉服屋への借金ばかりでした。

見事に、一円の預金もありませんでした。

やがて母が亡くなり、
倒れかけてゆく家を経済的に支えてゆくのが精一杯の日々でした。
悲惨な面もちで暮らしていたころのことです。
拙著『蒼天のクオリア』から引いてみましょう。
(ちなみに作品中の沢村とは、私のことです)

*************************
夢半ばに帰郷する二十六歳の沢村を、父と母が二人並んで門の前に立ち、
深々と頭をさげて待っていたあの日。
彼は自分の人生のすべてを沢村家の再興にかけようと決意したのだ。
時代錯誤と笑うなかれ。
彼の父はそのときすでに癌に冒され、彼が帰省してまもなく他界した。
家の働き手は彼ひとりになった。
地元に塾をひらき、時には畑のお茶を刈り、やがて昼間は高校に勤めて、
急速に没落してゆく沢村家を支えるために、夜昼となく働きつづけたが、彼の心は荒廃していた。
酒を浴び、今の自分はほんとうの自分ではないのだと嘆いては、妻を苦しめた。
むかしの自分が、夜毎に酔いつぶれた彼の前にあらわれて、ただ黙って泣いていた。
塾の教壇ではなく、大学の教壇に立ちたかった。
「短大で教えてみないか」卒業間近に、恩師が沢村に尋ねた言葉だった。
しかし岡先生を亡くした今にしてみれば、大学の教壇に立ちたいという願いの、
人が聞けば噴飯ものの滑稽さに、当時の沢村は気づかなかった。
彼の生活は乱れ、自暴自棄だった。
しかしその鬱屈した思いを原動力にして、仕事だけは人一倍の成果をあげた。
長い間、父親が残した借金返済に追われ、金銭苦を極めていた彼が、
三十代後半になって急にもち慣れないお金を手にすると、
生身の姿をさらすことにもなった。ちょうど四十歳のころだった。
*************************

この「生身の姿をさらすことにもなった」とさりげなく書かれている一行に、
かぎりない歓喜と苦悩と悔恨の想いがこめられているのです。

ところで、ちょい不良のころの写真は、どうしましょうか?


2006年12月5日(火曜日)

愚童

カテゴリー: - kawamura @ 09時25分49秒

かくの如きの我我所の執は、十六知見等の如く事に随って差別すること無量に不同なり。
故に名づけて分となす。

次に虚妄分別の所由を釈す。
故に、もし彼我の自性を観ぜずんば、すなはち我我所生ず、といふ。
もし彼諸蘊はみなことごとく衆縁より生ずと観察せば、この中に何者かこれ我ならん。
我は何れの所にか住する、蘊に即すとやせん、蘊に異すとやせん、相在すとやせん。

もしよくかくの如く諦らかに求むるときは、当に正眼を得べし。
然るに彼自ら観察せず、但し展転相承して久遠より已来、この見を祖として習って、我は身中に在り、よく所作あり、及び諸根を長養し成就す。
唯しこれのみこれ究竟の道なり、余はみな妄語なりと謂へり。
これをもっての故に名づけて愚童となすなり。


2006年12月2日(土曜日)

『ダメな自分が変わる本』続感想

カテゴリー: - kawamura @ 09時19分46秒

(著者のデュ・ボア氏がコメントを下さったので、感激して感想の続編を書くことにしました。
本日の記事は、11月29日のブログの続編ですので、それをお読みでない方は最初にそちらをご覧下さい。)

デュ・ボア氏の経歴の一部を拝見すると
「レジオン・ヴィオレット金章(音楽部門)を史上最年少で受章。17歳より教壇に立つ」
と書かれていて、感嘆。
若き日、マリンバを奏でる天才音楽少年であったと知りました。

その楽器演奏という特殊性から、身体をつかって心のありようを表現することで、研ぎ澄まされた感覚をもつに到ったのでしょう。
それは実践者にしてはじめて知りうる境地であろうと思います。

「思考する力を行動する力へ」というふうに、陽明学にも似た知行合一の雰囲気をただよわせるデュ・ボア氏の思想は、ともすれば頭でっかちになりがちな昨今の日本人にとって、待望の書のように感じます。

音楽の天才デュ・ボア氏は、常に五感を重視します。
「遠くを見る」「身体のセンサーを起こす」「身体と対話する」「見る、聞く、味わう」などの、感性を表す言葉が随所にみられます。
驚いたのは「前屈は、呼気と尾てい骨に意識を集中」というくだりで、その尾てい骨に意識を集中するというのは、脊椎基底部にあるチャクラをひらく姿をも思わせます。

心のありようは心身の相関の上に成り立っていて、つまりは心は脳に局在するのではなく身体全体に遍在している、ということでしょうか。

もう35年ほどまえに『ベスト・フレンド』という小さな本を読んだことがあります。
それも好著でしたが、視点が心理面に偏りすぎているきらいがありました。

デュ・ボア氏の『ダメな自分を変える本』は、心身のバランスを重視する深い智慧を私たちに与えてくれます。
ぜひご一読下さい。


2006年12月1日(金曜日)

等号(数学の誤謬)

カテゴリー: - kawamura @ 08時23分01秒

このごろヴィトゲンシュタインを読みかえしていて、
ふたたび、数学が誤っているのかもしれない、という想いにとらわれ、
それはさらに強まってきました。

そのひとつが、「=」、つまり等号のように思います。

茂木健一郎先生の主宰するクオリアMLに、
数年前に投稿した一文を再掲して、
もういちど考えなおしてみようと思っています。

以下、  年  月  日に私がクオリアMLに投稿した記事です。
(日時の記録をいま探しているところです。茂木先生のHPの中にあったはずなのですが・・)

*************************

ところで、A=¬¬A、この式が、どうも昔からピンとこないのですが。
(否定<nagation>の論理記号がパレットの中にないので、¬で代用しました)

というのも、私の乏しい女性経験のなかで、もっとも難解だった言葉が、
「好きじゃないってわけじゃない!」
遠い昔のことですが、電話の向こうの声をききながら、複雑な心境でした。

言葉も数式も、それを話し、あるいは読み、理解するときに時間が経過しますよね。
経過する時間とともに、前の内容は変化しているんじゃないでしょうか。

つまり、Aを一回否定して¬Aとなり、さらに否定したとき、
(A=¬¬A)ではなくて、(AがA’に変化する)が正しいんじゃないでしょうか。

Aの否定も、Aの二重否定も、時空連続体のなかで、Aの影のなかにあるのではないでしょうか。
数学の論理は、どうも t=0の静止空間内での、静止した論理のように感じられてなりません。
いかがでしょうか?

(彼女の t=0 近傍でのゆれる心を知りえなかった悔しさをこめて考えました(笑)。)


2006年11月29日(水曜日)

『ダメな自分が変わる本』フランソワ・デュ・ボア著

カテゴリー: - kawamura @ 07時40分36秒

癌を患って、すこし落伍感を感じています。
つい最近まで、30代のころと変わらぬスケジュールで働いていたのに、急に年齢以上に老けたような気がしているのです。
(ちなみに私はもうすぐ56歳です)
書店BOOKS ZENで本を探していると、『ダメな自分が変わる本』が目にとまり、茂木健一郎先生も推薦していらっしゃるということで、さっそく購入して読んでみました。
表紙の写真もテレビで見かけたことのあるお顔でした。

読了後の爽快感は、他のどのような本を読んだときにも得られない、心身にしっくりくるたしかなものでした。
いまの日本人は、この本を必要としているのではないでしょうか。
読みはじめてすぐそれを感じました。
つまり、これは今日の日本に失われた躾(しつけ)の本なのです。

「背筋を伸ばしなさい」
幼いころ誰しもいわれたこの躾を、きちんと身につけた人とそうでない人のあいだには、
その後に人生に大きな差が生じるでしょう。
その意味を知ったのは、高校生になってからでした。

それは、世界の上流階級といわれる人たちをテレビや映画で見ると、
猫背の人はまずいないということに気づいたのが始まりでした。
私は深山幽谷に住む者ですから、もちろん西欧の貴族にお会いしたことはないのですが、
彼らは皆、背筋を伸ばした美しい姿勢で歩き、それを崩すことなく食事もするようです。

(デュ・ボアさま、本当にそうでしょうか?
 私は実際に西欧の貴族をこの眼で見たことがありませんので(笑))

この食事をとる美しい姿勢が、内蔵への負担を減らし、
とくに胃と食道との接合部分を圧迫することなく、
自然に食物が流れ落ちるという重要な意味をもっていることを、
悲しいかな癌になってはじめて知りました。

やがて大人になってから、なぜ彼らは美しい姿勢をとるのかを考えて導かれたのが、以下の結論です。

人間の頭部は、頭蓋骨、脳、脳漿、血液、眼球、歯、毛髪、皮膚、筋肉などすべてをあわせると、
そうとうな重量になると思います。
その重い頭部を支えているのが、背骨から頸椎、延髄に至る一本の細い骨です。
割り箸の先に大きな鉢をのせているようなものですから、それを傾ければ、
割り箸は重さに耐えかねて折れてしまうかもしれません。

頸椎が折れないようにするのには、首のうしろの筋肉で、頭を必死に引っ張り上げるしかありません。
それで、猫背の人は首のまわりや肩の筋肉が凝ってしまうのでしょう。
筋肉が張って頸動脈を圧迫すれば、脳への血流が滞って頭がぼんやりしてくるというわけです。

つまり、猫背の人は、猫背であるというだけで、人生を損なっているのです。

日常的に背筋を伸ばして暮らしている支配階級の人々は(たとえば江戸時代の武士などは)、
不必要に疲れることもなく、頭を上げているから視野も広く、安定した精神を保ちながら、
あまり過ちを犯すことなく、日々正しい判断を下すことができたのでしょう。

あまり文章が長くなりすぎましたから、今回は割愛しますが、
姿勢を正すことのさらに深い意味については、つぎの機会に書こうとおもいます。

(ちなみに私はすこし猫背です(笑)。直さなければと思うのですが)

猫背の話は、この本の最初の一節にすぎません。
なによりもまず、一読をお奨めします。
新鮮な衝撃を味わえます!

ところで、デュ・ボア様、
イギリスではそのひとの姿勢や体型を見れば階級がわかる、というのは本当ですか?


2006年10月8日(日曜日)

カテゴリー: - kawamura @ 07時30分35秒

月あかりに身をさらしていると、すこしずつ心身が霊化されて、
透きとおってゆくのがわかります。
月あかりは骨に沁みて、身体をすりぬけてしまいます。

銀の月を見上げていると、それは月でないことがわかります。
たしかに太古から浮かんでいる月のすがたをしているけれど、
それは月ではないなにかであることが、はっきりとわかってきます。

霊化された私とおなじように、月をあびた秋桜の花は、
しばらく月あかりにひたっているうちに、
それ自体がぼうっとかがやきはじめます。

顔をあげ、月明の景色を遠くながめると、
あらゆるものは昼と異なるいのちをあたえられて、
色のないそのもの本来の実相をうかびあがらせています。

天空にかかるあれは、ふるくから月と呼ばれる異形のあれは、
いったい何なのでしょう。


2006年10月4日(水曜日)

ジョーク集

カテゴリー: - kawamura @ 09時23分18秒

いま、私は笑うようにつとめています。
おもいきり笑って、ストレスをふきとばすのです。

カントの『純粋理性批判』を読みかえそうと思って注文したのが手元にとどきましたが、
それを読むかわりに、さまざまなジョーク集や落語の本を読んで大笑いをしています。

そのうちのひとつ、

●レストランにて

アメリカのとあるレストランで、黒人と英語の苦手な日本人が並んで座っていた。
食事を終えた黒人がマスターにコーヒーを注文した。
「アメリカン、ブラック」
それを聞いた日本人が、続けてこう言った。
「ジャパニーズ、イエロー」


2006年10月2日(月曜日)

教えてください

カテゴリー: - kawamura @ 08時10分52秒

いままでそらんじていたはずの詩を、忘れてしまいました。
その詩のタイトルも、詩人の名前も、みんな忘れてしまったのです。
どこかにそれを記録したノートが残っているはずなのですが、
一日かけてさがしてもみつかりません。

それはこんな詩です。
ほんの一部分だけ憶えているのです。

お母さん 悲しみがふいに私をおそいます
初夏のこの明るさ このさかんな緑のなかで

きっかけはわかりません
なにかしらわけはあるのでしょう

群れて飛ぶ幾羽の鳥の
一羽だけおくれるような

これしか記憶していないのです。
どなたかこの詩の題や作者を、教えてくださいませんか?


2006年10月1日(日曜日)

永訣の朝

カテゴリー: - kawamura @ 08時28分26秒

きょうは、宮沢賢治の「無声慟哭」から。

永訣の朝

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆじゅとてちてけんじゃ)※

うすあかくいっさう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる

(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした

(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる

ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ

ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから

(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ

銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる

わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう

わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ

(Ora Orade Shitori egumo)※

ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ

あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ

この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ

あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ

(うまれでくるたて
 こんどはこたにわりやのごとばかりで
 くるしまなあよにうまれてくる)※

おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

     註
     ※あめゆきとってきてください
     ※あたしはあたしでひとりいきます
     ※またひとにうまれてくるときは
      こんなにじぶんのことばかりで
      くるしまないやうにうまれてきます


2006年9月29日(金曜日)

八木重吉

カテゴリー: - kawamura @ 05時46分40秒

八木重吉の詩ばかり思いだされます。

おほぞらの こころ

わたしよ わたしよ
白鳥となり
らんらんと 透きとほつて
おほぞらを かけり
おほぞらの うるわしいこころに ながれよう

母の瞳
 
ゆふぐれ
瞳をひらけば
ふるさとの母うへもまた
とほくひとみをひらきたまひて
かわゆきものよといひたまふここちするなり

秋のこころ

水のおとが きこえる
水の音のあたりに胸をひたしてゆくと
ながされてゆくと
うつくしい世界がうっとりとあかるんでくる

雨のおとがきこえる
雨がふってゐたのだ
 
あのおとのようにそっと世のためにはたらいてゐよう
雨があがるようにしづかに死んでゆこう


2006年9月27日(水曜日)

文体

カテゴリー: - kawamura @ 09時34分10秒

小説の文体が好きなのか、そこに書かれている内容が好きなのか、と問うのはあまり意味がないように思います。
文体はあとからついてくるもので、作家たちかそれぞれ書こうとするもの、それは歴史であり、幻想であり、生命を活写することであったりしますが、
それらは単に題材にすぎず、彼らが本当に表現しようとするものはそのむこうにあるのです。

さまざまな楽器が、それぞれのかなでる音色はちがうように、そしてどの楽器にせよながれる旋律はかわらぬように、
文体のちがいというのは、作家たちがあらわそうとするあのもの、それは普遍とも無常とも神ともよばれるあのもの、
その表しえぬものへ到る道のちがいにすぎないのです。

ひとりは急峻な雪渓の道をえらび、ひとりは雲雀の鳴くなだらかな道をえらぶとしても、彼らがみな仰ぎみるのは、
あの崇高にして表しえぬものの荘厳な頂(いただき)です。


2006年9月26日(火曜日)

「神田川」

カテゴリー: - kawamura @ 08時32分20秒

私は昭和26年3月生なので、学校での学年は昭和25年生まれのひとたちと同じです。
団塊の世代といわれる最後のころで、よく知られているように激しい青春をすごしました。
角材をふるって機動隊と闘う学生の姿が、学内にあふれていたころのことです。

校門のあたりでパトカーがひっくり返って燃えていました。
それが日常茶飯の出来事でした。

私は学生運動からは一歩はなれて、しかしそれ以上に彼らに負けじと、激越な文学活動や思索にふけっていました。

テレビやラジオから「神田川」が流れてきたのはそのころのことです。
あの歌は若者たちがさかんに歌っていたのに、いま聞いてみるとそれは青春を追想する歌なのです。

故郷からはなれてひとり立ちしたばかりの男女が、都会のかたすみで不安なこころをかかえながら出会って、
ぎこちないけれど純粋な恋にめぐりあい、おたがいになれない仕草で愛しあうのだけれど、
ささいなことで別れてしまう。
その別れたひとを、さりげないふうをよそおって追想する切なさ。

私には経験のないことでした。
誰もそれを信じようとしないのですが、(誰も信じてくれなくていいけれど(笑))
学生時代の私は女性を知りませんでした。
小説でははげしい男女のなかを描くのに、個人的にはすべてがプラトニックな恋でしたから、女性に触れたことがないのです。
私の部屋にあそびに来たり、夜通しふたりきりで話した女性はいましたけれど、
あるいは美しい同級生から「いっしょにならない?」と言われたことはありましたけれど、
私はとてもおくてでしたからそういう関係にはなりませんでした。
いまでも憶えています。
公園の水銀灯のあかりをあびて、すこし小柄なその女性の、くちびるのはしを噛んでいた清楚な横顔を、
忘れることはありません。

でも、くわしく書くことはやめましょう。妻が横にいますので(笑)。
(もうすこし聞きたいですか?(笑))

男女の関係のある恋をしてみたいと、学生のころにはだれしも思うでしょう。
でも、おそらくほとんどの学生は、私と同じ思いで「神田川」をきいていたのではないでしょうか。
いまの学生はどうなのでしょう?

私たち団塊の世代のおじさんたちは、おそらくは夢にみてかなえられなかった若者のころの恋の歌を、
くやしさとせつなさとあこがれをもって、声を張りあげて歌うのです。
それがかなえられぬ青春であったから、かえらぬ青春へ回帰しようとする想いが純化したときに、
追憶の遠くからあの歌がきこえてくるのです。

(「つま恋コンサート」のお話しはまたあした)


2006年9月24日(日曜日)

熊っ!

カテゴリー: - kawamura @ 09時20分11秒

昨日正午すぎのことです。突然放送がありました。

「こちらは広報島田、しまだです。
志戸呂地区で熊と思われる体長160センチほどの動物を見かけたという情報があり、
 足跡を調べたところ、熊と思われます。
市民の皆さまには、充分お気をつけ下さい」

さらに夕刻には地域の連絡網を通じて、夜間の外出をひかえるよう呼びかけがありました。
熊が出た、というのは55才の私にも生まれてはじめてのことです。
両親や祖父母からも聞いたことがありません。

今年は奥山のブナの実が少ないようです。
天候異変の影響なのでしょうか。
すべてをそこへ結びつける安易な文明批判のようなことを私は好みませんが、
なにかしら熊をとりまく環境に変化があったことは確かでしょう。

テレビで、捕獲されておびえている小熊の目をみたとき、殺さずに山へかえすとは聞きましたが、
ふと高村光太郎の駝鳥の詩を思いおこしました。
いつもの秋のように、冬眠をまえにして充分な木の実を食べられず、おなかをすかせた熊たちが飢えをしのぐために、
あるいは我が子を生きのびさせようとして危険な里におりてくるのは、彼らとしても本意ではないでしょう。

「きれいごとを言うな!熊のまえに命をさらして捕獲するのは、猟友会であり市の職員なんだぞ!」
としかられそうです。
その通りで、私たちが危険にさらされるのは困ります。
とくに、私自身が殺されてはたまりません(笑)。

つまるところ私たちつよい人間が、イノシシや熊を銃で撃ち殺すしか道はないのでしょうか。
もしそうだとしたら、殺された彼らの姿をみて、せめて慈愛の心をもつひととして、
そこにこの世の不条理、動物の命を絶ちながら生きる我らの実相を凝視してほしいとは思います。

(といいながらさきほど私はサンマの塩焼きを食べました。おいしかった・・・)


2006年9月22日(金曜日)

生きていること

カテゴリー: - kawamura @ 07時55分59秒

あの秋空のむこうに、まっ暗な宇宙がひろがっています。

無辺の宇宙のなかから、どういうわけか物質が生まれ、やがてそれが星になってゆたかな水をたたえた地球になるまで、
どれほどの時間が経ったのでしょう。

そしてその奇跡のような気圏と海との調和のなかから、どういうわけか生命が生まれ、やがてそれが細胞になってゆたかな種を誇る動物に進化するまでには、
どれほどの時を要したのでしょう。

そしてその不可思議な生命体のなかから、どういうわけか意識が生まれ、やがて大きな脳をもつ人間にいたってゆたかなこころが生む文明を謳歌するまでにさえ、500万年の時がながれました。

広大な宇宙空間と無窮の時のながれの果てに生まれた私たち人類が、無数の奇跡のつみかさねのうえに立っていることを、
感ぜずにはいられません。

それほど意識をもつとは不思議なことで、ひととして生きていることはそれだけでもすばらしいことなのです。

修証義の中に「生死の中の善生最勝の生なるべし」とあらわされているのがまさにそれです。

よろこびのクオリアも悲しみのクオリアも、この奇跡の存在、ひとであればこそ堪能できるのです。

私はいま、九月の朝日をあびて、緑の谷間をながめながらこれを書くことのできる幸せに、酔うようです。


2006年9月21日(木曜日)

いい話

カテゴリー: - kawamura @ 22時49分03秒

今日も『こころの処方箋』(河合隼雄著)から引用します。

「何人かの人が漁船で海釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。
 あわてて帰りかけたが潮の流れが変わったのか混乱してしまって、方角がわからなくなり、
 そのうち暗闇になってしまい、都合の悪いことに月も出ない。
 必死しなって灯(たいまつだったか?)をかかげて方角を知ろうとするが見当がつかない。

 そのうち、一同のなかの智慧のある人が、灯を消せと言う、
 不思議に思いつつ気迫におされて消してしまうと、あたりは真の闇である。

 しかし、目がだんだんとなれてくると、まったくの闇と思っていたのに、
 遠くの方に浜の町の明りのために、そちらの方が、ぼうーと明るく見えてきた。
 そこで帰るべき方角がわかり無事に帰ってきた、というのである」

クオリアへ到る道も、このような逆転の発想によって見えてくるのかもしれません。


2006年9月20日(水曜日)

『こころの処方箋』

カテゴリー: - kawamura @ 16時45分40秒

河合隼雄(文化庁長官)の『こころの処方箋』に、権力についてこのように書かれています。

「始末が悪いと言うものの、日本にはこのようなタイプの権力者が多いように思われる。
 たとえば、学校の教師で、
『自分は、生徒たちとまったく同等の立場で生きている』などと言う人がある。

 そのような人には私は、
『まったく同等でしたら、あなたも授業料を払って下さい』と言うことにしている。
 生徒が授業料を払い、自分は月給を貰っていながら、
『まったく同等』などと言うのはごまかしである」

この「始末が悪い」教師が、
教師として採用されて給料を貰っていながら『生徒たちとまったく同等』とうそぶくなら、
即刻教師を辞めて生徒になるべき、というのはもっともなことです。
生徒にならないまでも、自ら教師の資格はないといっているのですから、
素直に辞めるべきだろうという河合隼夫氏の意見に、私も賛成します。

その理由は、このように書かれています。

「日本人は自分が権力者であることをあからさまに認めるのを嫌がる傾向が強い。
 もっとも、ひそかに権力者になりたがっている人は多いのだが。
権力者であることを認めたがらないひとつの大きい要因は、
それがそれ相応の孤独を必要とするからである、と思われる。

権力者であることを認めるためには、
権力のあるものと権力のないものとの間に明確な区別があることを認めなければならない。
従って、両者は簡単に『同等』にはなれない。
 
  権力者は他と区別された者としての孤独に耐える力を持たねばならない。
  孤独に耐える力と、権力者としての責任感の強さとは比例するものである」

さらにこのように述べています。

「孤独に耐える力のある人は、団子のようにひとつにかたまる人間関係ではなく、
  権力のある者(教師)とない者(生徒)との区別を明らかにしつつ、
  人間としては適切な関係を維持することができるはずである」

まったく同感で、私自身も肝に銘じたいと思います。

特に、
「孤独に耐える力と、権力者としての責任感の強さとは比例するものである」
という一節こそ、重要のように思います。


2006年9月15日(金曜日)

『人生論』

カテゴリー: - kawamura @ 11時01分48秒

トルストイの『人生論』を久しぶりに読みかえしてみて、その予見性にいまさらながら驚かされます。
『生命について』とも云うべき、このトルストイ晩年の著作は、クオリアを考える人々にとっても今日的な示唆に富んでいます。

「どのようにして無機物から有機物が順応を通じて生まれてくるかも明らかなら、
 どのようにして物理エネルギーが感情や意志や思考に移行してゆくかも明らかであり、
 そうしたことがすべて、中学生といわず、田舎の小学生にさえわかっているとしよう。

 これこれの考えや感情はこれこれの運動から生ずるということが、わたしにもわかっているとしよう。
 で、それがどうだというのか?
 私は、自分のうちにあれこれの考えをよび起こすのに、それらの運動を支配できるのだろうか、
 できないのだろうか?
 わたしが自分や他人のうちにどのような考えや感情をかきたてなければならぬかという問題は、
 解決されぬばかりか、手つかずのまま残されているのである」


2006年9月14日(木曜日)

ロータリー奨学生

カテゴリー: - kawamura @ 09時20分50秒

島田ロータリークラブの奨学生としてパリへ留学していた大学生のお話が、とても印象的でした。
私も三十年ほどまえの大学生活を思いおこしながら、なつかしくその女性の話に聞き入ってしまいました。

ソルボンヌだったと思いますが、その女性は仏文学を学んできたようで、
三十分ほどの報告講演が終わったあとに、ほんのすこしだけその女性と立ち話をすると、
私にもなじみのある小説家の名前を聞くことができました。

私たちの学生生活も、朝八時半から講義がはじまり、昼食を三十分はさんで、
夜は十時ごろまで実験とレポートの作成におわれ、予復習は深夜にまで及んでいたものでしたが、
その女性のお話を聞いて、今も昔もかわらぬものだという安心感がありました。

ひとつのことを集中して学べるのは学生時代しかありません。
普遍はひとつの特殊のなかにある、この言葉は茂木先生の序文のなかに書かれています。
ひとつのことを深く学べば、そこに内在する真理はフラクタルのように、万事に通じるのです。


2006年9月12日(火曜日)

『フェルマーの最終定理』読了

カテゴリー: - kawamura @ 07時32分21秒

『フェルマーの最終定理』を読了しました。

すこし夜更かししてしまいましたので、
ブログはまたあした。


2006年9月11日(月曜日)

