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2008年12月11日(木曜日)

河村祭(18・最終回)

カテゴリー: - kawamura @ 06時01分33秒

(写真は拙著『冑佛伝説』 脳科学者茂木健一郎先生に序文を書いていただきました!)

そうそう、忘れないうちに
河村祭のお話しを終わらせることにしましょう。

平成20年9月27日土曜日のことでした。

神奈川県山北駅前の老舗旅館
「旭屋旅館」の女将に、
河村たけおさん、とよばれて
すっかり官房長官の気分でいたあの日のことです。

(実際、官房長官河村健夫氏も
 般若院へよくお見えになるようです)

それはほろ酔いのまま、頬杖をついて、
皇太子妃雅子様を一族にもつ大萱生氏と
閑談していたおだやかな午後。

河村氏の祖河村秀高の、
嫡男三郎義秀の末裔である金谷河村氏として
私が招待され、
四郎秀清の末裔である奥州河村氏として
大萱生寿氏がその日河村祭に招かれたのでした。

後日大萱生氏は
ご自分でお書きになった『大萱生家の歴史』を
送って下さいました。

それをなにげなく読んでいたときのことです。

52頁に山屋氏の略系図が書かれています。

大萱生氏の血をひく山屋氏とは、
皇太子妃雅子様の一族で、
その祖は亀森氏を称していたのです。

あの亀ヶ森玄蕃です。

あの、といわれてもお分かりにならない。

もっともです。

亀ヶ森玄蕃、と聞いて、
ああ、あのかぶとぼとけの、
とお気づきになったとしたら
その方は、
冑佛(かぶとぼとけ)検定一級の資格を
保証します(笑)。

(「島田発の日本史新発見!」として
 「冑佛(かぶとぼとけ)検定」を準備中!(笑))

平成6年10月31日、
私は、河村一族の証しともいえる冑佛を追って、
奥州大迫町まで辿りついたのでした。

花巻市周辺は河村秀清の所領で、
その一帯に
河村一族に由来する冑佛が分布していたのです。

河村祭シリーズの最後に
大萱生氏との不思議な縁を物語る冑佛について
拙著『冑佛伝説』から一節を引用して
連載を終わりとします。

====================

「ところで、盛岡市の正覚寺に、
 中世末の大迫城主大迫右近が兜におさめていた大迫観音、
 それから、
 大迫町亀ヶ森の中興寺にも兜神があったと思いますよ」

 どこにでもあるものでおどろくにはあたらないという話しかたは、
 冑佛を継承している何方(どなた)にも共通のものだったが、
 それならばなぜ、
 冑佛は世に知られずにいたのか。

 なぜ総称もなく、
 系統的な研究の対象にされることさえなかったのだろうか。

 密教と冑佛とのかかわりについて、
 相模河村一族の菩提寺般若院が、もとは真言密教寺院であって、
 わが家につたわる冑佛はその密教の仏、
 大日如来であったと前章にしるした。

 また相模河村城の一帯は修験道のさかんな地域であった。

 まさに今回多くの冑佛が発見された盛岡周辺は、
 早池峰山(はやちねさん)を中心とする修験道と密教の聖地だった。

 ようやく私の眼にも、
 密教と冑佛と河村氏をつなぐほそい糸が、
 うっすらとみえはじめた。
 
 十月三十一日、梅原氏との電話のあと、
 すぐに盛岡市正覚寺に連絡をとった。

「大迫観音は、三十三観音の十八番目で、
 無生観音ともよばれています。
 像高三センチほどの小像で、
 大迫城主大迫右近が出陣のとき
 兜の八幡座におさめたとつたえられる金銅製の観音立像です。
 左手に未敷蓮華をもち、
 右手の方は片手合掌印となっています」

 とのお話だった。

 数年後、家族と冑佛めぐりの旅をしたとき、
 大迫右近の菩提寺である大迫町の桂林寺をたずねたあと、
 盛岡市の正覚寺にも立ちよってこの尊像を拝見させていただいた。

 三糎(センチ)ほどのほんのちいさな金属製の仏像で、
 背中に「無生」の銘がきざまれている。

 つぎに大迫町教委に連絡をとると、文化財係の中村氏が出られた。

「外泊城主大迫右近の兜神が盛岡市の正覚寺にある理由は分かりません。
 中興寺に伝わる亀ヶ森城主亀ヶ森玄蓄の兜神は、一寸八分で、
 厨子に入っています。
 また、この兜神は身代わり観音と呼ばれて伝説にもなっています」

 早速送ってくださった資料「おおはさまの伝説」には、
 つぎのように書かれていた。

   亀林山中興寺には、代々亀ヶ森氏の守護神として、
   信仰の篤かった丈一寸八分(約五・四?)の
   閻浮陀金(えんぶだごん)(純金)の十一面観音が伝わっている。

   これには次のような言い伝えがある。

   亀ヶ森図書の子である玄蓄も仏教を信奉し、
   父の護身仏であった観音様を引きつぎ、
   守り本尊として兜の中に納め、肌身離さず奉持していた。
   主家稗貫(ひえぬき)大和守に反乱し、
   稗貫の家臣である
   槻木下守光治と矢沢左近春眞(次直)に攻められた時も、
   この兜を身につけて戦い出て、
   士卒を励まして戦った。
   その時、一時は危なくなったのであるが、
   やがて勢いを盛り返して、
   ついに敵将の槻木下野守を討ち取ったため、
   敵は列をみだして逃げ去った。
   この戦いの後に、玄蓄が兜の観音さまを拝み見ると、
   光背の一方が欠けていた。
   これは玄蓄が危ういときに身代わりとなったものであった。
   その後も難を逃れることができたのは、
   一度や二度ではなかったため、
   村人達は「身代わり観音」と呼んで、
   その霊験あらたかなることを称えた。

=====================

(これで「河村祭」シリーズを終了いたします。
 あすは、愛にゃん2!)


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