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2005年7月27日(水曜日)

「倹約取究」(1819年)

カテゴリー: - kawamura @ 00時04分57秒

「金谷町史」通史編本編第3編第4章第1節組合村々の様相 より抜粋

[郡中議定]
文政二年(1819)十月、天竜川から大井川まで現在のいわゆる中東部遠州地域七郡八九五か村の者たちの惣代が参会し、「倹約取究」なる郡中議定をまとめ上げた。
この議定領域は図3−7に示した通りであり、域内の国訴の議定領域にも匹敵するような広域的なものであった。

惣代は六五か村から七四名出ており、町域からは大代村の河村市平と牛尾村の鈴木彦右衛門が出席している。ちなみに、この議定資料はこの河村家に残されたものである。

この議定領域は、後の明治維新直後、明治五年(1872)六月に設定された大区小区制の枠組と直接的な連関を有している。
すなわち、この領域は浜松県第二大区および第三大区の合同領域とほぼ符合し、逆に遠州からこの領域を除いた地域は浜松県第一大区とほぼ合致するのである。
明治四年十一月に開始された区制とその後に展開した大区小区制の枠組は、戸籍編成上の必要から近世期に展開した行政的枠組みを無視してかなり機械的かつ強引に作られたように理解されてきたが、むしろこうした郡中議定などの枠組みに規定されて存在したのである。

惣代の者たちは、先の河村家や鈴木家のように一村の村役人というだけでなく、地域における用水組合や行政的な管理の面で極めて横断的な活動を展開し、小地域の顔となるような存在であった。
彼らは経済的な土台もしっかりしていたが、そうした者たちが七郡八九五か村の代表として参会し、より大きな地域の利害をめぐって協議したのである。

この議定は文政二年七月に公儀から物価抑制の触れが出され、それに呼応する形で同年九月に一部もしくは半部単位での小規模な枠組で郡中議定がなされた(城東郡のうち四一か村が集結して議定が行われ、二二項目にわたる物価下直への対応策が申し合わされた)後、そうした経験の積み上げと総括のなかで、翌十月に締結されたものである。

議定最後の締約文言には、「今度天竜川より大井川境までの者が集まって相談し決定した以上は、違約のないようにしなければならない。
何か問題が起きたときには、惣代の者たちに回状を送り早速参会する」と記されている。つまり、違約出来の状況に対して迅速な対応が準備されており、こうした郡中議定が臨時的なものではなく、一定のつながりの上に恒常的に組織されていたものであることが理解される。
近世後期には、遠州の東部・中部は既に社会的・経済的かつ「行政」的に一つの地域として認識されており、それを運営する地域の「代表」として郡中惣代らが結集し、地域の方針を立てていたのである。


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