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2005年12月2日(金曜日)

文化財(9)

カテゴリー: - kawamura @ 06時59分41秒

明治維新のときに採用された皇国史観にすこし無理があったのは、欧米列強と伍するために、強力な国家体制の確立をいそいだところにあるのでしょう。
先日お話ししたように、明治維新は、それまでの日本歴史から自然に生みだされたとはいえない天皇制国家というあたらしいドグマの創造によって、なし遂げられたのだろうと思います。

それでは、ひとびとから見た河村家の地位が比較的安定していた江戸時代から、明治期へ移行する過程で、河村家がどのようであったのかを考察してみましょう。

曾祖父河村宗平は江戸末期に生まれ、ちょうど維新の激動期に少年時代をおくったことになりますから、宗平の父であり最後の御林守河村市平と河村宗平との経歴を概観することで、江戸から明治への移行期における河村家の姿がみえてくると思います。

江戸後期の河村家は、名主から離れて幕府に任命された御林守の役職についていましたから、明治初年に御林守を返上すると同時に公的地位を失いました。
大代村のあらたな行政区画が浜松県第三大区となって、各村々の戸長は江戸期最後の名主がそのままそれを継承しましたから、短期間ではありますが、明治初年の河村家は大代村の副戸長をつとめていた時期があります。

明治九年には、河村市平は、二十四・二十五小区連合民会議員となっています。
ちなみに二十四区の議長は、最後の本陣柏屋河村家の河村八郎次がつとめています。
河村八郎次は初代榛原郡長になるひとで、江戸時代の本陣柏屋河村家は、金谷宿と近隣十数か村とをたばねる大庄屋でした。

またおなじ明治九年の請願書では、河村市平が大代村の代表をつとめています。
明治十二年になると、各村の戸長選挙がおこなわれ、河村宗平が大代村での最高点を得て戸長に当選しています。
戸長とは、村長とおなじです。
やがて大代村が、志戸呂村や横岡村と合併してあらたに五和村となると、河村宗平はその最初から村会議員をつとめました。
河村宗平が、やがて茶業において、榛原郡のみならず愛媛県や宇治茶の製茶研究所に教師として招聘されるなどの茶業指導ののちに、静岡県製茶監督員として長期にわたって活躍したことは、すでにブログに書いたところです。

以上、明治期における河村家当主の役職を概観したわけですが、この姿がまわりのひとびとの眼にどのように映ったのかは、あさってのブログに書くことにしましょう。

明日は、朝五時に起きて、愛知学院大学での授業をしてきます。
ブログは帰宅後になりそうです。


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