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2005年11月28日(月曜日)

文化財(5)

カテゴリー: - kawamura @ 02時28分07秒

前回までは文化財「御林守河村家住宅」を、所有者である私の視点からながめてみました。
これからしばらくは、それをとりまく人びとから見た河村家の姿を想像してみましょう。

河村家は、大寶神社についてお話ししたときのように、大代村の成り立ちの最初からかかわってまいりました。
『安養寺過去帳』や位牌の裏に書かれ、またその墓石がふたつ残されている御先祖様、
忠学宗心居士と自雲妙性大姉は、永正二年(1505)に亡くなっています。
当時の大代村に住むひとびとから見た河村家は、一種の支配者的な色彩の濃い家であったと思われます。
詳細は大寶神社シリーズをごらん下さい。

江戸期には、金谷町史資料編二に付図として「大代山論裁許絵図 延宝六年(1678)」が添付されていますが、
その図面に「大代村庄屋市平」と書かれ、またその他の多くの文書からあきらかなように、
後に御林守を拝命する河村家は、江戸初期には庄屋あるいは名主として大代村の村役人を務めていました。

その当時の河村家を、大代村のひとびとがどのようにとらえていたかを物語る古文書がのこされています。
一度ご紹介したものですが、その概訳を再掲します。

「寛保二年(1742年)十月、大代村の名主(河村)市平が病死しました。
長男八十吉(やそきち)はいまだおさなく、ひとりでは名主のお役はつとめられないでしょうけれども、
後見人をたてますので、八十吉に名主の役を仰せつけられますよう、
お代官大草太郎左衛門さまにお願い申し上げます。
大代村は河村市平と杉山平馬の両人で名主役をつとめてまいりましたので、
古来の通り、ふたりの名主を立ててくださいますようお願いいたします。
河村家は草切り以来の名主ですから、十六才までは村中で応援し、後見いたします。
そうすれば、八十吉も名主役もつとめられるようになるでしょう。

市平の弟孫太夫(まごだゆう)は、二十年以上まえに掛川の宮脇村へ養子にいきました。
孫太夫は大代地内に分地も所有していますし、そのうえ当村生まれのものですから、
気だてもよく承知しております。
その孫太夫を後見人といたしますので、八十吉に名主役を仰せつけられますよう、
大代村の総百姓そろってお願い申し上げます。

このことを、もうひとりの名主、平馬に申しましたが、何度お願いしても印を押しません。
ですから、私たち総百姓にて印を押し、お願い申し上げますので、
お慈悲をもってこの願いをお聞き届けられ、八十吉に名主役仰せつけてくだされば、
私たち百姓は、いつまでも感謝申し上げます。
        寛保三年(1743年)三月r
                      以下総百姓 百六名之印r
大草太郎左衛門様 御役所」

この文書をみれば、当時の河村家が、大代村のひとびとから慕われていた名主のように見うけられます。
すくなくともTVに出てくるような悪代官と結託した名主ではなかったようです。
江戸前期の名主河村家を見るひとびとの眼は、善意にみちていたように思えます。

つづきはまた明日。


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