健康診断

カテゴリー: - kawamura @ 07時19分44秒

健康診断にいまから行ってきます。
50歳も半ばをこえると、すこしは身体に気をつける必要もあるようです。
会社勤めをしていれば定年まであと4年、そろそろ第2の人生の扉がちかづいてくる時期です。

父は享年64歳、母は69歳でした。
私もそのどちらかで他界することになるのかもしれません。
父の享年64歳まで、残すところ10年を切ってしまいました。
しかし寿命は神のみぞ知ることで、思いわずらうことではありません。
ただただひたむきに生きるだけです。

やがて神のみまえに立たされたとき、天地に恥じない清らかなこころで、
まっすぐに神を見られるように生きようと思います。

きょうはさわやかな秋の朝、八木重吉の詩が思いだされます。


2006年9月10日(日曜日)

『フェルマーの最終定理』

カテゴリー: - kawamura @ 08時06分42秒

かねてからサイモン・シンの『フェルマーの最終定理』を読みたいと思っていました。
別の本(『数学者たちが挑んだ最大の難問』エミール・D・アクゼル)でこの内容は読んでいましたが、
シンの本は有名で、いろんな著書に紹介されています。それを文庫本で手にいれたのです。

読みはじめたばかりの『意識の探求』と同時並行で読むことになりそうですけれど、
もっとも『意識の探求』にくらべてシンの本の方が紙数が少ないから、先に読みおえてしまうでしょう。

私はまえにも何度か述べましたが、「数学は脳の認識様式を確認すること」と考えています。
1000億の脳細胞の結合様式はその基本構造をDNAに依存していて、
人間に共通なその世界認識の手法が数学であろうと考えていますけれど、間違っているのかもしれません。

つまり数学定理の発見は「隠された神の真理を発見する」というのではなく、
「脳内に隠された論理構造を発見する」ことだろうと考えているのです。

インドの一介の港湾局事務員ラマヌジャンが、当時世界数学界の最高峰のひとりG・H・ハーディの前に、
毎朝いくつもの公式を見せて、その式がどのようにして生まれたのかはラマヌジャン自身も理解できないから、
ハーディが友人の数学者と協力しながら、ひとつひとつその定理を証明していったという話は、
ガロアやガウスなどの逸話と同様大好きなもののひとつです。

天才たちの胸に突如としてうかびあがる美しい定理、その神秘は人々を酔わせます。


2006年9月8日(金曜日)

「博士の愛した数式」

カテゴリー: - kawamura @ 09時15分11秒

この博士の夢のような生活をささえている義理の姉、
さらにいえば実のお兄さんのことをもっと知りたいと思います。
なぜって、ひとりの人間が衣食住にこまらぬだけの原資をつむぎだすのには、たいへんな努力がいるからです。
両親をはやく亡くしたあと、実の兄が苦労して工場を経営してひとまわり年下の弟のために学費を出し、
ケンブリッジ大学にまで留学させて数学の勉強を続けられるようにしてくれたというのは、並大抵のことではありません。

その兄は、博士が大学の研究所に職を得た矢先に、急性肝炎で死んでしまいます。
そのあと、工場の跡地にマンションを建ててその家賃収入で暮らしはじめるというのですが、
つまりは未亡人も博士も、兄が苦労して築いた遺産を食いつぶしているだけのことです。

博士のひとまわり年上のお兄さんには、夢はなかったのでしょうか。
私の身近にも、このような例をよく聞きます。
そうして、文化財の維持管理に日々おわれて、草むしりをして暮らしている私などから見ると、
博士にこのような生活を遺してやれたお兄さんの偉大さを尊敬してしまうのです。
お兄さんの人生はこの博士のように美しい物語にはならなかったのかもしれませんが、
私は、博士の衣食住にかまわず生きられる人生にかすかな嫉妬をおぼえながら、
お兄さんの人生にこそ価値を感じるのです。

(でも、くやしいけど、おもしろかった)


2006年9月7日(木曜日)

今日も大学

カテゴリー: - kawamura @ 01時32分33秒

今日も名古屋の大学です。
5時半に起きて、午前8時半に大学に着きます。
講義は9時半からですが、なにごとにせよ、仕事をするときは1時間前につくようにしています。
途中でなにが起きるかわからないし、講義を始めるまえに、あわてたくありませんので。

あと4時間は眠れそうです。

ブログはまたあした。


2006年9月6日(水曜日)

月明

カテゴリー: - kawamura @ 10時02分55秒

月の明るいよるには、きまって、ふるい主屋で寝ることにしています。
谷間のものおとはすっかり消えて、しんしんと月あかりのふる音だけがきこえるようです。
あおくけむる月明の庭をながめていると、闇とみえるところがいくつかの光の粒子によって、
グラデーションのように染めわけられているのに気づきます。
白銀の光景からうすあおい闇との端ざかいをたどって、しだいにその色をふかめてゆく途中に、
わずかにむらさきやあおむらさきのようにみえるところがあります。
それはふかい森へつづく数本の木立の陰だったり、おおきな銀杏の木の陰翳だったりします。

すこし肌寒さを感じて引き戸を閉めて見る前庭の多羅葉の木かげも、窓硝子ごしにみるせいかすこしむらさきがかってみえるのです。
硝子板はふるい時代のものですから、すこしゆがんだりところどころに筋のような気泡がはいっていて、
それが月をあびると、虹のようにぼうっとかがやきます。
硝子がふくんでいる不純物のせいで、妖しい色あいをおびてみえるのかもしれません。

家のなかの灯りをすっかり消して、月あかりがくっきりと畳をてらし、
そこへ柱の落とすあざやかな黒いかげとの明暗の対比をたのしみます。
奥座敷のかげのなかには、なつかしい父や母が立っています。
ふたりはやさしく微笑み、つかれ果てた私をはげまして、いやしてさえくれるようです。

月の明るい夜に私が主屋で寝るのは、かすかな月の音楽のなかで、両親や祖父母に会えるからかもしれません。


2006年9月5日(火曜日)

大学

カテゴリー: - kawamura @ 05時47分02秒

今日は名古屋の大学で、9時半から、午前2コマ、午後2コマの集中講義です。
6:23金谷発の電車で、いまから行ってまいります。

帰宅後にブログを書こうと思っています。


2006年9月4日(月曜日)

会話

カテゴリー: - kawamura @ 07時36分26秒

昨夜はひさびさにH医師とお会いして、一時間ほど雑談をたのしみました。
H医師とはそのお店でよくお会いするのです。
波長があうひととそうでないひとがいるもので、
とくにH医師は、私にとってとてもしっくりくるひとのひとりです。

きのうは江戸時代の文化やひとの人格才能の話で盛りあがりました。
歴史科学文学医学など、快刀乱麻の語り口で、そのテンポが私にはこころよく思えるのかもしれません。
私もひとつところにとどまらず、矢継ぎ早に話題をくり出しながら、多くの領域を渉猟するのが大好きです。
(いま窓のそとをキジがあるいています)

酒のうえの会話ですから、ひとつのことをじっくりと深くというのはどうも合いません。
さまざまの思考の断片をきらめかせながら、相互の世界観を立ちあげてゆくというのがたのしいのです。
そのスピードと、飛び交う矢羽根の色あいが冴えて美しいほどその会話はたのしめます。

初秋の胸おどる夕刻でした。

(キジは梅林に消え、あたりいちめんが朝陽をあびて輝いています)


2006年9月3日(日曜日)

クオリア

カテゴリー: - kawamura @ 09時41分04秒

それは表現することのできないものですから、あえて語ろうとすると、正確に言えばそれは嘘になります。
それでもひとはそれを言い表すしかないから、すこしずつ嘘をつみかさねながら日々を生きているのです。
しかもいちど言葉にしてしまうと、それを聞いた相手の心に、あるいは自分のこころにも、あるはっきりした色水玉のようなクオリアを生みます。
クオリアはあきらかに主観的な体験なのに、それを言葉にすると、あたらしい別のクオリアとなって他者のこころに伝播し、やがて押しかえすその波は自分のこころをも波だたせます。
クオリアは物質ではないように思えますから(これはまだはっきりとはわかっていません)科学の手法でそれをとらえることはできないように思います。
でも太古から脈々とつづくこの生命のふしぎが、ワトソン、クリックによって、ある日見事に解き明かされたことを思うと、意識を生むクオリアの謎も、ひとりの天才によってあざやかに解明される日がくるのかもしれません。

ということで、『意識の探求』(クリストフ・コッホ)を読みはじめました。
序文は、フランシス・クリックが書いています。


2006年9月2日(土曜日)

「世界の名著」

カテゴリー: - kawamura @ 08時59分05秒

私にとっていちばんたいせつなことを、もういちど考えなおして、まとめてみたいと思っています。

それで、小説だけでなく若年の日に読んだ哲学の本も読みかえそうとして、
「BOOKS ZEN」さんに、中央公論の「世界の名著」の復刻版を注文したのですが、
八方手をつくしていただいたのに手に入りません。

実は中央公論の「世界の名著」の、あの赤箱入りの本は、いまでも全巻我が家の古い家に置いてあるのです。
なぜそれを新しい家へ持ってこないのかというと、すっかりカビてしまって、
マスクでもつけなければとても読めたものではないし、
それに新しい家へ移した古文書にカビがうつってしまうのを恐れたからでもあります。
私は仕事がら喉が弱くて、ホコリやカビに敏感なものですから、
ハードカバーのなつかしい本なのですが、泣く泣くあきらめました。

「世界の名著」は、私が中学生のころに発刊されてから、父が毎月定期購入してそろえたもので、
全巻完結したのは大学生のころだったと思います。
谷間の村で、ほかに娯楽もなかったものですから、毎日ちらほらひろい読みをしていましたが、
とくに熱心に読んだ本が数冊あったように記憶しています。

もう三十年以上まえのことです。

きのう書いたように、少年期から親しんだ小説の内容とおなじように、
哲学書の内容もすっかり忘れてしまいましたが、
いちばん大切なものは、おそらく私のこころの地層深くに、化石となって眠っているのでしょう。
これから数年かけて、ゆっくりとそれを掘り起こしてみようと思います。


2006年9月1日(金曜日)

『白鯨』

カテゴリー: - kawamura @ 10時56分23秒

講習期間中に、メルヴィルの『白鯨』を、岩波文庫の全三冊もので読みました。
40年ほどまえに読んだ抄訳ではなく、完訳本でしたから、
記憶とはまるでちがう小説のように思えて、新鮮で、むさぼるように読みました。

もう一度、昔読んだ本のなかから印象に残った名作だけを読みかえそうと思っています。
一度しかない人生ですから、まだ頭のはたらくうちに、名作をじっくりと味わっておきたいのです。

私のうちに眠っているいくつもの記憶が、もういちど眠りをさまされるのをまっているようです。
ひとつひとつの本の表題などはほとんど忘れてしまったのに、その印象は鮮やかに思い起こせます。
主人公や登場人物の名前さえ忘れはてても、その情念はよみがえってくるのです。

本の内容といってもそれは筋書きのことではなく、情念といっても恋愛感情のことなどをいうのではありません。

それは表現不能の、まさにクオリアというに他ならないものです。

たとえば私はいま『嵐が丘』を読みかえしていますが、少年期に読んだその記憶は、
強く、深く、昏く、ひとのこころの奥底に濃藍の闇がながれるような、恐ろしく、哀しい世界、
そのようなクオリアのみが残っていたのです。
ヒースクリフの名前さえ忘れていました。
40年の歳月を経ると、小説の骨格などはすべて洗いながされてしまって、
強烈なクオリアだけが記憶の底に暗く輝いていたのです。

これは実際に読んだひとにしかわからないものです。
そして、このクオリアを感じることこそが、生きている証しではないでしょうか。

『嵐が丘』「E.ブロンテ」「ヒースクリフ」「性格小説」などと暗記しても、何の意味もありません。
人と話すとき、
「『嵐が丘』よんだ?」
「ああ、E.ブロンテのヒースクリフがでるやつだろ」
とか、さも訳知りげに答えることはできても、それはさみしい人生です。
考えてもみてください。
「『白鯨』って、片脚のエイハブ船長が、でっかい白鯨を追いかける話だろっ」
まあたしかにそうですが、なんとも哀しく、滑稽な姿だと思いませんか。

りんごの皮一枚を見て語るだけで、その味を知らずにいる人生など、私には全く味気ないものに思えます。
りんごを噛みしめて味わうこと、名作を読み、名画や名曲にふれることが、私にとって生きることと等価です。
たった一度しかない人生なのですから。


2006年7月19日(水曜日)

小説を読むこと(3)

カテゴリー: - kawamura @ 06時04分39秒

蒼天のクオリア』を書くとき、私が書こうとしたものはこのようなものでした。
それはうす蒼く、透明な方解石、
もっとちぢめていえば、蒼い結晶の悲しさを書きたかったのです。
しかもそれはやや、やわらかく、つめたいというほどではない青さです。
すこし叙情的にすぎるのかもしれませんが、生きている哀しみの青をイメージして書いたのです。

作品を書くとき最も重要なことは、本居宣長のいう「古言のふり」なのだろうと思います。
それは文章の間合いのことで、ひとそれぞれに呼吸や鼓動がちがうように、
おそらくものを考えるときの言葉や思考のリズムも、それぞれ固有のものなのだろうと思います。

思いうかべてみてください。紫式部の文章と、漱石の文章と、谷崎や堀辰雄や中島敦の文体とは、
それぞれ明白に異なっていて、それは彼らの思考の様式をも表しています。
そうしてそれを積み重ねたところにあらわれる作品は、実際に語られている物語の筋道とはべつに、
(思想などという低次のものではなく)
作者独自のいのちの脈動をつたえているように思えるのです。

言葉で具体的に語られることなど瑣末のことで、
小説を読むとき読者がそれと知らずに感じているものは、この思考のリズム、
ひとそれぞれが宇宙から体感するいのちのリズムのように思います。

自分が世界と向きあうときに自然にとる間合い、
宇宙のリズムをとらえようとする呼吸が同じ作家にめぐり会ったときには、
自らの脳を永遠に閉じこめている頭蓋がひらいてゆくような、
孤独からの開放感を味わうのでしょう。
ながく異境をさまよっていた己と再会したときのような、
自己が何者であるのかをはじめて知りえたような、ふかい安堵を感じるのかもしれません。

私はまだ自身のリズムをとらえてはいません。
それをとらえられたときはじめて、宇宙にみちている蒼い音楽を透明な物語の器に盛って、
みなさまに味わっていただくことができるように思います。


2006年7月15日(土曜日)

小説を読むこと(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時21分03秒

いまからお話しすることは、おそらくどなたも聞いたことのないような説なのだろうと思います。
どうしてそのようなことを考えたのかと申しますと、それは無数の小説を読んでいくうちに、
いくつかのふしぎな小説の一群に出あったからなのです。

それらの小説は、読みはじめてから読み終わるまで、そうして読み終わったあとも、
とりたてて特別ななにかがのこるというのではないのです。
思いもしない物語の展開に飲みこまれるように読みすすんでゆくというのでもなく、
あたらしい知見を得られたというのでもなく、
異性の繊細なこころのひだ深くに、
あたかも自身が異性と化してそれにふれることができたというのでもないのです。

おそらくみなさんにもそのような経験がおありだと思うのですが、
読んでいるうちも、読み終わってからも、
森の奥の、つめたい谷水を掬って飲みほしたときのようなさわやかな印象、
生命がしずかに覚醒するような爽快感を味わったことはありませんでしょうか。

それは手の込んだ料理を食べたというのではなく、
とてもシンプルな飲み物にすぎないのだけれども、
すんなりと喉をおちるとそのまま全身にしみわたって栄養となるような作品。

過去の幾多の天才たちの作品のなかに、
きっとひとりひとりにふさわしいそのような作品があるはずなのです。
ふさわしいというのは、しっくりくる、あるいは無理なく自分と同化できるという意味です。

それでは、何が書かれているというのでもないそれらの小説が、
私になにをもたらしたというのでしょうか。

つづきはまたあした。


2006年7月14日(金曜日)

小説を読むこと

カテゴリー: - kawamura @ 06時24分51秒

mixiのサイトに、ちかごろは小説を読むひとがめっきりすくなくなった、と書かれていました。

その理由として、小説はウソだから、小説よりも現実のほうがおもしろいから、
などといくつかの意見が出されていました。

しかしそういうひとたちもテレビドラマは見るようだし、もちろんゲームもさかんにやっているようです。
ですから、単に小説はウソだから読まない、現実のほうがおもしろいから読まない、
ということでもないようです。
本をひらいて、一字一字、一句一句読んでいくのがおっくうなのでしょうか。

これは私論ですが、すぐれた小説を読むというのは、
その虚構をたのしむところにその本質があるのではありません。
たとえば『ダヴィンチ・コード』のような本は、まさに虚構をたのしむ本なのですが、
はたしてこの本が百年後にも名作として読みつがれているでしょうか。

それでは、世代をこえて読みつがれる小説とは、どのようなものなのでしょうか。
そうして、時代に左右されないそれらの小説がもつ魅力とは何なのでしょうか。

よく言われることは、ひとの人生は一度しか実体験できないから、
さまざまな小説中の人生を疑似体験することで、いくつもの人生を味わうことができる、
それによって、原理的に知りえない他人のこころを垣間見ることができる、というとらえかたです。
これも一理あるように思います。

たしかに過去の天才たちが、現実よりもリアルにえがく小説中の人物と一体化して、
驚き、憧れ、憎み、嘆きながら、
原理的に知りえない他者のこころをまざまざと体感することによって、
自分をとりまくひとびとへの思いやりのこころが生まれるというのもうなずけます。

読者自身がかかえている悲しみや呪詛よりも、
はるかに深い呪いの沼に落ちてもがき苦しむ作中人物が、
あるとき、なにげない言葉や、ありふれた体験をきっかけに、
ひとすじの救いの道を見いだしてゆくというような物語を読むことは、
自身が経験することのできない無数の人生がこの世にあることを、
私たちの限りある人生、またたくまに終わる人生のなかで、
深く味わうことのできる唯一の方法でもあるように思います。

それでは、小説を読む意味とは、
知りえない知識を身につけること、
あるいは人生への別の視点を得ること、
それによって、他者のこころへの深い理解が育まれること、
そのようなことにのみ本義があるのでしょうか。

つきつめていえば、原理的に知りえないことを体感するためにのみ読むのでしょうか。

実は、私はそうは思わないのです。

つづきはまたあした。


2006年7月7日(金曜日)

草の実のてっぽう

カテゴリー: - kawamura @ 05時21分00秒

ぼんやりと考えごとをしているうちに、窓のそとはあかるくなりました。
道路ぞいの灯りが、それはまわりの明るさでスイッチが入ったり消えたりするのですが、
ちょうどその端ざかいのときで、蛍光灯がついたり消えたりをくりかえしながら、
やがてまわりがすっかりあかるくなって、
ついには消えてしまうところをはじめて見ることができました。
それは夜明けと夕暮れどきにほんの一瞬おとずれるあの蒼いひとときのことです。

いつも窓辺で日記を書くのですが、しだいにあかるんでくる草原をながめているうちに、
草の実のてっぽうを思いだしました。

直径1センチほどのほそい竹の筒に、一方から青い草の実をつめて、
もう一方からもうひとつの草の実をつめ、それを竹の棒でおしこむと、
ぱん、と音をたてて、竹の筒のさきから草の実が飛び出すという、
あれのことです。

青い草の実の名まえも忘れました。
それは田んぼのあぜ道にいっぱいなっていて、草の実のふさは、
20センチほどの長さのほそい葉でおおわれていました。

てっぽうの片方からは唾でしめらせた紙をつめたのかもしれません。
あまりにも遠い記憶で、おぼろな断片しか思いだせないのです。

ただ、幼いころ、友だちと野山をかけめぐりながら、そんな遊びをしたのを、
しだいに空が明るんで、朝やけの雲がたなびくのをながめながら、
指さきを青くそめた草の実のしるのにおいとともに、思いだしたのです。

そのとき、草の実を空の鳥にむかって撃ちながら、
私のほうをむいてなにかを話しかけてくる友だちの声がしました。
先日、車に火をかけて焼身自殺したあの友だちの声が、
記憶のとおくから聞こえてくるような気がしたのです。


2006年7月1日(土曜日)

ひとり身

カテゴリー: - kawamura @ 09時41分14秒

妻が、伊豆へ旅行に行きました。
彼女の両親と一緒に、親孝行の旅です。

私は森の奥で竹を伐りながら、ひとり、ヴィターリを聴いています。

緑ゆたかな谷間をわたる風に、グラジオラスの花がゆれています。

旋律が、さまざまな記憶をよびさまします。
母の声も、父の声も、風のむこうから絹糸のようにかすかに聞こえてきます。

ひとはそれぞれの思い出のなかに生きるのです。
たとえいまはうしなわれたものたちも、
私のこころのなかにあざやかに生きています。
それらはすこし青い陰翳をともなって、
顔の輪郭はゆれてはいるけれど、
なつかしい彼らであることはたしかです。

いつかはそれも忘れてしまうのでしょうか。
この風とともに、すべては忘却の空のむこうへきえてゆくのでしょうか。

それを追って、父母のもとへ行ける日がくるのでしょうか。

そうして、私のこの日記を、いつか娘たちは、
おなじような想いで読むのでしょうか。
私自身が、娘たちの胸のなかで、青くゆれるまぼろしになる日がくるのでしょうか。

切ない糸をふるわせるように、初夏の風がふきすぎてゆきます。

(ゲジゲジ眉毛のナルちゃんでした。
 それもこれも、美しい旋律のせいなのです。ハイ)


2006年6月30日(金曜日)

容貌

カテゴリー: - kawamura @ 07時31分56秒

もう十年も昔のことだけれども、
塾の生徒に目つきのするどい少女がいて、私もすこしおそれていました。
なぜって、眉毛も目じりもつりあがっていて、にらまれたら膝がふるえるような相貌でしたから。

それは授業中のことですから、私も気のよわさをあからさまにするわけにもいきませんので、
それにまけじと、ぐっとにらむような感じでその子を見ていたのかもしれません。

やがてその子が高校生になって、数学の質問をたびたびうけるようになりました。
というのも、高校数学はきゅうに難しくなるものですから、
はじめはだれもなかなか理解できないのです。
なんどもその子の質問をうけているうちに、
その子の性格が、とてもおちゃめなことを知りました。

するどい目つきで私をにらんだまま、かわいい少女らしいことを言うのです。
最初はなんだかからかわれているような気がしました。
かわいらしさをよそおって、そうしてそれを少女自身も自覚していて、
すこし自嘲気味に天真爛漫なことを言っているのかと思いました。

でもそうではなかったのです。
その子はほんとうに愛くるしいような、幼さのすこしのこるおちゃめな性格だったのです。

気のよわい、かすかな風にも身をふるわせるひなげしの花のようなこころの私ですから、
その少女の天性のやさしさは自然につたわってきました。
そのうち、目のつりあがった少女の容貌も気にならなくなりました。
むしろその子の愛らしさがこころにしみわたってきて、
私もとけるようなやさしい気もちでうけこたえしていました。

あるとき、「先生、わたしをきらいだら?」とその少女に言われて、
思わず「どうして?」と聞きかえしてしまいました。
「だっていつもにらんでくるじゃん」

数学の質問のあいまにさりげなく席を立って、
手洗いの鏡のまえに立ちました。

そこには、太い眉毛の下に、目じりの吊り上がった、
いかにも恐ろしいおじさんの顔がうつっていたのです。


2006年6月28日(水曜日)

恋愛

カテゴリー: - kawamura @ 06時57分06秒

ちかごろこころのつやをうしなったように思えて、
はるか昔読んだ恋愛小説を手あたりしだいに読みかえしています。
おどろくことに、若いときに読んだ読み方とはまったくちがうとらえかたで、
まるで別の小説を読んでいるかのようです。

若年の日にはじめてひらいた恋愛小説のかがやきは、
まだ見ぬものへのあこがれのように、かぐわしく、ときめきにみちた絵巻でした。
主人公の悲しみさえ、いきいきときらめいて見えたものです。
しかしこの年になってそれを読むと、ひとりひとりの登場人物が、
それぞれの苦悩に彩られ、深い陰翳をともなって立ちあらわれてくるのです。

青春のみずみずしい感性はすでにうしなわれましたが、そのかわり、
さまざまな経験をつんだおかげで、
それまでは気にもとめなかった人物のこころの闇までも見えるようになったのです。

しばらくフランス文学あたりをさまよってみます。

なにかおすすめの小説がありましたら、ぜひお教えください。


2006年6月21日(水曜日)

『ケプラー予想』

カテゴリー: - kawamura @ 07時41分09秒

『ケプラー予想』を読んでいます。

こういう本が大好きなのです。
推理小説より、『ダヴィンチ・コード』より、ずっとおもしろいのです。
なぜって、それこそ数学的真理へいたる道を見いだすために、
そのときどきの天才たちが、ひとつひとつ謎解きしながら、
何世紀もかけて、ついに真理の聖杯にたどりつくという物語だからです。

『二重らせん』や『ソロモンの指環』『フェルマーの最終定理』などに匹敵するおもしろさで、
二・三日たのしめそうです。

キリスト教では、神が自らの姿に似せて人間をつくったとしていますが、
それはさかさまで、人間が自らの姿に似せて神をつくったのでしょう。

ところが仏教の始源はそのようなものではなく、
先日も書いたことですが、
すでに透徹した智慧はこの宇宙の不可知を見ぬいていました。
西洋哲学者のなかでそこに近づきえたのはヴィトゲンシュタインぐらいなものでしょうか。

しかし東洋にとって、それがもっとも大きな不幸でした。

ひとに似た神の仕掛けたパズルなら、人間にも解けるかもしれないと希望をいだくのと、
本来世界は言葉によって表現しえないとあきらめるのとでは、
二千年のあいだに大きな隔たりができてしまいました。

しかしよく考えてみれば、それはキリスト教徒が、
ただ横道へ遠くそれてしまっただけなのかもしれません。

私たちは、あかるい初夏の陽ざしをあびて、うっとりと宇宙の真理と一体になるのです。
(ちょっとだけ、くやしさをこめて)


2006年6月17日(土曜日)

