メインメニュー
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録

2008年11月27日(木曜日)

河村祭(17)

カテゴリー: - kawamura @ 06時27分15秒

あの薄曇りの九月の午後、
神奈川県山北駅前の老舗旅館
「旭屋旅館」のロビーに
ほろ酔いのまま頬杖をついて、
大萱生(おおがゆう)氏たちと歓談していた日のことを
もういちど思いおこして下さい。

奥州盛岡の大萱生氏末裔と同席したのでした。

大萱生氏は、
神奈川県山北町に河村城址をとどめる河村秀高の子、
四郎秀清の支流です。

以下、『冑佛伝説』より転載します。

========================

 文治五年(1189)七月、
 源頼朝が奥州藤原泰衡討伐の兵を挙げたとき、
 軍勢催促の報をきいた相模河村城の河村千鶴丸も、
 譜代の御家人として参陣した。

 誕生の朝、河村城の空を鶴の群が舞ったという伝説の若武者千鶴丸は、
 そのとき弱冠十三歳であった。

 八月七日、河村千鶴丸等御家人七騎は、
 阿津賀志山の敵陣に入り、矢をはなつこと度々におよんで、
 先駆けの功名をあげた。

 十一日、頼朝は千鶴丸を召し、父の名をたずねた。

 山城権守河村秀高の四男であると千鶴丸は申し上げた。

 頼朝の官女京極局の子と知って頼朝はよろこび、
 御前において、加々美次郎長清を烏帽子親としてにわかに元服させ、
 四郎秀清と名告らせた。

 そののち河村秀清は、岩手・志和・稗貫の三郡に所領を賜り、
 志和郡大巻の地に居館をかまえた。

 テーブルの上に、岩手の町ごとに彩色された地図がひろがっている。

 冑佛が発見された場所に鉛筆で丸印をつけてあるその地図。

 修験道の霊山である早池峰山の西方、
 花巻市周辺のほんの一地域に、すべての冑佛があつまっている。

 そこが、伝説の若武者、河村四郎秀清の所領だった。

 やがて時代が下って、
 南朝方に与した河村氏は、元中元年河村秀定の孫秀基の代に、
 大巻の地から志和郡佐比内村神田へ居館をうつし、
 応永三年、同地に熊野権現を勧請して鎮守とした。

 熊野神社は、紫波町佐比内字神田に現存している。

 神社のふもとには、
 河村四郎秀清を祖とする神田館主川村喜助の末裔が、いまも暮らしている。

 そして私は、『川村家の歴史』のなかの、
 大正三年四月三日紫波郡役所に報告された「熊野神社宝物調書」の二番目に、
 つぎのように書かれていることを見出したのである。

  熊野神社宝物調書
   品名
  観音立像
   作者伝来
  作者不明、佐比内村神田館主川村喜助代々ノ信仰ニシテ
  出陣等ノ場合ハ髪中ニセリト云口碑有

 奥州の冑彿の分布と、河村四郎秀清の所領が重なり、
 さらにその子孫から家伝の観音立像が現われるとは、思いもよらなかった。

 ここに於て、追いもとめていた冑佛と、河村家の歴史とが、
 左右の掌を合わせたようにぴたりと一致したのである。

========================


コメント

このコメントのRSS

この投稿には、まだコメントが付いていません

コメントの投稿

改行や段落は自動です
URLとメールアドレスは自動的にリンクされますので、<a>タグは不要です。
以下のHTMLタグが使用可能です。
<a href="" title="" rel=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <br> <code> <em> <i> <strike> <strong>


ご注意 : セッティングにより、コメント投稿から実際に閲覧できるようになるまで暫く時間が掛かる場合があります。 再投稿の必要はありませんので、表示されるまでお待ち下さい。

13 queries. 0.029 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress