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2005年11月24日(木曜日)

文化財(3)

カテゴリー: - kawamura @ 07時53分20秒

文化財建造物は、現在という静止した空間の中に建っているのではありません。
それは、その建物に住むひとびとの歴史や、それをとりまく地域に住むひとびとの歴史的な時間のうえに存在しているのです。

たとえば「御林守河村家住宅」は、寛政五年(1793)に建てられ、江戸期は御林守として苗字帯刀の身分で暮らしていましたので、住宅も役所としての機能をはたしていました。
幕府炭会所の役人が、江戸新橋からしばしばやってきたときの記録も残されています。

しかし明治維新とともに御林守の役職と刀とを剥奪されましたので、その時点で、住宅のもつ役所としての機能は終わりました。
明治期から昭和二十年の終戦までの河村家は、山林と、金谷河原の農地と、大代の本宅をとりまく農地とを所有していましたから、そこからあがってくる年貢米を米倉に蓄えるなどして、曾祖父も祖父も不在地主ではありましたが、「御林守河村家住宅」を維持管理する原資は充分にみたされていました。

昭和二十年代の農地解放では、金谷河原の農地のすべてと、大代の本宅周辺農地のほとんどを失いました。
上海の十三軍司令部から復員した父は、農地改革のもとで、旧地主階級にかぎって自作しない田畑を没収されましたので、残されたわずかな田畑を自作農として耕作しました。
このころには、米倉はその機能を失っていたはずです。
そのかわりに、荒茶を製造するための茶工場がはたらきはじめました。
曾祖父の建てた蔵も、その一部を茶工場として使うことになりました。
しかし私の幼少期にも、子どもたちは奥座敷や床の間には入れないというような、役所として使われていた当時のなごりをかすかにとどめていました。

つづきはまた明日。


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