走り書き

カテゴリー: - kawamura @ 04時43分30秒

きょうは愛知大学の教壇に立つ日です。
いまからいろいろ準備もあるから、
ずいぶんまえに記事にするつもりだった封筒の走り書きを、
書き写すことにいたします。

それはそのときふいにこころの芯を通りすぎてゆく言葉を、
追いかけるように手ぢかにあった白い封筒にメモしたものです。

以下、それらはあまり意味のない言葉の群ですが、
すこしはおもしろいと思うので、メモの内容を書きうつします。

「もともと仏法の教えは帰するところ不立文字であって、
 この世を言葉によって表現することは不可能としている。

 つまり我らは表現や理解をこえたところの宇宙に日々生きているのであって、
 縁起にささえられたその本性は空であると云う。
 明らめるところ一切は空に帰一すると云うのである。

 空はすべてのはじまりであって終わりでもある。
 またすべてのはじまりでもなく終わりでもない。
 すなわち空は空であって空でない、故に空である、と云うのである。

 これらは言葉の遊びのようにもみえるが、
 実は、表現不能の真理をあえて表現しようとするから、
 おのずとこのようになるのである。
 どのように考えてもそこへ辿り着く。
 
 禅のもとめるところは
 ひとが言葉を得る以前の力を取り戻そうとする試みのように思われる」

(こんなことばかり考えて生きているのです。
 うんざりなさらないで、
 今後ともどうぞブログをご愛読くださるようお願いします)


2006年6月16日(金曜日)

ぼんやりと考えた2つのこと

カテゴリー: - kawamura @ 06時30分22秒

土曜日に愛知大学でつかう講義資料の原稿をとどけに、
隣町へむかう車のなかでぼんやりと考えたことです。

ひとつは、ちから。

ちからはだれも見たことがありません。
手のひらを指でおすと、手のひらはへこみます。
これは原子と原子が接触してちからがつたわるのでしょうけれども、
細かくいえばそれは原子の最外殻電子どうしの斥力によるのでしょう。

そうすると、接触してつたわるちからとは言っても、
つまるところ電磁場を介してつたわるちからと同じです。
リンゴがおちるときの重力のように、
場を介してつたわるちからと同じです。

でも、場とかいわれてもそれがみえるわけではないし、
ものが落ちるとは空間のゆがみにそって動くことである、
と言われても、数学的にそう表現するとつじつまが合う
というにすぎないようにも思います。

私たちが日々暮らしてゆくなかでふれるもののおおくは、
五感でとらえることのできないものばかりです。
私たちはしょせん、わからないものに名まえをつけて、
わかったふうをよそおっているにすぎません。

結局、ちからがあることはだれも知っているのに、
だれもちからを見たことはありません。
ちょうど、以前ブログで書いたように、
ほとばしる愛を胸のうちに感じても、だれもそれを見ることができないように。

(もうひとつ考えたことは、またの機会に。
 こんな愚にもつかないことばかり考えながら暮らしているのです)


2006年6月12日(月曜日)

『白洲次郎直言集』(2)

カテゴリー: - kawamura @ 07時55分58秒

ケサハ二日酔ハナハダシキナリ、
ヨッテ『白洲次郎直言集』ヨリ抜粋ス、
ワレ茂木健一郎先生ノ芸大授業ニ参加シタキ希望アレドモ
生業ユエニデキズ、

ココニ『白洲次郎直言集』ヨリ文士ノ自己批評性ニ言及セシ部分ヲ
転載スルモノナリ、

ワレ吐ク息ヨリ、イマダ酒ノニオイキエズ、ヤンヌルカナ、

「経済人の自己陶酔もさるものだが、同じようなことが今の日本の文士にもありはしないか?
 僕はそういう人の本を読んでみて感心することが、唯一つだけある。
 それは自分が非常に自己陶酔をしていて、
 自分のその自己陶酔をそのまま読者に鵜呑みにさせる技術をもっていること、
 その点だけは偉いものだ。

 日本の文士が殊更そういうことに陥る原因の一つは、日本の言葉だと思う。
 日本語というものは、僕はわからんけれども、
 綾があるとか、含みとか言って、ものを表現するのに、
 ヨーロッパ式にいうと、正確度というものを非常に欠いている。
 だから、いろんな含みのあるような表現をする。
 その表現に自分が先に酔っちゃうのだ。
 例えばジイドがあんなに文壇に流行っているのに、
 だれがジイド的なシステマティックな ーフランス流にいえばラショナルなー 
 考え方をしているか?」

ワレハコレヲソノママ是トハセヌモノナリ、
シカレドモ正鵠ヲ得テイル部分モアルトオモウ、 


2006年6月4日(日曜日)

白洲次郎直言集

カテゴリー: - kawamura @ 07時41分27秒

白洲の言葉と、私が白い封筒にメモした走り書きと、
どちらを先に記事にすべきかといったら、
それは言うまでもなく白洲が先でしょう。

ところで、恩師にそのように教えられたものですから、
私は、誰それがこのように言った、
というふうな言いまわしを極力さけるようにしています。
とくに、誰それ、
というところにカタカナの名前を入れることは決してしないようにしています。

つまり、
「カントを読むのは、カントがこのように言った、というために、
 つまり『カントの研究』をするために読むべきではない。
『自分の研究』をするためにカントを読みなさい」
という教えでした。

恩師が、自分の後任教授をさがしに恩師の母校である東大へ立ち寄ったときのこと、
手にしていたヴィトゲンシュタインの本を目にとめて、ある教授が、
「ヴィトゲンシュタインの研究をはじめられたのですか?」と訊いてきました。
恩師はすかさず「自分の研究のために読んでいるのです」と答えたそうです。

『白洲次郎直言集』のなかに、まさにそれに通じる言葉をみつけて得心したのです。
誰それがこういったというのは嫌いな私ですから、
白洲次郎がこういった、とは書きたくないし、いかにも矛盾撞着ではあるのですが、
あまりにも言い得て妙と感じたものですから、
以下、引用します。

「これは政治の方の人によくあるのだが、いわゆるイデオロギーとか思想とかいうものが、
 日本の政治家たちには、
 ふつうに日常話していることと全然関係がないということがいえる。
 イデオロギーというものは、
 あくまでも自分の思想というものが出発点となってでき上がったものの筈だ。
 ところが日本の政治家を見てるのに、なんかひょっとしたはずみに本を読んだり、
 人に聞いたりしたことを全部鵜呑みにして暗記するらしい。
 それが彼のイデオロギーなんだ。
 彼の政治思想というものが彼にあるなら、それは別問題なのだ。
 
 あるひとつの政治イデオロギーというものをもっている人と話をするとする。
 それが資本主義であろうが、社会主義であろうが、何でもいい。
 ところが個人的に話してるときの、そのひとの政治思想というものと、
 演説したり、ものを書いたりするときとは違っているのだ。
 というのは、彼らにとってイデオロギーというものは単なる道具なのだ、
 自分じゃ思想だと思っている。
 だからはっきりいえば、彼らには思想がないのだ。

 その結果例えば論争が展開された場合に、その論争というものが、
 両方の人が持っているいわゆるイデオロギーから出た論争なのである。
 だからいつでも感情問題になって、喧嘩になってしまう。
 というのは、両方とも、あなたの思想はこうで、それを推してゆくとこうなるじゃないか、
 だからここで落ちつこう、ここまでは認めるがここまでは譲れない、
 というような議論はあり得ない。
 両方で別のことをいい合っている。
 だから論争になれば、感情的な喧嘩のほか何もない。
 お互いに言いっ放しだもの」


2006年6月3日(土曜日)

風の言葉

カテゴリー: - kawamura @ 08時25分07秒

白洲次郎の「カントリー・ジェントルマンの戦後史」のなかに、
とても得心のいく一節がありましたので、
それを引用しながら持論をしたためようと思っていましたところが、
本を事務所に忘れてきてしまいました。

それで、白洲は明日ということにして、
今日は、部屋を整理していてたまたま見つけたメモについて記そうと思います。

私はやはり手書きの人間で、
パソコンのキーボードをたたいてもどうもリズムがつかめません。
おもしろいフレーズがうかんでも、
なれていないせいかそれがそのままとどめられないのです。
それでちかごろは手書きにもどりました。
いったん紙に書いてから打ちこむのです。
そのメモも、じつはそのようにして書きとめたもののひとつです。

それでは、数日まえに白い封筒にしたためたその言葉を転載しましょう。

あ、いまふいに思いおこしました。
それは清水達也先生の遊本館におじゃましていたときのことです。
先生がおっしゃいました。

「ある作家が、田舎道を、土煙をあげながら車で走っていた。
 そのとき、ふいにいいフレーズを思いついた。
 メモする紙もペンもない。
 彼は車を降りて、それを忘れぬように、
 土埃のうっすらと積もったボンネットに、そのフレーズを指で書き残した」

まさにそれくらい、言葉は神からの贈り物で、あわゆきのように一瞬できえてゆきます。
おそらくそのときは特別な脳の状態になっていて、
神秘の旋律にシンクロしている微妙な一瞬にとらえるそれは、
ふいに通りすぎる風の言葉のようにたちまちきえるのです。

ということで、数日まえに私の脳に舞いおりた言葉を、
そのメモから書きうつしてみましょう。

つづきはまた明日。


2006年6月2日(金曜日)

私の秘密(2)

カテゴリー: - kawamura @ 09時08分34秒

私の秘密をあかそうと思いましたが、
それはまさに私の思想の核心をなすものですから、
もうすこし心にあたためてから
あきらかにしようと思います。
私がなにを考えているのかは、
おそらく茂木健一郎先生以外に知る方はいないでしょう。

私の興味をひくすべては、ひとつの糸で結ばれているのです。

ところでそれら思想的なことはやがて書にあらわすこととして、
次回は白洲次郎についてすこしお話しすることといたします。


2006年4月7日(金曜日)

『冑佛伝説』(かぶとぼとけでんせつ)


! 『冑佛伝説』のお求め、ご感想はこちらへ !
!  ご感想は、コメント欄へどうぞ     !

茂木先生が「クオリア日記」のなかで、
拙著『冑佛伝説』の告知をしてくださいました。

『冑佛伝説』も前作『蒼天のクオリア』も、
ともに茂木先生が序文を書いて下さいました。

その御厚情に、心から感謝申しあげます。

また、装丁は友人の版画家高橋シュウ氏です。

みなさまも、ぜひお手にとってご覧くださいますよう
お願い申し上げます。


2006年4月1日(土曜日)

クオリア素子(特許10)

私が長年山間の地で研究してまいりました
クオリア素子が、
このたびようやく実験に成功いたしまして、
メタな視点からの
自己プログラミングが可能となりました。

gluonのcolor chargeに着目して
横浜市大の友人と
数年前に数式モデルは完成しておりましたが、
苦心の末にクオリアを生成する素子として
基盤上に落とすことができました。

クオリア発生の確認は、
培養ニューロンによって構成された
外部脳と接続することで、
実証されました。

クオリア素子を実装したコンピューターは
まだすこしさきのことになると思います。

わずかではございますが
意識をもつ素子の開発に成功いたしましたことを、
ご報告申しあげます。

記憶素子としてのクオリア素子につきましては、
まだ発表する時期をまたねばなりません。

来年の4月1日にはご報告できますよう
友人とともに努力いたします。
ご期待下さい。

2006年4月1日記す :mrgreen: (ふっ)


2006年3月8日(水曜日)

新潮文庫と高橋シュウ

カテゴリー: - kawamura @ 07時40分50秒

見返しに「カバー装画 高橋シュウ」とあります。

版画家高橋シュウの絵が
新潮文庫の表紙絵に
なりました。

新潮文庫といえば、
私は
少年期から青年期にかけて、
愛読しました。

おそらく
いまの若者たちもそうでしょう。

その新潮文庫におさめられている
カミュの「幸福な死」
の表紙を
高橋シュウの絵が
かざることになったのです。

版画家の高橋シュウと
私がどのようにして知りあったのかは、
拙著「蒼天のクオリア」に
くわしくかきました。

高橋は
いまでこそ
名を知られた版画家になりましたが、
出会った当初は
無名の学生でした。

もう35年ほどまえのことです。

高橋も私も
北大の理系の学生で、
高橋は絵を、
私は小説を書いていました。

その当時は
私のほうがほんのちょっとだけ
有名でした。

いちどは卒業して別れ
ふたたび出会うまで、
じつに20年の歳月が
ながれました。

そのあたりは
高橋が装丁してくれた
「蒼天のクオリア」に
書かれていまして、
近々書店で発売されますので
お読みいただければと思います。

現在の高橋は、
日仏現代美術展で大賞をとったあと、
フランスの「GALARIE CLAIRRE M. LAURIN」
でなんどか個展をひらくなどしていて、
彼の版画は
日本の国立国際美術館などはもとより
ポーランドのクラコウ美術館にも
収蔵されています。


2006年3月2日(木曜日)

「蒼天のクオリア」は実話か?

