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2005年12月9日(金曜日)

文化財(14)

カテゴリー: - kawamura @ 11時52分57秒

明治初年から昭和二十年までのあいだのほとんどの期間、河村家は不在地主でした。
曾祖父河村宗平は茶業指導のため、祖父小次郎は教育のため、また父勝弘は上海の十三軍司令部参謀部におりましたので、大代の本宅は、最後の御林守河村市平の妻、こと、宗平の妻、ちせ、のふたりが長年守っておりました。
宗平の長女千年世(ちとせ)の婿養子にむかえた小次郎と、私の父勝弘は、昭和二十年までほとんど大代の地をふむことはありませんでしたから、その間の河村家の戸主は典型的な不在地主であったといってもよかろうと思います。

しかしながら、河村市平は二十四区連合民会議員、曾祖父宗平は大代村戸長、五和村村会議員、静岡県製茶監督員をはじめとするさまざまな茶業指導の職につき、菩提寺法昌院の晋山式を親元としてとりおこなってもおります。
明治四十三年に村社大寶神社が大代神社と改称して現在のちにうつるときも、神社の総代のひとりとして戸籍謄本にその名前を確認できますし、地域の宗教行事や山論のときなどには、その代表として活躍した多くの記録がのこっています。

それらはほとんど無報酬で、旦那衆とよばれた彼らは、地域のために無償で奉仕することがおもな仕事でした。
現在のように議員になると利権を誘導して立派な家が建つというような時代ではなく、ノーブレス・オブリージュという精神がまだ生きていた時代でしたから、議員に精励するとその家はなにもかも失って、やがて井戸と塀だけが残る、と言われるほどでした。
「井戸塀政治家」は、地主としての安定収入があった彼らなればこその理想であったのかもしれません。

つづきはまた明日。


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