「蒼天のクオリア」は実話です。

先日、中学高校時代の同級生に会って
拙著「蒼天のクオリア」に話がおよんだとき、
「あれはフィクションか?」
としつこく聞かれました。

実話です。

まさかそんな奇特なかたは(笑)
いらっしゃらないとは思いますが、
もしもご興味がおありの方がいらっしゃいましたら、
その当時の資料はすべて保管されていまして、
私のホームページに
その一部の写真がUPしてありますので、
どうぞご覧下さい。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~nazoden/sub20.htm

登場人物の「結城秀」は
本名を○○秀という実在の人物を
モデルにしていますが、
彼が「クオリア」について語るシーンだけは、
ただひとつのフィクションです。

彼が語る「クオリア」は、
私が茂木先生のMLに投稿したもので、
「クオリアの定義」として
茂木先生のホームページに登録されています。
2000年9月9日に書いたものです。

http://www.qualia-manifesto.com/rfc/rfc14.html

○○秀のホームページは、
「蒼天のクオリア」を上梓したそのとき、
版画家の高橋シュウが見つけました。

このへんのいきさつは、
まさに小説よりも奇なり、で
いつか「続・蒼天のクオリア」として
書いてみたいと思っていますので
そのアドレスは秘密です。

ともあれ、
拙著「蒼天のクオリア」は、
あとがき、に書かれているように
私の青春自伝小説であり、
実話です。


2006年2月23日(木曜日)

印象批評

カテゴリー: - kawamura @ 06時01分06秒

(「小林秀雄の霊が降りてきた」茂木健一郎氏『文藝春秋』2006.3を読んで)

私は若いときから
意図して
自分がよんだ本のタイトルも作者も
すっかり忘れるように努めています。

著名な作品名であるとか、
文豪としての作者名であるとかは
私にとって何の意味もないからです。

一度しかない人生だから
そんな些末のことにとらわれたくないのです。

自分にとってなにが大事なことなのかを考えると、
それはその本の内容、
とりわけその作品のもつイメージ、
つまりは印象です。

こころに残るのは優れた作品の印象だけだからです。

ルソーの「孤独な散歩者の夢想」のなかで、
主人公が木陰でうっとりと夢みるシーンは、
ルソーという作者の名前や本の表題からはるかに離れて、
天上の調べを聞くようです。

私はそのような、
美や真実の善き境地を求めているのであって、
単なる知識を求めているのではありません。

天才の作品を分解して
死体を検分するように解析し報告されても
何の感慨もわきません。

それはそれで文学と呼ばれて、
研究者の生活の糧にはなるのでしょうけれども、
本当に人々は
そんなものを求めているのでしょうか。

自分が死に臨む
そのときのことを考えてみてください。

己が生きてきた証として、
愛読した書物の
何を最後に思いうかべるのでしょう。

作者の名前ですか、
本の題名ですか、
その作品の分析論文ですか、
たしかにそういう人もいるのかもしれません。

しかし多くの人は
名作に陶酔したその印象を
こころに浮かべるでしょう。

言葉に言い表し難い作品の印象、
まさにそれをクオリアと呼ぶのです。

そのような意味で、
私は、
茂木氏の「クオリア原理主義」を奉じる者です。

したがって、
作品を批評するときは、
その印象、
つまりはその作品のもつクオリアをこそ
第一義に論じるべきでしょう。

文学をいたずらに分析して論じるような
疑似科学的手法は、
もうおやめになったほうが
よろしかろうと思います。

天才がこの世に残した宝石を、
いかに成分分析しても
そのスペクトルを解析しても、
そこからは
作品のはなつ至高の美しさは
見えてきません。


2006年2月10日(金曜日)

『冑佛伝説』3月発売!

冑佛伝説』を、
来月上梓いたします。

静岡新聞社からの自費出版です。
また、前作同様
脳科学者茂木健一郎先生の御序文をいただきました。

装丁は友人の版画家高橋シュウ氏
お願いしようと思っています。
前作『蒼天のクオリア』と色違いの
ほとんど同じ装丁になる予定です。

また、
冑佛伝説』と同時に
蒼天のクオリア』も発売致します。

書店には二冊ならべられることに
なるようです。

『蒼天のクオリア』800円
『冑佛伝説』1000円です。

もともとこの2冊はひとつの原稿でした。
それを東京の出版社の助言で
ふたつに分けたのです。

『蒼天のクオリア』は
冑佛発見にいたるまでの自伝的序章で、
その部分だけを切り離したほうが
おもしろそうだということで
一昨年先行発表したというわけです。

おそらく私の死後、
河村隆夫とは何者だったか、
と問われたとき、
冑佛研究者として
日本史の片隅に
虫眼鏡でみても見つからないほどのちいささで、
私の名が残っているのかもしれません。

平成5年の秋、
深山幽谷に住む私が、
ある日不思議な道に迷いこんで、
気がつけば、そこは、
戦国武将の精神世界を象徴する
冑佛(かぶとぼとけ)たちの住む世界だった、
という発見譚です。

やがて私の新説は世に認められ、
NHK大河ドラマ「利家とまつ」に
勝軍地蔵がでたときには、
妻と手を取りあって喜びました。

冑佛が世に認められるまでの物語を、
ご笑覧いただければ幸いです。


2006年1月27日(金曜日)

続・『プロセス・アイ』読了!!

カテゴリー: - kawamura @ 06時20分33秒

あまりのおもしろさに、
興奮がまだやみません。
この傑作は、かならず映画化されるでしょう。

物語としての卓抜な展開と、
心脳問題についての
斬新な解釈とが協奏して、
荘厳な
ワーグナー的世界が現出しています。

私は茂木先生のクオリアMLで
長期にわたって討論した
クオリアンのひとりですから、
特に心脳問題に惹かれました。

スポーツマンに
しばしば見られる変性意識は、
他のあらゆる分野においてもあるはずで、
実際、
ドストエフスキーが
てんかんの発作時に体感した
宇宙の中心を飛びぬけてゆくような全能感は、
さまざまな分野の天才の報告するところです。

タケシが、
****の脳をもち、
****の脳の変性意識が理解する
心脳問題の真理を、
******の脳がメタな視点で、
さらに高次から理解するという仕掛けは、
驚嘆すべき斬新な発想で、
主観を客観視するという意味においても
納得のいくものです。

そして
*************脳の理解した主観は、
他見できないのです。

曼陀羅の真理を客観視しえた**脳も、
それを言語に置きかえるのは不可能
ということのように思えます。

養老孟司氏の
「人工意識って、こういうかたちでしか、
 かけないのかもしれない」
ということばの意味は、
このようなことだったのでしょうか。

私にも、『プロセス・アイ』は
AI(人工知能)の究極の表現のように感じます。

物語としてもじつに楽しめました。
個人的には
第7章の「クオリア研究所」からが
圧巻だったと思います。

それにつきましては、
みなさまに実際にお読みになっていただいて、
ふるえるような感動を
体感していただけたらとおもいます。

そして、
宇宙船から帰還するグンジとツヨが、
地球にふたたび降り立ったとき、
何を語るのか、
天才茂木健一郎先生の
次作が待たれるところです。


2006年1月26日(木曜日)

『プロセス・アイ』読了!!

カテゴリー: - kawamura @ 11時32分34秒

ただいま読了いたしました。
あまりのおもしろさに、
読みはじめてから今まで、
本から手をはなせませんでした。

カワバタ・タケシ、ツヨ、
すくなくともこの二人は、
茂木先生の分身でしょう。

科学と文学、
その双方のあふれるほどの才能を、
茂木先生は神から与えられました。

科学においても文学においても、
その驚嘆すべき業績は、
はるかな後世まで讃えられるでしょう。

(これから会合に出席しなければなりません。
 今夜帰宅してから書きたします)


2006年1月25日(水曜日)

今日は「プロセス・アイ」

茂木健一郎先生初の小説
プロセス・アイ」は、今日発売です!!

みなさん、書店へお出かけください!!

これは茂木先生の幼友達からお聞きしたことですが、
茂木先生は小学生のときすでにSF小説を書いていて、
小学生新聞(全国版)でしたでしょうか、
大賞をお取りになって長期連載されたということです。
栴檀は双葉より芳し。

養老孟司さんの推薦文などを拝見すると、
はやく読みたい気持ちがさらにつのります。

昨夜の「プロフェッショナル」もよかったです。

菓子作りの天才が、
かたくなにひとつの店に籠もって、
きらめく菓子の宝石を作りつづけている。

そしてその菓子は舌の上に、
一瞬の魔法のように味覚の花園をひろげて、
またたくまに消えてしまう。

そうなのです。
彼の作品は消えてしまうのです。
レシピは楽譜のようなもので、
曲は奏者の腕でいかようにでも変わるのですが、
彼の奏でた名曲は、
たちまち虚空に消えてしまいます。

音楽は録音されますが、
味覚のクオリアを
この世にとどめることはできません。

彼の人生は美しくはかない詩のようです。

52歳。
ついに彼は腱鞘炎になって、
やがて菓子職人としての歴史に
幕をおろす日がちかづいています。

その日、彼の魔法の菓子は伝説となるのです。


2006年1月18日(水曜日)

茂木先生の序文

昨夜の「プロフェッショナル」は凄いものでした。

小児心臓外科医・佐野俊二氏の
手品師のような手さばき、
迷いを断ちきった手術、
名医とよぶにふさわしい深い人間性を感じました。

茂木先生の質問も核心をつくものでした。
見て良かった。

見終わったあと、私も妻も娘も、
思わず拍手していました。

ところで、
「プロフェッショナル」のキャスターをつとめていらっしゃる
脳科学者の茂木健一郎先生が、
一昨年上梓した拙著「蒼天のクオリア」の序文を、
こころよく書いてくださったことは、
私の人生にまたとない僥倖でした。

近々発表予定の「冑佛伝説」にいたるまでの、
こころの軌跡を淡々と書きつづった青春自伝小説
蒼天のクオリア」の巻頭に載せる序文の依頼を、
茂木先生はこころよく引き受けてくださったのです。

以下一部引用させていただきます。

*************************

河村隆夫著 「蒼天のクオリア」 序文  

茂木健一郎

 人間は、絶対に自分自身からは逃れることはできない。情報ネットワーク
だ、グローバリズムだと目先のくるくる変わる現代では、ついつい忘れてしま
いがちのことだが、人間の体験することの本質には、何の変化もない。私たち
は、結局、一日一日のうちに出会うものだけを感じ、振り返り、自らのものと
していくだけである。

*************************

全文は拙著「蒼天のクオリア」(静岡新聞社)で。


2006年1月1日(日曜日)

見えることと見ること

カテゴリー: - kawamura @ 00時17分26秒

皆様、明けましておめでとうございます。
本年も良き年でありますようお祈り申し上げます。

さて、
昨年12月30日は中学3年生の模擬試験でしたので、
ひさしぶりに授業からはなれて、
ゆっくりと考える時間がもてました。
三時間ほど試験監督をしながら考えたことが、
以下の通りです。

見えることと見ることがちがうことは、
どなたでも自分で実験してみれば分かることです。
いまパソコンの画面を見ているときにも、
画面の外の風景が、
眼にはいっていると思います。

パソコンから視線をそらさず、
パソコンの外の風景を意識しても、
まだまわりがなんとなく見えている状態です。
それでは、パソコンの外の風景のなかの、
手近なもののひとつに視線を移して、
それを凝視してみると、
自分の意識の状態が変わることに気づくでしょう。

おそらく、PETなどで脳の血流量をみれば、
ただぼんやり見えているときと、
はっきりと対象物を凝視しているときとでは、
まったく違う分布図をえがいているのでしょう。

みなさんもお試しになったらよろしいかと思います。
ぼんやりとした視界のなかの
一点に意識を集中したときの心の中心に、
私が立ちあらわれてまいります。

私、すなわち主観は、
そのとき、まざまざと立ちあらわれてきます。
さらに即物的に言えば、
脳の働く場所が変わるように思います。

やがて、
見えるのではなく、見ているとき、
見ている対象物へゆっくりと私がのり移ってゆくような、
脱自というか純粋経験というか主客未分の状態というか、
彼我の境界がうしなわれたような、
立ちあがった主観が、
ついには客体と一体化してゆくような感じがしてきます。

見えているのではなく、見ているときに、
ひるがえって、
見ている対象物から自分自身へ意識を移すと、
いわゆるメタ認知が立ちあらわれます。

ありていに言えば、
対象物を見ながら、
意識を自分に移すのです。
そのとき、
見ている自分を見ることができるように感じますが、
意識は対象物からすこし薄れたように感じるでしょう。
脱自や純粋経験といわれる状態が、
薄れたように感じるでしょう。

いわゆる、客観といわれる状態にちかづいていきます。
見ている自分を見ているという状態を、
さらに無限に繰りかえすとき、
全き客観、つまり神の視点にちかづきます。
見ている自分を見ているいる自分を見ている、
ということを繰りかえすのです。
そのとき到達する地点を、
純粋客観といってもいいでしょう。

しかし不思議なことに、
対象物から無限に離れて、
宇宙全体を見わたすような視座を得たとき、
それが、
主観を極め、
主客未分の状態を突き抜けたときの状態と
ほとんど同じであることに、
気づくでしょう。

私はそれに気づいたとき、
若き日に日記にしるした
萩原朔太郎の一文を思いおこしました。

「最後に、
詩的精神の最も遠い極地に於て、
科学の没主観な太陽が輝いている。
明白に、誰も知っている如く、
科学は主観的精神を排斥し、
一切「感情の意味」を殺してしまふ。
故に科学にかかっては、
道徳も宗教も型なしであり、
知性の冷酷の眼で批判される。
実に科学は、
人生から「詩」を抹殺することにのみ、
その意地あしき本務を持ってゐるように思はれる。
しかもこの科学的精神が、
宇宙の不思議に対する詩的驚異と、
未知の超現在を探らうとする詩感に出発していることは、
何といふ奇妙な矛盾だらう。」
(「詩の原理」萩原朔太郎)

私の二十歳の日記に、この一文が記されています。
それは科学と小説のはざまで苦しんでいたころの記録です。

このように科学の純粋客観と、詩の純粋主観とが、
無限の遠方で出会うと考えたとき、
それこそが智慧の極北、
解脱の地点かもしれません。

以上のようなことを考えたあと、
底知れぬむなしさにおそわれます。

見えている状態から見ている状態へ移るとき、
まざまざと主観が立ちあらわれる、
と言い、また、
純粋客観と純粋主観とが智慧の極北で出会う、
と言っても、
これらは絵空事にすぎません。
何も言っていないに等しいのです。

なんの根拠もなく、
ただ、言葉を言葉によってなぞり、
単に並列的な説明を繰りかえしているにすぎません。

私は科学の子です。
物質の存在を、
それが反証にたえ得ぬあやういものであるからこそ、
信じているのです。
キリスト者が神を信じるように、
科学の子である私は、
物質の存在を信仰しているのです。
宇宙の森羅万象すべてが、
物質のふるまいによってのみ説明され得ると、
信じているのです。

さきほど縷々述べたことは、
物質としての、
脳、
にすべて還元されねばなりません。

物心二元論の誘惑を断ちきって、
凝視するときに立ちあらわれる主観の存在を、
科学的見地から証明しなければなりません。

科学的見地とは、
誰がいつどこで実験してもおなじ結果が得られること、
つまり再現性のある実験によって、
事実を証明することを言うのです。

茂木健一郎先生は、
脳におけるこの主観の座を、
「不変項ニューロン群」仮説
として提唱されました。

私のつたない理解にすぎませんが、
おそらくは脳の神経回路のなかに、
ノイズの少ない、
他の神経細胞より安定的なニューロン群があり、
それが主観をささえている、
ということだろうと思います。

きのうの自分と今日の自分、
いまの自分と明日の自分が、
安定的に一貫性を持って
持続しているように感じられるためには、
その自分という主観をささえる
安定的なニューロン群が存在するはずである
という仮説です。

これが証明されれば、
世紀のと言うより、むしろ、
人類史上の大発見でしょう。

人類の発生以来、
絶え間なく人類を不安に陥れてきた
主観と客観の問題に、
はじめて強固な橋頭堡が築かれるのです。

私はどこからきて、どこへゆくのか、
私はいま、どこにいるのか、
といった人類の根元的な疑問に答えるための、
科学的根拠が得られるのです。

しかしそれが証明されてもなお、
クオリアへの道は、
まだ遙かであることを、
茂木先生は充分ご承知のことと思います。

このクオリアへの遙かな道を、
茂木先生は、
ご自身の天才という駿馬に乗って、
先駆けているのです。

年頭にあたって、
先生の前途に栄光のあらんことを祈念いたします。


2005年10月4日(火曜日)

ハイゼンベルグの不確定性原理

カテゴリー: - kawamura @ 05時26分51秒

さて、きょうは数式をつかいません。
ハイゼンベルグが「不確定性原理」を発表したのは、いまから80年ほどまえのことです。
この原理は、なにが画期的かというと、物理学も観測者の影響からのがれられない、ということです。

たとえ話をしましょう。
これは、いつも私が塾で子どもたちにお話しするときの比喩です。

この文章を読んでいらっしゃる方に
「○○さん、あなたはご自分がどんなかただとおもわれますか?」
とお聞きしたとしましょう。

それまで、なにげなく素のままの自分で読んでいたのが、とつぜん問いを投げかけられると、
「えっ、自分が何ものかって?」
と自問します。
つまり、ありのままの自分だったところに、突然強いサーチライトがあてられるのです。
「いまの自分は、いったいどんな人間なんだろう?」

このときすでに、ありのままのあなたは、私の問いかけによって変化しはじめています。
ぼんやりと秋の虫の音を聞きながらこの文章をお読みいただいていたあなたのこころは、ちょうど池に小石を投げたときのように波だって、満月をうつしていた水面のようではなくなっています。

つまり、誰もが、ありのままの自分を知ることは不可能なのです。
自分を知るためには意識しなければならず、意識すれば、それはもとの自分ではないのです。

これはあくまでも不確定性原理の比喩であって、ほんとうにそれの意味するところではありません。

物質粒子の運動量と位置を観測するとき、ひかりをあてます。
ひかりをあてなければ見えませんから。
ところが、ひかりをあてられた粒子は、光のエネルギーをもらうから、もとの運動量ではなくなってしまいます。
つよい光をあてれば、その位置ははっきりしてきますが、運動量はもとの状態からさらに離れてしまいます。

この不確定性原理があたえた衝撃は、
「人間は、原理的に、粒子の状態を正確には知り得ない」
ということです。
ニールス・ボーアは、この事実を、
「もともと粒子の状態がひとつにきまっているのではなく、観測することで粒子の状態がきまる」
(さきほどの比喩でいえば、「もともとありのままのこころなど存在していない。意識してはじめてこころが存在する」)
としました。
アルベルト・アインシュタインは
「粒子の状態はきまっているが、人間には正確に観測できない」
(「ありのままの自分のこころは存在しているが、それを知ることはできない」)
と考えました。
物理学の原理が、人間の意識とかかわりはじめたのです。

ここから、不確定性原理の解釈について、有名なボーア・アインシュタイン論争がはじまります。


2005年10月2日(日曜日)

アインシュタイン

カテゴリー: - kawamura @ 06時06分20秒

ひかりの速度は不変である、とアインシュタインは考えました。
彼が大学受験に失敗して、ひかりのあふれるイタリアにのがれたとき、それを着想したともいわれています。
光速度不変の原理をもとにしてつくりあげた相対性理論の名前は、おそらくだれも耳にしていると思います。

アインシュタインが「特殊相対性理論」を大学に提出したけれど、だれにも理解されずにつきかえされたのは、彼がスイスの特許局に3級技術職員として勤めていたころのことです。
彼の天才は、言葉に障害があったこともわざわいして、まわりに理解されにくかったのかもしれません。

特殊相対性理論の2年後に、E=mc^2、が発表されました。
Eは物体のエネルギー、=は等号、mは質量、cは光の速さをあらわしています。
物体のもつエネルギーは、その質量に光速の2乗をかけたものに等しい、というのです。

きのうのf=maもそうですが、E=mc^2も、とてもsimpleな美しい式です。

考えてみてください。
特許局の3級技術職員だった無名の若者の頭脳に、それまで200年間不変の原理だったニュートン物理学を根底からくつがえす理論が、つぎつぎと生まれていたのです。
彼の明晰な頭脳のなかには、ローレンツ変換によって不変な蒼い宇宙がひろがっていたのでしょうか。
なぜ、このように、宇宙は美しく簡潔な数式であらわされるのでしょうか。
そうして、なぜ、ニュートンやアインシュタインの天才は、この、銀河を支配する美しい真理に到達しえたのでしょうか。
宇宙とは、何なのでしょうか。

質量は速度をますにつれて増えてゆくし、時間は速度をますにつれて遅くなるという彼の理論は、やがて実験によって確認されました。
現在では、実際にカーナビなどに相対性理論が応用されています。

しかし、まもなくあたらしい物理学、量子力学が生まれてきます。
のちにノーベル賞をあたえられる「光量子仮説」で、アインシュタイン自身もその誕生にかかわった量子力学が、成長して、やがて彼の目のまえに立ちはだかるのです。


2005年10月1日(土曜日)

ニュートン

カテゴリー: - kawamura @ 07時03分40秒

リンゴがおちるのを見て重力を発見した、というニュートンの逸話はよく知られています。
事の真偽はまあよいとして、また、その生いたちなどはインターネットで検索すればすぐに調べられますから、私にとってのニュートン、という視点でお話しします。

中学三年のとき、純粋科学少年だった私は、法学部志望の兄から、いらなくなった物理の教科書をもらって独学しました。
高校物理の教科書をひらいたとき最初に眼にとびこんできたあの美しい公式は、白昼に、満天の星空を見るようなすさまじい衝撃を、少年の私にあたえました。
のちの世界観におおきな影響をおよぼすことになるその公式は、f=ma、いわゆるニュートンの第二法則といわれるものです。

f=ma、この公式ひとつで、宇宙のありとあらゆる運動が表現されるのです。
わずか4つの記号で、天体や、野球のボールの軌跡や、砲弾の着弾点などを計算することができるのです。

この公式が生まれる背景にはケプラーやライプニッツなどの天文学や数学の功績がありましたが、ニュートンのこの公式は、それらをはるかにこえて、超絶的な天才を感じます。

fは力、=は等号、mは質量、aは加速度。

なぜ、質量と加速度をかけるとそれが力になるのか。
なぜ、こんなにも簡素な美しい式で宇宙は表現されるのか。
それが少年の私にはたまらなくふしぎなことでした。
ニュートンは、どこからこのsimpleな式を思いついたのか。
それは以前に書いた「濃藍」の領域からくるようにも思います。
ニュートンの脳はそのとき、宇宙の闇黒、あの濃藍の領域とつながっていたかのようです。
古今に比類ない天才としか言いようがありません。
だだひとりそれにつけ加えるとしたら、アインシュタインだけでしょう。

彼の、運動方程式や万有引力の法則の発見にいたる説明は、いくらでもあとづけができるでしょう。
発見とは関係性の発見なのでしょうが、その関係を、最初に見いだすためには、彼ひとりの、宇宙をつらぬくような洞察がひつようだったのです。
たしかに先人の業績はありましたが、それをはるかに見おろす星空に立って、ニュートンは古典物理学の基礎を築きあげました。

彼は最後の魔術師でもあり、その論文のおおくが錬金術に関するものであったことはよく知られています。
錬金術はキリスト教の異端であり、いわばキリスト教の鬼子として科学は生まれたのです。
生前に実父をうしなっていたニュートンの義父は、教会の牧師であって、彼もつよくキリスト教の影響をうけたにちがいありません。
彼は神に近づこうとしたのでしょうか?

私はただ、ニュートンがどこからこの運動方程式をさずかったのか、また、この方程式は、なにを意味しているのか、その深い真理を知りたいだけなのです。


2005年9月30日(金曜日)

ロボットがひらく未来

カテゴリー: - kawamura @ 11時39分42秒

きょうは、ほかのサイトに掲載した文章の一部を、再掲します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これからの日本をささえる産業のひとつは、ロボット製造のように思う。
ただ私がいうロボットは、意識をもつロボットのことである。

現在でも、こまかい技術の蓄積は、日本が世界にぬきんでているのだろうが、それだけではなく、意識をもつ、というところに国家的なプロジェクトとして重点をおいてもらいたいのである。

このテーマは、ふかい哲学的な思索を必要とする。
単なる技術的な問題だけではなく、人間の生命にかかわる根元的な諸問題を解決しなければならない。
このプロジェクトの意義は、日本人の存在価値を高めることにもなろうし、日本人のうしなわれたモラルや、謙虚で、高潔な生きざまを良しとする本来の我らの姿にもどるきっかけを与えてくれるかもしれないところにもある。

私たちは、我らをささえる哲学を失って久しい。

日本が、嘗てのように経済大国のよろこびにうかれた日々から、やがて斜陽の小国となったときにも、我らの後輩たちが、世俗の権力だけを追い求めるのでなく、むしろ貧しくとも誇り高い個々の人生を生きられるように、とりわけ文官をめざす優秀な頭脳にも、意識の問題解決に挑戦するよう、国家的に導いていただきたいのである。

つまり、世俗の権力をもとめない理系の人間をも人々が評価し、すべての優秀な頭脳が、意識の問題解決にむかって切磋琢磨する日本の未来を期待している。

「クオリア」ともよばれるロボットの意識の問題は、学際的な広汎な思索と議論の果てに、それをはるかに跳びこえるひとりの天才の出現を待っているのである。
この高い壁を越えれば、それによって日本国民はながく生活することができるだろうし、なにより、富よりもおおくのものを、国民は得ることになるだろう。
このプロジェクトによって、富よりも、むしろ高潔な知性を尊ぶ風潮を高めていただきたいのである。

私は、やがて来る小国日本のなかで、われらの子孫がみなサムライのように胸を張って生きる日々を夢みているのである。


2005年9月28日(水曜日)

りんご

カテゴリー: - kawamura @ 10時29分07秒

塾で教えていると、勉強にあきてきた子どもたちは、きまって「なにかお話しして〜」と言いはじめます。
きのうの日記もそのひとつなのです。
「恋愛の話をしてほしい」といわれたときのおきまりの話です。
つまり、ひととひととは原理的に理解しえない、ひとは絶望的に孤独である、それを認識してはじめて、人を愛する意味が生まれてくる、というお話しです。

もっとも中学生にこのような話をするのはすこし無理があるのかもしれませんが、それでもこのような重要なテーマは、子供むけだからといって、ごまかすわけにはいきません。
私の思う真実を、できうるかぎり伝えようとしています。

「幽霊っているの?」と聞かれたときの、りんごの話もそのひとつです。

眼をとじてください、と私は言います。
子どもたちは、勉強するよりらくですから、みんなすなおに眼をとじます。

「ひとつのりんごを思いうかべてください。
テーブルの上においたりんごに、窓のあかるいひかりがさしています。
洗ったばかりのりんごだから、水滴がついています。
その水滴に、指さきでふれてみてください。
冷たいでしょう。
指をはなして、その水滴をよくみると、窓の空がうつっていて、雲がながれている」

そこで、ぱんっ!、と手をたたきます。
勉強から解放されてうっとりと聴いていた子どもたちは、おどろいて目をさまします。

「みんな、りんごが見えたね」
「うん、見えた」
「指さきがちょっと冷たいかんじがしたでしょう」
「うん、したした」
「そらの雲も見えた?」
「見えた」
こういうときの子どもたちは、とてもすなおです。

「さて、君たちの見たりんごは、どこにあるとおもう」
ひとりが、あたまを指さします。
「あたまのなかにあるの?」
「うん」
「じゃあ、あたまをぱかんっと割ったら、りんごが出てくるの?」
「そうじゃなくて、想像しただけ」
「君たちは、たしかにりんごを見たでしょう?」
「見た」
「想像しただけっていうのはどういうことだろう。
どこにもないのに見えたの?
見えたのだから、りんごはどこかにあるんじゃないの?」
「う〜ん」

そこで、人間は存在しないものを見る力があることを、子どもたちに教えるのです。

さらに、「そこに存在しているように見えるものはものは、ほんとうに在るのか?」と問いかけるのは、もうすこし上級生になってからです。

先日、高校2年生にクオリアのことをきかれて説明しはじめたとき、「それって、まえに話してたりんごのことなんだ」といわれて、びっくりしました。
その子には何年もまえに話したはずなのに、はっきりと憶えていたのです。

ちいさな塾で教えていても、子どもたちに生きる不思議をつたえるよろこびは、尽きることがありません。


2005年9月27日(火曜日)

神と愛

カテゴリー: - kawamura @ 05時44分39秒

私は神を否定する者でも、肯定する者でもありません。
私の胸の内にある愛の存在を、他者に証明することが不可能なように、神をその胸のうちに信ずる者にも、神の存在を他者に証明することは不可能であると、理解しています。

なんだか、最初からワケワカメかもしれません。
どうしよう。
このシリーズは、とてもながくなるような気がします。

恋人どうしの痴話げんかを考えてみてください。
「わたしのこと、ほんとにすきなのっ?!」
「ほんとだよっ」とあなたは答えます。
「うそっ。きょう電話くれるって約束、やぶったじゃない」
「ごめん、仕事がいそがしかったんだ。でも、きみのことはすきだよ」
「うそ」
「ほんとだって、ほんとにすきだよ」
「うそつき!じゃあ、すきだってこと、証明してみてよっ!」

私はこういうことに不慣れなもので、じっさいにこんな会話はしないのかもしれませんが、まあ、そこはお許しいただいて、あなたが、彼女をすきだということを、どのようにしたら証明できると思いますか。

よく考えると、その証明は不可能であることがお分かりいただけると思います。
なにか証明の方法があるのなら、こんなにも恋愛ドラマが盛況なはずはありません。
お互いに、あいての愛の存在を確認できないし、自分の愛をつたえることができないから、それが恋愛のときめきというものなのでしょうか。

自分の胸のうちにたしかにかんじる愛を、相手につたえることは不可能です。
神をその胸のうちに信じるひとも、たしかに感じる神の存在を、相手につたえることは不可能です。

「私を愛しているなら、その愛をみせてください」といわれても、とりだしてみせることは不可能なように、「神を信じているというなら、その神をみせてください」と問われても、神をみせることは不可能なのです。

私は神を否定する者でも、肯定する者でもありません。
私の胸の内にある愛の存在を、他者に証明することが不可能なように、神をその胸のうちに信ずる者にも、神の存在を他者に証明することは不可能であると、理解しています。

この最初のくだりを、理解していただけたでしょうか?

なぜこんなお話しをするのかというと、ニュートンやアインシュタインといった超絶的な天才物理学者でさえも、キリスト教的絶対神の影響をまぬがれえなかったからです。

神の存在が、おそらく現在でも、物理学の根底にあるのかもしれません。
それで、こんなお話しをしたのです。

明日は、ニュートンとアインシュタインにたどりつけると思います。
このシリーズは、とてもながくなりそうな予感がします。


2005年9月25日(日曜日)

文章のアマチュア

カテゴリー: - kawamura @ 06時53分34秒

私は、文章を書いて金品を得ることがないから、amateur、文章のアマチュアです。
30年以上まえに、原稿料をいただいていた時期があるとはいえ、それはほんの数年のことで、その後の30年間は、ひとさまにお見せするような文章を書いたことがございません。

拙著「蒼天のクオリア」を去年上梓いたしましたが、これは自費出版ですから、当然採算があうものではなくamateurの域をでません。

今年の6月にブログをあたえられ、30年の空白をこえて、ふたたび毎日文章を書くことになりました。
20代のころ「文章のプロ」を夢みたこともありますが、いまはアマチュアとして書くことの楽しさを実感しています。

日々の生業におわれながら、ひとときブログに向かうと、青春時代にかえったような至福の時をすごせます。

きょうはこれから外出しますので、青春の日に書きためた作品のなかから、きのうの日記につづけて、「剣」の冒頭部分を抜粋してみます。
もうすこしお読みになりたい方は、私のHPの、小説の欄をごらん下さい。

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「剣」(22歳)

 その夜、
 彼岸桜の花びらが散っていた。
 月は無かった。
 登り続ける山道の両脇づたいに、ところどころ仄白い桜の灯がともされ、山陰に夜道の消えたところで、花の灯は闇に紛れた。
 はだけた剣道着の胸元からすべり入る夜気は、皮膚の表面にひしと薄氷を張りつめそうな冷たさだった。
 頭上の、星空の深淵に、散り際ちかい桜の雲がうかんでいる。
 刀を掴む手は、寒気に凍って感触が無い。
 山道の傾斜はしだいに険しくなったが、俺は身体をあたためようと脚を早め、小走りにその道を登り詰めて行った。


2005年9月23日(金曜日)

小説家に色を見る

カテゴリー: - kawamura @ 06時44分42秒

きょうから三日間、強行スケジュールがつづきます。
以前ほかのサイトに掲載した文章を、転載します。

「小説家に色を見る」(05.02.27)

小説家それぞれに色がみえる、
と若いころから感じている。
なぜだろう。

ドストエフスキーや、中島敦や、すべての作家に色がみえる。

新潮文庫の表紙の色が反映しているのだろうか。(笑)

しかし、作家それぞれの色とはべつに、
優れた作品には特有の色がある。

私はその色を、「濃藍」と表現した。
宇宙の色である。

深い作品に出会うと、濃藍の宇宙がみえる。

二十代のころの走り書きに、こんなふうに書いている。

「神意に達したとき仄みえる濃藍の領域は、おゝくの文字作品の中で、死に接したひとの意識として現れてくる。
あるいは深い夜の風景として描かれる。
愛憎怨恨の呪縛をたち切り、むき出しの生命が死あるいは深い自然とたち向うとき、已に生命はその濃藍の領域に達している。」

「回転軌道上のラオコーン」の藍よりさらに深く、冥府に繋がるあの色を、私は「濃藍」とよんでいた。

久しくその色を見たことがない。


2005年7月23日(土曜日)

ブラームスはお好き

カテゴリー: - kawamura @ 14時15分29秒

(べつに、お○まになったわけではありません。心配御無用。
「ブラームスはお好き」は、サガンの小説のタイトルです)

朝日のなかを走る車のラジオから、ブラームスが流れてきました。
おもわずほほえんでしまいます。
ブラームスはいいなあ。

あの才女フランソワーズ・サガンでさえ、小説のタイトルにしたほどですから。

ブラームスの曲からは、温厚なおじさまが作曲したというふうな、誠実に生きるよろこびが感じられます。
ワーグナーのような肉食人種のおどろおどろしさもなく、交錯する文化の渦にのまれてくるしむバルトークのようでもなく、陽だまりでまどろむような、やわらかいやさしさを感じます。センチメンタルな旋律の底にも、しずかなよろこびがあふれています。

天使の巻き毛のようなモーツァルトの曲とくらべると、凡庸のようにもいわれますが、それはまちがいです。
私は、若いころは奇を衒(てら)った芸術をこのみました。
しかし、五十を越えて、ほんとうにすぐれたものは、平凡なすがたをしていると知りました。
無用なかざりをすべてそぎおとしてみると、そこにのこるのは無垢の真実だけです。
ブラームスの曲はまさにそれで、純白の愛を感じます。

ブラームスはいいなあ。
ほおづえをついて走る車窓を、七月のひかる風がながれてゆきます。


2005年6月26日(日曜日)

秘密の洞穴

カテゴリー: - kawamura @ 00時03分03秒

私が19歳のときに書いた「思い出」は、その内容のほとんどが創作ですが、少年が洞穴にはいってゆく場面は実際のできごとです。

小学校四年生のころ、文殊堂の建つ庄司の山肌に、ふかい洞穴があることを小耳にはさみました。それは庄司地区の少年たちだけの秘密のようで、ひそひそばなしをかわしていたのでしたが、私の地獄耳はそれを聞きのがさず、そしらぬふりをして、そのありかを、しっかりと聞きとりました。
つぎの日曜日に、ひとりで洞穴にむけて出発しました。すこし不安でしたが、それよりも恐いものみたさのような好奇心にさそわれて、山の奥へ、谷間のほそい道からさらに崖の上へと登ってゆきました。
崖の端に立つと、ふかい緑色の淵が見おろせて、谷の底から青葉の風が吹きあげてきました。崖の上から森にはいると、ときおり、間をおいて、ふくろうの鳴きごえがきこえます。深い山では昼間でもふくろうが鳴くのです。さらに森をすすむと、夜光のようなぼんやりした青いひかりのなかに、まっ黒い口をあけていたのが、秘密の洞穴の入口でした。

ここからは、「思い出」をお読みください。
いまではもうその秘密の洞穴がどこにあるのか記憶が定かではありませんけれど、もういちどあの洞穴にはいって、ひんやりとした空気を味わってみたいと思っています。

はな誌 第6号(「思い出」掲載誌)
昭和49年12月1日発行 
発行責任者 芒順子 札幌市中央区南11西6
もくじの中央に
「思い出 谷島瑶一郎」とあります。
谷島瑶一郎は、当時の私のペンネームです。
下の、著者のプロフィールのいちばん上に、
谷島瑶一郎 静かに燃えている北大生。将来性有望。」とあります。
しかし、将来性有望ではありませんでした。残念!


2005年6月8日(水曜日)

初夏の訪問者

カテゴリー: - kawamura @ 07時14分23秒

陽ざしのふりそそぐ正午ちかく、玄関にハイキングのご夫婦が立っていました。掛川から倉見川をのぼって、大代川の上流から金谷へむかう途中で「河村家住宅」を見にたちよりました、ということでした。
はじめてお目にかかる方で、お名まえをおききすると、やさしい笑顔で「鴻野です」とこたえられました。「榛原高校の中村肇先生から、河村さんのことはうかがっています」と話されたとき、はたと思いあたりました。

三十年前、私は札幌で学生生活をおくるかたわら、小説らしきものをかいていました。そのとき、新聞や雑誌で私とともに大きくとりあげられていた若手作家が、佐藤泰志でした。佐藤は東京で学生生活をおくっていましたが、故郷が函館なので、北海道内の文芸時評欄になまえがでていたのです。新聞の文芸欄に、大見出しで「抜群の佐藤と谷島」と書かれていたころのことです。佐藤は佐藤泰志のこと、谷島は私のペンネームでした。

昨年私は、「蒼天のクオリア」と題して当時の回想録を上梓しました。
榛原高校の中村先生からのお電話で、「教頭の鴻野さんにもお読みいただいたら、佐藤泰志の学友だったそうで、とても驚いていましたよ」とのお話でした。佐藤泰志を知るものがこの地にいるとは、私には思いがけないことでした。帰省して以来、私は文学のことなどだれにも話しませんでした。それが突然、若き日の好敵手を知るものがあらわれるとは、喜びでした。
その、佐藤泰志を知る鴻野さんが訪ねてこられたのです。

風鈴のなる奥座敷で、鴻野さんご夫妻は、私がもちだしてきた当時の新聞や雑誌を目にして、おふたりとも学生時代に戻ったように、学友の佐藤のことを話していました。
荒れはてた庭に風鈴がなっていて、それは遠い記憶を呼びさますように、鴻野氏のこころに、私のこころに、ひびきました。

それからおふたりは、初夏の奥座敷で、リュックのお弁当を食されて、しばらくしてからお帰りになりました。陽ざしのふる谷間の白い道に、おふたりの後ろ姿がゆっくりときえていきました。
ひとはこの青葉の初夏をともに生きることもできるけれど、同時に、三十年前の初夏もともに生きられると知りました。

青嵐が樹々の葉裏をかえして、山肌をしろくそめながら吹きあげてゆきます。

(左)廃園の池と倉
モリアオガエルのたまご(中央の白い袋状のもの)


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